No.1704
※すみません。今回、投稿後にいろいろと手直しを行っています。
選挙の立会でのねぎらいのお言葉、ありがとうございます。
パイプ椅子に14時間座ると、お尻が3日痛みました(笑)
当日は大雪でしたが、無事に役を終えられてよかったです。
「お札を1年で買い替えるというのは、寺社のお金儲けの一環」というのは、ギズモさんのおっしゃる通りで、寺社もお金を得なければならないんですよね。
江戸時代以前の神社は、地域が管理している山や川に勝手によそ者が入らないように縄張りをしたというものがほとんどでした。
山や川、あるいは土地でさえ明確な所有権がなかったので、その地に住まう人々は神の名を借りて、所有権を主張したのです。
なので多くの神社では、大岩や巨木にしめ縄を施して、かんたんな鳥居をたてて、頻繁に地元民がお祭りをすることで、ここは神(管理者)がいるのだぞ、ということをアピールしました。
ごく簡素なお社をつくったところもありましたが、多くが無社殿社です。
こういう仕組みであれば神社の管理は、手間はかかってもお金がかかるようなものではありません。
大事なのは社殿でもお金でもなく、じぶんたちで地域を維持しようという心意気と、みんなで集まれる場所があることでした。
これが明治以降、各地で立派な社殿を建ててしまったがために、社殿の維持管理のため、神道も儲け主義の土俵に乗らざるをえなくなりました。
これはわたしの住む田舎の話ですが、お賽銭や地域の会費だけでは社殿の維持には到底追い付かず、かといって地元の有志が大きなお金を出すような時代でもありません。
ちいさな規模の神社ですから、お祭りといってもほとんど自治会の役員だけですませますし、境内にお守りを授与するようなところもありません。
けれど、社殿に関しては明治以降によほどがんばったのでしょう、授与所があってもおかしくないくらい立派なのです。
地域の自治会が共同で神社の予算を管理しているのですが、人口減少で会費も年々減少する中、爪に火をともすような努力で健全な予算運用を心掛けています。
しかし社殿の傷んできたところ、たとえば木部の腐った鳥居をどうしようかというような、足元の懸案事項のお金すら用意できず、苦慮しているのが実際です。
先日選挙の立会をしているときに、当地の神社の会計をもう何年もやっておられる方とご一緒したので、お話をうかがいました。
ほんとうは神社の会計は毎年交代するのですが、その方は神社の敷地の問題や、これまで先送りにされてきた会計上の問題を解決するために、もう何年も篤志で役を引き受けていただいています。
じつは先年、地域の宮司さんが90歳で亡くなったのですが、この方は生前、神社の敷地であったり、お金の問題などのややこしい部分を、地域の理解が得にくいという理由で、ややこしいままにしていました。
これは宮司さんを責められる話ではなくて、むしろ宮司さんは「神社の暗部を引き受けてくれていた」一面があります。
しかし宮司さんが亡くなったことで、今後は地域の自治会で神社を運営していくことになり、そこでこれまでの問題を一気に解決しようという流れになったそうです。
それで今年度にようやく神社としての体裁を整えるめどがたって、各団体に補助金の申請などをおこなえるとのことでした。
これまでは補助金申請も、土地の問題や会計面での未解決な部分が問題視されて、門前払いされていたらしいのです。
補助金申請がとおり、会計手続きをルーティンで進められるように段取りがつけば、会計のお役も次に引き渡せるといってその方は笑っていましたが、目に見えないところでたいへんな苦労があったのだと感じ入った次第です。
そういう事情を考えると、授与所があるような大きな神社が儲け主義になるのは仕方ないのでしょう。
個人的には、そもそも絢爛な社殿を建てようなどと見栄を張らず、小さなお社と、先人がつないできた土地を守ろうとする土着の精神性を大事にしていれば、こんなことにならなかったのではないかとおもいます。
ですが、問題解決にご苦労なさっている方を目の当たりにしては、なかなかそんなホンネはいえませんね(笑)
さて、神様の「同一」の問題なんですが、これは推理力が試されるパズルのようになっています。
書かれてある言葉をそのまま受け止めても、話が通じるようにはなっているのですが、その中にウソとほんとうが混じっているんですね。
今回はこの同一の問題を調べていくうちにわかった、かなり特殊な話をしたいとおもいます。
ちょうどいまわたしがこの記事を書いているのは建国記念日なんですが、だれがどのように同一の神であるかを調べるうちに、「天皇は神武天皇で血筋が途絶えていた」という、きわめて不敬な気付きを得てしまいました(笑)
前言をひるがえすようなかたちになるのですが、綏靖天皇が神武天皇の子であるというのは、わたしの調べ方の甘いところで、間違いだったようです。
ところで、わたしは以前、神武天皇の九州での妻のアヒラツヒメを卑弥呼と書きました。
あれもかなり飛躍していますが、「同一人物」の推測です。
しかし、わたしはいまもアヒラツヒメは卑弥呼(アマテラス)だと考えています。
神話では、神武天皇(カンヤマトイワレヒコ)とアヒラツヒメは、九州で子に恵まれていたといいます。
多芸志美美命(タギシミミノミコト)という名でした。
古事記では、さらに岐須美美命(キスミミノミコト)にも恵まれたとありますが、この子については記述が一切ありません。
卑弥呼には子がいないはずなのに、子がいるのはおかしいとおもわれるでしょう。
