全年4月22日の投稿[1件]
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ギズモさんも服薬をやめると速やかに回復されたとおっしゃっていたので、薬剤惹起性うつ病と聞いてからを知ってからも、あくまで一過性のうつ症状だろうとおもっていたのですが、モノによっては自殺企図を及ぼすような強い作用のものもあるようですね。
気分の落ち込みは生活上の原因があると考えるのがふつうですから、今後ぼくも服薬とうつとの関係にはちょっと気を付けなければならないとおもいました。
以前話したかもしれませんが、抗生物質については、ぼくも一度ひどい蕁麻疹が出て、気道がふさがっていくような感覚があってあわてて病院に駆け込んだことがあります。
幸い病院内のベッドでしばらくじっとしているうちに軽快していきましたが、じんましんのかゆみよりも、喉がふさがって呼吸がしづらくなってくるおそろしさがなかなかのものでした。
いろいろ話が重なるのですが、ぼくは腹膜の後ろ側が炎症を起こして膿がたまる、後腹膜膿瘍という病気を患って、大腸を1/3切除しています。
大腸のポリープが破れて、その破れた位置が前だったら腹膜炎だったのですが、後ろ側だったので、後腹膜の膿瘍ということになりました。
最終的には入院中にひどい熱が出て、抗生物質でも下がらなくなったため、緊急手術となり、目が覚めたらおなかが20㎝ほど切られていました。
このとき腸を切ったのがいまだに後を引いて、よく腹痛を起こしますし、腸炎になって長引くこともよくあります。
その都度抗生物質を飲んでいましたが、それが祟ったんですね。
なので、抗生物質がギズモさんに悪影響を及ぼしたという話は、身をもって理解できます。
戦後、まだ出回ったばかりのペニシリンは、じゅうぶんな作用を期待するには山ほど注射を打たねばならず、副作用でひどい目にあったといいます。
いまでは抗生物質というと耐性菌が社会問題になるくらいで、あまり危険な薬というイメージがありませんが、実際にはやっぱり体内の菌をムリヤリ殺してしまうのだから、反作用も強いのは当然ですね。
そういえば手塚治虫の『火の鳥』のヤマト編は、舞台がだいたい日本の卑弥呼の時代なんですが、ある医師が、ある女性の感染症(破傷風)を助けるんです。
このとき、女性にどんぶりに山盛りのアオカビを飲ませるんですね。
これはアオカビに含まれる抗生物質の作用を期待したものなんですが、どんぶり一杯分も飲むとなると、どう考えてもアオカビに含まれる毒の作用のほうが強そうです(笑)
娘さん、腹膜炎を薬で散らすことができたんですね。
なかなか油断できない状態だとはおもいますが、、カラダを切らずにすむのならそれがいちばんだとおもいます。
ギズモさんの心労も相当なものだとおもいますが、ご無理のありませんように。
快癒をお祈りいたします。
ギズモさんのお話をうかがって、やっぱり、精神的な緊張は血圧を相当上げるのだとおもいました。
あるいは「精神の緊張」によって「肉体の血圧」が上がることで、さらに精神の緊張が高まっていくという、緊張のスパイラルを生んでいるようにもおもえます。
この緊張のスパイラルを緩和するのに深呼吸がひと役かっていると考えると、やっぱり背筋を伸ばしてゆっくりと呼吸するのは大事ですね。
脂質制限はいまのところ続けています。
けっこう体重が減っているので、いい減量食でもあるとおもいます。
鶏むね肉が大活躍で、皮を取り除いて、あらかじめ切れ目だけ入れておいてアイラップに入れてくくって冷凍。
必要な時にあらかじめ解凍して、アイラップごと熱湯に入れてサラダチキンにして食べています。
食事がワンパターンなのは仕方ないにしても、仕事柄、畑野菜の余り物を利用していると食費がかなり安く上がるので、ぼくは厳密なやり方を続けていくつもりです。
とはいえ、これまで以上にサプリメントにお金がかかるようになったので、結局は相殺されていますが(笑)
「誰かと暮らすこと自体、ストレスにつながる」というのは、とてもよくわかります。
ぼく自身が、ひとりで暮らしていてじつに気楽だからです。
他人の価値観に合わせながら生きていくのはほんとうにタイヘンで、ひとりでいれば個人ですが、ふたり以上になれば社会になります。
そこにあるそれぞれの個性や自我の自由は、社会を維持する目的のために抑圧されてしまいます。
旦那さんの病気の際に「自分の生活が犠牲になってしまう」と感じられたということですが、家庭という社会を維持するために、じぶんの本来の効率性・生産性を犠牲にしなければならないんですよね。
