2025年11月の投稿[9件]
2025年11月26日 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する
前回のギズモさんの返信で痛いところを突かれて、半ばおどろき、半ば頭をかいているような次第です。
というのも、前回物部氏について調べているときに、物部氏はスサノオやヤマタノオロチにかなり関係が深いのではないか、とおもってはいました。
ただ点と点はそろっているのですが、ここはすこし掘っただけで、大量の問題点が出てくるのです。
これは物部とスサノオの関係までは手が回らないなと判断しました。
それで結局、ヘビをまつる神社にヘビを退治したスサノオがまつられた、といってお茶を濁したのです。
ところがギズモさんから、このいちばん突かれると弱るところについてご指摘があったので、狼狽してしまいました(笑)
そしていま、いろいろ調べている最中なんですが、案の定泥沼です。
今回はとうとう1万字を越えてしまいました。
わたし自身かなり苦労して、きっと読むにあたって登場人物も多くとっつきづらいとはおもうのですが、興味深い内容にはなっているとおもいますので、ぜひ気負わずゆっくり読んでみてください。
物部氏については、先代旧事本紀という古い書物があります。
平安時代初期ごろに書かれたといわれますが、作者は不詳です。
ほとんど古事記や日本書紀を模したような内容なのですが、物部氏にかなり肩入れした改変があるのが特徴です。
江戸時代に国学者から偽書と指摘されるまでは、古事記や日本書紀より、こちらが日本最古の神話として神道関係者に読まれていました。
この先代旧事本紀によると、物部氏はニギハヤヒノミコトに付き従う守護者として、大和の地に天孫降臨(天孫降臨はニニギノミコトですね)したとあります。
場所は大阪と奈良を隔てる霊峰 生駒山の北側、河上哮ケ峯(いかるがみね)といわれます。
天孫降臨というとニニギノミコトが宮崎県の高千穂のあたりに降臨した、という伝説が一般的だとおもうんですが、実際には「一方そのころ」という形で各地べつの話が進みます。
ニニギノミコトが高千穂に天孫降臨した一方そのころ、ニギハヤヒノミコトは生駒山に降臨しました。
そしてさらに一方そのころ、スサノオは高天原を追い出されて朝鮮のソシモリへ行き、その後出雲でヤマタノオロチを退治するのです。
4~5世紀ごろにヤマト王権が統一国家をつくるまで、日本にはそれぞれ主権を狙う王族が割拠していました。
神々が降臨したのは、このややこしい時代です。
神話のフィルタを取りのぞくと、卑弥呼が倭国大乱を鎮めたのですが、死後にふたたび日本の国土は乱れます。
この乱世の時代に、物部氏とスサノオをはじめ、出雲の王族たちがどのように関係してきたのかということが今回のテーマになります。
出雲国風土記によると、スサノオは出雲の地を開拓した製鉄神のように描かれているといいます。
製鉄は古代日本にとって最重要の軍需産業でした。
物部氏はスサノオの宝剣をまつっていますから、スサノオが築いた製鉄産業に相当深くからんでいたようです。
物部氏はもともと古代吉備王国(岡山)を支配していたという説があります。
津山市から20kmほど南の赤磐市に石上布都魂神社があります。
創建年は不詳で、神代にはあったとされるほど古い神社です。
奈良の石上神宮ともつながりが深く、もともとスサノオの宝剣は石上布都魂神社にまつられていて、仁徳天皇の御代に石上神宮に遷されたんだそうな。
吉備王国(物部王国)は奈良時代までにはヤマト王権に帰順したといわれますが、仁徳天皇が宝剣を奈良に遷した以上、この時期までには吉備王国の独立性は失われていた可能性が高いですね。
しかし物部氏自体は、出雲から製鉄技術を学び、岡山の津山、赤磐を通ってヤマト国までの「鉄の道」をつくり、さらに全国に鉄鋼技術を広めたことで、ヤマト王権内でも権力を高めたようです。
このことを考えると、現在の岡山県に物部の姓が多いのもうなずけます。
ところでギズモさんから、石上神宮の布都斯魂大神のお話がありました。
冒頭に述べたとおり、わたしはこの話を読んで頭をかいたわけですが、ヘビではなく剣をご神体としてあがめていたのではないかというギズモさんの推測は、ほぼ正解だとおもいます。
この件は物部氏とスサノオと出雲をつなぐ、ものすごく重大な意味をもっていました。
石上神宮には布都御魂大神と布留御魂大神、そして布都斯魂大神がまつられています。
これらはすべて人ではなく、剣と宝という「モノ」をまつっており、しかもモノに込められた神格をまつっているわけです。
そういえば、つい先日NHKの特集番組で手塚治虫が、「アニメというのはアニミズムからきているように、つまり生命のないものに生命を与える技術でしょう」と言ってたんです。
生命のないものに生命を与えるのがアニミズムだとすれば、排仏派で古神道を重んじた物部氏が、剣や宝という無機物に魂を与えてご神体にしたというのは、あまりにも「物部」らしい話だと感じました。
物部氏は饒速日命とともに近畿へ天孫降臨したのですが、この一族はその後神武天皇が東遷した際に帰順しました。
そして物部氏は神武天皇がヤマトを平定するときに用いた剣の霊威を神格化して、布都御魂大神としてまつっています。
布留御魂大神は、饒速日命が天孫降臨する際に、高天原の神から授かった「天璽十種瑞宝」(あまつしるしとくさのみづのたから)の霊威です。
そして布都斯魂大神は、スサノオがヤマタノオロチを退治したときの神剣ですね。
つまり石上神宮では、間接的に神武天皇と饒速日命とスサノオを祭神にしている、ともいえます。
ところで、これらのモノ以外にも、物部氏の祭神には経津主命がいます。
一説には経津主命はさきほどの布都御魂大神(神武天皇の宝剣)の擬神化だといいます。
ようするに、これらの神々がすべてニアリーイコールの関係で物部をつなぐシンボルになってるんですね。
たとえば大阪の八尾に住んでいたとき、近所に矢作(やはぎ)神社がありました。
その近くには弓削(ゆげ)という名の地域もあり、同名の弓削神社が二社あります。
ここには弓をつくる弓削氏と矢をつくる矢作氏がいて、かれらはみずからの武器生産の技術を誇っていました。
