2024年9月19日の投稿[1件]
今回はいよいよ突っ込んだ内容になって、すこし読むのがたいへんかとおもうんですが、理解していただければきっと気づきがあるとおもうので、ぜひ気合を入れてお読みいただけるとうれしいです(笑)
あの世とこの世のへだたりということなんですが、以前、般若心経の話をしました。
玄奘三蔵によって書かれた般若心経(あとで唯識のお話もします)は無について説いているんですが、無の解釈の仕方が現代のわれわれとはちょっとちがう、という話でした。
般若心経では「われわれがあるとおもっている肉体、意識はじつは存在しない。一切は無である。そして、存在しないというカタチで存在しているのだ」と、非常にややこしいことをいいます。
この場合、般若心経における無はゼロという意味だけではなくて、「なにもかもすべて」という意味も含んでいます。
一本のヒモがあって、片方の端っこはなにもないゼロの無。
もう片方の端っこはなにもかもすべてを包括する、無限の無。
このヒモの両端をくっつけて輪っかをつくったとします。
この輪っかはつまり、われわれがあるとおもっている世界です。
しかし般若心経はこの両端の、無と無限がくっついた部分をフォーカスしてるんですね。
つまり、宇宙という広大無辺の無限の世界にただようじぶんと、それもじきになくなるという死の世界(ゼロの世界)を、輪っかにしてつなぐ。
われわれの世界は無と無限によってつながっていて、その間にいるじぶんが存在しているようにおもえても、じつはそのように意識がとらわれているだけなのだ、というわけです。
これは、蝶がじぶんの夢をみているのか、じぶんが蝶の夢をみているのか、という荘子の思想や、余剰意識の問題と通じているところだとおもいます。
しかしみんなそうだとおもうんですが、われわれはじぶんの肉体や感覚が「ない」と断言するところまで、じぶんの肉体や意識を否定することはできません。
では、結局じぶんとはなんなのか。
われわれはなぜ、じぶんが存在しているというおもいこみにとらわれてしまうのか。
クローンのぼくができたときに、それぞれの自我をへだてるものはなんなのか。
これを解き明かすキーワードは、医学的な言葉でいう「免疫」なのではないかとおもっています。
人間の体には免疫がそなわっていますから、たとえば皮膚を移植する場合、他人の皮膚をじぶんの体に移しても、拒絶反応が出てうまくくっつかないんですね。
免疫というと、いま言ったように他人の組織を拒絶したり、ウイルスと戦ったり、細菌の感染に抗うという機能面だけが強調されます。
医学的には肉体が外敵に抗うシステム面だけが大事なので、免疫という言葉でかまわないんですが、もうすこし哲学的に意味を広げてみると、これは「じぶんとじぶん以外を区別するシステム」ということになるかとおもいます。
クローンの場合、皮膚や組織は取り換えがききますが、じぶんとクローンにはそれぞれ独立した免疫があるから、それぞれちがった意識をもつことになる、といえます。
互いの免疫が独立しているから、クローンを傷つけても、ぼくが「痛い」とはならないわけです。
前回の話のトマトの場合、植物には人間のような免疫細胞はないのですが、異物を排除するための自然免疫が備わっているといいます。
やはり外側から侵略されないシステムは備わっているんですね。
だからトマトの枝を折って土に挿して繁殖した場合、それぞれの免疫が独立するから、べつのトマトとして生きることになる、というわけです。
植物の場合、人間とくらべて免疫のありようが単純なんです。
たとえば、カボチャの種が発芽して、芽が出ます。
同時に、キュウリの種もまいておいて、これも芽が出ます。
このカボチャとキュウリの幼苗をそれぞれ半分に切って、カボチャの根っこのある茎にキュウリの頭の部分をつないで、専用のクリップで留めておくんです。
そうすると、カボチャの根っことキュウリの頭がつながります。
