山麓王国

2023年11月25日の投稿4件]

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「一瞬静まり返ってからの満場の拍手は、すばらしい演技や演奏のあとに起きる現象」
ということが現実の舞台で定義づけられてしまったら、すぐに拍手が起こった場合、自信をなくす人が増えそうですね(笑)
拍手のタイミングも案外難しいもので、真っ先に叩くと恥ずかしいということもあるように思います。
特にクラシックの演奏会だと、楽器の音の余韻が残っているうちに手を叩く人はまずいないけれど、曲をよく知らないと楽章の切れ目で叩いてしまうこともあり得ます。
お互いに遠慮して拍手を見合わせているうちに、ようやく誰かが叩き、それが広がっていく。
こうなるとまさにドラマの演出のようですが、曲に精通していない観客が多いと、拍手の遅れは考えられるかもしれません。
お芝居だと、これで終わったのかどうかの判断はしやすいので、逆に少し早くから拍手をするケースもあるように思いますが、
拍手が役者への評価だとすると、感動してる間に手を叩け、というのがいいかもしれませんね(笑)

新宮の縄張りが国家。
皇室とのつながりもあり、他の神社と違ってあたりまえなんですね。

前に何かで読んだことがあるのですが、日本の神様は仏像のような像を拝むのではなく、鏡を通してその奥にいる神様を拝むという内容でした。
ご神体にしても、山・岩・木、鏡・剣・玉など、人の形をしていませんよね。
鏡や、八百万の物を通して、自分なりに神様をイメージするのは、ちょっと難しいです(笑)
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1080
中村仲蔵の話はたしかにおおげさですね。

芝居が終わって客席が静まり返ってどよめくことは、ほんとうに起こることなのかどうか。

現代ではドラマや漫画の手法として、あまりにもすばらしい演目のあと、客席が一瞬静まり返ってから満場の拍手という演出は、常套化していますよね。

それがほんとうにありえる現象なのか、一度役者さんにたずねてみたいものです。



伊勢の神宮の、監視されているような感じというのは、間違っていないとおもいます。

一般的な神社も地域の縄張りをあらわす一面がありますが、神宮は縄張りの単位が「国家」なので、ありようが特殊なんですよね。



日本神話の神々が絵にしづらいのは、神道には宗教的熱情が起こりにくいからではないかとおもいます。

キリスト教の教会壁画であったり、仏教の曼荼羅など、宗教絵師が命を懸けて表現するような、その「もとになるもの」が神道にはありません。

神道にはこう生きるべきであるという教義であったり、救いの道筋がないので、どうしてもこの神話のシーンを描き残しておかねばならない、とか、この思想を形に残さねばならない、という強い情熱が起こりにくいのだとおもいます。
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書いてくださったことすべてに、ああ~そうか!! そうなんだ!!と言う気持ちです。

中村仲蔵と神仏とのお話、そのようにつながったんですね
中村仲蔵が「落語」というジャンルで語られることに、なんとなく違和感がありました。
講談にはなっていますが、落語では、
「團十郎から褒美として煙管を貰った仲蔵に、女房が「煙に巻かれないかい」と心配するサゲ」が、おまけのようについてますよね←落語家によってサゲが違うようです。
まるで、無理やり落語に仕立てた感が満載です。
聞いても(読んでも)、物語で終わってしまい、落語の喜怒哀楽がないんです。

ベートーベンが自信を持って指揮を終えた時、拍手の音、歓声がないので、この曲は失敗だったと落胆して客席を振り返ったら、
感動し、立ち上がって拍手をし続ける観客が見えたそうです。
耳が聞こえなくなっていたんですよね←聞こえる時と聞こえない時があったようです。
それを考えると、感動しすぎて拍手できない、声も出せないというほどの芸というのは有り得るのか?という疑問が起きる話です。
例えそうだったとしても、それは数分のことではないのか、と思います。