この一帯はやはり物部氏が支配する地域でした。
矢作神社は物部氏の祖先の経津主命(フツヌシノミコト)を主祭神としてまつっています。
弓削神社は二社とも主祭神が饒速日命(ニギハヤヒノミコト)です。
おなじ物部の神社にもかかわらず祭神に統一性がないのは、物部があがめたのは物部にまつわる物語そのもの(霊威)だからでしょう。
そういう意味では、大蛇(波牟)もやはり物部の原点にかかわった存在として、信仰の対象になり得たのだとおもいます。
すこし憶測をまじえると、物部氏の中では、製鉄一族の意味も込めて神剣の霊威が最上位のシンボルだったのかもしれません。
岡山の石上布都魂神社にあったスサノオの神剣が石上神宮に遷されたのも、唯一無二のモノは最上位の石上神宮にまつられるべきだ、ということだったのでしょう。
そしてほかの物部系の神社では経津主命や饒速日命、あるいはスサノオをまつった。
では、大蛇である波牟がまつられる神社があったのはなぜでしょう。
いくつか推測できるのですが、まずは製鉄とも関係がなく、祭神でもないということは、物部の神社としての格が低かった可能性です。
当地の神社においても、創建年がかなり遅い(平安末期)ことを考えると、由緒あるご神体にあずかることができなかった可能性があります。
あるいは大蛇という物騒なものをシンボルにする以上、物部の中でも実戦集団のような荒っぽい立ち位置にあったのかもしれません。
この点についても当地は古くから武家が出張っていた場所で、おそらく相当荒くれた土地柄でした。
しかしこれらはいずれも推測の域を出ません。
物部氏にとっては神武天皇の宝剣も、高天原の神から授かった宝も、スサノオの宝剣も、ヤマタノオロチも、経津主命や饒速日命、スサノオ、宇摩志麻遅命といった神々も、物部氏の物語に関係したすべてが信仰の対象になり得たのでしょう。
そういうわけで、ギズモさんのおっしゃった、蛇ではなく剣がご神体だったのではないか、というお話は、すべて物部の物語としてつながっているという点でほぼ正解だとわたしはおもいます。
さて、物部とスサノオと出雲の関係性について考えてみましょう。
時系列でいうと、
・スサノオと物部氏は大国主の出雲国が成立するより前に、製鉄の面で密接にかかわっている。
・スサノオは出雲国の大将(王様)だったが、大国主(国造家)に出雲国を統治させ、国造家は一時は日本の頭領になるほどの勢いがあった。
・経津主命(物部氏の祭神)はタケミカヅチとともに出雲王国がヤマト王権に帰属するよう国譲りを迫り、国譲りを実現させた。
・経津主命は神武天皇の宝剣とおなじとみなされていることから、すなわち神武天皇(ヤマト王権)に製鉄利権が移ったことも示唆している。
ということになります。
余談ですが、布都(フツ)という言葉は刀剣で鋭く切り裂くさまをあらわす言葉とされています。
といっても、じつはそのパターンにあてはまらない神がいて、大国主の子にワカフツヌシ(和加布都努志、和加布都怒志、若布都主、若経津主)という神がいました。
この神はフツという名を持つのですが、農耕と狩猟の神であり、刀剣や鉄生産とは関係がありません。
名前から考えると「若かったころの経津主命」と考えられそうですが、出雲国をヤマト王権に帰順させたのが経津主命でしたから、出雲の神ということになるとつじつまが合いません。
この例外があるために、どうも一説によると、刀剣の鋭く切り裂くさまをあらわす言葉としての「フツ」ではなく、古代朝鮮にフツ(布都)やフル(布留)という言葉があったのではないかという推測もなされているようです。
つまりフツやフルという言葉を冠することで、「わたしは古代朝鮮の者である」という意味合いも含まれるのではないかというのです。
そうすると、スサノオが新羅からやってきたことや、そのスサノオの神剣をご神体とする物部氏と「フツ」という言葉がつながるでしょう。
大国主の子に刀剣と関係のないワカフツヌシがいることの食い違いも解消されるのは確かです。
しかし、朝鮮の氏族であることをわざわざ日本のご神体にするほど誇らねばならない意味がわかりません。
フツと刀剣のつながりは、ワカフツヌシを除けば成立しています。
神話に関してのあたらしい見解が現れるまでは、いまのところはやはりワカフツヌシは例外だと考えたほうがいいでしょう。
ところでスサノオについて、朝鮮に興味深い文献が残されています。
『三国遺事』といって、13世紀後半に僧侶の一然 (普覚国師) が、古代朝鮮(新羅,高句麗,百済)についての古い記録を収集した書物です。
この中に、「ヨノランとセオニョ」の物語があります。
2世紀のなかごろ、新羅の国でヨノランが海藻をとっていると、突然岩があらわれてヨノランを出雲に連れて行ってしまいました。
出雲にたどりついたヨノランは王として迎えられます。
一方、セオニョがいつまでも帰ってこない夫を心配して海に行くと、またも岩があらわれて、セオニョも出雲へ連れてこられました。
そしてセオニョはあらためてヨノランの王妃となります。
そのころ、新羅では太陽と月が光を失っていました。
ヨノランが太陽で、セオニョが月だったために、このようなことになったというのです。
新羅はふたりを返してくれるように出雲に頼みます。
しかしヨノランは、「これは天が決めたことだから帰れない。そのかわりセオニョの織った反物をまつれば、太陽と月は光を取り戻すだろう」と言いました。
そこで新羅の使者が反物を持ち帰り、祭事を執り行ったところ、ヨノランの言ったとおり光が取り戻された、という話です。
この話は現代の日本でおかしな形に曲折し、ヨノランが鉄生産の技術を日本に教えた、というような蛇足がついてしまいましたが、三国遺事の原典にはそのようなことは書かれていないそうです。
しかしそういった恣意的なこじつけをのぞいても、ヨノランとスサノオの接点はあきらかでしょう。
スサノオが朝鮮の出自なのか、あるいは日本(高天原)から追い出されたスサノオが朝鮮へ行き、また戻ってきたのかはわかりません。
スサノオがくるまでの出雲に製鉄技術があったかどうかもはっきりしません。
しかしスサノオが朝鮮から出雲へやってきたのは確かなようです。