が、「神武天皇に子供がいる」ということ自体がウソなんです。
その理由は、神武天皇の子の名前にありました。
タギシミミは神武東遷に付いていったといいます。
実際には饒速日が亡くなって、ナガスネヒコがヤマトを乗っ取るかもしれないという緊急事態で、20代、あるいは10代でヤマトへ向かったとおもわれる神武天皇が、乳幼児を連れて戦に出るとは考えられません。
しかし、ここではそういうことにしておきましょう(笑)
神武天皇はヤマトでタタラヒメと結ばれて、さらにふたりの子をもうけました。
長男が神八井耳命(カンヤイミミノミコト)、次男が神渟名川耳尊(カンヌナカワミミノミコト)です。
正当な皇位継承者はヤマトで得た子なので、神武天皇が崩御すると、タギシミミはこの兄弟を殺そうと計画しました。
しかしカンヤイミミとカンヌナカワミミは事前にこの計画を知ります。
そこで逆にタギシミミを討とうということになったのですが、カンヤイミミは手が震えてタギシミミを矢で射ることができませんでした。
かわりにカンヌナカワミミがタギシミミを射殺します。
このことを恥じたカンヤイミミは皇位継承の座からおりて、次男のカンヌナカワミミが二代目綏靖天皇となりました。
神話におけるこのエピソードは、「タギシミミの反逆」といわれています。
日本書紀での綏靖天皇のエピソードは、タギシミミの反逆しかありません。
わたしはそれで前回、神武天皇の子の綏靖天皇はかなり早くに亡くなり、それがきっかけで欠史八代の時代になったと考えました。
しかしどうやら、タギシミミもカンヤイミミもカンヌナカワミミも、みんな神武天皇の子ではなさそうなのです。
順を追って説明します。
まずタギシミミの妻は、なんと神武天皇の妻のタタラヒメなのです。
つまり、子供が父親の、それも天皇の腹違いの母をめとる。
ふつうに考えて、そんなことがあるでしょうか。
しかしこれはタギシミミの名前から考えると、ある推測が成り立ちました。
まずタギシミミの「たぎし=多芸志」は出雲の地名です。
しかもあの稲佐浜のすぐ近くでした。
名前の「耳(ミミ)」は、地域を束ねる首長をあらわすといわれます。
「出雲の地名」
「名前に含まれる耳」
「妻が事代主(大物主)の娘のタタラヒメ」
この3点をつなげて考えると、タギシミミは出雲の多芸志のあたりを束ねていた若き首長で、国譲りの戦争に参加していた。
そして事代主(大物主)とともにヤマトへやってきたのではないでしょうか。
名前の「耳」で考えていくと、神武天皇のヤマトでの子、
神八井耳命(カンヤイミミノミコト)
神渟名川耳尊(カンヌナカワミミノミコト)
にも耳が入っていますよね。
耳という名がどこかの首長をあらわすのだとすれば、じつは神武天皇の子はすべて、実子ではなかったということになってしまうのです。
つまり、アヒラツヒメもタタラヒメも、子には恵まれていませんでした。
綏靖天皇の諱(いみな)に含まれる「渟名川(ぬなかわ)」というのは、高志国・越国(こしのくに)にあった、いまの新潟県糸魚川のあたりの地名です。
ここには奴奈川姫(ヌナカワヒメ)の伝説があって、大国主から求愛を受けたヌナカワヒメがタケミナカタを産んだという伝説があります。
カンヌナカワミミ(綏靖天皇)は、越の国のヌナカワ地方にいた首長だったのかもしれません。
ちなみにタケミナカタは国譲りの戦争の際に、タケミカヅチに敗れて信濃の諏訪に封じられます。
つまり高志国は出雲に味方して、国譲りの戦争に参加していたわけです。
わたしはカンヌナカワミミも出雲の戦争に参加していて、事代主とともにヤマトへやってきたのではないかと推測しています。
なぜなら綏靖天皇の妻は一説には葉江の妹の河俣姫ですが、一説では五十鈴依媛命といわれます。
五十鈴依媛命はタタラヒメの妹……つまり大物主(事代主)の娘なのです。
カンヤイミミの八井は、地名なのかどうかはっきりません。
しかし九州やヤマトに系譜をもつ多氏の祖であることから、九州と奈良のヤマト王権にネットワークをもつ、実力者だったのではないかとおもわれます。
そういう意味で、カンヤイミミの皇位継承順位はトップだったのでしょう。
タギシミミは、神武東遷の際に熊野に同行するなど、神武天皇の戦勝に大きく貢献しましたが、ヤマト王権と出雲の関係性からいっても、皇位からは外れていたのかもしれません。
これら3者が神武天皇亡きあとの皇位をめぐって争い、結果カンヌナカワミミが皇位を得ました。
が、綏靖天皇もなんらかの理由ですぐに崩御するのです。
そしてタギシミミの反逆には、やはり大物主が絡んでいるようにおもえます。
大物主は、タギシミミにタタラヒメをあてがい、皇位の簒奪(さんだつ)をそそのかしたのではないでしょうか。
神武天皇の妻がタギシミミの妻になったのことを理解しようとすると、「大物主がそう取り計らった」と考えるほかありません。
しかしタギシミミは皇位争奪に負けて死んでしまいました。
大物主は綏靖天皇にも妻を送っていますが、カンヌナカワミミは越の国の者です。
出雲の大物主からすると綏靖天皇はセカンドベストだったうえに、綏靖天皇も皇子を残さなかったのでしょう。
その後、磯城県主や各地の首長、ウマシマジの血縁などがそれぞれ天皇を擁立する大乱戦となり、しばらく大物主は政治の舞台から姿を消しました。
しかしウマシマジの血縁である10代崇神天皇の御代になると、大物主はまた倭迹迹日姫命を通じて再登場するのです。
ところで欠史八代には、最大の謎が残っています。
