山麓王国

2025年9月の投稿4件]

2025年9月29日 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する

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農園主さんの言文一致トレーニングで気づいたのですが、女性の場合、「私・わたし」と書いても、話す時は「わたし」ではなく「あたし」と言う人が多いと思いますし、それ以外を聞きません。

訂正: (言文一致は、「日常に用いられる話し言葉に近い口語体を用いて文章を書く」ことが本来の意味のようですので、使い方が間違っていますよねm(_ _"m))

今どき、小説にでてくるような「わたくし・あたくし」というのも全く聞かなくなりましたし。

男性だと、ぼく・わたし・俺が一般的でしょうが、「俺」は友だちや家族以外には、まず使いませんよね。

個人的に、「ぼく」はとても好ましく思っていたのですが、対外的に「わたし」で統一していくためには、書き言葉も同じにすると、慣れてきて違和感がなくなってきそうですね。

私はあまり推しはいないのですが、ひとりだけ大好きだった俳優さんがいます。

映画『青い山脈』の主人公を演じた、池部良です←すみません、どうでもいい話が少々続きます(笑)

父親は、画家・風刺漫画家の池部鈞。岡本太郎は従兄。大正7年の生まれ。立教大英文科在学中から、映画監督になりたくて東宝撮影所のシナリオ研究所に通い、立教を卒業して東宝に入社。戦時下だったため監督職に空きがなく、俳優として起用されるうち若手俳優のホープとなるが、召集。大卒だったため幹部候補生となり、少尉としてハルマヘラ島に配属、その後中尉となり終戦。映画・ドラマで二枚目俳優をやりながら、エッセイを多く書いた随筆家でもある(エッセイで日本文芸大賞受賞)。日本映画俳優協会初代理事長。2010年、92歳没。

この池部良が、本でも普段の会話でも「ぼく」を使っていて、奥様が公の場でも夫を「ボク(エッセイではカタカナでした)」と呼んでいたというのが印象的でした。

「万年青年」と言われたくらい若く、80歳過ぎても60代にしか見えない人でした。

私は、映画はほとんど観ていないし、ドラマも、室生犀星の『杏っ子』で犀星役を演じたものと、エッセイをドラマ化したものしか観ておらず、もっぱらエッセイのファンで、本はすべて読みました。

たぶん池部良が80才になるかならないかの頃、池袋のメトロポリタンホテルで、日本俳優協会関連の集まりがあるのを知りました。

文芸座が豊島区にあった関係なのか、豊島区民は参加できたので、それで申し込んだと思いますが、一般の人は見当たりませんでした(笑)

会費は1万円で、立食パーティーでした。

女優の藤村志保さんのお姉さまが豊島区巣鴨で料亭を経営していた関係か、藤村志保さんも、いらしていました。

後にも先にも、自分から会いに行ったのは、池部良ただひとりです。しかも、ひとりで(笑)

思いがけず、知り合いの区議さんたちも来ていたので、ずっとひとりぼっちではありませんでしたが、自分から食べ物を取りに行く勇気もなく、飲み物1杯1万円ということになりました(笑)

でも、池部良と話すこともでき、行った甲斐はありましたし、とても素敵な経験でした。



「本質に注目するあまり、みもふたもない救いのない話なので、不快な印象を与えてしまうかもしれません」と書いてくださっていましたが、不快どころか、どれもこれも興味深く考えさせられることばかりでした。

ありがとうございます。

まず自利が満たされなければ、利他が広がっていかないという、人間の業を肯定してくれるメッセージ

これは「衣食足りて礼節を知る」ということに(書き足し:も)つながるのかなと思いましたが、それではあまりに短絡的でしょうか。

実生活で考えると、自分の身の回りの事が充分でない時は、とてもとても他人のことにかまけている余裕はありません。

金銭的に不安がない時でも、精神的に余裕がなければ、やはり他人のことにはなかなか心が行き届きません。

そういう時、仏教に限らず、他の宗教でも、或いは哲学のようなものでも、『人間の業を肯定してくれるメッセージ』があると、生き方がずいぶん違ってくるように思います。





「南無阿弥陀仏」の称名を唱える仲間たちによるコミュニティをつくるところにありました。これはおなじ思想を持つ同志で結ばれるわけですから、非常に強固な結びつきになります。現在のように人々が守るべきルールが機能していなかった時代に、仏教の教義は最低限の法律となりました


この部分は、少しばかり衝撃的でした。

同じ称名を唱える仲間たちがコミュニティをつくっていき、仏教の教義が、たとえ最低限だとしても法律となっていったことに驚いたのですが、その事実を考えると、仏教というものの偉大さ、重要さを改めて深く感じます。

仏教はあまりに無限であって、どの部分を知ろうとするか、或いはどの部分を偶然にしろ知ることができるか、それによって仏教への見方、向き合い方が変わるように思います。

私は、農園主さんの記事によって、偏ることなく、様々な角度から様々なことを知ることができ、本当に感謝しています(仏教に限りませんが)。



昨年母が亡くなった時、僧侶を呼ばずに火葬をしました(後日、法要はしました)。

葬儀やさんの年配の男性が火葬の前に、「私がお念仏を唱えさせていただいてもいいですか?」とおっしゃったので、お願いしました。

短いご挨拶のあと、「ナンマンダブ」と、何回か唱えたのですが、「南無阿弥陀仏」ではなく、「ナンマンダブ」? ?