ヤマタノオロチ神話を考えると、出雲にもともとあった製鉄集団をスサノオが襲って、製鉄利権を牛耳ったとも考えられます。
しかし一方で、スサノオ自身が製鉄技術を築いて、現地の人々を使役し、山々を赤く染め上げるほどの巨大製鉄所をつくったとも考えられます。
わたしにはどうも、後者が正解のような気がしています。
興味深いのは、たたら製鉄は日本独自の技術だということでした。
たたら製鉄は出雲が発祥です。
あるいはスサノオは、出雲でたたら製鉄そのものを生み出した技術者だったのかもしれません。
それはつまり、日本刀を生み出す玉鋼の生産技術を世界で最初に伝えたパイオニアということでもあります。
出雲の山を伝う赤い溶鋼を制する者として、ヤマタノオロチを制したスサノオの物語ができたようにおもえてなりません。
以下、さらに憶測です。
たたら製鉄をするには燃料となる木材が取れる山、そして砂鉄がとれる特殊な川も必要で、そこから鉄器が生み出されていきます。
スサノオは出雲の山々をフル稼働させて、現地の人足を用いてたたら場をつくらせ、山々の木を丸裸にするほど伐採。
丸裸にした山に植林し、四半世紀でまた伐採できる木々をよみがえらせ、周辺の川から大量の砂鉄を収穫。
それらを利用して鉄器はもちろん、玉鋼によっておそるべき切れ味を誇る刀をつくりあげるという、当時だれも成しえなかった巨大武器産業を生み出す剛腕をふるいました。
同時に、その地で細々と農業をしていた住民たちは、突如として山が丸裸になって土砂崩れが起きたり、鉄穴流しによって土砂が下流に流れたり、鉄鋼産業で発生する有害な産業廃棄物に悩まされます。
スサノオに巻き込まれた出雲の住民たちは、その手腕の荒さにへきえきしながらも、その能力にはひれ伏すしかなかったのではないでしょうか。
この憶測から「ハヤスサノオ」という言葉を考えると、どうも「時は金なり」の商売人としての優秀さと荒々しさを想像してしまいます。
さらに突飛な憶測を重ねると、スサノオが出雲で詠んだという「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」という一首。
この八雲は、一般的には島根県のたとえば宍道湖や中海からたなびく水蒸気の雲と考えるべきでしょう。
が、あるいはたたらの製鉄所から湧き上がる煙を、創設者のスサノオみずからが賞賛したのかもしれません。
「もっとたたらを踏んで、鉄を溶かして煙を上げろ 出雲に雲をなびかせよ 大事な妻を守るためにこの国をどこまでも堅固にするのだ」
という意味にもおもえてきます。
しかし出雲の権力者となったスサノオと、その後出雲の地を平定した大国主の関係ははっきりしません。
各書を読んでも、スサノオと大国主には血縁があったかもしれないし、なかったかもしれない。
日本書紀では親子だということになっているのですが、それ以外ではどうも関係性がはっきりしないのです。
いずれにせよ、大国主こそが出雲を統治し、一時はその名の通り全国を支配する勢いのあった存在で、スサノオは出雲の大将にとどまったことはたしかなようです。
この点でも憶測を働かせると……
スサノオが画期的な製鉄技術とその利権で出雲の王者として君臨していたところへ、バツグンの政治的能力をもった大国主(国造家)がやってくる。
大国主はスサノオに会うなり「あなたこそがこの国を築いた父だ」と慕い、持ち上げます。
スサノオは大国主に悪い気はしませんでしたが、それが政治的な手口だとも気づいていましたから、あれこれ難癖をつけて大国主を困らせました。
しかし大国主の政治的な老獪さと賢さはスサノオを上回っていたため、結局スサノオは大国主の出雲統治を許し、それどころかじぶんの娘さえも大国主にめとらせた……といったところです。
ちなみに大国主は浮気性で、たくさんの妻がいたそうですが、これはそれだけ大国主の政治的能力が高かったということであり、よその国の有力者と政略的に結びついて、その証としてその地の王族と複数の婚姻関係を結ぶことを拒まなかったのでしょう。
さて、このスサノオが物部氏とどう関係するのでしょうか。
スサノオの神剣をご神体にするほど関係性が濃いにもかかわらず、先代旧事本紀では、物部氏は生駒に天孫降臨したニギハヤヒノミコトに付き従った守護者からスタートしています。
近畿と出雲では、王国も違いますし、接点は失われます。
わたしはこのように考えます。
ニギハヤヒノミコトに従う前は、吉備のあたりにも物部の王国がありました。
あるいは吉備の物部もニギハヤヒノミコトに帰順したのかもしれませんが、その場合はスサノオは「国交」として物部を受け入れたかもしれません。
物部氏は、スサノオの製鉄技術、特に玉鋼による日本刀生産に目を付けました。
この武器利権に物部の将来性を感じたのです。
そしてスサノオからたたら製鉄の技術を授かり、物部氏は「鉄の道」を通じてたたら製鉄を近畿地方にも広めました。
https://articles.mapple.net/bk/8381/
かくして鉄生産の原点として、物部氏はスサノオをあがめることになります。
そしてその後、神武天皇がヤマト王権をつくるときの神剣も物部がつくったものだということを、ご神体にしてまつったのでしょう。
そろそろまとめますが、個人的には物部氏は「製鉄ネットワークを利用した武装集団」といった印象です。
鉄器生産技術を全国に広めて、その莫大な利権でみずからも武装して私兵化していたのではないか。
社会の表舞台に出てくるよりも、裏社会で活躍するタイプ。
その後、物部守屋の一派は負けはしたものの、いち豪族が朝廷の主力勢力とドンパチできるほどの武力を有していたわけです。
剣をシンボルとして、ある場所ではヘビ(オロチ・龍)さえあがめる、なんだか暴走族ややくざを想起させるいかつい集団です(笑)
それでは、物部氏の最後の話で終わりにしましょう。
物部太媛(ふとひめ)という女性がいました。
別名を、布都姫(ふつひめ)、石上夫人などといいます。
彼女は物部守屋の妹でした。
太媛は腹違いの兄弟である物部石上贄古(物部贄子)と結婚し、子を4人もうけます。
物部守屋を討伐したのは蘇我馬子ですが、なぜか太媛の娘が馬子の妻(鎌足姫(鎌姫)大刀自)となったといいます。
