2023年11月6日の投稿[5件]
こんばんは。
「山麓王国」を検索したら、こちらが見つかりました。
大阪のことが書いてあったので、そうかな、と。
人違いでしたら申し訳ございません。
何回かメールを差し上げたのですが、まったくお返事がないのでずっと心配しておりました。
もし、何らかの理由があるのでしたら、遠慮なくお教えいただければ幸いです。
差支えがありましたら、このコメントは削除なさってくださいね。
「山麓王国」を検索したら、こちらが見つかりました。
大阪のことが書いてあったので、そうかな、と。
人違いでしたら申し訳ございません。
何回かメールを差し上げたのですが、まったくお返事がないのでずっと心配しておりました。
もし、何らかの理由があるのでしたら、遠慮なくお教えいただければ幸いです。
差支えがありましたら、このコメントは削除なさってくださいね。
じゃりン子チエのアニメをダラダラみてます。
まあ、おもしろい。小学生のころからなんべん見たかわかりませんが、まだおもしろい。
西成の、1960~70年代に生業としてやっていたホルモン屋というのが、なんとなくわかるんですよ。
というのも、ぼくの祖父母の家は生野区にあって、あのあたりでもチエちゃんの家のように木造のガラス戸で、うちの祖父は板金屋をしていました。
となりの家は、なんの仕事をしていたかわかりませんが、入ったところに冷凍庫があって、綿菓子をつくる機械もあった。
チューペットが30円で、綿菓子が10円。子供相手にひどく細々した生業をしていました。
大阪の生野区でも、1980年代あたりはまだどこも家に鍵をかけていないので、身内がジャンジャン出入りして、それが逆に用心になっていたようです。
あと、大阪のあのへんの生業をしてる家って、だいたいおんなじような間取りです。
チエちゃんの家は極めつけで、店のほうが広くて、奥に4畳半ほどの生活スペースがあるだけ。
便所はどこやろか、とおもうんですが、もしかしたら店のどこかにトイレがあって、それが家庭用でもあるのかもしれません。
店の奥の引き戸をあけると、右手に「水屋」がある。
水屋というのは食器棚のこと。
たぶんチエちゃんの家は、家の台所と店の調理場が兼用になっているんですよ。
だいたいむかしの、家庭内工業的な間取りは、生活と商売のスペースがごっちゃになっていたものです。
そういうスペースになっているのを、ぼくは介護の研修をしているときに、実習でみています。
生野区の舎利寺の、もともとは喫茶店だったところで、ヘルパーさんはカウンターの中で食事をつくって、カウンターにある冷蔵庫で作り置きをするんですね。
喫茶店の奥に居間があって、そこで老婦が生活をしている。
大阪の都市部には、こういうライフスタイルの店がたくさんありました。
いまでもあるとおもいます。
#与太話
まあ、おもしろい。小学生のころからなんべん見たかわかりませんが、まだおもしろい。
西成の、1960~70年代に生業としてやっていたホルモン屋というのが、なんとなくわかるんですよ。
というのも、ぼくの祖父母の家は生野区にあって、あのあたりでもチエちゃんの家のように木造のガラス戸で、うちの祖父は板金屋をしていました。
となりの家は、なんの仕事をしていたかわかりませんが、入ったところに冷凍庫があって、綿菓子をつくる機械もあった。
チューペットが30円で、綿菓子が10円。子供相手にひどく細々した生業をしていました。
大阪の生野区でも、1980年代あたりはまだどこも家に鍵をかけていないので、身内がジャンジャン出入りして、それが逆に用心になっていたようです。
あと、大阪のあのへんの生業をしてる家って、だいたいおんなじような間取りです。
チエちゃんの家は極めつけで、店のほうが広くて、奥に4畳半ほどの生活スペースがあるだけ。
便所はどこやろか、とおもうんですが、もしかしたら店のどこかにトイレがあって、それが家庭用でもあるのかもしれません。
店の奥の引き戸をあけると、右手に「水屋」がある。
水屋というのは食器棚のこと。
たぶんチエちゃんの家は、家の台所と店の調理場が兼用になっているんですよ。
だいたいむかしの、家庭内工業的な間取りは、生活と商売のスペースがごっちゃになっていたものです。
そういうスペースになっているのを、ぼくは介護の研修をしているときに、実習でみています。
生野区の舎利寺の、もともとは喫茶店だったところで、ヘルパーさんはカウンターの中で食事をつくって、カウンターにある冷蔵庫で作り置きをするんですね。
喫茶店の奥に居間があって、そこで老婦が生活をしている。
大阪の都市部には、こういうライフスタイルの店がたくさんありました。
いまでもあるとおもいます。
#与太話
一時的ではありますが、ゲストIDを「admin」、パスワードも「admin」で、コメントを開放しています。
ことしの大河ドラマの「どうする家康」。
ぼくはあんまりこのドラマが好きではないんですが、とりあえず見続けています。
どこがきらいか挙げていくと、片手で足りないくらいではあるんですが、いちばんイヤだったのは、厭離穢土欣求浄土の旗印の意味を改変していたことです。
これは本来「穢れたこの世を離れ、浄土を求めよ」という意味以上のものではありません。
旗印にこれを掲げるということは、戦いに赴くものに向かって、死を恐れるなというメッセージを込めています。
兵士が死を恐れてビビっていたら、戦争になりませんからね。
真田は六文銭を旗印にしましたが、これは三途の川の渡し賃と考えられていて、これもつまり、戦場で死んでも三途の川の渡し賃はここにある、だから死を恐れるなというわけです。
