山麓王国

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こんばんは。

お札の役目が終わったからと、お祓い箱にしなくてよかった、というギズモさんのお言葉は、わたしも感じていることでした。

ギズモさんの場合は、お札を継続して授与してもらう、という意味だとおもいます。

わたしの場合はお守り自体がくたびれて、もうご返納していただきたがっている、と感じるのでなければ、お守りはどんなに時が経ってもわたしを守ってくれますし、決してわるい影響を与えたりはしない、と考えています。



緊張についてのお話、ためになりました。

わたしも年を取ると緊張の仕方が変わるような気がしているのですが、その手前の段階で、人を楽しませたい、人に心地よくいてもらいたい、という意識のあるなしが、心地よい緊張にかかわっているような気がしました。

わたしはこれまでの人生を振り返っても、他人を楽しませるかどうかよりも、じぶんが楽しめているかどうかを考えていた気がします。

といっても、この年から突然意識が変わるともおもえないので、おそらくこれからもそうなんだとおもいます。

しかし人を楽しませる緊張感を会得しないまま、年をとって緊張感がなくなるのは、なんだかとても残念な気もします。




さて、前回お伝えした通り、古代のお話をさせていただきます(笑)



欠史八代の時代は、2代目の綏靖天皇で神武天皇の血筋が途絶えたことから、20年ほどの間で王が横並びに乱立した時代なのではないかとわたしは考えています。

欠史八代を読み解くカギになるのが「磯城県主(しきのあがたぬし)」です。

いまでも奈良県に磯城郡という地名で残っているのですが、神武天皇の時代に政権中枢を担っていた地域です。

この磯城県主に葉江(波延)という人物がいました。



まず磯城県主と葉江に注目して、欠史八代とその妻をみていただきたいのです。

(初代 神武天皇)
2代 綏靖天皇 (日本書紀)大物主の娘  (古事記)葉江の妹
3代 安寧天皇 (日本書紀)大物主の孫の娘  (古事記)葉江の娘
4代 懿徳天皇 (日本書紀)安寧天皇第一皇子の娘  (古事記)葉江の血族の娘
5代 孝昭天皇  尾張連の祖・奥津余曾の妹の世襲足媛 (日本書紀)葉江の娘、あるいは倭國豊秋狭太媛の娘
6代 孝安天皇  孝昭天皇第一皇子の娘 (日本書紀)葉江の娘、あるいは十市県主五十坂彦の娘である五十坂媛
7代 孝霊天皇 (日本書紀)磯城県主の大目の娘  (古事記)十市県主の祖の大目の娘
8代 孝元天皇  ウマシマジの後裔の大水口宿禰命の娘の欝色謎命
9代 開化天皇  ウマシマジの後裔の大綜麻杵命の娘の伊香色謎命
(10代 崇神天皇)



