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	<title><![CDATA[ 2025年10月25日の投稿［1件］ - 山麓王国  ]]></title>
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	<title><![CDATA[ 今回は牛頭天王についてのアラカルトというか、いろんな話をさせ… ]]></title>
	<description><![CDATA[ 今回は牛頭天王についてのアラカルトというか、いろんな話をさせていただこうとおもいます。<br /><br />わたしもいろいろ調べていくうちに、これまで理解しきれていなかったところの解像度があがって、よい勉強になりました。<br /><br />しかし今回はかなり厄介な話で、わかりやすく伝えられるかどうか自信がありません。<br /><br />話が多岐にわたるため、話が行ったり来たりします。<br /><br />どうか、じっくりと読んでみてください。<br /><br /><br /><br />ギズモさんは菅原道真など怨霊になった人間を、荒ぶる神としてたてまつる不思議についておっしゃっていましたが、あれは人間のサガなのかもしれませんね。<br /><br />いまは社会のありようが変わりましたが、むかしはチカラの強い人間が「偉かった」。<br /><br />いわゆるジャイアンみたいなタイプが、大将になるし、出世しました。<br /><br />この場合、ジャイアンは荒神で、ジャイアンよりチカラの弱い者は、この荒神をたてまつって、機嫌をとらねばならないわけです。<br /><br />生きてる人間ですらこうですから、強い恨みを残して死に、偶然そのときに社会に騒乱があれば、この荒ぶる御霊をしずめなければ気が済まない、とむかしの人々は考えました。<br /><br />荒ぶる神がたてまつってくれと頼んだわけではなくて、むしろ下々の者の気が済まないから、たてまつっているという感じでしょうか（笑）<br /><br /><br /><br />京の都で疫病が流行ったとき、疫神として祇園社に登場した牛頭天王も、その荒ぶる魂を鎮めるために盛大にまつられました。<br /><br />しかしこれは仏教における牛頭天王です。<br /><br />道教においては、牛頭天王は冥界のいち獄卒にすぎませんでした。<br /><br />今回、牛頭天王を語るにあたってのキーワードは、「密教と道教」です。<br /><br /><br /><br />奈良国立博物館には、辟邪絵（へきじゃえ）とよばれる、鬼を懲らしめる神を描いた絵が残されています。<br /><br />この中には天刑星という、その名の通り天の刑罰を与える鬼神が、牛頭天王をはじめとする疫鬼をとらえて食べるという絵があります。<br /><br />天刑星とは聞きなれない神ですが、道教に由来する神です。<br /><br /><a class="url" href="https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=100247&amp;content_part_id=001" target="_blank" title="https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=100247&amp;content_part_id=001">https://emuseum.nich.go.jp/detail?conten...</a><br /><br />ギズモさんは牛頭天王を「魔」とおっしゃいましたが、すくなくとも日本の道教における牛頭天王は魔の存在でした。<br /><br /><br /><br />ところで、牛頭天王は祇園精舎の守り神ということですから、インドや中国で崇敬されていた神だったのかというと、じつは日本で創作された神です。<br /><br />順序だてて説明しますと、牛頭天王はこのようなかたちで成立しました。<br /><br /><br /><br />（祇園社での変化）<br />五道神　→　五頭天王　→　牛頭天王<br /><br />（蘇民将来の伝説）<br />武塔神（五道神）　＝　速須佐雄能神　→　牛頭天王<br /><br /><br /><br />あえて祇園社と蘇民将来伝説をわけたんですが、起源になるのは五道神という、現代ではほとんど名の知られていない神です。<br /><br />五道神は、700年ごろに中国に密教が伝来したときに、仏教の五道（天道･人道･餓鬼道･畜生道･地獄道）を守護する神として崇敬されていた神でした。<br /><br />ところが五道神が道教の中に組み込まれると、冥界（地獄）の役人（大臣）という立場に変化した、という経緯をもちます。<br /><br /><br /><br />道教というのは不思議な宗教で、仏教とも密接に結びついています。<br /><br />日本にくると、陰陽道を通じて神道ともつながりました。<br /><br />極端な言い方かもしれませんが、「ほかの宗教に遠慮なく寄生する民間信仰」といっていいくらいです。<br /><br />仙人になるだとか、妙な儀式（道術）を好んだりだとか、地獄思想が発達したりだとか、なにかと妙なことばかりしているのです。<br /><br />以前にお話しした庚申信仰もそうですね。<br /><br />庚申（かのえさる）の夜に人が眠ると、体内から三尸（さんし）の虫が出てきて、天帝にその人の罪を告げる。