2024年10月14日の投稿[1件]
ロゴセラピーの自己距離化の実践は、カンタンなようで意外とむずかしいのではないか、「結局はこころの持ち方なのでしょうか。」というギズモさんの問いかけについてなんですが、半分その通りだとおもいます。
あとの半分はというと、「そうせざるを得ない」んだとおもいます。
この「そうせざるを得ない」状態は、多重人格の人をたとえにするとわかりやすいのではないかとおもいます。
心の中に複数の別人格をつくる、不思議な精神病理なんですが、たいていの多重人格患者は、子供のころにひどい虐待を受けているというのです。
苛烈な虐待でこころがもたなくなって、べつの人格をつくって、逃げ場にする。
これはロゴセラピーでいえば自己距離化ですね。
でも、多重人格の子供は、そうせざるを得ないから、そうしたわけです。
子供ですから、ユーモアで自己距離化をはかることはできません。
虐待で精神が追い込まれていくうちに、だれからなにを教わるわけでもないのに、じぶんの人格を複数にわけてしまうんですね。
いま親から殴られているのは、じぶんではなくてもうひとりの〇〇だ、という具合に。
それで、虐待を受けるときの苦しみをべつの人格に負担させるために、別人格のリアリティが形成されていきます。
つまり、いま殴られている〇〇の性格や気質を、本来のじぶんとはまったくべつのものにして、できるだけ細かいディテールまで構築しておけば、より上手に苦しみを逃がすことができる。
別人格のリアリティが増せば増すほど、じぶん本体の苦しみを、別人格に負担させたつもりになれる、というわけです。
しかし多重人格は、自己距離化ではあるけど、もはや精神が崩壊した状態ですよね。
じぶんで人格の統一をコントロールできない状態になっているからです。
ほんとうは、そうなる前に対処しなければならないんです。
おそらくヴィクトール・フランクルも、ホロコーストの極限状況で、そして戦後じぶんの家族がみな収容所で亡くなっていたという事実を知ったとき、精神が崩壊するほどの苦しみを味わったはずです。
そのときに紡いだユーモアは、半分はロゴセラピーを実践するために、こころの持ち方をコントロールしたのだとおもうのですが、あとの半分はそうしなければ精神が維持できなくて、そうせざるを得なかったのだとおもいます。
人間はだれしも、じぶんの精神が破綻するくらいの苦しみに見舞われる可能性がありますよね。
他人を頼るわけにもいかず、じぶんひとりで苦しみ抜かねばならないこともあります。
そういうときにじぶんを他人事のように扱うユーモアを醸成しておくというか、じぶんのこころを救う手段のひとつとして引き出しをつくっておく、という感覚でしょうか。
ユーモアの引き出しをもっておくことで、精神が破綻する手前の状況をギリギリで維持するようなイメージです。
そういう意味では、ロゴセラピーの自己距離化は、禅や解脱と似てはいるんですが、より現実的に差し迫った危機に対処する心理療法なのだとおもいます。
自己距離化にフォーカスを当ててもうすこし続けますが、宗教だと神様の存在も自己距離化なんだとおもいます。
じぶんに起こる不幸や苦しみを、「神様が思し召しなのだから」といって前向きに受け止めるのは、じぶんに起こった出来事を神様というクッションで緩和してるんですよね。
人生がいくら苦しくても、最後は阿弥陀如来が救ってくれる、というような考えも、そうです。
つまり、神様視点でじぶんをとらえるという、自己距離化をおこなっているわけです。
だから、ロゴセラピーはこれまで人類がやってきたことの、理論化なんですよね。
なにかあたらしいことを言ってるのではなくて、「これまで人類がやってきた苦しみから逃れる方法を、カンタンにまとめてみました」という感じです。
わざわざ教わらなくても、人間は極限の状態になれば人格を分裂させてでも自己距離化をおこなってしまいます。
そういう意味では、解脱の修行や只管打坐のように、精神状態が平常のときにわざわざ無理して自己距離化をはかるのは、「スパルタすぎる避難訓練」みたいなもので、あんまり意味がないのかもしれません(笑)
ギズモさんがおみくじをひいて、「神の教」に書かれていたことで救われるおもいになったのは、キリスト教でいうところの「同伴者イエス」を得たような感覚だったのではないでしょうか。
