2024年12月の投稿[12件]
2024年12月27日 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する
今回も、とても興味をひかれるお話を教えていただき、ありがとうございます。
農園主さんの、安徳天皇生存説に信憑性がないというお考えと、その理由、よくわかります。
あとから話を作った、ということなんですね。
能勢の陵墓がいまもていねいに守られていて、それが安徳天皇に対する愛からというお話には、心を打たれます。
後ほどゆっくりと読み直しさせていただきますが、とりあえず簡単なお返事で申し訳ございません。
今年もありがとうございました。
佳いお年をお迎えください(*^。^*)
ご両親、弟さんたちと、皆様お元気で、幸せな年末年始をお過ごしくださいね。
農園主さんの、安徳天皇生存説に信憑性がないというお考えと、その理由、よくわかります。
あとから話を作った、ということなんですね。
能勢の陵墓がいまもていねいに守られていて、それが安徳天皇に対する愛からというお話には、心を打たれます。
後ほどゆっくりと読み直しさせていただきますが、とりあえず簡単なお返事で申し訳ございません。
今年もありがとうございました。
佳いお年をお迎えください(*^。^*)
ご両親、弟さんたちと、皆様お元気で、幸せな年末年始をお過ごしくださいね。
四国には行ったことがないんですが、父方の祖母が徳島の出身でした。
祖母が徳島出身であることを知ったのは、最近のことです。
きっかけは子供のころ、祖母がお正月になるといつもおはぎをつくってくれた記憶でした。
これがもち米とうるち米を混ぜて炊いた「半殺し」というもので、一般的なおはぎと比べるとすこし変わっています。
子供のころはなにも気にせず食べていました。
数年前に、あれは徳島の郷土料理だと父が話したことで、ぼくははじめて祖母が徳島出身だったことを知ったんです。
このおはぎは徳島県那賀町が有名なんだそうですが、祖母が徳島のどこ出身なのかはよくわかりません。
つるぎ山は那賀町の北端からつるぎ町にかかっている標高約2000mの山なんだそうですね。
調べてみたんですが、剣山は近世に入ってから修験者の集まる霊峰になったようです。
現在では寺社があり、剣山大権現がまつられているそうですが、修験者が集まるまでは社殿もなにもありませんでした。
修験者が集まるようになったものの、この参道が非常に厳しいものだったため、宿泊施設を兼ねた寺ができたそうです。
そのお寺のうち、円福寺の史料に、安徳天皇と草薙の剣の縁起が残っています。
つまり江戸時代末期になって、安徳天皇と剣山が結びつけられたんですね。
山の呼び方が「けんざん」「つるぎやま」など近代になるまで安定しなかったのは、「剣山」という名称そのものが比較的あたらしいものだからでしょう。
もし修験者によって剣山という名前がつけられていなければ、いまも太郎笈と呼ばれていたかもしれません。
ギズモさんのおっしゃったように、徳島県に平氏の落人が住み着いた話とこの件は無関係ではないとおもいます。
徳島県祖谷地方に平国盛(平教経)が落ち延びて、その地を平定。
その後現在の美馬市のすこし東側にある吉野川市あたりに、おなじく落ち延びていた安徳天皇がおられ、お迎えしたとあります。
しかしこれは、後世につくられた伝説のようです。
ほんとうの落人もいました。
堀川内記という、朝廷で安徳天皇のお付きの医者をしていた男がいて、実際に平家滅亡後に祖谷地方に落ち延びて、医業と神官を兼ねながら暮らしていたというのです。
この堀川内記の子孫の家が、いま平家屋敷民俗資料館になっています。
そう考えると、堀川内記がきっかけで話に尾ひれがついて、平家の落人の伝説がまことしやかにふくらんでいった。
剣山も、もともと江戸時代の『異本阿波史』という本に「神宝の霊剣を納めている」という記述があったようです。
それが、修験者の山として剣山がひらかれるにあたって、安徳天皇と草薙の剣という脚色が加わったのでしょう。
安徳天皇が逃げ延びたという伝説は、西日本を中心として全国に残っていますね。
ぼくの知っているところだと、大阪の最北部に能勢という町があります。
ここは大阪といっても田舎です。
東京だと檜原村に近い風情のようにおもえます。
妙見信仰の総本山があることから、「能勢の妙見さん(妙見山)」として有名です。
この能勢に、野間という地域があります。
樹齢千年以上の大ケヤキが観光資源となっていて、ぼくも行ったことがありますが、じつに立派なものです。
ここで江戸時代、ある屋敷の屋根を修繕していた職人が、天井裏の柱に竹筒がくくりつけられているのを発見しました。
1817年といいますから、江戸から明治に切り替わるほぼ半世紀前です。
中に入っていたのは書簡で、藩に届けられ、当時の役人がこれを苦労して解読しました。
するとどうやら大昔に、藤原経房という男が息子にあてた遺書であることがわかります。
なんとそこには経房が壇ノ浦で二位尼に請われて、安徳天皇を預かって逃げ延びて、能勢の地にたどりついたこと。
そして安徳天皇はその1年後に崩御したが、じぶんは陵墓を守るためにその地に残ったことが記されていたというのです。
この書簡の内容は幕府にも伝えられ、当時の江戸や上方を駆け巡るニュースになりました。
しかしこの文書にはいろいろと矛盾点があり、真偽のほどは怪しいといわれています。
写本はいまも残っているのですが、明治時代には原本も紛失したそうで、真贋の細かい部分を調べることもできなくなっています。
ところで、個人的には安徳天皇生存説には信憑性がないとおもっています。
夢がないとおもわれるかもしれませんが、やっぱり感覚的にそうおもわざるを得ないんです。
というのも、平徳子はおなじ船のうえで、安徳天皇と二位尼が入水するところを目の当たりにしていたわけでしょう。
それを見届けて、みずからも入水。
ところが源氏方に助けられてしまいます。
もし安徳天皇が逃げたと知っていたら、徳子は入水できたでしょうか。
6歳の子を置いて、母親は死ねるだろうか、というのが最初の疑問点です。
次に、徳子が助けられたあと、安徳天皇は死んだと割り切って、生きているかもしれないのにその菩提を弔い、世を捨てることができるでしょうか。
もし安徳天皇が生きている可能性があるなら、寂光院に入寺することもなく、平家の再興のために、なにかアクションを起こしたとおもうのです。
入水した安徳天皇は替え玉だった、という話もあります。
しかしおなじ船に乗っていて、我が子がいつの間にか脱出していて、入水する安徳天皇が替え玉であることに徳子も女房たちも気づかなかった、というのはさすがにあり得ないでしょう。
それに当時の人々も、安徳天皇が生きていたなんてうかつなことを、書き残したり、伝承したりはできないはずなんです。
その時代に生きた人たちにとっては「うかつなことを言えば殺される」わけですから。
ちょっと話が変わりますが、丹後地方には明智たま(細川ガラシャ)という人がいました。
(彼女も日本史上有数の悲劇のヒロインです)
明智光秀の娘で、同盟相手の細川忠興(丹後田辺藩)の妻になるんです。
しかしそれから約4年後、光秀が謀反を起こして、信長を討ってしまいました。
そのあと、秀吉が光秀を討伐するのは、よく知られた歴史ですね。
嫁いだとはいえ逆賊の光秀の娘ですから、秀吉に殺せと言われる可能性があります。
そこでたまは夫の忠興によって秘境へ移され、行方不明であるとして、2年ほど幽閉されるんです。
この隠棲地については、丹波の山の中の「三戸野」だったという記述が残っています。
後世『細川ガラシア夫人』という戯曲を書いたドイツ人が、丹後の「味土野」に行って、これがガラシャの隠棲地にちがいないといいました。
それでいま味土野はガラシャ隠棲の地として観光地化しています。
ところが最近、「三戸野」は丹後ではなくて、もっと南の京丹波町の水戸のことを指すのではないか、という調査が出たんです。
京丹波町にはむかし「三戸野峠」と呼ばれた峠もあったそうで、こうなるとがぜん信憑性が高まります。
ガラシャの隠棲地がごっそり入れ替わるような話です。
ところが、この「三戸野」という情報すら、じつは江戸時代に書かれた軍記ものである『明智軍記』という、あまり信憑性のない書物からきているといわれています。
元ネタの信憑性が薄いわけですから、もう細川ガラシャ隠棲地は、まったくわからなくなってしまうんです。
当時そこに住んでいた人だって、ここにはお姫さんが暮らしていた、なんて絶対に言わないし、書き残すようなことはしません。
そんなことをしたらその地にどんな災いをもたらすかわかりません。
そのようなことを踏まえると、やはり生存説が出てくること自体、緊張感が薄いようにおもえるんです(笑)
しかし、安徳天皇生存説を各地の人がつくった気持ちはよくわかります。
平家物語でかわいそうな死に方をした安徳天皇のエピソードを聞いて、なんとか生きていたという物語にならないものか、とおもった人は、全国各地にいたことでしょう。
それで、たいていの人は物語と現実の区別がついているのだけど、中にはその分別を踏み越えて、ほんとうにあたらしい物語をつくってしまうタイプの人がいるわけです。
みんなそれを半ば怪しいとおもいながらも、疑わしきは罰せずの気持ちで乗っかっているうちに、ウソがマコトになっていく。
なにせ能勢の安徳天皇の陵墓は、いまもていねいに守られてるといいます。
ぼくは生存説に関しては懐疑的な立場ですが、先人たちの安徳天皇愛についてはホンモノだとおもっています。
クリスマスのメッセージをありがとうございました。
師走はやはりあわただしいですね。
あした以降、年末年始はネットをしている時間がありませんので、これで年の瀬のあいさつに代えさせていただきます。
ギズモさんにおかれましても、よいお年をお迎えください。
早く指のケガが治りますように。
祖母が徳島出身であることを知ったのは、最近のことです。
きっかけは子供のころ、祖母がお正月になるといつもおはぎをつくってくれた記憶でした。
これがもち米とうるち米を混ぜて炊いた「半殺し」というもので、一般的なおはぎと比べるとすこし変わっています。
子供のころはなにも気にせず食べていました。
数年前に、あれは徳島の郷土料理だと父が話したことで、ぼくははじめて祖母が徳島出身だったことを知ったんです。
このおはぎは徳島県那賀町が有名なんだそうですが、祖母が徳島のどこ出身なのかはよくわかりません。
つるぎ山は那賀町の北端からつるぎ町にかかっている標高約2000mの山なんだそうですね。
調べてみたんですが、剣山は近世に入ってから修験者の集まる霊峰になったようです。
現在では寺社があり、剣山大権現がまつられているそうですが、修験者が集まるまでは社殿もなにもありませんでした。
修験者が集まるようになったものの、この参道が非常に厳しいものだったため、宿泊施設を兼ねた寺ができたそうです。
そのお寺のうち、円福寺の史料に、安徳天皇と草薙の剣の縁起が残っています。
つまり江戸時代末期になって、安徳天皇と剣山が結びつけられたんですね。
山の呼び方が「けんざん」「つるぎやま」など近代になるまで安定しなかったのは、「剣山」という名称そのものが比較的あたらしいものだからでしょう。
もし修験者によって剣山という名前がつけられていなければ、いまも太郎笈と呼ばれていたかもしれません。
ギズモさんのおっしゃったように、徳島県に平氏の落人が住み着いた話とこの件は無関係ではないとおもいます。
徳島県祖谷地方に平国盛(平教経)が落ち延びて、その地を平定。
その後現在の美馬市のすこし東側にある吉野川市あたりに、おなじく落ち延びていた安徳天皇がおられ、お迎えしたとあります。
しかしこれは、後世につくられた伝説のようです。
ほんとうの落人もいました。
堀川内記という、朝廷で安徳天皇のお付きの医者をしていた男がいて、実際に平家滅亡後に祖谷地方に落ち延びて、医業と神官を兼ねながら暮らしていたというのです。
この堀川内記の子孫の家が、いま平家屋敷民俗資料館になっています。
そう考えると、堀川内記がきっかけで話に尾ひれがついて、平家の落人の伝説がまことしやかにふくらんでいった。
剣山も、もともと江戸時代の『異本阿波史』という本に「神宝の霊剣を納めている」という記述があったようです。
それが、修験者の山として剣山がひらかれるにあたって、安徳天皇と草薙の剣という脚色が加わったのでしょう。
安徳天皇が逃げ延びたという伝説は、西日本を中心として全国に残っていますね。
ぼくの知っているところだと、大阪の最北部に能勢という町があります。
ここは大阪といっても田舎です。
東京だと檜原村に近い風情のようにおもえます。
妙見信仰の総本山があることから、「能勢の妙見さん(妙見山)」として有名です。
この能勢に、野間という地域があります。
樹齢千年以上の大ケヤキが観光資源となっていて、ぼくも行ったことがありますが、じつに立派なものです。
ここで江戸時代、ある屋敷の屋根を修繕していた職人が、天井裏の柱に竹筒がくくりつけられているのを発見しました。
1817年といいますから、江戸から明治に切り替わるほぼ半世紀前です。
中に入っていたのは書簡で、藩に届けられ、当時の役人がこれを苦労して解読しました。
するとどうやら大昔に、藤原経房という男が息子にあてた遺書であることがわかります。
なんとそこには経房が壇ノ浦で二位尼に請われて、安徳天皇を預かって逃げ延びて、能勢の地にたどりついたこと。
そして安徳天皇はその1年後に崩御したが、じぶんは陵墓を守るためにその地に残ったことが記されていたというのです。
この書簡の内容は幕府にも伝えられ、当時の江戸や上方を駆け巡るニュースになりました。
しかしこの文書にはいろいろと矛盾点があり、真偽のほどは怪しいといわれています。
写本はいまも残っているのですが、明治時代には原本も紛失したそうで、真贋の細かい部分を調べることもできなくなっています。
ところで、個人的には安徳天皇生存説には信憑性がないとおもっています。
夢がないとおもわれるかもしれませんが、やっぱり感覚的にそうおもわざるを得ないんです。
というのも、平徳子はおなじ船のうえで、安徳天皇と二位尼が入水するところを目の当たりにしていたわけでしょう。
それを見届けて、みずからも入水。
ところが源氏方に助けられてしまいます。
もし安徳天皇が逃げたと知っていたら、徳子は入水できたでしょうか。
6歳の子を置いて、母親は死ねるだろうか、というのが最初の疑問点です。
次に、徳子が助けられたあと、安徳天皇は死んだと割り切って、生きているかもしれないのにその菩提を弔い、世を捨てることができるでしょうか。
もし安徳天皇が生きている可能性があるなら、寂光院に入寺することもなく、平家の再興のために、なにかアクションを起こしたとおもうのです。
入水した安徳天皇は替え玉だった、という話もあります。
しかしおなじ船に乗っていて、我が子がいつの間にか脱出していて、入水する安徳天皇が替え玉であることに徳子も女房たちも気づかなかった、というのはさすがにあり得ないでしょう。
それに当時の人々も、安徳天皇が生きていたなんてうかつなことを、書き残したり、伝承したりはできないはずなんです。
その時代に生きた人たちにとっては「うかつなことを言えば殺される」わけですから。
ちょっと話が変わりますが、丹後地方には明智たま(細川ガラシャ)という人がいました。
(彼女も日本史上有数の悲劇のヒロインです)
明智光秀の娘で、同盟相手の細川忠興(丹後田辺藩)の妻になるんです。
しかしそれから約4年後、光秀が謀反を起こして、信長を討ってしまいました。
そのあと、秀吉が光秀を討伐するのは、よく知られた歴史ですね。
嫁いだとはいえ逆賊の光秀の娘ですから、秀吉に殺せと言われる可能性があります。
そこでたまは夫の忠興によって秘境へ移され、行方不明であるとして、2年ほど幽閉されるんです。
この隠棲地については、丹波の山の中の「三戸野」だったという記述が残っています。
後世『細川ガラシア夫人』という戯曲を書いたドイツ人が、丹後の「味土野」に行って、これがガラシャの隠棲地にちがいないといいました。
それでいま味土野はガラシャ隠棲の地として観光地化しています。
ところが最近、「三戸野」は丹後ではなくて、もっと南の京丹波町の水戸のことを指すのではないか、という調査が出たんです。
京丹波町にはむかし「三戸野峠」と呼ばれた峠もあったそうで、こうなるとがぜん信憑性が高まります。
ガラシャの隠棲地がごっそり入れ替わるような話です。
ところが、この「三戸野」という情報すら、じつは江戸時代に書かれた軍記ものである『明智軍記』という、あまり信憑性のない書物からきているといわれています。
元ネタの信憑性が薄いわけですから、もう細川ガラシャ隠棲地は、まったくわからなくなってしまうんです。
当時そこに住んでいた人だって、ここにはお姫さんが暮らしていた、なんて絶対に言わないし、書き残すようなことはしません。
そんなことをしたらその地にどんな災いをもたらすかわかりません。
そのようなことを踏まえると、やはり生存説が出てくること自体、緊張感が薄いようにおもえるんです(笑)
しかし、安徳天皇生存説を各地の人がつくった気持ちはよくわかります。
平家物語でかわいそうな死に方をした安徳天皇のエピソードを聞いて、なんとか生きていたという物語にならないものか、とおもった人は、全国各地にいたことでしょう。
それで、たいていの人は物語と現実の区別がついているのだけど、中にはその分別を踏み越えて、ほんとうにあたらしい物語をつくってしまうタイプの人がいるわけです。
みんなそれを半ば怪しいとおもいながらも、疑わしきは罰せずの気持ちで乗っかっているうちに、ウソがマコトになっていく。
なにせ能勢の安徳天皇の陵墓は、いまもていねいに守られてるといいます。
ぼくは生存説に関しては懐疑的な立場ですが、先人たちの安徳天皇愛についてはホンモノだとおもっています。
クリスマスのメッセージをありがとうございました。
師走はやはりあわただしいですね。
あした以降、年末年始はネットをしている時間がありませんので、これで年の瀬のあいさつに代えさせていただきます。
ギズモさんにおかれましても、よいお年をお迎えください。
早く指のケガが治りますように。
2024年12月24日 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する
ご心配をありがとうございます。
「きちんと」ケガ、というところで、申し訳ありませんが笑ってしまいました。ごめんなさい。
スッと触れただけで触れたぶん切れてしまう、その通りでした。
ひとつコンサートが無事終わりましたが、その晩傷口が開きました(笑)
油断してバンドエイドにしたのがいけなかったようです。
私の些細な疑問から、「短編歴史小説」というより、壮大でドラマティックな物語をありがとうございます。
とても興味深く読ませていただきました。
ことに宮中の言葉で語り合うユーモラスなくだりは、場面が目の前に浮かび、一気にその時代にとばされたような気さえしました。
阿波内侍も、様々な出来事や人に振り回され、つらく悲しい思いを強いられたのですね。
気性が激しかったということですが、徳子と対照的な性格だったのでしょうか。
ふたりの女性の、自分ではどうともすることができないそれぞれの人生が、寂光院でともに生きることで、浄化されたように思いました。
崇徳院の歌は、百人一首の中で一番好きなのですが、もう一つの意味もあったのですね。
この願勝寺を調べたら、最寄り駅が貞光駅となっていました。
プライベートな話で恐縮ですが、昔、ワンマンな母の言いつけに従って結婚した元夫が、貞光町の出身でした(5年ほどで別れました。今の主人とは再婚です)。
一度だけ、元夫の父親と兄夫婦が住む家に行ったことがあるのですが、貞光駅から、ガードレールのない、それこそ10センチずれたら谷底へ、という、あまりに狭い1車線の山道を上って行きました。
タクシーの運転手さんは慣れてはいるでしょうが、恐怖で冷汗がでました(笑)
最近、町がいくつか合併し、貞光町は「つるぎ町」となりましたが、20キロほど離れたところに剣山(昔は「けんざん」とも呼んでいたそうですが、今はつるぎさんに統一されたそうです)があります。
ご存じと思いますが、安徳天皇の遺言により、剣を山頂に隠し、ご神体とした山です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%A3%...
