No.1516
ギズモさんの返信を読みながら、「あれ、日蓮宗や顕正会の話はしたっけな」とおもいました。
前回の投稿の続きとして、今回、日蓮の話をしていたからです。
不思議なことに、ギズモさんはぼくが話すより前に日蓮の話をなさっていたんです(笑)
勧誘の話を読みながらおもったのが、宗教って、末端の信者ほど信仰に対して純粋で、敬虔だということでした。
でもそれは、金儲けとしての宗教教団の、隠れ蓑として作用してしまいます。
教団は明確に金儲けの意図をもっているのだけど、そうおもっていない熱狂的な末端の信者がいて、教団側は外側に向けてかれらをみせることで、「ほらうちの宗教は金儲けなんて考えていない、こんなにも純粋な信仰なんですよ」と。
精神病棟の患者さんの話、興味深かったです。
おそらく、自他の境界があいまいな、いわゆる第六感が働く人はほんとうにいるのだろうとおもいます。
ただ、それで金儲けをしているような人は、ほぼすべてニセモノだとおもいますが。
さて、前回の続きです。
(前回の続き)
金剛般若経は、玄奘三蔵が翻訳した仏教の経典のひとつですが、煩悩から解脱しなければならない理由を、以下のように述べています。
「修行者が衆人に施しを与えるにあたって、あるいは衆人が修行者から施されるにあたって、じぶんの肉体や精神といった煩悩に囚われていてはならない」
この場合の施しというのはお金ではなくて、「教義を施す」という意味合いですね。
教義を説く、あるいは教義を教えてもらうためにも資格が必要で、その資格が煩悩からの解脱だというのです。
たしかに現代の日本でも千日回峰行を成した大阿闍梨などは、解脱に近い苦行を成し遂げたことで、「衆生に施しを与える資格を得た」ということになるわけですが、しかしこれは現代人にとっては非常に物足りない理由なのではないでしょうか。
ぼくが以前に書いた、死を目前にすると人間は生きている意味を見いだすから解脱を目指す、というのは、仏教の場合はまちがいだったようです。
仏教はぼくが言ったような、個人主義的な理由で解脱を目指そうとはしていません。
よくよく考えると、仏教ではそもそも「ひとりひとりが生きる意味」については語っていないんですね。
仏教は、国家鎮護にはじまって、次は魂の救済……つまり信心して死後に救ってもらおうというところに存在意義があります。
↑(訂正)日本に渡ってきた仏教は国家鎮護に利用され、次は衆生の魂の救済……つまり信心して死後に救ってもらおうというカタチで変化してきました。
仏教が個人の生きる意味のようなものを考えだすのは、鎌倉時代になって、日蓮が日蓮宗(法華宗)を立ち上げてからなんですね。
ぼくはどうしても今回の3回の話で、生きる意味についてまで話を広げたかったんですが、ちょっとアプローチを変えて、西洋の話をさせてください。
これまではずっと東洋の思想から人間を理解しようとしたんですが、近代西洋はどのように考えたのか。
ちょうどぼくはいま、テレビ番組の「こころの時代」で、ヴィクトール・フランクルのロゴセラピーが取り上げられているのをみていました。
ヴィクトール・フランクルはユダヤ人で、ジークムント・フロイトに師事する精神科医でもありました。
ホロコーストの経験を描いた『夜と霧』という作品でも知られています。
かれは戦時中、ナチスによって強制収容所に送られました。
極限の迫害、死の恐怖と苦しみを味わいながらも、生きて終戦を迎えることができました。
しかし親も兄弟も、さらには妻も、収容所でみんな亡くなっていたんですね。
失意と苦悩の中、かれはかねてからの仕事であったロゴセラピーの確立をめざしました。
そんなロゴセラピーは「実存主義」という思想を土台にしています。
実存主義は19世紀に登場しました。
どうしてこの思想が生まれたかというと、近代西洋で産業革命が起こってから、文明社会がどんどん巨大になったからなんです。
社会が巨大になると、人々をより合理的に動かす必要が出てきます。
それでまず合理主義が台頭し、合理性で社会を統制するようになりました。
ところが、あまりに人間を合理的に働かせすぎると、人間は生きる意味を見失ってしまうんですね。
これは現代でもそうだとおもいます。
ただ家賃や光熱費を支払い、食べて寝るだけで終わっていく生活を維持するために、一日中ロボットのような仕事をしていると、「じぶんはなんのために生きているんだろう」とむなしさにとらわれてしまいます。
もちろんぜいたくを言わなければ食っていくことができるわけで、日常で死の恐怖に苛まれることだってなく、きちんと社会の役にも立っている。
にもかかわらず、心が満たされなくて、生きているのがつらくなるのです。
この合理主義の弊害が、近代西洋の社会問題でした。
そこで生まれたのが、実存主義です。
社会を発展させるのが人間の目的だという点は、合理主義も実存主義も共通してるんです。
しかし人間を鋳型にはめて管理して社会を発展させる合理主義では、人間が社会のために消費されるだけになってしまいます。