カボチャの根はキュウリの自根と比べると頑強なので、病気や乾燥に強いキュウリを育てることができるメリットがあるんですね。
こうした接ぎ木苗はホームセンターなどでよく出回っています。
しかしこれは人間では絶対にありえない話です。
このカボチャとキュウリの接ぎ木の話は、人間でいえばぼくとマイケル・ジャクソンをそれぞれ胴体から半分に切って、マイケルジャクソンの足をぼくにつないだらダンスがうまくなった、というくらい荒唐無稽です。
人間には免疫細胞があるので、たとえおなじ人間でも、よほどの近親、それも相性がピッタリ合わない限り、直接他人の細胞を受け付けることはできません。
しかし植物の場合は免疫のありようが単純なので、ある程度可能なんですね。
もちろんキュウリとナスみたいに、科のまったくちがう植物同士がつながることはないんですが、キュウリとカボチャのようにおなじウリ科であれば、われわれシロウトがけっこういい加減にやってもくっついてしまう。
この有名な例が、甘柿です。
甘柿は、種をそのまま植えると、すべて渋柿になります。
そこで、渋柿の幹に甘柿の枝を接ぎ木するんです。
そうすると接ぎ木した枝は甘柿に育ってくれるんですね。
われわれが現在食べている甘柿はすべて接ぎ木です。
最初の甘柿は、突然変異によってたまたまできたようで、われわれの祖先が渋柿の苗に甘柿の枝を接ぎ木しながら広めていったというわけです。
この接ぎ木の話でなにが言いたいのかというと、免疫のありようが単純な生物では、じぶんと他の存在の境界があいまいだということです。
つまり、単純な生き物ほど、より宇宙に近いといえるかもしれません。
だから仕組みが単純な生き物だと、わたしがあなたになったり、あなたがわたしになったり、わたしの一部から分裂したりということが比較的容易に起こりえる。
複雑な免疫を持ち、脳と神経が発達した人間は、余剰意識もあって、じぶんというものをオンリーワンの特別な存在だと信じて疑いません。
しかしその免疫を取っ払っていくと、だんだんじぶんと他人の境界があいまいになり、そしてとうとう最後には境界そのものがなくなってしまう、というわけです。
免疫による肉体の独立性は、死ぬと失われます。
死ねば免疫細胞も活動を止めますから、じぶんがじぶんである必要性がなくなります。
もうすこし突っ込んだことをいうと、たとえば腕を失ったとき、脳や心臓という肉体の免疫と自律をつかさどるほうは、独立性を維持しますが、そうでないほうは死にますよね。
この死んだほうの腕になにか「生きていた意味」があるかというと、われわれはなかなか意味を見いだせないとおもうんです。
それはかつてじぶんの一部でしたが、もはや腐りゆく肉の塊でしかありません。
その延長線でいえば、肉体ぜんぶが死んで、じぶんの独立性・精神・魂がすべて失われた場合も、やはり意味らしい意味はないのではないか。
たとえばぼくはいまこの腕でタイピングをしていますから、この腕にはちゃんと生きている意味があるはずなんです。
なのに腕が切り離されたとたん、それは意味を失い、ただの腐りゆく肉塊となる。
しかしこの、肉体が意味を失った向こう側について、人類はずっと考えてきたんですよね。
腕はともかく、最後の最後、じぶんの魂まで失われたら、そのあとはどうなるのか。
それでいまぼくは、死んだ肉体や精神は、この世界(宇宙)のあらゆる要素に溶け込んで、一体化すると考えています。
精霊信仰……たとえば日本の古神道の言い方でいえば、肉塊になった腕は「腕の神様」になるわけです。
有機物、無機物、霊魂など、目に見えるもの・見えないものの概念にへだたりのない、ありとあらゆるものが精霊(神)であるという考え方ですね。
これは、ギズモさんのおっしゃる「この世とあの世に分けへだてがない」ということにつながるのではないでしょうか。
ギズモさんの記事の
”余剰意識とは、「こころ」と同義、またはこころの一部でしょうか?”