<br /><br />そのため、人々は庚申の日には虫が出てこないように徹夜しなければならないというのです。<br /><br />荒唐無稽なんですが、これが平安時代あたりから明治大正あたりまではわりと広く信じられていました。<br /><br /><br /><br />いま出てきた天帝は、道教における最高神で、玉皇大帝といいます。<br /><br />玉帝と略されたりもします。<br /><br />あらゆる存在より上位に存在する神、という立場です。<br /><br />これがじつにふざけた話で、ほかの宗教に遠慮なく寄生しながら、道教自体は最高神を用意して一神教を気取り、天帝には仏も神も皇帝もかなわないというのです（笑）<br /><br /><br /><br />たとえば西遊記も道教の影響が強く、やはり天帝が登場します。<br /><br />孫悟空が天界であばれまわり、天帝に向かってその座を譲れと言ったことで、天帝が釈迦如来に孫悟空の退治を依頼する。<br /><br />それで釈迦如来が孫悟空を五行山に閉じ込めてしまう。<br /><br />明確に天帝の立場が上とはいわないんですが、それとなく仏教の開祖である釈迦よりも権威的に描かれています。<br /><br /><br /><br />ようするに道教という民間信仰にかかると、仏教だろうと時の権力者であろうと、ぜんぶ道教色に染められてしまうようなところがあります。<br /><br />日本では最初から、密教が道教とないまぜになった状態で輸入されました。<br /><br />そしてそれまで日本にあった仏教も神道も影響を受けてしまうわけです。<br /><br />しかしこれは余談ですが、多神教の日本では天帝という一神教の設定だけはなかったもののように無視されてしまい、これといって崇められることもありませんでした（笑）<br /><br /><br /><br />先日、奈良の朝廷が南都六宗から逃げるように、平安京に都を移した、という話をしました。<br /><br />このとき朝廷が南都六宗のかわりに厚遇したのが、最澄と空海です。<br /><br />かれらは中国にわたって、当時最先端の仏教宗派だった密教を学びましたが、密教の中で、五道神は秘匿性の高い神という位置づけでした。<br /><br />つまり、修行者によってのみ信仰されるべき、門外不出の存在だったらしいのです。<br /><br />民衆に積極的に仏教を教えない時代でもありました。<br /><br /><br /><br />平安時代には、京都市内で疫病が毎年のように流行します。<br /><br />863年には「御霊会（ごりょうえ）」が執り行われ、これが祇園祭のきっかけとなりました。<br /><br />祇園祭で大衆にまつられるにあたって、五道神という名は姿を消し、疫神としての牛頭天王（スサノオ）があらわれます。<br /><br />つまり祇園祭を開くにあたって、秘匿性の高い五道神を前に出すわけにいかず、べつの神ということにしなければならなかった。<br /><br /><br /><br />ところで、蘇民将来の伝説ではすでに、五道神こと武塔神が、スサノオと同一だというわけですから、神仏が習合していることがわかります。<br /><br />しかし、これが調べていくと、非常にややこしい問題でした。<br /><br />というのも、蘇民将来の伝説が出てくる備後国風土記逸文は、鎌倉時代末期に書かれた『釈日本紀』に出てくるものです。<br /><br />作者もはっきりしており、卜部兼方（うらべのかねかた）です。<br /><br />1200年代後半に書かれたものだといいます。<br /><br />『釈日本紀』の内容の多くは、当時すでに散逸している書物について書かれたものでした。<br /><br />備後国風土記はもともと奈良時代に存在していたが、失われてしまったといいます。<br /><br /><br /><br />しかし、果たして蘇民将来の話は、ほんとうに備後国風土記に描かれていたのでしょうか。<br /><br />不遜ながら、わたしは蘇民将来の伝説は、卜部兼方による創作ではないかとおもっています。<br /><br /><br /><br />つまり、疫病によって祇園祭を開こうということになり、秘匿されていた五道神が紆余曲折を経て牛頭天王になる。<br /><br />この経緯を卜部兼方は知っています。<br /><br />そしてこの出来事と日本書紀の記録などの整合性を持たせて、備後国風土記逸文として創作した。<br /><br /><br /><br />なぜそう考えるのか、理由があります。<br /><br />密教は6世紀（500年代）のインドで、ヒンドゥー教と仏教がまじりあうような形でおこりました。<br /><br />密教が中国に伝わったのは、700年ごろでした。<br /><br />最澄や空海は、この伝わったばかりの最先端の仏教宗派を学んで、持ち帰ったのです。<br /><br />そうすると、備後国風土記が書かれたという6世紀に、すでに密教由来の神（武塔神）がいたというのでは、つじつまが合いません。<br /><br /><br /><br />また祇園社の創建年にはふたつの説があるのですが、そのひとつは656年（斉明天皇2年）とされています。<br /><br />高麗からの渡来人である伊利之が、新羅の牛頭山から牛頭天王（素戔嗚尊）を勧請したのが始まりだというものです。<br /><br />これは日本書紀のスサノオの伝説にのっとったものでしょう。<br /><br /><br /><br />社伝がそうなんだから否定するわけにはいかないのですが、これもやはりおかしい。