No.1650
日付の件は不思議でしたが、下書きをこちらで保存されているのですね。
もちろんまったく問題ありません。
今回は、前回の続きのような話なんですが、雑談のような調子になってしまいました。
あまりはっきりした結論に至らないのは前回とおなじです。
ことしは7月になってからもなんとも気忙しい日々が続いており、うまくまとめるための時間と気力が足りないのが悩みです。
水無月の件ですが、もうギズモさんには過分なお心遣いをいただいていますから、これ以上は恐縮でとても受け取れません(笑)
水無月に限らず、ぜひギズモさんとご家族のために楽しんでいただければとおもいます。
幕末の志士は後世に興味があったのか、改めて考えてみたのですが、おそらく現代のような未来予想はしていなかったのではないかとおもいます。
それどころか、まさか明治に入って間もなく、武士の時代が終わってしまうわけです。
当の武士たちが、近いうちに武士の身分を取り上げられてしまう未来を予測できていたら、明治維新は起こるはずがありません(笑)
当時の志士たちの行動原理は、以下のようなものでしょう。
「江戸幕府は見掛け倒しの弱腰で、国内からはまるで商売人のように暴利を貪り、海外からの侵略者にはこびへつらい、じぶんが生きることにばかり汲々としていて、だれも命を懸けない。中枢にいる連中は腐敗しきっている。この状況を変えねばならぬ」
これ以上のことは考えていない……というか、具体的にどう世の中が動くかということは、みんな手探りで、わかっていなかったのだとおもいます。
江戸幕藩体制を終わらせたあと、どのように日本を統治するか、新政府と各藩藩主が集まって、共和制について議論したこともありました。
いまの日本は立憲君主制といって、憲法というルールと天皇という君主のいる国ということですね。
共和制の場合は、君主はおらず、選挙によってえらばれた代表者が国家のトップとなります。
しかしこの議論はたった一度行われただけで、まったく煮詰まることもなく、あっさりと立ち消えになりました。
天皇制を廃止するところまで踏み込むのは、維新の機運の中でも、さすがにできなかった(やる気がなかった)のでしょう。
そのように、江戸から明治になる過渡期においては、なにもかもがふわふわとして定まっていませんでした。
旧幕府軍と新政府軍による戊辰戦争、不平士族が西郷をかついで新政府に立ち向かった西南戦争のような内戦も起こっています。
憲法や法律などのシステムについては西洋の文明を移入することにしよう、という、非常に他力本願なところもありました。
つまり、志士たちの将来をおもう気持ちというのは、明確なビジョンがあったわけでなく、やはり司馬さんが言ったように、場当たり的な、禅的なものだったのではないかとおもいます。
志士たちが、じぶんの命だけを手弁当のようにして参加した明治維新には、「禅的な死」という共通認識があったとおもいます。
では禅的な死とはなにかというと、江戸時代に書かれた『葉隠』における有名な「武士道というは死ぬことと見つけたり」という言葉に集約されます。
この「武士道というは……」の部分には続きがあります。
翻訳すると、以下のようになります。
武士道とはつまり、死ぬことだったのだ。
もしふたつの選択肢があった場合は、早く死ぬほうを選ぶ。
むずかしく考えることはない。
腹を決めてそのようにすればよい。
うまくいかなかったら犬死にではないかというような考えは、まるで商売人が考えそうな打算の武士道である。
ふたつの選択肢があった場合、どちらを選んでどうなるか、わかる人間などいない。
もちろん、じぶんを生きている以上、生きるほうが好きなのは当然だろう。
みんななんだかんだ理由をつけて、生きるほうを選ぶものである。
しかし、生きるほうを選んでその選択が間違っていた場合は、腰抜け、恥さらしではないか。
ここが危なっかしいところなのだ。
もし死ぬほうを選んで、それが間違っていたとしたら。
たしかに犬死にかもしれぬ。
わざわざ死ぬほうを選ぶなど、気ちがいと言われるかもしれぬ。
しかしこの場合、犬死に気ちがいではあっても、恥にはならない。
武士道という点では、それでじゅうぶん立派なのである。
毎朝、毎晩、その都度死の覚悟を定めて、つねに死んだ身となっていれば、命を惜しむ心の束縛から自由を得た状態となる。
そうすれば生涯恥をさらすことなく、お家を守ることができるであろう。
ようするに、命を惜しむな、死を恐れるな、というわけです。