先日中村仲蔵のことを書いた時、↑ のように思っていることも書こうとしたのですが、そのままになってしまい、気にかかっていました。
偶然ですが、このところ「農園主さんが万が一、中村仲蔵に関連する記事をお書きになった時に書こう」と思っていたんです。
だから、的外れどころか、中村仲蔵と神仏を関連付けて解説してくださって、びっくりしました。

天照系の神社には生活者の目線がない。
これも理由があっての事なんですね。
天照系の神社にお参りして感じたことは、勘違いではなかったんだと思いました。
伊勢神宮にお賽銭箱がなかったとは知りませんでした。
たまにテレビで放映していますが、あの独特の空気は、テレビからも伝わってくるように思います。

例えは変ですが、伊勢神宮は、後ろにギャルソンが控えていて、マナーを笑われないだろうかとビクビクしながら食べないといけない最高級のフレンチレストランで、
他の寺社の殆どは、気軽に入れる町の食堂かもしれません。
町の食堂でも、中にザ・シェフの味沢匠がいれば、思いがけないラッキーにあずかれると思います(笑)

初めてお参りする寺社では、いつもありがとうございますだけで、何度もお参りする寺社では感謝とお願い事を遠慮なく、と分けています。
初対面の人に、お金貸してとか仕事紹介してとは言えないので、神仏も同じかなと(笑)

仏の場合は仏像があるので、仏様ごとのお姿や顔つきなどがわかりますし、神様でも像になっていればイメージとしてわかります。
大黒さまや七福神などがそうですね。
アマテラスやスサノオなどは、一般的な神社でそういう像を見ません。
あったとしても、現代になってから置物感覚で造られたものです。
絵になっているもの、書物でのお姿は見ても、大黒天や七福神のようにイメージがしにくいことが、距離を感じる一因なのかなと思います。
スサノオの場合は、イメージしにくいのに案外親しみやすいのは、矛盾していますね(笑)
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ふとおもったことなので、的外れなことを書くかもしれません。

先日、中村仲蔵がぼくには敷居が高いという話をしましたが、その原因をさらに考えていて、ふと気づいたのが、「生活者の目線」のない話だから取っ掛かりがつかめなかったのだろうな、と。

落語の多くの話は、そこに生活者がいるからおもしろいんですが、中村仲蔵には、芸道の求道者ばかり出てきて、生活者が出てこないでしょう。



で、アマテラスの話なんですが、ギズモさんがおっしゃるように、天照系の神社は、どこかよそよそしくて、それこそ敷居が高いんですね。

その理由は、生活者の目線がないからなんだとおもいます。

たとえば伊勢の神宮にお参りするときは、お願い事をするのではなくて、感謝の心を捧げなさい、などといいます。

参拝者個人の悩み事を聞く場所ではない、というわけです。



奈良時代の仏教は国家鎮護のためにあって、民衆の悩みを聞くようなものではなかったらしいんですが……天照系の神社には、奈良時代の仏教寺院のような空気を感じます。

仏教は平安時代末期から鎌倉時代にかけて、現在に続く各宗派を形成しながら全国に広がっていって、民衆の悩みを聞くようになります。

つまり全国各地の寺社、とりわけ神仏習合をしているような寺社には、「生活者の目線」があるんですね。

その土地を守ってくれる強い神仏が求められたり、俗人の願いをかなえてくれるような神仏がいたりする。

しかし神宮に参拝するときは、アマテラスという神そのもの(あるいは日本という国家)にフォーカスされていて、参拝者であるわれわれはそこに人間としての個性を出すことが許されず、「感謝の心をささげにきた群衆のひとり」ということになるようです。

神宮にはお賽銭箱もありませんしね(笑)



そこまで考えて、ギズモさんのおっしゃる、厳格な雰囲気、相性の悪さという意味がぼくなりに理解できたようにおもえました。

ぼくは伊勢に住んでいたからアマテラス推しという、それは変わらないんですが……日頃お参りするときには、先祖代々から民衆の集いの場所、縄張りを示す場所となっていて、そこへお賽銭を投げて、お願い事をして「よろしく頼みます」みたいな、人間くさい、泥くさいところを受け入れてくれる寺社のほうが、カラダになじむ感じはあります。

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