阿波内侍が願勝寺を阿波に移した20年ほど後に安徳天皇が亡くなっていますが、剣を山頂に隠したのはいつなのか、また剣山と呼ばれるようになったのがいつなのか、調べましたが、はっきりした年が不明です。
なぜ安徳天皇の剣を、阿波内侍に関係のある土地に埋めたのでしょう。
阿波内侍が徳子に勧めたのでしょうか?
または、徳子、阿波内侍とは関係のない人物の意図ということもありますね。
もうひとつ、興味深いことがあります。
元夫の姓は「金岡」と言いますが、苗字由来netの日本の名字ランキングを見ると、比率が多い場所(訂正=市区町村)の1位が「美馬郡(訂正・美馬市)つるぎ町」です。
これは単にこの一帯に親戚が多いからかもしれませんが、それにしても、つるぎ町に住む金岡姓の人全部に血のつながりがあるとは思えません。
名字の由来として「桓武天皇の子孫で平の姓を賜った家系である平氏(桓武平氏)に記述されている」と書いてあります。
このあたりも、平氏が落ち延びてきた土地なのかもしれません。
つるぎ町から60キロほどのところに、徳島県の民謡に歌われている、祖谷のかずら橋がありますが、このあたりは平家の落人が移り住んだといわれる地域です。
それを考えると、つるぎ町をもっと広範囲に広げた一帯に落ち延びた平氏が多く住んでいて、剣を隠すのには剣山が適当な場所だと考えた、という単純な話なのかもしれませんね。
寂光院は最初聖徳太子が建立したそうですが、聖徳太子は、美馬郡のあたりに多くいたという、渡来人の秦氏に影響を受けたと言います。
『母の生国である阿波(徳島県)の維摩寺に移し、名前をそのまま「願勝寺」に改めるように請願した』という維摩寺ですが、阿波内侍の母親、或いは阿波内侍とゆかりのあるお寺だったのでしょうか。
聖徳太子は鳩摩羅什訳の『維摩詰諸説経』に注釈した『維摩経義疏』を書いていますよね。
その「維摩」の寺だとすると、維摩寺も寂光院も聖徳太子に関係してくるわけです。
阿波内侍、徳子。聖徳太子、維摩寺、寂光院、阿波(徳島)、安徳天皇の剣、剣山、平氏、秦氏。
どういう関連性があるのかわかりませんが、どうも無関係とは言えないような気がします。
寂光院の山から剣山が見える・・・とか??
剣山から秦氏に関係するものが数多く発掘されたそうですが、これは平氏や安徳天皇の剣とは無関係なのでしょうか?
また、安徳天皇が入水せず、平氏の生き残りと剣山に隠れ住んだという説もあり、なんだかわけがわからなくなりました(笑)
秦氏と、イスラエルの失われた十二氏族(書き足し・十氏族ともいうようです)の関係の話もいろいろありますが、もうそこまで広げると混乱の境地です(笑)
農園主さんの壮大なロマンとも言えるお話を読ませていただき、感銘を受けて、よけいな妄想をしてしまい、失礼しましたm(_ _"m)
獣害は本当に難儀なことですね。
迅速な対策により、おさまってなによりです。
山田和明 さんのクリスマスカードですが、場所は横浜です。
メリークリスマス!
「きちんと」ケガ、というところで、申し訳ありませんが笑ってしまいました。ごめんなさい。
スッと触れただけで触れたぶん切れてしまう、その通りでした。
ひとつコンサートが無事終わりましたが、その晩傷口が開きました(笑)
油断してバンドエイドにしたのがいけなかったようです。
私の些細な疑問から、「短編歴史小説」というより、壮大でドラマティックな物語をありがとうございます。
とても興味深く読ませていただきました。
ことに宮中の言葉で語り合うユーモラスなくだりは、場面が目の前に浮かび、一気にその時代にとばされたような気さえしました。
阿波内侍も、様々な出来事や人に振り回され、つらく悲しい思いを強いられたのですね。
気性が激しかったということですが、徳子と対照的な性格だったのでしょうか。
ふたりの女性の、自分ではどうともすることができないそれぞれの人生が、寂光院でともに生きることで、浄化されたように思いました。
崇徳院の歌は、百人一首の中で一番好きなのですが、もう一つの意味もあったのですね。
そして阿波内侍が寂光院に入寺して3年ほど経ったとき、彼女は京都の願勝寺を、母の生国である阿波(徳島県)の維摩寺に移し、名前をそのまま「願勝寺」に改めるように請願したそうです。いまも四国八十八箇所霊場のひとつとして徳島県美馬市に願勝寺が残っています。
この願勝寺を調べたら、最寄り駅が貞光駅となっていました。
プライベートな話で恐縮ですが、昔、ワンマンな母の言いつけに従って結婚した元夫が、貞光町の出身でした(5年ほどで別れました。今の主人とは再婚です)。
一度だけ、元夫の父親と兄夫婦が住む家に行ったことがあるのですが、貞光駅から、ガードレールのない、それこそ10センチずれたら谷底へ、という、あまりに狭い1車線の山道を上って行きました。
タクシーの運転手さんは慣れてはいるでしょうが、恐怖で冷汗がでました(笑)
最近、町がいくつか合併し、貞光町は「つるぎ町」となりましたが、20キロほど離れたところに剣山(昔は「けんざん」とも呼んでいたそうですが、今はつるぎさんに統一されたそうです)があります。
ご存じと思いますが、安徳天皇の遺言により、剣を山頂に隠し、ご神体とした山です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%A3%...
阿波内侍が願勝寺を阿波に移した20年ほど後に安徳天皇が亡くなっていますが、剣を山頂に隠したのはいつなのか、また剣山と呼ばれるようになったのがいつなのか、調べましたが、はっきりした年が不明です。
なぜ安徳天皇の剣を、阿波内侍に関係のある土地に埋めたのでしょう。
阿波内侍が徳子に勧めたのでしょうか?
または、徳子、阿波内侍とは関係のない人物の意図ということもありますね。
もうひとつ、興味深いことがあります。
元夫の姓は「金岡」と言いますが、苗字由来netの日本の名字ランキングを見ると、比率が多い
これは単にこの一帯に親戚が多いからかもしれませんが、それにしても、つるぎ町に住む金岡姓の人全部に血のつながりがあるとは思えません。
名字の由来として「桓武天皇の子孫で平の姓を賜った家系である平氏(桓武平氏)に記述されている」と書いてあります。
このあたりも、平氏が落ち延びてきた土地なのかもしれません。
つるぎ町から60キロほどのところに、徳島県の民謡に歌われている、祖谷のかずら橋がありますが、このあたりは平家の落人が移り住んだといわれる地域です。
それを考えると、つるぎ町をもっと広範囲に広げた一帯に落ち延びた平氏が多く住んでいて、剣を隠すのには剣山が適当な場所だと考えた、という単純な話なのかもしれませんね。
寂光院は最初聖徳太子が建立したそうですが、聖徳太子は、美馬郡のあたりに多くいたという、渡来人の秦氏に影響を受けたと言います。
『母の生国である阿波(徳島県)の維摩寺に移し、名前をそのまま「願勝寺」に改めるように請願した』という維摩寺ですが、阿波内侍の母親、或いは阿波内侍とゆかりのあるお寺だったのでしょうか。
聖徳太子は鳩摩羅什訳の『維摩詰諸説経』に注釈した『維摩経義疏』を書いていますよね。
その「維摩」の寺だとすると、維摩寺も寂光院も聖徳太子に関係してくるわけです。
阿波内侍、徳子。聖徳太子、維摩寺、寂光院、阿波(徳島)、安徳天皇の剣、剣山、平氏、秦氏。
どういう関連性があるのかわかりませんが、どうも無関係とは言えないような気がします。
寂光院の山から剣山が見える・・・とか??
剣山から秦氏に関係するものが数多く発掘されたそうですが、これは平氏や安徳天皇の剣とは無関係なのでしょうか?
また、安徳天皇が入水せず、平氏の生き残りと剣山に隠れ住んだという説もあり、なんだかわけがわからなくなりました(笑)
秦氏と、イスラエルの失われた十二氏族(書き足し・十氏族ともいうようです)の関係の話もいろいろありますが、もうそこまで広げると混乱の境地です(笑)
農園主さんの壮大なロマンとも言えるお話を読ませていただき、感銘を受けて、よけいな妄想をしてしまい、失礼しましたm(_ _"m)
獣害は本当に難儀なことですね。
迅速な対策により、おさまってなによりです。
山田和明 さんのクリスマスカードですが、場所は横浜です。
メリークリスマス!