欠史八代が神武天皇の血筋ではなかったとすると、これらの天皇は、いったい何者なのでしょう。
妻はそれぞれ葉江であったり、大物主だったり、ウマシマジの血筋だったりするわけですが、天皇が何者で、どこからきたのかがわかりません。
綏靖天皇は諱にヒントがありましたが、3代目からは推測のとっかかりもなくなって、袋小路に入ってしまうのです
だからこそ「欠史八代」なのかもしれませんね。
ところで、大物主はなぜここまで天皇家に執着したのでしょうか。
大物主は皇位の簒奪に失敗し、後年、若い倭迹迹日姫命と結婚してまで天皇の血筋につながろうとしました。
この執念と熱量は、単なる権力欲で片付けられるものではありません。
その点で崇神天皇は、大物主を相当警戒していたのではないかとおもいます。
わたしが崇神天皇だったら、こう考えます。
いまだ内憂外患の状況なのだから、ヤマト王権としては大物主の権力は利用できるだけすればよいが、どうやらあの爺さんは出雲の者らしい。
下手にわたしの血筋と結びつけたら、出雲を平らげる計画が危うくなり、天下の平定がいよいよ遠ざかってしまう。
巫女のおば(倭迹迹日姫命)と結婚しようとしているが、あの老人にはすこし夢をみてもらったあと、丁重に三輪山にまつっておくのがよかろう。
しかしそもそもあのおばが、大物主に吹き込まれたことをそのまま神託として告げたせいで、王権が巻き込まれてしまったのが問題なのだ。
巫女の神託というかたちで、大物主のような輩が介入する隙を与えている。
あのような巫女政治はそもそも、神武以前の伝統の政治手法なのだから、わたしの代で巫女の政治介入も終わらせてやろう。
ここにきてわたしは、ようやく大物主と倭迹迹日姫命の神話のエピソードが理解できたようにおもえます。
つまり倭迹迹日姫命が「お顔が見たい」と望み、櫛箱をのぞくと子蛇(大物主)がいた。
そしておどろいた倭迹迹日姫命の陰部に箸が刺さって死んだ、というくだりです。
わたしはこれを最初、単に老いた大物主に倭迹迹日姫命がおどろいて拒否した、と解釈したのですが、もっと深い意味があったようです。
櫛は巫女と結びつく神具なのですが、この箱の中に蛇が入っていたということは、出雲の者(ヘビ)がヤマトの巫女にとりついていた、ということでしょう。
崇神天皇は、大物主を出雲のスパイのような存在であるとみなしました。
このとき大物主の子種をはらんでいた倭迹迹日姫命も、大物主と出雲の関係におどろきます。
そして倭迹迹日姫命が自死……あるいは最悪、ヤマト王権によって殺されたのではないか。
けっきょく大物主は三輪山にまつられる存在となり、倭迹迹日姫命も箸墓古墳にまつられ、イザナギの時代から続いていた巫女政治も、いったん終わりました。
ところで倭迹迹日姫命で巫女政治が断絶したあと、アマテラス(巫女)をヤマトではないどこかにまつるための長い旅が始まります。
崇神天皇は、巫女を政治中枢から遠ざけたかったのでしょう。
まず崇神天皇の娘の豊鍬入姫命が、アマテラスの鎮座する場所を求めて全国を旅します。
しかし豊鍬入姫命は病に倒れ、次に11代垂仁天皇の娘の倭姫命(ヤマトヒメノミコト)が後を継ぎました。
そして長い旅の末、ようやく天照大神は伊勢の地に鎮座することになります。
この旅の中でアマテラスの鎮座する候補地になった場所が、全国各地の元伊勢として残りました。
さて、ギズモさんのご質問の件なのですが、大物主と事代主は、おっしゃるとおり同一であるとわたしは考えています。
つまり出雲で事代主と呼ばれていた神が、ヤマトでは大物主と呼ばれたのです。
そして事代主が、国譲りの際に大国主の運命を決定づける働きをしたことから、大国主の奇魂・幸魂ということになったのでしょう。
では、事代主がなぜヤマトへ向かうことになり、大国主の奇魂・幸魂となったのか。
ここからは話をわかりやすくするための、わたしの創作の物語をお聞きください。
国譲り(くにゆずり)とは、関東の領有権をめぐる、ヤマト王権と出雲王国の戦争でした。
ヤマト王権は九州と奈良から軍勢を送り、出雲もまた地方と連合して戦いましたが、稲佐浜で進退きわまります。
ギズモさんが問われた通り、このときタケミカヅチの軍勢は「さあ、国譲りをするのかしないのか、否・然を決めよ」と迫っていました。
しかしこの戦争では各地の王国が出雲に味方しており、天孫族の軍団に屈するべきではないという声も多くあったのです。
海岸近くに即席の陣屋を築き、出雲軍は最後の決断を急ぎます。
事代主は、もはや戦争を続けることは得策ではないと主張しました。
大物主大国主は、徹底抗戦すべしという周囲の首長たちの意見も取り入れたうえで、事代主にたずねました。
「ヤマトで少彦名が倒れた後、この国(関東)はわたしたちが必死になって開拓した。
関東の領有権が出雲にあるのは明らかである。
しかし出雲が国づくりに注力して疲弊したいまになって、ヤマトは国づくりの功を奪おうと、出雲に戦争を仕掛けた。
大義はわれらにあろう。
それでもこの戦をやめよというのか」
事代主が申し上げました。
「国づくりの功が出雲にあることはだれもが知っております。
しかしこのまま戦えば、出雲は滅びるでしょう。それではもはや出雲にはなにも残りませぬ。
これよりわたしがタケミカヅチと交渉を行いましょう。
大国主様がこの戦の引き際をつくっていただけるなら、わたしは大国主様の名のもとに出雲の国体を護持することを要求しまする」
ほとんどの人々が意地とプライドでものごとを考える中、事代主は戦争さえ取引としてとらえていました。
さらに事代主は続けました。
