全年11月30日の投稿[4件]
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とんでもないです、農園主さんが謝る必要はぜんぜんありません。
返信はいつでも、無理のないようにお願いしますm(_ _"m)
ご自分の記事も、ちゃんと書いてくださいね。
1115、これからゆっくり読ませていただきます(*^^*)
追記
1115、今読み始めてびっくりしました。
さきほど、森鴎外の「寒山拾得」「寒山拾得縁起」、そして芥川龍之介の「寒山拾得」を読みましたが、最低の基礎知識はあるはずなのに、どうも理解が追いつきませんでした。
解説してくださっていたとは。
これから先を読ませていただきます。
ありがとうございます!!
返信はいつでも、無理のないようにお願いしますm(_ _"m)
ご自分の記事も、ちゃんと書いてくださいね。
1115、これからゆっくり読ませていただきます(*^^*)
追記
1115、今読み始めてびっくりしました。
さきほど、森鴎外の「寒山拾得」「寒山拾得縁起」、そして芥川龍之介の「寒山拾得」を読みましたが、最低の基礎知識はあるはずなのに、どうも理解が追いつきませんでした。
解説してくださっていたとは。
これから先を読ませていただきます。
ありがとうございます!!
1114
ごめんなさい。今回は話が長くなるので、返信の話題をひとつに絞らせていただきます。
最近ひとつ気づいたことがあって、仏教というのは、メーテルリンクの『青い鳥』によく似てるんですよね。
青い鳥では、チルチルとミチルのきょうだいが幸せをよぶ青い鳥を探して遠い旅に出るのですが、結局みつからず、家に帰って鳥かごをみたら、そこに青い鳥がいたという話です。
いくら遠いところに幸せを探しても、結局幸せはいつもどおりの生活そのものの中にある、という教訓が込められています。
仏教もさんざん修行して、「悟り」なるものを探し求めるんですが、結局じぶんそのものに悟りがあって、ただ生きることこそが悟りなんだ、というところに行きつくようです。
般若心経は無を知ることで悟りが得られると説きますが、この無というのは、じつは無限とおなじことなんですね。
般若心経の「無」は、「人間には知り得ぬ概念」という言葉に置き換えると、わかりやすいかもしれません。
この世のすべてはわれわれには知り得ないことであり、目で見ていることも感じていることも、当たり前にわかっている(有る)とおもえるようなことは、じつはなにもかも知り得ないこと(無・無限)なんだというのです。
無や無限はわれわれに知り得ぬ概念ですが、じつはわれわれはこの無と無限の中にある。
すべてをわかるために修行をしているのに、結局、なんにもわからないということを腹の底から認めなければならないということを説いているわけです。
つまり、わかろうと努力しながらも、わけもわからずじぶんを生きていることこそが悟りである、ということになります。
寒山拾得にしても、かれらは風狂ですが、仏教というものを深く理解していながら、わざと社会通念とは無縁に生きています。
以前、禅は仏教の中ではめずらしく個人主義だといいましたが、文殊菩薩と普賢菩薩であるとさえいわれる寒山と拾得は、社会の中で生産をするわけでもなく、仏道を広めるわけでもなく、ただ生きるままに生きていて、禅僧たちはそういう個人主義の究極的なところにあこがれているといいます。
ここまでを前提として、森鴎外の『寒山拾得』をぼくなりに解説します。
現在の上海から南に200kmほど離れた台州にあたらしく着任した閭丘胤という官吏が、豊干という乞食僧と出会い、頭痛を治してもらうんですね。
そこで閭丘胤が豊干に礼をしたいと言いました。
上の会話が意外と重要です。
豊干は仏陀にたとえられる人物です。