これをみると、葉江は欠史八代のうち、3代(あるいは2代)から6代までの天皇に后を与えています。

これは神話どおりに数十年おきに天皇が皇位を渡していったと考えると、葉江の寿命のつじつまが合いません。

しかしこの天皇の交代劇が短い期間中に、一度に起こったことだと考えれば、葉江が娘をどんどん天皇に嫁がせたというようなこともじゅうぶん可能です。



逆に短い期間で一気に起こったことだと考えると、たとえば3代安寧天皇の妻「大物主の孫の娘」は、無理があることがわかります。

なにせ大物主は10代崇神天皇の折に登場して、倭迹迹日姫命と結婚しようとします。

欠史八代のころの大物主は40代半ばから50代くらいでしょうから、孫はいたかもしれませんが、ひ孫がいるような年ではありません。



4代と6代の天皇が、先代の第一皇子の娘と結婚するというのも、奇妙ですね。

これは天皇が姪っ子と結婚するようなものですが、先代が孫をもうけて、皇太子に嫁がせるまで成長を待つには、20年は短すぎます。

結局、実際の歴史の時系列の矛盾点を省きながら考えていくと、やはり葉江は当時の複数の天皇の擁立に深くかかわっていたとおもうのです。



さて、欠史八代を語るには、饒速日命を避けて通ることはできません。

饒速日はニニギノミコトの兄で、神武天皇に先駆けてヤマトの地を開拓しました。

饒速日の息子はウマシマジ(宇摩志麻遅命)といいます。

饒速日→ウマシマジの血筋は、その後物部や穂積といった豪族につながっていきました。



丹後の天橋立近くの元伊勢籠神社のご祭神は彦火明命(ヒコホアカリノミコト)ですが、彦火明は饒速日と同一といわれます。

なぜ丹後で饒速日が出てくるのか、ということなんですが、饒速日はヤマトの地へ向かうまでに、出雲、但馬、丹後と、本州の山陰を経由するルートを通り、その道中で複数の妃をもって、子をもうけていたようです。

なので、饒速日には山陰各地に落胤(落としだね)があったと考えられます。



饒速日は神話に伝わるように、アマテラスの命でいきなり生駒山に降臨したわけではありません。

卑弥呼に命じられて、九州から奈良へと遠征をしました。

旧事本紀では饒速日命が降臨する際に大量の神々が付き従ったとあります。

これは九州から付き従った豪族もいたでしょうが、遠征の旅路の中で、様々な国に立ち寄り、多くの部下を得たのでしょう。



さて、ここからしばらく話が変わるのですが、出雲の話をします。

旧事本紀に書かれてあることなんですが、饒速日のヤマト遠征に付き従った神の中に、少彦根命がいました。

少彦名と少彦根命で、すこし漢字がちがうのですが、これはもちろん少彦名のことで、もしかしたらこのころすでに、饒速日に従う形で少彦名が出雲から失われていた可能性があります。

つまり少彦名はヤマト側から、大国主の国づくりを手伝った、とわたしは考えました。



オオナムチが出雲の王になったのは、わたしの時代考察でいうと、190年あたりになります。

このときすでにスサノオは根の国にいたということですから……つまり60歳あたりで亡くなっていたのでしょう。

スサノオは40代後半から50代にかけて出雲の王となり、若いクシナダヒメと子を為して、10年ほどで亡くなったとおもわれます。



オオナムチは日本書紀ではスサノオの子でした。

しかし古事記では八十神にいじめられたり、根の国のスサノオの難題を解決して、スセリビメと結ばれて……つまり結局はスサノオの養子になります。

オオナムチ、すなわち大国主のエピソードをみていると、たよりない優男のようにもおもえるのですが、実際には勇敢さと、部下と協調しながらものごとを進めるやさしさを兼ね備えた大人物でした。



さて、旧事本紀のとおり少彦名が饒速日に従ってヤマトへ行ったとすれば、これは180年ごろですから、少彦名は大国主よりかなり年上だったのでしょう。

少彦名はその身体的特徴もそうですが、クエビコ(久延毘古)という知恵の神のカカシと同一とされることから、いまでいう障がい者だった可能性があります。

しかし少彦名は、ハンデキャップを補って余りある優秀な知性を持っていました。

少彦名はその伝説をうのみにするなら、医療、米作り、酒造、陶業と、その後大物主に引き継がれる産業の基礎部分を為したようです。

さらに出雲の大国主と共同で、おそらく10年あるかないかの短い期間だとおもいますが、関東開拓(国づくり)をおこない、そして大国主より早く、200年ごろに世を去ったのでしょう。



