No.1552
後半です。
どうやら阿波内侍はずいぶん激しい気性の人だったようです。
史実と平家物語の行間を読むようにして推察していくと、どうも感情の振れ幅が大きな人だったとおもわずにいられません。
そしてそんな阿波内侍の性格は父譲りだろうとおもいます。
阿波内侍の父、信西はもともと後白河天皇の腹心でした。
母の紀伊二位が後白河天皇の乳母だったことを利用して、信西も後白河天皇と非常に近いところにいたのです。
後白河天皇を即位に導いたのも信西でした。
信西は清盛とも親交がありました。
いわば当時の後白河天皇の趨勢を盤石なものにするための、中枢人物といえます。
儒学者だったのですが、激烈な政治改革者でもありました。
しかしその激烈さゆえに、後白河天皇の家臣から反信西派があらわれ、1160年、後白河天皇や清盛の隙をつくかたちで信西が攻撃され、無念の死を遂げます。
信西もまた入道とは名ばかりの、血の匂いの強い男でした。
1160年というと、崇徳院が讃岐に流されている最中です。
愛する帝は辺境の地に配流され、父は政変に巻き込まれて自害。
この時期の阿波内侍はまだ出家しておらず、俗世の中で居場所を失い、ただ呪わしい運命に翻弄されるほかありませんでした。
父は後白河天皇の側についていたとはいえ、なにが起こったのか細かいところまではわからない阿波内侍からすれば「見殺しにされた」と感じたのではないでしょうか。
そう考えると、崇徳院も気性の激しい人でした。
「瀬をはやみ 岩に急かるる滝川の 割れても末に 会わんとぞおもう」
急流の滝川が、岩にせき止められてふたつに割れる。しかしこの流れがまたひとつになるように、わたしたちもまた会えるだろう。
百人一首にもある、崇徳院の有名な歌です。
平安時代の和歌としては言葉が激しく、恋の歌と解釈しても激しいのですが、この歌にはもうひとつの意味がある、とされています。
それは後白河天皇との争いに敗れたあと、皇位を譲らざるを得なかったじぶんの立場に対して、また返り咲こうとする意志があるという意味です。
阿波内侍の立場に立てば、この歌は崇徳院がじぶんのことを歌にしてくれたのではないかとおもったことでしょうし、あるいは裏側の政治的な意味にも気づいていたかもしれません。
しかし崇徳院も京の地を再び踏むことなく崩御。
20年のときが経ちました。
人間、怒りの感情は長くもたないといいます。
一生恨んでいたい、怒っていたいという激情でさえ、いつの間にか琥珀のように結晶となって心の中に沈んでしまい、もはや血液を巡ってたぎらせることができなくなるものです。
出家した徳子の話を耳にしたとき、阿波内侍の心にあったのは深い虚無と、じぶんとおなじく世を捨てて生きざるを得ない徳子への同情だったのではないか。
そのころ徳子もまた、じぶんとよく似た境遇の、うらぶれた阿波内侍という尼僧が寂光院に住んでいるらしいことを知ります。
阿波内侍は山のものを売り歩きによく都に来ていて、寂光院までは都から歩いて一日もかからない距離だという。
徳子はそんな阿波内侍に強いシンパシーをおぼえ、わが身をそこへ預けようとおもったのかもしれません。
寂光院と長楽寺にいたふたりの情報がどのように交差したのか。
平家物語から類推するなら、女房のひとりがたまたま阿波内侍の身の上を知っていて、徳子へと情報が伝わった、と考えるのがよさそうですが、はっきりしたことはわかりません。
いずれにせよ、お互いの望むところだったからこそ、徳子は寂光院に入寺し、阿波内侍も徳子を受け入れました。
そして徳子が入寺すると建礼門院の立場を進んでゆずり、徳子の従者となったのです。
もし阿波内侍が、「崇徳院に仇をなした一族を受け入れるなど、できようものか」といった黒い魂にとらわれ続けていたら、徳子の入寺はあり得なかったでしょう。