<br /><br />なぜかというと、新羅（韓国）には牛頭天王信仰があった形跡がないのです。<br /><br />それどころか、中国にもインドにも、牛頭天王なんて神はいません。<br /><br />もし勧請するにしても、それなりに名のある仏教由来の神でなければならないはずで、奈良時代に、突然降ってわいたように牛頭天王という神があらわれるのは、さすがに無理があります。<br /><br /><br /><br />ここまで読んでいただくと、おわかりかとおもうのですが、牛頭天王の成り立ちは、信憑性の濃いルートを選んで解釈していくうちに、ややこしい問題が立ちはだかってきます。<br /><br />どうも、正式な由緒にもところどころに嘘があって、この嘘を隠すために、さらに巧妙な嘘の伝説が上塗りされているようなのです（笑）<br /><br />しかもその嘘を、おそらく嘘と知りながらも、当の八坂神社が追認してしまっている。<br /><br />もちろん最初に五道神を秘匿してしまった、という以上、憶測で考えるしかない点もあります。<br /><br />そのあたり、もはやわからないですませたくなるところなのですが、いち私人であるわたしが子供のような無邪気さで、突っ込んではいけないところを気にせずに話した与太話、とおもっていただければとおもいます。<br /><br /><br /><br />ところで祇園社には「五頭天王」という記述が残っているようです。<br /><br />この「五頭天王」は、五道神から牛頭天王に変化するつなぎのような存在ですね。<br /><br />五道神をどう秘匿するか、当時の関係者は相当頭を悩ませたのではないでしょうか（笑）<br /><br /><br /><br />では、なぜ五頭天王が牛頭天王という名前になったのかというと、ここにもふたつの説があります。<br /><br />ひとつは日本書紀の、スサノオの伝説によるものです。<br /><br /><br /><br />日本書紀でスサノオは、乱暴狼藉の果てにアマテラスを隠れさせ、世を乱したことにより高天原を追放されました。<br /><br />その際にスサノオは息子の五十猛神を連れて、新羅（朝鮮半島南東部）のソシモリに降り立ったとあります。<br /><br />「素戔鳴尊、帥其子五十猛神、降到於新羅国、居曾尸茂梨之處。乃興言曰「此地、吾不欲居。」」<br />（スサノオは子のイソタケルと新羅国曾尸茂梨に降り立った。しかしスサノオは「この地には居たくない」と言った。）<br /><br />ソシモリは「曾尸茂梨」や「蘇志摩利」というのですが、朝鮮の言葉では「牛の頭」を意味します。<br /><br />いまでも韓国で「ソモリクッパ」というと、牛の頭を出汁にした雑炊のことをいうのだそうです。<br /><br /><br /><br />しかしソシモリに着いたスサノオは「この場所にはいたくない」といいました。<br /><br />そして出雲の簸の川（ひのかわ）に向かいます。<br /><br />これはいまの島根県の斐伊川ですね。<br /><br />なぜスサノオはソシモリを嫌がったのか、いろいろと物語的な類推ができそうですが、日本書紀には理由が書かれていません。<br /><br />いずれにせよ出雲に帰ってきたスサノオは、その地にヤマタノオロチがいたので退治して、草薙の剣を手に入れました。<br /><br />ここまでが、日本書紀のひとつのセンテンスになっています。<br /><br /><a class="url" href="https://nihonsinwa.com/page/732.html" target="_blank" title="https://nihonsinwa.com/page/732.html">https://nihonsinwa.com/page/732.html</a><br /><br />スサノオが新羅の牛頭という土地へ行って、さらに出雲へ帰ってくるというエピソードが、さまざまに肉付けされて、牛頭天王の由来になり、蘇民将来の伝説につながりました。<br /><br /><br /><br />もうひとつの説が、牛頭というのは、道教における地獄の獄卒です。<br /><br />この牛頭が、おなじく道教で地獄の役人であった五道神と結びついたのは、それほど不自然なことではありません。<br /><br />そして祇園社の祭神となった牛頭天王は、仏教の五道（天道･人道･餓鬼道･畜生道･地獄道）を守護する密教の五道神に近い形で、仏教における修行の場である祇園精舎の守り神ということになったのも、自然です。<br /><br />こちらは信憑線としては薄い説でしたが、道教が五道神、五頭天王、牛頭天王というような突拍子もない祭神を生む原動力だったのは間違いないでしょう。<br /><br />このような神は、奈良時代以前の仏教や神道では、考えつくとっかかりがないのです。<br /><br /><br /><br />すこし話が変わるのですが、道教には地獄思想がありました。<br /><br />冥界には牛頭と馬頭という二体の獄卒がいます。<br /><br />そして不思議なことに、日本には仏教でも牛頭天王だけでなく、馬頭観音がいるのです。<br /><br />道教では地獄の獄卒である牛頭と馬頭が、仏教では牛頭も馬頭も神格を備えた仏として扱われていました。<br /><br /><br /><br />牛頭天王と馬頭観音の仏像の造形は、おどろくほどよく似ています。<br /><br />わたしたちは牛頭天王というと、ギリシャ神話のミノタウロスのような姿を想像するのではないでしょうか。