No.1285
1284
唱歌に関してなんですが、一流の作曲家と作詞家が、日本に残るような小品を残す、というようなイメージがあります。
現代においては、そのような有志で音楽をつくる例を聞きません。
売れるか、売れないかで音楽を作るし、どんな才能のある人でも「じぶんのおもうほんとうによいモノ」をつくろうとすると、同人化したり、アングラになってしまう時代です。
ぼくはアマプラでアニメをよくみますが、1シーズン3か月のアニメが大量に生産されていて、それぞれのアニメにオープニングとエンディングの歌があります。
これらは音楽の質はともかく、もう飽和状態もいいところで、「心に残るアニメソング」なんて言える速度ではありません。
いまや音楽は使い捨てになったとおもわずにいられません。
そしてそんなわれわれに配慮した……というわけではないでしょうが、アマプラではアニメのオープニング曲とエンディング曲は、飛ばせるようになってます(笑)
権現社のリンク先の文章を読みながら、おもったことがあります。
おそらく返信に困る内容になるとおもうんですが、書きます。
権現社の文章中に『かのやうに』という森鴎外の小説についての記述がありました。
あの作品には物語的な要素はほとんどなくて、理屈が大半を占めます。
その理屈部分をぼくなりにカンタンに説明すると、こうです。
科学的に考えれば、世の中に神様はいません。
しかし歴史という学問においては、神様がいると仮定して考えます。
たとえば数学には点や線という概念が出ますが、実際に点や線があるわけではありません。
数学をやるうえで、この座標に点や線があると仮定しておかないと、理解がしづらいのです。
歴史もおなじで、神様がほんとうにいるわけではないのですが、日本史だと天皇が日本神話の系譜に連なるという以上、神様がいると仮定しないと理解がむずかしくなるんですよね。
でも高天原の神話を日本の歴史とごちゃ混ぜにすると、科学的にはウソをついていることになるでしょう。
その場合、歴史学者は神をどう取り扱えばいいのか。
明治になると、日本では天皇が現人神で、ほかのどんな神仏よりもえらいということになりました。
突然そんなことになったわけですから、「ふざけるな」という人もいたのですが、そういう輩は危険思想の持ち主として取り締まられました。
ふつうに暮らしているぶんには、「はあ、天皇が神様ですか。(よくわからんけどじぶんには関係ないし)わかりました」と言っておけばいいわけです。
しかし歴史学者のように、ほんとうのことを書かねばならない立場の人は、神がいるといえばウソになるし、かといって神などいないといえば、あの時代では危険思想の持ち主であるということになってしまいます。
そこで結論としては、神様がいるとみんなが考えている以上、つまりそれが常識である以上、神話がほんとうの歴史でないことはあきらかなのだけど、いちおう神話がほんとうである「かのように」考えるしかあるまい、というわけです。
で、返信に困るであろう話はここからです。
最近京アニ放火事件の犯人が死刑を宣告されました。
事件の詳細をみていると、あの犯人は統合失調症の可能性があるとおもうんですが、司法によると責任能力があった、というのです。
もし犯人が統合失調症などで精神的に錯乱していて、責任能力がない状態だった場合は、法律上罪に問うことができません。
しかし私怨で建物に火をつけ、36人を死亡させ、32人に重軽傷を負わせた大事件です。
どんな事情であれ、犯人を罪に問わないという決断ができるでしょうか。
すると、犯人がどんな状態であったにせよ、責任能力があった「かのように」みなして、死刑にするほかなくなります。
もし犯人は心神耗弱だから無罪だということになると、社会が司法を一斉にバッシングし、収拾がつかなくなることでしょう。
もちろん、犯人に責任能力があるかどうかなんて判断はむずかしいし、どうとでもできるといえばできます。
オウムの麻原だって、実際のところ責任能力があったのかどうかはわかりませんが、死刑になりました。
現代は科学の時代ですが、じつは社会には常識という名前の宗教が存在していて、法秩序より社会常識が優先されるようなことはいくらでもあります。
で、おそらく多くの人がこの点に気づかずに社会常識の信者になっていて、「かのように」が発動しても、知らずに受け流すか、そんなことはごく当たり前のことだと割り切るか、もし違和感をおぼえても、それが社会常識である以上、黙殺せざるを得ないんですよね。
