No.1550
まず最初に前回のご投稿への返信で、指のケガですが、フードプロセッサーの刃は、最初は日本刀のように研がれていて、スッと触れただけで触れたぶん切れてしまうくらいですね。
ぼくも以前ケガをして、その経験を伝えたはずの母もきちんとケガをしていました(笑)
洗いにくい形状をしていますし、みんな通る道なのかもしれません。
指が治るまではギターの演奏は、ピックで行うのでなければ、しばらく安静になさるのがよいとおもいます。
どうかお大事になさってください。
さて、ギズモさんにいただいたお返事の中に、徳子が寂光院に住んだことにだれかの意図があったのかとありました。
ぼくも気になって、調べながら書いているうちに、前回の話のスピンオフというか、あまり一般的に語られていない不思議な物語があることに気づきました。
今回はちょっとこの話をさせていただこうとおもいます。
なんとなくこの解釈は短編歴史小説になりそうな感じです。
いろいろとお返事を飛ばしてしまって申し訳ないんですが、しばらくお付き合いください。
壇ノ浦で捕虜となった徳子は、その後放免されます。
徳子は御所から2kmほど南東の、八坂神社のすぐ近くにある長楽寺で出家しました。
時系列でいうと、1185年3月に壇ノ浦の合戦があります。時期をみて気づきましたが、幼い安徳天皇は3月の冷たい海に入水したんですね。
5月に徳子が長楽寺で出家。このときには直如覚(尼)という名前を授かります。
7月に文治地震が起こり、京の都は大災害をこうむりました。
その2か月後の9月に、寂光院へ移り住み、三代目の建礼門院となります。
では、なぜ徳子はわざわざ都から離れた寂光院に移り住んだのか。
平家物語では、京の都の外れの粗末な寺も地震で崩れ、むかしの知り合いの貴族がたまに訪れてくるのだけど、そういったこともどうにも物憂くなってきたようで、どこか静かなところで世を捨てて暮らしたいとおもったところへ、寂光院を勧める女房があったといいます。
あれだけの凄惨な死の現場を目の当たりにして、みずからも死の寸前まで行きついたわけですから、現代でいえばPTSDのような症状が出ていた可能性もあり、そこに大地震が追い打ちをかけるわけです。
なにもかも物憂く、やる気になれなかったのは事実だとおもいます。
しかし個人的には「静かに念仏をとなえて暮らしたい」という動機だけで寂光院を選んだのは矛盾があるとおもうのです。
というのも、地震があったからといって、なんのゆかりもなく、いよいよ辺鄙な寂光院へ「行ってみよう」とおもう動機がないでしょう。
行くにしても、もう少し多角的な情報がないとさすがに踏み切れないはずで、内見もせずに家を買うような決断をするとはおもえません。
しかも寂光院に行った徳子は、「どうしてこんな山奥で……」といってわが身の上を嘆き、寂光院のふもとの清水で、月明かりにじぶんのやつれた顔を映したり、都を恋しがって昔を懐かしんだり、どうにもやるせない心情が隠し切れない様子です。
ほんとうに念仏を唱えて世を捨てて生きていたいと願ったのなら、もうすこし腹が決まっていてもよさそうなものです。
いろんなところでおもうままにならないしがらみがあって、それでもなんらかのご縁があったから、意を決して大原の深山に居を移そうとおもったのではないでしょうか。
その線で考えると、いちばん気になるのは、阿波内侍との関係性です。
阿波内侍は寂光院の二代目の住持(建礼門院)なんですが、徳子が寂光院に入寺すると三代目の建礼門院を譲って、徳子の従者となりました。
今回は、この阿波内侍の物語を、2回にわけてさせていただこうとおもいます。
阿波内侍についてはあまりしっかりした情報がありません。
もとは藤原家の出で、父の名は藤原通憲。のちに出家して信西となります。
母は紀伊二位といって、後白河天皇の乳母でもありました。
阿波内侍は朝廷で崇徳院の寵愛を受けていた女房です。
しかし1156年。
崇徳院は後白河天皇(当時はまだ天皇です)の謀略(保元の乱)によって排除され、讃岐に島流しにされました。
阿波内侍はこのとき、崇徳院には付いていかず、京に残っています。
