山麓王国

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こんばんは。

今回はまとまった考察はせずに、雑談をしようとおもっていたんですが、結局いろいろ書いてしまいました(笑)



前々回、ギズモさんが花粉症のお話をされていましたが、当地よりずいぶん早い印象で、わたしは2月にはまだ症状らしい症状がありませんでした。

それで花粉症の地域差について調べてみたのですが、太平洋側と日本海側だと、太平洋側のほうが春は早く訪れるようですね。

また都市部のほうがヒートアイランド現象や、排気ガスと結合するなどで、花粉症は強く出るようです。

もちろん田舎は杉山や檜山が近くにあるので、結局症状が強く出るのはおなじだとおもいますが(笑)



ところで、熊野について番外編の話があります。

以前にも話したことがあるような気がするのですが、きみょうな偶然というか、不思議な体験です。



わたしはギズモさんと歴史のお話しをするようになってから、どうも司馬遼太郎さんがちょくちょく様子をうかがっているような気がしてなりません。

もちろん司馬さんの肉体は消滅しているわけですが、どこかから「いまのあんたはこれを読まんとアカン」といって、作品を差し出してくれているような気がするのです。

『この国のかたち』というエッセイ集をトイレ読書している間、ギズモさんと歴史の話をしていると、作品の中でその話題が出てくることは一度や二度ではなく、ほとんど毎回なにかしら接点が出てくるのでした。

こちらが話題にしたことが、あとから司馬さんの作品の中に出てくるのです。



もちろん、わたしが司馬さんの作品を読むときに、わざわざ接点を探して関連付けている可能性はあります。

しかしそれにしたって、頻度が多い。

わたしは読書家でもなく、一日に数ページ~数十ページほど、トイレや風呂といったついでになんらかの本を読んでいる程度です。

ここ数年は司馬さんの作品が多いのですが、いまは平岩弓枝さんの西遊記全4巻を数か月かけて読んでいます。

平岩さんの作品からはこちらの話題にシンクロするようなことはありません。



で、つい数日前、何年かぶりにAmazonのfireタブレットを充電して立ち上げました。

もはやパスワードも忘れていて難儀したのですが、なんとかおもいだして中に入ると、以前購入して読まずじまいになっていた、司馬さんの『木曜島の夜会』の電子書籍があったのです。



なんとなく、風呂読書をしてみようとおもいました。

わたしは老眼鏡がないと本が読めないのですが、電子書籍であればフォントを大きくできるので、入浴中でも読書ができます。

読み進めていくと、なんとこれが熊野の話でした。

ちょうど紀州や熊野について調べて、前回ギズモさんに返信したあとです。

『木曜島の夜会』というタイトルからまさか熊野が出てくるとはおもいもしませんでした。



司馬さんで熊野が出てくる作品を検索すると、『街道をゆく』が出てくるばかりです。

司馬さんの作品にどれだけ熊野が出てくるかわからないんですが、木曜島の夜会にあたったのは相当な偶然でした。



すこし、わたしなりの解説も加えながら木曜島の話をします。

木曜島はオーストラリア領の小さな島で、明治時代から戦後まで、熊野の人々を中心に貝を収穫していました。

真珠貝(南洋真珠)なんですが、当時は真珠も貝肉もおまけみたいなもので、衣服のボタンをつくるのに貝殻が高級品として重宝されたのです。

海に潜ることをいとわない適性が求められ、死の危険がつきまとう過酷な仕事なんですが、高給が得られることもあり、当時は熊野(串本町)の人々が多く木曜島に渡ってダイバーになりました。



