No.1512
般若心経のヒモのお話、何度もイメージしてみました。
わかりやすい例えではありますが、正しく理解できたのかどうかは、ちょっと不安です。
無と無限によってつながっているということですが、「無」「無限」も、無いのではなく『ある』んですよね。
そこにじぶんが存在しているかどうかをうまく考えられず、考えているうちに、「無」「無限」の外にいるような気がしてきました(笑)
免疫にまで広がった今回のお話で、また様々なことを知ることができ、考えることもたくさんありました。
野菜を例に挙げてくださったのは、とてもイメージしやすく、理解できました。
柿のことは初めて聞きました。
一番初めに試した人は、瓢箪から駒が出る的な偶然の産物だったのか、考えて試行してみたのかわかりませんが、すごいことですね。
そもそも1500年も前に、無や無限というものの概念があったというのもすごいですね。
そして、1500年以上の仏典や思想が受け継がれて、そこからいろいろなものが派生し、どんなに研究しても答えがひとつではない、ということは、まさに無であり無限であるように思います。
般若心経に限らず、いろいろな仏典や経典、聖書、他の宗教の書物や口伝からそれぞれの教派が分かれていったのは、研究という言い方もできますが、これも多くの人の余剰意識が生みだしたものと言えるかもしれないですね。
人類最初の差別は、人間が住んでいる狭い範囲の地域を区切ることから始まり、だんだん範囲が広がって国になっていった、という話を読んだことがあります。
利便性による「区別」でなく、人を「差別」することから始まったんだそうです。
その区別は置いておくとして。
そのようにして人間が作った国もそうですが、もっと範囲をどんどん大きくし、地球の他の星にも名前をつけていくわけです。
これはあくまで「地球に住む人間」がしたことであって、他の惑星などにいる宇宙人(のような何か)がいたら、地球人が金星と名付けた星は、たぶん金星ではないわけで。
このように考えると、やはり人間は自分と、自分が住む地球を「存在する主たるもの」として認識していることになるかと思います。
しかし、広い宇宙にいる(はずの)宇宙人などのなにものかにしてみれば、そうではない。
そうなると、自分も地球も、『確かなものではない』、無の一部、無限の一部、または無そのもの、無限そのものだと思えてきます。
中学の卒業アルバムに「ひとり一言」を書くページがあり、そこにトルストイの言葉を書きました。
『この自分とは何か、無限なものの一部である』←当時母が持っていた、岩波文庫のトルストイ名言集?という本から選びました。
その時は、「トルストイは、人にはみな無限の可能性がある、ということを言っている」と思い選んだのですが、農園主さんの記事を読ませていただき、もしかしたら私の中学生の時の解釈は間違っていたのかも、と思ったのです。
出典は覚えていなかったので、ネットで調べてみましたが、おそらく『懺悔』の中から引用したものかと思います。
宗教に対する思いを書いたものですが、ソクラテスやアリストテレスなど哲学者の言葉、仏陀のことも書かれており、トルストイも「無」「無限」などにいたく興味を持っていたように思えます。
もちろんこういうことは、多くの作家や哲学者、宗教家たちが書いているでしょうし、今回の農園主さんの言わんとしているところとは違っていると思いますが、ふとトルストイの言葉を思い出したので、余談として書きました。
人間にはこの世は見えても、あの世は見えません。少なくとも生きている間は。
しかし、なんらかの「免疫異常」が起こるケースもないとは言えず、そういう人間(境界があいまいな人)も少しはいて、神仏など、一応は見えないものとされているなにものかとコンタクトを取れたりすることもあるのかもしれません。
そうなると、この世とあの世どころか、地球と宇宙、ありとあらゆるもの、「すべて」と地続きであるし、つながりがあるもののように思います。
あるけれどない、ないけれどある、そんなあいまいな場所に、肉体とこころを持つオリジナルの魂が存在していることは、本当に不思議ですね。
農園主さんの記事からいろいろと考えてしまい、なんだか訳のわからないことを書いてしまった気がします(笑)
(追記)
お天気には、本当に悩まされますね。
こちらも、8月に凄まじいほどのゲリラ雷雨が多かったので、レインコートと雨靴を買ったのに、9月はほとんど降っていません。