つくってもらった食事に対して「ありがとう」「おいしい」と言葉にするのも、家庭という社会を良好に維持するために必要なコスト……というとあまりにもドライな言い方かもしれませんが、そういったことは、ひとりで暮らしているぶんには必要がありません。
その点、ひとりは気楽です。
でも、ひとりで暮らしているからこそ強くおもうのですが、家庭はやはり必要なものだとおもいます。
なぜかというと、社会や公共というのものは、そもそもみんながなにかしらの犠牲やコストを払いながら維持しているもので、じぶんも社会の一員として常に犠牲とコストを払う必要があります。
この場合の犠牲とコストというのは、じぶんが生活をするために稼ぐ労働とはまた別の話なんです。
働いたら働いたぶん、決まったお金が入ってくる労働とは切り分けて考えなければいけません。
社会や公共に参加するというのは、言い換えれば、生活上の効率を犠牲にして、むしろ足を引っ張られるようなかたちで参加するということです。
たとえば町内会や自治会で活動するようなことも社会参加ですが、家庭をもって家族と助け合いながら生きていくということも社会を形成します。
そういった社会から逃れて、ただじぶんの利益活動、じぶんの自由だけに邁進できる個人という生き方は、じつはよほど事情がなければ許されていないんだ、ということをぼくは最近、身をもって痛感しています。
だって、いまぼくも子供がいませんが、少子化の世の中では今後、あらゆる公共サービスで人材が不足し、われわれの生活に欠かせないインフラですら、修繕が間に合わなくなってくるでしょう。
ぼくはことし自治会長をやっていますが、むかしはうちの自治会では、自治会長なんて20年に1回の仕事だったといわれていました。
それが、ぼくはどうも3年後にまた自治会長が回ってくるようです(笑)
こういったことはやはり、ぼくも含めて、ぼくたちの世代が社会や公共とかかわる面倒くささから逃げて、じぶん個人を優先して生きてきたからだろう、とおもわずにいられません。
ぼくに自治会長が回ってくるのは、ぼく自身が個人を生きてきたツケのようなものだ、という点で、「身をもって痛感している」というわけです。
そういうわけですから、ずいぶん大きな話になってしまったような気もするんですが、ギズモさんがじぶんの生産活動を犠牲にする苦痛を感じながらも、旦那さんの看病に努められたことは、じつはほんとうに大事なことなんだとおもいます。
とはいえ、もちろんそれは、ギズモさんが体調を崩されたときにも、旦那さんがおなじように看病に努める関係性でなければいけませんけどね(笑)
気分の落ち込みは生活上の原因があると考えるのがふつうですから、今後ぼくも服薬とうつとの関係にはちょっと気を付けなければならないとおもいました。
以前話したかもしれませんが、抗生物質については、ぼくも一度ひどい蕁麻疹が出て、気道がふさがっていくような感覚があってあわてて病院に駆け込んだことがあります。
幸い病院内のベッドでしばらくじっとしているうちに軽快していきましたが、じんましんのかゆみよりも、喉がふさがって呼吸がしづらくなってくるおそろしさがなかなかのものでした。
いろいろ話が重なるのですが、ぼくは腹膜の後ろ側が炎症を起こして膿がたまる、後腹膜膿瘍という病気を患って、大腸を1/3切除しています。
大腸のポリープが破れて、その破れた位置が前だったら腹膜炎だったのですが、後ろ側だったので、後腹膜の膿瘍ということになりました。
最終的には入院中にひどい熱が出て、抗生物質でも下がらなくなったため、緊急手術となり、目が覚めたらおなかが20㎝ほど切られていました。
このとき腸を切ったのがいまだに後を引いて、よく腹痛を起こしますし、腸炎になって長引くこともよくあります。
その都度抗生物質を飲んでいましたが、それが祟ったんですね。
なので、抗生物質がギズモさんに悪影響を及ぼしたという話は、身をもって理解できます。
戦後、まだ出回ったばかりのペニシリンは、じゅうぶんな作用を期待するには山ほど注射を打たねばならず、副作用でひどい目にあったといいます。
いまでは抗生物質というと耐性菌が社会問題になるくらいで、あまり危険な薬というイメージがありませんが、実際にはやっぱり体内の菌をムリヤリ殺してしまうのだから、反作用も強いのは当然ですね。
そういえば手塚治虫の『火の鳥』のヤマト編は、舞台がだいたい日本の卑弥呼の時代なんですが、ある医師が、ある女性の感染症(破傷風)を助けるんです。
このとき、女性にどんぶりに山盛りのアオカビを飲ませるんですね。
これはアオカビに含まれる抗生物質の作用を期待したものなんですが、どんぶり一杯分も飲むとなると、どう考えてもアオカビに含まれる毒の作用のほうが強そうです(笑)