浄土宗や真宗なのかもしれないですが、「ナムアミダブツ」とは言わないんだ、と少し驚きました(笑)

今は、お坊さんを呼ばない火葬が増えているので、葬儀会社の方も慣れているようでした。



俊徳丸のお話、これは何度読んでも新鮮に感じます。

許嫁の娘が、容姿が変わってしまった俊徳丸を見ても、逃げたり知らん顔をしたりせず、それどころか一緒に悲しみ、一緒に観音様に祈ったというのは、このお話の最大のポイントに思います。

呪いをかけられた本人が一生懸命祈るならわかりますが、一緒に祈ることは、お互いにとっての自利利他であったと思うのです。

相手を幸せにし、それによって自分も幸せになる。幸せの循環ですね。

一心寺の祈りの言葉をありがとうございます。

わかりやすく、心にす~~っとしみてきますね。



日本では、一生懸命祈る、拝む。それで神仏が願いを叶えてくれたり、呪いを解いてくれるという話が多いですね。

西洋だと、カエルに変えられた王子や、眠らされてしまったお姫様は、王子やお姫様のキスで簡単に呪いが解けてしまいます(笑)

宗教観の問題なのか、他に理由があるのかわかりませんが、特に印象にあるのは、『美女と野獣』でした。

呪いにより野獣に変えられてしまった王子は、野獣として死ぬ直前、ベルのキスを受け呪いが解けて王子に戻りますよね。

ディズニーのアニメも実写版も何度も観たので、ケチはつけたくないのですが、あのギリギリのタイミングであんなに簡単に?? という感は否めません(笑)

俊徳丸のお話のように、一生懸命祈った末に、呪いが解けての感動です。

変わり果てた俊徳丸を見た許嫁の娘が、俊徳丸に口づけをしたら呪いが解けたという話なら、日本では仏教説話どころか、物語にもなりそうにないです(笑)

そのあたりは、西洋と日本との、習慣や宗教、価値観の差なのかもしれませんね。

俊徳丸の話で気づいたのですが、おもしろいのは、日本だけでなく、世界中で、昔から人を呪うという観念があったことです。

魔法使いや禍々しい存在のものではなく、普通の人間が人間を呪うことが普通にあったというのが、なんだか興味深いです。

これは、「神仏を信仰すればご利益がある」の裏返し的なもので、「呪えば相手はきっとひどい目にあう」という考え方もあったのでしょうね。

平安時代あたりの加持祈祷にしても、病気平癒・国家安泰のようないいことばかりではなく、人を呪う呪詛もあったでしょうし、人間は業の深い生き物だと思います。

たいした信仰心を持ち合わせていない私ですが、「祈る、称名を唱える」ということは、その行為だけで救われるような気はします。



前回の農園主さんの記事で、親鸞のお話を伺いました。

先週、私の講座にいつも出てくださる男性と偶然道で会ったので、「お出かけでしたか?」とご挨拶したところ、「そこのホールで親鸞を勉強する会があったので出てました」と。

近くには仏教科のある大正大学もあるので、そこのお坊さんの講義かと思ったのですが、普通の人だと。

よくよく聞いてみると「親鸞会」と言って本部が富山県にあり、その代表者(高森氏)から「入門してください」と言われ、ほぼ義理で富山まで行ったそうですが、入門はお断りしているとのこと。

この会は知らなかったので少し調べてみましたが、認識不足なら申し訳ないのですが、ちょっと胡散臭い団体のようですね。

入門すれば会費を納めるようですし、大学のイベントに積極的に行き、勧誘的なことも行っているので、「幸福会ヤマギシ会」のやり口を思い起こします。

その男性は89才ですが、見た目は70代。

野球をやったり、歌の講座に出たり短歌も作ったりと、毎日元気に忙しく過ごしていらっしゃいます。

認知もないし理知的な方なので、うっかり入信することはないと思いますが、そういう会があったことを知り、びっくりしました。



余談ですが、この夏、住まいの窓枠(サッシ)と窓ガラス&網戸を総取り替えする工事がありました(費用の負担はありません)。

戸数が多いので、3ヶ月ほど経ちますが、まだ終わっていない棟もあります。

ベランダに面した部屋、お風呂・トイレ・キッチンと、5ヶ所なのですが、朝8時から夕方5時までかかるそうで、一日いられる日を指定しなければならず、日程を合わせるのが大変でした。

他の部屋を見ていたら、午後3時くらいに終わっていたので、そのくらいで済むかとふんでいたら、8時半に始まり、午前11時半に終わりました(笑)

おかげで、移動した家具をもとに戻したり、ほこりの掃除など、ゆっくりできて助かりました。

うちは、前にお話したと思いますが、玄関には元三大師の疫病除けの護符、神社の方位除けのお札がはってあり、数々の縁起物もはってあります。

ベランダの窓際には、神棚があってお札がまつってありますし、その脇の本棚の上には、仏様各種(笑)のお札も置いてあります。

「この家、あやしいからさっさと終わらせようぜ」ということで、気合を入れて工事をし、早く済んだのかもしれません(笑)

冗談はともかく、一部屋ひとり以上の職人さんが来て、実に手際よく終わらせました。総勢、10人くらいが入れ替わり立ち替わり来ていました。

終わった後には、防水専門の方が来て、お風呂とトイレの防水工事をしていきました。

窓のサッシのお掃除はいつも苦労していましたが、新品のサッシは気持ちいいですね。


早いもので、もう10月になります。

自治会のお仕事などでたてこむ時期かと思います。

くれぐれもご無理のないよう、お過ごしくださいね( ^^) _U~~

うちは12階ですが、夜は虫の鳴き声がよく聞えてきます。

癒しの声を聞きながら寝るのがこの時期の至福の時間ですが、時折車の音がうるさいので、「車に負けるな!」と応援しています(笑)

2025年9月21日 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する

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すみません。個人的な話なんですが、今回から、一人称を「ぼく」から「わたし」に変更しようとおもいます。

年齢的なこともあるんですが、ことし自治会長をやるようになってから、公的な立場が求められる局面が増えました。

しかしなかなか一度癖づいた「ぼく」という一人称はなかなか抜けず、どうにもこのところ、違和感をおぼえることが多かったのです。

それで、これはトレーニングしていかないととおもった次第で、すみませんがお付き合いください(笑)



東日本大震災では、特に関東から東北の方々にとっては、ほんとうに長い期間トラウマが残る大災害ですね。

14年経ちましたが、どこか過去形にできない感覚があります。

わたしは当時買い物に出ていました。

関西も揺れたらしいんですが、そのときは気づかず、家に帰ってテレビでたいへんなことになったと知りました。

夜、気仙沼全域が真っ赤に燃えている映像をみて、この世の地獄をみたような、どうにもならない暗澹たる気分にとらわれたのがいまだに忘れられません。

テレビでみているだけでこれですから、被災当事者の苦難と心労はとても想像が及びません。

「しばらくの間は服を着たまま寝ていました」とのこと、決して大げさな反応ではないとおもいます。

むかし阪神淡路大震災があったとき、桂文珍という落語家は、いつ地震が起こってもすぐ逃げられるように、トレーラーハウスを買って数年間暮らしたそうです。

客観的にみれば、さすがにやりすぎのようにもおもえますし、奥さんやご家族はトレーラーハウスではなにかと不便なので、ふつうに家で暮らしたそうです。

文珍さんも数年するとさすがに冷静になり、家で暮らすようになったそうですが、被災当事者の強烈なパニックと不安感を考えると、決して極端な反応でもないのだとおもいます。



