No.1518
時々不思議なシンクロが起きますね(笑)
今回もNO.1516について、考えたことを書かせていただきます←最初900字だったのが、どんどん長くなってしまい、また自分のことばかりでごめんなさい。
2018年に仙台に行った時、偶然立ち寄ったお寺が、千日回峰行を成した大阿闍梨、塩沼亮潤が開山した、福聚山慈眼寺でした。
このお寺のホームページを読んだこともあり、著書『歩くだけで不調が消える 歩行禅のすすめ』も読んでいましたが、そのお寺だとはまったく思わずにお参りしました。
本堂の脇に小屋のような小さなところがあり、中に入るとお札や著書などが置いてあります。
そこで、もしかしてあの大阿闍梨のお寺?と気づきました。
すると、さっきまで庭の掃き掃除をしていた男性が入ってきたのですが、お顔を見ると大阿闍梨ご本人だったので、ここでまた驚きました(笑)
とても柔和で感じの良い方で、あの苦行を成し遂げた方という雰囲気ではありませんでした。
持っているのと同じ本を購入し、何かひとことふたこと話した記憶があるのですが、覚えていません(笑)
千日回峰行はやらなくてもすむことなのかもしれませんが、壮絶な、解脱に近い難行苦行をすれば、ネームバリューも上がり、護摩祈祷に訪れる人が増え、収益にもつながるということもありますね。
でも、それよりも、本人の達成感、熱意、宗教への熱い思い(自己満足の部分もあるかも?)の問題が大きいように思えます。
金剛般若経の、「教義を説く側と、聞く側の資格が煩悩からの解脱」ですが、煩悩があったとしても、双方の純粋で欲得がらみでない熱意も資格なのでは、と思います。
『夜と霧』はずいぶん前に、単行本で読みました。
内容もですが、写真が壮絶で、衝撃を受けた記憶があります。
ロゴセラピーというのは知りませんでしたが、とても興味があります。
以前プロテスタントの教会に数年通っていたことはお話したと思います。
当時、母親のことで、決しておおげさではなく、自分が死ぬか母を殺すかと、誰にも言えずに日々悶々と悩んでいた時期でしたが、たまたまクリスマスのイベントで、その教団の聖歌隊が近くの商業施設に出演するというチラシを見て、観に行ったのがきっかけでした。
行ってみて数年、いろいろわかったことがありました。
何かを買えという勧誘はまったくありませんが、献金はあります(これについては以前書いたことがありました)。
洗礼を受けた後は「月定献金」というのがあり、目安として月収の1~3割とのことです。
私の場合、当時は自分の収入はなかったので、納めなくてもいいですよ、と言われました。
半期に一度か年に一度か忘れましたが、収支表が配られるので目を通すと、牧師とその妻(宣教師)の給与が合わせて50万もありました(30年も前です)。
毎月決まっているのか、その月の収入によって変動するのかはわかりません。
牧師夫妻の服装は質素で、牧師夫人はバザーで購入したスーツを着て礼拝に出ており、ぜいたくをしているようには見えませんでしたが、けっこうな収入ですよね。
他に、教会の運営費はもちろん、牧師館(牧師一家は2階の一部が住居)の修繕費や、諸経費、積み立て金も別に取ってあるので、ずいぶん余裕のある収入だと思います。
ただ、月定献金を納めてくれる信者が減れば生活も困窮するわけなので、貯金はしていたと思います。
壺を売ったりハンコを作らせたりと、詐欺まがいのことをしなくても、宗教で過分な(私の感覚です)収入を得るのはどうなんだろう?と、ずいぶん疑問を感じたものでした。
不登校に近い若者や、障がいのある人、いじめにあっている人、人間関係がうまくいかず継続して仕事に従事できない人など、様々な悩みを持った人が来ていました。
みなさん熱心に通ってくるのですが、今、冷静に考えてみると、信仰は二の次という人が多かったように思えます。