日本書紀では、物部守屋の妹が馬子の妻だったと記されており、食い違いがあります。
しかしいずれにせよ、物部守屋を殺した蘇我馬子が、なぜ物部守屋の縁者と結ばれるのでしょう。
これだけでも太媛はかなり興味深い人物なのですが、太媛はさらに当時の天皇である崇峻天皇の妻のひとりにもなるのです。
そして石上神宮の斎神の長(頭)として、崇峻天皇の御代には朝廷の政にも参加していたそうな。
近親の豪族風情と四人の子をなした女がを、当時の重臣である蘇我馬子や、崇峻天皇が競って奪うなんてことがあるでしょうか。
きわめて不自然です。
個人的には物部石上贄古の存在がかなり怪しいとおもったのですが、そもそもこの時代はおそろしくきなくさいのです。
太媛が嫁いだ崇峻天皇は、歴代天皇の中で唯一、臣下によって暗殺されています。
その臣下とは、蘇我馬子の部下でした。
蘇我馬子が命じて、崇峻天皇を暗殺させたのです。
崇峻天皇と蘇我馬子がなぜ対立したのかは、はっきりしません。
しかし崇峻天皇が亡くなった後に即位した推古天皇(額田部皇女)は、蘇我馬子と二頭政治を行います。
つまり蘇我馬子は崇峻天皇を殺害したことで、実質的に朝廷のトップとして政を行ったのでした。
推古天皇も天皇になるまでの間の動きがずいぶん怪しいのですが、ここでは話を端折ります。
推古天皇は聖徳太子を皇太子にしたといいます。
このあたりはご存じのとおり、ほんとうの歴史なのかどうかがはっきりしません。
蘇我馬子と推古天皇が「じぶんたちにとって都合のいい歴史」を創作していた可能性は否定できません。
さて、ここからまた憶測の物語です。
仏教を取り入れたい蘇我氏にとって、物部氏は邪魔な存在でした。
特に物部守屋は排仏イデオロギーに染まりきって、仏教とみるだけで攻撃せずにいられないのです。
寺院仏塔は破壊する、僧侶をむちゃくちゃに暴行するなど、きわめて過激な行動に及んでいました。
蘇我氏と物部氏の間で戦争が起こりそうな空気が漂い始めます。
しかしこのとき、物部氏の中でも、守屋の行動に疑問を感じる者がいました。
守屋に巻き込まれるのはバカバカしい、この局面でうまく立ち回るにはどうすればよいのか考えたのが、物部石上贄古と太媛でした。
物部石上贄古と太媛と子供たちも含めて、物部氏の生き残りを図るために、スパイとして朝廷と結びつくことに成功します。
朝廷側も物部守屋に手を焼いていましたし、べつに物部氏そのものを滅ぼしたいわけではなかったので、太媛たちの寝返りを喜びました。
かくして太媛は崇峻天皇の妻ということになり、さらには蘇我馬子にとっても都合の良い女として立ち回りました。
それは記紀に描かれるような実際の妻というよりは、崇峻天皇や蘇我馬子のそばにいて、物部氏の動向を伝える役割だったのでしょう。
さて、物部守屋は討伐されましたが、崇峻天皇は政権をおもうままにあやつる蘇我馬子に不快をおぼえました。
しかし蘇我馬子はその崇峻天皇の思惑さえ逆手に取ります。
天皇がボソッと「憎いと思っている者を斬りたいものだ」といっただけで、馬子はわたしに向けて言ったものだと解釈し、ただそれだけの理由で、天皇を暗殺させたのです。
太媛も物部石上贄古も、生没年が不詳です。
太媛は寝返りの功績として石上神宮の頭となり、崇峻天皇の在位のうちは国政にも携わったといいますが、その後どのような運命になったのかはわかりません。
物部石上贄古は、石上の名がつくだけでなく、「贄(にえ)」という言葉が入っています。
かれはもしかしたら、物部守屋を贄にささげて、石上の物部氏としての地位を築いたのではないでしょうか。
そのように考えると、生き残り戦略に長けた太媛と物部石上贄古は、崇峻天皇に守屋という贄をささげたあと、崇峻天皇亡きあとの蘇我馬子にもうまく取り入って、石上神宮の神官としてつつがなく晩年を送ったかもしれないとおもっています。
と、憶測を重ねましたが、物部守屋の戦争の裏でどのような謀略がうずまいていたのか、歴史の真相はやはりやぶの中です。
しかし確実なのは、石上神宮周辺にいた物部氏は、大阪で戦争をしていた物部守屋には積極的に与せず、静観していたということです。
結果、物部守屋は敗れましたし、物部という氏族そのものも衰退しました。
にもかかわらず石上の物部氏は生き残り、全国の物部氏が排斥されることもなかったのです。
さて、これで物部氏の話はおしまいです。
長くなりましたし、ややこしい話でしたが、伝わりましたでしょうか。
しかし巳年の最後にヘビの話をすることになるとは、不思議なことです(笑)
ギズモさんのご返信にいろいろと返信したかったのですが、結局今回もひとつの問題点に答えることに終始してしまいました。
複雑な内容ですので、今回は返信の日にこだわらずゆっくりと読んでみて、また感想やご意見をお聞かせください。
というのも、前回物部氏について調べているときに、物部氏はスサノオやヤマタノオロチにかなり関係が深いのではないか、とおもってはいました。
ただ点と点はそろっているのですが、ここはすこし掘っただけで、大量の問題点が出てくるのです。
これは物部とスサノオの関係までは手が回らないなと判断しました。
それで結局、ヘビをまつる神社にヘビを退治したスサノオがまつられた、といってお茶を濁したのです。
ところがギズモさんから、このいちばん突かれると弱るところについてご指摘があったので、狼狽してしまいました(笑)
そしていま、いろいろ調べている最中なんですが、案の定泥沼です。
今回はとうとう1万字を越えてしまいました。
わたし自身かなり苦労して、きっと読むにあたって登場人物も多くとっつきづらいとはおもうのですが、興味深い内容にはなっているとおもいますので、ぜひ気負わずゆっくり読んでみてください。
物部氏については、先代旧事本紀という古い書物があります。
平安時代初期ごろに書かれたといわれますが、作者は不詳です。
ほとんど古事記や日本書紀を模したような内容なのですが、物部氏にかなり肩入れした改変があるのが特徴です。
江戸時代に国学者から偽書と指摘されるまでは、古事記や日本書紀より、こちらが日本最古の神話として神道関係者に読まれていました。