だから人の個性や自我を認めて、じぶんの適性を追求していくやり方で社会を発展させていくべきじゃないか、というのが実存主義です。
つまり、社会が合理的になろうとすればするほど、同時にわれわれはじぶんの主体性を見つめ直して、生きがいや生きる意味を積極的にみつけていかねばならない、というわけです。
実存主義では、人間は鋳型からつくられた道具ではなく、かといって般若心経のいう空や無でもなく、まちがいなく実存しているという立場をとります。
さらにじぶんの実存にはきちんと意味があることを、じぶん自身で求めていかなければいけない、ともいいました。
そのためには、理性的で善良に暮らし、主体的にこの社会にかかわっていくことが必要だというのです。
さっき例にとった日蓮宗(法華宗)は、実存主義とすこし似ています。
ごく大雑把にいえば、日蓮はこんなことを言いました。
「よその宗派のように、死んでから阿弥陀如来に救ってもらおうというのではダメだ。いまこの世に生きているわれわれが努力して、この世に生きる人々を救うというのでなければ、意味がないだろう」
まあ、日蓮宗の排他性や分派といった是非は置いておくとして、日蓮の主張に共鳴する人は多かったようです。
時代を経て宮沢賢治も日蓮宗に帰依しましたし、霊友会、立正佼成会、創価学会、顕正会あたりも日蓮宗から派生した新興宗教です。
ちなみに、ぼくは日蓮宗にも実存主義にも、不信、というか不満を感じています。
なぜならこれらの思想は、社会でなんの役にも立てないといって苦しんでいる、事情のある人々には「生きる意味」を提示していないからです。
実存主義も日蓮宗も、社会の役に立てる人にフォーカスを当てた思想でしょう。
社会にうまくかかわることができない……たとえば重度の障がい者や、気力・体力の衰えた老人にとっては救いがないとおもうのです。
もちろん実存主義によってみんなが社会を成熟させることで、本来鬼子や姥捨てのように扱われて捨てられていた命も救われるようになれば、それはいいことだとはおもいます。
しかし、その鬼子や姥捨ての当事者たちの生きる意味については、実存主義も日蓮宗も教えてくれません。
この不平等について考えると、まだ死ねばみな救われると説く浄土信仰のほうが、思想の上では平等な気がするほどです。
社会にうまく関われない人の生きる意味については、現代社会でもまだ明確な答えを見いだせていないんですね。
それはともかく(笑)
実存主義から派生したロゴセラピーは、般若心経とも似ているところがあります。
ロゴセラピーの主張は、むずかしいものではありません。
基本的にはふたつのことを言ってます。
(続く)
前回の投稿の続きとして、今回、日蓮の話をしていたからです。
不思議なことに、ギズモさんはぼくが話すより前に日蓮の話をなさっていたんです(笑)
勧誘の話を読みながらおもったのが、宗教って、末端の信者ほど信仰に対して純粋で、敬虔だということでした。
でもそれは、金儲けとしての宗教教団の、隠れ蓑として作用してしまいます。
教団は明確に金儲けの意図をもっているのだけど、そうおもっていない熱狂的な末端の信者がいて、教団側は外側に向けてかれらをみせることで、「ほらうちの宗教は金儲けなんて考えていない、こんなにも純粋な信仰なんですよ」と。
精神病棟の患者さんの話、興味深かったです。
おそらく、自他の境界があいまいな、いわゆる第六感が働く人はほんとうにいるのだろうとおもいます。
ただ、それで金儲けをしているような人は、ほぼすべてニセモノだとおもいますが。
さて、前回の続きです。
(前回の続き)
金剛般若経は、玄奘三蔵が翻訳した仏教の経典のひとつですが、煩悩から解脱しなければならない理由を、以下のように述べています。
「修行者が衆人に施しを与えるにあたって、あるいは衆人が修行者から施されるにあたって、じぶんの肉体や精神といった煩悩に囚われていてはならない」
この場合の施しというのはお金ではなくて、「教義を施す」という意味合いですね。
教義を説く、あるいは教義を教えてもらうためにも資格が必要で、その資格が煩悩からの解脱だというのです。
たしかに現代の日本でも千日回峰行を成した大阿闍梨などは、解脱に近い苦行を成し遂げたことで、「衆生に施しを与える資格を得た」ということになるわけですが、しかしこれは現代人にとっては非常に物足りない理由なのではないでしょうか。
ぼくが以前に書いた、死を目前にすると人間は生きている意味を見いだすから解脱を目指す、というのは、仏教の場合はまちがいだったようです。
仏教はぼくが言ったような、個人主義的な理由で解脱を目指そうとはしていません。
よくよく考えると、仏教ではそもそも「ひとりひとりが生きる意味」については語っていないんですね。
↑(訂正)日本に渡ってきた仏教は国家鎮護に利用され、次は衆生の魂の救済……つまり信心して死後に救ってもらおうというカタチで変化してきました。
仏教が個人の生きる意味のようなものを考えだすのは、鎌倉時代になって、日蓮が日蓮宗(法華宗)を立ち上げてからなんですね。