閭丘胤は豊干がどこの寺にいたかをたずね、国清寺であることを知ると、そこにはためになるような人はいるか、とさらにたずねます。
すると豊干は、国清寺には寒山と拾得という僧がいるが、かれらはじつは普賢菩薩と文殊菩薩であるというのです。
閭丘胤は国清寺に訪れ、寒山と拾得に出会い、じぶんの社会的な身分を伝えて、ていねいに自己紹介をします。
すると寒山拾得は大笑いして、「豊干がしゃべったな」といって走り去った、というのがあらすじです。
まず、仏陀にたとえられる豊干はさっき言ったとおり、「群生を福利し、驕慢を折伏するために、乞食」をしています。
つまりその仏道には人々を救い、みずからのおごりをくじくという明確な目的があります。
閭丘胤の頭痛を治すことで、社会の役にも立っている。
つまり、仏陀は個人主義ではなく、衆生(群生)を救うために行動しているんだ、ということをここで述べています。
で、閭丘胤が寒山拾得に会い、じぶんの身分を告げ、できるかぎりていねいな礼をすると、寒山拾得は大笑いしました。
あれはどういうことかというと、寒山拾得は禅的な個人主義を極めていて、その生活から虚飾を捨て去っています。
なので閭丘胤の世俗的で虚飾にまみれた礼がおかしくなって笑うんですね。
同時に、群生(閭丘胤)を助けようと寒山拾得を紹介した仏陀(豊干)のことも皮肉って、「豊干がしゃべったな」と言いました。
寒山拾得(禅宗)にとっては、仏陀のやってる「群生を福利」することや、「驕慢を折伏」するようなことは興味がない、というわけです。
これがぼくの現段階での理解ですが、まだこれでようやく寒山拾得のとっかかりを得た、という感じです。
かなり長くなってしまったんですが、最後にもうひとつだけ。
ギズモさんはガラホを持ってらっしゃるんですね。
最近はなんでもかんでもアプリで登録して、便利な機能をという流れですが、そのたびにメールアドレスやパスワードをあたらしく登録するのがあまりにも面倒で、結局アナログに立ち返ってしまいますね。
ごめんなさい。今回は話が長くなるので、返信の話題をひとつに絞らせていただきます。
最近ひとつ気づいたことがあって、仏教というのは、メーテルリンクの『青い鳥』によく似てるんですよね。
青い鳥では、チルチルとミチルのきょうだいが幸せをよぶ青い鳥を探して遠い旅に出るのですが、結局みつからず、家に帰って鳥かごをみたら、そこに青い鳥がいたという話です。
いくら遠いところに幸せを探しても、結局幸せはいつもどおりの生活そのものの中にある、という教訓が込められています。
仏教もさんざん修行して、「悟り」なるものを探し求めるんですが、結局じぶんそのものに悟りがあって、ただ生きることこそが悟りなんだ、というところに行きつくようです。
般若心経は無を知ることで悟りが得られると説きますが、この無というのは、じつは無限とおなじことなんですね。
般若心経の「無」は、「人間には知り得ぬ概念」という言葉に置き換えると、わかりやすいかもしれません。
この世のすべてはわれわれには知り得ないことであり、目で見ていることも感じていることも、当たり前にわかっている(有る)とおもえるようなことは、じつはなにもかも知り得ないこと(無・無限)なんだというのです。
無や無限はわれわれに知り得ぬ概念ですが、じつはわれわれはこの無と無限の中にある。
すべてをわかるために修行をしているのに、結局、なんにもわからないということを腹の底から認めなければならないということを説いているわけです。
つまり、わかろうと努力しながらも、わけもわからずじぶんを生きていることこそが悟りである、ということになります。
寒山拾得にしても、かれらは風狂ですが、仏教というものを深く理解していながら、わざと社会通念とは無縁に生きています。