軍上層部の食事の件ですが、司馬さんは学徒動員で軍人になったとき、軍隊では上意下達さえ守っていれば思想教育もなく、ちゃんとした飯が三食食べられるし、一般人よりよほどよい暮らしができたと言っていました。

もちろん命をかけて死地に赴くわけですが、少なくとも生活面では保障があって、台風の目のような場所だったのでしょう。

むしろ一般人のほうがたいへんで、大人が子供たちに虐待じみた思想教育を行い、まともな食料供給もなく、しかも結果的に戦争に負けるわけです。

子供たちは愛国心をあおるだけあおられたあげく、はしごを外されました。

司馬さんより10ほど離れた子供たちが、じつは戦中戦後のいちばんの被害者だったといいます。



今回、仏教、あるいは宗教についてだけで、かなり長い話になってしまいました。

本質に注目するあまり、みもふたもない救いのない話なので、不快な印象を与えてしまうかもしれません。

あくまで個人的な見解として、ご理解いただけると幸いです。



ギズモさんのおっしゃる現世の救い、死後の救い(現当二世の救い)ということなんですが、宗教において救済の基礎となるのは称名を唱えることですね。

浄土真宗に限らず、称名を唱えるという行為は全世界共通のものです。

キリスト教では祭礼の際に「アーメン」といいます。

あれは意味としては「そのとおり」なんだそうですが、語源をたどっていくと、古代エジプトのアメン神にたどりつくといいます。

またハレルヤという言葉も、「ヤハウェ(ユダヤ教の絶対神)をたたえよ」という意味だそうですね。

加えて英語圏での「ジーザス」とか「オーマイゴッド」など、これらはむかしの日本だと「ナマンダブ(南無阿弥陀仏)」にあたる言葉でしょう。

さすがにわたしの時代では目にしたことはありませんが、日本のむかしのお年寄りは、驚いたり感動したりすると、なにかにつけて「ナマンダブナマンダブ……」と唱えたようです。

戦後、宗教意識の薄れた日本では、日常的に称名を唱える風習そのものがなくなりました。

西洋でも神を直接たたえるニュアンスを避ける人もいて、そういう人は「オーマイゴッド」のかわりに「オーマイグッドネス」なんていうそうですね。



個人が称名を唱えるのは救いを求めてのことでしょうが、組織としては人々がおなじ神仏を尊崇することで結託し、そのコミュニティの中で生きていこうとすることが目的でした。

ときにこの結託は、国家と肩を並べ、あるいは国家を凌駕することもあるほどの脅威となります。

救済とは、宗教組織が設定した後付けの理屈でした。

わるい言い方をすれば救済とは、信仰によるコミュニティを維持するために、馬の鼻面の先にぶら下げたニンジンのようなものです。

もちろん宗教者が衆生をだまそうとしたわけではないのですが、信仰することでなにか直接的ないいことがあるといわなければ、民衆はなかなかついてきてくれませんでした。



日本の仏教説話だと、もう何度も紹介した気がするのですが、俊徳丸伝説が代表的です。

現在の大阪府八尾市高安のあたりにあった長者の息子の俊徳丸は、見目麗しくかしこい子でしたが、継母にいじめられたあげく呪われて業病にかかります。

すっかり容貌の変わった俊徳丸はそのまま家を追い出されて、西へさまよい四天王寺領内で乞食をすることになります。

一年も経ったころ、高安の隣村の長者の、許嫁の娘がやってきました。

彼女はむかし、おさない俊徳丸が四天王寺の稚児舞楽に参加していたのをみてから相思相愛の関係になったのでした。

娘は容姿の変わったこの男が俊徳丸だと一目で気づきます。

そしてお互いひとしきり涙をこぼすと、ふたり一緒に四天王寺にまつられている観音菩薩にお祈りを捧げました。

そうすると不思議なことに継母の呪いが解け、俊徳丸の業病がたちどころに治癒したのです。

ありがたい功徳に感謝して高安へ帰ると、俊徳丸の父は亡くなっており、家は没落、継母は乞食同然の暮らしをしていました。

俊徳丸は許嫁の娘と結婚し、娘の家の後継ぎとなり、長者となりましたとさ……。



この話では、日本最古の本格仏教寺院である四天王寺の観音菩薩にお祈りをすると、現実的な救済があるという物語になっています。

こういった話は、本格的に仏教が大衆に広まり始めた鎌倉時代あたりから、僧侶たちが各村々で話し聞かせたものといわれています。

人々は「仏さまを拝めばわかりやすい現世利益が訪れる」という利益誘導を喜びました。

原理的な小難しい理屈を言ったって、大衆はさっぱり理解してくれないのです。



しばらく話がそれます。

前回、大衆に仏教が広まったのは鎌倉時代からだといいました。

しかし仏教の布教と、民衆の統率の試みは奈良時代にも行われていたのです。

こういった大衆への布教の元祖は行基(668~749)でした。

かれは民衆への布教が禁止されていた西暦700年ごろに、朝廷のいうことをきかず民衆に仏教の功徳を説き、地域に橋をかけたり道をつくったり、民衆の自立をうながしました。