司馬さんはこういった武士道マインドを実践して実際に死んでいった志士に、禅を感じて、しかも疑問におもったんですね。
なぜそんなあっさりと死んでしまうのだろう、と。
『葉隠』を書いたのは佐賀藩の山本常朝という武士でした。
この山本常朝は華蔵庵という僧房で、湛然和尚に教えを受け、42歳で出家します。
山本常朝は60歳で亡くなるのですが、かれが晩年に著したのが『葉隠』でした。
そして常朝に仏道を指南した湛然和尚は曹洞宗だったんです。
ギズモさんも書いておられましたが、曹洞宗は禅宗ですね。
つまり『葉隠』という武士思想の基礎と、禅宗は密接につながっていました。
司馬さんはそのあたりまでわかっていたはずです。
そのうえで、たとえ武士とはいえ、葉隠のように人間があっさり死ぬほうを選ぶというマインドが、やはり納得いかない。
江戸幕府の連中はみな命を惜しんで腐敗政治の中でのんびりやっていました。
維新の志士だけが突然変異のように、社会のために命を惜しまず、当たって砕けてしまうのだから、不思議におもうのも当然です。
だから司馬さんは、「彼らは未来を信じていたのかしら、生まれかわることを信じていたのかしら」と思案したのでしょう。
司馬さんは上方(大阪)の人です。
司馬さんは商売人ではありませんし、太平洋戦争を経験し、「いつでも死ねることだけが特技だ」というくらい腹の決まった人でしたが、それでもおなじ時代の特攻隊の若者たちでも、家族をおもい、生きることへの執着をのぞかせるなど、逡巡する感情の動きがありました。
そういった極限の状況を知っているからこそ、志士が迷いなく死んでいったということがうまく理解できないんですね。
おそらく志士たちの死の心構えとは、以下のようなシンプルなものだったでしょう。
・じぶんの生き様が恥にならないように生きて、死ぬ。
・どのような形になるにせよ、腐敗しきった現状を変える。
それ以上の……たとえばじぶんの死後の安寧を願って念仏をとなえるだとか、ことさら未来に強い希望を抱いたりとか、あるいは生まれ変わったらもっとよい社会になるようにする、というような「じぶんを救うための考え」は、多くの志士にとっては雑音だったのではないかとおもいます。
それで、みんなこの雑音をできるだけ聞かないようにして、やせ我慢を当たり前のものとして、死んでいったのでしょう。
と、2回続けて司馬さんの話になってしまいました(笑)
この話はこのあたりで切り上げます。
おみくじの話なんですが、うちの親は、おみくじにじぶんの生き方が決められたり振り回されるのがイヤだから、という理由で、寺社にお参りしてもおみくじはひきません。
ぼくは、おみくじを引いたじぶんも含めて、運勢という妙なものを受け止めようとおもうので、おみくじに抵抗はありません。
ぼくの場合は、なにかを信じるとか、指針を得るためにおみくじを引くというよりは、じぶんの力ではどうしようもないことがある、ということを確かめるためにおみくじを引きます。
なので、たとえばおみくじを何度もひいて、そのたびにちがう結果が出るとします。
そのような行動をしてしまうじぶんの運命のおかしさも、おみくじの内容が毎回ちがうことの理不尽さも、じぶんの力ではどうしようもないことなので、受け止めるしかありません。
この「じぶんではどうしようもないことを受け止める」という修行のためにおみくじを引いている、という感覚です(笑)
わたくしごとですが、来週は選挙で、ぼくは自治会長の手前、投票所の立会人として、当日はまる一日、14時間ほど拘束されます(笑)
さらにここ最近は近所の陳情を受け付けたり、その対応で神経をすり減らしています。
こういう立場になってみてわかりましたが、自治会長は上座にすわってふんぞり返るというような性質のものではなくて、ムリヤリ上座にすわらされて、やってることは庶務とか、あるいは中間管理職のようなことばかりです。
お金になるわけでもないですし、みんながこの役回りを嫌がる理由もわかるのですが、こういう役回りを負う人がいないと、公共は立ち行かないんですよね。
言い訳がましくなりますが、いましばらく忙しい時期が続くようで、返信ペースが乱れがちになることをご容赦ください。
もちろんまったく問題ありません。
今回は、前回の続きのような話なんですが、雑談のような調子になってしまいました。
あまりはっきりした結論に至らないのは前回とおなじです。
ことしは7月になってからもなんとも気忙しい日々が続いており、うまくまとめるための時間と気力が足りないのが悩みです。