この先代旧事本紀によると、物部氏はニギハヤヒノミコトに付き従う守護者として、大和の地に
場所は大阪と奈良を隔てる霊峰 生駒山の北側、河上哮ケ峯(いかるがみね)といわれます。
天孫降臨というとニニギノミコトが宮崎県の高千穂のあたりに降臨した、という伝説が一般的だとおもうんですが、実際には「一方そのころ」という形で各地べつの話が進みます。
ニニギノミコトが高千穂に天孫降臨した一方そのころ、ニギハヤヒノミコトは生駒山に降臨しました。
そしてさらに一方そのころ、スサノオは高天原を追い出されて朝鮮のソシモリへ行き、その後出雲でヤマタノオロチを退治するのです。
4~5世紀ごろにヤマト王権が統一国家をつくるまで、日本にはそれぞれ主権を狙う王族が割拠していました。
神々が降臨したのは、このややこしい時代です。
神話のフィルタを取りのぞくと、卑弥呼が倭国大乱を鎮めたのですが、死後にふたたび日本の国土は乱れます。
この乱世の時代に、物部氏とスサノオをはじめ、出雲の王族たちがどのように関係してきたのかということが今回のテーマになります。
出雲国風土記によると、スサノオは出雲の地を開拓した製鉄神のように描かれているといいます。
製鉄は古代日本にとって最重要の軍需産業でした。
物部氏はスサノオの宝剣をまつっていますから、スサノオが築いた製鉄産業に相当深くからんでいたようです。
物部氏はもともと古代吉備王国(岡山)を支配していたという説があります。
津山市から20kmほど南の赤磐市に石上布都魂神社があります。
創建年は不詳で、神代にはあったとされるほど古い神社です。
奈良の石上神宮ともつながりが深く、もともとスサノオの宝剣は石上布都魂神社にまつられていて、仁徳天皇の御代に石上神宮に遷されたんだそうな。
吉備王国(物部王国)は奈良時代までにはヤマト王権に帰順したといわれますが、仁徳天皇が宝剣を奈良に遷した以上、この時期までには吉備王国の独立性は失われていた可能性が高いですね。
しかし物部氏自体は、出雲から製鉄技術を学び、岡山の津山、赤磐を通ってヤマト国までの「鉄の道」をつくり、さらに全国に鉄鋼技術を広めたことで、ヤマト王権内でも権力を高めたようです。
このことを考えると、現在の岡山県に物部の姓が多いのもうなずけます。
ところでギズモさんから、石上神宮の布都斯魂大神のお話がありました。
冒頭に述べたとおり、わたしはこの話を読んで頭をかいたわけですが、ヘビではなく剣をご神体としてあがめていたのではないかというギズモさんの推測は、ほぼ正解だとおもいます。
この件は物部氏とスサノオと出雲をつなぐ、ものすごく重大な意味をもっていました。
石上神宮には布都御魂大神と布留御魂大神、そして布都斯魂大神がまつられています。
これらはすべて人ではなく、剣と宝という「モノ」をまつっており、しかもモノに込められた神格をまつっているわけです。
そういえば、つい先日NHKの特集番組で手塚治虫が、「アニメというのはアニミズムからきているように、つまり生命のないものに生命を与える技術でしょう」と言ってたんです。
生命のないものに生命を与えるのがアニミズムだとすれば、排仏派で古神道を重んじた物部氏が、剣や宝という無機物に魂を与えてご神体にしたというのは、あまりにも「物部」らしい話だと感じました。
物部氏は饒速日命とともに近畿へ天孫降臨したのですが、この一族はその後神武天皇が東遷した際に帰順しました。
そして物部氏は神武天皇がヤマトを平定するときに用いた剣の霊威を神格化して、布都御魂大神としてまつっています。
布留御魂大神は、饒速日命が天孫降臨する際に、高天原の神から授かった「天璽十種瑞宝」(あまつしるしとくさのみづのたから)の霊威です。
そして布都斯魂大神は、スサノオがヤマタノオロチを退治したときの神剣ですね。
つまり石上神宮では、間接的に神武天皇と饒速日命とスサノオを祭神にしている、ともいえます。
ところで、これらのモノ以外にも、物部氏の祭神には経津主命がいます。
一説には経津主命はさきほどの布都御魂大神(神武天皇の宝剣)の擬神化だといいます。
ようするに、これらの神々がすべてニアリーイコールの関係で物部をつなぐシンボルになってるんですね。
たとえば大阪の八尾に住んでいたとき、近所に矢作(やはぎ)神社がありました。
その近くには弓削(ゆげ)という名の地域もあり、同名の弓削神社が二社あります。
ここには弓をつくる弓削氏と矢をつくる矢作氏がいて、かれらはみずからの武器生産の技術を誇っていました。
この一帯はやはり物部氏が支配する地域でした。
矢作神社は物部氏の祖先の経津主命(フツヌシノミコト)を主祭神としてまつっています。
弓削神社は二社とも主祭神が饒速日命(ニギハヤヒノミコト)です。
おなじ物部の神社にもかかわらず祭神に統一性がないのは、物部があがめたのは物部にまつわる物語そのもの(霊威)だからでしょう。
そういう意味では、大蛇(波牟)もやはり物部の原点にかかわった存在として、信仰の対象になり得たのだとおもいます。
すこし憶測をまじえると、物部氏の中では、製鉄一族の意味も込めて神剣の霊威が最上位のシンボルだったのかもしれません。
岡山の石上布都魂神社にあったスサノオの神剣が石上神宮に遷されたのも、唯一無二のモノは最上位の石上神宮にまつられるべきだ、ということだったのでしょう。
そしてほかの物部系の神社では経津主命や饒速日命、あるいはスサノオをまつった。
では、大蛇である波牟がまつられる神社があったのはなぜでしょう。
いくつか推測できるのですが、まずは製鉄とも関係がなく、祭神でもないということは、物部の神社としての格が低かった可能性です。
当地の神社においても、創建年がかなり遅い(平安末期)ことを考えると、由緒あるご神体にあずかることができなかった可能性があります。
あるいは大蛇という物騒なものをシンボルにする以上、物部の中でも実戦集団のような荒っぽい立ち位置にあったのかもしれません。
この点についても当地は古くから武家が出張っていた場所で、おそらく相当荒くれた土地柄でした。
しかしこれらはいずれも推測の域を出ません。
物部氏にとっては神武天皇の宝剣も、高天原の神から授かった宝も、スサノオの宝剣も、ヤマタノオロチも、経津主命や饒速日命、スサノオ、宇摩志麻遅命といった神々も、物部氏の物語に関係したすべてが信仰の対象になり得たのでしょう。