保元の乱から8年後の1164年、崇徳院が讃岐に流されたまま崩御すると阿波内侍は出家し、1166年に寂光院に入寺しました。
寂光院は聖徳太子が建立したといいます。
初代の建礼門院は、聖徳太子の乳母であった玉照姫と伝わります。
しかしその後記録がなく、二代目の建礼門院が阿波内侍というのです。
記録がないというのは、おそらくお寺が作られて、縁起が定められてからは、明確な管理者がない時期が長かったのだろうとおもいます。
つまり、荒れ寺だったんでしょう。
それくらい、寂光院周辺は暮らすには厳しい辺鄙なところでした。
特に、尼寺として女性が暮らすには、厳しすぎるほど厳しい場所だとおもいます。
地元の人が細々と場所の維持はしていたけど、住持が勤めてくれることさえないような時代が続いていたのではないでしょうか。
時期は定かではありませんが、崇徳院が崩御したのち、阿波内侍はいまの八坂神社近くにある(訂正:安井金毘羅宮周辺にあった)じぶんの邸宅を「願勝寺」として、菩提をとむらったそうです。
そして阿波内侍が寂光院に入寺して3年ほど経ったとき、彼女は京都の願勝寺を、母の生国である阿波(徳島県)の維摩寺に移し、名前をそのまま「願勝寺」に改めるように請願したそうです。
いまも四国八十八箇所霊場のひとつとして徳島県美馬市に願勝寺が残っています。
しかし「願勝寺」とはどういうことでしょうか。
なにに勝ちたいと願ったのでしょう。
これはやはり、後白河天皇の一派に一矢報いたい、このまま崇徳院の無念を晴らさずに終わってなるものか、という強い願いが込められていたと考えるのが自然です。
崇徳院と後白河天皇が争っていたとき、後白河天皇側についていた武将は平清盛でした。
阿波内侍は後白河天皇のみならず、清盛のことも憎んでいたことでしょう。
もっといえば、なぜ願勝寺を京都から阿波へ移さねばならなかったのか。
これは憶測ではありますが、京の都で阿波内侍が寺の名を「願勝寺」にしたことを、勘ぐる人もいたのかもしれません。
敗軍の崇徳院の勝ちを願っているのではないか、という声が上がり、寺名を変えざるを得なくなり、せめて母の生国である阿波に願勝寺の名を移した、とぼくは考えます。
阿波内侍の恨みの強さが伝わってくるようです。
大原から京の都まで、薪や柴、山の幸を頭に乗せて物売りに出歩く大原女の装いは、阿波内侍からきています。
おそらく阿波内侍も、京都市内まで生活に必要なモノを求めてでかけていたことでしょう。
物売りのついでに朝廷のいろいろな噂も仕入れていたにちがいありません。
そしてその際の関心ごとは、後白河天皇の一派がいったいどうなったか、ということだったはずです。
寵愛を受けた崇徳院が讃岐の地で無念の崩御に至ったというのに、後白河天皇や清盛がのうのうと朝廷でのさばっている。
その恨みをだれかに明確に伝えるということはしなかったかもしれませんが、生涯、言葉にできぬおもいを抱えていたことはまちがいないでしょう。
阿波内侍の恨みが届いた……というわけではないでしょうが、後白河天皇は昵懇であったはずの清盛と反目し合うようになりました。
その間、清盛も後白河天皇も出家しました。
互いにひどく血なまぐさい入道でした。
法皇は清盛の暗殺を企て、清盛はそれに気づくと関与していた一味を粛正、法皇を幽閉したりと(鹿ケ谷の陰謀)、法皇と清盛の対立は熾烈を極めるようになります。
そして清盛が死ぬと、法皇は源氏と手を組んで、残った平家を滅亡に追い込みました。
この壇ノ浦の合戦で、安徳天皇の母徳子がたまたま救い出され、長楽寺に入寺したそうな……。
阿波内侍はそのような話を、都へ行くうちに人々やお寺のネットワークから、かなり早い段階で知っていたのではないでしょうか。
徳子が落魄して出家したとき、阿波内侍が寂光院に入寺してはや20年が経っていました。
老境に入った阿波内侍が徳子の境遇を知ったとき、まるで若いときのじぶんのようだとおもったことでしょう。
徳子は高倉天皇を早くに喪い、平家の没落をどうすることもできず、朝廷で居場所を失った女御の定めとして、おもうに任せぬ運命を恨みながら生きていかねばならないのだ。
