2025年1月9日の投稿[1件]
気遣いというより、ぼくの性分なんです(笑)
上方落語に「いらちの愛宕参り」という演目があります。
いらちというのは、関西弁で「せっかち」という意味です。
いらちの辰という男が登場人物なんですが、常から気忙しく、おっちょこちょいで、始終焦ってるんですね。
そんな性格だから、もうちょっと落ち着けと周囲からたしなめられます。
そうすると辰が、こう言いました。
「そういわれても、わたい晩飯を晩が来るまで待ってられしまへんねんで。晩飯も昼前に食うてしまいまんねん」
もはや病的ないらちぶりです。
この落語を聞きながら、ぼくはあんまりこの辰を笑っちゃいけないな、とおもいました。
性格がちょっと似てるからなんです。
何事もとっととすませてしまいたい。
しかるべきタイミングをうまく待つのが苦手。
カップ麺にお湯を入れても、3分待つ間に洗い物をするとか、なにか気を紛らわす仕事で埋めるといいんですが、ただじっと待っているとなると、そわそわしてくる。
そんな性格だから、日程や時間の決まったイベントごとに、ふつうの人が感じないような焦りや心配を感じたりします。
そういうわけにはなかなかいきませんが、じぶんの間合いですませられるのなら、なにごとも早めにひとりで勝手にすませてしまうほうが気がラクだという性分なんです。
それこそ、ぼくひとりだったら、「初詣は混みあうから、12月中にお参りをすませておこうではないか」ということを本気で考えるタイプです。
それだとずいぶん生きにくいだろう、とおもわれるかもしれません。
実際、ずいぶん生きにくいんです(笑)
けれど性分なので、さすがに40代後半ともなると、治そうとして治るものでもないことはわかります。
おそらくぼくのこういった性分を詰めていくと、なにか精神医学の分野での「〇〇症」みたいなものは見つかるとおもいます。
なので、長い前置きでしたが、謝っていただくとかえって困るんです(笑)
むしろこちらが謝るべきことなんですが、それもやはりかえっておかしなことになるでしょうから、ここまでにしておきましょう。
ところで偶然ですが、ぼくも以前大洗に行ったことがあります。
残念ながら大洗磯前神社には参拝しませんでしたが。
以前お話ししたかもしれませんが、東日本大震災から数年後に、軽自動車で下道を利用して、宮城のあたりまで行きました。
そのとき大洗のあたりで数時間滞在しました。
海を眺めて、太平洋側はどこもこんなに荒々しい風情なんだろうか、と感心したのをおぼえています。
実際にはそんなことはなくて、大洗のあたりは岩礁の影響なのか、波濤がすごいんですね。
HPによると、大洗磯前神社はオオナムチとスクナヒコナがまつられているとのことですが、オオナムチというと因幡の白兎の伝説ですね。
ワニにひどい目にあわされた白兎と、白兎に蒲の穂の治療を指南した若きオオクニヌシ(オオナムチ)の情景は、あの荒々しい大洗の海とよく似合うなあとおもいました。
スクナヒコナもオオナムチとおなじで、医療を象徴する神ですね。
神仏習合の時代になると「大洗磯前薬師菩薩明神」がまつられるようになったとありました。
薬師菩薩という名前は初めてみましたが、おそらく薬師如来と、おなじ現世利益の仏である観音菩薩が融合したのでしょう。
薬師如来も観音菩薩も、病気を治してくれる仏さんですね。
そこへ「その土地独自に信仰されている大神」という意味を含む「明神」という称号が加わった。
つまり大洗磯前神社も、氷川大神や浅間大神とおなじように、その地で特有の信仰を培っていたのでしょう。
病気平癒のつよい願いが重なった場所ですから、きっとよいご利益に恵まれることとおもいます。
上方落語に「いらちの愛宕参り」という演目があります。
いらちというのは、関西弁で「せっかち」という意味です。
いらちの辰という男が登場人物なんですが、常から気忙しく、おっちょこちょいで、始終焦ってるんですね。
そんな性格だから、もうちょっと落ち着けと周囲からたしなめられます。
そうすると辰が、こう言いました。
「そういわれても、わたい晩飯を晩が来るまで待ってられしまへんねんで。晩飯も昼前に食うてしまいまんねん」
もはや病的ないらちぶりです。
この落語を聞きながら、ぼくはあんまりこの辰を笑っちゃいけないな、とおもいました。
性格がちょっと似てるからなんです。
何事もとっととすませてしまいたい。
しかるべきタイミングをうまく待つのが苦手。
カップ麺にお湯を入れても、3分待つ間に洗い物をするとか、なにか気を紛らわす仕事で埋めるといいんですが、ただじっと待っているとなると、そわそわしてくる。
そんな性格だから、日程や時間の決まったイベントごとに、ふつうの人が感じないような焦りや心配を感じたりします。
そういうわけにはなかなかいきませんが、じぶんの間合いですませられるのなら、なにごとも早めにひとりで勝手にすませてしまうほうが気がラクだという性分なんです。
それこそ、ぼくひとりだったら、「初詣は混みあうから、12月中にお参りをすませておこうではないか」ということを本気で考えるタイプです。
それだとずいぶん生きにくいだろう、とおもわれるかもしれません。
実際、ずいぶん生きにくいんです(笑)
けれど性分なので、さすがに40代後半ともなると、治そうとして治るものでもないことはわかります。
おそらくぼくのこういった性分を詰めていくと、なにか精神医学の分野での「〇〇症」みたいなものは見つかるとおもいます。
なので、長い前置きでしたが、謝っていただくとかえって困るんです(笑)
むしろこちらが謝るべきことなんですが、それもやはりかえっておかしなことになるでしょうから、ここまでにしておきましょう。
ところで偶然ですが、ぼくも以前大洗に行ったことがあります。
残念ながら大洗磯前神社には参拝しませんでしたが。
以前お話ししたかもしれませんが、東日本大震災から数年後に、軽自動車で下道を利用して、宮城のあたりまで行きました。
そのとき大洗のあたりで数時間滞在しました。
海を眺めて、太平洋側はどこもこんなに荒々しい風情なんだろうか、と感心したのをおぼえています。
実際にはそんなことはなくて、大洗のあたりは岩礁の影響なのか、波濤がすごいんですね。
HPによると、大洗磯前神社はオオナムチとスクナヒコナがまつられているとのことですが、オオナムチというと因幡の白兎の伝説ですね。
ワニにひどい目にあわされた白兎と、白兎に蒲の穂の治療を指南した若きオオクニヌシ(オオナムチ)の情景は、あの荒々しい大洗の海とよく似合うなあとおもいました。
スクナヒコナもオオナムチとおなじで、医療を象徴する神ですね。
神仏習合の時代になると「大洗磯前薬師菩薩明神」がまつられるようになったとありました。
薬師菩薩という名前は初めてみましたが、おそらく薬師如来と、おなじ現世利益の仏である観音菩薩が融合したのでしょう。
薬師如来も観音菩薩も、病気を治してくれる仏さんですね。
そこへ「その土地独自に信仰されている大神」という意味を含む「明神」という称号が加わった。
つまり大洗磯前神社も、氷川大神や浅間大神とおなじように、その地で特有の信仰を培っていたのでしょう。
病気平癒のつよい願いが重なった場所ですから、きっとよいご利益に恵まれることとおもいます。