行基の生没年は、空海の生没年からほぼ一世紀前です。

このころは奈良仏教、南都六宗が隆盛を極めており、行基は玄奘三蔵(602~664)の教えをもとにした法相宗という、当時はまだあたらしい宗派に属していました。

玄奘が亡くなってすぐ行基が生まれた、というくらい近い年代の人ですから、いまでいう仏教系の新興宗教のようなものですね。

この行基の活動が政治的に無視できないほど大きな反響を呼んだのです。



はじめ朝廷は行基を反逆者とみなし弾圧しました。

朝廷にとって、行基の行動は民衆を団結させ、民衆に自治を行わせるという点で、きわめて危険だったのです。

しかし民衆と積極的にかかわり、絶大な信頼を得ている点で政治に利用できるとわかると、朝廷はにわかに行基を持ち上げました。

朝廷が民衆のリーダーである行基を取り込むことで、クーデターを抑え込んだとも考えられます。



行基の生きた時代は、ちょうど三世一身法の時代でした。

つまりあたらしい土地を開墾したら、三世代の間だけは所有権を認めてやるという制度です。

ようするに当時の朝廷は仏教の独占に限らず、なにかにつけておそろしくケチでした(笑)

利己的で独占欲の強い朝廷に対して、行基は徹底して利他行をおこない、民衆の暮らしをよくしようと努力します。

三世一身法については結局、民衆の労働意欲が落ちてどうしようもなくなったので、朝廷側が譲歩して、わずか20年後には墾田永年私財法として、開墾した土地はいつまでも民の所有物と認める、としました。

行基が亡くなったのは墾田永年私財法ができてから6年後でしたが、このような革新的な制度が比較的短期間に成立したのは、当時の仏教勢力がそれだけ政権の脅威となっていたことを物語っています。

行基の死後、朝廷は手のひらを返し、やはり大衆への仏教流布は禁じられることとなりました。

しかし墾田永年私財法はその後、関東を開拓した農場主たちがじぶんの土地を守るために武装して、武士の世をつくるきっかけとなります。



行基が亡くなったとき、のちの桓武天皇はまだ12歳。

桓武天皇は都を奈良から京都に移した天皇ですが、行基以来、要求の肥大化した仏教勢力にほとほと手を焼きました。

そのため、都を移してからは南都六宗を遠ざけて、あるあたらしい宗派を優遇するようになります。

それが真言宗(空海)と天台宗(最澄)でした。

ですので、源氏物語で加持祈祷を行っていた僧侶たちは、ギズモさんのおっしゃるように密教だったことでしょう。

仏教勢力の増長によって都が引っ越しまでしなければならなかったのは、単に政治的に結びつきすぎたという話以上に、民衆を結託させ、朝廷の政権を転覆させかねない危うさをもっていたからでした。



こういった歴史をみると、仏教が国家によって独占されていたころから、民衆の仏教需要が高かったことがわかります。

民衆はまとまりのないじぶんたちの暮らしに規律を与え、コミュニティを作ってくれるリーダーを欲していたのでしょう。

それでも長い間、仏教は権力者によって独占されていました。

当時から都を出て全国を行脚する僧侶が各地に寺を建てたりはするのですが、民衆を団結させてコミュニティを形成するリーダーは現れませんでした。

鎌倉時代以降、大衆仏教を広めた開祖たちが、ようやく各地でリーダーシップを発揮し始めたというわけです。



話をもとに戻しますが、民衆はむずかしい理屈がわかりません。

その点、親鸞は極めつけで「南無阿弥陀仏だけ覚えなさい。それ以外はなんにも知らなくて大丈夫だ。それだけ唱えていれば、必ず阿弥陀仏はお前を極楽往生させてくれる」と言いました。

シンプルな教えが民衆にウケたのは言うまでもありません。

あまりに極楽往生のハードルを下げてしまったものだから、どうせ極楽往生できるならと遠慮なく悪事を働く者が出てきたくらいです。

それで親鸞はあらためて「薬があるからといって毒を好んではならぬ」(極楽往生できるからといって、この世で悪事を好むようなことはするな)と戒めなければなりませんでした(笑)

実際に阿弥陀仏が死後の衆生を救ってくれるかどうかはさておき、親鸞は厳しい時代を生きる人々を安心させることには成功したといえるでしょう。

しかし実際の信仰の効能は、先ほどもいったように救済にあるのではありません。

「南無阿弥陀仏」の称名を唱える仲間たちによるコミュニティをつくるところにありました。

これはおなじ思想を持つ同志で結ばれるわけですから、非常に強固な結びつきになります。

現在のように人々が守るべきルールが機能していなかった時代に、仏教の教義は最低限の法律となりました。

この法律に従って暮らしているぶんには、コミュニティの仲間は支えあって生きていられる。

きょう一日の飯を仲間同士で分け与えながら食っていくことができるわけです。

そしてかれらは徐々にじぶんのコミュニティを自立させ、国のような堅牢なものにしていきます。

結果、朝廷が警戒していた事態は、戦国時代に現実のものとなります。



信長が一向宗(浄土真宗)と合戦を行ったのは、一向宗がすでに大名と同等にみなされるほどの力をつけていたからです。

そして本願寺側から信長に戦争を吹っかけ、各地で一向一揆が起こりました。

その間、当然大量の一向宗徒の血が(もちろん信長軍の血も)流れました。

また天台宗の比叡山延暦寺も、信長によって焼き討ちにあいますが、こちらはいよいよ悲惨で、僧兵のみならず、学者から子供までが虐殺されました。



宗教コミュニティが武力を用いて戦争をする、というのは洋の東西を問わずよくあることですが、これではまったく救いがありませんよね。

いくら敬虔に宗教を信じても、戦争になれば人殺しをしなきゃならないかもしれません。

いくら神を信仰しても、理不尽に殺されるときには殺されます。

病気で若く死ぬかもしれないし、俊徳丸のように四天王寺でお祈りをしても報われないかもしれません。

逆に、宗教に背を向けていても幸せに生きることができないとは限らない。

ギリシャ神話にせよ日本神話にせよ、神はもともとは、荒ぶる存在だったようです。

決して救いを与えたりはせず、ただひたすら人間の脅威であり、人々は神々を畏怖し、おまつりして、鎮めなければならなかった。

それがどこかで、目に見える形で救いを与えるような存在へ変貌していくんですね。



ところである仏教学者が言ってましたが、仏教の原理は非常に厳しいもので、甘いことなんて一切言わないというのです(笑)