阿波内侍はこの20年の間、法皇や清盛への恨みつらみが昇華することはなかったけれど、両者の醜い争いや、清盛の死、平家の滅亡を伝え聞いているうちに、なにもかもがむなしくなっていました。
(続く)
ぼくも以前ケガをして、その経験を伝えたはずの母もきちんとケガをしていました(笑)
洗いにくい形状をしていますし、みんな通る道なのかもしれません。
指が治るまではギターの演奏は、ピックで行うのでなければ、しばらく安静になさるのがよいとおもいます。
どうかお大事になさってください。
さて、ギズモさんにいただいたお返事の中に、徳子が寂光院に住んだことにだれかの意図があったのかとありました。
ぼくも気になって、調べながら書いているうちに、前回の話のスピンオフというか、あまり一般的に語られていない不思議な物語があることに気づきました。
今回はちょっとこの話をさせていただこうとおもいます。
なんとなくこの解釈は短編歴史小説になりそうな感じです。
いろいろとお返事を飛ばしてしまって申し訳ないんですが、しばらくお付き合いください。
壇ノ浦で捕虜となった徳子は、その後放免されます。
徳子は御所から2kmほど南東の、八坂神社のすぐ近くにある長楽寺で出家しました。
時系列でいうと、1185年3月に壇ノ浦の合戦があります。時期をみて気づきましたが、幼い安徳天皇は3月の冷たい海に入水したんですね。
5月に徳子が長楽寺で出家。このときには直如覚(尼)という名前を授かります。
7月に文治地震が起こり、京の都は大災害をこうむりました。
その2か月後の9月に、寂光院へ移り住み、三代目の建礼門院となります。
では、なぜ徳子はわざわざ都から離れた寂光院に移り住んだのか。
平家物語では、京の都の外れの粗末な寺も地震で崩れ、むかしの知り合いの貴族がたまに訪れてくるのだけど、そういったこともどうにも物憂くなってきたようで、どこか静かなところで世を捨てて暮らしたいとおもったところへ、寂光院を勧める女房があったといいます。
あれだけの凄惨な死の現場を目の当たりにして、みずからも死の寸前まで行きついたわけですから、現代でいえばPTSDのような症状が出ていた可能性もあり、そこに大地震が追い打ちをかけるわけです。
なにもかも物憂く、やる気になれなかったのは事実だとおもいます。
しかし個人的には「静かに念仏をとなえて暮らしたい」という動機だけで寂光院を選んだのは矛盾があるとおもうのです。
というのも、地震があったからといって、なんのゆかりもなく、いよいよ辺鄙な寂光院へ「行ってみよう」とおもう動機がないでしょう。
行くにしても、もう少し多角的な情報がないとさすがに踏み切れないはずで、内見もせずに家を買うような決断をするとはおもえません。
しかも寂光院に行った徳子は、「どうしてこんな山奥で……」といってわが身の上を嘆き、寂光院のふもとの清水で、月明かりにじぶんのやつれた顔を映したり、都を恋しがって昔を懐かしんだり、どうにもやるせない心情が隠し切れない様子です。
ほんとうに念仏を唱えて世を捨てて生きていたいと願ったのなら、もうすこし腹が決まっていてもよさそうなものです。
いろんなところでおもうままにならないしがらみがあって、それでもなんらかのご縁があったから、意を決して大原の深山に居を移そうとおもったのではないでしょうか。
その線で考えると、いちばん気になるのは、阿波内侍との関係性です。
阿波内侍は寂光院の二代目の住持(建礼門院)なんですが、徳子が寂光院に入寺すると三代目の建礼門院を譲って、徳子の従者となりました。
今回は、この阿波内侍の物語を、2回にわけてさせていただこうとおもいます。
阿波内侍についてはあまりしっかりした情報がありません。
もとは藤原家の出で、父の名は藤原通憲。のちに出家して信西となります。
母は紀伊二位といって、後白河天皇の乳母でもありました。
阿波内侍は朝廷で崇徳院の寵愛を受けていた女房です。
しかし1156年。
崇徳院は後白河天皇(当時はまだ天皇です)の謀略(保元の乱)によって排除され、讃岐に島流しにされました。
阿波内侍はこのとき、崇徳院には付いていかず、京に残っています。