娘さん、腹膜炎を薬で散らすことができたんですね。
なかなか油断できない状態だとはおもいますが、、カラダを切らずにすむのならそれがいちばんだとおもいます。
ギズモさんの心労も相当なものだとおもいますが、ご無理のありませんように。
快癒をお祈りいたします。
ギズモさんのお話をうかがって、やっぱり、精神的な緊張は血圧を相当上げるのだとおもいました。
あるいは「精神の緊張」によって「肉体の血圧」が上がることで、さらに精神の緊張が高まっていくという、緊張のスパイラルを生んでいるようにもおもえます。
この緊張のスパイラルを緩和するのに深呼吸がひと役かっていると考えると、やっぱり背筋を伸ばしてゆっくりと呼吸するのは大事ですね。
脂質制限はいまのところ続けています。
けっこう体重が減っているので、いい減量食でもあるとおもいます。
鶏むね肉が大活躍で、皮を取り除いて、あらかじめ切れ目だけ入れておいてアイラップに入れてくくって冷凍。
必要な時にあらかじめ解凍して、アイラップごと熱湯に入れてサラダチキンにして食べています。
食事がワンパターンなのは仕方ないにしても、仕事柄、畑野菜の余り物を利用していると食費がかなり安く上がるので、ぼくは厳密なやり方を続けていくつもりです。
とはいえ、これまで以上にサプリメントにお金がかかるようになったので、結局は相殺されていますが(笑)
「誰かと暮らすこと自体、ストレスにつながる」というのは、とてもよくわかります。
ぼく自身が、ひとりで暮らしていてじつに気楽だからです。
他人の価値観に合わせながら生きていくのはほんとうにタイヘンで、ひとりでいれば個人ですが、ふたり以上になれば社会になります。
そこにあるそれぞれの個性や自我の自由は、社会を維持する目的のために抑圧されてしまいます。
旦那さんの病気の際に「自分の生活が犠牲になってしまう」と感じられたということですが、家庭という社会を維持するために、じぶんの本来の効率性・生産性を犠牲にしなければならないんですよね。
つくってもらった食事に対して「ありがとう」「おいしい」と言葉にするのも、家庭という社会を良好に維持するために必要なコスト……というとあまりにもドライな言い方かもしれませんが、そういったことは、ひとりで暮らしているぶんには必要がありません。
その点、ひとりは気楽です。
でも、ひとりで暮らしているからこそ強くおもうのですが、家庭はやはり必要なものだとおもいます。
なぜかというと、社会や公共というのものは、そもそもみんながなにかしらの犠牲やコストを払いながら維持しているもので、じぶんも社会の一員として常に犠牲とコストを払う必要があります。
この場合の犠牲とコストというのは、じぶんが生活をするために稼ぐ労働とはまた別の話なんです。
働いたら働いたぶん、決まったお金が入ってくる労働とは切り分けて考えなければいけません。
社会や公共に参加するというのは、言い換えれば、生活上の効率を犠牲にして、むしろ足を引っ張られるようなかたちで参加するということです。
たとえば町内会や自治会で活動するようなことも社会参加ですが、家庭をもって家族と助け合いながら生きていくということも社会を形成します。
そういった社会から逃れて、ただじぶんの利益活動、じぶんの自由だけに邁進できる個人という生き方は、じつはよほど事情がなければ許されていないんだ、ということをぼくは最近、身をもって痛感しています。
だって、いまぼくも子供がいませんが、少子化の世の中では今後、あらゆる公共サービスで人材が不足し、われわれの生活に欠かせないインフラですら、修繕が間に合わなくなってくるでしょう。
ぼくはことし自治会長をやっていますが、むかしはうちの自治会では、自治会長なんて20年に1回の仕事だったといわれていました。
それが、ぼくはどうも3年後にまた自治会長が回ってくるようです(笑)
こういったことはやはり、ぼくも含めて、ぼくたちの世代が社会や公共とかかわる面倒くささから逃げて、じぶん個人を優先して生きてきたからだろう、とおもわずにいられません。
ぼくに自治会長が回ってくるのは、ぼく自身が個人を生きてきたツケのようなものだ、という点で、「身をもって痛感している」というわけです。
そういうわけですから、ずいぶん大きな話になってしまったような気もするんですが、ギズモさんがじぶんの生産活動を犠牲にする苦痛を感じながらも、旦那さんの看病に努められたことは、じつはほんとうに大事なことなんだとおもいます。
とはいえ、もちろんそれは、ギズモさんが体調を崩されたときにも、旦那さんがおなじように看病に努める関係性でなければいけませんけどね(笑)