No.861
ぼくはうつ病を患っていた期間があって、ちょうど30になるあたりでしたが、もうともかく毎日、死ぬことばかり考えていました。
仕事上で裏切りにあったり、じぶんという人間の頼りなさへの絶望であったり、いろんな要素が混じり合ってのことです。
一日中寝ていたり、まともに歩けなくなるほどで、心療内科の薬も気休めのようなものでした。
死にたかったというよりは、もう死なざるを得ない、という感覚なんですが、これが「死ねばラクになる」という考えと混じり合って、結果、死にたいという考えになる。
生きているとずっと苦しい、つらい、いたたまれないような気分になって、逃げ場がないんですね。
そこでぼくは、生まれてはじめて、仏教について調べ出した。
あのときのぼくの心境は、わらにもすがるおもいだったはずですが、信じるものは「救われる」というのなら、それがどういうものか調べてみよう、くらいの意識です。
調べてみて、まず最初に、なんだこれはとおもいました。
仏教の開祖である仏陀は、この世に生きることは四苦八苦であると説いたんですね。
生まれる苦しみ
老いる苦しみ
病気になる苦しみ
死ぬ苦しみ
この4つの苦しみが、基本です。
この四苦に、さらに派生的に4つの苦しみが加わって、四苦八苦といいます。
愛別離苦(愛するものと別れる苦しみ)
怨憎会苦(憎むものと出会う苦しみ)
求不得苦(求めても得られない苦しみ)
五陰盛苦(肉体と精神が存在することで生まれる苦痛)
なんと仏陀は、この四苦八苦をもって、この世は苦しみがすべてだ、と説いたんです。
たのしいとおもうことも、それは苦しみに薄くてすぐはがれるメッキを塗っているだけで、結局は苦しみになる、という。
幸せだとおもうことも、この幸せがいつまでも続くわけではないという苦しみになる。
この世にある唯一の真実は苦しみである、というんですから、それを知ったぼくはもう、ガッカリですよ。
この苦しみをどうにかしてほしい、とおもって仏教をひもといたら、いやこの世はぜんぶ苦しみですよ、というのだから、バカにするにもほどがあります(笑)
でも、その後じっくりと仏教について広範囲に調べていくと、どうやら仏教の経典というのは、この手の最初に落としてあとで持ち上げるタイプのロジックが非常に多いことがわかりました。
たとえば、般若心経では、じつはわれわれは無である、というんです。
みえているものも、感じていることも、聞こえていることも、じつは「ない」。
え?
いま、現にわれわれはここに存在してるじゃないかとおもいますが、般若心経は、ひたすら無を説きます。
この世が無であるということがわかって、はじめて仏の道が開かれるんだ、とまでいう。
最初は、まあ死ねばみんな無になるのだから、そういうことなのかな、くらいの理解でした。
でも、これはどうやら、無と、無限を越えた有がつながっている、ということがわかると、意味が通るようになってるようです。
般若心経がいう「無」は、0(ゼロ)ではありません。
数字の概念であらわすことができない、なにもないという世界です。
同時に、無量大数という概念があって、これは無限大ということでもあります。
これも数という概念ではあらわせない領域ではあるんですが、さらにその向こう側。
数の概念を越えたすべてという、イメージとしては、宇宙の果てをさらに超えた場所、というような感じです。
こうなると、人間の理解を超えている世界という点では、無と変わらないんですよね。
だから、なにもない、というのは、なにもかもである、ということとつながっている。
死んだらわれわれは、無になると同時に、なにもかもになる。
われわれが生きているのも、なにもない無の世界であると同時に、無限大を超えた有の世界です。
一本のヒモの、左右の端っこがそれぞれ、無と無限大であるとして、それを輪っかにつないだら、無と無限大がくっつくでしょう。
般若心経はちょうどこの、一本のヒモの、無と無限大がくっついたところにフォーカスをあてているわけです。
さらにもうひとつ、日本の仏教では、浄土真宗の開祖である親鸞がこんなことをいったそうな。
「善人なおもて往生をとぐ。いわんや悪人をや」
訳すと、こうなります。
「善人でも極楽往生できるのだ。悪人が往生できないわけがない」
え?