なぜ熊野なのか、そのルーツをたどると、紀州の海人族に行き着くといいます。

司馬さんによると、海人族としての紀州人の性質が、明治に入って、木曜島のダイバーの適性としてあらわれた、というわけです。



しかし海人族は全国に分布していました。

日本の海岸沿いであればどこでもよさそうなものですが、熊野の海人族は神武水軍以来の筋金入りです。

また明治に入ったばかりの熊野では、ともかくお金が必要でした。

明治政府が、これまで認められていた米納を、すべて金納にするように統制したからです。



それまでお金の必要がなかった農民は困り果てて、その地域で現金商売をしていた人に田んぼを管理してもらい、みずから小作人になりました。

小作人は地主の奴隷のようなものですが、それでも望んで小作になったのは、これまでどおり百姓をして地主に年貢を出していれば、地主がその米で金を得て、税を立て替えてくれるからです。

ちなみに紀州と年貢の関係については、「八公二民」というすさまじい税率が有名です。



紀州藩は徳川吉宗の時代に、藩が百姓のつくった米を8割持っていき、百姓に2割残しました。

すなわち八公二民。

これはいくらなんでもムチャな税率です。

江戸幕府の天領では飢饉の折でも四公六民を堅持していました。



宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」では、一日に玄米四合を食べるという記述があります。

玄米四合でおよそ2000kcalですから、米だけ食べていた時代であれば、それくらい食べてようやく人心地がつくくらいの量でしょう。

四合は600g。

これを一年毎日食べたとしたら、約220kg必要です。



むかしは3反の田んぼで米を作って、おおむね1トンの収穫でした。

人力で3反の田んぼを維持しようとすれば、家族が総出で必死にやらねばなりません。

このうち800kgを藩が持っていってしまえば、残りは200kg。

子供と親を含めて家族が10人いたら、ひとり一年に20㎏しか米を食べることができません。



20㎏なんて、年を越すこともできないような量ですね。

おそらく当時の紀州の農民は、ほんの少量の米に雑穀やイモ、菜っ葉や雑草を混ぜた雑炊を常食して、命をつないでいたのでしょう。



明治維新の際にも、危急存亡であるとのことで八公二民が復活します。

このときはさすがに百姓の不満が爆発して一揆が起こり、藩はこれをなんとか鎮圧したものの、増税の撤回と税率の引き下げの要求を飲まざるを得ませんでした。

そして明治維新以降、税が米納から金納に切り替わります。

税率は「地価の3%」でした。



これがどれくらいの税率かというと、天領の四公六民を参考にしたもので、平均収穫量の半分ほどが税に持っていかれるくらいだったといいます。

半分なら、八公二民よりマシだとおもわれるかもしれません。

しかし地価の3%は固定なので、不作でお米がほとんど穫れない年でも、税は「地価の3%ぶんをきっちり払え」ということになってしまったのです。



熊野のような山深い地域で、現金を得るのはたいへんなこと……というより、ほとんど無理なことでした。

なにせ資本主義をするにも産業がなく、地理的に孤立しています。

水産業にしたって、魚を売るにも交通網が発達していません。

そこへ西洋から、木曜島で貝殻を集める、お金のもうかるきみょうで危険な職業がやってきたそうな。

西洋の人々も、木曜島の貝に目をつけたはいいものの、ダイバーになれる人を探すのに苦労していました。



なにせまだ世界中で資本主義が行き届いていない時代ですから、お金のために命を懸ける人が少なかったのです。

オーストラリアの現地人(アボリジニ)はお金に興味がありませんでした。

中国人はこの仕事を嫌がり、西洋人はこの仕事に向いておらず、といった具合で、お金に飢えていて海に潜るのが得意だった熊野の人々は、この仕事にうってつけだったのです。



最盛期、木曜島のダイバーの8割が、熊野人だったといいます。

しかしこの仕事は極めて危険で死と隣り合わせだったうえ、貝ボタンの需要は戦後プラスチックが流通すると急速にすたれました。

ちなみに現在、和歌山の串本から三重県の鳥羽は真珠の養殖の先進地ですが、これは木曜島のダイバーたちの知見が生かされてできた産業です。



なぜ司馬さんがわたしたちの会話にさりげなく入ってこられるのか、理由はわからないんですが、ほとんどの場合、こちらの知りたいことを掘り下げてくるような刺激を与えてくれます。