2024年12月21日 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する
後半です。
どうやら阿波内侍はずいぶん激しい気性の人だったようです。
史実と平家物語の行間を読むようにして推察していくと、どうも感情の振れ幅が大きな人だったとおもわずにいられません。
そしてそんな阿波内侍の性格は父譲りだろうとおもいます。
阿波内侍の父、信西はもともと後白河天皇の腹心でした。
母の紀伊二位が後白河天皇の乳母だったことを利用して、信西も後白河天皇と非常に近いところにいたのです。
後白河天皇を即位に導いたのも信西でした。
信西は清盛とも親交がありました。
いわば当時の後白河天皇の趨勢を盤石なものにするための、中枢人物といえます。
儒学者だったのですが、激烈な政治改革者でもありました。
しかしその激烈さゆえに、後白河天皇の家臣から反信西派があらわれ、1160年、後白河天皇や清盛の隙をつくかたちで信西が攻撃され、無念の死を遂げます。
信西もまた入道とは名ばかりの、血の匂いの強い男でした。
1160年というと、崇徳院が讃岐に流されている最中です。
愛する帝は辺境の地に配流され、父は政変に巻き込まれて自害。
この時期の阿波内侍はまだ出家しておらず、俗世の中で居場所を失い、ただ呪わしい運命に翻弄されるほかありませんでした。
父は後白河天皇の側についていたとはいえ、なにが起こったのか細かいところまではわからない阿波内侍からすれば「見殺しにされた」と感じたのではないでしょうか。
そう考えると、崇徳院も気性の激しい人でした。
「瀬をはやみ 岩に急かるる滝川の 割れても末に 会わんとぞおもう」
急流の滝川が、岩にせき止められてふたつに割れる。しかしこの流れがまたひとつになるように、わたしたちもまた会えるだろう。
百人一首にもある、崇徳院の有名な歌です。
平安時代の和歌としては言葉が激しく、恋の歌と解釈しても激しいのですが、この歌にはもうひとつの意味がある、とされています。
それは後白河天皇との争いに敗れたあと、皇位を譲らざるを得なかったじぶんの立場に対して、また返り咲こうとする意志があるという意味です。
阿波内侍の立場に立てば、この歌は崇徳院がじぶんのことを歌にしてくれたのではないかとおもったことでしょうし、あるいは裏側の政治的な意味にも気づいていたかもしれません。
しかし崇徳院も京の地を再び踏むことなく崩御。
20年のときが経ちました。
人間、怒りの感情は長くもたないといいます。
一生恨んでいたい、怒っていたいという激情でさえ、いつの間にか琥珀のように結晶となって心の中に沈んでしまい、もはや血液を巡ってたぎらせることができなくなるものです。
出家した徳子の話を耳にしたとき、阿波内侍の心にあったのは深い虚無と、じぶんとおなじく世を捨てて生きざるを得ない徳子への同情だったのではないか。
そのころ徳子もまた、じぶんとよく似た境遇の、うらぶれた阿波内侍という尼僧が寂光院に住んでいるらしいことを知ります。
阿波内侍は山のものを売り歩きによく都に来ていて、寂光院までは都から歩いて一日もかからない距離だという。
徳子はそんな阿波内侍に強いシンパシーをおぼえ、わが身をそこへ預けようとおもったのかもしれません。
寂光院と長楽寺にいたふたりの情報がどのように交差したのか。
平家物語から類推するなら、女房のひとりがたまたま阿波内侍の身の上を知っていて、徳子へと情報が伝わった、と考えるのがよさそうですが、はっきりしたことはわかりません。
いずれにせよ、お互いの望むところだったからこそ、徳子は寂光院に入寺し、阿波内侍も徳子を受け入れました。
そして徳子が入寺すると建礼門院の立場を進んでゆずり、徳子の従者となったのです。
もし阿波内侍が、「崇徳院に仇をなした一族を受け入れるなど、できようものか」といった黒い魂にとらわれ続けていたら、徳子の入寺はあり得なかったでしょう。
阿波内侍にとっても、徳子の入寺は恩讐を越えてかなえられたことだったのだとおもいます。
しかし徳子にとっては、まさかここまで暮らすのがたいへんな場所だとは、おもいもよらなかったことでしょう。
阿波内侍もまた、徳子に建礼門院を譲ったからといって、奉るようなことはせず、厳しい生活の修行をともにこなすようになったのです。
ところで「灌頂の巻」で、後白河法皇が大原へ御幸したとき、法皇が寂光院で最初に出会ったのが、阿波内侍でした。
ここからは平家物語に阿波内侍が登場するくだりを抜粋して翻訳していきます。
法皇は寂光院のみすぼらしい有様におどろきました。
節だった竹を柱にした庵室の軒には蔓草が這っていて、周囲にも雑草がはびこっています。
屋根を葺く杉皮も薄く、夜には月の光が差し込み、雨漏りも激しいだろうことは容易に想像がつきました。
あたりはサルの鳴き声や、木こりが薪を切る斧の音、風が吹けば笹の葉擦れの音が聞こえるばかり。
法皇が「人はおらんか」と呼びかけましたが、なんの返事もありません。
ずいぶん経って、老い衰えた女性があらわれました。
「女院(徳子)はいずこにおられるのか」
と法皇がたずねると、老女は「山の上で花を摘んでおられます」と答えました。
法皇が「いくら世を捨てたとはいえ中宮であったのだぞ。代わりにやってくれる者もおらぬというのか。おいたわしい」と嘆くと、老女が答えました。
「仏道の戒めによるご果報が尽きてしまわれたから、いまこのような御目にあわれているのでございます。身を捨てての行なのですから、なぜその身を惜しむことがありましょう。
因果経に書かれているように、過去の原因を知りたければ、現在の結果をみなければなりません。未来に起こることの結果を知るためには、現在の原因を探らねばなりません。過去、未来の原因と結果によって起こっていること(訂正:現在)なのだから、嘆くべきことではないのです。
悉達太子(仏陀)も艱難辛苦の苦行を経て、最後に悟りを得られました」
老女は布切れを結び合わせた衣服ともいえぬものを着ているような有様で、それがこのような説法を説くものだから、不思議におもった法皇は、
「そもそもなんじは何者なのか」と問いました。
すると老尼は堰を切ったようにさめざめと泣き始めました。
いったん泣きはじめるとしばらくは法皇の問いかけにも答えられません。
ようやく涙を抑えて話し始めました。
「わたしは亡き少納言、入道信西の娘、阿波内侍と申す者でございます。母は紀伊の二位。かつてあれほどお世話になりましたというのに、お忘れになられるとは、わが身もそれだけ老いたのでしょう」
法皇はおどろきました。
「まさかなんじは、あの信西の娘だったのか。もうすっかりおもい出せずにいたが、夢でもみているようだ」
法皇のお供の者たちも「なるほど不思議な尼だとはおもっていたが、そういうことなら合点がいく」と口々に言い合いました。
その後、花摘みから帰ってきた徳子が法皇の御幸を知り、動揺します。
「いくら世を捨てた身とはいえ、このような姿は見られたくない。消えてなくなりたい」といって途方に暮れて泣いているところへ、阿波内侍がやってきて、言いました。
「なにを恥ずかしがることがありましょう。さっさと御対面なさって、帰ってもらえばよいのです」
徳子は、
「御念仏を一度唱えれば、阿弥陀さまの光明がさすことを期待しておりました。
十度御念仏を唱えれば、菩薩さま方に御来迎いただけるものとおもっておりました。
なのにまさかあのお方が御幸なさるとはおもってもおりませなんだ」
と嘆きながら、泣く泣く法皇の待つ庵室へ向かったといいます。
その後、徳子が地獄の六道の話をし、法皇とともに泣き暮れたことはすでに述べました。
これまで話したことを踏まえて平家物語での阿波内侍の言動を考えると、法皇への複雑な心境が、あの堰を切ったような涙にあらわれているし、徳子への厳しい態度の中にも、一種のやさしさがあることがわかります。
ところで、この時代の宮中の人が標準語をつかっていたはずはありません。
実際のところを想像して、言葉を変えてみました。
「もうそない恥ずかしいいわんと、とっとと会って、さっさと帰ってもらいよし」
と、阿波内侍が法皇のいる庵室をちらちら向きながら小声でいまいましげに言うと、おろおろと涙を浮かべてうろたえる徳子がつぶやきました。
「いっしょうけんめいお経を唱えてたらふつうは仏さまが来るもんとちゃいますか。やのに来てほしくもないあの人が来はるんやさかい、わけがわからしまへん」
ほんとうは阿波内侍と徳子の間で、こんなユーモラスな一場面があったのかもしれません。
余談ですが、徳子の夫、高倉天皇が危篤になったとき、清盛の寿命もわずかでした。
しかし清盛の権力欲は最後まで衰えることがありません。
あろうことか高倉天皇が崩御するようなことがあれば、徳子を後白河法皇のもとに入内させようと提案したのです。
後白河法皇を幽閉した隙に安徳天皇を即位させた清盛でしたが、高倉天皇がいなくなると手詰まりでした。
平家と皇室の直接の縁がなくなり、安徳天皇の天皇としての正当性が揺らいでしまうからです。
そこで清盛は徳子を利用して、後白河院の後妻にして、天皇家とのつながりを維持しようとしたわけです。
しかしさすがにその無理筋の政略はあらゆる方面から避難(誤字:非難)を浴びました。
後白河法皇もこの提案を辞退。
徳子さえこれを断固として拒否しました。なんとじぶんの髪を切ってまで抵抗の意志を示したのです。
もちろんこの話はなかったことになりましたが、高倉天皇の崩御から2か月で清盛も死去し、平家は栄華の頂点から滅亡の坂を転げ落ちることになりました。
つまり徳子と法皇は、いわば互いに縁談を断り合った複雑な間柄でもあったのです。
話をもとに戻します。
阿波内侍が法皇に因果経を説いたくだりには、法皇への批判が含まれていました。
法皇は出家とは名ばかりで、血に汚れた政治権力を振りかざし、なにをするにも下々に任せている。
それに比べて徳子はいまや、みずからの運命を乗り越えて悟りを得るために、因果をよく見極めて苦行に励んでいるのだ、と。
法皇はその言外に匂わせた批判めいた口調の厳しさに面食らって「そもそもなんじはだれなのだ」と問わずにいられなかったのでしょう。
寂光院にたどり着いた法皇の呼びかけにだれも応じなかったときも、阿波内侍は遠くから仰々しい行列をみて、法皇がやってきたことを察したのかもしれません。
徳子が入寺した以上、そういうことも起こりうるかもしれない、と阿波内侍は内心おもっていたはずです。
そしていざ法皇の姿を認めると、ゆっくり時間をかけてじぶんの人生を振り返り、息をととのえ、グッと腹を決めて、ようやく法皇の前に向かいました。
しかしたいへんな感情の高ぶりをおぼえながら法皇に対峙したのに、その存在がすっかり忘れ去られていたことに、おもわずこらえきれずに涙があふれる。
あのシーンはそのように読み解けるとおもいます。
徳子が病を得て身まかろうというとき、数人の従者とともに阿波内侍もその最期を看取ったといいます。
徳子の死の時期には諸説あり、長生きしたという説もあるのですが、もしそうなら阿波内侍が徳子に看取られていたかもしれません。
しかしもし平家物語のとおり37歳で入寂したとすれば、阿波内侍はどのような心境で徳子を看取ったのか。
考えてはみたのですが、わかりませんでした。察することが許されない領域のようにおもえたのです。
さて、徳子が寂光院に入寺するきっかけはなんだったのか、ということから、今回は平家物語の行間を読むかたちで、かなり創作に近い内容になりました。
もともと後半は3000文字程度でおさまっていたんですが、推敲して書き足していくうちにえらく長くなってしまいました。すみません(笑)
今回はこれでおしまいです。
どうやら阿波内侍はずいぶん激しい気性の人だったようです。
史実と平家物語の行間を読むようにして推察していくと、どうも感情の振れ幅が大きな人だったとおもわずにいられません。
そしてそんな阿波内侍の性格は父譲りだろうとおもいます。
阿波内侍の父、信西はもともと後白河天皇の腹心でした。
母の紀伊二位が後白河天皇の乳母だったことを利用して、信西も後白河天皇と非常に近いところにいたのです。
後白河天皇を即位に導いたのも信西でした。
信西は清盛とも親交がありました。
いわば当時の後白河天皇の趨勢を盤石なものにするための、中枢人物といえます。
儒学者だったのですが、激烈な政治改革者でもありました。
しかしその激烈さゆえに、後白河天皇の家臣から反信西派があらわれ、1160年、後白河天皇や清盛の隙をつくかたちで信西が攻撃され、無念の死を遂げます。
信西もまた入道とは名ばかりの、血の匂いの強い男でした。
1160年というと、崇徳院が讃岐に流されている最中です。
愛する帝は辺境の地に配流され、父は政変に巻き込まれて自害。
この時期の阿波内侍はまだ出家しておらず、俗世の中で居場所を失い、ただ呪わしい運命に翻弄されるほかありませんでした。
父は後白河天皇の側についていたとはいえ、なにが起こったのか細かいところまではわからない阿波内侍からすれば「見殺しにされた」と感じたのではないでしょうか。
そう考えると、崇徳院も気性の激しい人でした。
「瀬をはやみ 岩に急かるる滝川の 割れても末に 会わんとぞおもう」
急流の滝川が、岩にせき止められてふたつに割れる。しかしこの流れがまたひとつになるように、わたしたちもまた会えるだろう。
百人一首にもある、崇徳院の有名な歌です。
平安時代の和歌としては言葉が激しく、恋の歌と解釈しても激しいのですが、この歌にはもうひとつの意味がある、とされています。
それは後白河天皇との争いに敗れたあと、皇位を譲らざるを得なかったじぶんの立場に対して、また返り咲こうとする意志があるという意味です。
阿波内侍の立場に立てば、この歌は崇徳院がじぶんのことを歌にしてくれたのではないかとおもったことでしょうし、あるいは裏側の政治的な意味にも気づいていたかもしれません。
しかし崇徳院も京の地を再び踏むことなく崩御。
20年のときが経ちました。
人間、怒りの感情は長くもたないといいます。
一生恨んでいたい、怒っていたいという激情でさえ、いつの間にか琥珀のように結晶となって心の中に沈んでしまい、もはや血液を巡ってたぎらせることができなくなるものです。
出家した徳子の話を耳にしたとき、阿波内侍の心にあったのは深い虚無と、じぶんとおなじく世を捨てて生きざるを得ない徳子への同情だったのではないか。
そのころ徳子もまた、じぶんとよく似た境遇の、うらぶれた阿波内侍という尼僧が寂光院に住んでいるらしいことを知ります。
阿波内侍は山のものを売り歩きによく都に来ていて、寂光院までは都から歩いて一日もかからない距離だという。
徳子はそんな阿波内侍に強いシンパシーをおぼえ、わが身をそこへ預けようとおもったのかもしれません。
寂光院と長楽寺にいたふたりの情報がどのように交差したのか。
平家物語から類推するなら、女房のひとりがたまたま阿波内侍の身の上を知っていて、徳子へと情報が伝わった、と考えるのがよさそうですが、はっきりしたことはわかりません。
いずれにせよ、お互いの望むところだったからこそ、徳子は寂光院に入寺し、阿波内侍も徳子を受け入れました。
そして徳子が入寺すると建礼門院の立場を進んでゆずり、徳子の従者となったのです。
もし阿波内侍が、「崇徳院に仇をなした一族を受け入れるなど、できようものか」といった黒い魂にとらわれ続けていたら、徳子の入寺はあり得なかったでしょう。
阿波内侍にとっても、徳子の入寺は恩讐を越えてかなえられたことだったのだとおもいます。
しかし徳子にとっては、まさかここまで暮らすのがたいへんな場所だとは、おもいもよらなかったことでしょう。
阿波内侍もまた、徳子に建礼門院を譲ったからといって、奉るようなことはせず、厳しい生活の修行をともにこなすようになったのです。
ところで「灌頂の巻」で、後白河法皇が大原へ御幸したとき、法皇が寂光院で最初に出会ったのが、阿波内侍でした。
ここからは平家物語に阿波内侍が登場するくだりを抜粋して翻訳していきます。
法皇は寂光院のみすぼらしい有様におどろきました。
節だった竹を柱にした庵室の軒には蔓草が這っていて、周囲にも雑草がはびこっています。
屋根を葺く杉皮も薄く、夜には月の光が差し込み、雨漏りも激しいだろうことは容易に想像がつきました。
あたりはサルの鳴き声や、木こりが薪を切る斧の音、風が吹けば笹の葉擦れの音が聞こえるばかり。
法皇が「人はおらんか」と呼びかけましたが、なんの返事もありません。
ずいぶん経って、老い衰えた女性があらわれました。
「女院(徳子)はいずこにおられるのか」
と法皇がたずねると、老女は「山の上で花を摘んでおられます」と答えました。