阿波内侍にとっても、徳子の入寺は恩讐を越えてかなえられたことだったのだとおもいます。
しかし徳子にとっては、まさかここまで暮らすのがたいへんな場所だとは、おもいもよらなかったことでしょう。
阿波内侍もまた、徳子に建礼門院を譲ったからといって、奉るようなことはせず、厳しい生活の修行をともにこなすようになったのです。
ところで「灌頂の巻」で、後白河法皇が大原へ御幸したとき、法皇が寂光院で最初に出会ったのが、阿波内侍でした。
ここからは平家物語に阿波内侍が登場するくだりを抜粋して翻訳していきます。
法皇は寂光院のみすぼらしい有様におどろきました。
節だった竹を柱にした庵室の軒には蔓草が這っていて、周囲にも雑草がはびこっています。
屋根を葺く杉皮も薄く、夜には月の光が差し込み、雨漏りも激しいだろうことは容易に想像がつきました。
あたりはサルの鳴き声や、木こりが薪を切る斧の音、風が吹けば笹の葉擦れの音が聞こえるばかり。
法皇が「人はおらんか」と呼びかけましたが、なんの返事もありません。
ずいぶん経って、老い衰えた女性があらわれました。
「女院(徳子)はいずこにおられるのか」
と法皇がたずねると、老女は「山の上で花を摘んでおられます」と答えました。
法皇が「いくら世を捨てたとはいえ中宮であったのだぞ。代わりにやってくれる者もおらぬというのか。おいたわしい」と嘆くと、老女が答えました。
「仏道の戒めによるご果報が尽きてしまわれたから、いまこのような御目にあわれているのでございます。身を捨てての行なのですから、なぜその身を惜しむことがありましょう。
因果経に書かれているように、過去の原因を知りたければ、現在の結果をみなければなりません。未来に起こることの結果を知るためには、現在の原因を探らねばなりません。過去、未来の原因と結果によって起こっていること(訂正:現在)なのだから、嘆くべきことではないのです。
悉達太子(仏陀)も艱難辛苦の苦行を経て、最後に悟りを得られました」
老女は布切れを結び合わせた衣服ともいえぬものを着ているような有様で、それがこのような説法を説くものだから、不思議におもった法皇は、
「そもそもなんじは何者なのか」と問いました。
すると老尼は堰を切ったようにさめざめと泣き始めました。
いったん泣きはじめるとしばらくは法皇の問いかけにも答えられません。
ようやく涙を抑えて話し始めました。
「わたしは亡き少納言、入道信西の娘、阿波内侍と申す者でございます。母は紀伊の二位。かつてあれほどお世話になりましたというのに、お忘れになられるとは、わが身もそれだけ老いたのでしょう」
法皇はおどろきました。
「まさかなんじは、あの信西の娘だったのか。もうすっかりおもい出せずにいたが、夢でもみているようだ」
法皇のお供の者たちも「なるほど不思議な尼だとはおもっていたが、そういうことなら合点がいく」と口々に言い合いました。
その後、花摘みから帰ってきた徳子が法皇の御幸を知り、動揺します。
「いくら世を捨てた身とはいえ、このような姿は見られたくない。消えてなくなりたい」といって途方に暮れて泣いているところへ、阿波内侍がやってきて、言いました。
「なにを恥ずかしがることがありましょう。さっさと御対面なさって、帰ってもらえばよいのです」
徳子は、
「御念仏を一度唱えれば、阿弥陀さまの光明がさすことを期待しておりました。
十度御念仏を唱えれば、菩薩さま方に御来迎いただけるものとおもっておりました。
なのにまさかあのお方が御幸なさるとはおもってもおりませなんだ」
と嘆きながら、泣く泣く法皇の待つ庵室へ向かったといいます。
その後、徳子が地獄の六道の話をし、法皇とともに泣き暮れたことはすでに述べました。
これまで話したことを踏まえて平家物語での阿波内侍の言動を考えると、法皇への複雑な心境が、あの堰を切ったような涙にあらわれているし、徳子への厳しい態度の中にも、一種のやさしさがあることがわかります。