ということですが、ぼくもそうだとおもいます。
最初に「あとで唯識のお話もします」と述べましたが、玄奘三蔵は「すべてはこころが作り出す仮の世界」という唯識の思想を確立しました。
しかし般若心経ではその唯識すら虚構なんだといって、人間の意識を無と無限の中に放り込んでしまうんです。
そのように、本来死なねば得られない意識の融合を、生きながらにしてムリヤリ得ようとする試みを、仏教では「解脱」といいました。
つまり仏教では、死にアプローチしていく行為自体を、仏教徒の生きる意味にしてしまったんですね。
なぜそんなことをしたのかというと、われわれのこころは、いざ分解してみると、生き物の本能と、本能に肉付けする余剰意識くらいしかありません。
じつは意識を徹底的に分解して、唯識の中をいくら探しても、「生きる意味」は見いだせないことに玄奘三蔵は気づいていたのだとおもいます。
(あるいは仏陀の時代からそれはわかっていたのかもしれません)
しかし人間は、じぶんが死ぬとわかったとたん、生きることそのものに意味を見いだして……つまり、必死で生きるようになりますよね。
だから、わざと疑似的に死に片足を突っ込んだような状況をつくる(解脱に向かう)ことで、生きる意味を見いだそうとした、ということなんでしょう。
それがある時代では極端に解釈されて、補陀落渡海や即身仏という無茶苦茶なカタチで実践されたこともあります。
しかし唯識にしても般若心経にしても、意識を分解するとか、生きながら死ぬというようなこねくり回した考えは、やっぱり余剰意識によってやっていることで、荘子の言い方を借りれば、人為的で自然に即してはいません。(←すこし表現を変えました)
ほかの動物はこんなふうに生き死にについて思い悩んだりしませんし、動物には明確なこころを感じにくい。
その点でいえば、やはり余剰意識がこころ、あるいはこころの一部というのはただしいとおもいます。
というわけで、これだけ長く話しても、ではなぜぼくやギズモさんが、それぞれのオリジナルの魂をもって生きているのか、ということについては謎のまま……おそらくそこは現代では答えの出せることではないようにもおもうんですが、今回もワガママ勝手におもうところを述べさせていただきました(笑)
あの世とこの世のへだたりということなんですが、以前、般若心経の話をしました。
玄奘三蔵によって書かれた般若心経(あとで唯識のお話もします)は無について説いているんですが、無の解釈の仕方が現代のわれわれとはちょっとちがう、という話でした。
般若心経では「われわれがあるとおもっている肉体、意識はじつは存在しない。一切は無である。そして、存在しないというカタチで存在しているのだ」と、非常にややこしいことをいいます。
この場合、般若心経における無はゼロという意味だけではなくて、「なにもかもすべて」という意味も含んでいます。
一本のヒモがあって、片方の端っこはなにもないゼロの無。
もう片方の端っこはなにもかもすべてを包括する、無限の無。
このヒモの両端をくっつけて輪っかをつくったとします。
この輪っかはつまり、われわれがあるとおもっている世界です。
しかし般若心経はこの両端の、無と無限がくっついた部分をフォーカスしてるんですね。
つまり、宇宙という広大無辺の無限の世界にただようじぶんと、それもじきになくなるという死の世界(ゼロの世界)を、輪っかにしてつなぐ。
われわれの世界は無と無限によってつながっていて、その間にいるじぶんが存在しているようにおもえても、じつはそのように意識がとらわれているだけなのだ、というわけです。
これは、蝶がじぶんの夢をみているのか、じぶんが蝶の夢をみているのか、という荘子の思想や、余剰意識の問題と通じているところだとおもいます。
しかしみんなそうだとおもうんですが、われわれはじぶんの肉体や感覚が「ない」と断言するところまで、じぶんの肉体や意識を否定することはできません。
では、結局じぶんとはなんなのか。
われわれはなぜ、じぶんが存在しているというおもいこみにとらわれてしまうのか。