事実、仏陀は生きることの本質は苦しみだといいましたし、わかりやすい救済はそこにはありません。

以前、般若心経についてお話したときに、般若心経は無と無限をつないだわっかのようなものを説いているといいました。

命はみなこのわっかのひもを端から端へ渡っていきます。

虫も、花も、動物も、生まれたところからひもを渡りはじめ、そして死んだところがひもの終端です。

このひもは、命そのものといえるでしょう。

そしてこのひもの両端は、かたほうが「無」で、かたほうが「無限」になっています。

このひもの端っこをつないでわっかをつくると、無と無限がくっつきますよね。

以前、この話がむずかしいとおっしゃっていたとおもうのですが、今回はこの話をもう少しちがったアプローチで話してみようとおもいます。



わたしたちは死ぬと、実体を失って、無限の宇宙に還ります。

そして同時に、次の命の準備をします。

わたしたちは死んだら無限の一部になりますが、これから命になろうとしているわれわれは、まだ実体のない無です。

無限と無を区別することはむずかしいのですが、実体を失って無限の宇宙に溶け込んだあと、またなにかに生まれることを1とする前提で考えれば、まだなにもないゼロ、無の存在でもあるというわけです。



わたしたちは死んで無限になり、同時に命を目指す無となり、そしていつかまたほんのひと時、形あるなにものかとして、わっか(ひも)を渡ります。

そしてこのわっかの終端までいけば、また無限へ還り、そして命に向かう無をさまよい、いつか時がくれば生まれ、ひもを渡る……ということを繰り返す。

しかし般若心経は、一瞬だけ命を得た実体のあるわれわれでさえ、じつは「存在がある」とおもい込むのは勘違いなんだぞ、ということを言っているのだと解釈しています。



実際わたしたちは動物として必要だから感覚をそなえて生きているけれど、植物の場合は感覚器官がなくても生きていますよね。

人間でも、感覚器官が欠損した状態で生きている人がいます。

たとえば蓮はうつくしい花を咲かせますが、当の蓮には目がないので、じぶんがどのようなうつくしい花を咲かせているか、知ることはできません。

なので、じぶんが命を生きているということと、じぶんが存在しているという感覚を結びつけるのは勘違いだという般若心経はたしかに正しいんです。



しかしこんな感じでいくら仏教の原理を突き詰めたって、だれも得をしませんよね(笑)

仏教の原典を掘り下げていけば、お金ががっぽり手に入る、病気が治る、子宝に恵まれるといったわかりやすいご利益はないわけですから。

むしろそういう期待は、仏教を信仰すればするほど裏切られるといえるでしょう。



その点、やはり仏教の原理は厳しいとおもいます。

しかし、この無常観を基礎として、その上に人生という建物を築いていくのでないと、どこかで建物がぐらぐらしてしまうというか、人生が行き詰ってしまうようにもおもえます。

特に現代のように、じぶんの分限をはるかに超えた豊かさでじゃぶじゃぶになっている場合、その豊かさが剥奪されるだけで、じぶんのはかなさに耐えられなくなることでしょう。

なぜかというと、社会の豊かさは虚飾であるという無常を自覚していないからですね。

豊かな時代であれ、あるいは厳しい時代であれ、われわれはただ生まれた時代の環境に翻弄されるばかりのちっぽけな存在であり、仏陀が考えた四苦八苦のように、苦しみばかりが本質のむなしい存在です。

苦しくむなしい、ひどく頼りない存在であることが自覚できてはじめて、ギズモさんのおっしゃった自利と利他のような規範で、いま生きている間だけでもみんな手を携えていこうじゃないかという、地に足のついた謙虚な一歩が踏み出せるのではないかとおもっています。

それはおそらく、現当二世の救いの第一歩でもあるように感じています。



今回、落語の話などいろいろとお返事したいこともありましたが、仏教の話だけでかなり長くなってしまいましたので、いったんここで筆をおきます。

最後に、大阪の天王寺にある一心寺の存牟堂(ぞんむどう)ミュージアムにあった詩です。

これも以前紹介したかもしれません。

まず自利が満たされなければ、利他が広がっていかないという、人間の業を肯定してくれるメッセージだとおもっています。

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2025年9月13日 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する

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途中で断念してお帰りになったにしても、ずいぶんいろいろなところを回っていらしたんですね。

当時は余震もずいぶん続いていたし、不安なことも多かったかと思います。

ついこの間のような気がしますが、地震からもう14年も経つんですね。

しばらくの間は服を着たまま寝ていましたし、お風呂もささっとすませていました。

船に乗っているような、足元がぐるぐるする感覚も、けっこう長いこと取れませんでした。

地震が起きた時に近所の信用金庫にいたのですが、すぐに外を見てみました。

あの揺れで車が普通に走っているのがとても不思議でした。

地下鉄も電車も緊急停止していたかと思うのですが、車が急に止まったら、それも怖いですね。



仏教の移り変わり、とてもわかりやすく説明していただき、ありがとうございます。

源氏物語は親鸞の時代より前だと思いますが、病気は物の怪の仕業と考え、僧が加持祈祷をする場面がみられます。

密教なのでしょうが、この頃の仏教は、衆生を救うものではなかったのですね。

実際に大衆を救うことからかけ離れ、『金持ちは僧侶を集めてお祈りをして、それでじぶんは国や民を救う善人だとおもい込んで』いたというのは、いつの世でもお金持ちや特権階級にありがちな、意識のずれですね。

悪いことをしているわけではないですが(欲得にからんでいたとしても)、「いいことをしている」と思うこと自体、あまり感心できることではありません。

人のために何かをして「あげた」という考え方より、「お互いさま、おかげさまで」の心が、自分も周りも救うように思います。


一般庶民のための仏教に推移していったのは、庶民を救うという大義以前に、食いっぱぐれた仏教者を救済する手立てだったんですね。

大衆仏教を広めた宗派の開祖が、様々な圧力に負けず、一般庶民のための仏教を確立していってくれたことは、現代の日本人にとって、とてもありがたいことだったと思います。



『羅生門』の話ですが、人間は極限の状況におかれると、生きるためには悪を悪と思わなく(認めなく)なったり、善悪があいまいになったりと、善人も悪人も紙一重になっていきますが、戦争中も同じような状況、精神状態になった人が多かったかと思います。

