全年9月25日の投稿[2件]
2023年 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する

こちら先日話したズッキーニの、茎の折れたもの。
あまりにもみずみずしく、順調すぎるくらい順調な生育だったんですが、きょう収穫してて、ようするに軟弱に育っていたということがわかりました。
ちょっと手で押すだけでぽきっと折れるくらい軟弱で、そりゃ強風が吹いたらイチコロだなあ、と(笑)

畑に残った小動物の足跡。
柿の木に登ったりして、ことしはほとんど実がなっていないのに、それにまで悪さをしています。

第三弾の葉物には、不織布をかけるのがなんだか怖くなって、このように小動物対策で二重にネットをかけました。
いいかげんなネットではあるんですが、オクラの食害の際にはこれで効果がありました。
どうも晴れ続きになりそうなので、草刈りをしたり、葉物の圃場に水やりなどをしていたら、ニンニクの植え付けはできませんでした。
あしたからがんばろうとおもいます。
#野菜
あれこれ気づいたことがあるのだけど、たいていは畑仕事をしているときにふわふわと気づいて、つかみどころのないままいつのまにか忘れてしまう。
ものごとは腑に落ちてはじめて得心に至るのだけど、そういうところまで至らないまま、それでもこれはとても大事な考え方だろうな、とおもっているうちに忘れてしまうわけです。
それで、きょうは収穫作業を終えてすぐ、そのあたりのまとまりのないことを、タラタラ書いてみようとおもいます。
どうして畑の野菜がうまくいかないことでこんなに苦しいのか、というと、ぼくの場合はたぶんお金にならないとか、そういうことは理由としては2番、あるいは3番なんですよ。
いちばんの理由は、言語化したくないことが増えてしまった、言い訳せねばならぬことが増えてしまった、ということだろうとおもいます。
プライドが傷つくのが、イヤなんでしょう。
べつに収入が減って茶漬けに梅干しの暮らしだって、ぼくとしては(それなりにイヤではあるけど)べつにかまいません。
そういうことじゃなくて、うまく野菜が作れなかったことを、じぶんに言い訳し、他人に言い訳し、結果が出なかったことをどうにか納得材料にしようともがく、そのありようが、ぼくはほんとうはイヤなのだろう、と。
しかし、よくよく考えればぼくは毎年野菜作りの中で、この手の言い訳を何度も繰り返していて、ことしはそれがたまたま多いわけです。
百姓仕事は、三歩進んで二歩下がるのが当たり前です。
一年単位でみて、三歩進んで一歩下がる程度ですめば喜んで、ある年に自然災害で畑が壊滅、三歩進んで三歩下がるような年になって、結局平均すれば、三歩進んで二歩下がっているといった具合。
そういえば、何年前だったか、こんなニュースをみました。
代々……といっても戦後の、それも高度経済成長期以降でしょうけど、大百姓としてがんばっていた北陸の農家が、ちょうどせがれに農業を託すというので、千万単位のお金を借り入れてハウスを10棟ほど建てた。
息子に豊かな暮らしをしてもらいたい、とおもったんでしょう。
ところがこのハウスが、翌年の大雪で半分以上ひしゃげてしまって、膨大な修理費用がかかることになりました。
で、それを苦にしたのか、ある日せがれが自殺してしまった。
百姓をやっている身として、この農家の悲しみやいかばかりか、とおもうと胸がつぶれそうになりますが、農業で家族を養う、儲けるというときには、すこし身の丈に合わない無理をしなければならないんですよね。
だから、ぼくのような独り身のオッサンは、そもそもじぶんひとりぶんの身の丈に合うくらいのことしかしていないので、ちょっと野菜がうまくいかなったくらいのことは、「まあまたイチからやり直しだ」と切り替えてしまえばよい。
その点非常に気楽な商売といえますが、家族が養えるかというと、ムリです。
いや、できないことはないのだけど、ぼくひとりではムリで、家族の助けが必要になります。
いまぼくがやってるのが、3坪でカウンターしかない居酒屋をひとりで切り盛りしてるとすれば、これを小ぢんまりした家族経営の町中華くらいまで広げる、くらいのイメージでしょうか。
そこを越えて大きな儲けを狙っていくとなると、ある種の野心と、大きく勝負をかけて大きくコケる可能性も覚悟しなきゃなりません。
相場取引の用語をつかうと、レバレッジがかかるわけで、ぼくが三歩進んで二歩下がるをやってるところを、三十歩進んで二十歩下がる、ということをするわけです。
そうすると、たまたま四十歩も下がるような大災害が起こったりすると、個人単位では取り戻せない破綻になってしまう。
