No.1405
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よく大正デモクラシーといいますが、あれは民権運動が自然に高まったんじゃなくて、社会がどんどん統制的になり、イデオロギッシュになる中で、反動として起こったんですよね。
だから実際には大正デモクラシーという民権運動は、全体主義や軍国主義の暗い影が日本社会を覆っていく中での、ごく一時的な反発だったといえるでしょう。
たぶん以前にもお話ししたことがあるとはおもうんですが、前回にお話しした漱石と芥川龍之介の話を、この点にからめてもう少しお話しします。
夏目漱石は大正5年に49歳で亡くなるのですが、かれが亡くなる2年前の学習院大学での講演の写しとりが、『私の個人主義』というタイトルで出版されています。
大正2年のことで、この時代にはすでに「個人主義」という言葉はかなりセンシティブなものだったようです。
実際漱石は、じぶんの言う個人主義とは、国に逆らって好き勝手やるというような意味じゃないんだ、ということを何度もくどくどと説明しています。
そしてこの作品の中で、社会にすでに、極右的なものが台頭していることを匂わせています。
漱石が朝日新聞の文芸欄を担当していたときに、三宅雪嶺という右翼をほんの数行だけ批判したことがあったのですが、そのときに三宅ではなく、三宅の子分とでもいうべき、いわゆる「日本及び日本人」を自称するような連中が、漱石の文章を取り消せと、息巻いてきたのだそうな。
向こうは烏合の衆で、こちらは個人。漱石もずいぶん困ったというのです。
ちなみに漱石のいう個人主義というのは、ぼくには筋が通っているようにおもえます。
たとえば漱石は、個人の自由は国家の安危にしたがって、寒暖計のようにその範囲が広がったり狭まったりするといいました。
漱石のいう個人主義は、現代のSNSなどで悪目立ちしている左翼たちの、じぶんたちに都合よく、際限なく拡大解釈されていく個人主義運動とはずいぶんちがっています。
しかしそんな漱石のまっとうな思想でさえ、時代が進むにつれて言えない空気になっていきます。
そんな時代の圧迫感は、漱石山房(漱石を師事する知識人たちのサロン)の一員で、漱石より25歳年下の芥川龍之介はとても強く感じていたようです。
かれは自殺する前に、『或る阿呆の一生』という自伝的な作品を書いています。漱石の講演から13年後の、昭和2年です。
そこではかれはじぶんの死ぬ理由である「ただぼんやりとした不安」を詳しく分析して書いたというのですが、じぶんの人生に暗い影響を与えた、江戸時代の封建主義のことだけは書かなかったといいます。
なぜかというと、芥川の生きている時代も、多少は封建時代の影の中にあるからだというのです。
この封建主義というのは、芥川がわざとわかりにくく言ってるんです。
芥川のいう封建主義とは、さっき漱石が言った「三宅雪嶺の子分」みたいな人間が、芥川龍之介の作品を監視し、いつでも弾圧しようとしているということです。
江戸時代に強いものが弱いものをいじめた封建主義は、明治に入ってなくなったはずなのに、芥川の時代にはべつのカタチでずいぶん色濃いものになっていた。
国粋主義や軍国主義が、市民をいじめるようになったわけです。
社会には思想警察がうようよしていて、わかりやすいカタチで時代批判などしようものなら、「日本及び日本人」を自称するような思想警察たちがすっ飛んできて、すぐに弾圧されてしまいます。
だから芥川は、ぼかして書くしかなかったのです。
もし正直に「じぶんの死因はこの息苦しい社会のせいである」なんて書いてしまったら、かれの家族や友人にまで類が及ぶかもしれません。
封建主義というわかりづらい言葉を選んだのは、わかりやすく書いてしまうと社会からなにを言われるかわからないから、巧妙に言葉を置き換えて、読者(思想警察)がうまく理解できないようにごまかしてるんですよね。
そしてじぶんの死ぬ理由も「ただぼんやりとした不安」と、ぼかしました。
明治・大正・昭和にかけて加速度的に、正直にものが言えなくなっていく空気が、伝わるかとおもいます。
ずいぶん長くなってしまいました。
「岸壁の母」、聞かせていただきました。
戦地から帰ってくる息子を待ち続けるという、あの戦後すぐの時代を実際に体験した人にとってはほんとうに琴線に触れる曲だったことでしょう。
前に板東英二を不思議だと言いましたが、現代に二葉百合子さんが見事な歌声で歌いつないでおられるのも不思議な気がします。
ところで、せっかくの歌にちょっと水を差すようなことをいいますが、舞鶴港は湾になっていて、海岸に沿うように100~200mほどのなだらかな山がぼこぼこそびえているような地形なんです。
曲の最後に「怒涛砕くる岸壁に立つ母の姿を」とありますが、湾ですから、ふだんの波は穏やかです。
岸壁というと福井県の東尋坊のような岩場を想像しますが、実際には穏やかな舞鶴の湾に入ってくる引き揚げ船を、山際の高台から見ていたということではないかとおもいます。
以下のグーグルマップをみてもらうと、イメージしてもらいやすいかもしれません。
https://www.google.com/maps/@35.5095479,...