ふつうは逆でしょう。
悪人でも救われるのだから、善人が救われないわけがない、であれば意味が通ります。
しかし親鸞が言いたかったのは、阿弥陀仏は悪人を救いたがる仏さんだということでした。
じぶんが悪人であるということを自覚していない自称善人でさえ、阿弥陀さんは救っていかれる。
じぶんが悪人であると自覚して苦しむ者を、阿弥陀さんが救わないわけがない。
こういう理屈です。
仏教の世界では(あるいは宗教の世界全般そうかもしれませんが)、こういうロジックをつかうことが多いんですよね。
仏陀のいう四苦八苦の理屈の場合も、おなじようなものです。
この世を生きることのすべては苦しみである。
この苦しみをよく理解し、受け入れて、逃れ得ぬ苦しみと共存して生きていく。
それだけがこの世を生きる救いなのだ、と。
まず最初に、われわれの本質は苦しみである、という負の側面を伝えておいて、この苦しみと一緒に生きると覚悟を決めたところに救いがあるんだ、という論理です。
ぼく自身は仏教徒といえるほどの信者じゃないし、これといった宗教に帰依もしていませんが、それでも、こういう教義を理解することで、なんとなく腑に落ちるものがあるのは事実です。
で、結局なにが言いたかったのかというと、ぼくはいま、すごく苦しいのだけど、この苦しみと一緒に生きていくしかなくて、また苦しいのはぼくだけではないことでしょう。
それで、まあ、だからなんなのだといわれればそれまでなんですけど、ぼくだけが苦しいわけではないのなら、いちおう書いてみようかな、くらいのことだったのです(笑)
ずいぶん長い記事になっちゃったな。
きょうは集落の親睦会で、ぼくが幹事のような役割です。
とりあえず急いで収穫だけすませようっと。
#与太話
仕事上で裏切りにあったり、じぶんという人間の頼りなさへの絶望であったり、いろんな要素が混じり合ってのことです。
一日中寝ていたり、まともに歩けなくなるほどで、心療内科の薬も気休めのようなものでした。
死にたかったというよりは、もう死なざるを得ない、という感覚なんですが、これが「死ねばラクになる」という考えと混じり合って、結果、死にたいという考えになる。
生きているとずっと苦しい、つらい、いたたまれないような気分になって、逃げ場がないんですね。
そこでぼくは、生まれてはじめて、仏教について調べ出した。
あのときのぼくの心境は、わらにもすがるおもいだったはずですが、信じるものは「救われる」というのなら、それがどういうものか調べてみよう、くらいの意識です。
調べてみて、まず最初に、なんだこれはとおもいました。
仏教の開祖である仏陀は、この世に生きることは四苦八苦であると説いたんですね。
生まれる苦しみ
老いる苦しみ
病気になる苦しみ
死ぬ苦しみ
この4つの苦しみが、基本です。
この四苦に、さらに派生的に4つの苦しみが加わって、四苦八苦といいます。
愛別離苦(愛するものと別れる苦しみ)
怨憎会苦(憎むものと出会う苦しみ)
求不得苦(求めても得られない苦しみ)
五陰盛苦(肉体と精神が存在することで生まれる苦痛)
なんと仏陀は、この四苦八苦をもって、この世は苦しみがすべてだ、と説いたんです。
たのしいとおもうことも、それは苦しみに薄くてすぐはがれるメッキを塗っているだけで、結局は苦しみになる、という。
幸せだとおもうことも、この幸せがいつまでも続くわけではないという苦しみになる。
この世にある唯一の真実は苦しみである、というんですから、それを知ったぼくはもう、ガッカリですよ。
この苦しみをどうにかしてほしい、とおもって仏教をひもといたら、いやこの世はぜんぶ苦しみですよ、というのだから、バカにするにもほどがあります(笑)
でも、その後じっくりと仏教について広範囲に調べていくと、どうやら仏教の経典というのは、この手の最初に落としてあとで持ち上げるタイプのロジックが非常に多いことがわかりました。
たとえば、般若心経では、じつはわれわれは無である、というんです。
みえているものも、感じていることも、聞こえていることも、じつは「ない」。
え?