法皇が「いくら世を捨てたとはいえ中宮であったのだぞ。代わりにやってくれる者もおらぬというのか。おいたわしい」と嘆くと、老女が答えました。
「仏道の戒めによるご果報が尽きてしまわれたから、いまこのような御目にあわれているのでございます。身を捨てての行なのですから、なぜその身を惜しむことがありましょう。
因果経に書かれているように、過去の原因を知りたければ、現在の結果をみなければなりません。未来に起こることの結果を知るためには、現在の原因を探らねばなりません。過去、未来の原因と結果によって起こっている
悉達太子(仏陀)も艱難辛苦の苦行を経て、最後に悟りを得られました」
老女は布切れを結び合わせた衣服ともいえぬものを着ているような有様で、それがこのような説法を説くものだから、不思議におもった法皇は、
「そもそもなんじは何者なのか」と問いました。
すると老尼は堰を切ったようにさめざめと泣き始めました。
いったん泣きはじめるとしばらくは法皇の問いかけにも答えられません。
ようやく涙を抑えて話し始めました。
「わたしは亡き少納言、入道信西の娘、阿波内侍と申す者でございます。母は紀伊の二位。かつてあれほどお世話になりましたというのに、お忘れになられるとは、わが身もそれだけ老いたのでしょう」
法皇はおどろきました。
「まさかなんじは、あの信西の娘だったのか。もうすっかりおもい出せずにいたが、夢でもみているようだ」
法皇のお供の者たちも「なるほど不思議な尼だとはおもっていたが、そういうことなら合点がいく」と口々に言い合いました。
その後、花摘みから帰ってきた徳子が法皇の御幸を知り、動揺します。
「いくら世を捨てた身とはいえ、このような姿は見られたくない。消えてなくなりたい」といって途方に暮れて泣いているところへ、阿波内侍がやってきて、言いました。
「なにを恥ずかしがることがありましょう。さっさと御対面なさって、帰ってもらえばよいのです」
徳子は、
「御念仏を一度唱えれば、阿弥陀さまの光明がさすことを期待しておりました。
十度御念仏を唱えれば、菩薩さま方に御来迎いただけるものとおもっておりました。
なのにまさかあのお方が御幸なさるとはおもってもおりませなんだ」
と嘆きながら、泣く泣く法皇の待つ庵室へ向かったといいます。
その後、徳子が地獄の六道の話をし、法皇とともに泣き暮れたことはすでに述べました。
これまで話したことを踏まえて平家物語での阿波内侍の言動を考えると、法皇への複雑な心境が、あの堰を切ったような涙にあらわれているし、徳子への厳しい態度の中にも、一種のやさしさがあることがわかります。
ところで、この時代の宮中の人が標準語をつかっていたはずはありません。
実際のところを想像して、言葉を変えてみました。
「もうそない恥ずかしいいわんと、とっとと会って、さっさと帰ってもらいよし」
と、阿波内侍が法皇のいる庵室をちらちら向きながら小声でいまいましげに言うと、おろおろと涙を浮かべてうろたえる徳子がつぶやきました。
「いっしょうけんめいお経を唱えてたらふつうは仏さまが来るもんとちゃいますか。やのに来てほしくもないあの人が来はるんやさかい、わけがわからしまへん」
ほんとうは阿波内侍と徳子の間で、こんなユーモラスな一場面があったのかもしれません。
余談ですが、徳子の夫、高倉天皇が危篤になったとき、清盛の寿命もわずかでした。
しかし清盛の権力欲は最後まで衰えることがありません。
あろうことか高倉天皇が崩御するようなことがあれば、徳子を後白河法皇のもとに入内させようと提案したのです。
後白河法皇を幽閉した隙に安徳天皇を即位させた清盛でしたが、高倉天皇がいなくなると手詰まりでした。
平家と皇室の直接の縁がなくなり、安徳天皇の天皇としての正当性が揺らいでしまうからです。
そこで清盛は徳子を利用して、後白河院の後妻にして、天皇家とのつながりを維持しようとしたわけです。
しかしさすがにその無理筋の政略はあらゆる方面から
後白河法皇もこの提案を辞退。
徳子さえこれを断固として拒否しました。なんとじぶんの髪を切ってまで抵抗の意志を示したのです。
もちろんこの話はなかったことになりましたが、高倉天皇の崩御から2か月で清盛も死去し、平家は栄華の頂点から滅亡の坂を転げ落ちることになりました。
つまり徳子と法皇は、いわば互いに縁談を断り合った複雑な間柄でもあったのです。
話をもとに戻します。
阿波内侍が法皇に因果経を説いたくだりには、法皇への批判が含まれていました。
法皇は出家とは名ばかりで、血に汚れた政治権力を振りかざし、なにをするにも下々に任せている。
それに比べて徳子はいまや、みずからの運命を乗り越えて悟りを得るために、因果をよく見極めて苦行に励んでいるのだ、と。
法皇はその言外に匂わせた批判めいた口調の厳しさに面食らって「そもそもなんじはだれなのだ」と問わずにいられなかったのでしょう。
寂光院にたどり着いた法皇の呼びかけにだれも応じなかったときも、阿波内侍は遠くから仰々しい行列をみて、法皇がやってきたことを察したのかもしれません。
徳子が入寺した以上、そういうことも起こりうるかもしれない、と阿波内侍は内心おもっていたはずです。
そしていざ法皇の姿を認めると、ゆっくり時間をかけてじぶんの人生を振り返り、息をととのえ、グッと腹を決めて、ようやく法皇の前に向かいました。
しかしたいへんな感情の高ぶりをおぼえながら法皇に対峙したのに、その存在がすっかり忘れ去られていたことに、おもわずこらえきれずに涙があふれる。
あのシーンはそのように読み解けるとおもいます。
徳子が病を得て身まかろうというとき、数人の従者とともに阿波内侍もその最期を看取ったといいます。
徳子の死の時期には諸説あり、長生きしたという説もあるのですが、もしそうなら阿波内侍が徳子に看取られていたかもしれません。
しかしもし平家物語のとおり37歳で入寂したとすれば、阿波内侍はどのような心境で徳子を看取ったのか。
考えてはみたのですが、わかりませんでした。察することが許されない領域のようにおもえたのです。
さて、徳子が寂光院に入寺するきっかけはなんだったのか、ということから、今回は平家物語の行間を読むかたちで、かなり創作に近い内容になりました。
もともと後半は3000文字程度でおさまっていたんですが、推敲して書き足していくうちにえらく長くなってしまいました。すみません(笑)
今回はこれでおしまいです。
2024年12月17日 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する
まず最初に前回のご投稿への返信で、指のケガですが、フードプロセッサーの刃は、最初は日本刀のように研がれていて、スッと触れただけで触れたぶん切れてしまうくらいですね。
ぼくも以前ケガをして、その経験を伝えたはずの母もきちんとケガをしていました(笑)
洗いにくい形状をしていますし、みんな通る道なのかもしれません。
指が治るまではギターの演奏は、ピックで行うのでなければ、しばらく安静になさるのがよいとおもいます。
どうかお大事になさってください。
さて、ギズモさんにいただいたお返事の中に、徳子が寂光院に住んだことにだれかの意図があったのかとありました。
ぼくも気になって、調べながら書いているうちに、前回の話のスピンオフというか、あまり一般的に語られていない不思議な物語があることに気づきました。
今回はちょっとこの話をさせていただこうとおもいます。
なんとなくこの解釈は短編歴史小説になりそうな感じです。
いろいろとお返事を飛ばしてしまって申し訳ないんですが、しばらくお付き合いください。
壇ノ浦で捕虜となった徳子は、その後放免されます。
徳子は御所から2kmほど南東の、八坂神社のすぐ近くにある長楽寺で出家しました。
時系列でいうと、1185年3月に壇ノ浦の合戦があります。時期をみて気づきましたが、幼い安徳天皇は3月の冷たい海に入水したんですね。
5月に徳子が長楽寺で出家。このときには直如覚(尼)という名前を授かります。
7月に文治地震が起こり、京の都は大災害をこうむりました。
その2か月後の9月に、寂光院へ移り住み、三代目の建礼門院となります。
では、なぜ徳子はわざわざ都から離れた寂光院に移り住んだのか。
平家物語では、京の都の外れの粗末な寺も地震で崩れ、むかしの知り合いの貴族がたまに訪れてくるのだけど、そういったこともどうにも物憂くなってきたようで、どこか静かなところで世を捨てて暮らしたいとおもったところへ、寂光院を勧める女房があったといいます。
あれだけの凄惨な死の現場を目の当たりにして、みずからも死の寸前まで行きついたわけですから、現代でいえばPTSDのような症状が出ていた可能性もあり、そこに大地震が追い打ちをかけるわけです。
なにもかも物憂く、やる気になれなかったのは事実だとおもいます。
しかし個人的には「静かに念仏をとなえて暮らしたい」という動機だけで寂光院を選んだのは矛盾があるとおもうのです。
というのも、地震があったからといって、なんのゆかりもなく、いよいよ辺鄙な寂光院へ「行ってみよう」とおもう動機がないでしょう。
行くにしても、もう少し多角的な情報がないとさすがに踏み切れないはずで、内見もせずに家を買うような決断をするとはおもえません。
しかも寂光院に行った徳子は、「どうしてこんな山奥で……」といってわが身の上を嘆き、寂光院のふもとの清水で、月明かりにじぶんのやつれた顔を映したり、都を恋しがって昔を懐かしんだり、どうにもやるせない心情が隠し切れない様子です。
ほんとうに念仏を唱えて世を捨てて生きていたいと願ったのなら、もうすこし腹が決まっていてもよさそうなものです。
いろんなところでおもうままにならないしがらみがあって、それでもなんらかのご縁があったから、意を決して大原の深山に居を移そうとおもったのではないでしょうか。
その線で考えると、いちばん気になるのは、阿波内侍との関係性です。
阿波内侍は寂光院の二代目の住持(建礼門院)なんですが、徳子が寂光院に入寺すると三代目の建礼門院を譲って、徳子の従者となりました。
今回は、この阿波内侍の物語を、2回にわけてさせていただこうとおもいます。
阿波内侍についてはあまりしっかりした情報がありません。
もとは藤原家の出で、父の名は藤原通憲。のちに出家して信西となります。
母は紀伊二位といって、後白河天皇の乳母でもありました。
阿波内侍は朝廷で崇徳院の寵愛を受けていた女房です。
しかし1156年。
崇徳院は後白河天皇(当時はまだ天皇です)の謀略(保元の乱)によって排除され、讃岐に島流しにされました。
阿波内侍はこのとき、崇徳院には付いていかず、京に残っています。
保元の乱から8年後の1164年、崇徳院が讃岐に流されたまま崩御すると阿波内侍は出家し、1166年に寂光院に入寺しました。
寂光院は聖徳太子が建立したといいます。
初代の建礼門院は、聖徳太子の乳母であった玉照姫と伝わります。
しかしその後記録がなく、二代目の建礼門院が阿波内侍というのです。
記録がないというのは、おそらくお寺が作られて、縁起が定められてからは、明確な管理者がない時期が長かったのだろうとおもいます。
つまり、荒れ寺だったんでしょう。
それくらい、寂光院周辺は暮らすには厳しい辺鄙なところでした。
特に、尼寺として女性が暮らすには、厳しすぎるほど厳しい場所だとおもいます。
地元の人が細々と場所の維持はしていたけど、住持が勤めてくれることさえないような時代が続いていたのではないでしょうか。
時期は定かではありませんが、崇徳院が崩御したのち、阿波内侍はいまの八坂神社近くにある(訂正:安井金毘羅宮周辺にあった)じぶんの邸宅を「願勝寺」として、菩提をとむらったそうです。
そして阿波内侍が寂光院に入寺して3年ほど経ったとき、彼女は京都の願勝寺を、母の生国である阿波(徳島県)の維摩寺に移し、名前をそのまま「願勝寺」に改めるように請願したそうです。
いまも四国八十八箇所霊場のひとつとして徳島県美馬市に願勝寺が残っています。
しかし「願勝寺」とはどういうことでしょうか。
なにに勝ちたいと願ったのでしょう。
これはやはり、後白河天皇の一派に一矢報いたい、このまま崇徳院の無念を晴らさずに終わってなるものか、という強い願いが込められていたと考えるのが自然です。
崇徳院と後白河天皇が争っていたとき、後白河天皇側についていた武将は平清盛でした。
阿波内侍は後白河天皇のみならず、清盛のことも憎んでいたことでしょう。
もっといえば、なぜ願勝寺を京都から阿波へ移さねばならなかったのか。
これは憶測ではありますが、京の都で阿波内侍が寺の名を「願勝寺」にしたことを、勘ぐる人もいたのかもしれません。
敗軍の崇徳院の勝ちを願っているのではないか、という声が上がり、寺名を変えざるを得なくなり、せめて母の生国である阿波に願勝寺の名を移した、とぼくは考えます。
阿波内侍の恨みの強さが伝わってくるようです。
大原から京の都まで、薪や柴、山の幸を頭に乗せて物売りに出歩く大原女の装いは、阿波内侍からきています。
おそらく阿波内侍も、京都市内まで生活に必要なモノを求めてでかけていたことでしょう。
物売りのついでに朝廷のいろいろな噂も仕入れていたにちがいありません。
そしてその際の関心ごとは、後白河天皇の一派がいったいどうなったか、ということだったはずです。
寵愛を受けた崇徳院が讃岐の地で無念の崩御に至ったというのに、後白河天皇や清盛がのうのうと朝廷でのさばっている。
その恨みをだれかに明確に伝えるということはしなかったかもしれませんが、生涯、言葉にできぬおもいを抱えていたことはまちがいないでしょう。
阿波内侍の恨みが届いた……というわけではないでしょうが、後白河天皇は昵懇であったはずの清盛と反目し合うようになりました。
その間、清盛も後白河天皇も出家しました。
互いにひどく血なまぐさい入道でした。
法皇は清盛の暗殺を企て、清盛はそれに気づくと関与していた一味を粛正、法皇を幽閉したりと(鹿ケ谷の陰謀)、法皇と清盛の対立は熾烈を極めるようになります。
そして清盛が死ぬと、法皇は源氏と手を組んで、残った平家を滅亡に追い込みました。
この壇ノ浦の合戦で、安徳天皇の母徳子がたまたま救い出され、長楽寺に入寺したそうな……。
阿波内侍はそのような話を、都へ行くうちに人々やお寺のネットワークから、かなり早い段階で知っていたのではないでしょうか。
徳子が落魄して出家したとき、阿波内侍が寂光院に入寺してはや20年が経っていました。
老境に入った阿波内侍が徳子の境遇を知ったとき、まるで若いときのじぶんのようだとおもったことでしょう。
徳子は高倉天皇を早くに喪い、平家の没落をどうすることもできず、朝廷で居場所を失った女御の定めとして、おもうに任せぬ運命を恨みながら生きていかねばならないのだ。
阿波内侍はこの20年の間、法皇や清盛への恨みつらみが昇華することはなかったけれど、両者の醜い争いや、清盛の死、平家の滅亡を伝え聞いているうちに、なにもかもがむなしくなっていました。
(続く)
ぼくも以前ケガをして、その経験を伝えたはずの母もきちんとケガをしていました(笑)
洗いにくい形状をしていますし、みんな通る道なのかもしれません。
指が治るまではギターの演奏は、ピックで行うのでなければ、しばらく安静になさるのがよいとおもいます。
どうかお大事になさってください。
さて、ギズモさんにいただいたお返事の中に、徳子が寂光院に住んだことにだれかの意図があったのかとありました。
ぼくも気になって、調べながら書いているうちに、前回の話のスピンオフというか、あまり一般的に語られていない不思議な物語があることに気づきました。
今回はちょっとこの話をさせていただこうとおもいます。
なんとなくこの解釈は短編歴史小説になりそうな感じです。
いろいろとお返事を飛ばしてしまって申し訳ないんですが、しばらくお付き合いください。
壇ノ浦で捕虜となった徳子は、その後放免されます。
徳子は御所から2kmほど南東の、八坂神社のすぐ近くにある長楽寺で出家しました。
時系列でいうと、1185年3月に壇ノ浦の合戦があります。時期をみて気づきましたが、幼い安徳天皇は3月の冷たい海に入水したんですね。
5月に徳子が長楽寺で出家。このときには直如覚(尼)という名前を授かります。
7月に文治地震が起こり、京の都は大災害をこうむりました。
その2か月後の9月に、寂光院へ移り住み、三代目の建礼門院となります。
では、なぜ徳子はわざわざ都から離れた寂光院に移り住んだのか。
平家物語では、京の都の外れの粗末な寺も地震で崩れ、むかしの知り合いの貴族がたまに訪れてくるのだけど、そういったこともどうにも物憂くなってきたようで、どこか静かなところで世を捨てて暮らしたいとおもったところへ、寂光院を勧める女房があったといいます。