今回にしても、海人族というキーワードから思考のとっかかりをいただきました。

これを、たんなる偶然と考えるべきか、あるいは以前お話したような「五次元の介入」と考えるべきか。

なんだか結局バカバカしい話なんですが、わたし自身は司馬さんに「あんたもええかげん、なにか世に問うたらどないや」とお尻を叩かれているような気もしているのです(笑)



海人族について、お話しします。

海人族は当時の日本各地の川や海を支配した者たちで、それぞれ独立した存在でした。

いまでも日本の各海や川で、独立した漁業権がありますが、いにしえの海人族も各地の海を自治していたんですね。

かれらのルーツをたどると、インドシナ系の人々が船で日本に渡来してきたところからくるといわれます。

船をつくる技術を持った者が日本にきて、その沿岸を支配して自治した、というわけですね。



神武と対立したナガスネヒコも海人族とのつながりが指摘されています。

すねの長い人という、きわめて特徴的な名前ですが、それはかれの体型が当時としては日本人離れした、インドシナ系の系譜だったことをあらわすのかもしれません。



さて、重要な余談なんですが、古代の名前に「ヒコ(彦・毘古など)」がつくケースがあるでしょう。

このルーツをたどっていくと、どうも海人族につながっていくようなのです。



日本の地名に「我孫子(あびこ)」があります。

これは古くは「阿毘古」とも書かれました。

この毘古は、たとえば「少名毘古那」「猿田毘古」とあるように、人名にもつかわれる言葉なんですね。



我孫子の語源のひとつは、網曳(あびき)が転じたものだといいます。

網を曳く者、つまり漁師。



大阪の天王寺の南側にも我孫子がありますが、いまでこそ都市部で周囲一帯アスファルトと建物に覆われているものの、ここは海運をつかさどる住吉大社の近くで……ようするに大昔はここから西は一面の海でした。