それではなぜそれほど熱心に礼拝に出たり、日曜日以外も来て、なにかしら手伝ったりしていくのか。
教会は、阻害されない、仲間外れにされない、どんな人も受け入れてもらえる、話はきちんと聞いてもらえる、という、実に居心地のいい空間だからだったのでしょう。
誰からも否定されず心が休まる場所があれば、なにかしらの生きる希望、意欲というのが起きてくると思いますが、そこが宗教の場ということになると、純粋で敬虔な信仰とはかけ離れたものにもなり得るかもしれません。
もちろん、そこから熱心な信者になることも多々ありますし、宗教と自分の居場所がどういうふうにつながるか、それは個々の問題ですね。
教会など宗教の場に行くきっかけが信仰ではなくても、その後も信仰心が希薄だったとしても、そこが生きる意味を見つけられる場である(あった)と思う人はいるように感じます。
私の気持ちとしては、ほどほどの信心をして生きている間救ってほしいし、信心したとしても死後にどんな目に合うのかわからないから死後も救ってほしいと思うのですが、両方とも望むのはどうなのでしょうか(笑)
もうひとつ。
私の場合、その教会に行き、熱心な信仰の時期→ちょっと冷めてきてほどほどの時期→教会の人間関係に疲れてそこから離れ、カトリック教会に1年ほど通った時期を経て、母に関する心の問題はだいぶ払拭されました。
信仰による心の安定(これを救いと言っていいのかわかりません)と、週に一回でも逃れられる居場所ができたということが、ちょうどその時私に必要なことだったのはないかと捉えており、その時、生きる意味(生かされる意味)について、ほんの少し考えた、というお話でした(笑)
実際のところ、今も、生きる意味はなんなのか?ということの明確な答えはわかっていませんが、キリスト教の言うところの「生かされている」という捉え方は、なんとなく納得しています。
書き足し・「生かされている」こと、これはキリスト教でなくても、仏教でも神道でも、結局は同じかと思います。
今回もNO.1516について、考えたことを書かせていただきます←最初900字だったのが、どんどん長くなってしまい、また自分のことばかりでごめんなさい。
2018年に仙台に行った時、偶然立ち寄ったお寺が、千日回峰行を成した大阿闍梨、塩沼亮潤が開山した、福聚山慈眼寺でした。
このお寺のホームページを読んだこともあり、著書『歩くだけで不調が消える 歩行禅のすすめ』も読んでいましたが、そのお寺だとはまったく思わずにお参りしました。
本堂の脇に小屋のような小さなところがあり、中に入るとお札や著書などが置いてあります。
そこで、もしかしてあの大阿闍梨のお寺?と気づきました。
すると、さっきまで庭の掃き掃除をしていた男性が入ってきたのですが、お顔を見ると大阿闍梨ご本人だったので、ここでまた驚きました(笑)
とても柔和で感じの良い方で、あの苦行を成し遂げた方という雰囲気ではありませんでした。
持っているのと同じ本を購入し、何かひとことふたこと話した記憶があるのですが、覚えていません(笑)
千日回峰行はやらなくてもすむことなのかもしれませんが、壮絶な、解脱に近い難行苦行をすれば、ネームバリューも上がり、護摩祈祷に訪れる人が増え、収益にもつながるということもありますね。
でも、それよりも、本人の達成感、熱意、宗教への熱い思い(自己満足の部分もあるかも?)の問題が大きいように思えます。
金剛般若経の、「教義を説く側と、聞く側の資格が煩悩からの解脱」ですが、煩悩があったとしても、双方の純粋で欲得がらみでない熱意も資格なのでは、と思います。
『夜と霧』はずいぶん前に、単行本で読みました。
内容もですが、写真が壮絶で、衝撃を受けた記憶があります。
ロゴセラピーというのは知りませんでしたが、とても興味があります。
以前プロテスタントの教会に数年通っていたことはお話したと思います。