ところで、この時代の宮中の人が標準語をつかっていたはずはありません。
実際のところを想像して、言葉を変えてみました。
「もうそない恥ずかしいいわんと、とっとと会って、さっさと帰ってもらいよし」
と、阿波内侍が法皇のいる庵室をちらちら向きながら小声でいまいましげに言うと、おろおろと涙を浮かべてうろたえる徳子がつぶやきました。
「いっしょうけんめいお経を唱えてたらふつうは仏さまが来るもんとちゃいますか。やのに来てほしくもないあの人が来はるんやさかい、わけがわからしまへん」
ほんとうは阿波内侍と徳子の間で、こんなユーモラスな一場面があったのかもしれません。
余談ですが、徳子の夫、高倉天皇が危篤になったとき、清盛の寿命もわずかでした。
しかし清盛の権力欲は最後まで衰えることがありません。
あろうことか高倉天皇が崩御するようなことがあれば、徳子を後白河法皇のもとに入内させようと提案したのです。
後白河法皇を幽閉した隙に安徳天皇を即位させた清盛でしたが、高倉天皇がいなくなると手詰まりでした。
平家と皇室の直接の縁がなくなり、安徳天皇の天皇としての正当性が揺らいでしまうからです。
そこで清盛は徳子を利用して、後白河院の後妻にして、天皇家とのつながりを維持しようとしたわけです。
しかしさすがにその無理筋の政略はあらゆる方面から避難(誤字:非難)を浴びました。
後白河法皇もこの提案を辞退。
徳子さえこれを断固として拒否しました。なんとじぶんの髪を切ってまで抵抗の意志を示したのです。
もちろんこの話はなかったことになりましたが、高倉天皇の崩御から2か月で清盛も死去し、平家は栄華の頂点から滅亡の坂を転げ落ちることになりました。
つまり徳子と法皇は、いわば互いに縁談を断り合った複雑な間柄でもあったのです。
話をもとに戻します。
阿波内侍が法皇に因果経を説いたくだりには、法皇への批判が含まれていました。
法皇は出家とは名ばかりで、血に汚れた政治権力を振りかざし、なにをするにも下々に任せている。
それに比べて徳子はいまや、みずからの運命を乗り越えて悟りを得るために、因果をよく見極めて苦行に励んでいるのだ、と。
法皇はその言外に匂わせた批判めいた口調の厳しさに面食らって「そもそもなんじはだれなのだ」と問わずにいられなかったのでしょう。
寂光院にたどり着いた法皇の呼びかけにだれも応じなかったときも、阿波内侍は遠くから仰々しい行列をみて、法皇がやってきたことを察したのかもしれません。
徳子が入寺した以上、そういうことも起こりうるかもしれない、と阿波内侍は内心おもっていたはずです。
そしていざ法皇の姿を認めると、ゆっくり時間をかけてじぶんの人生を振り返り、息をととのえ、グッと腹を決めて、ようやく法皇の前に向かいました。
しかしたいへんな感情の高ぶりをおぼえながら法皇に対峙したのに、その存在がすっかり忘れ去られていたことに、おもわずこらえきれずに涙があふれる。
あのシーンはそのように読み解けるとおもいます。
徳子が病を得て身まかろうというとき、数人の従者とともに阿波内侍もその最期を看取ったといいます。
徳子の死の時期には諸説あり、長生きしたという説もあるのですが、もしそうなら阿波内侍が徳子に看取られていたかもしれません。
しかしもし平家物語のとおり37歳で入寂したとすれば、阿波内侍はどのような心境で徳子を看取ったのか。
考えてはみたのですが、わかりませんでした。察することが許されない領域のようにおもえたのです。
さて、徳子が寂光院に入寺するきっかけはなんだったのか、ということから、今回は平家物語の行間を読むかたちで、かなり創作に近い内容になりました。
もともと後半は3000文字程度でおさまっていたんですが、推敲して書き足していくうちにえらく長くなってしまいました。すみません(笑)