「たとえヤマトに国をゆずったとしても、国づくりの功は大国主様のものです。
わたしはなんとしてもヤマトの王権に挑み、わが身を賭してヤマトに出雲の爪痕を残しましょう」
大国主はしばらくうつむきながらじっと考えていましたが、顔を上げて、いいました。
「よくわかった。おぬしに頼みたいことがひとつある。
ヤマトに命じて、出雲に社をつくるように。それこそが出雲の国体である。
また、おぬしにヤマトの青垣(山)を与えてもらえるように交渉せよ。
そこで製鉄をおこない、少彦名の縁をたどって産業を盛り立てれば、ヤマトはぬしを頼るであろう。
ヤマトへはこの戦に参加した同盟国のめぼしい者も連れていき、ヤマト王権に士官させよ。
出雲の命運はおぬしに託した」
わたしはこのときに事代主が、若きタギシミミやカンヌナカワミミたちを連れて行ったのではないかと推測しています。
大国主は国譲りのあと出雲大社にまつられたとありますが、それはあるいは戦死を意味するのかもしれません。
しかし事代主がおらず、出雲が徹底抗戦の果てに敗れていれば、神話での出雲および大国主の評価はまったくちがったものになっていたはずです。
その点で、やはり事代主は大国主の運命を決定づける、奇魂・幸魂だったのでしょう。
そして事代主はヤマトで大物主となって、出雲とヤマトをつなぐ経済界のドンとなり、天皇の外戚の座を執拗に狙い続けました。
しかしわたしは、もちろん出雲に対して同情的ではあるのですが、だからヤマト王権がわるい、ともおもえないのです。
神武天皇はヤマトの主権がナガスネヒコに奪われぬよう、命をかけて奮闘しました。
天孫族からすれば、この戦い領土を広げるための戦いは使命であり、どのような手段をつかってでも日本を一統し、天孫族による秩序をもたらしたいと考えていたことでしょう。
大国主が関東の領有権を主張したとき、もしヤマトがそのまま受け入れていれば、それはヤマト王権が出雲の連合に平らげられることを意味します。
ヤマト王権は強大な国家が弱小国家を虐げるようにして国譲りを迫ったのではなくて、出雲の脅威に対してとことん必死だったのではないでしょうか。
欠史八代の争いも、それだけヤマトにいた多くの者が「国家運営」「国家というあたらしいムーブメント」に対して夢中になっていたということです。
まだ明確な国家がなかった時代に、神武天皇は見事に最高権力者としてあるべきビジョンをみせつけました。
個人的に神武天皇は、ある種の清潔さを感じる稀有な神であり、やはり偉大だったとおもいます。
【注】
ここでわたしは国譲りの話題で神武天皇を引き合いに出しましたが、国譲りの戦争はヤマトに饒速日がいたときに行われたものかもしれません。
神武東遷にタギシミミが参加していたのであれば、国譲りの戦争はそれ以前に行われていたことになるからです。
出雲に神が集まる神迎神事についてのお話をありがとうございます。
出雲の神迎えは神話にはなさそうなエピソードなので調べてみました。
これは平安時代あたりから形作られていった民間伝承なんですね。
和風月名の神無月というのは、もともと奈良時代から伊勢神宮で10月に行われていた神嘗祭(かんなめさい)から、神嘗月(かんなめづき)と呼ばれていたようです。
この嘗というのは、神々が新米を召し上がるという意味ですね。
神嘗祭では天照大神に新米を献上し、11月の新嘗祭では全国の神々、そして天皇に新米を献上します。
この神嘗月が平安時代に、八百万の神が大国主に会いに行く「神無月」へと解釈が変わっていき、出雲ではさらに「神在月」ということになりました。
民間伝承ですから、言葉遊びのようにして意味が変化してるんです。
八百万の神々が大国主、そして出雲に会いに来てくれるという物語は、大国主や出雲に同情した日本神話の読者をホッとさせる後日譚として、市民権を得たのかもしれませんね。
熱海の来宮神社では「大己貴命・五十猛命・日本武尊」の3柱をまつっているのですね。
こちらも来歴を拝見しました。
おそらく古くは明神信仰と権現信仰が混じる形で、標高700mほどの日金山を霊峰として、地元特有の神仏を崇敬していたのでしょう。
それで、「木の宮」から「来宮神社」になったようですね。
ご祭神の一柱である五十猛命は木の神です。
五十猛命はスサノオとともにソシモリへ行き、そこで日本にはない木の種を持ち帰って、大八洲をすべて山にし、紀伊の大神になったそうな。
紀伊の語源は「木」です。
来宮神社ではきっとむかしから、東国の民としての猛々しい誇りと、山の霊気にあやかり、ご神木をあがめるような、素朴な崇敬があったところなのでしょうね。
ところで、親から4月に、紀伊の熊野三山にお参りしないかと誘われました。
それで熊野についても調べていたのですが、つい最近、ある出来事が起こりました。
来年度、自治会の副会長をしていただく予定だった方に病気がみつかり、治療に入るということで、わたしが来年度、また副会長をすることになったのです。
自治会長・副会長は新年度にはあれこれと忙しいので、実家の母に電話し、旅行の話はキャンセルしました。
わりかし本気で残念なのですが、公共の役割ですから仕方ありませんね(笑)
あるいは今回熊野に行けないことも、なにかの暗示なのかもしれません。
きっとまた、呼ばれれば行けることもあるのでしょうし、焦らず待つことにします。
熊野について調べたことは、また機会があればお話ししますね。
さて、もう慣れてしまわれたかもしれませんが、今回もたいへん長い話になってしまいました(笑)