また千葉県の我孫子市は、海には面していませんが、南の手賀沼、北の利根川にはさまれる形で、おそらくその地の産業として漁業があったことでしょう。

つまり古代におけるヒコという名前には、海や川に関わる者というニュアンスがあるようなのです。



すべてがパターンに当てはまるわけではないものの、そのように考えるととてもおもしろいことがわかります。

猿田彦、少彦名、クエビコ、ナガスネヒコ……。

神武天皇も諱(いみな)は「神日本磐余彦天皇」で、彦が入りますね。



ちなみに天皇の諱は、14代仲哀天皇まで、ずっとヒコの名が入ります。

饒速日やニニギノミコト、山幸彦やウガヤフキアエズにも諱にヒコが入ります。



しかし欠史八代以降は彦がついても、あまり海人族のニュアンスが感じられません。

現代では名前に彦がついても、べつに水を連想することはないですね。

おそらく古代の間に、徐々にヒコという名前が、男性をあらわすだけの記号に変わっていったのではないかとおもいます。



少彦名が天乃羅摩船でやってきたというのは、インドシナの医学や農学の知識をもった者が船で日本にやってきて、出雲やヤマトで重宝されたのかもしれません。

猿田彦は海人族のネットワークから外れた海賊のような存在で、日本の海のことをよく知っており、ニニギを高千穂に連れてきたのかもしれません。

と、想像がどんどん広がりますが、このあたりにして話を戻しましょう。



神武天皇ははじめて近畿へ向かったにもかかわらず、浪速で敗戦したあと、紀州をぐるっと回り込んで新宮に上陸しました。

神武軍がなぜそんな戦略をおもいついたのか不思議だったのですが、おそらくその地の水運を理解していた海人族が、神武軍を先導していたのでしょう。



神話では、神武には3人の兄がいました。

彦五瀬命(ヒコイツセノミコト)、稲飯命(イナイノミコト)、三毛入野命(ミケイリノノミコト)です。



彦五瀬命は東遷のさなかにナガスネヒコの矢を受けて薨去しました。

彦五瀬命という名前にも、瀬が含まれるあたりに海との関係を感じますが、穀物と食料の神とも解釈されているそうです。



稲飯命は熊野で嵐にあった際、「じぶんの母は海の神であるのに、なぜこんな目にあうのか」と嘆いたあと、海に入って鋤持神(サイモチノカミ)になったといわれます。

母が海の神というのは、父のウガヤフキアエズの妻が玉依姫で、ワタツミの娘だったからです。

稲飯命も、海との関係が強いですが、名前はやはり稲と飯で、穀物と食料ですね。

入水して神になったのは、やはり死を意味するのかもしれません。



さらに三毛入野命も同様に、熊野へ向かう嵐の中で嘆いたあと、荒波を渡って常世の国へ渡ります。

ちなみに古代、ケという言葉は穀物や食料をあらわしました。

気比神宮(けひじんぐう)のケも穀物と食料をあらわし、外宮の祭神である豊受大神(トヨウケ)のケも、食料と穀物をさしますね。

神武天皇も「若御毛沼命」と呼ばれたりしますから、やはり食物と穀物をつかさどっています。



ようするに神武の兄弟はみな熊野の海と強い関係性があり、熊野の海で亡くなり、かつ穀物と食料に関係のある神でした。

しかしこの三柱の神を実際の神武の兄と考えるべきかは、むずかしいところです。



神武以外、兄弟全員熊野へ行く船で薨去していることを、どう考えるべきでしょうか。

なぜ兄弟の中で神武だけが嵐の中で生き延びることができたのでしょう。



さらに、浪速でナガスネヒコに敗戦したとき、なぜ神武が陣頭指揮をとっていたのでしょう。

「日の御子であるわたしが、太陽ののぼる東にむけて矢を放ったのが敗因だった。天神地祇(天神族と国つ神)をまつり、西へ回り込もう」

と言ったとき、長兄の彦五瀬命は矢を受けて重傷ではありましたが、まだ生きていました。

ほかのふたりの兄も健在です。

なぜ末弟の神武が、もう王になったつもりで話をしているのでしょうか。



この点疑問は残るのですが、いずれにせよ、東遷に海人族が大勢かかわっており、陣頭指揮をとれる人間も神武を含め、複数いたのでしょう。



そのように考えると、神武軍は相当な大船団でした。

そして浪速で敗戦したあと、熊野上陸までの間にかなり数を減らし、陣頭指揮がとれる人間も減ってしまいました。

あるいは紀ノ川沿いにいた名草戸畔(ナグサトベ)、熊野にいた丹敷戸畔(ニシキノトベ)といった女首長を退治したというのは、神武軍の略奪行為だったのかもしれません。



さて、油断するとどんどん長くなりそうなので、今回はこのへんで切り上げましょう(笑)



ギズモさんから熊野権現についてのご質問をいただきましたが、おっしゃるように熊野の縁起は熊野権現でいよいよややこしくなりました。

そしてギズモさんが冒頭で書かれていたように、多くの人はこのややこしい縁起に、ふつうの寺社には感じない妖しい雰囲気を感じ、威容に打たれたのでしょう。



たとえば熊野三社の神はそれぞれ、

家津美御子大神(ケツミミコオオカミ)(阿弥陀如来)

速玉大神(ハヤタマオオカミ)(薬師如来)

牟須美大神・夫須美大神(ムスビオオカミ・フスミオオカミ)(千手観音)