あれだけの凄惨な死の現場を目の当たりにして、みずからも死の寸前まで行きついたわけですから、現代でいえばPTSDのような症状が出ていた可能性もあり、そこに大地震が追い打ちをかけるわけです。
なにもかも物憂く、やる気になれなかったのは事実だとおもいます。
しかし個人的には「静かに念仏をとなえて暮らしたい」という動機だけで寂光院を選んだのは矛盾があるとおもうのです。
というのも、地震があったからといって、なんのゆかりもなく、いよいよ辺鄙な寂光院へ「行ってみよう」とおもう動機がないでしょう。
行くにしても、もう少し多角的な情報がないとさすがに踏み切れないはずで、内見もせずに家を買うような決断をするとはおもえません。
しかも寂光院に行った徳子は、「どうしてこんな山奥で……」といってわが身の上を嘆き、寂光院のふもとの清水で、月明かりにじぶんのやつれた顔を映したり、都を恋しがって昔を懐かしんだり、どうにもやるせない心情が隠し切れない様子です。
ほんとうに念仏を唱えて世を捨てて生きていたいと願ったのなら、もうすこし腹が決まっていてもよさそうなものです。
いろんなところでおもうままにならないしがらみがあって、それでもなんらかのご縁があったから、意を決して大原の深山に居を移そうとおもったのではないでしょうか。
その線で考えると、いちばん気になるのは、阿波内侍との関係性です。
阿波内侍は寂光院の二代目の住持(建礼門院)なんですが、徳子が寂光院に入寺すると三代目の建礼門院を譲って、徳子の従者となりました。
今回は、この阿波内侍の物語を、2回にわけてさせていただこうとおもいます。
阿波内侍についてはあまりしっかりした情報がありません。
もとは藤原家の出で、父の名は藤原通憲。のちに出家して信西となります。
母は紀伊二位といって、後白河天皇の乳母でもありました。
阿波内侍は朝廷で崇徳院の寵愛を受けていた女房です。
しかし1156年。
崇徳院は後白河天皇(当時はまだ天皇です)の謀略(保元の乱)によって排除され、讃岐に島流しにされました。
阿波内侍はこのとき、崇徳院には付いていかず、京に残っています。
保元の乱から8年後の1164年、崇徳院が讃岐に流されたまま崩御すると阿波内侍は出家し、1166年に寂光院に入寺しました。
寂光院は聖徳太子が建立したといいます。
初代の建礼門院は、聖徳太子の乳母であった玉照姫と伝わります。
しかしその後記録がなく、二代目の建礼門院が阿波内侍というのです。
記録がないというのは、おそらくお寺が作られて、縁起が定められてからは、明確な管理者がない時期が長かったのだろうとおもいます。
つまり、荒れ寺だったんでしょう。
それくらい、寂光院周辺は暮らすには厳しい辺鄙なところでした。
特に、尼寺として女性が暮らすには、厳しすぎるほど厳しい場所だとおもいます。
地元の人が細々と場所の維持はしていたけど、住持が勤めてくれることさえないような時代が続いていたのではないでしょうか。
時期は定かではありませんが、崇徳院が崩御したのち、阿波内侍はいまの
そして阿波内侍が寂光院に入寺して3年ほど経ったとき、彼女は京都の願勝寺を、母の生国である阿波(徳島県)の維摩寺に移し、名前をそのまま「願勝寺」に改めるように請願したそうです。
いまも四国八十八箇所霊場のひとつとして徳島県美馬市に願勝寺が残っています。
しかし「願勝寺」とはどういうことでしょうか。
なにに勝ちたいと願ったのでしょう。
これはやはり、後白河天皇の一派に一矢報いたい、このまま崇徳院の無念を晴らさずに終わってなるものか、という強い願いが込められていたと考えるのが自然です。
崇徳院と後白河天皇が争っていたとき、後白河天皇側についていた武将は平清盛でした。
阿波内侍は後白河天皇のみならず、清盛のことも憎んでいたことでしょう。
もっといえば、なぜ願勝寺を京都から阿波へ移さねばならなかったのか。
これは憶測ではありますが、京の都で阿波内侍が寺の名を「願勝寺」にしたことを、勘ぐる人もいたのかもしれません。
敗軍の崇徳院の勝ちを願っているのではないか、という声が上がり、寺名を変えざるを得なくなり、せめて母の生国である阿波に願勝寺の名を移した、とぼくは考えます。
阿波内侍の恨みの強さが伝わってくるようです。
大原から京の都まで、薪や柴、山の幸を頭に乗せて物売りに出歩く大原女の装いは、阿波内侍からきています。
おそらく阿波内侍も、京都市内まで生活に必要なモノを求めてでかけていたことでしょう。
物売りのついでに朝廷のいろいろな噂も仕入れていたにちがいありません。
そしてその際の関心ごとは、後白河天皇の一派がいったいどうなったか、ということだったはずです。
寵愛を受けた崇徳院が讃岐の地で無念の崩御に至ったというのに、後白河天皇や清盛がのうのうと朝廷でのさばっている。
その恨みをだれかに明確に伝えるということはしなかったかもしれませんが、生涯、言葉にできぬおもいを抱えていたことはまちがいないでしょう。
阿波内侍の恨みが届いた……というわけではないでしょうが、後白河天皇は昵懇であったはずの清盛と反目し合うようになりました。
その間、清盛も後白河天皇も出家しました。
互いにひどく血なまぐさい入道でした。
法皇は清盛の暗殺を企て、清盛はそれに気づくと関与していた一味を粛正、法皇を幽閉したりと(鹿ケ谷の陰謀)、法皇と清盛の対立は熾烈を極めるようになります。
そして清盛が死ぬと、法皇は源氏と手を組んで、残った平家を滅亡に追い込みました。
この壇ノ浦の合戦で、安徳天皇の母徳子がたまたま救い出され、長楽寺に入寺したそうな……。
阿波内侍はそのような話を、都へ行くうちに人々やお寺のネットワークから、かなり早い段階で知っていたのではないでしょうか。
徳子が落魄して出家したとき、阿波内侍が寂光院に入寺してはや20年が経っていました。
老境に入った阿波内侍が徳子の境遇を知ったとき、まるで若いときのじぶんのようだとおもったことでしょう。
徳子は高倉天皇を早くに喪い、平家の没落をどうすることもできず、朝廷で居場所を失った女御の定めとして、おもうに任せぬ運命を恨みながら生きていかねばならないのだ。
阿波内侍はこの20年の間、法皇や清盛への恨みつらみが昇華することはなかったけれど、両者の醜い争いや、清盛の死、平家の滅亡を伝え聞いているうちに、なにもかもがむなしくなっていました。
(続く)
2024年12月16日 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する
速報で入ったので気になりましたが、何もなくてよかったです。
記事は、お気になさらず、農園主さんのペースでお願いいたします。
どんなお話か、楽しみにしております。
今朝の夢見がとても悪く、夢占いではよくないたぐいのものを、連続で3つほど見てしまいました(笑)
ニトリの、紐を引っ張っればみじん切りにできるという便利なものを、先日テレビで見たのですが、今ある電動より使いやすいと思い買いました。
それをお昼前に洗おうと思い、刃のついたパーツを出したとたん目の覚めるような激痛が!←刃を持ったはずはないのですが・・・。
右手の親指の腹から血がドクドクと!!
スッパリと切れました(笑)
夢占いは当たりました(;^_^A
切れ具合がわからないのですが、決して浅くはないのですぐに皮膚科に行きました。
縫うか縫わないかはどちらでも、というあいまいな診断だったので、よ~く考えましたが、土曜、日曜、来週早々に仕事とコンサートが続き、抜糸に行く時間が取れないし、縫った方がひびきそうだったので、抗生剤の軟膏を塗って包帯を巻くという、しごくシンプルな処置になりました。
ピアノは親指を斜めにすればなんとかなるとして、ギターが弾けません。
せっかく「500マイル」を入れたのに・・。と言っても、シンプルなコードのアルペジオだけで、まったくの素人です。
指のケガの連鎖、いつ終わるのでしょう(笑)
わたくしごとで失礼しました(o_ _)o))
堆肥まきでお疲れと思います。
ゆっくりお休みくださいね。
記事は、お気になさらず、農園主さんのペースでお願いいたします。
どんなお話か、楽しみにしております。
今朝の夢見がとても悪く、夢占いではよくないたぐいのものを、連続で3つほど見てしまいました(笑)
ニトリの、紐を引っ張っればみじん切りにできるという便利なものを、先日テレビで見たのですが、今ある電動より使いやすいと思い買いました。
それをお昼前に洗おうと思い、刃のついたパーツを出したとたん目の覚めるような激痛が!←刃を持ったはずはないのですが・・・。
右手の親指の腹から血がドクドクと!!
スッパリと切れました(笑)
夢占いは当たりました(;^_^A
切れ具合がわからないのですが、決して浅くはないのですぐに皮膚科に行きました。
縫うか縫わないかはどちらでも、というあいまいな診断だったので、よ~く考えましたが、土曜、日曜、来週早々に仕事とコンサートが続き、抜糸に行く時間が取れないし、縫った方がひびきそうだったので、抗生剤の軟膏を塗って包帯を巻くという、しごくシンプルな処置になりました。
ピアノは親指を斜めにすればなんとかなるとして、ギターが弾けません。
せっかく「500マイル」を入れたのに・・。と言っても、シンプルなコードのアルペジオだけで、まったくの素人です。
指のケガの連鎖、いつ終わるのでしょう(笑)
わたくしごとで失礼しました(o_ _)o))
堆肥まきでお疲れと思います。
ゆっくりお休みくださいね。
事故の件、大丈夫です。
お気遣い、ありがとうございます。
ふだんつかわない道路で、うちのあたりはサイレンの音はよく通って、遠いところからでも聞こえるんですが、今回はなにも聞こえませんでした。
成り行きできょうは朝から畑に牛糞堆肥が2トンも届いて、いつもの収穫作業を終えてから、ひたすら畑に堆肥をまいていました(笑)
ところで次の投稿なんですが、6000文字を越えそうなので、また2回に分けることになります💦
どうかご容赦ください。
お気遣い、ありがとうございます。
ふだんつかわない道路で、うちのあたりはサイレンの音はよく通って、遠いところからでも聞こえるんですが、今回はなにも聞こえませんでした。
成り行きできょうは朝から畑に牛糞堆肥が2トンも届いて、いつもの収穫作業を終えてから、ひたすら畑に堆肥をまいていました(笑)
ところで次の投稿なんですが、6000文字を越えそうなので、また2回に分けることになります💦
どうかご容赦ください。
今ニュースで、事故のことを放映していました。
直売所にいらっしゃる時に通る道かもしれないと思いましたが、巻き込まれませんでしたか?
直売所にいらっしゃる時に通る道かもしれないと思いましたが、巻き込まれませんでしたか?
2024年12月13日 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する
平家物語と寂光院へのご旅行のお話をありがとうございました。
国道で、そんな危険な道路があるんですね。
ネットで実際に百井別れ(「分かれ」ではないんですね)のあたりを走っている写真を見つけましたが、こう書かれていました。
帰りは別の道を通ったとのことで安心しましたが、同じ道を通らないと帰れないということだと、ぞっとします。
大根を洗っているおばあさんに道を尋ねたら、高野聖みたいに~というくだりは、農園主さんならではと、感服しました。
異界に引きずり込まれなくて本当によかったです(笑)
鞍馬寺には異界と通じている場所があると、以前noteで知り合った女性が言っていましたが、他でも、鞍馬のあたり一帯には天狗がいるという話もよく聞きます。
なんでも天狗はとてもいたずら好きで、気に入った人には有り得ないものを見せて喜ぶんだそうです。
例えば、山道ですれ違った人が一瞬でいなくなったとか、山中の神社でほんの1分ほど目をつぶってお参りしていたら、誰もいないのにさっきまでなかったお花が置いてあったとか。
そのおばあさんも、天狗のいたずらかもしれません(笑)
授与所の女性がおっしゃった、「仏様のお導き~」ということは、本当にあると、常々思っています。
寺社仏閣は、人と人とのつながりと同じで、ご縁だと感じます。
行きたいと思ったところは、「来なさい」と呼ばれているのかもしれません。
ここは行ってみたいな、とずっと思っていても、なぜか行くチャンスがないことも多いので、そこはたぶんご縁のないところなのかも、と思います。
摩訶不思議なことを言いますが(笑)、お寺や神社に行く時、なぜかあっさりと着かないことがとても多いです。かなりの確率でそうなります。
車の場合、ちゃんとナビを入れても、遠回りな道を指示されたり、だんだん細くなって車が通れなくなる道を当たり前のように案内され立ち往生したり、同じところをぐるぐる回ったり。
広い普通の道で行けるのに、くねくねカーブの多い山道を指示されることもずいぶんありました←ナビの「推奨」を選んでいるのに、ですよ( ̄▽ ̄;)
電車で徒歩の場合も、どこかで道に迷うんです(笑)
ネットなどの情報では、それは歓迎されている証拠。苦労して来なさい(かわいい子には旅をさせろ的な)、ということらしいですが、なかなかたどり着けないところほど、「ああ、ここ好き~」という神社やお寺なのもおもしろいです。
動画を拝見しましたが、建礼門院の大原西陵には鳥居があったので、不思議に思い調べたら、「出家していたため、鳥居の中に五輪塔という珍しい御陵」とありました。
寂光院は、徳子が望んで行ったわけではないのでしょうが、なぜそこ?という、場所ですね。
菩提を弔いながら生涯を過ごさなければならないのなら、もっと他のところでもよかったように思いますが、そこには誰かの思惑があったのでしょうか。
山々の景色は、現代とその頃とほとんど変わっていないであろうと考えると、徳子の思いのようなものが、今も残っているように感じました。
私は今まで、壇ノ浦の海で入水や自害をしたことについて、女や子供、一族郎党がみな後を追わねばならなかった、あるいは殺されるものだと思っていましたが、記事を拝読するとそうではなく、女子供は殺す必要がなかったのですね。
平家物語は、史実に基づいてはいてもフィクションが多いとのことですが、農園主さんが書いてくださった後白河法皇と徳子のくだりは、当時本当にあった会話のように思います。
武家と皇室の血で血を洗うような因縁の物語が「灌頂の巻」での二人の語り合いで浄化されてしまう、とお書きになっていらっしゃいますが、確かにこの語り合いがなく徳子がひっそりと亡くなっては、徳子の汚名と孤独を背負いながらの生活が、ひたすら悲しくつらいものになってしまったかと思えます。
徳子は後白河法皇の姪にあたるとのことですが、甥、姪というものは、我が子同様に、無条件でかわいいもののはずです。
しかも、徳子の夫は息子である高倉天皇。
安徳天皇への愛情も推して知るべしかと思います。
地獄の六道に例えた、というのも、徳子の経験したことの壮絶さを感じます。
それによって後白河法皇も、徳子の生き地獄のようなできごと、思いを、心から理解できたのではないでしょうか。
想像にすぎませんが、汚名もつらく悔しいことですが、目の前で我が子が沈んでいくのを見たという心の痛みは、一生消えなかったかと思います。
戦によって、男性はもちろん、多くの女子供が犠牲になってきたことをわかっていながら、何百年経っても争いを繰り返す人間の愚かさを痛感します。
平家物語について、実際に訪れた寂光院のお話と合わせて書いてくださり、ありがとうございました。
地図を添えてくださったことや、行く道のことまで書いてくださったことで、平家物語の時代、徳子の出家してからの暮らしぶりや様子に、思いを馳せることができました。
ご存じかとは思いますが、婦人病に悩む中将姫のために作られた秘薬の製法を、津村家(藤村家)が中将姫をかくまったお礼として教えられ、それをもとにツムラの創業者が中将湯を作ったそうですね。
私が子どものころ、おばさんたちはどこの家でも、中将湯か實母散を飲んでいました。
中将姫の時代の平均寿命は24歳だとか。
それを考えると、中将姫の婦人病というのは、恐らく更年期障害のようなものだったかと思います。
中将湯の成分で作られた薬湯(やくとう、でなく、くすりゆの方です)がバスクリンだそうです。
あのすごい緑色に薬効があるように思いますが、普通のバスクリンの成分に生薬は入っていないんです。
一方、「バスクリンのくすり湯 バスハーブ」はほとんどが生薬です。
割高ですが、冬場の皮膚のかゆみに効果があるし温まるので、ここ数年、チビチビと、少なめに入れて使っています(笑)←宣伝ではありません(笑)
沸かし直しのお湯は金属的な原因があると思いますが、薪もアレルギーがあるんですね。