おみくじというかたちで、目にはみえないけれどじぶんのそばに、必要なときに大事なことを伝えてくれる存在がある、という感覚が、ギズモさんの支えになったのではないかとおもいます。
人間は肉体もこころも、ひとりで生きていけるものではなくて、なにか支えが必要なんですよね。
取り越し苦労をしない、過去のことや未来のことを心配しないというのも、すこし深く解釈していかないと、実践がむずかしいようにおもえます。
ほんとうにまったく過去のことも未来のことも考えないということになると、人間として落第してしまいますよね(笑)
5年ほど前にベストセラーになった『ファクトフルネス』という本がありました。
あれは、国連の出しているデータをもとに、世界の事実(ファクト)を知ることで、ウソ(フェイク)に惑わされないようにすれば、いまやるべきことに集中できるし、安心して日々を暮らすことができるという内容でした。
タイトルの「ファクトフルネス」は、マインドフルネス(禅)とファクト(事実)を掛け合わせた言葉なんですね。
事実を知ることで、禅の境地のように、客観的・俯瞰的にものごとをとらえて、生きることに安心することができる、というような意味合いです。
その本によると、世界には問題点もあるし、不安になることもあるけれど、ただしい事実を知れば、安心できることもたくさんあるし、じつは世界がよくなっていることもわかる、といいます。
たとえば、世界にはいまだに飢餓や貧困がはびこっている、といいますが、国連のデータをきちんと読んでいくと、戦後、世界の飢餓や貧困の割合は改善されてきているといいます。
もちろん問題は残っているのだけど、決して絶望なんかしなくてよいし、希望がもてる状態なんだ、安心していいんだ、と。
なにが言いたいのかというと、われわれはどんな状況であっても、過去からなにかただしいものを学び取って、未来をいいものにしていく覚悟が必要だということです。
そうすれば、過去を悔やんだり、未来を恐れたりせず、いまやるべきことに集中できるようになる、という理屈ですね。
過去のことや未来のことを心配しない、という考え方はもちろんただしいんですが、そのためには過去や未来に対する前向きな学びの姿勢が必要で、ここが欠けていると、なかなかいまを生きる不安は取り払うことができないんじゃないかとおもうのです。
あとの半分はというと、「そうせざるを得ない」んだとおもいます。
この「そうせざるを得ない」状態は、多重人格の人をたとえにするとわかりやすいのではないかとおもいます。
心の中に複数の別人格をつくる、不思議な精神病理なんですが、たいていの多重人格患者は、子供のころにひどい虐待を受けているというのです。
苛烈な虐待でこころがもたなくなって、べつの人格をつくって、逃げ場にする。
これはロゴセラピーでいえば自己距離化ですね。
でも、多重人格の子供は、そうせざるを得ないから、そうしたわけです。
子供ですから、ユーモアで自己距離化をはかることはできません。
虐待で精神が追い込まれていくうちに、だれからなにを教わるわけでもないのに、じぶんの人格を複数にわけてしまうんですね。
いま親から殴られているのは、じぶんではなくてもうひとりの〇〇だ、という具合に。
それで、虐待を受けるときの苦しみをべつの人格に負担させるために、別人格のリアリティが形成されていきます。
つまり、いま殴られている〇〇の性格や気質を、本来のじぶんとはまったくべつのものにして、できるだけ細かいディテールまで構築しておけば、より上手に苦しみを逃がすことができる。
別人格のリアリティが増せば増すほど、じぶん本体の苦しみを、別人格に負担させたつもりになれる、というわけです。
しかし多重人格は、自己距離化ではあるけど、もはや精神が崩壊した状態ですよね。
じぶんで人格の統一をコントロールできない状態になっているからです。
ほんとうは、そうなる前に対処しなければならないんです。
おそらくヴィクトール・フランクルも、ホロコーストの極限状況で、そして戦後じぶんの家族がみな収容所で亡くなっていたという事実を知ったとき、精神が崩壊するほどの苦しみを味わったはずです。
そのときに紡いだユーモアは、半分はロゴセラピーを実践するために、こころの持ち方をコントロールしたのだとおもうのですが、あとの半分はそうしなければ精神が維持できなくて、そうせざるを得なかったのだとおもいます。