食べものがなく、カエルを食べたり飢え死にしたりする人がいて、戦地で人を殺さざるを得ない人がいて、特攻などで死んでいく人がいる中で、軍部の上の組織の人間は、白米を食べお酒を飲み、様々な快楽に浸っていたわけですが(そうでない人もいたのでしょうが)、それもお国のため【書き足し:日本を戦争に勝たせ、国民を救うために、上に立つ人間としての役目があった】という大義名分があったわけで、これは親鸞以前の金持ちや僧侶の在り方と似ている気がしました。

『耐え難きを耐え、忍び難きを忍び』という言葉も、一部の階級の人たちには、通用していなかったのでしょう。

小学生の時に学童疎開をしていたという、親戚の人から聞いた話では、東京より農作物などがあるという話だったのに、結局疎開先でも食べ物がなく、みんな、ひもじい思いをしていたそうです。

親元から送られてくる薬(錠剤らしいですがなんの薬かはわかりません)をかじったり、親が作って送ってくれたお手玉の中に入っていた生の小豆を、友だちや先生に内緒で、こっそり食べたりしていたと聞きました。

そのように食糧事情の劣悪な時代に育った日本人ですが、けっこう長寿の人が多いのには驚きます。

むしろ、食べ物に困らない現代の人の方が、健康状態は悪いかもしれませんね。

朝起きて夜は寝る、そんな当たり前の生活をしない人が増えているのも、どんどん不健康になっていく原因でしょう。

やむを得ない場合は別として、食べ物に気をつけること、規則的な生活をすること。それを守るだけで、一定の健康は維持できるように思います。



現代は、信仰心のあるなしに関係なく、気軽に寺社仏閣にお参りすることができます。

絵馬をたまに見てみるのですが、「宝くじがあたりますように」、「病気が治りますように」、「○○大学に合格しますように」などという個人の願い事の他に、「世界が平和になりますように」などという、願い事も多くみられます。

仏教では(浄土宗では?)、自利と利他は切り離せないものとしており、両面を兼ね備えることを理想としていますね。

これをものすごくわかりやすく言えば、自分が幸せになると同時に、他人の幸せを願うこと。

これは、簡単なようですが、とても難しいかもしれないと思います。

誰かのためになにかしても、その相手が幸せだと感じてくれるとは限らないし、自分の幸せにしても、感じ方は変動するもののような気がします。

「自分が幸せでなければ人を幸せにすることはできない」と言いますが、とても奥の深い言葉だと思えます。

少し話がとびます。

外国の哲学者が言った言葉なのですが、誰の言葉だったのか思い出せません。

「生きている時に神を信じないで、死んだ時に神がいたとわかった。生きている時に一生懸命神を信じていたのに、死んでみたら神はいなかった。このどちらが幸せだろうか」という内容のものです。

親鸞の『現世利益和讃』では、「念仏を唱え、阿弥陀様を信じることが、人間の煩悩による迷いや不幸から解放され、信心を喜ぶという、この世で最も大きな利益である」と説いていますね。

反面、来世利益も、浄土宗では同時に説いています。

『現当二世の救い』というそうですが、さきほど例にした海外の哲学者の言葉は、言わんとするところは違うのかもしれませんが、人間であれば、現世と来世、双方の利益を望みたいところかと思います。

身も蓋もない考え方ですが、神仏がいるかいないかは、死んでみたところでわからないかもしれないですよね。

だったら、いないんだから信じても無駄と思って生きるより、いなくてもいいからちょっとだけでも信心して生きてみようかな、と思うのがベターなのかもと。

死んだ時に神仏がいなくてショックを受けても、それはその時のことで、信じて生きてきたことを後悔することはなさそうに思います。

確固とした信仰を指しているのではなく、『神仏はいるかもしれない』程度の意識でも、自分が幸せになり、人を幸せにすることに、大きな効果(この単語は適切ではないかもしれませんが)があるように思えるのです。

さて、支離滅裂になってきたので、この話題はこのへんで(笑)



そういえば、と、話がまたもとに戻ってしまいますが(笑)

畠中恵のしゃばけシリーズはずっと読んでいますが、最新刊で、「天照大神と大日如来は同じ」ということがサラっと書かれていました。

まわりくどい説明がないので、本地垂迹の話を知らない人は、創作の一部だと思うかもしれませんね。



古典落語でも、改変することはあるんですね。

農園主さんのように落語に詳しい方が聞くと、通常の噺と変わっているとか、ここを端折ったとか、それこそ枝雀さんのようにうっかり飛ばしてしまったとかがわかるのでしょうが、あまり詳しくない人が聞いたら、これが『崇徳院』という落語なんだな、と認識してしまうわけですが、それもおもしろいですよね。

本を読んで、ストーリーを知るだけでも楽しいものですが、いろいろな噺家さんの落語を聞いて比べてみるのは、落語の醍醐味だと思います。

落語では長屋がよく登場しますが、釘が隣に、という話は、長屋の造りを知らないと、わかりにくいかもしれませんね。



同じ演目を話していても、マクラが長年同じということもないでしょうが、毎回違うということも、あまりないのかもしれませんね。

でも、聞く方も話す方も、マクラが変わると新鮮ですね。

3代目桂米朝の『鹿政談』、NHKの配信が見当たらなかったので、ニコニコ動画で見てみました。



https://www.nicovideo.jp/watch/sm4514275...

農園主さんがごらんになったのは、同じものでしょうか。

枝雀さんよりはゆっくりですが、それなりに早口なのに、明瞭で聴き取りやすいですね。

上方落語に武士がでてこない理由を話していましたが、そのうち奉行や奈良の燈籠、鹿の話になったので、本題に入ったかと思いましたが、マクラでしたね(笑)

確かに15分ほどありました。



上方の落語家さんが、noteに『鹿政談』を興味深く解説したものを見つけました。

噺家さんによって、お奉行の名前が違うというのは、ユニークですね。

https://note.com/monshiro/n/n24f611fa1f4...