水無月の件ですが、もうギズモさんには過分なお心遣いをいただいていますから、これ以上は恐縮でとても受け取れません(笑)
水無月に限らず、ぜひギズモさんとご家族のために楽しんでいただければとおもいます。
幕末の志士は後世に興味があったのか、改めて考えてみたのですが、おそらく現代のような未来予想はしていなかったのではないかとおもいます。
それどころか、まさか明治に入って間もなく、武士の時代が終わってしまうわけです。
当の武士たちが、近いうちに武士の身分を取り上げられてしまう未来を予測できていたら、明治維新は起こるはずがありません(笑)
当時の志士たちの行動原理は、以下のようなものでしょう。
「江戸幕府は見掛け倒しの弱腰で、国内からはまるで商売人のように暴利を貪り、海外からの侵略者にはこびへつらい、じぶんが生きることにばかり汲々としていて、だれも命を懸けない。中枢にいる連中は腐敗しきっている。この状況を変えねばならぬ」
これ以上のことは考えていない……というか、具体的にどう世の中が動くかということは、みんな手探りで、わかっていなかったのだとおもいます。
江戸幕藩体制を終わらせたあと、どのように日本を統治するか、新政府と各藩藩主が集まって、共和制について議論したこともありました。
いまの日本は立憲君主制といって、憲法というルールと天皇という君主のいる国ということですね。
共和制の場合は、君主はおらず、選挙によってえらばれた代表者が国家のトップとなります。
しかしこの議論はたった一度行われただけで、まったく煮詰まることもなく、あっさりと立ち消えになりました。
天皇制を廃止するところまで踏み込むのは、維新の機運の中でも、さすがにできなかった(やる気がなかった)のでしょう。
そのように、江戸から明治になる過渡期においては、なにもかもがふわふわとして定まっていませんでした。
旧幕府軍と新政府軍による戊辰戦争、不平士族が西郷をかついで新政府に立ち向かった西南戦争のような内戦も起こっています。
憲法や法律などのシステムについては西洋の文明を移入することにしよう、という、非常に他力本願なところもありました。
つまり、志士たちの将来をおもう気持ちというのは、明確なビジョンがあったわけでなく、やはり司馬さんが言ったように、場当たり的な、禅的なものだったのではないかとおもいます。
志士たちが、じぶんの命だけを手弁当のようにして参加した明治維新には、「禅的な死」という共通認識があったとおもいます。
では禅的な死とはなにかというと、江戸時代に書かれた『葉隠』における有名な「武士道というは死ぬことと見つけたり」という言葉に集約されます。
この「武士道というは……」の部分には続きがあります。
武士道といふは死ぬことと見つけたり。
二つ二つの場にて、早く死ぬかたに片付くばかりなり。
別に仔細なし。
胸すわつて進むなり。
図に当らぬは犬死などといふ事は、上方風の打ち上りたる武道なるべし。
二つ二つの場にて、図に当るやうにわかることは、及ばざることなり。
我人、生きる方がすきなり。多分すきの方に理が付くべし。
若し図にはづれて生きたらば、腰抜けなり。
この境危うきなり。
図にはづれて死にたらば、犬死気違なり。
恥にはならず。これが武道に丈夫なり。
毎朝毎夕、改めては死に改めては死に、常住死身になりて居る時は、武道に自由を得、一生越度なく、家職を仕果すべきなり。
翻訳すると、以下のようになります。
武士道とはつまり、死ぬことだったのだ。
もしふたつの選択肢があった場合は、早く死ぬほうを選ぶ。
むずかしく考えることはない。
腹を決めてそのようにすればよい。
うまくいかなかったら犬死にではないかというような考えは、まるで商売人が考えそうな打算の武士道である。
ふたつの選択肢があった場合、どちらを選んでどうなるか、わかる人間などいない。
もちろん、じぶんを生きている以上、生きるほうが好きなのは当然だろう。
みんななんだかんだ理由をつけて、生きるほうを選ぶものである。
しかし、生きるほうを選んでその選択が間違っていた場合は、腰抜け、恥さらしではないか。
ここが危なっかしいところなのだ。
もし死ぬほうを選んで、それが間違っていたとしたら。
たしかに犬死にかもしれぬ。
わざわざ死ぬほうを選ぶなど、気ちがいと言われるかもしれぬ。
しかしこの場合、犬死に気ちがいではあっても、恥にはならない。
武士道という点では、それでじゅうぶん立派なのである。