しかし少彦名が亡くなると、大国主が「葦原中国はわたしが開拓した。わたし以外に治めることのできる者はいない」と宣言しました。

すると、神話によれば大国主の前に幸魂・奇魂があらわれ、こういったのです。

「違う。わたしがあるからこそ、お前は国づくりを行えたのだ」

そして「わたしを三諸山(奈良の三輪山)にまつりなさい」というので、大国主はそのようにしました。

この幸魂・奇魂が大物主だったといいます。



このエピソードはつまり、出雲国が国づくり(関東開拓)をしたと主張したのを、ヤマト王権が許さなかったということでしょう。

これは実際には、関東の領有権をめぐって、ヤマト・九州の連合と、出雲との戦争にまで発展したのだとおもいます。

結果、大国主はヤマト王権に屈するかわりに、出雲大社の建設を要求し、受け入れられました。



ちなみに、神話では大国主が国譲りをしたことで、ニニギノミコトが天孫降臨したというのですが、これはわたしの時系列ではつじつまが合いません。

饒速日が奈良を開拓しているころ、ニニギノミコトはすでに皇位についているか、あるいは崩御しています。

奈良にヤマト王権が成立した時期でなければ、大国主の国譲りは成立しません。

なぜなら、幸魂・奇魂(事代主)が三輪山に行く意味がないからです。



出雲は出雲大社があることによって、国譲りをした後も、国家のような存在であることが許されます。

しかしそれが許されたのは、その後大物主がヤマトで絶大な権力を発揮したからで、大物主が亡くなると、崇神天皇は結局出雲を滅ぼしてしまいました。

このあと、出雲の人々が苦しいおもいをしたであろうことは、以前話したとおりです。



ところで、大国主が国譲りするにあたって、事代主が三輪山へ行くこととなりました。

これは日本書紀で幸魂・奇魂のエピソードと並べて書かれてあるのですが、あるいは大国主の幸魂・奇魂とは、事代主のことだったのかもしれません。

この際、フツヌシとタケミカヅチが大国主に強硬に談判して、国譲りするのかしないのか、「否・然(いな・さ)」を問うのですが、これは先ほども述べた通り、出雲とヤマト(および九州王国)の間で戦争があったのでしょう。

そして大国主はこのとき返事をすることができず、事代主に相談するのです。

事代主は国譲りするように、大国主に進言しました。



事代主は大国主の息子といわれますが、一説には大国主自身ともいわれたりします。

しかし大国主と大物主は性格からなにから、まったくちがうのです。

わたしは事代主は、大国主の息子ではなく、大国主と年がほとんど離れていない出雲の重臣だったのではないかと考えました。



つまり、事代主が大国主にみずから提案してヤマトへ向かい、三輪山で製鉄事業を行い、さらに少彦名の事業も引き継いだのではないか、と。

なにせ大物主は、大国主とちがってひどく合理的で、怜悧な優秀さがありました。

大物主のような経営的センスは、ちょっと大国主からは感じることができません。

事代主は判断が的確で、しかし言い方を変えればワンマンな気質があります。

そしてなにより大国主とちがって、女の扱いが下手でした。

大物主の女性エピソードは、なんだか気持ち悪いものが多いのです(笑)