鶏ガラスープのレシピをありがとうございます。

野菜も入れるんですね。

圧力鍋がないので(安全とわかっていても怖いから( ̄▽ ̄;))、気長にじっくり作ってみます。

日本では、風邪を引いた時や胃腸の調子が悪い時は、おかゆやおじやで、あまり汁物を積極的に摂ったりしないですが、西洋だと鶏のスープが定番らしいです。

おかゆよりよほど栄養、滋養がありますね。

鶏でも豚でも牛でも、骨がついたものを煮込むとおいしいですよね。

骨には、驚くほどのうまみがあることがよくわかります。



いくらか、涼しくなってきました。

今年の夏は例年の暑さと違うせいか、ふだんは飲まないソフトドリンクや、ゼリーをちょっと摂りすぎました。

最初は気にせず飲んでいたのですが、人工甘味料を使った飲料・ゼリーが多いことに気づき、それからはよく見て買っています。

果糖ブドウ糖液糖という甘味料は、安心と思い込んでいましたが、これもよくないんですね。

飲料以外にも入っているので、シャットアウトは難しいですが、ほどほどにしたいと思います。

2025年9月5日 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する

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牛久大仏、ギズモさんのご記憶の通り、東北に旅をしたときに訪れました。

ほんとうは仙台まで行きたかったんですが、宮城県に到着して車中泊をしていたところ、地震に見舞われました。

震度5~6くらいだったのですが、これが余震の可能性もあると考えると、もうぼちぼち潮時だとおもい、帰ることにしました。

その帰りの道中で牛久に立ち寄った次第です。

そんな時間はなかったのですが、できることなら岩手県、青森へ向かい、さらに日本海側から今度は秋田、新潟と観光ができればよかったなとおもいます(笑)



牛久大仏は浄土真宗ですが、開祖の親鸞の言葉として伝わる有名な言葉があります。

「善人なおもて往生をとぐ。いわんや悪人をや」

ご存じとはおもいますが、これは悪人正機という逆説で、善人を自称するような無自覚な人間でさえ極楽往生をするのに、悪人を自覚している者が往生できないはずがない、という意味です。

親鸞は、阿弥陀如来は本来、悪人をこそ救いたいと願っているのだ、といいました。

では、どういう人が悪人で、どういう人が善人だったのでしょう。



当時の世相を考えると、京の都は度重なる飢饉で生活困窮者があふれていました。

それこそ芥川龍之介の『羅生門』のように、死人の衣服をはぎとってそれを売って生活せざるを得ないような人もいたわけです。

それどころかとことん追い詰められれば、餓死者の死肉で食いつないだというような者すらいたことでしょう。

そのような者たちは「この世を生きても地獄、死んでなお地獄に落ちる」という、どうしようもない苦しみの中で生きざるをえませんでした。

かれらはじぶんが罪深いことをイヤというほど自覚して、じぶんは悪人だという責め苦の中で生きています。

それに対して、都の貴族は飢饉などの災害が起こると、寺院を利用して加持祈祷を行いました。

そんなことのために庶民から吸い上げた税を浪費したのです。

都の足元で餓死者が出ている惨状にもかかわらず、金持ちは僧侶を集めてお祈りをして、それでじぶんは国や民を救う善人だとおもい込んでいるのです。



都が奈良から京都へ移った平安時代には、仏教の考え方も変遷しています。

つまり、国のための仏教から、一般庶民のための仏教へと軸足を移しつつありました。

こういう変化がなぜ起こったのか。

元をたどると奈良時代に仏教権力が増長しすぎて、政治に口出しをするようになったからです。

こういった仏教勢力のありようを朝廷の貴族がいやがって、都を京に移しました。

京では加持祈祷は行うのですが、平安京内にあたらしい個人的な仏教寺院を建築することは禁じられたんです。

すると、これまで奈良朝廷のもとで甘い汁を吸っていた僧侶たちの多くは食いっぱぐれますよね。

国家鎮護のための仏教が、ほかならぬ朝廷によって半ば否定されてしまったわけです。

食いっぱぐれた仏教者は、なんとかしてあたらしい食い扶持を見つけなければなりません。

そこで民衆というあたらしい分野で信仰を獲得するようになり、各宗派によって苛烈なシェア争いが起こったわけです。

実際、民衆は苦しい暮らしの中でも、僧侶たちを養ってくれました。

これが、平安時代に仏教が大衆化し、さらに多様な宗派が生まれた原因です。



国家守護のための仏教を伝統的にやっている側からすると、大衆に仏教を広めようといって出て行った連中が気にいりません。

親鸞もそうですが、法然や日蓮など、大衆に仏教を広めた宗派の開祖がよく流罪にあったのは、それだけ政権や伝統的な寺院勢力から目をつけられていた、ということです。

しかし大衆仏教を広めようとする側からすると、庶民の苦境や暮らしのありように目を向けず、かれらから吸い上げた税でよい暮らしをし、加持祈祷で世のためになにかしているような気になっていることが気に入らない。

うがった見方をすれば、親鸞はこういう連中を皮肉って「善人」と言ったのかもしれません。



そのように考えていくと、浄土真宗の建造物である牛久大仏は、開祖の親鸞が望んだものだったのかどうか。

ああいった金満な大仏を建立することは、たとえバブル期の国民総中流が実現された豊かな時代だといえども、非常に「善人」的な所業です。

もちろん「善人なおもて往生をとぐ」ですから、牛久大仏におまつりされた方々も阿弥陀如来は救ってくれるでしょう。

しかし浄土真宗の側で、阿弥陀如来が本来救いたいのはそういう人ではなかったはずだ、という根本的な問いかけがなかった点で、個人的にはどうもあの仏教テーマパークにはいい感じがしないのが正直なところです。

もちろん、もっと手前のところまでたどって、そもそも親鸞たちが、シェア争いのために大衆仏教を開拓したという視点でみれば、非常に人間的たくましさや人間的あさましさにあふれており、金満な豊かさを求めていくことこそ、宗教の本来のありようなのかもしれません(笑)



桂枝雀の「宿替え」、ご覧になったんですね。

あの話は江戸落語では「粗忽の釘」として知られる話です。

夫婦で引っ越しをするんですが、粗忽者(おっちょこちょい)の親父がほうきをかけるフックがないからというので、あろうことか屋根の瓦と瓦を止める特大の瓦釘を長屋の薄壁に打ち付けてしまいます。