毎朝、毎晩、その都度死の覚悟を定めて、つねに死んだ身となっていれば、命を惜しむ心の束縛から自由を得た状態となる。
そうすれば生涯恥をさらすことなく、お家を守ることができるであろう。
ようするに、命を惜しむな、死を恐れるな、というわけです。
司馬さんはこういった武士道マインドを実践して実際に死んでいった志士に、禅を感じて、しかも疑問におもったんですね。
なぜそんなあっさりと死んでしまうのだろう、と。
『葉隠』を書いたのは佐賀藩の山本常朝という武士でした。
この山本常朝は華蔵庵という僧房で、湛然和尚に教えを受け、42歳で出家します。
山本常朝は60歳で亡くなるのですが、かれが晩年に著したのが『葉隠』でした。
そして常朝に仏道を指南した湛然和尚は曹洞宗だったんです。
ギズモさんも書いておられましたが、曹洞宗は禅宗ですね。
つまり『葉隠』という武士思想の基礎と、禅宗は密接につながっていました。
司馬さんはそのあたりまでわかっていたはずです。
そのうえで、たとえ武士とはいえ、葉隠のように人間があっさり死ぬほうを選ぶというマインドが、やはり納得いかない。
江戸幕府の連中はみな命を惜しんで腐敗政治の中でのんびりやっていました。
維新の志士だけが突然変異のように、社会のために命を惜しまず、当たって砕けてしまうのだから、不思議におもうのも当然です。
だから司馬さんは、「彼らは未来を信じていたのかしら、生まれかわることを信じていたのかしら」と思案したのでしょう。
司馬さんは上方(大阪)の人です。
司馬さんは商売人ではありませんし、太平洋戦争を経験し、「いつでも死ねることだけが特技だ」というくらい腹の決まった人でしたが、それでもおなじ時代の特攻隊の若者たちでも、家族をおもい、生きることへの執着をのぞかせるなど、逡巡する感情の動きがありました。
そういった極限の状況を知っているからこそ、志士が迷いなく死んでいったということがうまく理解できないんですね。
おそらく志士たちの死の心構えとは、以下のようなシンプルなものだったでしょう。
・じぶんの生き様が恥にならないように生きて、死ぬ。
・どのような形になるにせよ、腐敗しきった現状を変える。
それ以上の……たとえばじぶんの死後の安寧を願って念仏をとなえるだとか、ことさら未来に強い希望を抱いたりとか、あるいは生まれ変わったらもっとよい社会になるようにする、というような「じぶんを救うための考え」は、多くの志士にとっては雑音だったのではないかとおもいます。
それで、みんなこの雑音をできるだけ聞かないようにして、やせ我慢を当たり前のものとして、死んでいったのでしょう。
と、2回続けて司馬さんの話になってしまいました(笑)
この話はこのあたりで切り上げます。
おみくじの話なんですが、うちの親は、おみくじにじぶんの生き方が決められたり振り回されるのがイヤだから、という理由で、寺社にお参りしてもおみくじはひきません。
ぼくは、おみくじを引いたじぶんも含めて、運勢という妙なものを受け止めようとおもうので、おみくじに抵抗はありません。
ぼくの場合は、なにかを信じるとか、指針を得るためにおみくじを引くというよりは、じぶんの力ではどうしようもないことがある、ということを確かめるためにおみくじを引きます。
なので、たとえばおみくじを何度もひいて、そのたびにちがう結果が出るとします。
そのような行動をしてしまうじぶんの運命のおかしさも、おみくじの内容が毎回ちがうことの理不尽さも、じぶんの力ではどうしようもないことなので、受け止めるしかありません。
この「じぶんではどうしようもないことを受け止める」という修行のためにおみくじを引いている、という感覚です(笑)
わたくしごとですが、来週は選挙で、ぼくは自治会長の手前、投票所の立会人として、当日はまる一日、14時間ほど拘束されます(笑)
さらにここ最近は近所の陳情を受け付けたり、その対応で神経をすり減らしています。
こういう立場になってみてわかりましたが、自治会長は上座にすわってふんぞり返るというような性質のものではなくて、ムリヤリ上座にすわらされて、やってることは庶務とか、あるいは中間管理職のようなことばかりです。
お金になるわけでもないですし、みんながこの役回りを嫌がる理由もわかるのですが、こういう役回りを負う人がいないと、公共は立ち行かないんですよね。
言い訳がましくなりますが、いましばらく忙しい時期が続くようで、返信ペースが乱れがちになることをご容赦ください。