そういうわけで、ギズモさんのおっしゃった、蛇ではなく剣がご神体だったのではないか、というお話は、すべて物部の物語としてつながっているという点でほぼ正解だとわたしはおもいます。
さて、物部とスサノオと出雲の関係性について考えてみましょう。
時系列でいうと、
・スサノオと物部氏は大国主の出雲国が成立するより前に、製鉄の面で密接にかかわっている。
・スサノオは出雲国の大将(王様)だったが、大国主(国造家)に出雲国を統治させ、国造家は一時は日本の頭領になるほどの勢いがあった。
・経津主命(物部氏の祭神)はタケミカヅチとともに出雲王国がヤマト王権に帰属するよう国譲りを迫り、国譲りを実現させた。
・経津主命は神武天皇の宝剣とおなじとみなされていることから、すなわち神武天皇(ヤマト王権)に製鉄利権が移ったことも示唆している。
ということになります。
余談ですが、布都(フツ)という言葉は刀剣で鋭く切り裂くさまをあらわす言葉とされています。
といっても、じつはそのパターンにあてはまらない神がいて、大国主の子にワカフツヌシ(和加布都努志、和加布都怒志、若布都主、若経津主)という神がいました。
この神はフツという名を持つのですが、農耕と狩猟の神であり、刀剣や鉄生産とは関係がありません。
名前から考えると「若かったころの経津主命」と考えられそうですが、出雲国をヤマト王権に帰順させたのが経津主命でしたから、出雲の神ということになるとつじつまが合いません。
この例外があるために、どうも一説によると、刀剣の鋭く切り裂くさまをあらわす言葉としての「フツ」ではなく、古代朝鮮にフツ(布都)やフル(布留)という言葉があったのではないかという推測もなされているようです。
つまりフツやフルという言葉を冠することで、「わたしは古代朝鮮の者である」という意味合いも含まれるのではないかというのです。
そうすると、スサノオが新羅からやってきたことや、そのスサノオの神剣をご神体とする物部氏と「フツ」という言葉がつながるでしょう。
大国主の子に刀剣と関係のないワカフツヌシがいることの食い違いも解消されるのは確かです。
しかし、朝鮮の氏族であることをわざわざ日本のご神体にするほど誇らねばならない意味がわかりません。
フツと刀剣のつながりは、ワカフツヌシを除けば成立しています。
神話に関してのあたらしい見解が現れるまでは、いまのところはやはりワカフツヌシは例外だと考えたほうがいいでしょう。
ところでスサノオについて、朝鮮に興味深い文献が残されています。
『三国遺事』といって、13世紀後半に僧侶の一然 (普覚国師) が、古代朝鮮(新羅,高句麗,百済)についての古い記録を収集した書物です。
この中に、「ヨノランとセオニョ」の物語があります。
2世紀のなかごろ、新羅の国でヨノランが海藻をとっていると、突然岩があらわれてヨノランを出雲に連れて行ってしまいました。
出雲にたどりついたヨノランは王として迎えられます。
一方、セオニョがいつまでも帰ってこない夫を心配して海に行くと、またも岩があらわれて、セオニョも出雲へ連れてこられました。
そしてセオニョはあらためてヨノランの王妃となります。
そのころ、新羅では太陽と月が光を失っていました。
ヨノランが太陽で、セオニョが月だったために、このようなことになったというのです。
新羅はふたりを返してくれるように出雲に頼みます。
しかしヨノランは、「これは天が決めたことだから帰れない。そのかわりセオニョの織った反物をまつれば、太陽と月は光を取り戻すだろう」と言いました。
そこで新羅の使者が反物を持ち帰り、祭事を執り行ったところ、ヨノランの言ったとおり光が取り戻された、という話です。
この話は現代の日本でおかしな形に曲折し、ヨノランが鉄生産の技術を日本に教えた、というような蛇足がついてしまいましたが、三国遺事の原典にはそのようなことは書かれていないそうです。
しかしそういった恣意的なこじつけをのぞいても、ヨノランとスサノオの接点はあきらかでしょう。
スサノオが朝鮮の出自なのか、あるいは日本(高天原)から追い出されたスサノオが朝鮮へ行き、また戻ってきたのかはわかりません。
スサノオがくるまでの出雲に製鉄技術があったかどうかもはっきりしません。
しかしスサノオが朝鮮から出雲へやってきたのは確かなようです。
ヤマタノオロチ神話を考えると、出雲にもともとあった製鉄集団をスサノオが襲って、製鉄利権を牛耳ったとも考えられます。
しかし一方で、スサノオ自身が製鉄技術を築いて、現地の人々を使役し、山々を赤く染め上げるほどの巨大製鉄所をつくったとも考えられます。
わたしにはどうも、後者が正解のような気がしています。
興味深いのは、たたら製鉄は日本独自の技術だということでした。
たたら製鉄は出雲が発祥です。
あるいはスサノオは、出雲でたたら製鉄そのものを生み出した技術者だったのかもしれません。
それはつまり、日本刀を生み出す玉鋼の生産技術を世界で最初に伝えたパイオニアということでもあります。
出雲の山を伝う赤い溶鋼を制する者として、ヤマタノオロチを制したスサノオの物語ができたようにおもえてなりません。
以下、さらに憶測です。
たたら製鉄をするには燃料となる木材が取れる山、そして砂鉄がとれる特殊な川も必要で、そこから鉄器が生み出されていきます。
スサノオは出雲の山々をフル稼働させて、現地の人足を用いてたたら場をつくらせ、山々の木を丸裸にするほど伐採。
丸裸にした山に植林し、四半世紀でまた伐採できる木々をよみがえらせ、周辺の川から大量の砂鉄を収穫。
それらを利用して鉄器はもちろん、玉鋼によっておそるべき切れ味を誇る刀をつくりあげるという、当時だれも成しえなかった巨大武器産業を生み出す剛腕をふるいました。
同時に、その地で細々と農業をしていた住民たちは、突如として山が丸裸になって土砂崩れが起きたり、鉄穴流しによって土砂が下流に流れたり、鉄鋼産業で発生する有害な産業廃棄物に悩まされます。
スサノオに巻き込まれた出雲の住民たちは、その手腕の荒さにへきえきしながらも、その能力にはひれ伏すしかなかったのではないでしょうか。
