No.1497
1496
今回はかなり長い記事になりました。
ちょうど終戦に近い時期ですが、とりとめのない話なので、適当に拾いやすい話題を拾っていただければとおもっています(笑)
『昭和天皇物語』、読ませていただいています。
むかし、作画の能條純一さんの将棋の漫画『月下の棋士』を読んだことがあります。
画力のある漫画家さんですが、やはり女性が積極的に読みたい絵柄ではないですよね(笑)
東郷平八郎の意には沿わない学者が「天皇の耳には入れたくない授業」をする話はたいへん興味深かったです。
しかしかれらはその道の学問を究めたからこそ、軍国イデオロギーに毒されずにいられたわけで、そのようなリベラルな教育は天皇にのみ施されていたんですよね。
いま現在のわれわれにとって常識のような学識は、大正当時には、天皇にのみ与えられるような特権的なものだったわけです。
国民に向けては、明治・大正・昭和とグラデーションがかかっていくように、徐々に国粋主義的な愛国教育が幅を利かせるようになりました。
とりわけ大東亜戦争に至ってからは国民への思想教育は苛烈を極めました。
ただ、この思想教育はかならずしも軍部だけが積極的におこなっていたというわけではありません。
教育勅語やマスコミの煽りを軸に、国民に火がついて、国民同士でお互いに思想教育をやりあい、「軍部を育てた(増長させた)」という一面が強かったのです。
以前この話をしたかもしれませんが、司馬遼太郎の随筆集『この国のかたち』に、こんな話がありました。
司馬さんは学徒動員で軍隊を経験しているんですが、かれが還暦を越えたあたりで、10歳ほどしか違わない下の世代たちと会う機会があったそうです。
そこで「ボクの青少年期には、天皇ということはあまりいわれませんでしたよ」と話しても、相手に理解してもらえなかったといいます。
なぜかというと、大正生まれで強制的に軍人になった人は、むしろ世間から隔離されていて、軍隊での上意下達さえ守っていれば、三食食えていたし、特に「天皇のために死ね」というような思想教育はほとんどなかったらしいのです。
しかし戦争末期に少年だった昭和生まれの世代は、多感なころに周囲から「天皇は絶対である」という思想教育の虐待を受けていたんですよね。
だから、司馬さんが軍隊で天皇についてうるさくいわれなかったということは、たった10歳ほど下の世代には、よく理解できなかったそうです。
司馬さんいわくこの昭和ひとケタの世代は、「精神の上で、最大の戦争の被害者」なのだそうな。
その虐待というのは、たとえば小学校でさえ軍隊的に組織され、校長が連隊長、学級長が小隊長といった具合で、生徒たちはこれら隊長の命令で、真冬でも裸足で登下校させられたといいます。
もちろんそういった命令は、各学級に飾られている天皇の肖像画のもとにおこなわれるわけです。
司馬さんはこの話を仙台で聞いたというのですが、当然東北の仙台ですから、冬の寒さはたいへんなものだったでしょう。
ぼくが子供のころにある教師から聞いた話だと、集団疎開先のお寺で、出された食事が合わず、廊下で戻してしまったところ、教師から「お国が危急存亡の中、申し訳ないとおもわんのか」とさんざんぶん殴られたあげく、吐いた吐しゃ物を飲まされたというのです。
その伝聞がほんとうかどうかはぼくにはわからないのですが、ぼくの心に強烈な印象を残している話です。
少なくとも、当時の国民同士が目の色を変えて、子供に異様な教育をしていたのは間違いないでしょう。
半藤さんの『日本のいちばん長い日』では、天皇や陸軍大将を含む政治中枢がポツダム宣言の受諾を決めた……つまり敗戦を受け入れるとなったときに、陸軍の青年将校たちがクーデターを起こそうとしたところを描いています。
上官が決めたこと、不可侵の神である天皇が決めたことであるにもかかわらず、青年将校という若手の立場にある連中が、軍国イデオロギーに染まり切って、「最後の最後まで戦い抜いて、国民も総玉砕せにゃならんだろう」といって、ポツダム宣言受諾を阻止しようとする。
大東亜戦争はもっと早く、原爆が落とされるより前に終わらせられなかったのか、という話もありますが、もはや軍の上層部も、天皇でさえ、国民の意志がああも盛り上がってしまっていては、中途半端なところでは止めるに止められない状況だったのだとおもいます。
話を天皇に戻しますが、たとえばヒトラーは典型的な西洋的な皇帝の性質をもっています。
ヒトラー自身が非常に頭のキレる人間で、大衆扇動や組織の統制もみずから行っていました。
西洋の皇帝の代表といえばナポレオンですが、かれもたいへんなキレ者で、この優秀さが独裁につながっていきます。