いま、現にわれわれはここに存在してるじゃないかとおもいますが、般若心経は、ひたすら無を説きます。
この世が無であるということがわかって、はじめて仏の道が開かれるんだ、とまでいう。
最初は、まあ死ねばみんな無になるのだから、そういうことなのかな、くらいの理解でした。
でも、これはどうやら、無と、無限を越えた有がつながっている、ということがわかると、意味が通るようになってるようです。
般若心経がいう「無」は、0(ゼロ)ではありません。
数字の概念であらわすことができない、なにもないという世界です。
同時に、無量大数という概念があって、これは無限大ということでもあります。
これも数という概念ではあらわせない領域ではあるんですが、さらにその向こう側。
数の概念を越えたすべてという、イメージとしては、宇宙の果てをさらに超えた場所、というような感じです。
こうなると、人間の理解を超えている世界という点では、無と変わらないんですよね。
だから、なにもない、というのは、なにもかもである、ということとつながっている。
死んだらわれわれは、無になると同時に、なにもかもになる。
われわれが生きているのも、なにもない無の世界であると同時に、無限大を超えた有の世界です。
一本のヒモの、左右の端っこがそれぞれ、無と無限大であるとして、それを輪っかにつないだら、無と無限大がくっつくでしょう。
般若心経はちょうどこの、一本のヒモの、無と無限大がくっついたところにフォーカスをあてているわけです。
さらにもうひとつ、日本の仏教では、浄土真宗の開祖である親鸞がこんなことをいったそうな。
「善人なおもて往生をとぐ。いわんや悪人をや」
訳すと、こうなります。
「善人でも極楽往生できるのだ。悪人が往生できないわけがない」
え?
ふつうは逆でしょう。
悪人でも救われるのだから、善人が救われないわけがない、であれば意味が通ります。
しかし親鸞が言いたかったのは、阿弥陀仏は悪人を救いたがる仏さんだということでした。
じぶんが悪人であるということを自覚していない自称善人でさえ、阿弥陀さんは救っていかれる。
じぶんが悪人であると自覚して苦しむ者を、阿弥陀さんが救わないわけがない。
こういう理屈です。
仏教の世界では(あるいは宗教の世界全般そうかもしれませんが)、こういうロジックをつかうことが多いんですよね。
仏陀のいう四苦八苦の理屈の場合も、おなじようなものです。
この世を生きることのすべては苦しみである。
この苦しみをよく理解し、受け入れて、逃れ得ぬ苦しみと共存して生きていく。
それだけがこの世を生きる救いなのだ、と。
まず最初に、われわれの本質は苦しみである、という負の側面を伝えておいて、この苦しみと一緒に生きると覚悟を決めたところに救いがあるんだ、という論理です。
ぼく自身は仏教徒といえるほどの信者じゃないし、これといった宗教に帰依もしていませんが、それでも、こういう教義を理解することで、なんとなく腑に落ちるものがあるのは事実です。
で、結局なにが言いたかったのかというと、ぼくはいま、すごく苦しいのだけど、この苦しみと一緒に生きていくしかなくて、また苦しいのはぼくだけではないことでしょう。
それで、まあ、だからなんなのだといわれればそれまでなんですけど、ぼくだけが苦しいわけではないのなら、いちおう書いてみようかな、くらいのことだったのです(笑)
ずいぶん長い記事になっちゃったな。
きょうは集落の親睦会で、ぼくが幹事のような役割です。
とりあえず急いで収穫だけすませようっと。
#与太話