この憶測から「ハヤスサノオ」という言葉を考えると、どうも「時は金なり」の商売人としての優秀さと荒々しさを想像してしまいます。
さらに突飛な憶測を重ねると、スサノオが出雲で詠んだという「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」という一首。
この八雲は、一般的には島根県のたとえば宍道湖や中海からたなびく水蒸気の雲と考えるべきでしょう。
が、あるいはたたらの製鉄所から湧き上がる煙を、創設者のスサノオみずからが賞賛したのかもしれません。
「もっとたたらを踏んで、鉄を溶かして煙を上げろ 出雲に雲をなびかせよ 大事な妻を守るためにこの国をどこまでも堅固にするのだ」
という意味にもおもえてきます。
しかし出雲の権力者となったスサノオと、その後出雲の地を平定した大国主の関係ははっきりしません。
各書を読んでも、スサノオと大国主には血縁があったかもしれないし、なかったかもしれない。
日本書紀では親子だということになっているのですが、それ以外ではどうも関係性がはっきりしないのです。
いずれにせよ、大国主こそが出雲を統治し、一時はその名の通り全国を支配する勢いのあった存在で、スサノオは出雲の大将にとどまったことはたしかなようです。
この点でも憶測を働かせると……
スサノオが画期的な製鉄技術とその利権で出雲の王者として君臨していたところへ、バツグンの政治的能力をもった大国主(国造家)がやってくる。
大国主はスサノオに会うなり「あなたこそがこの国を築いた父だ」と慕い、持ち上げます。
スサノオは大国主に悪い気はしませんでしたが、それが政治的な手口だとも気づいていましたから、あれこれ難癖をつけて大国主を困らせました。
しかし大国主の政治的な老獪さと賢さはスサノオを上回っていたため、結局スサノオは大国主の出雲統治を許し、それどころかじぶんの娘さえも大国主にめとらせた……といったところです。
ちなみに大国主は浮気性で、たくさんの妻がいたそうですが、これはそれだけ大国主の政治的能力が高かったということであり、よその国の有力者と政略的に結びついて、その証としてその地の王族と複数の婚姻関係を結ぶことを拒まなかったのでしょう。
さて、このスサノオが物部氏とどう関係するのでしょうか。
スサノオの神剣をご神体にするほど関係性が濃いにもかかわらず、先代旧事本紀では、物部氏は生駒に天孫降臨したニギハヤヒノミコトに付き従った守護者からスタートしています。
近畿と出雲では、王国も違いますし、接点は失われます。
わたしはこのように考えます。
ニギハヤヒノミコトに従う前は、吉備のあたりにも物部の王国がありました。
あるいは吉備の物部もニギハヤヒノミコトに帰順したのかもしれませんが、その場合はスサノオは「国交」として物部を受け入れたかもしれません。
物部氏は、スサノオの製鉄技術、特に玉鋼による日本刀生産に目を付けました。
この武器利権に物部の将来性を感じたのです。
そしてスサノオからたたら製鉄の技術を授かり、物部氏は「鉄の道」を通じてたたら製鉄を近畿地方にも広めました。
https://articles.mapple.net/bk/8381/
かくして鉄生産の原点として、物部氏はスサノオをあがめることになります。
そしてその後、神武天皇がヤマト王権をつくるときの神剣も物部がつくったものだということを、ご神体にしてまつったのでしょう。
そろそろまとめますが、個人的には物部氏は「製鉄ネットワークを利用した武装集団」といった印象です。
鉄器生産技術を全国に広めて、その莫大な利権でみずからも武装して私兵化していたのではないか。
社会の表舞台に出てくるよりも、裏社会で活躍するタイプ。
その後、物部守屋の一派は負けはしたものの、いち豪族が朝廷の主力勢力とドンパチできるほどの武力を有していたわけです。
剣をシンボルとして、ある場所ではヘビ(オロチ・龍)さえあがめる、なんだか暴走族ややくざを想起させるいかつい集団です(笑)
それでは、物部氏の最後の話で終わりにしましょう。
物部太媛(ふとひめ)という女性がいました。
別名を、布都姫(ふつひめ)、石上夫人などといいます。
彼女は物部守屋の妹でした。
太媛は腹違いの兄弟である物部石上贄古(物部贄子)と結婚し、子を4人もうけます。
物部守屋を討伐したのは蘇我馬子ですが、なぜか太媛の娘が馬子の妻(鎌足姫(鎌姫)大刀自)となったといいます。
日本書紀では、物部守屋の妹が馬子の妻だったと記されており、食い違いがあります。
しかしいずれにせよ、物部守屋を殺した蘇我馬子が、なぜ物部守屋の縁者と結ばれるのでしょう。
これだけでも太媛はかなり興味深い人物なのですが、太媛はさらに当時の天皇である崇峻天皇の妻のひとりにもなるのです。
そして石上神宮の斎神の長(頭)として、崇峻天皇の御代には朝廷の政にも参加していたそうな。
近親の豪族風情と四人の子をなした女
きわめて不自然です。
個人的には物部石上贄古の存在がかなり怪しいとおもったのですが、そもそもこの時代はおそろしくきなくさいのです。
太媛が嫁いだ崇峻天皇は、歴代天皇の中で唯一、臣下によって暗殺されています。
その臣下とは、蘇我馬子の部下でした。
蘇我馬子が命じて、崇峻天皇を暗殺させたのです。
崇峻天皇と蘇我馬子がなぜ対立したのかは、はっきりしません。
しかし崇峻天皇が亡くなった後に即位した推古天皇(額田部皇女)は、蘇我馬子と二頭政治を行います。
つまり蘇我馬子は崇峻天皇を殺害したことで、実質的に朝廷のトップとして政を行ったのでした。
推古天皇も天皇になるまでの間の動きがずいぶん怪しいのですが、ここでは話を端折ります。
推古天皇は聖徳太子を皇太子にしたといいます。
このあたりはご存じのとおり、ほんとうの歴史なのかどうかがはっきりしません。
蘇我馬子と推古天皇が「じぶんたちにとって都合のいい歴史」を創作していた可能性は否定できません。
さて、ここからまた憶測の物語です。
仏教を取り入れたい蘇我氏にとって、物部氏は邪魔な存在でした。
特に物部守屋は排仏イデオロギーに染まりきって、仏教とみるだけで攻撃せずにいられないのです。