大国主は出雲大社にまつられると同時に、幽世(かくりよ)の神となったということですから、出雲の地で亡くなったのでしょう。

大国主の偉大さは、敗戦を認めるかどうかを部下にゆだね、そうすべしと決まったら、いさぎよくみずからすべての責任をとったところにあります。

ただ部下に判断を投げていたのではなく、最後きちんと責任をとる覚悟も背負っていたんですね。



おそらく国づくりにおいては、少彦名の死後、出雲側が多くの苦労を負ったのでしょう。

だから、大国主が国づくりの主権を主張したのは、正当な主張でした。

ヤマト王権が紡いだ神話では、国譲りはニニギノミコトの天孫降臨のためだとか、あれこれ理屈付けをしますが、実際には出雲の功績を強奪したように感じられます。

国づくりの面で出雲にこれといった功績がないのなら、出雲大社をつくってくれという要求をヤマト側が飲む必要もありません。

しかしヤマト王権は、大国主をたたえる巨大な神社を建造しました。



じつは国譲りでは、ヤマト王権から出雲に対して、かなり理不尽な要求があったのではないか。

そして大国主はその理不尽をすべて受け止めて、責任を負いました。



記紀神話がヤマト王権の物語であるにもかかわらず、一介の出雲の王に「大国主」というビッグネームを与えたのは、このあたりの負い目があったのでしょう。

大国主は表面だけ見ると、女性に守られるばかりで、頼りない優男のようにおもえますが、じっくり調べていくと、じつに偉大で魅力的な神でした。

スセリビメが惚れ、スサノオが一目置いたのも、さもありなんです。



さて、事代主は出雲にとっての最善、ヤマト王権にとっての最善、さらに大国主の名誉、じぶんの利益を総合的に考えました。

経営者は勝ち馬に乗って、八方よしを心掛けることで利益を拡大しますが、事代主は政治においても経営においても、このあたりのバランス感覚が非常に優れています。

事代主は出雲でも優秀だったはずですが、ヤマト王権も完全に大物主(事代主)に依存します。

神武天皇は大物主の娘を娶りましたし、ヤマト王権内の産業の多くが大物主の利権となりました。



さて、長い脱線でしたが、饒速日と欠史八代に話を戻しましょう。

饒速日命はヤマトへ行くと、もともとヤマトの地に住んでいたナガスネヒコと出会い、かれの妹をめとり、ウマシマジをもうけます。

ナガスネヒコは天孫族との縁を得たことで、ヤマトの地の権力を掌握した気になって増長しました。



日本書紀によると、神武天皇がヤマトにやってきたとき、饒速日命は存命だったとありますが、旧事本紀ではもう亡くなっていたとあります。

饒速日が直接神武天皇に下ったほうが神武東遷の正当性は高まるのですが、わたしは饒速日は亡くなっていたとおもいます。

なぜなら饒速日命が生きていたら、天孫族の外戚にすぎないナガスネヒコが、神武天皇に強硬に盾突くわけにもいかなかったはずですから。



あるいは、そもそも饒速日が亡くなり、ナガスネヒコにヤマトが乗っ取られそうだと高千穂に伝わったため、神武天皇が急ぎ海路を利用してヤマトにつかわされた可能性すらあるとおもうのです。

わたしはなぜ神武天皇が饒速日のように各地で有力氏族を仲間にしたり、子をもうけなかったのか不思議だったのですが、海路や水路をフル活用して、全速力でヤマトまで向かったのかもしれません。