できるだけわかりやすくを心掛けてはいるのですが、なにせ今回も入り組んだ話でしたから、ややこしいとおもいます。
一万字を越えると、どこを拾って返信すべきかで悩まれるでしょうし、毎回心苦しくおもっています。
なにとぞご返信はご無理のないようにお願いします。
選挙の立会でのねぎらいのお言葉、ありがとうございます。
パイプ椅子に14時間座ると、お尻が3日痛みました(笑)
当日は大雪でしたが、無事に役を終えられてよかったです。
「お札を1年で買い替えるというのは、寺社のお金儲けの一環」というのは、ギズモさんのおっしゃる通りで、寺社もお金を得なければならないんですよね。
江戸時代以前の神社は、地域が管理している山や川に勝手によそ者が入らないように縄張りをしたというものがほとんどでした。
山や川、あるいは土地でさえ明確な所有権がなかったので、その地に住まう人々は神の名を借りて、所有権を主張したのです。
なので多くの神社では、大岩や巨木にしめ縄を施して、かんたんな鳥居をたてて、頻繁に地元民がお祭りをすることで、ここは神(管理者)がいるのだぞ、ということをアピールしました。
ごく簡素なお社をつくったところもありましたが、多くが無社殿社です。
こういう仕組みであれば神社の管理は、手間はかかってもお金がかかるようなものではありません。
大事なのは社殿でもお金でもなく、じぶんたちで地域を維持しようという心意気と、みんなで集まれる場所があることでした。
これが明治以降、各地で立派な社殿を建ててしまったがために、社殿の維持管理のため、神道も儲け主義の土俵に乗らざるをえなくなりました。
これはわたしの住む田舎の話ですが、お賽銭や地域の会費だけでは社殿の維持には到底追い付かず、かといって地元の有志が大きなお金を出すような時代でもありません。
ちいさな規模の神社ですから、お祭りといってもほとんど自治会の役員だけですませますし、境内にお守りを授与するようなところもありません。
けれど、社殿に関しては明治以降によほどがんばったのでしょう、授与所があってもおかしくないくらい立派なのです。
地域の自治会が共同で神社の予算を管理しているのですが、人口減少で会費も年々減少する中、爪に火をともすような努力で健全な予算運用を心掛けています。
しかし社殿の傷んできたところ、たとえば木部の腐った鳥居をどうしようかというような、足元の懸案事項のお金すら用意できず、苦慮しているのが実際です。
先日選挙の立会をしているときに、当地の神社の会計をもう何年もやっておられる方とご一緒したので、お話をうかがいました。
ほんとうは神社の会計は毎年交代するのですが、その方は神社の敷地の問題や、これまで先送りにされてきた会計上の問題を解決するために、もう何年も篤志で役を引き受けていただいています。
じつは先年、地域の宮司さんが90歳で亡くなったのですが、この方は生前、神社の敷地であったり、お金の問題などのややこしい部分を、地域の理解が得にくいという理由で、ややこしいままにしていました。
これは宮司さんを責められる話ではなくて、むしろ宮司さんは「神社の暗部を引き受けてくれていた」一面があります。
しかし宮司さんが亡くなったことで、今後は地域の自治会で神社を運営していくことになり、そこでこれまでの問題を一気に解決しようという流れになったそうです。
それで今年度にようやく神社としての体裁を整えるめどがたって、各団体に補助金の申請などをおこなえるとのことでした。
これまでは補助金申請も、土地の問題や会計面での未解決な部分が問題視されて、門前払いされていたらしいのです。
補助金申請がとおり、会計手続きをルーティンで進められるように段取りがつけば、会計のお役も次に引き渡せるといってその方は笑っていましたが、目に見えないところでたいへんな苦労があったのだと感じ入った次第です。
そういう事情を考えると、授与所があるような大きな神社が儲け主義になるのは仕方ないのでしょう。
個人的には、そもそも絢爛な社殿を建てようなどと見栄を張らず、小さなお社と、先人がつないできた土地を守ろうとする土着の精神性を大事にしていれば、こんなことにならなかったのではないかとおもいます。
ですが、問題解決にご苦労なさっている方を目の当たりにしては、なかなかそんなホンネはいえませんね(笑)
さて、神様の「同一」の問題なんですが、これは推理力が試されるパズルのようになっています。
書かれてある言葉をそのまま受け止めても、話が通じるようにはなっているのですが、その中にウソとほんとうが混じっているんですね。
今回はこの同一の問題を調べていくうちにわかった、かなり特殊な話をしたいとおもいます。
ちょうどいまわたしがこの記事を書いているのは建国記念日なんですが、だれがどのように同一の神であるかを調べるうちに、「天皇は神武天皇で血筋が途絶えていた」という、きわめて不敬な気付きを得てしまいました(笑)
前言をひるがえすようなかたちになるのですが、綏靖天皇が神武天皇の子であるというのは、わたしの調べ方の甘いところで、間違いだったようです。
ところで、わたしは以前、神武天皇の九州での妻のアヒラツヒメを卑弥呼と書きました。
あれもかなり飛躍していますが、「同一人物」の推測です。
しかし、わたしはいまもアヒラツヒメは卑弥呼(アマテラス)だと考えています。
神話では、神武天皇(カンヤマトイワレヒコ)とアヒラツヒメは、九州で子に恵まれていたといいます。
多芸志美美命(タギシミミノミコト)という名でした。