人間はだれしも、じぶんの精神が破綻するくらいの苦しみに見舞われる可能性がありますよね。
他人を頼るわけにもいかず、じぶんひとりで苦しみ抜かねばならないこともあります。
そういうときにじぶんを他人事のように扱うユーモアを醸成しておくというか、じぶんのこころを救う手段のひとつとして引き出しをつくっておく、という感覚でしょうか。
ユーモアの引き出しをもっておくことで、精神が破綻する手前の状況をギリギリで維持するようなイメージです。
そういう意味では、ロゴセラピーの自己距離化は、禅や解脱と似てはいるんですが、より現実的に差し迫った危機に対処する心理療法なのだとおもいます。
自己距離化にフォーカスを当ててもうすこし続けますが、宗教だと神様の存在も自己距離化なんだとおもいます。
じぶんに起こる不幸や苦しみを、「神様が思し召しなのだから」といって前向きに受け止めるのは、じぶんに起こった出来事を神様というクッションで緩和してるんですよね。
人生がいくら苦しくても、最後は阿弥陀如来が救ってくれる、というような考えも、そうです。
つまり、神様視点でじぶんをとらえるという、自己距離化をおこなっているわけです。
だから、ロゴセラピーはこれまで人類がやってきたことの、理論化なんですよね。
なにかあたらしいことを言ってるのではなくて、「これまで人類がやってきた苦しみから逃れる方法を、カンタンにまとめてみました」という感じです。
わざわざ教わらなくても、人間は極限の状態になれば人格を分裂させてでも自己距離化をおこなってしまいます。
そういう意味では、解脱の修行や只管打坐のように、精神状態が平常のときにわざわざ無理して自己距離化をはかるのは、「スパルタすぎる避難訓練」みたいなもので、あんまり意味がないのかもしれません(笑)
ギズモさんがおみくじをひいて、「神の教」に書かれていたことで救われるおもいになったのは、キリスト教でいうところの「同伴者イエス」を得たような感覚だったのではないでしょうか。
おみくじというかたちで、目にはみえないけれどじぶんのそばに、必要なときに大事なことを伝えてくれる存在がある、という感覚が、ギズモさんの支えになったのではないかとおもいます。
人間は肉体もこころも、ひとりで生きていけるものではなくて、なにか支えが必要なんですよね。
取り越し苦労をしない、過去のことや未来のことを心配しないというのも、すこし深く解釈していかないと、実践がむずかしいようにおもえます。
ほんとうにまったく過去のことも未来のことも考えないということになると、人間として落第してしまいますよね(笑)
5年ほど前にベストセラーになった『ファクトフルネス』という本がありました。
あれは、国連の出しているデータをもとに、世界の事実(ファクト)を知ることで、ウソ(フェイク)に惑わされないようにすれば、いまやるべきことに集中できるし、安心して日々を暮らすことができるという内容でした。
タイトルの「ファクトフルネス」は、マインドフルネス(禅)とファクト(事実)を掛け合わせた言葉なんですね。
事実を知ることで、禅の境地のように、客観的・俯瞰的にものごとをとらえて、生きることに安心することができる、というような意味合いです。
その本によると、世界には問題点もあるし、不安になることもあるけれど、ただしい事実を知れば、安心できることもたくさんあるし、じつは世界がよくなっていることもわかる、といいます。
たとえば、世界にはいまだに飢餓や貧困がはびこっている、といいますが、国連のデータをきちんと読んでいくと、戦後、世界の飢餓や貧困の割合は改善されてきているといいます。
もちろん問題は残っているのだけど、決して絶望なんかしなくてよいし、希望がもてる状態なんだ、安心していいんだ、と。
なにが言いたいのかというと、われわれはどんな状況であっても、過去からなにかただしいものを学び取って、未来をいいものにしていく覚悟が必要だということです。
そうすれば、過去を悔やんだり、未来を恐れたりせず、いまやるべきことに集中できるようになる、という理屈ですね。
過去のことや未来のことを心配しない、という考え方はもちろんただしいんですが、そのためには過去や未来に対する前向きな学びの姿勢が必要で、ここが欠けていると、なかなかいまを生きる不安は取り払うことができないんじゃないかとおもうのです。