2024年9月29日の投稿[1件]
今回の件を書いてみたら、なんと現時点で6000文字を越えてきました(笑)
いくらなんでも一回で投稿すると読み疲れを起こすだろうとおもいましたので、これから4日おきくらいに、3回にわけて、時間をかけて加筆訂正しながら投稿していこうとおもいます。
その間にギズモさんが投稿していただいても問題ないですし、あるいは返信がなくてもまったく問題ないんですが、ぼくからはとりあえず返信はせず、いったん今回の内容を3回にわけて投稿しますので、あしからずご了承ください。
まず、お天気のご心配をいただいてありがとうございます。
ことしは夏から秋にかけてほんとうに雨が少なく、参っていますが、なんとか葉物は小出来ながらも育ってくれています。
例年のように安定した収穫にはならなそうですが、なんとかカタチになるように努力しています。
さて、ギズモさんの「免疫異常で境界線があいまいになる」として、人間がじぶん以外の世界にアクセスできるかもしれないというお話には、最初ファンタジー的なおもしろさを感じたあと、現実的にもそういうことがあることに気づきました。
たとえば天理教の教祖である中山みきは、いまでいうところのシャーマンであり、神がかりな気質をもっていたために、教祖としてあがめられることになったんですが、彼女を病理的にみると、多重人格や統合失調症だったともいわれています。
明治の世になって日本の社会は資本主義に舵をとったんですが、じつは宗教は資本主義とものすごく相性がいいんです。
それで中山みきのシャーマン的な言説を真に受ける人々と、これを「ビジネスにしよう」という動きがあいまって、一種の熱狂を生み、日本の新興宗教勢力の一角を担うまでに成長しました。
現代ではオウム事件や統一教会問題がきっかけになって、新興宗教不信が起こり、衰退しましたが、じつは「新興宗教= カルト」という見方はバブル期あたりに起こったもので、それ以前はみんなよくもわるくも純朴に新興宗教を受け入れてたんですよね。
ではなぜ中山みきが崇拝の対象になったのかというと、当時の人々に「障がい者にはわれわれには見えないものを見たり、感じたりする能力が備わっているのではないか」という観念があったからでした。
たとえば日本各地には、知的障がいだったり、身体が欠損して生まれてきた子供を、その地域に幸運をもたらす存在(神)がやってきてくれた、として大事にしたという伝承が残っています。
これは折口信夫の言い方を借りると「まれびと信仰」の一種ということになります。
折口信夫のいうまれびとは、「客人」とか「来訪者」というような意味なんですが、その客人は神の化身として扱われることが特徴です。
健常者ではない「異人」として生まれた子を、排除するのではなく、福をもたらす来訪者(神)として扱うんですね。
もちろん余裕のない家庭や集落では、そういった子を「鬼子」として捨てていたという話もあるんですが、一方で「免疫異常の人」を崇拝の対象にまで高めて大事にした社会もあったようです。
般若心経の輪っかの話なんですが、あらためて般若心経を読み直したんです。
あと玄奘三蔵の翻訳した金剛般若経も読んでみました。
するとかんちがいしていたところがあって、そのあたりを訂正しながらお話します。
まず、無限と無については、般若心経では「空」と「無」というカタチで使い分けてたんですね。
以下に般若心経をコピーしてみましたが、前半は「空」という文字がたくさん出てきて、後半には「無」がたくさん出てくることがわかるとおもいます。
空と無が出てくるところはきれいにわかれるので、行をわけてみました。
観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時
照見五蘊皆空 度一切苦厄
舎利子 色不異空 空不異色
色即是空 空即是色 受想行識亦復如是
舎利子 是諸法空相 不生不滅
不垢不浄 不増不減 是故空中
無色 無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法
無眼界 乃至無意識界 無無明 亦無無明尽
乃至無老死 亦無老死尽 無苦集滅道 無智亦無得
以無所得故 菩提薩埵 依般若波羅蜜多故
心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖 遠離一切顛到夢想