クローンのぼくができたときに、それぞれの自我をへだてるものはなんなのか。
これを解き明かすキーワードは、医学的な言葉でいう「免疫」なのではないかとおもっています。
人間の体には免疫がそなわっていますから、たとえば皮膚を移植する場合、他人の皮膚をじぶんの体に移しても、拒絶反応が出てうまくくっつかないんですね。
免疫というと、いま言ったように他人の組織を拒絶したり、ウイルスと戦ったり、細菌の感染に抗うという機能面だけが強調されます。
医学的には肉体が外敵に抗うシステム面だけが大事なので、免疫という言葉でかまわないんですが、もうすこし哲学的に意味を広げてみると、これは「じぶんとじぶん以外を区別するシステム」ということになるかとおもいます。
クローンの場合、皮膚や組織は取り換えがききますが、じぶんとクローンにはそれぞれ独立した免疫があるから、それぞれちがった意識をもつことになる、といえます。
互いの免疫が独立しているから、クローンを傷つけても、ぼくが「痛い」とはならないわけです。
前回の話のトマトの場合、植物には人間のような免疫細胞はないのですが、異物を排除するための自然免疫が備わっているといいます。
やはり外側から侵略されないシステムは備わっているんですね。
だからトマトの枝を折って土に挿して繁殖した場合、それぞれの免疫が独立するから、べつのトマトとして生きることになる、というわけです。
植物の場合、人間とくらべて免疫のありようが単純なんです。
たとえば、カボチャの種が発芽して、芽が出ます。
同時に、キュウリの種もまいておいて、これも芽が出ます。
このカボチャとキュウリの幼苗をそれぞれ半分に切って、カボチャの根っこのある茎にキュウリの頭の部分をつないで、専用のクリップで留めておくんです。
そうすると、カボチャの根っことキュウリの頭がつながります。
カボチャの根はキュウリの自根と比べると頑強なので、病気や乾燥に強いキュウリを育てることができるメリットがあるんですね。
こうした接ぎ木苗はホームセンターなどでよく出回っています。
しかしこれは人間では絶対にありえない話です。
このカボチャとキュウリの接ぎ木の話は、人間でいえばぼくとマイケル・ジャクソンをそれぞれ胴体から半分に切って、マイケルジャクソンの足をぼくにつないだらダンスがうまくなった、というくらい荒唐無稽です。
人間には免疫細胞があるので、たとえおなじ人間でも、よほどの近親、それも相性がピッタリ合わない限り、直接他人の細胞を受け付けることはできません。
しかし植物の場合は免疫のありようが単純なので、ある程度可能なんですね。
もちろんキュウリとナスみたいに、科のまったくちがう植物同士がつながることはないんですが、キュウリとカボチャのようにおなじウリ科であれば、われわれシロウトがけっこういい加減にやってもくっついてしまう。
この有名な例が、甘柿です。
甘柿は、種をそのまま植えると、すべて渋柿になります。
そこで、渋柿の幹に甘柿の枝を接ぎ木するんです。
そうすると接ぎ木した枝は甘柿に育ってくれるんですね。
われわれが現在食べている甘柿はすべて接ぎ木です。
最初の甘柿は、突然変異によってたまたまできたようで、われわれの祖先が渋柿の苗に甘柿の枝を接ぎ木しながら広めていったというわけです。
この接ぎ木の話でなにが言いたいのかというと、免疫のありようが単純な生物では、じぶんと他の存在の境界があいまいだということです。
つまり、単純な生き物ほど、より宇宙に近いといえるかもしれません。
だから仕組みが単純な生き物だと、わたしがあなたになったり、あなたがわたしになったり、わたしの一部から分裂したりということが比較的容易に起こりえる。
複雑な免疫を持ち、脳と神経が発達した人間は、余剰意識もあって、じぶんというものをオンリーワンの特別な存在だと信じて疑いません。
しかしその免疫を取っ払っていくと、だんだんじぶんと他人の境界があいまいになり、そしてとうとう最後には境界そのものがなくなってしまう、というわけです。