古事記では、さらに岐須美美命(キスミミノミコト)にも恵まれたとありますが、この子については記述が一切ありません。
卑弥呼には子がいないはずなのに、子がいるのはおかしいとおもわれるでしょう。
が、「神武天皇に子供がいる」ということ自体がウソなんです。
その理由は、神武天皇の子の名前にありました。
タギシミミは神武東遷に付いていったといいます。
実際には饒速日が亡くなって、ナガスネヒコがヤマトを乗っ取るかもしれないという緊急事態で、20代、あるいは10代でヤマトへ向かったとおもわれる神武天皇が、乳幼児を連れて戦に出るとは考えられません。
しかし、ここではそういうことにしておきましょう(笑)
神武天皇はヤマトでタタラヒメと結ばれて、さらにふたりの子をもうけました。
長男が神八井耳命(カンヤイミミノミコト)、次男が神渟名川耳尊(カンヌナカワミミノミコト)です。
正当な皇位継承者はヤマトで得た子なので、神武天皇が崩御すると、タギシミミはこの兄弟を殺そうと計画しました。
しかしカンヤイミミとカンヌナカワミミは事前にこの計画を知ります。
そこで逆にタギシミミを討とうということになったのですが、カンヤイミミは手が震えてタギシミミを矢で射ることができませんでした。
かわりにカンヌナカワミミがタギシミミを射殺します。
このことを恥じたカンヤイミミは皇位継承の座からおりて、次男のカンヌナカワミミが二代目綏靖天皇となりました。
神話におけるこのエピソードは、「タギシミミの反逆」といわれています。
日本書紀での綏靖天皇のエピソードは、タギシミミの反逆しかありません。
わたしはそれで前回、神武天皇の子の綏靖天皇はかなり早くに亡くなり、それがきっかけで欠史八代の時代になったと考えました。
しかしどうやら、タギシミミもカンヤイミミもカンヌナカワミミも、みんな神武天皇の子ではなさそうなのです。
順を追って説明します。
まずタギシミミの妻は、なんと神武天皇の妻のタタラヒメなのです。
つまり、子供が父親の、それも天皇の腹違いの母をめとる。
ふつうに考えて、そんなことがあるでしょうか。
しかしこれはタギシミミの名前から考えると、ある推測が成り立ちました。
まずタギシミミの「たぎし=多芸志」は出雲の地名です。
しかもあの稲佐浜のすぐ近くでした。
名前の「耳(ミミ)」は、地域を束ねる首長をあらわすといわれます。
「出雲の地名」
「名前に含まれる耳」
「妻が事代主(大物主)の娘のタタラヒメ」
この3点をつなげて考えると、タギシミミは出雲の多芸志のあたりを束ねていた若き首長で、国譲りの戦争に参加していた。
そして事代主(大物主)とともにヤマトへやってきたのではないでしょうか。
名前の「耳」で考えていくと、神武天皇のヤマトでの子、
神八井耳命(カンヤイミミノミコト)
神渟名川耳尊(カンヌナカワミミノミコト)
にも耳が入っていますよね。
耳という名がどこかの首長をあらわすのだとすれば、じつは神武天皇の子はすべて、実子ではなかったということになってしまうのです。
つまり、アヒラツヒメもタタラヒメも、子には恵まれていませんでした。
綏靖天皇の諱(いみな)に含まれる「渟名川(ぬなかわ)」というのは、高志国・越国(こしのくに)にあった、いまの新潟県糸魚川のあたりの地名です。
ここには奴奈川姫(ヌナカワヒメ)の伝説があって、大国主から求愛を受けたヌナカワヒメがタケミナカタを産んだという伝説があります。
カンヌナカワミミ(綏靖天皇)は、越の国のヌナカワ地方にいた首長だったのかもしれません。
ちなみにタケミナカタは国譲りの戦争の際に、タケミカヅチに敗れて信濃の諏訪に封じられます。
つまり高志国は出雲に味方して、国譲りの戦争に参加していたわけです。
わたしはカンヌナカワミミも出雲の戦争に参加していて、事代主とともにヤマトへやってきたのではないかと推測しています。
なぜなら綏靖天皇の妻は一説には葉江の妹の河俣姫ですが、一説では五十鈴依媛命といわれます。
五十鈴依媛命はタタラヒメの妹……つまり大物主(事代主)の娘なのです。
カンヤイミミの八井は、地名なのかどうかはっきりません。
しかし九州やヤマトに系譜をもつ多氏の祖であることから、九州と奈良のヤマト王権にネットワークをもつ、実力者だったのではないかとおもわれます。
そういう意味で、カンヤイミミの皇位継承順位はトップだったのでしょう。
タギシミミは、神武東遷の際に熊野に同行するなど、神武天皇の戦勝に大きく貢献しましたが、ヤマト王権と出雲の関係性からいっても、皇位からは外れていたのかもしれません。
これら3者が神武天皇亡きあとの皇位をめぐって争い、結果カンヌナカワミミが皇位を得ました。
が、綏靖天皇もなんらかの理由ですぐに崩御するのです。
そしてタギシミミの反逆には、やはり大物主が絡んでいるようにおもえます。
大物主は、タギシミミにタタラヒメをあてがい、皇位の簒奪(さんだつ)をそそのかしたのではないでしょうか。
神武天皇の妻がタギシミミの妻になった
しかしタギシミミは皇位争奪に負けて死んでしまいました。
大物主は綏靖天皇にも妻を送っていますが、カンヌナカワミミは越の国の者です。
出雲の大物主からすると綏靖天皇はセカンドベストだったうえに、綏靖天皇も皇子を残さなかったのでしょう。
その後、磯城県主や各地の首長、ウマシマジの血縁などがそれぞれ天皇を擁立する大乱戦となり、しばらく大物主は政治の舞台から姿を消しました。
しかしウマシマジの血縁である10代崇神天皇の御代になると、大物主はまた倭迹迹日姫命を通じて再登場するのです。