作物がよく育ち、たくさん収穫できる秋になりますように。
わかりやすい例えではありますが、正しく理解できたのかどうかは、ちょっと不安です。
無と無限によってつながっているということですが、「無」「無限」も、無いのではなく『ある』んですよね。
そこにじぶんが存在しているかどうかをうまく考えられず、考えているうちに、「無」「無限」の外にいるような気がしてきました(笑)
免疫にまで広がった今回のお話で、また様々なことを知ることができ、考えることもたくさんありました。
野菜を例に挙げてくださったのは、とてもイメージしやすく、理解できました。
柿のことは初めて聞きました。
一番初めに試した人は、瓢箪から駒が出る的な偶然の産物だったのか、考えて試行してみたのかわかりませんが、すごいことですね。
そもそも1500年も前に、無や無限というものの概念があったというのもすごいですね。
そして、1500年以上の仏典や思想が受け継がれて、そこからいろいろなものが派生し、どんなに研究しても答えがひとつではない、ということは、まさに無であり無限であるように思います。
般若心経に限らず、いろいろな仏典や経典、聖書、他の宗教の書物や口伝からそれぞれの教派が分かれていったのは、研究という言い方もできますが、これも多くの人の余剰意識が生みだしたものと言えるかもしれないですね。
人類最初の差別は、人間が住んでいる狭い範囲の地域を区切ることから始まり、だんだん範囲が広がって国になっていった、という話を読んだことがあります。
利便性による「区別」でなく、人を「差別」することから始まったんだそうです。
その区別は置いておくとして。
そのようにして人間が作った国もそうですが、もっと範囲をどんどん大きくし、地球の他の星にも名前をつけていくわけです。
これはあくまで「地球に住む人間」がしたことであって、他の惑星などにいる宇宙人(のような何か)がいたら、地球人が金星と名付けた星は、たぶん金星ではないわけで。
このように考えると、やはり人間は自分と、自分が住む地球を「存在する主たるもの」として認識していることになるかと思います。
しかし、広い宇宙にいる(はずの)宇宙人などのなにものかにしてみれば、そうではない。
そうなると、自分も地球も、『確かなものではない』、無の一部、無限の一部、または無そのもの、無限そのものだと思えてきます。
中学の卒業アルバムに「ひとり一言」を書くページがあり、そこにトルストイの言葉を書きました。
『この自分とは何か、無限なものの一部である』←当時母が持っていた、岩波文庫のトルストイ名言集?という本から選びました。
その時は、「トルストイは、人にはみな無限の可能性がある、ということを言っている」と思い選んだのですが、農園主さんの記事を読ませていただき、もしかしたら私の中学生の時の解釈は間違っていたのかも、と思ったのです。
出典は覚えていなかったので、ネットで調べてみましたが、おそらく『懺悔』の中から引用したものかと思います。
宗教に対する思いを書いたものですが、ソクラテスやアリストテレスなど哲学者の言葉、仏陀のことも書かれており、トルストイも「無」「無限」などにいたく興味を持っていたように思えます。
もちろんこういうことは、多くの作家や哲学者、宗教家たちが書いているでしょうし、今回の農園主さんの言わんとしているところとは違っていると思いますが、ふとトルストイの言葉を思い出したので、余談として書きました。
人間にはこの世は見えても、あの世は見えません。少なくとも生きている間は。
しかし、なんらかの「免疫異常」が起こるケースもないとは言えず、そういう人間(境界があいまいな人)も少しはいて、神仏など、一応は見えないものとされているなにものかとコンタクトを取れたりすることもあるのかもしれません。
そうなると、この世とあの世どころか、地球と宇宙、ありとあらゆるもの、「すべて」と地続きであるし、つながりがあるもののように思います。
あるけれどない、ないけれどある、そんなあいまいな場所に、肉体とこころを持つオリジナルの魂が存在していることは、本当に不思議ですね。
農園主さんの記事からいろいろと考えてしまい、なんだか訳のわからないことを書いてしまった気がします(笑)
(追記)
お天気には、本当に悩まされますね。
こちらも、8月に凄まじいほどのゲリラ雷雨が多かったので、レインコートと雨靴を買ったのに、9月はほとんど降っていません。
作物がよく育ち、たくさん収穫できる秋になりますように。