釘が隣の壁を突き抜けてしまったはずだとおかみさんにどやされて、親父がお隣さんのところへ行ったら、お隣の仏壇の阿弥陀仏のそばから釘が突き抜けていました。

当然隣人は仰天するんですが、親父は「えらいことだ。あしたから毎日ここまでほうきをかけに来なければならんのか」とボケたことを言う。

それだけの噺ですね。



枝雀さんはこの親父をずいぶんにぎやかに演じています。

あの番組では、胴くくりを畳にもかけていたせいで荷物が持ち上がらない、というくだりがなぜかおかしなことになって、話の段取りが狂ってしまったんですね。

それをアドリブでつないでいく当意即妙がみられましたが、そういえば枝雀さんの「宿屋仇」という落語では、終盤に見台が壊れて、それをアドリブで取り繕うなんてこともありました。

枝雀さんは舞台上のアクシデントが多い人でした。

なにせ話すスピードが桁違いに速いので、枝雀さん自身でもついていくことができず、軽いトチりがよくあったんです。

CD音源の落語を聞いていると、間違えるたびによくこの手のアドリブをやっていて、大いにウケています。

枝雀さんはビートたけしより8つほど年上なんですが、あの時代の漫才は非常に速かったんです。

速い芸というのが、当時の落語でももてはやされていたんでしょう。

江戸だと志ん朝さんは枝雀さんとほぼ同世代ですが、あの人も演目の佳境に入るとものすごい早口で、しかも正確でした。

その点現代の落語は、あまり速さを求めないようです。




枝雀さんは古典落語でも気に入らないと改変するというような、大胆なことをするんですが、たとえば「崇徳院」という落語があります。

崇徳院というと、「瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に あわんとぞおもう」が有名ですが、この句が落語の主題になってるんですね。

大阪の高津神社にお参りしたときに、一瞬だけ出会った女性に恋煩いをしてしまった船場の若旦那。

この若旦那は女性から「瀬をはやみ岩にせかるる滝川の」と書かれた紙をもらっていました。

当然下の句は「割れても末に あわんとぞおもう」ですから、女性からの、またお会いしたいというメッセージなんですよね。

それで若旦那がお店の熊五郎に相談して、熊五郎が単身、女性を探すことになります。

しかし少ない手掛かりで広い大阪をどうやって探せばいいのか。

途方にくれるんですが、往来を大声で「瀬をはやみ! 岩にせかるる滝川の!」とわめきながら歩いたりと、何日もすったもんだします。

それでも結局手掛かりが得られず、疲労の極の中、最後に入った床屋で、主人と客がくだんの女性の話をしているのを耳にするんです。

するとどうやら向こうもお店のご令嬢で、若旦那のことをおもって恋煩いしている真っ最中なんだそうな。

おどろいた熊五郎が客に詰め寄ります。

相手も急にご令嬢の恋煩いの相手の手掛かりが知れたものだから、喜べばいいのにけんか腰になり、もみあいになるうちに、床屋の鏡が割れる。

床屋の主人が「どないしてくれるねん」というと、大喜びの熊五郎、

「心配しなさんな。割れても末に買わんとぞおもう」

という、これが一般的なサゲです。



枝雀さん、このドタバタするばかりで要領を得ないサゲがイヤだったんでしょう(笑)

最後、熊五郎と客がもみあいになったところで話を区切って、

「探す相手がめでたく知れて、一対の夫婦(めおと)が出来上がります。『崇徳院』という、おめでたい一席でございました」

と、サラッとサゲてしまって、ふたりが夫婦になれたと伝えるんですね。

この夫婦になったというのは枝雀さんのサービスで、本来の古典にはそのようなくだりはありません。

でも、個人的にはじつに心根の温かい、よい改変だとおもいます。



ところで、けさNHKで桂米朝の「鹿政談」をみました。

おどろいたことに、マクラが15分以上。

演目より長い時間のマクラでした。

枝雀さんの「宿替え」ではほとんどマクラがなかったでしょう。

調べてみたら、30秒でした。

枝雀さんの師匠が米朝さんですが、伝統の師匠と革新の弟子といった感じで非常に対照的なおもしろみを感じます。



鶏がらスープの件なんですが、レシピというほどのものはありません。

つかうのは玉ねぎやニンジンといった、カレーにつかうような香味野菜と、あとは塩だけです。



鶏がらと野菜と水を鍋に入れて……ぼくの場合は圧力鍋に入れますが、野菜が溶けて、鶏がらのうまみがすっかり出てしまうまで、じっくり煮ます。

圧力鍋の場合、あくとりはできませんが、玉ねぎやニンジンくらいならアクは気になりません。

あとは鶏がらを引き上げて、塩で味をととのえていきます。

やることはこれだけで、これが基本のスープになります。

余計なことをしないので、老若男女問わず優しい味付けのスープになるとおもいます。

逆にいえば、余計なことをしないのがコツかもしれません(笑)



ここから、たとえばニンニクやショウガ、白ネギやセロリなど、さらに香りの強い野菜を足して複雑な味付けにしてもよいでしょうし、いまの時期だと仕上がったスープに焼いた夏野菜を足してもいいとおもいます。

もちろんコショウを加えたり、バジルを加えたり、やろうとおもえばいくらでも足し算ができます。

母に出したのは、基本のスープでした。



そういえば、最後にカエルの件でひとつ、こんな記事をみつけました。

https://tanba.jp/2025/08/%e5%af%82%e3%81...

戦時中、兵庫県尼崎の杭瀬から丹波に疎開した児童が書き残した記録で、

「終戦直前には、田んぼ畑に跳んでいる普通の蛙を、自分で皮をはぎ、塩焼きにして食べた経験、これは三匹までは美味、五匹以上は青臭さが鼻について食べるのは無理」

とあったそうな。

田んぼにいるカエルというのは総じて小さくて、非常に歩留まりがわるく、肉として食べられるところは一匹20gもないとおもいます。

これを3匹までしか無理だったというんですから、50gも食べないうちに、嫌気がさすようなものだったんですね。

戦時中の飢えた子供でさえ「食べるのは無理」というんですから、救荒食にもなり得ない食材ということだったのでしょう。

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