そのように考えると、当時まだ10代だった可能性すらある神武天皇が、アマテラスに命じられて東遷を行った不可解さについても、納得できます。



ちなみにナガスネヒコは天孫族ではありません。

だからナガスネヒコは、饒速日が死んで手中に入れたヤマトの地を、いまさらまた天孫族に明け渡すなどまっぴらごめんだとおもっていました。

しかしウマシマジは饒速日の子ですから、天孫族の血が入っています。

「天孫族の血統」は、この時代に、じぶんが何者であるかを指し示してくれるとても強い光を放っていたのでしょう。



ウマシマジからすれば、たとえナガスネヒコの抵抗が功を奏したとしても、後ろ盾のない独立国家になるだけでした。

天孫族の血筋を利用して九州の王国の後ろ盾を得たほうが、ウマシマジの将来にとってよほど有利なのです。

じぶんの血筋でいえば、神武天皇に準ずる立場にはなれることでしょう。

結果、ウマシマジは神武天皇に恭順の意を示して、ナガスネヒコを討伐してしまいました。

もちろんじぶんの伯父ですから、複雑なおもいがあったのは間違いありません。

神武天皇はその労に報いるかたちで、ウマシマジを申食国大夫(おすくにのまえつきみ)という、当時の政権の頂点の役職でむかえました。



おなじく神武天皇がヤマトで戦っているときに、兄磯城と弟磯城のエピソードがあるのです。

これはナガスネヒコとウマシマジのエピソードそっくりなのですが、神武天皇に反抗していた兄磯城を、弟磯城が討つのです。

弟磯城こと黒速(クロハヤ)は、この功績により初代の磯城県主になりました。



しかし神武天皇が崩御すると、二代目磯城県主の葉江が天皇一族の外戚になろうとします。

葉江がなぜこれほどの情熱を傾けて、複数の天皇を擁立したのか、はっきりしたことはわかりません。

なんとなく神話から読み取れることといえば、初代の黒速も二代目の葉江も、三代目の大目も、名前に「命(みこと)」などの尊称がないことです。

わたしはこのあたりでどうも、かれらは天皇の外戚になれるような身分ではなかったのではないかという気がしました。



実際、欠史八代の系譜をじっくり見ていくと、横並びになった王の中で、実際の権力を手にしたのは、8代目以降の天皇でした。

8代 孝元天皇
9代 開化天皇

ですね。



孝元天皇の正妻は、欝色謎命(うつしこめのみこと)といって、穂積氏の祖先といわれる大水口宿禰の娘でした。

穂積氏は、物部氏とおなじくウマシマジの系譜です。

そしてこの孝元天皇から倭迹迹日姫命が生まれました。



開化天皇の后は伊香色謎命(いかがしこめのみこと)です。

孝元天皇と開化天皇がなぜ欠史八代の勝者だったかを読み解くには、この伊香色謎命がキーパーソンとなります。

しかしその前に、伊香色謎命の兄の伊香色雄命(いかがしこおのみこと)についての伝説をお話ししましょう。



日本書紀によると、10代崇神天皇の御代に、疫病が流行りました。

国全体が乱れる中、八百万の神をまつる神浅茅原(現在の奈良県桜井市のあたり)で、倭迹迹日姫命が神懸かりを起こします。

神に乗り移られた倭迹迹日姫命がいいました。

「わたしは大物主である。わたしを奉れば国は落ち着くだろう」

しかしはっきりしたことがわからないまま、時がたちました。



そんなある日、崇神天皇の夢枕に大物主が立ちます。

「大田田根子(おおたたねこ)と市磯長尾市(いちしのながおち)に、大物主神と倭大国魂を奉らせよ」

そこで崇神天皇が号令を発すると、現在の大阪府堺市のあたりで、大田田根子を探し当てたのです。

(今回、市磯長尾市については話を省略します)