以前、禅は仏教の中ではめずらしく個人主義だといいましたが、文殊菩薩と普賢菩薩であるとさえいわれる寒山と拾得は、社会の中で生産をするわけでもなく、仏道を広めるわけでもなく、ただ生きるままに生きていて、禅僧たちはそういう個人主義の究極的なところにあこがれているといいます。
ここまでを前提として、森鴎外の『寒山拾得』をぼくなりに解説します。
現在の上海から南に200kmほど離れた台州にあたらしく着任した閭丘胤という官吏が、豊干という乞食僧と出会い、頭痛を治してもらうんですね。
そこで閭丘胤が豊干に礼をしたいと言いました。
「寸志のお礼がいたしたいのですが」
「いや。わたくしは群生を福利し、驕慢を折伏するために、乞食はいたしますが、療治代はいただきませぬ」
上の会話が意外と重要です。
豊干は仏陀にたとえられる人物です。
閭丘胤は豊干がどこの寺にいたかをたずね、国清寺であることを知ると、そこにはためになるような人はいるか、とさらにたずねます。
すると豊干は、国清寺には寒山と拾得という僧がいるが、かれらはじつは普賢菩薩と文殊菩薩であるというのです。
閭丘胤は国清寺に訪れ、寒山と拾得に出会い、じぶんの社会的な身分を伝えて、ていねいに自己紹介をします。
「朝儀大夫、使持節、台州の主簿、上柱国、賜緋魚袋、閭丘胤と申すものでございます」
すると寒山拾得は大笑いして、「豊干がしゃべったな」といって走り去った、というのがあらすじです。
まず、仏陀にたとえられる豊干はさっき言ったとおり、「群生を福利し、驕慢を折伏するために、乞食」をしています。
つまりその仏道には人々を救い、みずからのおごりをくじくという明確な目的があります。
閭丘胤の頭痛を治すことで、社会の役にも立っている。
つまり、仏陀は個人主義ではなく、衆生(群生)を救うために行動しているんだ、ということをここで述べています。
で、閭丘胤が寒山拾得に会い、じぶんの身分を告げ、できるかぎりていねいな礼をすると、寒山拾得は大笑いしました。
あれはどういうことかというと、寒山拾得は禅的な個人主義を極めていて、その生活から虚飾を捨て去っています。
なので閭丘胤の世俗的で虚飾にまみれた礼がおかしくなって笑うんですね。
同時に、群生(閭丘胤)を助けようと寒山拾得を紹介した仏陀(豊干)のことも皮肉って、「豊干がしゃべったな」と言いました。
寒山拾得(禅宗)にとっては、仏陀のやってる「群生を福利」することや、「驕慢を折伏」するようなことは興味がない、というわけです。
これがぼくの現段階での理解ですが、まだこれでようやく寒山拾得のとっかかりを得た、という感じです。
かなり長くなってしまったんですが、最後にもうひとつだけ。
ギズモさんはガラホを持ってらっしゃるんですね。
最近はなんでもかんでもアプリで登録して、便利な機能をという流れですが、そのたびにメールアドレスやパスワードをあたらしく登録するのがあまりにも面倒で、結局アナログに立ち返ってしまいますね。
寒山寺の話から、ずいぶん広くお調べになったことに驚きました。
こちらこそ学ばせていただき、ありがとうございます。
蘇州夜歌をご存じだったとはびっくり。
お聴きになってらっしゃるのは、渡辺はま子さんのでしょうか。
中国語のものは日本語の歌詞に忠実に作られていて、テレサ・テンのカラオケにもあったように思います。
渡辺はま子のカラオケだと、バックに蘇州の映像が流れるのですが、とても美しいです。
作詞は西條八十ですが、確かに楓橋夜泊のオマージュですね。
まったく気づきませんでした。
今朝、記事を読ませていただいた後に、「東京国立博物館の寒山拾得図―伝説の風狂僧への憧れ」という特別展があったことを知りました。
11月初めで終わってしまい(非常に残念・・なんで気づかなかったのか・・)、今は、横尾忠則の「寒山百得」というのが開催されています。
終了したほうには、