で、かのドラマでは厭離穢土欣求浄土は、そんな死を求めるようなメッセージではないという。
「この穢れた地をこそ、よりよい社会(浄土)に変えていこう」という意味なんだそうな。
んなわけあるかい。
そんなふうに歴史を都合よく解釈することを、歴史修正といいます。
ところで、家康はもちろん仏教徒ですが、どの宗派だったのか。
もしこれが日蓮宗であったなら、あるいは厭離穢土欣求浄土の意味合いが、ドラマがいうところのものであった、という主張も、無理筋ではありますが通らないこともありません。
日蓮はいまでいうところの現実主義者でした。
死後に救いを求めるよりも、いま生きているこの世を変えなければならないではないか、というのです。
みんなで南無妙法蓮華経を唱え、いま生きているこの世を変えようとすることが、すなわち救いではないか、と。
この考え方であれば、現世を浄土にしようではないか、という考えも成立します。
ところが家康はどうも浄土宗だったらしいのです。
曹洞宗か浄土宗でもめていたりするらしいんですが、少なくとも日蓮宗ではない。
浄土宗であれば、浄土には阿弥陀仏が統べるあの世という以外の意味はありません。
ちなみに厭離穢土という言葉は、万葉集にも出てきますが、これもやはり、この汚いこの世を離れて、清浄なあの世へ行きたいというものです。
しかしこのドラマは、なんで江戸時代が終わった現代になってなお、家康にゴマをするような歴史修正を行わねばならんのか。
こういう茶坊主的な脚本のありようが、どうにも腹に据えかねるわけです。
では、ぼくはなんでドラマをみてるのでしょう。
見なきゃいいだけなんですけど、見ないと批判もできないでしょう(笑)
ジレンマを抱えながら、視聴している次第なのです。
#与太話
ぼくはあんまりこのドラマが好きではないんですが、とりあえず見続けています。
どこがきらいか挙げていくと、片手で足りないくらいではあるんですが、いちばんイヤだったのは、厭離穢土欣求浄土の旗印の意味を改変していたことです。
これは本来「穢れたこの世を離れ、浄土を求めよ」という意味以上のものではありません。
旗印にこれを掲げるということは、戦いに赴くものに向かって、死を恐れるなというメッセージを込めています。
兵士が死を恐れてビビっていたら、戦争になりませんからね。
真田は六文銭を旗印にしましたが、これは三途の川の渡し賃と考えられていて、これもつまり、戦場で死んでも三途の川の渡し賃はここにある、だから死を恐れるなというわけです。
で、かのドラマでは厭離穢土欣求浄土は、そんな死を求めるようなメッセージではないという。
「この穢れた地をこそ、よりよい社会(浄土)に変えていこう」という意味なんだそうな。
んなわけあるかい。
そんなふうに歴史を都合よく解釈することを、歴史修正といいます。
ところで、家康はもちろん仏教徒ですが、どの宗派だったのか。
もしこれが日蓮宗であったなら、あるいは厭離穢土欣求浄土の意味合いが、ドラマがいうところのものであった、という主張も、無理筋ではありますが通らないこともありません。
日蓮はいまでいうところの現実主義者でした。
死後に救いを求めるよりも、いま生きているこの世を変えなければならないではないか、というのです。
みんなで南無妙法蓮華経を唱え、いま生きているこの世を変えようとすることが、すなわち救いではないか、と。
この考え方であれば、現世を浄土にしようではないか、という考えも成立します。
ところが家康はどうも浄土宗だったらしいのです。
曹洞宗か浄土宗でもめていたりするらしいんですが、少なくとも日蓮宗ではない。
浄土宗であれば、浄土には阿弥陀仏が統べるあの世という以外の意味はありません。
ちなみに厭離穢土という言葉は、万葉集にも出てきますが、これもやはり、この汚いこの世を離れて、清浄なあの世へ行きたいというものです。
しかしこのドラマは、なんで江戸時代が終わった現代になってなお、家康にゴマをするような歴史修正を行わねばならんのか。
こういう茶坊主的な脚本のありようが、どうにも腹に据えかねるわけです。
では、ぼくはなんでドラマをみてるのでしょう。
見なきゃいいだけなんですけど、見ないと批判もできないでしょう(笑)
ジレンマを抱えながら、視聴している次第なのです。
#与太話
じぶんがさびしいとおもうとき、じぶんだけがさびしいのではないだろうともおもう。
ぼくが感じるさびしさは、あるときだれかと半分こにしたさびしさです。
このさびしさは、ねちゃねちゃとひっついて、どうしたって離れやしないのです。
ねちゃねちゃしたまま、すこし不便に暮らしていくほかありません。
あきらめて生活するうちに、ちょっとずつ粘度は落ちていくのかもしれませんが、元通りには戻らないでしょう。
うれしかったことや楽しかったことは、きちんとなにかに残しておかないと、さらさらと砂のようにこぼれていくのに、さびしさだけはねちゃねちゃとひっついてくるんですよね。
#与太話
ぼくが感じるさびしさは、あるときだれかと半分こにしたさびしさです。
このさびしさは、ねちゃねちゃとひっついて、どうしたって離れやしないのです。
ねちゃねちゃしたまま、すこし不便に暮らしていくほかありません。
あきらめて生活するうちに、ちょっとずつ粘度は落ちていくのかもしれませんが、元通りには戻らないでしょう。
うれしかったことや楽しかったことは、きちんとなにかに残しておかないと、さらさらと砂のようにこぼれていくのに、さびしさだけはねちゃねちゃとひっついてくるんですよね。
#与太話