大田田根子に出自を問うと

「父は大物主神、母は活玉依姫です」

と答えました。

まごうことなき、大物主の系譜です。



さらに占いを重ねると、伊香色雄(いかがしこお)を神班物者(神への捧げものを分配する者)にすればよいと出ました。

伊香色雄はウマシマジの血筋、すなわち物部の祖先でした。

この占いにより、石上神宮が建造されたといわれます。

この神託によって、たしかに国の騒乱はおさまったそうな。



さて、3代目から7代目までの天皇には、磯城県主から后を出していましたよね。

8代目の孝元天皇の正妻は欝色謎命(うつしこめのみこと)です。

そして夫人が伊香色謎命(いかがしこめのみこと)でした。



伊香色謎命は、若いころに8代目孝元天皇の夫人となり、その後9代目開化天皇の正妻になりました。

伊香色謎命は、伊香色雄命のきょうだいです。

ややこしい血筋の話でしたが、ようするに、孝元天皇も開化天皇も、ウマシマジの血筋で妻を選んだのです。



ところで日本書紀では、大物主と倭迹迹日姫命の破局の物語は、この大田田根子を探す騒動の後に記されています。

つまり、大物主は生きていたんですね。

なのになぜ大物主は、わざわざ倭迹迹日姫命に神懸かりさせて、「大物主を奉れ」なんてことを言わせたのでしょう。



これはつまり、欠史八代の権力争いが続いている間、大物主はヤマト王権と距離を置いていたということだとおもわれます。

"大物主"が"倭迹迹日姫命"の口を借りて"崇神天皇"に、託宣を伝えるというあたりに、ヒントがありますね。



おそらく大物主は、8代孝元天皇がウマシマジの系譜とつながった時点で目をつけていました。

大物主は、磯城県主の擁立した天皇にはかかわらず、ウマシマジの系譜の天皇を選んだのです。

そして、欠史八代の覇権争いに事実上の決着がついて、10代崇神天皇の御代になってから、本格的にまたヤマト王権と関わりだしたということでしょう。



このとき、これみよがしに孝元天皇の娘である倭迹迹日姫命を利用することで、孝元天皇の系譜とつながったことをアピールしました。

つまり大物主は、勝ち馬をじゅうぶん見極めて、最終的に欠史八代の勝者を決めたキングメーカーだったといえます。

この点でも、大物主の抜け目ないしたたかな性格がみえてきますね。

しかしこういった大物主の強大な権力を、若きカリスマだった崇神天皇は危険視したのかもしれません。



大物主が大田田根子を探し出した理由については、大物主の後継者を探し、天皇家とのつながりを維持する目論見があったようにおもえます。

しかし実際には、大田田根子は三輪氏や鴨氏という有力な豪族の祖先となり、大神神社の祭主にもなったのですが、大物主の強大な権力をそのまま引き継ぐことはありませんでした。

これも、崇神天皇のちからが働いていたようにおもえます。



さて、これで欠史八代の話はおしまいで、最後に武内宿禰の話をさせていただきます。

いままで10代崇神天皇までの話をしてきましたが、そこから2代先の景行天皇の時代から、16代仁徳天皇までに使えた仕えたのが武内宿禰ですね。

じつは天皇の寿命が人間よりも長い時代は、仁徳天皇までです。


10 崇神天皇 120歳 在位68年   BC97 ~BC30
11 垂仁天皇 140歳 在位99年   BC29 ~AC70
12 景行天皇 106歳 在位60年  AC71 ~AC130
13 成務天皇 106歳 在位60年   AC131~AC190
14 仲哀天皇 52歳  在位9年    AC192~AC200
(神功皇后 (100歳 在位69年)(AC201~AC269)
15 応神天皇 110歳 在位41年   AC270~AC310
16 仁徳天皇        在位87年   AC313~AC399


仁徳天皇以降、天皇の寿命はおおむね人間と変わらなくなります。

つまり、仁徳天皇の崩御以降、神話の年数と実際の歴史の年数の整合性がとれてくるわけですね。



わたしは崇神天皇の実際の在位期間は230年あたりから270年ごろだと考えています。

そうすると、仁徳天皇の在位期間は313年から399年ですから、崇神天皇の御代から早ければ40年。

遅くても120年ほどで、実際の歴史にほぼ追いつくのです。

6代の天皇がバトンタッチしていく期間としては、かなり現実的ではないでしょうか。



さて、景行天皇14年に武内宿禰が生まれました。

おそらく景行天皇は長期政権だったのでしょう。

ヤマトタケルを含め、神話におけるエピソードも豊富です。

もちろん額面通り60年の在位とはいきませんが、30~40年ほど在位したと考えましょう。

すると景行天皇が崩御したころ、武内宿禰は20~30代です。



次の成務天皇も武内宿禰を大臣に起用します。

しかし各地の国や県に首長を置くという以外は、ほとんど記述がなく、崩御しました。

父の在位が長かったからか、成務天皇の在位期間はかなり短かったとおもわれます。



次の仲哀天皇は熊襲討伐の道半ばで病気になって崩御します。

在位期間は9年。

これはそのまま受け取っていいでしょう。



このとき、武内宿禰は40~50歳といったところです。

では次の神功皇后は仲哀天皇の后なんですが、応神天皇が即位するまでの間に摂政として政治を行いました。

天皇が二代続いて早く亡くなったため、皇后が摂政になったとおもうのですが、この時代の神話はどうも嘘くさく、三韓征伐といって、朝鮮半島への出兵をして、朝鮮を従えたという伝説があるのです。