(書き足し:薪のアレルギーではなく、薪で沸かすことで起きるアレルギーということですね。失礼しました。
アレルギーというのは、本当に厄介なものです。
年齢や環境によっても変わりますし、体質改善と言ってもなかなかできるものでもありません。
私もいろいろなアレルギーがあり、苛立つことも多いですが、だましだましつき合っていくしかないのかもしれませんね。
国道で、そんな危険な道路があるんですね。
ネットで実際に百井別れ(「分かれ」ではないんですね)のあたりを走っている写真を見つけましたが、こう書かれていました。
森に吸い込まれるような林道状態。・舗装が荒れています。・勾配が尋常ではありません。
帰りは別の道を通ったとのことで安心しましたが、同じ道を通らないと帰れないということだと、ぞっとします。
大根を洗っているおばあさんに道を尋ねたら、高野聖みたいに~というくだりは、農園主さんならではと、感服しました。
異界に引きずり込まれなくて本当によかったです(笑)
鞍馬寺には異界と通じている場所があると、以前noteで知り合った女性が言っていましたが、他でも、鞍馬のあたり一帯には天狗がいるという話もよく聞きます。
なんでも天狗はとてもいたずら好きで、気に入った人には有り得ないものを見せて喜ぶんだそうです。
例えば、山道ですれ違った人が一瞬でいなくなったとか、山中の神社でほんの1分ほど目をつぶってお参りしていたら、誰もいないのにさっきまでなかったお花が置いてあったとか。
そのおばあさんも、天狗のいたずらかもしれません(笑)
授与所の女性がおっしゃった、「仏様のお導き~」ということは、本当にあると、常々思っています。
寺社仏閣は、人と人とのつながりと同じで、ご縁だと感じます。
行きたいと思ったところは、「来なさい」と呼ばれているのかもしれません。
ここは行ってみたいな、とずっと思っていても、なぜか行くチャンスがないことも多いので、そこはたぶんご縁のないところなのかも、と思います。
摩訶不思議なことを言いますが(笑)、お寺や神社に行く時、なぜかあっさりと着かないことがとても多いです。かなりの確率でそうなります。
車の場合、ちゃんとナビを入れても、遠回りな道を指示されたり、だんだん細くなって車が通れなくなる道を当たり前のように案内され立ち往生したり、同じところをぐるぐる回ったり。
広い普通の道で行けるのに、くねくねカーブの多い山道を指示されることもずいぶんありました←ナビの「推奨」を選んでいるのに、ですよ( ̄▽ ̄;)
電車で徒歩の場合も、どこかで道に迷うんです(笑)
ネットなどの情報では、それは歓迎されている証拠。苦労して来なさい(かわいい子には旅をさせろ的な)、ということらしいですが、なかなかたどり着けないところほど、「ああ、ここ好き~」という神社やお寺なのもおもしろいです。
動画を拝見しましたが、建礼門院の大原西陵には鳥居があったので、不思議に思い調べたら、「出家していたため、鳥居の中に五輪塔という珍しい御陵」とありました。
寂光院は、徳子が望んで行ったわけではないのでしょうが、なぜそこ?という、場所ですね。
菩提を弔いながら生涯を過ごさなければならないのなら、もっと他のところでもよかったように思いますが、そこには誰かの思惑があったのでしょうか。
山々の景色は、現代とその頃とほとんど変わっていないであろうと考えると、徳子の思いのようなものが、今も残っているように感じました。
私は今まで、壇ノ浦の海で入水や自害をしたことについて、女や子供、一族郎党がみな後を追わねばならなかった、あるいは殺されるものだと思っていましたが、記事を拝読するとそうではなく、女子供は殺す必要がなかったのですね。
平家物語は、史実に基づいてはいてもフィクションが多いとのことですが、農園主さんが書いてくださった後白河法皇と徳子のくだりは、当時本当にあった会話のように思います。
武家と皇室の血で血を洗うような因縁の物語が「灌頂の巻」での二人の語り合いで浄化されてしまう、とお書きになっていらっしゃいますが、確かにこの語り合いがなく徳子がひっそりと亡くなっては、徳子の汚名と孤独を背負いながらの生活が、ひたすら悲しくつらいものになってしまったかと思えます。
徳子は後白河法皇の姪にあたるとのことですが、甥、姪というものは、我が子同様に、無条件でかわいいもののはずです。
しかも、徳子の夫は息子である高倉天皇。
安徳天皇への愛情も推して知るべしかと思います。
地獄の六道に例えた、というのも、徳子の経験したことの壮絶さを感じます。
それによって後白河法皇も、徳子の生き地獄のようなできごと、思いを、心から理解できたのではないでしょうか。
想像にすぎませんが、汚名もつらく悔しいことですが、目の前で我が子が沈んでいくのを見たという心の痛みは、一生消えなかったかと思います。
戦によって、男性はもちろん、多くの女子供が犠牲になってきたことをわかっていながら、何百年経っても争いを繰り返す人間の愚かさを痛感します。
平家物語について、実際に訪れた寂光院のお話と合わせて書いてくださり、ありがとうございました。
地図を添えてくださったことや、行く道のことまで書いてくださったことで、平家物語の時代、徳子の出家してからの暮らしぶりや様子に、思いを馳せることができました。
ご存じかとは思いますが、婦人病に悩む中将姫のために作られた秘薬の製法を、津村家(藤村家)が中将姫をかくまったお礼として教えられ、それをもとにツムラの創業者が中将湯を作ったそうですね。
私が子どものころ、おばさんたちはどこの家でも、中将湯か實母散を飲んでいました。
中将姫の時代の平均寿命は24歳だとか。
それを考えると、中将姫の婦人病というのは、恐らく更年期障害のようなものだったかと思います。
中将湯の成分で作られた薬湯(やくとう、でなく、くすりゆの方です)がバスクリンだそうです。
あのすごい緑色に薬効があるように思いますが、普通のバスクリンの成分に生薬は入っていないんです。
乾燥硫酸ナトリウム、炭酸水素Na
その他の成分 L-グルタミン酸ナトリウム、ホホバ油、無水ケイ酸、デキストリン、アラビアゴム、ヒドロキシプロピルセルロース、香料、黄202(1)、青2、青1、粘度調整剤
一方、「バスクリンのくすり湯 バスハーブ」はほとんどが生薬です。
バスハーブ抽出液(トウキ、センキュウ、ハマボウフウ、チンピ、ハッカ、カミツレの生薬抽出エキス)
その他の成分
無水エタノール、BG、香料、クエン酸水和物、PVP、POE 硬化ヒマシ油、イソステアリン酸 POE 硬化ヒマシ油、シメン-5-オール、パラベン、黄202(1)
割高ですが、冬場の皮膚のかゆみに効果があるし温まるので、ここ数年、チビチビと、少なめに入れて使っています(笑)←宣伝ではありません(笑)
沸かし直しのお湯は金属的な原因があると思いますが、薪もアレルギーがあるんですね。
(書き足し:薪のアレルギーではなく、薪で沸かすことで起きるアレルギーということですね。失礼しました。
アレルギーというのは、本当に厄介なものです。
年齢や環境によっても変わりますし、体質改善と言ってもなかなかできるものでもありません。
私もいろいろなアレルギーがあり、苛立つことも多いですが、だましだましつき合っていくしかないのかもしれませんね。
2024年12月9日 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する
後半です。
ここからはぼくの旅行の話も混じります。
自宅から大原へ向かったんですが、あと1時間足らずで大原に到着しそうだというあたりで、たいへんな峠に差し掛かってしまいました。
グーグルマップをカーナビがわりに案内してもらっているだけではわからないものですね。
そこは国道477号線、「百井別れ」といわれる、関西でも屈指の酷道だったんです。
昼間でも薄暗く、離合のむずかしい急坂(ガードレールなし)を30分ほど、延々とゆきました。
ハンドルミスひとつで、ほんとうに滑落しかねない道です。
帰ってからネットで調べたら、477号線を「死なな(477)いで」とかけていたのをみて、笑ってしまいました。
地元の人でもこの道は通らないといいます。
どうりで午前11時ごろだったにもかかわらず、対向車がほとんどありませんでした。
あのあたりはちょうど鞍馬のあたりで、うっそうとした険しい山道を緊張して走る中、これはたしかに天狗がいてもおかしくないとおもったものです。
道中、一瞬だけひらけたところに出たんですが、それがむしろ異界をおもわせる情緒でした。
民家の前で年老いた女性が大根を洗っていました。
車から降りて「この先どう行けばいいですか」と聞こうかとおもったんですが、高野聖みたいになるといけないとおもってやめました(笑)
あの酷道を走ることはもうないとおもいますが、ある意味で貴重な経験だったとおもいます。
峠を越えて、なんとか寂光院のふもとに着きました。
寂光院は平野部からすこしはずれて、なだらかな山坂をしばらくのぼったところにあります。
寂光院に向かう坂道の途中で、土地を持っている民家がそこここに駐車場をつくっています。
だいたいどこも時間設定なしで料金は乗用車が300円でした。
寂光院の拝観料はたしか700円ほどで、駐車場も拝観料も観光地にしては良心的だったとおもいます。
寂光院は尼寺なんですが、寺院のたたずまいに権勢を誇るようなところがなく、どこかひっそりとした落ち着きを感じさせて、やっぱり女性的なお寺だとおもいました。
全体的にひかえめで、奥ゆかしい印象です。
参道も商店があるんですが、派手な商売っ気もなく、落ち着いていました。
参道から境内まで端正なたたずまいでしたが、おそらく徳子がいた時代は、現代のように管理はできなかったことでしょう。
土地の保全に機械をつかうわけにもいかないし、山をおりて平野部に行かないと、食料生産もおぼつかなかったとおもいます。
ぼくも田舎に暮らしているだけに、いかにも暮らすのがたいへんな場所であることは察しがつきました。
帰り際、授与所で年配の女性の方(お寺の関係者)に声をかけていただきました。
他愛ない会話だったんですが、最後に「仏様のお導きがあったんだとおもいますよ。またお越しください」とおっしゃられました。
その言葉があったから、というわけでもないのですが、ここはおそらく再訪するだろうな、という気がしています。
訪れた者を拒まない、柔和な空気が漂っているようにおもえたからです。
さて、平家を追い込んで破滅させた後白河法皇は、徳子が寂光院にいると知って、文治2年(1186年)に大原に御幸(外出)しました。
もちろん嫌がらせで御幸したのではありません。
後白河法皇は平清盛を憎んでいましたし、徳子はその娘です。
政治的には、源頼朝から「日本第一の大天狗」といわれるほどの権謀術数を誇る野心家でもありました。
生き馬の目を抜くような伏魔殿の中でやってきた政治家です。
その法皇が大原に行くということだけ聞けば、落ちぶれた徳子の顔をみてやろうとでもおもったのだろうかと勘繰りたくなりますが、じつはそうではないのです。

すこしややこしい家系の話になりますが、後白河法皇の女御(妻)は平滋子といいます。
滋子は平清盛の妻時子(二位尼)の姉でした。
そして後白河法皇と滋子の間にできたのが高倉天皇です。
平徳子は、清盛と時子の娘です。
後年、高倉天皇と平徳子が結びつくんですね。
つまり、徳子は伯母の子と結婚した……言い換えればいとこと結婚したというわけです。
後白河法皇にとって、徳子は義理の(追記:妹の)娘であり、姪っ子でした。
平家は後顧の憂いを断つためにも滅ぼさねばならぬ敵であると同時に、かけがえのない身内だったわけです。
当時の世の習いとして、戦になった以上、負けた武士は死ぬ必要がありましたが、女や子供は殺す必要がありませんでした。
頼朝は平家討伐にあたって、安徳天皇の無事と、平家が勝手に持ち出してしまった三種の神器を取り返すように命じています。
しかし平家の側で「生きて虜囚の辱めを受けず」のようなかたちで、女房も多くが壇ノ浦の海で自害してしまったんですね。
もちろん生き延びたものもいますが、武士のほとんどは処刑され、女房達もほとんどが放逐されて名もなき者となりました。
とまどう安徳天皇の手を引き「浪の下にも都があるのですよ」といって一緒に入水したのは、さきほど述べた清盛の妻、時子(二位尼)でした。
三種の神器のうち、草薙剣がこのとき海の底へ沈みました。
後白河法皇からすると二位尼は義理の妹であり、安徳天皇に至っては血を分けた孫です。
いくら敵対する関係だからといって、このような結末を心から望んでいたはずがありません。
甘いことをいえば、安徳天皇と三種の神器が朝廷に帰ってきて、平家が没落し、みずからの脅威とならなければそれでよいのですが、みずからの怒りを武士集団である源氏に預けた以上、血が流れずにはすまないことを法皇はわかっていました。
(追記:しかしまさか法皇も、平家が命乞いすることもなく天皇に至るまで自決して、あとになにも残らないほどの惨状になるとはおもっていなかったでしょう)
寂光院へ向かったときの後白河法皇の心境は、もはや恩讐を越えて、忸怩たるおもいや、むなしさに満ちていたのではないでしょうか。
そして、「どのツラ下げて」という話ではありますし、表立ってそんなことをいうはずがありませんが、徳子が生きて救われたと聞いたとき、法皇はきっとうれしいやら心配するやらで、会いに行かずにおられなかったのだとおもいます。
ちなみに後白河法皇が御幸したルートは、ぼくが通った百井別れの道ではなく、京都市内から北東へ向かうすなおな道でした。
大原女もこのすなおな通って都へ向かっています。
ぼくは大原からの帰りに、百井別れをもう一度通る気になれなかったので、京都市内に出て大回りして帰ったのですが、この道なら法皇も訪れやすかっただろう、とおもったものです。
法皇の突然の来訪に徳子は取り乱しました。こんなあわれな姿をみられたくないといって、激しく拒絶したともいいます。
しかししばらくすると気持ちを落ち着けて、互いに敬意をはらいながら、語り合うこととなりました。
平家物語のすごいところは、武家と皇室による血で血を洗うような因縁の物語が、巻末の「灌頂の巻」における法皇と徳子の語り合いによって、浄化されてしまうことです。
徳子は法皇を前に、じぶんが朝廷にいたとき、そして追われる身となったとき、壇ノ浦の悲劇を目の当たりにしたときのことを、地獄の六道にたとえて話しました。
法皇は徳子の長い身の上話をじっと聞き入ったあと、
「玄奘三蔵は悟りを開く前に六道をみたと申します。わが国の日蔵上人は蔵王権現のお力にて六道をみたと承っております。あなたのように生きながら目の当たりに六道をみるようなことは、ほんとうにあり得難いことでございました」
といって涙をぼろぼろ流しました。
徳子もはらはらと涙し、法皇のお付きの者も、徳子の女房たちも、みんな涙に暮れたといいます。
寂光院の鐘が鳴り、夕方が近づくと、法皇は名残を惜しみ、涙をこらえながら御所へ帰りました。
徳子はとめどなく涙をこぼしながら、長いあいだお見送りをし、寂光院に戻ると安徳天皇、平家一門に向けて祈りました。
徳子の死がいつであったかは諸説ありますが、平家物語では建久2年(1191年)、36歳の徳子は病を得て、女房たちが見守る中、五色の糸を手に御念仏を唱えながら亡くなったといいます。
平家物語のエピローグである灌頂の巻の「灌頂(かんじょう)」には、お墓に水を上げるという意味があります。
寂光院を訪れながら、ああ、徳子も後白河法皇も、この大原のなだらかな坂を上ったのだろうとか、平野部の景色は現代のものだけど、山々の景色はあのころとほとんど変わっていないのだろうな、とおもったものです。
というわけで、旅の話はおしまいです。
今回は勝手なことでしたが、前後半にわけて、大原の旅の記憶についてあれこれお話させていただきました。
ここからはぼくの旅行の話も混じります。
自宅から大原へ向かったんですが、あと1時間足らずで大原に到着しそうだというあたりで、たいへんな峠に差し掛かってしまいました。
グーグルマップをカーナビがわりに案内してもらっているだけではわからないものですね。
そこは国道477号線、「百井別れ」といわれる、関西でも屈指の酷道だったんです。
昼間でも薄暗く、離合のむずかしい急坂(ガードレールなし)を30分ほど、延々とゆきました。
ハンドルミスひとつで、ほんとうに滑落しかねない道です。
帰ってからネットで調べたら、477号線を「死なな(477)いで」とかけていたのをみて、笑ってしまいました。
地元の人でもこの道は通らないといいます。
どうりで午前11時ごろだったにもかかわらず、対向車がほとんどありませんでした。