当時、母親のことで、決しておおげさではなく、自分が死ぬか母を殺すかと、誰にも言えずに日々悶々と悩んでいた時期でしたが、たまたまクリスマスのイベントで、その教団の聖歌隊が近くの商業施設に出演するというチラシを見て、観に行ったのがきっかけでした。
行ってみて数年、いろいろわかったことがありました。
何かを買えという勧誘はまったくありませんが、献金はあります(これについては以前書いたことがありました)。
洗礼を受けた後は「月定献金」というのがあり、目安として月収の1~3割とのことです。
私の場合、当時は自分の収入はなかったので、納めなくてもいいですよ、と言われました。
半期に一度か年に一度か忘れましたが、収支表が配られるので目を通すと、牧師とその妻(宣教師)の給与が合わせて50万もありました(30年も前です)。
毎月決まっているのか、その月の収入によって変動するのかはわかりません。
牧師夫妻の服装は質素で、牧師夫人はバザーで購入したスーツを着て礼拝に出ており、ぜいたくをしているようには見えませんでしたが、けっこうな収入ですよね。
他に、教会の運営費はもちろん、牧師館(牧師一家は2階の一部が住居)の修繕費や、諸経費、積み立て金も別に取ってあるので、ずいぶん余裕のある収入だと思います。
ただ、月定献金を納めてくれる信者が減れば生活も困窮するわけなので、貯金はしていたと思います。
壺を売ったりハンコを作らせたりと、詐欺まがいのことをしなくても、宗教で過分な(私の感覚です)収入を得るのはどうなんだろう?と、ずいぶん疑問を感じたものでした。
不登校に近い若者や、障がいのある人、いじめにあっている人、人間関係がうまくいかず継続して仕事に従事できない人など、様々な悩みを持った人が来ていました。
みなさん熱心に通ってくるのですが、今、冷静に考えてみると、信仰は二の次という人が多かったように思えます。
それではなぜそれほど熱心に礼拝に出たり、日曜日以外も来て、なにかしら手伝ったりしていくのか。
教会は、阻害されない、仲間外れにされない、どんな人も受け入れてもらえる、話はきちんと聞いてもらえる、という、実に居心地のいい空間だからだったのでしょう。
誰からも否定されず心が休まる場所があれば、なにかしらの生きる希望、意欲というのが起きてくると思いますが、そこが宗教の場ということになると、純粋で敬虔な信仰とはかけ離れたものにもなり得るかもしれません。
もちろん、そこから熱心な信者になることも多々ありますし、宗教と自分の居場所がどういうふうにつながるか、それは個々の問題ですね。
教会など宗教の場に行くきっかけが信仰ではなくても、その後も信仰心が希薄だったとしても、そこが生きる意味を見つけられる場である(あった)と思う人はいるように感じます。
私の気持ちとしては、ほどほどの信心をして生きている間救ってほしいし、信心したとしても死後にどんな目に合うのかわからないから死後も救ってほしいと思うのですが、両方とも望むのはどうなのでしょうか(笑)
もうひとつ。
私の場合、その教会に行き、熱心な信仰の時期→ちょっと冷めてきてほどほどの時期→教会の人間関係に疲れてそこから離れ、カトリック教会に1年ほど通った時期を経て、母に関する心の問題はだいぶ払拭されました。
信仰による心の安定(これを救いと言っていいのかわかりません)と、週に一回でも逃れられる居場所ができたということが、ちょうどその時私に必要なことだったのはないかと捉えており、その時、生きる意味(生かされる意味)について、ほんの少し考えた、というお話でした(笑)
実際のところ、今も、生きる意味はなんなのか?ということの明確な答えはわかっていませんが、キリスト教の言うところの「生かされている」という捉え方は、なんとなく納得しています。
書き足し・「生かされている」こと、これはキリスト教でなくても、仏教でも神道でも、結局は同じかと思います。