です。



これらの神々は、記紀にはありません。

つまり、熊野で独自に信仰されていた大神でした。

その名前はそれぞれ、その後の縁起のややこしさを考えると、あまりにもシンプルなものです。



ケツミミコというのは、ケが入るので、食べ物の神ですね。

ちなみにケは、毛です。

ようするに「生えてくるもの」で、植物や木々という意味でした。

野菜や果樹が生えているということと、それらが食べ物になるということが、「ケ」のひと言に集約されているんですね。

熊野の大地に生える豊かで美しい食べ物を司る御子として、ケツミミコです。



速玉というのは、イザナギの吐いた唾から生まれた速玉男命からきています。

唾液というので、直感的に汚いとおもうかもしれません。

が、この場合は真逆で、勢いよく放たれた神聖な水がけがれを祓うということで、水神、海神としての性質をもちます。

速玉大神は熊野の海や川の水神でした。



牟須美大神は、「むすび」とありますが、これはものごとの始まりを意味します。

夫須美大神も言葉は違いますが、おなじ「むすぶ」という意味です。

牟須美大神は、あらゆる魂を生み出す熊野の大地をつかさどる神ということになるのでしょう。



これら非常にシンプルな由来をもつ自然崇拝の神々が、後世に熊野権現として、阿弥陀如来や薬師如来、千手観音と合一しました。

ちなみに本地垂迹とは、仏教の仏(本地)が、日本神話の神の姿を借りてあらわれる(垂迹)ことです。

そして、この仏が姿をあらわして、権現になります。

徳川家康も権現扱いされましたが、あれは家康が人の姿を借りて垂迹していたけれど、その本地は東照大権現であった、という物語ですね。



明治新政府が目の敵にしたのが、権現と牛頭天王でした。

なぜかというと、朝廷をないがしろにして、圧政を敷いてきた徳川が権現を名乗っていたのも気に入らないし、神道を原理主義的にとらえたら、神仏習合はもってのほかだったからです。

このため牛頭天王はスサノオに姿を変え、祇園社は八坂神社になりましたし、各地の権現は日本の神々の神号があらためて与えられたのです。



しかし皮肉なことに、東照大権現に関しては、東照社が東照宮に改められはしたものの、祭神が徳川家康という実際上の人物であるために、あらためて神の名を与えるわけにもいかず、東照大権現もそのままになってしまいました。

いわばこの家康を排除するのが目的だったはずなのですが、明治政府はこの本丸を生き延びさせてしまうんですね(笑)



それはともかく、熊野三社についても、

家津美御子大神(ケツミミコオオカミ)(阿弥陀如来)→スサノオノミコト

速玉大神(ハヤタマオオカミ)(薬師如来)→イザナギノミコト

牟須美大神(ムスビオオカミ)(千手観音)→イザナミノミコト

となりました。



千手観音がイザナミというのは百歩譲ってわからなくもありませんが、なぜ阿弥陀如来がスサノオ、薬師如来がイザナギになるのでしょうね(笑)

わたしは、明治以降ややこしい縁起がシンプルになればよかったけれど、よけいややこしくなってしまった、といいました。

その原因は、ケツミミコやハヤタマへの信仰に戻せばよかったのに、わざわざスサノオやイザナミを付け加えてしまったところにあるとおもっています。



ギズモさんのおっしゃった船禅頂は、日光を補陀洛山に見立てて、勝道上人をおまつりしてるんですね。

日光という名前は栃木の二荒山(男体山)を音読みして「にこう」から「にっこう(日光)」に転じたといいます。

さらに二荒山を訓読みして、ふたあら → ふたら → 補陀洛 に転じました。

言葉遊びのように信仰が発展していく場合、「神嘗月」から「神無月」に変化したときもそうでしたが、何でもありの信仰の匂いがしますね(笑)