<br /><br />実際、道教における冥界の牛頭馬頭は、ミノタウロスのような半人半獣の姿で描かれています。<br /><br /><a class="url" href="https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/67/Horse-Face_of_the_Underworld.jpg" target="_blank" title="https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/67/Horse-Face_of_the_Underworld.jpg">https://upload.wikimedia.org/wikipedia/c...</a><br /><br /><br /><br />しかし、仏教の牛頭天王や馬頭観音は、憤怒の相をした仏の頭部に、牛、あるいは馬の飾りがなされているのです。<br /><br /><a class="url" href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%AC%E9%A0%AD%E8%A6%B3%E9%9F%B3#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Bato_Kannon_painting.jpg" target="_blank" title="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%AC%E9%A0%AD%E8%A6%B3%E9%9F%B3#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Bato_Kannon_painting.jpg">https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%AC%...</a><br /><br />上のリンクの画像は馬頭観音のものですが、牛頭天王もたいていはほとんどおなじような造形です。<br /><br />中には三面のうちのひとつが牛になっている牛頭天王像もあるのですが、ほとんどが憤怒の人面で、頭部に牛や馬があるものです。<br /><br /><a class="url" href="https://tsushima-bunka.jp/map/uploadfiles/bu_shi_0029.jpg" target="_blank" title="https://tsushima-bunka.jp/map/uploadfiles/bu_shi_0029.jpg">https://tsushima-bunka.jp/map/uploadfile...</a><br /><br />数ある蘇民将来の伝説の中には、牛の頭をした牛頭天王をおそれて宿を貸さなかった、というような物語もあります。<br /><br />このあたり、当時の日本では、道教における獄卒の牛頭と、仏教における牛頭天王の造形のちがいが、明確に区別されていなかったのかもしれません。<br /><br /><br /><br />さて、最後に、祇園社とはなんなのか、ということを考えてみましょう。<br /><br />まずインドの祇園精舎の伝説ですが、スダッタという長者（須達長者）がシッダルタ（仏陀）に帰依します。<br /><br />かれは私財をなげうって、その国の王子（祇陀太子）が所有する樹林を買いとり、シッダルタに寄進しました。<br /><br />祇園精舎は「祇樹給孤独園精舎」の略で、祇陀太子の樹園（祇樹）を須達長者（給孤独）<del class="decorationD">を</del>が買い取って、修行の場（精舎）にした、という意味をもちます。<br /><br />これが仏教のひとつの伝説になってるんですね。<br /><br /><br /><br />日本では、当時の有力貴族だった藤原基経（836 - 891）が、じぶんの邸宅を移す際に、旧宅を観慶寺に寄進しました。<br /><br />貞観年間（859-877）のことだったといわれています。<br /><br />観慶寺は藤原基経の邸宅、つまりいまの八坂神社の隣にあったお寺です。<br /><br />この寄進を祇園精舎の伝説になぞらえて、最初は祇園寺、その後祇園社、祇園感神院などと称しました。<br /><br />そしてここで祇園御霊会が行われ、祇園祭につながっていきます。<br /><br />なぜ京都の祇園とインドの祇園精舎がつながるのか、という話をたどると、藤原基経に行き着くようです。<br /><br /><br /><br />以上、長くなりましたが牛頭天王についていろいろとお話ししました。<br /><br />雑多な内容ですので、読みづらい点についてはどうかご容赦ください。<br /><br />またわたしの説明・解釈にも間違いがあるかもしれません。<br /><br />もし疑問点などがありましたらお気軽にご質問ください。 -- Posted by 農園主 〔6614文字〕 No.1668 ]]></description>
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	<pubDate>Sat, 25 Oct 2025 16:45:48 +0900</pubDate>
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