ところで欠史八代には、最大の謎が残っています。
欠史八代が神武天皇の血筋ではなかったとすると、これらの天皇は、いったい何者なのでしょう。
妻はそれぞれ葉江であったり、大物主だったり、ウマシマジの血筋だったりするわけですが、天皇が何者で、どこからきたのかがわかりません。
綏靖天皇は諱にヒントがありましたが、3代目からは推測のとっかかりもなくなって、袋小路に入ってしまうのです
だからこそ「欠史八代」なのかもしれませんね。
ところで、大物主はなぜここまで天皇家に執着したのでしょうか。
大物主は皇位の簒奪に失敗し、後年、若い倭迹迹日姫命と結婚してまで天皇の血筋につながろうとしました。
この執念と熱量は、単なる権力欲で片付けられるものではありません。
その点で崇神天皇は、大物主を相当警戒していたのではないかとおもいます。
わたしが崇神天皇だったら、こう考えます。
いまだ内憂外患の状況なのだから、ヤマト王権としては大物主の権力は利用できるだけすればよいが、どうやらあの爺さんは出雲の者らしい。
下手にわたしの血筋と結びつけたら、出雲を平らげる計画が危うくなり、天下の平定がいよいよ遠ざかってしまう。
巫女のおば(倭迹迹日姫命)と結婚しようとしているが、あの老人にはすこし夢をみてもらったあと、丁重に三輪山にまつっておくのがよかろう。
しかしそもそもあのおばが、大物主に吹き込まれたことをそのまま神託として告げたせいで、王権が巻き込まれてしまったのが問題なのだ。
巫女の神託というかたちで、大物主のような輩が介入する隙を与えている。
あのような巫女政治はそもそも、神武以前の伝統の政治手法なのだから、わたしの代で巫女の政治介入も終わらせてやろう。
ここにきてわたしは、ようやく大物主と倭迹迹日姫命の神話のエピソードが理解できたようにおもえます。
つまり倭迹迹日姫命が「お顔が見たい」と望み、櫛箱をのぞくと子蛇(大物主)がいた。
そしておどろいた倭迹迹日姫命の陰部に箸が刺さって死んだ、というくだりです。
わたしはこれを最初、単に老いた大物主に倭迹迹日姫命がおどろいて拒否した、と解釈したのですが、もっと深い意味があったようです。
櫛は巫女と結びつく神具なのですが、この箱の中に蛇が入っていたということは、出雲の者(ヘビ)がヤマトの巫女にとりついていた、ということでしょう。
崇神天皇は、大物主を出雲のスパイのような存在であるとみなしました。
このとき大物主の子種をはらんでいた倭迹迹日姫命も、大物主と出雲の関係におどろきます。
そして倭迹迹日姫命が自死……あるいは最悪、ヤマト王権によって殺されたのではないか。
けっきょく大物主は三輪山にまつられる存在となり、倭迹迹日姫命も箸墓古墳にまつられ、イザナギの時代から続いていた巫女政治も、いったん終わりました。
ところで倭迹迹日姫命で巫女政治が断絶したあと、アマテラス(巫女)をヤマトではないどこかにまつるための長い旅が始まります。
崇神天皇は、巫女を政治中枢から遠ざけたかったのでしょう。
まず崇神天皇の娘の豊鍬入姫命が、アマテラスの鎮座する場所を求めて全国を旅します。
しかし豊鍬入姫命は病に倒れ、次に11代垂仁天皇の娘の倭姫命(ヤマトヒメノミコト)が後を継ぎました。
そして長い旅の末、ようやく天照大神は伊勢の地に鎮座することになります。
この旅の中でアマテラスの鎮座する候補地になった場所が、全国各地の元伊勢として残りました。
さて、ギズモさんのご質問の件なのですが、大物主と事代主は、おっしゃるとおり同一であるとわたしは考えています。
つまり出雲で事代主と呼ばれていた神が、ヤマトでは大物主と呼ばれたのです。
そして事代主が、国譲りの際に大国主の運命を決定づける働きをしたことから、大国主の奇魂・幸魂ということになったのでしょう。
では、事代主がなぜヤマトへ向かうことになり、大国主の奇魂・幸魂となったのか。
ここからは話をわかりやすくするための、わたしの創作の物語をお聞きください。
国譲り(くにゆずり)とは、関東の領有権をめぐる、ヤマト王権と出雲王国の戦争でした。
ヤマト王権は九州と奈良から軍勢を送り、出雲もまた地方と連合して戦いましたが、稲佐浜で進退きわまります。
ギズモさんが問われた通り、このときタケミカヅチの軍勢は「さあ、国譲りをするのかしないのか、否・然を決めよ」と迫っていました。
しかしこの戦争では各地の王国が出雲に味方しており、天孫族の軍団に屈するべきではないという声も多くあったのです。
海岸近くに即席の陣屋を築き、出雲軍は最後の決断を急ぎます。
事代主は、もはや戦争を続けることは得策ではないと主張しました。
「ヤマトで少彦名が倒れた後、この国(関東)はわたしたちが必死になって開拓した。
関東の領有権が出雲にあるのは明らかである。
しかし出雲が国づくりに注力して疲弊したいまになって、ヤマトは国づくりの功を奪おうと、出雲に戦争を仕掛けた。
大義はわれらにあろう。
それでもこの戦をやめよというのか」
事代主が申し上げました。
「国づくりの功が出雲にあることはだれもが知っております。
しかしこのまま戦えば、出雲は滅びるでしょう。それではもはや出雲にはなにも残りませぬ。
これよりわたしがタケミカヅチと交渉を行いましょう。
大国主様がこの戦の引き際をつくっていただけるなら、わたしは大国主様の名のもとに出雲の国体を護持することを要求しまする」
ほとんどの人々が意地とプライドでものごとを考える中、事代主は戦争さえ取引としてとらえていました。
さらに事代主は続けました。