今回はこれでおしまいです。
どうやら阿波内侍はずいぶん激しい気性の人だったようです。
史実と平家物語の行間を読むようにして推察していくと、どうも感情の振れ幅が大きな人だったとおもわずにいられません。
そしてそんな阿波内侍の性格は父譲りだろうとおもいます。
阿波内侍の父、信西はもともと後白河天皇の腹心でした。
母の紀伊二位が後白河天皇の乳母だったことを利用して、信西も後白河天皇と非常に近いところにいたのです。
後白河天皇を即位に導いたのも信西でした。
信西は清盛とも親交がありました。
いわば当時の後白河天皇の趨勢を盤石なものにするための、中枢人物といえます。
儒学者だったのですが、激烈な政治改革者でもありました。
しかしその激烈さゆえに、後白河天皇の家臣から反信西派があらわれ、1160年、後白河天皇や清盛の隙をつくかたちで信西が攻撃され、無念の死を遂げます。
信西もまた入道とは名ばかりの、血の匂いの強い男でした。
1160年というと、崇徳院が讃岐に流されている最中です。
愛する帝は辺境の地に配流され、父は政変に巻き込まれて自害。
この時期の阿波内侍はまだ出家しておらず、俗世の中で居場所を失い、ただ呪わしい運命に翻弄されるほかありませんでした。
父は後白河天皇の側についていたとはいえ、なにが起こったのか細かいところまではわからない阿波内侍からすれば「見殺しにされた」と感じたのではないでしょうか。
そう考えると、崇徳院も気性の激しい人でした。
「瀬をはやみ 岩に急かるる滝川の 割れても末に 会わんとぞおもう」
急流の滝川が、岩にせき止められてふたつに割れる。しかしこの流れがまたひとつになるように、わたしたちもまた会えるだろう。
百人一首にもある、崇徳院の有名な歌です。
平安時代の和歌としては言葉が激しく、恋の歌と解釈しても激しいのですが、この歌にはもうひとつの意味がある、とされています。
それは後白河天皇との争いに敗れたあと、皇位を譲らざるを得なかったじぶんの立場に対して、また返り咲こうとする意志があるという意味です。
阿波内侍の立場に立てば、この歌は崇徳院がじぶんのことを歌にしてくれたのではないかとおもったことでしょうし、あるいは裏側の政治的な意味にも気づいていたかもしれません。
しかし崇徳院も京の地を再び踏むことなく崩御。
20年のときが経ちました。
人間、怒りの感情は長くもたないといいます。
一生恨んでいたい、怒っていたいという激情でさえ、いつの間にか琥珀のように結晶となって心の中に沈んでしまい、もはや血液を巡ってたぎらせることができなくなるものです。
出家した徳子の話を耳にしたとき、阿波内侍の心にあったのは深い虚無と、じぶんとおなじく世を捨てて生きざるを得ない徳子への同情だったのではないか。
そのころ徳子もまた、じぶんとよく似た境遇の、うらぶれた阿波内侍という尼僧が寂光院に住んでいるらしいことを知ります。
阿波内侍は山のものを売り歩きによく都に来ていて、寂光院までは都から歩いて一日もかからない距離だという。
徳子はそんな阿波内侍に強いシンパシーをおぼえ、わが身をそこへ預けようとおもったのかもしれません。
寂光院と長楽寺にいたふたりの情報がどのように交差したのか。
平家物語から類推するなら、女房のひとりがたまたま阿波内侍の身の上を知っていて、徳子へと情報が伝わった、と考えるのがよさそうですが、はっきりしたことはわかりません。
いずれにせよ、お互いの望むところだったからこそ、徳子は寂光院に入寺し、阿波内侍も徳子を受け入れました。
そして徳子が入寺すると建礼門院の立場を進んでゆずり、徳子の従者となったのです。
もし阿波内侍が、「崇徳院に仇をなした一族を受け入れるなど、できようものか」といった黒い魂にとらわれ続けていたら、徳子の入寺はあり得なかったでしょう。
