山麓王国

No.1218

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朗読で『沈黙』を聞きました。

映画をみたときにはっきりしなかったのが、なぜ日本にはキリスト教は根付かないのか、ということでした。

小説を聞いてはっきりわかったわけではないんですが、おもったところをちょっと話してみようとおもいます。



クリスマス前日のきょう、この作品を聞き終えたのは、奇妙な偶然です。

日本ではだれもが鶏肉を中心とした洋食やワインを楽しんだり、プレゼントを与えるなどして雰囲気は演出するのだけど、キリストの生誕を祝う気持ちはほとんどだれも持っていないようです。

バレンタインデーや、ハロウィンも、宗教儀式ではない「なにか」です。



クリスマスの風習は、戦後西側から突如やってきた……日本人の感覚でいうと、七福神の一種のようなものでしょう。

日本人からすれば、じぶんに利益をもたらしてくれるのであればなんのゆかりもない外来神でも歓迎する、といったところです。

しかし、どんな神がやってきたとしても、日本人はその神を深く掘り下げて信心しません。

みんな横並びに尊い、多神のうちのひとつにすぎず、現代ではその尊さはいよいよ目減りしています。

特に日本という土壌には「絶対神」という考え方が根付きにくいのではないか、という気がします。



明治以来、ほんの70年ほど、天皇崇拝・教育勅語という一神教めいた時代もありました。

子供があたらしいおもちゃを与えられたように、日本人は一神教に熱狂しました。

しかし促成でつくられたこの思想は国民を青天井に熱狂させたあと、戦後西側によって排斥されると、一気に沈静化します。

まるでおもちゃに飽きるような軽薄さで、信仰の薄い社会を受け入れるようになるのです。

天皇が人間宣言をしたあと、日本人は拍子抜けしたものの、だからといって国家神道を巡る聖戦が起こるわけでもなく、せいぜい右翼が「教育勅語にもいいところがあった」と消極的にボヤくくらいしかできませんでした。



日本を占領した西側は、多くの日本人に自由と文化を与えましたが、その延長線上に、現在のクリスマスがあります。

日本人は深く考えず、この楽しげなイベントを受け止めました。

しかしほとんどだれも、クリスマスとキリスト教を結び付けて、深く考えることはしません。



結局のところ、日本人の多くは親鸞や日蓮が広めたように、ただ単純なお題目を教わったとおりに唱えることで救われようとする次元から、どうしても抜け出せないのではないか。

あるいは、集団としての日本人は、宗教にお題目以上の意義を見出せないのではないか。

だから、明治になって教育勅語が広まったときも、それはお題目と化します。

戦争を経験した世代は、教育勅語をそらんじることができました。

しかし、かれらの「朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト……」は、まるで円周率を暗誦するかのように無機質な暗唱にすぎません。

クリスマスにしても、多くの人にとって、儀式そのものがお題目なのです。

ただみんながやっているように、見よう見まねで作法を覚えて、それをこなすことで仲間外れにならずにすんだといって、ホッと胸をなでおろす。

仏教にせよ神道にせよ、大昔から日本人はそのようにして、お題目でなにかをやったようなつもりになる性質なのでしょう。



ところで、『沈黙』には、裏切り者のユダをおもわせるキチジローという男が出てくるのですが、この男は、日本にやってきたポルトガル人宣教師が日本人を見下していることを見抜きます。

キリスト教は結局、白人の持ち物なんですよね。

神道が日本人の持ち物であるように、キリスト教は白人の持ち物です。

キリスト教が白人の持ち物だということは、世界のキリスト教分布をみればわかります。

宣教師たちはキリスト教は白色人種の持ち物であるという優位性を無意識のうちに抱えていて、布教をおこないながら、同時に日本人を見下している。

作者は作品中で、このことを(直接的ではないにせよ)語っています。



それはともかく、結局キリスト教は日本には根付きません。

鎖国によって外国から司祭がやってこなくなると、長崎の日本人教徒たちの拝むキリストやマリアは、およそ西洋のそれとは似ても似つかないものに変貌していき、むしろ日本的な宗教のスタイルに和合(習合)していくのです。

作品中で信者たちがこんな歌を歌います。

参ろうや 参ろうや パライソの寺に参ろうや パライソの寺とは申すれど 遠い寺とは申すれど

「パライソ(天国)の寺」というのです。

当時の日本ではカテドラル(聖堂)やチャーチ(教会)という概念を伝えにくいために、妥協の産物として寺になってしまったのかもしれませんが、それでも「パライソの寺」となってしまうと、もはやキリスト教なのか仏教なのか、天国なのか極楽浄土なのかも判断できません。

信者は弾圧をかいくぐるために仏教の檀家をしながら、こっそりとキリシタンを続けている状況であり、結果的に神仏習合(この場合の神はキリスト教)になってしまっているわけです。



そして、弾圧によって棄教した宣教師たちも、それを望む望まざるにかかわらず、闇鍋のような多神の社会に組み込まれて一生を終えました。

この作品はキリスト教というフィルタを通じて、現代に続く日本人の奇妙な宗教性を解き明かしているのでしょう。

キリシタンを苛烈に弾圧した井上筑後守(かれも元はキリシタンだった)が、宣教師を棄教させたあと、最後についたあきらめのため息は、クリスチャンであった作者、遠藤周作のため息のようにおもえたものです。

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