で、ぼくもそれなりに畑をもっと効率的につかいたいとか、あしたはもっとよい状況にしたい、というおもいがあるので、それなりにがんばるんですが、やっぱり自然にはなかなか勝てないし、不測の事態はいつでも起こり得ます。
一進一退で、なかなかおもったようにはいかないんですが、じぶんの身の丈に合った暮らしを逸脱しないでいられるのだから、あきらめずにきょうも種をまき、あしたも種をまくのが正解なんです。
その瞬間、うまくいったとか、うまくいかなかったということに、一喜一憂せず、たんたんとやるべきことをやらないといけないよな、と。
とまあ、そんな殊勝なことを考えては、すぐに忘れてしまうわけです。
#野菜
ものごとは腑に落ちてはじめて得心に至るのだけど、そういうところまで至らないまま、それでもこれはとても大事な考え方だろうな、とおもっているうちに忘れてしまうわけです。
それで、きょうは収穫作業を終えてすぐ、そのあたりのまとまりのないことを、タラタラ書いてみようとおもいます。
どうして畑の野菜がうまくいかないことでこんなに苦しいのか、というと、ぼくの場合はたぶんお金にならないとか、そういうことは理由としては2番、あるいは3番なんですよ。
いちばんの理由は、言語化したくないことが増えてしまった、言い訳せねばならぬことが増えてしまった、ということだろうとおもいます。
プライドが傷つくのが、イヤなんでしょう。
べつに収入が減って茶漬けに梅干しの暮らしだって、ぼくとしては(それなりにイヤではあるけど)べつにかまいません。
そういうことじゃなくて、うまく野菜が作れなかったことを、じぶんに言い訳し、他人に言い訳し、結果が出なかったことをどうにか納得材料にしようともがく、そのありようが、ぼくはほんとうはイヤなのだろう、と。
しかし、よくよく考えればぼくは毎年野菜作りの中で、この手の言い訳を何度も繰り返していて、ことしはそれがたまたま多いわけです。
百姓仕事は、三歩進んで二歩下がるのが当たり前です。
一年単位でみて、三歩進んで一歩下がる程度ですめば喜んで、ある年に自然災害で畑が壊滅、三歩進んで三歩下がるような年になって、結局平均すれば、三歩進んで二歩下がっているといった具合。
そういえば、何年前だったか、こんなニュースをみました。
代々……といっても戦後の、それも高度経済成長期以降でしょうけど、大百姓としてがんばっていた北陸の農家が、ちょうどせがれに農業を託すというので、千万単位のお金を借り入れてハウスを10棟ほど建てた。
息子に豊かな暮らしをしてもらいたい、とおもったんでしょう。
ところがこのハウスが、翌年の大雪で半分以上ひしゃげてしまって、膨大な修理費用がかかることになりました。
で、それを苦にしたのか、ある日せがれが自殺してしまった。
百姓をやっている身として、この農家の悲しみやいかばかりか、とおもうと胸がつぶれそうになりますが、農業で家族を養う、儲けるというときには、すこし身の丈に合わない無理をしなければならないんですよね。
だから、ぼくのような独り身のオッサンは、そもそもじぶんひとりぶんの身の丈に合うくらいのことしかしていないので、ちょっと野菜がうまくいかなったくらいのことは、「まあまたイチからやり直しだ」と切り替えてしまえばよい。
その点非常に気楽な商売といえますが、家族が養えるかというと、ムリです。
いや、できないことはないのだけど、ぼくひとりではムリで、家族の助けが必要になります。
いまぼくがやってるのが、3坪でカウンターしかない居酒屋をひとりで切り盛りしてるとすれば、これを小ぢんまりした家族経営の町中華くらいまで広げる、くらいのイメージでしょうか。
そこを越えて大きな儲けを狙っていくとなると、ある種の野心と、大きく勝負をかけて大きくコケる可能性も覚悟しなきゃなりません。
相場取引の用語をつかうと、レバレッジがかかるわけで、ぼくが三歩進んで二歩下がるをやってるところを、三十歩進んで二十歩下がる、ということをするわけです。
そうすると、たまたま四十歩も下がるような大災害が起こったりすると、個人単位では取り戻せない破綻になってしまう。
で、ぼくもそれなりに畑をもっと効率的につかいたいとか、あしたはもっとよい状況にしたい、というおもいがあるので、それなりにがんばるんですが、やっぱり自然にはなかなか勝てないし、不測の事態はいつでも起こり得ます。
一進一退で、なかなかおもったようにはいかないんですが、じぶんの身の丈に合った暮らしを逸脱しないでいられるのだから、あきらめずにきょうも種をまき、あしたも種をまくのが正解なんです。
その瞬間、うまくいったとか、うまくいかなかったということに、一喜一憂せず、たんたんとやるべきことをやらないといけないよな、と。
とまあ、そんな殊勝なことを考えては、すぐに忘れてしまうわけです。
#野菜