阿波内侍にとっても、徳子の入寺は恩讐を越えてかなえられたことだったのだとおもいます。
しかし徳子にとっては、まさかここまで暮らすのがたいへんな場所だとは、おもいもよらなかったことでしょう。
阿波内侍もまた、徳子に建礼門院を譲ったからといって、奉るようなことはせず、厳しい生活の修行をともにこなすようになったのです。
ところで「灌頂の巻」で、後白河法皇が大原へ御幸したとき、法皇が寂光院で最初に出会ったのが、阿波内侍でした。
ここからは平家物語に阿波内侍が登場するくだりを抜粋して翻訳していきます。
法皇は寂光院のみすぼらしい有様におどろきました。
節だった竹を柱にした庵室の軒には蔓草が這っていて、周囲にも雑草がはびこっています。
屋根を葺く杉皮も薄く、夜には月の光が差し込み、雨漏りも激しいだろうことは容易に想像がつきました。
あたりはサルの鳴き声や、木こりが薪を切る斧の音、風が吹けば笹の葉擦れの音が聞こえるばかり。
法皇が「人はおらんか」と呼びかけましたが、なんの返事もありません。
ずいぶん経って、老い衰えた女性があらわれました。
「女院(徳子)はいずこにおられるのか」
と法皇がたずねると、老女は「山の上で花を摘んでおられます」と答えました。
法皇が「いくら世を捨てたとはいえ中宮であったのだぞ。代わりにやってくれる者もおらぬというのか。おいたわしい」と嘆くと、老女が答えました。
「仏道の戒めによるご果報が尽きてしまわれたから、いまこのような御目にあわれているのでございます。身を捨てての行なのですから、なぜその身を惜しむことがありましょう。
因果経に書かれているように、過去の原因を知りたければ、現在の結果をみなければなりません。未来に起こることの結果を知るためには、現在の原因を探らねばなりません。過去、未来の原因と結果によって起こっている
悉達太子(仏陀)も艱難辛苦の苦行を経て、最後に悟りを得られました」
老女は布切れを結び合わせた衣服ともいえぬものを着ているような有様で、それがこのような説法を説くものだから、不思議におもった法皇は、
「そもそもなんじは何者なのか」と問いました。
すると老尼は堰を切ったようにさめざめと泣き始めました。
いったん泣きはじめるとしばらくは法皇の問いかけにも答えられません。
ようやく涙を抑えて話し始めました。
「わたしは亡き少納言、入道信西の娘、阿波内侍と申す者でございます。母は紀伊の二位。かつてあれほどお世話になりましたというのに、お忘れになられるとは、わが身もそれだけ老いたのでしょう」
法皇はおどろきました。
「まさかなんじは、あの信西の娘だったのか。もうすっかりおもい出せずにいたが、夢でもみているようだ」
法皇のお供の者たちも「なるほど不思議な尼だとはおもっていたが、そういうことなら合点がいく」と口々に言い合いました。
その後、花摘みから帰ってきた徳子が法皇の御幸を知り、動揺します。
「いくら世を捨てた身とはいえ、このような姿は見られたくない。消えてなくなりたい」といって途方に暮れて泣いているところへ、阿波内侍がやってきて、言いました。
「なにを恥ずかしがることがありましょう。さっさと御対面なさって、帰ってもらえばよいのです」
徳子は、
「御念仏を一度唱えれば、阿弥陀さまの光明がさすことを期待しておりました。
十度御念仏を唱えれば、菩薩さま方に御来迎いただけるものとおもっておりました。
なのにまさかあのお方が御幸なさるとはおもってもおりませなんだ」
と嘆きながら、泣く泣く法皇の待つ庵室へ向かったといいます。
その後、徳子が地獄の六道の話をし、法皇とともに泣き暮れたことはすでに述べました。
これまで話したことを踏まえて平家物語での阿波内侍の言動を考えると、法皇への複雑な心境が、あの堰を切ったような涙にあらわれているし、徳子への厳しい態度の中にも、一種のやさしさがあることがわかります。