保元の乱から8年後の1164年、崇徳院が讃岐に流されたまま崩御すると阿波内侍は出家し、1166年に寂光院に入寺しました。
寂光院は聖徳太子が建立したといいます。
初代の建礼門院は、聖徳太子の乳母であった玉照姫と伝わります。
しかしその後記録がなく、二代目の建礼門院が阿波内侍というのです。
記録がないというのは、おそらくお寺が作られて、縁起が定められてからは、明確な管理者がない時期が長かったのだろうとおもいます。
つまり、荒れ寺だったんでしょう。
それくらい、寂光院周辺は暮らすには厳しい辺鄙なところでした。
特に、尼寺として女性が暮らすには、厳しすぎるほど厳しい場所だとおもいます。
地元の人が細々と場所の維持はしていたけど、住持が勤めてくれることさえないような時代が続いていたのではないでしょうか。
時期は定かではありませんが、崇徳院が崩御したのち、阿波内侍はいまの
そして阿波内侍が寂光院に入寺して3年ほど経ったとき、彼女は京都の願勝寺を、母の生国である阿波(徳島県)の維摩寺に移し、名前をそのまま「願勝寺」に改めるように請願したそうです。
いまも四国八十八箇所霊場のひとつとして徳島県美馬市に願勝寺が残っています。
しかし「願勝寺」とはどういうことでしょうか。
なにに勝ちたいと願ったのでしょう。
これはやはり、後白河天皇の一派に一矢報いたい、このまま崇徳院の無念を晴らさずに終わってなるものか、という強い願いが込められていたと考えるのが自然です。
崇徳院と後白河天皇が争っていたとき、後白河天皇側についていた武将は平清盛でした。
阿波内侍は後白河天皇のみならず、清盛のことも憎んでいたことでしょう。
もっといえば、なぜ願勝寺を京都から阿波へ移さねばならなかったのか。
これは憶測ではありますが、京の都で阿波内侍が寺の名を「願勝寺」にしたことを、勘ぐる人もいたのかもしれません。
敗軍の崇徳院の勝ちを願っているのではないか、という声が上がり、寺名を変えざるを得なくなり、せめて母の生国である阿波に願勝寺の名を移した、とぼくは考えます。
阿波内侍の恨みの強さが伝わってくるようです。
大原から京の都まで、薪や柴、山の幸を頭に乗せて物売りに出歩く大原女の装いは、阿波内侍からきています。
おそらく阿波内侍も、京都市内まで生活に必要なモノを求めてでかけていたことでしょう。
物売りのついでに朝廷のいろいろな噂も仕入れていたにちがいありません。
そしてその際の関心ごとは、後白河天皇の一派がいったいどうなったか、ということだったはずです。
寵愛を受けた崇徳院が讃岐の地で無念の崩御に至ったというのに、後白河天皇や清盛がのうのうと朝廷でのさばっている。
その恨みをだれかに明確に伝えるということはしなかったかもしれませんが、生涯、言葉にできぬおもいを抱えていたことはまちがいないでしょう。
阿波内侍の恨みが届いた……というわけではないでしょうが、後白河天皇は昵懇であったはずの清盛と反目し合うようになりました。
その間、清盛も後白河天皇も出家しました。
互いにひどく血なまぐさい入道でした。
法皇は清盛の暗殺を企て、清盛はそれに気づくと関与していた一味を粛正、法皇を幽閉したりと(鹿ケ谷の陰謀)、法皇と清盛の対立は熾烈を極めるようになります。
そして清盛が死ぬと、法皇は源氏と手を組んで、残った平家を滅亡に追い込みました。
この壇ノ浦の合戦で、安徳天皇の母徳子がたまたま救い出され、長楽寺に入寺したそうな……。
阿波内侍はそのような話を、都へ行くうちに人々やお寺のネットワークから、かなり早い段階で知っていたのではないでしょうか。
徳子が落魄して出家したとき、阿波内侍が寂光院に入寺してはや20年が経っていました。
老境に入った阿波内侍が徳子の境遇を知ったとき、まるで若いときのじぶんのようだとおもったことでしょう。
徳子は高倉天皇を早くに喪い、平家の没落をどうすることもできず、朝廷で居場所を失った女御の定めとして、おもうに任せぬ運命を恨みながら生きていかねばならないのだ。
阿波内侍はこの20年の間、法皇や清盛への恨みつらみが昇華することはなかったけれど、両者の醜い争いや、清盛の死、平家の滅亡を伝え聞いているうちに、なにもかもがむなしくなっていました。
(続く)