免疫による肉体の独立性は、死ぬと失われます。
死ねば免疫細胞も活動を止めますから、じぶんがじぶんである必要性がなくなります。
もうすこし突っ込んだことをいうと、たとえば腕を失ったとき、脳や心臓という肉体の免疫と自律をつかさどるほうは、独立性を維持しますが、そうでないほうは死にますよね。
この死んだほうの腕になにか「生きていた意味」があるかというと、われわれはなかなか意味を見いだせないとおもうんです。
それはかつてじぶんの一部でしたが、もはや腐りゆく肉の塊でしかありません。
その延長線でいえば、肉体ぜんぶが死んで、じぶんの独立性・精神・魂がすべて失われた場合も、やはり意味らしい意味はないのではないか。
たとえばぼくはいまこの腕でタイピングをしていますから、この腕にはちゃんと生きている意味があるはずなんです。
なのに腕が切り離されたとたん、それは意味を失い、ただの腐りゆく肉塊となる。
しかしこの、肉体が意味を失った向こう側について、人類はずっと考えてきたんですよね。
腕はともかく、最後の最後、じぶんの魂まで失われたら、そのあとはどうなるのか。
それでいまぼくは、死んだ肉体や精神は、この世界(宇宙)のあらゆる要素に溶け込んで、一体化すると考えています。
精霊信仰……たとえば日本の古神道の言い方でいえば、肉塊になった腕は「腕の神様」になるわけです。
有機物、無機物、霊魂など、目に見えるもの・見えないものの概念にへだたりのない、ありとあらゆるものが精霊(神)であるという考え方ですね。
これは、ギズモさんのおっしゃる「この世とあの世に分けへだてがない」ということにつながるのではないでしょうか。
ギズモさんの記事の
”余剰意識とは、「こころ」と同義、またはこころの一部でしょうか?”
ということですが、ぼくもそうだとおもいます。
最初に「あとで唯識のお話もします」と述べましたが、玄奘三蔵は「すべてはこころが作り出す仮の世界」という唯識の思想を確立しました。
しかし般若心経ではその唯識すら虚構なんだといって、人間の意識を無と無限の中に放り込んでしまうんです。
そのように、本来死なねば得られない意識の融合を、生きながらにしてムリヤリ得ようとする試みを、仏教では「解脱」といいました。
つまり仏教では、死にアプローチしていく行為自体を、仏教徒の生きる意味にしてしまったんですね。
なぜそんなことをしたのかというと、われわれのこころは、いざ分解してみると、生き物の本能と、本能に肉付けする余剰意識くらいしかありません。
じつは意識を徹底的に分解して、唯識の中をいくら探しても、「生きる意味」は見いだせないことに玄奘三蔵は気づいていたのだとおもいます。
(あるいは仏陀の時代からそれはわかっていたのかもしれません)
しかし人間は、じぶんが死ぬとわかったとたん、生きることそのものに意味を見いだして……つまり、必死で生きるようになりますよね。
だから、わざと疑似的に死に片足を突っ込んだような状況をつくる(解脱に向かう)ことで、生きる意味を見いだそうとした、ということなんでしょう。
それがある時代では極端に解釈されて、補陀落渡海や即身仏という無茶苦茶なカタチで実践されたこともあります。
しかし唯識にしても般若心経にしても、意識を分解するとか、生きながら死ぬというようなこねくり回した考えは、やっぱり余剰意識によってやっていることで、荘子の言い方を借りれば、人為的で自然に即してはいません。(←すこし表現を変えました)
ほかの動物はこんなふうに生き死にについて思い悩んだりしませんし、動物には明確なこころを感じにくい。
その点でいえば、やはり余剰意識がこころ、あるいはこころの一部というのはただしいとおもいます。
というわけで、これだけ長く話しても、ではなぜぼくやギズモさんが、それぞれのオリジナルの魂をもって生きているのか、ということについては謎のまま……おそらくそこは現代では答えの出せることではないようにもおもうんですが、今回もワガママ勝手におもうところを述べさせていただきました(笑)