しかし日光での補陀洛信仰は、勝道上人より後に、熊野那智の修験者が全国に遊行する中で根付いたのではないかという気もします。

ギズモさんのおっしゃった高野聖もそうですが、熊野信仰が全国区の知名度になったのは、かれら遊行者が全国で紀伊の霊験を布教したからでした。

日光の山々は修験にはもってこいですし、修験者が好んで集まり、徐々に熊野信仰と結びついていったのかもしれません。

その中で同時並行的に、言葉遊びで二荒山と日光、補陀洛が結びついたのではないでしょうか。

中禅寺湖からはるか補陀洛を礼拝するのは、たしかにきみょうではあるのですが、湖に花を手向けるあたり、趣があっていいですね。



モロヘイヤうどんの活用レシピについて、ありがとうございました。

わたしはそのまま茹でて釜揚げみたいにして食べるばかりだったのですが、パスタにしていただくのはよいですね。

うちはいま植物油の類がないのですが、唯一もらい物のアマニ油の小さなボトルだけが冷蔵庫にありました。

これでペペロンチーノをつくろうとおもいます。



わたしも話しそびれていたのですが、2月にようやくかつおの刺身を買い、満を持してギズモさんからいただいたてこねずしの素を利用しました。

情けない話なのですが、このところの値上げラッシュで、わたしの節約志向が強まってしまい、刺身を買う機会がほとんどなくなったのです(笑)

それがたまたま月初めのセールで特売になっていたので、喜んで買ってきました。



結論からいうと、わたしが学生時代に伊勢市内のスーパーで買っていたてこねずしとは比べ物にならない美味しさでした。

合わせ酢の風味も、市販の寿司酢ではなく寿司屋の酢飯みたいです。

漬け醤油も深いコクがあって、かつおにテリが出てもっちりとした風味になりました。



伊勢の料理というのは、伊勢うどんもてこねずしもそうですが、ファーストフード的なんです。

伊勢うどんはお伊勢参りにきたたくさんの客に対応できるように、わざと伸びきったうどんにして、甘辛いしょうゆだれをかけてすぐ出せるようにしていました。

てこねずしも、漁師が船上ですぐにご飯を食べるためにつくられた料理で、凝ったところがありません。

そのぶん、素材のしょうゆにはこだわりがあるのでしょうね。

三重県は色の濃くて深みのあるたまり醤油が有名なのですが、これは醤油発祥と言われる和歌山の湯浅からきている文化なのでしょう。



ふとおもいついて、手こねずしのかつおに漬けこむ醤油(醤油にみりんと砂糖が原材料でした)の余りに、少量のだしの素を加えて、チルドうどんとネギでなんちゃって伊勢うどんをつくったのですが、あまりにも三重県で食べた伊勢うどんの味でおどろきました。

醤油がおいしいと、てこねずしも伊勢うどんもおいしいという発見をさせていただいて、感謝しております。

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きょうもひどい忙しさで、朝からジャガイモの植え付けと春菊の種まきをすませて、午後はしいたけの原木の運搬に追われました。

原木500kmキログラム(←疲れていたのでしょう)を一輪車に乗せて、1万歩。いい運動でした。

伊勢佐木町ブルースのあのフレーズは、集団でやるものではないとおもいます(笑)

集団で本気でやればオットセイの鳴き声のようになるでしょうし、照れるとそれこそターザンのようになってしまうことでしょう。

清志郎の500マイル、いいですよね。

kmに直すと、500マイルはおよそ800kmになります。

大阪から下道で宮城県まで行ったとき、だいたい片道でそれくらいの距離でした。

でも日本のように蜘蛛の巣な交通網のあるところだとあの原曲はイメージしづらいとおもいます。

あれはむかしのアメリカあるいはイギリスのような土地における、延々と田舎道を走り続ける鉄道の800kmであり、「歩いて戻ってこられる距離ではない」「まして文無しは帰ることができない」というようなニュアンスが含まれているのでしょう。

それを清志郎は、日本的な郷愁を感じさせる歌詞に変えて、元歌のニュアンスは崩さないように、ものすごくうまいアレンジをしているんですよね。

ゴンドラの唄もいいですね。映画『生きる』をみてしまうと、聞くと涙腺がゆるむかもしれません(笑)

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