「たとえヤマトに国をゆずったとしても、国づくりの功は大国主様のものです。
わたしはなんとしてもヤマトの王権に挑み、わが身を賭してヤマトに出雲の爪痕を残しましょう」
大国主はしばらくうつむきながらじっと考えていましたが、顔を上げて、いいました。
「よくわかった。おぬしに頼みたいことがひとつある。
ヤマトに命じて、出雲に社をつくるように。それこそが出雲の国体である。
また、おぬしにヤマトの青垣(山)を与えてもらえるように交渉せよ。
そこで製鉄をおこない、少彦名の縁をたどって産業を盛り立てれば、ヤマトはぬしを頼るであろう。
ヤマトへはこの戦に参加した同盟国のめぼしい者も連れていき、ヤマト王権に士官させよ。
出雲の命運はおぬしに託した」
わたしはこのときに事代主が、若きタギシミミやカンヌナカワミミたちを連れて行ったのではないかと推測しています。
大国主は国譲りのあと出雲大社にまつられたとありますが、それはあるいは戦死を意味するのかもしれません。
しかし事代主がおらず、出雲が徹底抗戦の果てに敗れていれば、神話での出雲および大国主の評価はまったくちがったものになっていたはずです。
その点で、やはり事代主は大国主の運命を決定づける、奇魂・幸魂だったのでしょう。
そして事代主はヤマトで大物主となって、出雲とヤマトをつなぐ経済界のドンとなり、天皇の外戚の座を執拗に狙い続けました。
しかしわたしは、もちろん出雲に対して同情的ではあるのですが、だからヤマト王権がわるい、ともおもえないのです。
神武天皇はヤマトの主権がナガスネヒコに奪われぬよう、命をかけて奮闘しました。
天孫族からすれば、
大国主が関東の領有権を主張したとき、もしヤマトがそのまま受け入れていれば、それはヤマト王権が出雲の連合に平らげられることを意味します。
ヤマト王権は強大な国家が弱小国家を虐げるようにして国譲りを迫ったのではなくて、出雲の脅威に対してとことん必死だったのではないでしょうか。
欠史八代の争いも、それだけヤマトにいた多くの者が
まだ明確な国家がなかった時代に、神武天皇は見事に最高権力者としてあるべきビジョンをみせつけました。
個人的に神武天皇は、ある種の清潔さを感じる稀有な神であり、やはり偉大だったとおもいます。
【注】
ここでわたしは国譲りの話題で神武天皇を引き合いに出しましたが、国譲りの戦争はヤマトに饒速日がいたときに行われたものかもしれません。
神武東遷にタギシミミが参加していたのであれば、国譲りの戦争はそれ以前に行われていたことになるからです。
出雲に神が集まる神迎神事についてのお話をありがとうございます。
出雲の神迎えは神話にはなさそうなエピソードなので調べてみました。
これは平安時代あたりから形作られていった民間伝承なんですね。
和風月名の神無月というのは、もともと奈良時代から伊勢神宮で10月に行われていた神嘗祭(かんなめさい)から、神嘗月(かんなめづき)と呼ばれていたようです。
この嘗というのは、神々が新米を召し上がるという意味ですね。
神嘗祭では天照大神に新米を献上し、11月の新嘗祭では全国の神々、そして天皇に新米を献上します。
この神嘗月が平安時代に、八百万の神が大国主に会いに行く「神無月」へと解釈が変わっていき、出雲ではさらに「神在月」ということになりました。
民間伝承ですから、言葉遊びのようにして意味が変化してるんです。
八百万の神々が大国主、そして出雲に会いに来てくれるという物語は、大国主や出雲に同情した日本神話の読者をホッとさせる後日譚として、市民権を得たのかもしれませんね。
熱海の来宮神社では「大己貴命・五十猛命・日本武尊」の3柱をまつっているのですね。
こちらも来歴を拝見しました。
おそらく古くは明神信仰と権現信仰が混じる形で、標高700mほどの日金山を霊峰として、地元特有の神仏を崇敬していたのでしょう。
それで、「木の宮」から「来宮神社」になったようですね。
ご祭神の一柱である五十猛命は木の神です。
五十猛命はスサノオとともにソシモリへ行き、そこで日本にはない木の種を持ち帰って、大八洲をすべて山にし、紀伊の大神になったそうな。
紀伊の語源は「木」です。
来宮神社ではきっとむかしから、東国の民としての猛々しい誇りと、山の霊気にあやかり、ご神木をあがめるような、素朴な崇敬があったところなのでしょうね。
ところで、親から4月に、紀伊の熊野三山にお参りしないかと誘われました。
それで熊野についても調べていたのですが、つい最近、ある出来事が起こりました。
来年度、自治会の副会長をしていただく予定だった方に病気がみつかり、治療に入るということで、わたしが来年度、また副会長をすることになったのです。
自治会長・副会長は新年度にはあれこれと忙しいので、実家の母に電話し、旅行の話はキャンセルしました。
わりかし本気で残念なのですが、公共の役割ですから仕方ありませんね(笑)
あるいは今回熊野に行けないことも、なにかの暗示なのかもしれません。
きっとまた、呼ばれれば行けることもあるのでしょうし、焦らず待つことにします。
熊野について調べたことは、また機会があればお話ししますね。
さて、もう慣れてしまわれたかもしれませんが、今回もたいへん長い話になってしまいました(笑)
できるだけわかりやすくを心掛けてはいるのですが、なにせ今回も入り組んだ話でしたから、ややこしいとおもいます。
一万字を越えると、どこを拾って返信すべきかで悩まれるでしょうし、毎回心苦しくおもっています。
なにとぞご返信はご無理のないようにお願いします。