唱歌に関してなんですが、一流の作曲家と作詞家が、日本に残るような小品を残す、というようなイメージがあります。
現代においては、そのような有志で音楽をつくる例を聞きません。
売れるか、売れないかで音楽を作るし、どんな才能のある人でも「じぶんのおもうほんとうによいモノ」をつくろうとすると、同人化したり、アングラになってしまう時代です。
ぼくはアマプラでアニメをよくみますが、1シーズン3か月のアニメが大量に生産されていて、それぞれのアニメにオープニングとエンディングの歌があります。
これらは音楽の質はともかく、もう飽和状態もいいところで、「心に残るアニメソング」なんて言える速度ではありません。
いまや音楽は使い捨てになったとおもわずにいられません。
そしてそんなわれわれに配慮した……というわけではないでしょうが、アマプラではアニメのオープニング曲とエンディング曲は、飛ばせるようになってます(笑)
権現社のリンク先の文章を読みながら、おもったことがあります。
おそらく返信に困る内容になるとおもうんですが、書きます。
権現社の文章中に『かのやうに』という森鴎外の小説についての記述がありました。
あの作品には物語的な要素はほとんどなくて、理屈が大半を占めます。
その理屈部分をぼくなりにカンタンに説明すると、こうです。
科学的に考えれば、世の中に神様はいません。
しかし歴史という学問においては、神様がいると仮定して考えます。
たとえば数学には点や線という概念が出ますが、実際に点や線があるわけではありません。
数学をやるうえで、この座標に点や線があると仮定しておかないと、理解がしづらいのです。
歴史もおなじで、神様がほんとうにいるわけではないのですが、日本史だと天皇が日本神話の系譜に連なるという以上、神様がいると仮定しないと理解がむずかしくなるんですよね。
でも高天原の神話を日本の歴史とごちゃ混ぜにすると、科学的にはウソをついていることになるでしょう。
その場合、歴史学者は神をどう取り扱えばいいのか。
明治になると、日本では天皇が現人神で、ほかのどんな神仏よりもえらいということになりました。
突然そんなことになったわけですから、「ふざけるな」という人もいたのですが、そういう輩は危険思想の持ち主として取り締まられました。
ふつうに暮らしているぶんには、「はあ、天皇が神様ですか。(よくわからんけどじぶんには関係ないし)わかりました」と言っておけばいいわけです。
しかし歴史学者のように、ほんとうのことを書かねばならない立場の人は、神がいるといえばウソになるし、かといって神などいないといえば、あの時代では危険思想の持ち主であるということになってしまいます。
そこで結論としては、神様がいるとみんなが考えている以上、つまりそれが常識である以上、神話がほんとうの歴史でないことはあきらかなのだけど、いちおう神話がほんとうである「かのように」考えるしかあるまい、というわけです。
で、返信に困るであろう話はここからです。
最近京アニ放火事件の犯人が死刑を宣告されました。
事件の詳細をみていると、あの犯人は統合失調症の可能性があるとおもうんですが、司法によると責任能力があった、というのです。
もし犯人が統合失調症などで精神的に錯乱していて、責任能力がない状態だった場合は、法律上罪に問うことができません。
しかし私怨で建物に火をつけ、36人を死亡させ、32人に重軽傷を負わせた大事件です。
どんな事情であれ、犯人を罪に問わないという決断ができるでしょうか。
すると、犯人がどんな状態であったにせよ、責任能力があった「かのように」みなして、死刑にするほかなくなります。
もし犯人は心神耗弱だから無罪だということになると、社会が司法を一斉にバッシングし、収拾がつかなくなることでしょう。
もちろん、犯人に責任能力があるかどうかなんて判断はむずかしいし、どうとでもできるといえばできます。
オウムの麻原だって、実際のところ責任能力があったのかどうかはわかりませんが、死刑になりました。
現代は科学の時代ですが、じつは社会には常識という名前の宗教が存在していて、法秩序より社会常識が優先されるようなことはいくらでもあります。
で、おそらく多くの人がこの点に気づかずに社会常識の信者になっていて、「かのように」が発動しても、知らずに受け流すか、そんなことはごく当たり前のことだと割り切るか、もし違和感をおぼえても、それが社会常識である以上、黙殺せざるを得ないんですよね。