究境涅槃 三世諸仏 依般若波羅蜜多故
得阿耨多羅三藐三菩提 故知般若波羅蜜多
是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪
能除一切苦 真実不虚 故説般若波羅蜜多呪
即説呪曰
羯 諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶
般若心経
この空と無を意識しながらざっくり般若心経を説明すると、こうなります。
「われわれは空(無限)の一部である。かたちあるものはみな空から生じており、空は絶えず変化している。
われわれがあるとおもっている実体も、本来はかたちのない空から生まれていて、かたちのない空にかえる。
であれば、われわれがあるとおもっているものは、じつはないことがわかる。
身体も心も、感じることもすべて、ほんとうは、なにもかもが無である。
悟りを開いたといわれる菩薩も、じぶんが無であると理解し、無心を理解したところから涅槃の境地に至ったのだ」
これが輪っかの話ですね。
ひもの片方は無限の無(空)。片方はゼロの無。このふたつの無限と無をつないだところに、般若心経はフォーカスを当てている、と。
ほんとうは、ひもの輪っかが存在する以上、ぼくたちは存在しているはずなんですが、仏教はそれを「無い」というんです。
無いということを理解しないと、解脱はできないんだ、とまでいいます。
しかしそんな仏教に対して、司馬遼太郎はこのように指摘しました。
釈迦は煩悩を捨てろ、解脱せよとあまりに高いハードルを設けてしまったが、解脱ができるのは百万人にひとりの天才であり、実践はむずかしい。
釈迦の死後、煩悩を断てない人々は、神仏にすがって現世利益を求め、商売繁盛を祈るようになった。
「釈迦は商利の追求をむさぼりとしたが、かれの宗教がかれの死後二百年で力をうしない、変質もしくは他のものに変わらざるをえなかったのは、当然であったかもしれない。われわれは釈迦では救われない。それどころか釈迦はわれわれを委縮させるのみだ、と公言するダイヤモンド商人もいたであろう」
ではなぜ仏教はそこまでひもを無視して、空や無にこだわったのか、という理由が、金剛般若経に書かれていました。
(続く)
いくらなんでも一回で投稿すると読み疲れを起こすだろうとおもいましたので、これから4日おきくらいに、3回にわけて、時間をかけて加筆訂正しながら投稿していこうとおもいます。
その間にギズモさんが投稿していただいても問題ないですし、あるいは返信がなくてもまったく問題ないんですが、ぼくからはとりあえず返信はせず、いったん今回の内容を3回にわけて投稿しますので、あしからずご了承ください。
まず、お天気のご心配をいただいてありがとうございます。
ことしは夏から秋にかけてほんとうに雨が少なく、参っていますが、なんとか葉物は小出来ながらも育ってくれています。
例年のように安定した収穫にはならなそうですが、なんとかカタチになるように努力しています。
さて、ギズモさんの「免疫異常で境界線があいまいになる」として、人間がじぶん以外の世界にアクセスできるかもしれないというお話には、最初ファンタジー的なおもしろさを感じたあと、現実的にもそういうことがあることに気づきました。
たとえば天理教の教祖である中山みきは、いまでいうところのシャーマンであり、神がかりな気質をもっていたために、教祖としてあがめられることになったんですが、彼女を病理的にみると、多重人格や統合失調症だったともいわれています。
明治の世になって日本の社会は資本主義に舵をとったんですが、じつは宗教は資本主義とものすごく相性がいいんです。
それで中山みきのシャーマン的な言説を真に受ける人々と、これを「ビジネスにしよう」という動きがあいまって、一種の熱狂を生み、日本の新興宗教勢力の一角を担うまでに成長しました。
現代ではオウム事件や統一教会問題がきっかけになって、新興宗教不信が起こり、衰退しましたが、じつは「新興宗教= カルト」という見方はバブル期あたりに起こったもので、それ以前はみんなよくもわるくも純朴に新興宗教を受け入れてたんですよね。
ではなぜ中山みきが崇拝の対象になったのかというと、当時の人々に「障がい者にはわれわれには見えないものを見たり、感じたりする能力が備わっているのではないか」という観念があったからでした。