あのあたりはちょうど鞍馬のあたりで、うっそうとした険しい山道を緊張して走る中、これはたしかに天狗がいてもおかしくないとおもったものです。
道中、一瞬だけひらけたところに出たんですが、それがむしろ異界をおもわせる情緒でした。
民家の前で年老いた女性が大根を洗っていました。
車から降りて「この先どう行けばいいですか」と聞こうかとおもったんですが、高野聖みたいになるといけないとおもってやめました(笑)
あの酷道を走ることはもうないとおもいますが、ある意味で貴重な経験だったとおもいます。
峠を越えて、なんとか寂光院のふもとに着きました。
寂光院は平野部からすこしはずれて、なだらかな山坂をしばらくのぼったところにあります。
寂光院に向かう坂道の途中で、土地を持っている民家がそこここに駐車場をつくっています。
だいたいどこも時間設定なしで料金は乗用車が300円でした。
寂光院の拝観料はたしか700円ほどで、駐車場も拝観料も観光地にしては良心的だったとおもいます。
寂光院は尼寺なんですが、寺院のたたずまいに権勢を誇るようなところがなく、どこかひっそりとした落ち着きを感じさせて、やっぱり女性的なお寺だとおもいました。
全体的にひかえめで、奥ゆかしい印象です。
参道も商店があるんですが、派手な商売っ気もなく、落ち着いていました。
参道から境内まで端正なたたずまいでしたが、おそらく徳子がいた時代は、現代のように管理はできなかったことでしょう。
土地の保全に機械をつかうわけにもいかないし、山をおりて平野部に行かないと、食料生産もおぼつかなかったとおもいます。
ぼくも田舎に暮らしているだけに、いかにも暮らすのがたいへんな場所であることは察しがつきました。
帰り際、授与所で年配の女性の方(お寺の関係者)に声をかけていただきました。
他愛ない会話だったんですが、最後に「仏様のお導きがあったんだとおもいますよ。またお越しください」とおっしゃられました。
その言葉があったから、というわけでもないのですが、ここはおそらく再訪するだろうな、という気がしています。
訪れた者を拒まない、柔和な空気が漂っているようにおもえたからです。
さて、平家を追い込んで破滅させた後白河法皇は、徳子が寂光院にいると知って、文治2年(1186年)に大原に御幸(外出)しました。
もちろん嫌がらせで御幸したのではありません。
後白河法皇は平清盛を憎んでいましたし、徳子はその娘です。
政治的には、源頼朝から「日本第一の大天狗」といわれるほどの権謀術数を誇る野心家でもありました。
生き馬の目を抜くような伏魔殿の中でやってきた政治家です。
その法皇が大原に行くということだけ聞けば、落ちぶれた徳子の顔をみてやろうとでもおもったのだろうかと勘繰りたくなりますが、じつはそうではないのです。

すこしややこしい家系の話になりますが、後白河法皇の女御(妻)は平滋子といいます。
滋子は平清盛の妻時子(二位尼)の姉でした。
そして後白河法皇と滋子の間にできたのが高倉天皇です。
平徳子は、清盛と時子の娘です。
後年、高倉天皇と平徳子が結びつくんですね。
つまり、徳子は伯母の子と結婚した……言い換えればいとこと結婚したというわけです。
後白河法皇にとって、徳子は義理の(追記:妹の)娘であり、姪っ子でした。
平家は後顧の憂いを断つためにも滅ぼさねばならぬ敵であると同時に、かけがえのない身内だったわけです。
当時の世の習いとして、戦になった以上、負けた武士は死ぬ必要がありましたが、女や子供は殺す必要がありませんでした。
頼朝は平家討伐にあたって、安徳天皇の無事と、平家が勝手に持ち出してしまった三種の神器を取り返すように命じています。
しかし平家の側で「生きて虜囚の辱めを受けず」のようなかたちで、女房も多くが壇ノ浦の海で自害してしまったんですね。
もちろん生き延びたものもいますが、武士のほとんどは処刑され、女房達もほとんどが放逐されて名もなき者となりました。
とまどう安徳天皇の手を引き「浪の下にも都があるのですよ」といって一緒に入水したのは、さきほど述べた清盛の妻、時子(二位尼)でした。
三種の神器のうち、草薙剣がこのとき海の底へ沈みました。
後白河法皇からすると二位尼は義理の妹であり、安徳天皇に至っては血を分けた孫です。
いくら敵対する関係だからといって、このような結末を心から望んでいたはずがありません。
甘いことをいえば、安徳天皇と三種の神器が朝廷に帰ってきて、平家が没落し、みずからの脅威とならなければそれでよいのですが、みずからの怒りを武士集団である源氏に預けた以上、血が流れずにはすまないことを法皇はわかっていました。
(追記:しかしまさか法皇も、平家が命乞いすることもなく天皇に至るまで自決して、あとになにも残らないほどの惨状になるとはおもっていなかったでしょう)
寂光院へ向かったときの後白河法皇の心境は、もはや恩讐を越えて、忸怩たるおもいや、むなしさに満ちていたのではないでしょうか。
そして、「どのツラ下げて」という話ではありますし、表立ってそんなことをいうはずがありませんが、徳子が生きて救われたと聞いたとき、法皇はきっとうれしいやら心配するやらで、会いに行かずにおられなかったのだとおもいます。
ちなみに後白河法皇が御幸したルートは、ぼくが通った百井別れの道ではなく、京都市内から北東へ向かうすなおな道でした。
大原女もこのすなおな通って都へ向かっています。
ぼくは大原からの帰りに、百井別れをもう一度通る気になれなかったので、京都市内に出て大回りして帰ったのですが、この道なら法皇も訪れやすかっただろう、とおもったものです。
法皇の突然の来訪に徳子は取り乱しました。こんなあわれな姿をみられたくないといって、激しく拒絶したともいいます。
しかししばらくすると気持ちを落ち着けて、互いに敬意をはらいながら、語り合うこととなりました。
平家物語のすごいところは、武家と皇室による血で血を洗うような因縁の物語が、巻末の「灌頂の巻」における法皇と徳子の語り合いによって、浄化されてしまうことです。
徳子は法皇を前に、じぶんが朝廷にいたとき、そして追われる身となったとき、壇ノ浦の悲劇を目の当たりにしたときのことを、地獄の六道にたとえて話しました。
法皇は徳子の長い身の上話をじっと聞き入ったあと、
「玄奘三蔵は悟りを開く前に六道をみたと申します。わが国の日蔵上人は蔵王権現のお力にて六道をみたと承っております。あなたのように生きながら目の当たりに六道をみるようなことは、ほんとうにあり得難いことでございました」
といって涙をぼろぼろ流しました。
徳子もはらはらと涙し、法皇のお付きの者も、徳子の女房たちも、みんな涙に暮れたといいます。
寂光院の鐘が鳴り、夕方が近づくと、法皇は名残を惜しみ、涙をこらえながら御所へ帰りました。
徳子はとめどなく涙をこぼしながら、長いあいだお見送りをし、寂光院に戻ると安徳天皇、平家一門に向けて祈りました。
徳子の死がいつであったかは諸説ありますが、平家物語では建久2年(1191年)、36歳の徳子は病を得て、女房たちが見守る中、五色の糸を手に御念仏を唱えながら亡くなったといいます。
平家物語のエピローグである灌頂の巻の「灌頂(かんじょう)」には、お墓に水を上げるという意味があります。
寂光院を訪れながら、ああ、徳子も後白河法皇も、この大原のなだらかな坂を上ったのだろうとか、平野部の景色は現代のものだけど、山々の景色はあのころとほとんど変わっていないのだろうな、とおもったものです。
というわけで、旅の話はおしまいです。
今回は勝手なことでしたが、前後半にわけて、大原の旅の記憶についてあれこれお話させていただきました。
2024年12月5日 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する
今回も長い話になりますので、2回にわけてお話させていただこうとおもいます。
まず、前回に引き続いて民主主義の話をしようかともおもったのですが、その矢先に韓国での戒厳令のニュースが飛び込みました。
あれはまさに「いざとなったら独裁権やそれに近い権限を持つ機関や人があれば、統制がとりやすくなる」というギズモさんのおっしゃった権限を、韓国の政権が利用したものでした。
いまの韓国は右派政権ですが、その政権の出した国家予算に対して、野党(左派)の反対があって決議することができず、国家運営が停滞してしまうという理由で、戒厳令を発したというのです。
戒厳令が実際に敷かれれば、国民の自由や人権は制限されることになります。
これに対して日本のネットでは、右派と左派がそれぞれの見方をいつものように批判し合っていました。
ぼくはそれをみて、ここでの民主主義の話はやめようとおもいました(笑)
ただひとつ、ギズモさんのおっしゃったように、どのような立場であれ、いい方向に世の中が変わっていくべきだとぼくもおもいます。
もしかしたら不完全燃焼におもわれるかもしれませんが、この件はこれでおしまいにさせていただきます。
モロヘイヤは、夏になると比較的食べやすい葉野菜のようで、よく売れます。
ぬめりはありますが、クセが少なくてアクもないでしょう。
夏の葉野菜って、ほとんどぬめりがあって、しかもアクが強いものが多いんです。
つるむらさきにせよ、空心菜にせよ、重曹などのアルカリ性の薬剤でアク抜きしないと口の中がギシギシするような野菜です。
おそらく地域性もあるとおもうんですが、モロヘイヤは下処理なしで料理につかえるので、うちのあたりの夏の直売所では人気があるようです。
人気があると知らず、これまであまりつくってこなかったのですが、意外とよく売れるので、来年は主力のひとつにしようとおもった次第です。
お風呂があたらしくなって、なによりでした。
個人的な話なんですが、ぼくはお風呂の配管の金属アレルギーなのか、薪で風呂をわかしたり、あんまり長く追い炊きをするとダメということがわかりました。
子供のころから、二日目のお風呂でじんましんが出る体質だったんですが、あたらめてこっちに住むようになってアレルギーの出どころがはっきりしました。
せっかく薪風呂が楽しめるお風呂なのに残念ですが、薪集めしなくてよくなったと前向きにとらえています(笑)
うちも風呂の窓があるんですが、窓を開けて外気を取り入れながらお風呂に入るの、気持ちいいですね。
さて、今回話が長引いたのは、大原寂光院に旅行した話を、平家物語と絡めて書こうとおもったからです。
5000文字ほどになったので、前後半にわけて投稿させていただきます。
寂光院に行ったのは、大原が京都市の中でも非常に山深い田舎だったからなんです。
どれくらい山深いかというと……NHKに2分に満たない大原の動画がありましたので、ぜひお暇なときにでもご覧ください(笑)
https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?...
この動画の冒頭で、大原を俯瞰した場面があるのですが、その画像を拝借して、寂光院の位置を示します。

京都市内はいまや外国人観光客のルツボと化していて、休日はもちろん平日でも人が多く、駐車場を探すのにも苦労しますし、行く気になれませんでした。
ところが大原は京都市にもかかわらず、喧騒から離れた場所にあります。
特に私生活上のなにかがあったわけではありませんが、旅行に行けるのが平日だったので、日本の歴史上指折りの悲劇の舞台のひとつを、実際にみてみたいとおもった次第です。
ぼくは、當麻曼荼羅を編んだ中将姫もそうですが、日本史上の、悲劇のヒロインに興味があるのかもしれません。
大原は地理的には、京都市中心部(御苑)の北東にあたります。
御苑から寂光院までの距離は直線距離で10kmちょっとです。
実際に行こうとおもうとあと数km伸びるでしょう。
行こうとおもえば、徒歩で半日の距離です。
御苑は朝廷のあった場所で、平清盛ら平家の一族がいた場所でもありました。
安徳天皇の母、平徳子は29歳のときに山口県の壇ノ浦の悲劇から生還して、朝廷から北東に10kmしか離れていない大原に隠棲しました。
本人が望んでそこに決めたわけではないとはいえ、いじましい距離だとおもいます。
余談ですが、大原では古くから「大原女」といって、山でとれる柴(小枝)や薪、農産物を女性が頭に乗せて、京都市内まで売りに出ていたといいます。
徒歩しか交通手段のなかった時代には、山の恵みを都で売るにはちょうどよい距離だったんですね。
大原女は特徴的な格好をしているんですが、これは徳子の従者であった阿波内侍が作業着にしていた衣装が元になっているそうです。
さすがに戦後は大原女の風習も廃れましたが、いまでも観光文化としては残っています。
大原に行ってつくづく感じましたが、建礼門院徳子の伝説が土壌や空気に溶け込むようにして残ってるんです。
話を戻します。
徳子は天皇の母とはいえ、その天皇もうしなわれ、朝廷からすれば逆賊とさえいわれかねない立場になってしまいました。
つい数年前までは、朝廷で栄華の頂点を極めていたのです。
それがすべてを失い、29歳にして剃髪し、700m級の山々に四方を囲まれた大原の山麓で、世をはかなみ、平家の菩提を弔いながら生きることになってしまった。
出家した徳子(建礼門院)のこのような歌が残っています。
深い山奥に住まうこととなり、かつて朝廷から見ていた月を、まさかこれまでの暮らしと縁のない、遠く離れた場所から眺めることになろうとはおもいもよらなかった、というような意味です。
「よそ」という言葉に、ここはじぶんの本来の居場所ではないという意味が込められているようにおもえます。
かつて暮らした朝廷の華やかさに焦がれ、汚名と孤独を背負いながら、過酷な山奥で生活するのは、死ぬよりもつらいことだったかもしれません。
(後半へ続く)
まず、前回に引き続いて民主主義の話をしようかともおもったのですが、その矢先に韓国での戒厳令のニュースが飛び込みました。
あれはまさに「いざとなったら独裁権やそれに近い権限を持つ機関や人があれば、統制がとりやすくなる」というギズモさんのおっしゃった権限を、韓国の政権が利用したものでした。
いまの韓国は右派政権ですが、その政権の出した国家予算に対して、野党(左派)の反対があって決議することができず、国家運営が停滞してしまうという理由で、戒厳令を発したというのです。
戒厳令が実際に敷かれれば、国民の自由や人権は制限されることになります。
これに対して日本のネットでは、右派と左派がそれぞれの見方をいつものように批判し合っていました。
ぼくはそれをみて、ここでの民主主義の話はやめようとおもいました(笑)
ただひとつ、ギズモさんのおっしゃったように、どのような立場であれ、いい方向に世の中が変わっていくべきだとぼくもおもいます。
もしかしたら不完全燃焼におもわれるかもしれませんが、この件はこれでおしまいにさせていただきます。
モロヘイヤは、夏になると比較的食べやすい葉野菜のようで、よく売れます。
ぬめりはありますが、クセが少なくてアクもないでしょう。
夏の葉野菜って、ほとんどぬめりがあって、しかもアクが強いものが多いんです。
つるむらさきにせよ、空心菜にせよ、重曹などのアルカリ性の薬剤でアク抜きしないと口の中がギシギシするような野菜です。
おそらく地域性もあるとおもうんですが、モロヘイヤは下処理なしで料理につかえるので、うちのあたりの夏の直売所では人気があるようです。
人気があると知らず、これまであまりつくってこなかったのですが、意外とよく売れるので、来年は主力のひとつにしようとおもった次第です。
お風呂があたらしくなって、なによりでした。
個人的な話なんですが、ぼくはお風呂の配管の金属アレルギーなのか、薪で風呂をわかしたり、あんまり長く追い炊きをするとダメということがわかりました。
子供のころから、二日目のお風呂でじんましんが出る体質だったんですが、あたらめてこっちに住むようになってアレルギーの出どころがはっきりしました。
せっかく薪風呂が楽しめるお風呂なのに残念ですが、薪集めしなくてよくなったと前向きにとらえています(笑)
うちも風呂の窓があるんですが、窓を開けて外気を取り入れながらお風呂に入るの、気持ちいいですね。
さて、今回話が長引いたのは、大原寂光院に旅行した話を、平家物語と絡めて書こうとおもったからです。
5000文字ほどになったので、前後半にわけて投稿させていただきます。
寂光院に行ったのは、大原が京都市の中でも非常に山深い田舎だったからなんです。
どれくらい山深いかというと……NHKに2分に満たない大原の動画がありましたので、ぜひお暇なときにでもご覧ください(笑)
https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?...
