全年10月30日の投稿[4件]
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木村さんと、房之介さんの、「酒と泪と男と女」
近藤房之介さんは、日本のブルース界ですごい存在なんですが、一般的にはちびまる子ちゃんの主題歌のBBクイーンズ「おどるポンポコリン」の、インチキおじさんのほうで有名です(笑)
タッタタラリラ、の人ですね。
ブレイクダウンというバンドに参加していたことがあって、むかしは「東のブレイクダウン、西のウエストロード」というような、関東と関西でブルースバンドの競い合いのようなこともあったそうな。
ぼくはまだ左胸が痛い。
と、そんなことより、BEGINがこの歌を歌うときの相性のよさ。
比嘉栄昇さんの歌声、好きやなあ。
ちなみにぼくは若いころ、ライブの休憩中にお酒を飲んでた木村さんと握手してもらって、さらに写真撮ってもらって、ちょっとだけ話したことがあります(笑)
#音楽
AIが人間を追い越すことを、シンギュラリティというらしいんですが、これはアキレスと亀でしょう。
AIが人間に近づいて、知性の面では人間を追い越すとしても、人間にはなれない。
芥川龍之介の『侏儒の言葉』における『天才』という項目にはこうあります。
ようするに、凡人と天才の違いはたった一歩だが、この一歩がどうしても追い付けぬのだ、と。
AIと人間もおなじで、AIがいくら人間に肉薄しても、このあと一歩にたどりつくことができません。
それは、絶対にできない。
われわれがAIを畏れるのは、たとえば機関車と駆けっこして勝てなくなるということを畏れるのに似ています。
機関車は人間の走る速度をはるかに超えているけれど、それで人間を追い越したということにはなりません。
AIもおなじようなものです。
人工知能がいくら進化して人間の知性を凌駕しても、AIは人間に追い付くことも、追い越すこともできない。
あと一歩のところまで肉薄しても、その次の一歩。
「この一歩を理解する為には百里の半ばを九十九里とする超数学を知らなければならぬ」のです。
#与太話
AIが人間に近づいて、知性の面では人間を追い越すとしても、人間にはなれない。
芥川龍之介の『侏儒の言葉』における『天才』という項目にはこうあります。
天才とは僅かに我我と一歩を隔てたもののことである。 ただこの一歩を理解する為には百里の半ばを九十九里とする超数学を知らなければならぬ。
ようするに、凡人と天才の違いはたった一歩だが、この一歩がどうしても追い付けぬのだ、と。
AIと人間もおなじで、AIがいくら人間に肉薄しても、このあと一歩にたどりつくことができません。
それは、絶対にできない。
われわれがAIを畏れるのは、たとえば機関車と駆けっこして勝てなくなるということを畏れるのに似ています。
機関車は人間の走る速度をはるかに超えているけれど、それで人間を追い越したということにはなりません。
AIもおなじようなものです。
人工知能がいくら進化して人間の知性を凌駕しても、AIは人間に追い付くことも、追い越すこともできない。
あと一歩のところまで肉薄しても、その次の一歩。
「この一歩を理解する為には百里の半ばを九十九里とする超数学を知らなければならぬ」のです。
#与太話
NHKスペシャルの「"宗教2世"を生きる」をみました。
エホバや統一教会における教義を、ただ信者から生まれたというだけで押し付けられた2世の悩みや苦しみについて取り上げたものです。
この問題の本質は、宗教の教えが社会のありようと食い違っていて、教団側が教えにしたがうことを暗に求めていた場合、信者がどう行動すべきか、社会はどう働きかけるべきかということです。
たとえば、シビリアンコントロール(文民統制)という言葉があります。
文民とは、軍人以外の人間をさします。
つまり、軍人以外はみんな文民です。
で、この軍人を文民によって統制する、という制度がシビリアンコントロール。
これが守られないと、戦前の日本のように、軍人が文民よりも権力をもってのさばる社会になります。
暴力装置が市民を抑圧することになるわけですから、当然、そういう社会はろくなことがありません。
宗教の場合も、文民統制がおかしくなるようなことが、起こるわけです。
社会、コミュニティ、家庭よりも、宗教の教義のほうが重い、という逆転現象が起こってしまう。
そもそも、この社会でうまく生活していくために宗教があるのに、その宗教がじぶんの生活や社会より重い存在になってしまって、反社会であったり、家庭崩壊を招く。
信者がこの点を理解していないことも問題なんですが、社会や生活よりも教義のほうが大事なんだと教団側が仕向けているとすれば、それが最大の問題です。
日本社会は法治国家です。憲法、法律は、当然宗教の教義より重い。
それが日本国民にとっての「常識」です。
ところが特定の宗教の教義を、原理的に解釈すると、憲法や法律とかみ合わないことがある。
宗教の教義は、日本の憲法や法律が定められるより前から存在するものがたくさんありますから、そういうことも起こるでしょう。
けれど、やっぱりわれわれは教義と社会を天秤にかけたときには、社会を重んじなければならない。
宗教の教えが社会のありようにそぐわないとき、信者は迷わず社会のありように沿うべきです。
社会もそれを支持し、教団の問題を追及しなければなりません。
これまでの日本社会はこの点での追及が弱かった。
宗教はどのような教義であったとしても、その国の社会に従わねばならないという統制が、課題なのだろうとおもいます。
#時事
エホバや統一教会における教義を、ただ信者から生まれたというだけで押し付けられた2世の悩みや苦しみについて取り上げたものです。
この問題の本質は、宗教の教えが社会のありようと食い違っていて、教団側が教えにしたがうことを暗に求めていた場合、信者がどう行動すべきか、社会はどう働きかけるべきかということです。
たとえば、シビリアンコントロール(文民統制)という言葉があります。
文民とは、軍人以外の人間をさします。
つまり、軍人以外はみんな文民です。
で、この軍人を文民によって統制する、という制度がシビリアンコントロール。
これが守られないと、戦前の日本のように、軍人が文民よりも権力をもってのさばる社会になります。
暴力装置が市民を抑圧することになるわけですから、当然、そういう社会はろくなことがありません。
宗教の場合も、文民統制がおかしくなるようなことが、起こるわけです。
社会、コミュニティ、家庭よりも、宗教の教義のほうが重い、という逆転現象が起こってしまう。
そもそも、この社会でうまく生活していくために宗教があるのに、その宗教がじぶんの生活や社会より重い存在になってしまって、反社会であったり、家庭崩壊を招く。
信者がこの点を理解していないことも問題なんですが、社会や生活よりも教義のほうが大事なんだと教団側が仕向けているとすれば、それが最大の問題です。
日本社会は法治国家です。憲法、法律は、当然宗教の教義より重い。
それが日本国民にとっての「常識」です。
ところが特定の宗教の教義を、原理的に解釈すると、憲法や法律とかみ合わないことがある。
宗教の教義は、日本の憲法や法律が定められるより前から存在するものがたくさんありますから、そういうことも起こるでしょう。
けれど、やっぱりわれわれは教義と社会を天秤にかけたときには、社会を重んじなければならない。
宗教の教えが社会のありようにそぐわないとき、信者は迷わず社会のありように沿うべきです。
社会もそれを支持し、教団の問題を追及しなければなりません。
これまでの日本社会はこの点での追及が弱かった。
宗教はどのような教義であったとしても、その国の社会に従わねばならないという統制が、課題なのだろうとおもいます。
#時事