神功皇后は一時途絶えていた巫女政治を行ったようなんですが、この時期の神話はやたら勇ましく、武勇に満ちたエピソードが豊富なんですね。

日本が新羅を圧倒した、というような、なんだか戦時中の大本営発表みたいなことが書かれてあるのですが、真偽のほどは極めて怪しい。

おそらく実際には、ヤマトからの朝鮮への侵略行為はあったものの、朝鮮半島の戦争でヤマトが存在感を示した、という程度のことでしょう。

むしろその後長く朝鮮半島と友好関係と敵対関係を両立させる関係の中で、日本に渡来人が大量にやってくることとなります。

神功皇后は応神天皇が即位するまでの十年ほど、摂政として政治をしていたのでしょう。



次の応神天皇は武運で有名な八幡神としてあがめられました。

八幡神は応神天皇、神功皇后、そして比売神で、八幡三神とされます。

応神天皇は、まるでアマテラスの時代のように、母の神功皇后の神懸かりを利用して戦争をしていました。

そう考えると後世の武人にとって、武運を神に任せるという意味で、八幡神ほどうってつけの神はいなかったことでしょう。



応神天皇の在位期間は41年とされていますが、実際には20年くらいだと考えます。

すると、景行天皇が40年、成務天皇が10年以内、仲哀天皇が9年、神功皇后が10年、応神天皇が20年。

武内宿禰は景行天皇14年に生まれていますから、これら天皇の時代をすべて足し算すると75歳。



といっても近代以前の天皇の寿命が平均して50歳ほどで、在位期間が平均11年ほどであることを考えると、これでも相当長く見積もっています。

実際にはもう少し在位期間が短く、武内宿禰は70手前で仁徳天皇の家臣となったのではないでしょうか。

そのように考えると、相当長生きはしたものの、武内宿禰はやはり人間の寿命だったとおもわれます。



日本書紀で、仁徳天皇が武内宿禰に、あなたほどの長寿はいないといって称える箇所があります。

これが武内宿禰の出てくる最後なんですが、もしかしたら80歳、90歳を超えてもまだヤマト王権に仕えていたのかもしれませんね。



というわけで、今回もかなり長くなりましたが、いろいろと考察を述べました。

きっと今回も読むのにご苦労なさるとおもうのですが、お返事は拾いたいところだけ拾っていただいてかまいませんし、時間を区切らず気の向いたときにゆっくりでかまいません。



ギズモさんの書き足しにあったわたしの過去の記事ですが、日本神話に対するわたしの立場は、あのときと変わっていません。

しかし古代に対する細かい認識はここのところ、調べれば調べるほど、どんどん変わっています(笑)

もしわたしの記事の中で疑問を感じることなどがあれば、ご質問ください。



最後になります。

最近は温暖化の影響か、冬の本番が大寒(1月20日)以降、3月あたりまでといった感じになりました。

当地ではこのあたりから除雪が忙しくなります。

2週間ほど前に、ついうっかり人の集まるところに行ってしまい、風邪をひいてしまいました。

が、いまはもう元気です。

田舎ではあまり風邪をひかないので、たまに風邪をもらって免疫をつけるのもいいのかもしれない、と前向きに考えています(笑)

まだまだ寒さが続きますが、ギズモさんもご自愛ください。

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1284
唱歌に関してなんですが、一流の作曲家と作詞家が、日本に残るような小品を残す、というようなイメージがあります。