ぼくはどうしても今回の3回の話で、生きる意味についてまで話を広げたかったんですが、ちょっとアプローチを変えて、西洋の話をさせてください。
これまではずっと東洋の思想から人間を理解しようとしたんですが、近代西洋はどのように考えたのか。
ちょうどぼくはいま、テレビ番組の「こころの時代」で、ヴィクトール・フランクルのロゴセラピーが取り上げられているのをみていました。
ヴィクトール・フランクルはユダヤ人で、ジークムント・フロイトに師事する精神科医でもありました。
ホロコーストの経験を描いた『夜と霧』という作品でも知られています。
かれは戦時中、ナチスによって強制収容所に送られました。
極限の迫害、死の恐怖と苦しみを味わいながらも、生きて終戦を迎えることができました。
しかし親も兄弟も、さらには妻も、収容所でみんな亡くなっていたんですね。
失意と苦悩の中、かれはかねてからの仕事であったロゴセラピーの確立をめざしました。
そんなロゴセラピーは「実存主義」という思想を土台にしています。
実存主義は19世紀に登場しました。
どうしてこの思想が生まれたかというと、近代西洋で産業革命が起こってから、文明社会がどんどん巨大になったからなんです。
社会が巨大になると、人々をより合理的に動かす必要が出てきます。
それでまず合理主義が台頭し、合理性で社会を統制するようになりました。
ところが、あまりに人間を合理的に働かせすぎると、人間は生きる意味を見失ってしまうんですね。
これは現代でもそうだとおもいます。
ただ家賃や光熱費を支払い、食べて寝るだけで終わっていく生活を維持するために、一日中ロボットのような仕事をしていると、「じぶんはなんのために生きているんだろう」とむなしさにとらわれてしまいます。
もちろんぜいたくを言わなければ食っていくことができるわけで、日常で死の恐怖に苛まれることだってなく、きちんと社会の役にも立っている。
にもかかわらず、心が満たされなくて、生きているのがつらくなるのです。
この合理主義の弊害が、近代西洋の社会問題でした。
そこで生まれたのが、実存主義です。
社会を発展させるのが人間の目的だという点は、合理主義も実存主義も共通してるんです。
しかし人間を鋳型にはめて管理して社会を発展させる合理主義では、人間が社会のために消費されるだけになってしまいます。
だから人の個性や自我を認めて、じぶんの適性を追求していくやり方で社会を発展させていくべきじゃないか、というのが実存主義です。
つまり、社会が合理的になろうとすればするほど、同時にわれわれはじぶんの主体性を見つめ直して、生きがいや生きる意味を積極的にみつけていかねばならない、というわけです。
実存主義では、人間は鋳型からつくられた道具ではなく、かといって般若心経のいう空や無でもなく、まちがいなく実存しているという立場をとります。
さらにじぶんの実存にはきちんと意味があることを、じぶん自身で求めていかなければいけない、ともいいました。
そのためには、理性的で善良に暮らし、主体的にこの社会にかかわっていくことが必要だというのです。
さっき例にとった日蓮宗(法華宗)は、実存主義とすこし似ています。
ごく大雑把にいえば、日蓮はこんなことを言いました。
「よその宗派のように、死んでから阿弥陀如来に救ってもらおうというのではダメだ。いまこの世に生きているわれわれが努力して、この世に生きる人々を救うというのでなければ、意味がないだろう」
まあ、日蓮宗の排他性や分派といった是非は置いておくとして、日蓮の主張に共鳴する人は多かったようです。
時代を経て宮沢賢治も日蓮宗に帰依しましたし、霊友会、立正佼成会、創価学会、顕正会あたりも日蓮宗から派生した新興宗教です。
ちなみに、ぼくは日蓮宗にも実存主義にも、不信、というか不満を感じています。
なぜならこれらの思想は、社会でなんの役にも立てないといって苦しんでいる、事情のある人々には「生きる意味」を提示していないからです。
実存主義も日蓮宗も、社会の役に立てる人にフォーカスを当てた思想でしょう。
社会にうまくかかわることができない……たとえば重度の障がい者や、気力・体力の衰えた老人にとっては救いがないとおもうのです。
もちろん実存主義によってみんなが社会を成熟させることで、本来鬼子や姥捨てのように扱われて捨てられていた命も救われるようになれば、それはいいことだとはおもいます。
しかし、その鬼子や姥捨ての当事者たちの生きる意味については、実存主義も日蓮宗も教えてくれません。
この不平等について考えると、まだ死ねばみな救われると説く浄土信仰のほうが、思想の上では平等な気がするほどです。
社会にうまく関われない人の生きる意味については、現代社会でもまだ明確な答えを見いだせていないんですね。
それはともかく(笑)
実存主義から派生したロゴセラピーは、般若心経とも似ているところがあります。
ロゴセラピーの主張は、むずかしいものではありません。
基本的にはふたつのことを言ってます。
(続く)