この動画の冒頭で、大原を俯瞰した場面があるのですが、その画像を拝借して、寂光院の位置を示します。

京都市内はいまや外国人観光客のルツボと化していて、休日はもちろん平日でも人が多く、駐車場を探すのにも苦労しますし、行く気になれませんでした。
ところが大原は京都市にもかかわらず、喧騒から離れた場所にあります。
特に私生活上のなにかがあったわけではありませんが、旅行に行けるのが平日だったので、日本の歴史上指折りの悲劇の舞台のひとつを、実際にみてみたいとおもった次第です。
ぼくは、當麻曼荼羅を編んだ中将姫もそうですが、日本史上の、悲劇のヒロインに興味があるのかもしれません。
大原は地理的には、京都市中心部(御苑)の北東にあたります。
御苑から寂光院までの距離は直線距離で10kmちょっとです。
実際に行こうとおもうとあと数km伸びるでしょう。
行こうとおもえば、徒歩で半日の距離です。
御苑は朝廷のあった場所で、平清盛ら平家の一族がいた場所でもありました。
安徳天皇の母、平徳子は29歳のときに山口県の壇ノ浦の悲劇から生還して、朝廷から北東に10kmしか離れていない大原に隠棲しました。
本人が望んでそこに決めたわけではないとはいえ、いじましい距離だとおもいます。
余談ですが、大原では古くから「大原女」といって、山でとれる柴(小枝)や薪、農産物を女性が頭に乗せて、京都市内まで売りに出ていたといいます。
徒歩しか交通手段のなかった時代には、山の恵みを都で売るにはちょうどよい距離だったんですね。
大原女は特徴的な格好をしているんですが、これは徳子の従者であった阿波内侍が作業着にしていた衣装が元になっているそうです。
さすがに戦後は大原女の風習も廃れましたが、いまでも観光文化としては残っています。
大原に行ってつくづく感じましたが、建礼門院徳子の伝説が土壌や空気に溶け込むようにして残ってるんです。
話を戻します。
徳子は天皇の母とはいえ、その天皇もうしなわれ、朝廷からすれば逆賊とさえいわれかねない立場になってしまいました。
つい数年前までは、朝廷で栄華の頂点を極めていたのです。
それがすべてを失い、29歳にして剃髪し、700m級の山々に四方を囲まれた大原の山麓で、世をはかなみ、平家の菩提を弔いながら生きることになってしまった。
出家した徳子(建礼門院)のこのような歌が残っています。
思ひきや 深山の奥に住まひして 雲井の月をよそに見んとは
深い山奥に住まうこととなり、かつて朝廷から見ていた月を、まさかこれまでの暮らしと縁のない、遠く離れた場所から眺めることになろうとはおもいもよらなかった、というような意味です。
「よそ」という言葉に、ここはじぶんの本来の居場所ではないという意味が込められているようにおもえます。
かつて暮らした朝廷の華やかさに焦がれ、汚名と孤独を背負いながら、過酷な山奥で生活するのは、死ぬよりもつらいことだったかもしれません。
(後半へ続く)
2024年12月1日 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する
記事を読ませていただいた時、ちょうど、とんかつ屋さんで「しば漬け」を食べていたところだったので、シンクロにびっくりしました(笑)
ご飯、キャベツ、しじみのお味噌汁がお代わり自由なのですが、しば漬けのお代わりはできないシステムでした(笑)
寂光院にいらしたんですね。京都は何回か行きましたが、大原方面は一度も行っていないんです。
平家物語の、安徳天皇の入水の場面は有名な話ですが、徳子のその後の話は知りませんでしたし、しば漬けのお話も初耳でした。
わざわざ寂光院にいらしたのは、何か思うところがあってでしょうか。
民主主義についてのご説明をありがとうございます。
昭和天皇の「いざとなれば手続きを省略できる独裁のほうがよいのではないか」という考えは、あくまでも「いざとなれば」という段階でのことなのでしょうね。
全体主義ではなく、自由、民主という方向性の中で、いざとなったら独裁権やそれに近い権限を持つ機関や人があれば、統制がとりやすくなるように思いますし、それが無理なら、手続きを順々と律義に形式的に踏むのではなく、できるところはできるだけ飛ばして、ということでいいのではないかと思います。
民主主義は、話せばわかる的な考え方だと思いますが、話をする前に暗殺したり襲撃するという暴力的な変え方は、いつの世にもどこの国でもあるのかもしれません。
でも、(追記)悪は悪だと認識したうえで、いい方向に世の中が変わっていくべきですね。
トランプは議会を襲撃したのに、再選されるというありえないことが起きましたが、兵庫県の知事も自殺者2名を出したに関わらず、華々しく再選され、驚きました。
もしSNSというものがない時代なら、あれほど応援する人が出てこないで落選したかと思うのですが、そもそもパワハラなどが本当にあったかどうか、その事実関係が不明瞭な段階で立候補が可能だったことに問題を感じます。
パワハラが事実であったとしても、再度知事になって言動には留意するでしょうし、市民によって選挙で選ばれたのですから、今後はしっかりと頑張ってくれたらと思います・・・・・が、なんだかすっきりしない再選でした(笑)
お父様のお話ですが、一気に起きて、ご家族もご心配でしたね。
立て続けに起きると、ご本人もご家族も、考えなくてもいいことまで考えてしまい、それがまた身体に影響して病気が長引いたりすることがあるかと思いますが、よく乗り越えてくださいましたよね。
ちょっとした風邪でも気が滅入ってしまうこともありますし、病気とたたかうには、精神力が大事だと思います。
同時に、周りの方々が体力、精神力を維持することも重要ですね。
娘婿の父親にがんが見つかった時の話です。
敷地内に氏神さまがまつってあり(昔からあったとか)、その祠に柿の枝が大きく張り出してきて、それを切らないと神様に失礼だと気になっていたようなのですが、(補足・娘婿の)父親が大殺界かなにか?にあたっており、そういう時期に氏神さまに触れてはいけない(木を切ってはいけない、だったかもしれません)という考えが(補足・娘婿の)父親にあって、結局そのままにしておいたそうです。
切った方がよかった、切れば快方に向かっていたかもしれない、などと家族で悩んだらしいのですが、そういう気持ちになるのはよくわかります。
先日の立て続けの指のけがの時でさえ、なにかの呪いではないかと思ったわけですから(笑)←あの後、また指の付け根に擦り傷を作りました(;^_^A
娘婿の実家は群馬県ですが、群馬はモロヘイヤ好きがとても多い県らしいですね。テレビでやっていました。
以前娘の家に行くと、冷蔵庫にモロヘイヤが入っていて、娘は食べないのになぜ?と思ったことがありましたが、娘婿が好きだということでした。
東京ではあまりポピュラーに売られていないし、食べたことがない人も多いかもしれません。
そちらではよく売れるとあったので、やはり土地土地の食文化というのは興味深いなと感じます。
お風呂が新しくなりました(^^♪
とは言え、かなり安いタイプのようで、浴槽は前と同じ型の、昭和的なスタイルのものでした(笑)
でも風呂釜が新しいせいか、沸かしなおしてもお湯がきれいで快適です。
液晶パネルの字も、まぶしいくらいピカピカ光っています(笑)
いつもは烏の行水なのですが(すぐのぼせるので)、気持ちがいいので、今月のコンサートで歌う曲の歌詞を数曲、壁に張り、覚えているところです。
浴室に小さな窓があり、開けると外気が入ってきて、冬場はちょっとした露天風呂の味わいです(笑)
京都と言えば、常用している東寺のお線香がなくなりそうなので、東寺に問い合わせをしました。
東寺は今どき珍しく、オンラインで授与品などを販売していません。
なにしろホームページにも、東寺内の授与所で何を売っているのかを掲載していないのです。
当面は行く予定がないので、購入方法を尋ねたところ、郵送してくれるとのことでした。
郵便局での払い込みしか方法がなく、この時代にネット振込ができないというのも不便なものですが、東寺だからそんなものか、と納得です(笑)
オンライン販売までやっていたら、手が回らなくなるということもあるかもしれませんね。
12月に入りましたが、例年ほど寒くはありません。
雪が降れば農閑期になりますが、それまでの準備や、農閑期にやりたいこと、役員会(訂正・自治会)など、忙しく過ごされるかと思います。
お返事のペースはゆっくりと、お差支えのないようにお願いします(*^_^*)
ご飯、キャベツ、しじみのお味噌汁がお代わり自由なのですが、しば漬けのお代わりはできないシステムでした(笑)
寂光院にいらしたんですね。京都は何回か行きましたが、大原方面は一度も行っていないんです。
平家物語の、安徳天皇の入水の場面は有名な話ですが、徳子のその後の話は知りませんでしたし、しば漬けのお話も初耳でした。
わざわざ寂光院にいらしたのは、何か思うところがあってでしょうか。
民主主義についてのご説明をありがとうございます。
昭和天皇の「いざとなれば手続きを省略できる独裁のほうがよいのではないか」という考えは、あくまでも「いざとなれば」という段階でのことなのでしょうね。
全体主義ではなく、自由、民主という方向性の中で、いざとなったら独裁権やそれに近い権限を持つ機関や人があれば、統制がとりやすくなるように思いますし、それが無理なら、手続きを順々と律義に形式的に踏むのではなく、できるところはできるだけ飛ばして、ということでいいのではないかと思います。
民主主義は、話せばわかる的な考え方だと思いますが、話をする前に暗殺したり襲撃するという暴力的な変え方は、いつの世にもどこの国でもあるのかもしれません。
でも、(追記)悪は悪だと認識したうえで、いい方向に世の中が変わっていくべきですね。
トランプは議会を襲撃したのに、再選されるというありえないことが起きましたが、兵庫県の知事も自殺者2名を出したに関わらず、華々しく再選され、驚きました。
もしSNSというものがない時代なら、あれほど応援する人が出てこないで落選したかと思うのですが、そもそもパワハラなどが本当にあったかどうか、その事実関係が不明瞭な段階で立候補が可能だったことに問題を感じます。
パワハラが事実であったとしても、再度知事になって言動には留意するでしょうし、市民によって選挙で選ばれたのですから、今後はしっかりと頑張ってくれたらと思います・・・・・が、なんだかすっきりしない再選でした(笑)
お父様のお話ですが、一気に起きて、ご家族もご心配でしたね。
立て続けに起きると、ご本人もご家族も、考えなくてもいいことまで考えてしまい、それがまた身体に影響して病気が長引いたりすることがあるかと思いますが、よく乗り越えてくださいましたよね。
ちょっとした風邪でも気が滅入ってしまうこともありますし、病気とたたかうには、精神力が大事だと思います。
同時に、周りの方々が体力、精神力を維持することも重要ですね。
娘婿の父親にがんが見つかった時の話です。
敷地内に氏神さまがまつってあり(昔からあったとか)、その祠に柿の枝が大きく張り出してきて、それを切らないと神様に失礼だと気になっていたようなのですが、(補足・娘婿の)父親が大殺界かなにか?にあたっており、そういう時期に氏神さまに触れてはいけない(木を切ってはいけない、だったかもしれません)という考えが(補足・娘婿の)父親にあって、結局そのままにしておいたそうです。
切った方がよかった、切れば快方に向かっていたかもしれない、などと家族で悩んだらしいのですが、そういう気持ちになるのはよくわかります。
先日の立て続けの指のけがの時でさえ、なにかの呪いではないかと思ったわけですから(笑)←あの後、また指の付け根に擦り傷を作りました(;^_^A
娘婿の実家は群馬県ですが、群馬はモロヘイヤ好きがとても多い県らしいですね。テレビでやっていました。
以前娘の家に行くと、冷蔵庫にモロヘイヤが入っていて、娘は食べないのになぜ?と思ったことがありましたが、娘婿が好きだということでした。
東京ではあまりポピュラーに売られていないし、食べたことがない人も多いかもしれません。
そちらではよく売れるとあったので、やはり土地土地の食文化というのは興味深いなと感じます。
お風呂が新しくなりました(^^♪
とは言え、かなり安いタイプのようで、浴槽は前と同じ型の、昭和的なスタイルのものでした(笑)
でも風呂釜が新しいせいか、沸かしなおしてもお湯がきれいで快適です。
液晶パネルの字も、まぶしいくらいピカピカ光っています(笑)
いつもは烏の行水なのですが(すぐのぼせるので)、気持ちがいいので、今月のコンサートで歌う曲の歌詞を数曲、壁に張り、覚えているところです。
浴室に小さな窓があり、開けると外気が入ってきて、冬場はちょっとした露天風呂の味わいです(笑)
京都と言えば、常用している東寺のお線香がなくなりそうなので、東寺に問い合わせをしました。
東寺は今どき珍しく、オンラインで授与品などを販売していません。
なにしろホームページにも、東寺内の授与所で何を売っているのかを掲載していないのです。
当面は行く予定がないので、購入方法を尋ねたところ、郵送してくれるとのことでした。
郵便局での払い込みしか方法がなく、この時代にネット振込ができないというのも不便なものですが、東寺だからそんなものか、と納得です(笑)
オンライン販売までやっていたら、手が回らなくなるということもあるかもしれませんね。
12月に入りましたが、例年ほど寒くはありません。
雪が降れば農閑期になりますが、それまでの準備や、農閑期にやりたいこと、役員会(訂正・自治会)など、忙しく過ごされるかと思います。
お返事のペースはゆっくりと、お差支えのないようにお願いします(*^_^*)