それでももちろん、帰らぬ子を待つ親の狂おしい心情をあらわすには、巌のような岸壁と荒れ狂う波濤が似合うとおもいます。
よく大正デモクラシーといいますが、あれは民権運動が自然に高まったんじゃなくて、社会がどんどん統制的になり、イデオロギッシュになる中で、反動として起こったんですよね。
だから実際には大正デモクラシーという民権運動は、全体主義や軍国主義の暗い影が日本社会を覆っていく中での、ごく一時的な反発だったといえるでしょう。
たぶん以前にもお話ししたことがあるとはおもうんですが、前回にお話しした漱石と芥川龍之介の話を、この点にからめてもう少しお話しします。
夏目漱石は大正5年に49歳で亡くなるのですが、かれが亡くなる2年前の学習院大学での講演の写しとりが、『私の個人主義』というタイトルで出版されています。
大正2年のことで、この時代にはすでに「個人主義」という言葉はかなりセンシティブなものだったようです。
実際漱石は、じぶんの言う個人主義とは、国に逆らって好き勝手やるというような意味じゃないんだ、ということを何度もくどくどと説明しています。
そしてこの作品の中で、社会にすでに、極右的なものが台頭していることを匂わせています。
漱石が朝日新聞の文芸欄を担当していたときに、三宅雪嶺という右翼をほんの数行だけ批判したことがあったのですが、そのときに三宅ではなく、三宅の子分とでもいうべき、いわゆる「日本及び日本人」を自称するような連中が、漱石の文章を取り消せと、息巻いてきたのだそうな。
向こうは烏合の衆で、こちらは個人。漱石もずいぶん困ったというのです。
ちなみに漱石のいう個人主義というのは、ぼくには筋が通っているようにおもえます。
たとえば漱石は、個人の自由は国家の安危にしたがって、寒暖計のようにその範囲が広がったり狭まったりするといいました。
つまり自然の状態がそうなってくるのです。国家があやうくなれば個人の自由が狭められ、国家が泰平のときには個人の自由が膨脹してくる、それが当然の話です。いやしくも人格のある以上、それを踏み違えて、国家の亡びるか亡びないかという場合に、かんちがいをしてただむやみに個性の発展ばかりめがけている人はないはずです。
漱石のいう個人主義は、現代のSNSなどで悪目立ちしている左翼たちの、じぶんたちに都合よく、際限なく拡大解釈されていく個人主義運動とはずいぶんちがっています。
しかしそんな漱石のまっとうな思想でさえ、時代が進むにつれて言えない空気になっていきます。
そんな時代の圧迫感は、漱石山房(漱石を師事する知識人たちのサロン)の一員で、漱石より25歳年下の芥川龍之介はとても強く感じていたようです。
かれは自殺する前に、『或る阿呆の一生』という自伝的な作品を書いています。漱石の講演から13年後の、昭和2年です。
そこではかれはじぶんの死ぬ理由である「ただぼんやりとした不安」を詳しく分析して書いたというのですが、じぶんの人生に暗い影響を与えた、江戸時代の封建主義のことだけは書かなかったといいます。
なぜかというと、芥川の生きている時代も、多少は封建時代の影の中にあるからだというのです。
この封建主義というのは、芥川がわざとわかりにくく言ってるんです。
芥川のいう封建主義とは、さっき漱石が言った「三宅雪嶺の子分」みたいな人間が、芥川龍之介の作品を監視し、いつでも弾圧しようとしているということです。
江戸時代に強いものが弱いものをいじめた封建主義は、明治に入ってなくなったはずなのに、芥川の時代にはべつのカタチでずいぶん色濃いものになっていた。
国粋主義や軍国主義が、市民をいじめるようになったわけです。
社会には思想警察がうようよしていて、わかりやすいカタチで時代批判などしようものなら、「日本及び日本人」を自称するような思想警察たちがすっ飛んできて、すぐに弾圧されてしまいます。
だから芥川は、ぼかして書くしかなかったのです。
もし正直に「じぶんの死因はこの息苦しい社会のせいである」なんて書いてしまったら、かれの家族や友人にまで類が及ぶかもしれません。
封建主義というわかりづらい言葉を選んだのは、わかりやすく書いてしまうと社会からなにを言われるかわからないから、巧妙に言葉を置き換えて、読者(思想警察)がうまく理解できないようにごまかしてるんですよね。
そしてじぶんの死ぬ理由も「ただぼんやりとした不安」と、ぼかしました。
明治・大正・昭和にかけて加速度的に、正直にものが言えなくなっていく空気が、伝わるかとおもいます。
ずいぶん長くなってしまいました。
「岸壁の母」、聞かせていただきました。
戦地から帰ってくる息子を待ち続けるという、あの戦後すぐの時代を実際に体験した人にとってはほんとうに琴線に触れる曲だったことでしょう。
前に板東英二を不思議だと言いましたが、現代に二葉百合子さんが見事な歌声で歌いつないでおられるのも不思議な気がします。
ところで、せっかくの歌にちょっと水を差すようなことをいいますが、舞鶴港は湾になっていて、海岸に沿うように100~200mほどのなだらかな山がぼこぼこそびえているような地形なんです。
曲の最後に「怒涛砕くる岸壁に立つ母の姿を」とありますが、湾ですから、ふだんの波は穏やかです。
岸壁というと福井県の東尋坊のような岩場を想像しますが、実際には穏やかな舞鶴の湾に入ってくる引き揚げ船を、山際の高台から見ていたということではないかとおもいます。
以下のグーグルマップをみてもらうと、イメージしてもらいやすいかもしれません。
https://www.google.com/maps/@35.5095479,...
それでももちろん、帰らぬ子を待つ親の狂おしい心情をあらわすには、巌のような岸壁と荒れ狂う波濤が似合うとおもいます。