たとえば日本各地には、知的障がいだったり、身体が欠損して生まれてきた子供を、その地域に幸運をもたらす存在(神)がやってきてくれた、として大事にしたという伝承が残っています。
これは折口信夫の言い方を借りると「まれびと信仰」の一種ということになります。
折口信夫のいうまれびとは、「客人」とか「来訪者」というような意味なんですが、その客人は神の化身として扱われることが特徴です。
健常者ではない「異人」として生まれた子を、排除するのではなく、福をもたらす来訪者(神)として扱うんですね。
もちろん余裕のない家庭や集落では、そういった子を「鬼子」として捨てていたという話もあるんですが、一方で「免疫異常の人」を崇拝の対象にまで高めて大事にした社会もあったようです。
般若心経の輪っかの話なんですが、あらためて般若心経を読み直したんです。
あと玄奘三蔵の翻訳した金剛般若経も読んでみました。
するとかんちがいしていたところがあって、そのあたりを訂正しながらお話します。
まず、無限と無については、般若心経では「空」と「無」というカタチで使い分けてたんですね。
以下に般若心経をコピーしてみましたが、前半は「空」という文字がたくさん出てきて、後半には「無」がたくさん出てくることがわかるとおもいます。
空と無が出てくるところはきれいにわかれるので、行をわけてみました。
観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時
照見五蘊皆空 度一切苦厄
舎利子 色不異空 空不異色
色即是空 空即是色 受想行識亦復如是
舎利子 是諸法空相 不生不滅
不垢不浄 不増不減 是故空中
無色 無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法
無眼界 乃至無意識界 無無明 亦無無明尽
乃至無老死 亦無老死尽 無苦集滅道 無智亦無得
以無所得故 菩提薩埵 依般若波羅蜜多故
心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖 遠離一切顛到夢想
究境涅槃 三世諸仏 依般若波羅蜜多故
得阿耨多羅三藐三菩提 故知般若波羅蜜多
是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪
能除一切苦 真実不虚 故説般若波羅蜜多呪
即説呪曰
羯 諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶
般若心経
この空と無を意識しながらざっくり般若心経を説明すると、こうなります。
「われわれは空(無限)の一部である。かたちあるものはみな空から生じており、空は絶えず変化している。
われわれがあるとおもっている実体も、本来はかたちのない空から生まれていて、かたちのない空にかえる。
であれば、われわれがあるとおもっているものは、じつはないことがわかる。
身体も心も、感じることもすべて、ほんとうは、なにもかもが無である。
悟りを開いたといわれる菩薩も、じぶんが無であると理解し、無心を理解したところから涅槃の境地に至ったのだ」
これが輪っかの話ですね。
ひもの片方は無限の無(空)。片方はゼロの無。このふたつの無限と無をつないだところに、般若心経はフォーカスを当てている、と。
ほんとうは、ひもの輪っかが存在する以上、ぼくたちは存在しているはずなんですが、仏教はそれを「無い」というんです。
無いということを理解しないと、解脱はできないんだ、とまでいいます。
しかしそんな仏教に対して、司馬遼太郎はこのように指摘しました。
釈迦は煩悩を捨てろ、解脱せよとあまりに高いハードルを設けてしまったが、解脱ができるのは百万人にひとりの天才であり、実践はむずかしい。
釈迦の死後、煩悩を断てない人々は、神仏にすがって現世利益を求め、商売繁盛を祈るようになった。
「釈迦は商利の追求をむさぼりとしたが、かれの宗教がかれの死後二百年で力をうしない、変質もしくは他のものに変わらざるをえなかったのは、当然であったかもしれない。われわれは釈迦では救われない。それどころか釈迦はわれわれを委縮させるのみだ、と公言するダイヤモンド商人もいたであろう」
ではなぜ仏教はそこまでひもを無視して、空や無にこだわったのか、という理由が、金剛般若経に書かれていました。
(続く)