そういう意味では昭和天皇はやはり東洋的な皇帝でした。
昭和天皇も賢い人ではありましたが、西洋の独裁者のような一代限りのカリスマとは一線を画しています。
今回の大河ドラマの「光る君へ」もそうですが、日本では天皇は官僚の傀儡(あやつり人形)のようになってしまうんですよね。
中国の皇帝もそうなんですが、天皇自身が独裁的に社会を動かすという例は、ほとんどありません。
天皇は世襲制で、どんなに愚昧でも、どんなに幼少でも、官僚が支えていくんですよね。
そのかわり、たとえ優秀でキレ者の帝であっても、やはり天皇はシンボルにすぎず、官僚が実質的に国家を動かしていくわけです。
しかし昭和天皇は独裁者となった瞬間があります。
それはポツダム宣言受諾のときと、それから漫画の最初にも描かれていましたが、マッカーサーとの会談のときだったといえるでしょう。
昭和天皇は終戦に向けて動き出し、鈴木貫太郎を総理大臣に、阿南惟幾を陸軍大将に推します。
かれらは天皇の親衛隊ともいえる理解者でしたから、天皇はかれらを政治中枢に据えることで、終戦への道筋をつけたといえます。
そして戦後、マッカーサーに対して命乞いをせず、それどころか国民を救うように求めたこと。
このふたつの大問題において、若き天皇はだれにもおもねらないじぶんの采配によって国民の運命を決定づけたんですよね。
戦後日本人は昭和天皇に戦争責任を問いましたが、皮肉なことに、昭和天皇は大東亜戦争を終わらせ、終戦後に国民を守るときにだけ、明確に独裁者だったというのがぼくの解釈です。
ところで、半藤一利さんなんですが、あの人は司馬遼太郎が書けなかった昭和について書いたという点で、司馬さんの後継者のような存在なんですよね。
実際司馬さんの担当編集者だった時代があり、司馬史観をじゅうぶんに吸収した人でもありました。
司馬さんは敗戦を経験したときに、日本という国に絶望しました。
それでむかしの日本人はもうすこしマトモだったんじゃないか、古い日本人のよさを発掘していこう、と考えたところから、歴史作家のキャリアがスタートするんです。
結果、日本史を鮮やかに切り取ってヒーローを生み出す大作家になるわけですが、昭和史だけは書けませんでした。
司馬さんいわく、あの時代はまるで魔法使いがあらわれて、日本という輝ける国家を暗い森に変えてしまったようだ、というのです。
司馬さんはその魔法を解くカギを、よそから借りるのではなく、自前のカギで開けたいとおもい、そのカギはほとんどできかかっているのだけど、開けることができないといいました。
司馬さんは軍人でしたから、大東亜戦争の不条理を当事者として経験しているわけです。
その司馬さんが、当時の軍部中枢の人物とも対談し、煮え切らぬ官僚答弁のような逃げ口上を受けて、ほんとうに苦しいおもいもしている。
ぼくからすれば、そんな司馬さんが昭和史を書けないのは当然だとおもうし、実際司馬さんは昭和を書くと発狂するとまでその苦しみを吐露する中、半藤さんが昭和史を引き継ぐんですよね。
半藤さんは昭和5年生まれですから、司馬さんより10ほど年下の、まさに「精神の上で、最大の戦争の被害者」です。
しかしある意味では戦争の現場を直接経験したわけではありませんから、昭和史をもっとも上手に客観視できる世代でもあります。
その半藤さんの研究した昭和史は、まだしばらく日本の昭和を理解するためのスタンダードであり続けるのではないかとおもっています。
デスクトップのパソコン、気の毒でしたね。
キーボードやディスプレイはつかいまわしがききますし、部屋にデスクトップ専用のスペースがあって邪魔にならないなら、腰を据えて作業するのにデスクトップは便利だとおもいます。
ギズモさんはデスクトップは仕事用として、ノートパソコンと分けて活用なさっているようですし、本体を買い替えて2台目として活用するのもいいのではないでしょうか。
うちの母も最近パソコンが壊れたのですが、一台しか持っていないので、結局ぼくがネットショッピングで買い替えて、実家に届くように手配しました。
ぼくはというとノートパソコンを2台持っているので、もし片方が壊れても、もう一台で買い直しの手配ができます。
といっても一台はほとんどゲームにつかっているんですけどね(笑)
最近、やっぱりゲームを遊ぶならデスクトップがいいなあ、とおもっていて、そのうちお小遣いをためてゲーミングPCを買ってやろうと画策しています。
暑さの心配をいただいて、ありがたいです。
おかげさまで、ことしはスポーツドリンクをタイミングをみて飲むようにして、作業中にはいただいたネッククーラーを利用して乗り切っています。
ギズモさんも、先日集中豪雨があったとニュースで知りましたが、問題なかったでしょうか。