「寒山と拾得は中国、唐時代に生きた伝説的な詩僧で、世俗を超越した奇行ぶりは「風狂」ととらえられました。
中国禅宗では、悟りの境地として「風狂」が重要視されましたが、寒山拾得の脱俗の境地は、仏教に通じるものとして、中国や日本で伝統的な画題として数多く描かれてきました」と、書かれています。
禅宗の悟り、つい先日教えてくださった話ですね。
『寒山拾得』は読んだことがないのですが、芥川龍之介なども書いていて、森鴎外夏目漱石も出てきているようなので、早速読んでみます。
スマホのことですが、ガラホ(訂正)4Gの「ガラパゴススマホ」、通称ガラホを持っています←通称はどうでもいいですね(笑)
折り畳み式で、ガラホ(訂正その2)ガラケーと違って今後も販売していくようですし、Wi-Fiも使え、ネット検索もできるので、特に不便はありません。
美術館などや飛行機搭乗のチケット、一部のクーポンは使えますが、アプリをダウンロードできないので、困ることは増えています。
必要な時はタブレットを持参しますが、面倒ですね。
スマホを持たないのは、スクロールでめまいが起きるからなんです(笑)
タブレットは、画面が大きく字も大きいので、なんとかセーフです。
昨日、上海のあたりをグーグルアースで見てみたら、やっぱり平面でも目がグルグル(グーグルだから?)してしまいました(^_^;)
こればかりは、慣れませんね。
もし大丈夫なら、ドラクエも、お城の裏が見えるようになったあたりで中断しないですみました(笑)
こちらこそ学ばせていただき、ありがとうございます。
蘇州夜歌をご存じだったとはびっくり。
お聴きになってらっしゃるのは、渡辺はま子さんのでしょうか。
中国語のものは日本語の歌詞に忠実に作られていて、テレサ・テンのカラオケにもあったように思います。
渡辺はま子のカラオケだと、バックに蘇州の映像が流れるのですが、とても美しいです。
作詞は西條八十ですが、確かに楓橋夜泊のオマージュですね。
まったく気づきませんでした。
今朝、記事を読ませていただいた後に、「東京国立博物館の寒山拾得図―伝説の風狂僧への憧れ」という特別展があったことを知りました。
11月初めで終わってしまい(非常に残念・・なんで気づかなかったのか・・)、今は、横尾忠則の「寒山百得」というのが開催されています。
終了したほうには、
「寒山と拾得は中国、唐時代に生きた伝説的な詩僧で、世俗を超越した奇行ぶりは「風狂」ととらえられました。
中国禅宗では、悟りの境地として「風狂」が重要視されましたが、寒山拾得の脱俗の境地は、仏教に通じるものとして、中国や日本で伝統的な画題として数多く描かれてきました」と、書かれています。
禅宗の悟り、つい先日教えてくださった話ですね。
『寒山拾得』は読んだことがないのですが、芥川龍之介なども書いていて、
スマホのことですが、
折り畳み式で、
美術館などや飛行機搭乗のチケット、一部のクーポンは使えますが、アプリをダウンロードできないので、困ることは増えています。
必要な時はタブレットを持参しますが、面倒ですね。
スマホを持たないのは、スクロールでめまいが起きるからなんです(笑)
タブレットは、画面が大きく字も大きいので、なんとかセーフです。
昨日、上海のあたりをグーグルアースで見てみたら、やっぱり平面でも目がグルグル(グーグルだから?)してしまいました(^_^;)
こればかりは、慣れませんね。
もし大丈夫なら、ドラクエも、お城の裏が見えるようになったあたりで中断しないですみました(笑)
蘇州についてのいろんな情報、ありがとうございます。多くの学びがありました。
漢詩については、学生時代に苦手意識がついてしまって、あまり知らないんです。
きょう、楓橋夜泊の詩を教えていただいてから、ふと蘇州夜曲を聴きました。
君がみ胸に 抱かれて聞くは