ところで、この時代の宮中の人が標準語をつかっていたはずはありません。
実際のところを想像して、言葉を変えてみました。
「もうそない恥ずかしいいわんと、とっとと会って、さっさと帰ってもらいよし」
と、阿波内侍が法皇のいる庵室をちらちら向きながら小声でいまいましげに言うと、おろおろと涙を浮かべてうろたえる徳子がつぶやきました。
「いっしょうけんめいお経を唱えてたらふつうは仏さまが来るもんとちゃいますか。やのに来てほしくもないあの人が来はるんやさかい、わけがわからしまへん」
ほんとうは阿波内侍と徳子の間で、こんなユーモラスな一場面があったのかもしれません。
余談ですが、徳子の夫、高倉天皇が危篤になったとき、清盛の寿命もわずかでした。
しかし清盛の権力欲は最後まで衰えることがありません。
あろうことか高倉天皇が崩御するようなことがあれば、徳子を後白河法皇のもとに入内させようと提案したのです。
後白河法皇を幽閉した隙に安徳天皇を即位させた清盛でしたが、高倉天皇がいなくなると手詰まりでした。
平家と皇室の直接の縁がなくなり、安徳天皇の天皇としての正当性が揺らいでしまうからです。
そこで清盛は徳子を利用して、後白河院の後妻にして、天皇家とのつながりを維持しようとしたわけです。
しかしさすがにその無理筋の政略はあらゆる方面から
後白河法皇もこの提案を辞退。
徳子さえこれを断固として拒否しました。なんとじぶんの髪を切ってまで抵抗の意志を示したのです。
もちろんこの話はなかったことになりましたが、高倉天皇の崩御から2か月で清盛も死去し、平家は栄華の頂点から滅亡の坂を転げ落ちることになりました。
つまり徳子と法皇は、いわば互いに縁談を断り合った複雑な間柄でもあったのです。
話をもとに戻します。
阿波内侍が法皇に因果経を説いたくだりには、法皇への批判が含まれていました。
法皇は出家とは名ばかりで、血に汚れた政治権力を振りかざし、なにをするにも下々に任せている。
それに比べて徳子はいまや、みずからの運命を乗り越えて悟りを得るために、因果をよく見極めて苦行に励んでいるのだ、と。
法皇はその言外に匂わせた批判めいた口調の厳しさに面食らって「そもそもなんじはだれなのだ」と問わずにいられなかったのでしょう。
寂光院にたどり着いた法皇の呼びかけにだれも応じなかったときも、阿波内侍は遠くから仰々しい行列をみて、法皇がやってきたことを察したのかもしれません。
徳子が入寺した以上、そういうことも起こりうるかもしれない、と阿波内侍は内心おもっていたはずです。
そしていざ法皇の姿を認めると、ゆっくり時間をかけてじぶんの人生を振り返り、息をととのえ、グッと腹を決めて、ようやく法皇の前に向かいました。
しかしたいへんな感情の高ぶりをおぼえながら法皇に対峙したのに、その存在がすっかり忘れ去られていたことに、おもわずこらえきれずに涙があふれる。
あのシーンはそのように読み解けるとおもいます。
徳子が病を得て身まかろうというとき、数人の従者とともに阿波内侍もその最期を看取ったといいます。
徳子の死の時期には諸説あり、長生きしたという説もあるのですが、もしそうなら阿波内侍が徳子に看取られていたかもしれません。
しかしもし平家物語のとおり37歳で入寂したとすれば、阿波内侍はどのような心境で徳子を看取ったのか。
考えてはみたのですが、わかりませんでした。察することが許されない領域のようにおもえたのです。
さて、徳子が寂光院に入寺するきっかけはなんだったのか、ということから、今回は平家物語の行間を読むかたちで、かなり創作に近い内容になりました。
もともと後半は3000文字程度でおさまっていたんですが、推敲して書き足していくうちにえらく長くなってしまいました。すみません(笑)
今回はこれでおしまいです。