今回はかなり長い記事になりました。
ちょうど終戦に近い時期ですが、とりとめのない話なので、適当に拾いやすい話題を拾っていただければとおもっています(笑)
『昭和天皇物語』、読ませていただいています。
むかし、作画の能條純一さんの将棋の漫画『月下の棋士』を読んだことがあります。
画力のある漫画家さんですが、やはり女性が積極的に読みたい絵柄ではないですよね(笑)
東郷平八郎の意には沿わない学者が「天皇の耳には入れたくない授業」をする話はたいへん興味深かったです。
しかしかれらはその道の学問を究めたからこそ、軍国イデオロギーに毒されずにいられたわけで、そのようなリベラルな教育は天皇にのみ施されていたんですよね。
いま現在のわれわれにとって常識のような学識は、大正当時には、天皇にのみ与えられるような特権的なものだったわけです。
国民に向けては、明治・大正・昭和とグラデーションがかかっていくように、徐々に国粋主義的な愛国教育が幅を利かせるようになりました。
とりわけ大東亜戦争に至ってからは国民への思想教育は苛烈を極めました。
ただ、この思想教育はかならずしも軍部だけが積極的におこなっていたというわけではありません。
教育勅語やマスコミの煽りを軸に、国民に火がついて、国民同士でお互いに思想教育をやりあい、「軍部を育てた(増長させた)」という一面が強かったのです。
以前この話をしたかもしれませんが、司馬遼太郎の随筆集『この国のかたち』に、こんな話がありました。
司馬さんは学徒動員で軍隊を経験しているんですが、かれが還暦を越えたあたりで、10歳ほどしか違わない下の世代たちと会う機会があったそうです。
そこで「ボクの青少年期には、天皇ということはあまりいわれませんでしたよ」と話しても、相手に理解してもらえなかったといいます。
なぜかというと、大正生まれで強制的に軍人になった人は、むしろ世間から隔離されていて、軍隊での上意下達さえ守っていれば、三食食えていたし、特に「天皇のために死ね」というような思想教育はほとんどなかったらしいのです。
しかし戦争末期に少年だった昭和生まれの世代は、多感なころに周囲から「天皇は絶対である」という思想教育の虐待を受けていたんですよね。
だから、司馬さんが軍隊で天皇についてうるさくいわれなかったということは、たった10歳ほど下の世代には、よく理解できなかったそうです。
司馬さんいわくこの昭和ひとケタの世代は、「精神の上で、最大の戦争の被害者」なのだそうな。
その虐待というのは、たとえば小学校でさえ軍隊的に組織され、校長が連隊長、学級長が小隊長といった具合で、生徒たちはこれら隊長の命令で、真冬でも裸足で登下校させられたといいます。
もちろんそういった命令は、各学級に飾られている天皇の肖像画のもとにおこなわれるわけです。
司馬さんはこの話を仙台で聞いたというのですが、当然東北の仙台ですから、冬の寒さはたいへんなものだったでしょう。
ぼくが子供のころにある教師から聞いた話だと、集団疎開先のお寺で、出された食事が合わず、廊下で戻してしまったところ、教師から「お国が危急存亡の中、申し訳ないとおもわんのか」とさんざんぶん殴られたあげく、吐いた吐しゃ物を飲まされたというのです。
その伝聞がほんとうかどうかはぼくにはわからないのですが、ぼくの心に強烈な印象を残している話です。
少なくとも、当時の国民同士が目の色を変えて、子供に異様な教育をしていたのは間違いないでしょう。
半藤さんの『日本のいちばん長い日』では、天皇や陸軍大将を含む政治中枢がポツダム宣言の受諾を決めた……つまり敗戦を受け入れるとなったときに、陸軍の青年将校たちがクーデターを起こそうとしたところを描いています。
上官が決めたこと、不可侵の神である天皇が決めたことであるにもかかわらず、青年将校という若手の立場にある連中が、軍国イデオロギーに染まり切って、「最後の最後まで戦い抜いて、国民も総玉砕せにゃならんだろう」といって、ポツダム宣言受諾を阻止しようとする。
大東亜戦争はもっと早く、原爆が落とされるより前に終わらせられなかったのか、という話もありますが、もはや軍の上層部も、天皇でさえ、国民の意志がああも盛り上がってしまっていては、中途半端なところでは止めるに止められない状況だったのだとおもいます。
話を天皇に戻しますが、たとえばヒトラーは典型的な西洋的な皇帝の性質をもっています。
ヒトラー自身が非常に頭のキレる人間で、大衆扇動や組織の統制もみずから行っていました。
西洋の皇帝の代表といえばナポレオンですが、かれもたいへんなキレ者で、この優秀さが独裁につながっていきます。
そういう意味では昭和天皇はやはり東洋的な皇帝でした。