現代においては、そのような有志で音楽をつくる例を聞きません。

売れるか、売れないかで音楽を作るし、どんな才能のある人でも「じぶんのおもうほんとうによいモノ」をつくろうとすると、同人化したり、アングラになってしまう時代です。

ぼくはアマプラでアニメをよくみますが、1シーズン3か月のアニメが大量に生産されていて、それぞれのアニメにオープニングとエンディングの歌があります。

これらは音楽の質はともかく、もう飽和状態もいいところで、「心に残るアニメソング」なんて言える速度ではありません。

いまや音楽は使い捨てになったとおもわずにいられません。

そしてそんなわれわれに配慮した……というわけではないでしょうが、アマプラではアニメのオープニング曲とエンディング曲は、飛ばせるようになってます(笑)



権現社のリンク先の文章を読みながら、おもったことがあります。

おそらく返信に困る内容になるとおもうんですが、書きます。

権現社の文章中に『かのやうに』という森鴎外の小説についての記述がありました。

あの作品には物語的な要素はほとんどなくて、理屈が大半を占めます。

その理屈部分をぼくなりにカンタンに説明すると、こうです。



科学的に考えれば、世の中に神様はいません。

しかし歴史という学問においては、神様がいると仮定して考えます。

たとえば数学には点や線という概念が出ますが、実際に点や線があるわけではありません。

数学をやるうえで、この座標に点や線があると仮定しておかないと、理解がしづらいのです。

歴史もおなじで、神様がほんとうにいるわけではないのですが、日本史だと天皇が日本神話の系譜に連なるという以上、神様がいると仮定しないと理解がむずかしくなるんですよね。

でも高天原の神話を日本の歴史とごちゃ混ぜにすると、科学的にはウソをついていることになるでしょう。

その場合、歴史学者は神をどう取り扱えばいいのか。



明治になると、日本では天皇が現人神で、ほかのどんな神仏よりもえらいということになりました。

突然そんなことになったわけですから、「ふざけるな」という人もいたのですが、そういう輩は危険思想の持ち主として取り締まられました。

ふつうに暮らしているぶんには、「はあ、天皇が神様ですか。(よくわからんけどじぶんには関係ないし)わかりました」と言っておけばいいわけです。

しかし歴史学者のように、ほんとうのことを書かねばならない立場の人は、神がいるといえばウソになるし、かといって神などいないといえば、あの時代では危険思想の持ち主であるということになってしまいます。

そこで結論としては、神様がいるとみんなが考えている以上、つまりそれが常識である以上、神話がほんとうの歴史でないことはあきらかなのだけど、いちおう神話がほんとうである「かのように」考えるしかあるまい、というわけです。



で、返信に困るであろう話はここからです。

最近京アニ放火事件の犯人が死刑を宣告されました。

事件の詳細をみていると、あの犯人は統合失調症の可能性があるとおもうんですが、司法によると責任能力があった、というのです。

もし犯人が統合失調症などで精神的に錯乱していて、責任能力がない状態だった場合は、法律上罪に問うことができません。

しかし私怨で建物に火をつけ、36人を死亡させ、32人に重軽傷を負わせた大事件です。

どんな事情であれ、犯人を罪に問わないという決断ができるでしょうか。

すると、犯人がどんな状態であったにせよ、責任能力があった「かのように」みなして、死刑にするほかなくなります。

もし犯人は心神耗弱だから無罪だということになると、社会が司法を一斉にバッシングし、収拾がつかなくなることでしょう。

もちろん、犯人に責任能力があるかどうかなんて判断はむずかしいし、どうとでもできるといえばできます。

オウムの麻原だって、実際のところ責任能力があったのかどうかはわかりませんが、死刑になりました。



現代は科学の時代ですが、じつは社会には常識という名前の宗教が存在していて、法秩序より社会常識が優先されるようなことはいくらでもあります。

で、おそらく多くの人がこの点に気づかずに社会常識の信者になっていて、「かのように」が発動しても、知らずに受け流すか、そんなことはごく当たり前のことだと割り切るか、もし違和感をおぼえても、それが社会常識である以上、黙殺せざるを得ないんですよね。

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