夢の船唄 鳥の歌
水の蘇州の 花散る春を
惜しむか柳が すすり泣く
花を浮かべて流れる水の
明日のゆくえは 知らねども
こよい映した ふたりの姿
消えてくれるな いつまでも
髪に飾ろか 接吻しよか
君が手折りし 桃の花
涙ぐむよな おぼろの月に
鐘が鳴ります 寒山寺
メロディが好きで、あまり歌詞を深く読み込むことはしていなかったんですが、夜の歌であること、船宿に眠るような描写もあり、夜烏の部分を鳥の歌として、寒山寺の鐘が鳴るというあたり、楓橋夜泊のオマージュなんですね。
寒山寺と楓橋夜泊のことをうかがってから調べていくうちに、寒山寺が寒山拾得とつながっていることを知りました。
学生時代に森鴎外の『寒山拾得』を読んだとき、なんてつかみどころのない、わけのわからない小説なのだろうとおもったのですが、ようやく取っ掛かりを得た気がします。
といっても、寒山と拾得の物語は、仏教的な教訓もなく、寒山にも拾得にも特殊な仏性を感じるわけでもなく、いかにも禅宗の好みそうな話だとおもいます。
上海の建物について、もしやとはおもっていましたが、やっぱり過去の共産主義と、その後の市場開放と経済成長の影響が混じり合っている感じなんですね。
2LDK5000万ですか。
ぼくにはとても縁遠い世界ですが、いまの上海はそういう経済圏になっているのですね。
ところでギズモさんは、スマホは持たずとも、いわゆるフィーチャーフォンは持っておられるのでしょうか。
ぼくは楽天でスマホを契約して、安価につかっています。
ペイペイは便利だったのですが、来年からはYahoo!のクレジットカード以外では紐付けてくれないようで、ぼくはYahoo!のクレジットカードは持っていないので、結局今後スーパーなどの買い物はクレジットカードが中心になりそうです。
漢詩については、学生時代に苦手意識がついてしまって、あまり知らないんです。
きょう、楓橋夜泊の詩を教えていただいてから、ふと蘇州夜曲を聴きました。
君がみ胸に 抱かれて聞くは
夢の船唄 鳥の歌
水の蘇州の 花散る春を
惜しむか柳が すすり泣く
花を浮かべて流れる水の
明日のゆくえは 知らねども
こよい映した ふたりの姿
消えてくれるな いつまでも
髪に飾ろか 接吻しよか
君が手折りし 桃の花
涙ぐむよな おぼろの月に
鐘が鳴ります 寒山寺
メロディが好きで、あまり歌詞を深く読み込むことはしていなかったんですが、夜の歌であること、船宿に眠るような描写もあり、夜烏の部分を鳥の歌として、寒山寺の鐘が鳴るというあたり、楓橋夜泊のオマージュなんですね。
寒山寺と楓橋夜泊のことをうかがってから調べていくうちに、寒山寺が寒山拾得とつながっていることを知りました。
学生時代に森鴎外の『寒山拾得』を読んだとき、なんてつかみどころのない、わけのわからない小説なのだろうとおもったのですが、ようやく取っ掛かりを得た気がします。
といっても、寒山と拾得の物語は、仏教的な教訓もなく、寒山にも拾得にも特殊な仏性を感じるわけでもなく、いかにも禅宗の好みそうな話だとおもいます。
上海の建物について、もしやとはおもっていましたが、やっぱり過去の共産主義と、その後の市場開放と経済成長の影響が混じり合っている感じなんですね。
2LDK5000万ですか。
ぼくにはとても縁遠い世界ですが、いまの上海はそういう経済圏になっているのですね。
ところでギズモさんは、スマホは持たずとも、いわゆるフィーチャーフォンは持っておられるのでしょうか。
ぼくは楽天でスマホを契約して、安価につかっています。
ペイペイは便利だったのですが、来年からはYahoo!のクレジットカード以外では紐付けてくれないようで、ぼくはYahoo!のクレジットカードは持っていないので、結局今後スーパーなどの買い物はクレジットカードが中心になりそうです。