昭和天皇も賢い人ではありましたが、西洋の独裁者のような一代限りのカリスマとは一線を画しています。
今回の大河ドラマの「光る君へ」もそうですが、日本では天皇は官僚の傀儡(あやつり人形)のようになってしまうんですよね。
中国の皇帝もそうなんですが、天皇自身が独裁的に社会を動かすという例は、ほとんどありません。
天皇は世襲制で、どんなに愚昧でも、どんなに幼少でも、官僚が支えていくんですよね。
そのかわり、たとえ優秀でキレ者の帝であっても、やはり天皇はシンボルにすぎず、官僚が実質的に国家を動かしていくわけです。
しかし昭和天皇は独裁者となった瞬間があります。
それはポツダム宣言受諾のときと、それから漫画の最初にも描かれていましたが、マッカーサーとの会談のときだったといえるでしょう。
昭和天皇は終戦に向けて動き出し、鈴木貫太郎を総理大臣に、阿南惟幾を陸軍大将に推します。
かれらは天皇の親衛隊ともいえる理解者でしたから、天皇はかれらを政治中枢に据えることで、終戦への道筋をつけたといえます。
そして戦後、マッカーサーに対して命乞いをせず、それどころか国民を救うように求めたこと。
このふたつの大問題において、若き天皇はだれにもおもねらないじぶんの采配によって国民の運命を決定づけたんですよね。
戦後日本人は昭和天皇に戦争責任を問いましたが、皮肉なことに、昭和天皇は大東亜戦争を終わらせ、終戦後に国民を守るときにだけ、明確に独裁者だったというのがぼくの解釈です。
ところで、半藤一利さんなんですが、あの人は司馬遼太郎が書けなかった昭和について書いたという点で、司馬さんの後継者のような存在なんですよね。
実際司馬さんの担当編集者だった時代があり、司馬史観をじゅうぶんに吸収した人でもありました。
司馬さんは敗戦を経験したときに、日本という国に絶望しました。
それでむかしの日本人はもうすこしマトモだったんじゃないか、古い日本人のよさを発掘していこう、と考えたところから、歴史作家のキャリアがスタートするんです。
結果、日本史を鮮やかに切り取ってヒーローを生み出す大作家になるわけですが、昭和史だけは書けませんでした。
司馬さんいわく、あの時代はまるで魔法使いがあらわれて、日本という輝ける国家を暗い森に変えてしまったようだ、というのです。
司馬さんはその魔法を解くカギを、よそから借りるのではなく、自前のカギで開けたいとおもい、そのカギはほとんどできかかっているのだけど、開けることができないといいました。
司馬さんは軍人でしたから、大東亜戦争の不条理を当事者として経験しているわけです。
その司馬さんが、当時の軍部中枢の人物とも対談し、煮え切らぬ官僚答弁のような逃げ口上を受けて、ほんとうに苦しいおもいもしている。
ぼくからすれば、そんな司馬さんが昭和史を書けないのは当然だとおもうし、実際司馬さんは昭和を書くと発狂するとまでその苦しみを吐露する中、半藤さんが昭和史を引き継ぐんですよね。
半藤さんは昭和5年生まれですから、司馬さんより10ほど年下の、まさに「精神の上で、最大の戦争の被害者」です。
しかしある意味では戦争の現場を直接経験したわけではありませんから、昭和史をもっとも上手に客観視できる世代でもあります。
その半藤さんの研究した昭和史は、まだしばらく日本の昭和を理解するためのスタンダードであり続けるのではないかとおもっています。
デスクトップのパソコン、気の毒でしたね。
キーボードやディスプレイはつかいまわしがききますし、部屋にデスクトップ専用のスペースがあって邪魔にならないなら、腰を据えて作業するのにデスクトップは便利だとおもいます。
ギズモさんはデスクトップは仕事用として、ノートパソコンと分けて活用なさっているようですし、本体を買い替えて2台目として活用するのもいいのではないでしょうか。
うちの母も最近パソコンが壊れたのですが、一台しか持っていないので、結局ぼくがネットショッピングで買い替えて、実家に届くように手配しました。
ぼくはというとノートパソコンを2台持っているので、もし片方が壊れても、もう一台で買い直しの手配ができます。
といっても一台はほとんどゲームにつかっているんですけどね(笑)
最近、やっぱりゲームを遊ぶならデスクトップがいいなあ、とおもっていて、そのうちお小遣いをためてゲーミングPCを買ってやろうと画策しています。
暑さの心配をいただいて、ありがたいです。
おかげさまで、ことしはスポーツドリンクをタイミングをみて飲むようにして、作業中にはいただいたネッククーラーを利用して乗り切っています。
ギズモさんも、先日集中豪雨があったとニュースで知りましたが、問題なかったでしょうか。