寺院仏塔は破壊する、僧侶をむちゃくちゃに暴行するなど、きわめて過激な行動に及んでいました。
蘇我氏と物部氏の間で戦争が起こりそうな空気が漂い始めます。
しかしこのとき、物部氏の中でも、守屋の行動に疑問を感じる者がいました。
守屋に巻き込まれるのはバカバカしい、この局面でうまく立ち回るにはどうすればよいのか考えたのが、物部石上贄古と太媛でした。
物部石上贄古と太媛と子供たちも含めて、物部氏の生き残りを図るために、スパイとして朝廷と結びつくことに成功します。
朝廷側も物部守屋に手を焼いていましたし、べつに物部氏そのものを滅ぼしたいわけではなかったので、太媛たちの寝返りを喜びました。
かくして太媛は崇峻天皇の妻ということになり、さらには蘇我馬子にとっても都合の良い女として立ち回りました。
それは記紀に描かれるような実際の妻というよりは、崇峻天皇や蘇我馬子のそばにいて、物部氏の動向を伝える役割だったのでしょう。
さて、物部守屋は討伐されましたが、崇峻天皇は政権をおもうままにあやつる蘇我馬子に不快をおぼえました。
しかし蘇我馬子はその崇峻天皇の思惑さえ逆手に取ります。
天皇がボソッと「憎いと思っている者を斬りたいものだ」といっただけで、馬子はわたしに向けて言ったものだと解釈し、ただそれだけの理由で、天皇を暗殺させたのです。
太媛も物部石上贄古も、生没年が不詳です。
太媛は寝返りの功績として石上神宮の頭となり、崇峻天皇の在位のうちは国政にも携わったといいますが、その後どのような運命になったのかはわかりません。
物部石上贄古は、石上の名がつくだけでなく、「贄(にえ)」という言葉が入っています。
かれはもしかしたら、物部守屋を贄にささげて、石上の物部氏としての地位を築いたのではないでしょうか。
そのように考えると、生き残り戦略に長けた太媛と物部石上贄古は、崇峻天皇に守屋という贄をささげたあと、崇峻天皇亡きあとの蘇我馬子にもうまく取り入って、石上神宮の神官としてつつがなく晩年を送ったかもしれないとおもっています。
と、憶測を重ねましたが、物部守屋の戦争の裏でどのような謀略がうずまいていたのか、歴史の真相はやはりやぶの中です。
しかし確実なのは、石上神宮周辺にいた物部氏は、大阪で戦争をしていた物部守屋には積極的に与せず、静観していたということです。
結果、物部守屋は敗れましたし、物部という氏族そのものも衰退しました。
にもかかわらず石上の物部氏は生き残り、全国の物部氏が排斥されることもなかったのです。
さて、これで物部氏の話はおしまいです。
長くなりましたし、ややこしい話でしたが、伝わりましたでしょうか。
しかし巳年の最後にヘビの話をすることになるとは、不思議なことです(笑)
ギズモさんのご返信にいろいろと返信したかったのですが、結局今回もひとつの問題点に答えることに終始してしまいました。
複雑な内容ですので、今回は返信の日にこだわらずゆっくりと読んでみて、また感想やご意見をお聞かせください。
2025年11月18日 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する
こちらこそ、わざわざありがとうございます。
では、あのまま残させていただきますね。
物部氏とスサノオの関係性のお話、楽しみにしています!!
くれぐれも、ゆったりペースでご無理のないように、お願いいたします(^^♪
では、あのまま残させていただきますね。
物部氏とスサノオの関係性のお話、楽しみにしています!!
くれぐれも、ゆったりペースでご無理のないように、お願いいたします(^^♪
わたしの地域のお話について、お気遣いありがとうございます。
まったく問題ありませんので、そのままでけっこうです。
次回は物部氏とスサノオの関係性について、すこし踏み込んで書いてみようとおもいます。
まったく問題ありませんので、そのままでけっこうです。
次回は物部氏とスサノオの関係性について、すこし踏み込んで書いてみようとおもいます。
2025年11月17日 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する
今回も、実に読みごたえのある、貴重なお話をありがとうございました。
珍説どころか、農園主さんの道教についての解釈に、どんどん惹き込まれてしまいました。
いつも記事を読ませていただくにあたり、知らない出来事などを調べながら読んでいくのですが、今回はたまたま、ほんのちょっぴりの知識があったため、さらに興味深く読めました。
最近の電子書籍の漫画は、韓国の人が描いている転生ものがとても多いですね。
韓国の漫画を日本語にしているのか、日本にいる韓国系のプロダクションが描いているのかは不明です。
その中で、現代韓国の若い医師が死んで、中国の実在した医師、華佗の若い頃(三国時代で、まだ無名の頃)に生まれ変わったという、無料の漫画を読んでいました。
電子書籍サイト、ピッコマの『転生した外科医~華佗伝~』です。
数年後に黄巾の乱が起きるのを転生前の知識として知っていて、現代の医術も駆使し(なぜか患部を見ただけで、レントゲンのように内臓や血管、骨が見えるという・・・)、大勢の人命を助ける神医として活躍しつつ、黄巾の乱を食い止めようとするストーリーなのですが、史実に基づいて話が作られているようです。
いよいよ有料部分になってきたため、黄巾の乱がまだ起きていない時点で、読むのを中止しました。
太平道や五斗米道、 蟲毒の話も出てきていました。
この頃の、宗教を含めた歴史のお話は、農園主さんが今回書いていただいたことで、わかりやすく理解できました。
三国時代、三国志がどうも理解しにくく、劉邦も劉備もごちゃごちゃになっており、ゲームをやっておけば覚えやすかったかなと、いまさらながら後悔しています(笑)
ゲームをしたり漫画を読むと、苦手な分野、知らなかったことに興味が出ますが、逆に史実をある程度知ってから漫画を読んだりゲームをすると、よけいおもしろいのかもしれませんね。
卑弥呼ですが、農園主さんが以前の記事のリンクをはってくださったので、読みかえしてみました。
今回の記事と合わせ、さらに興味深く、読ませていただきました。
リンク先の記事で、「古代史はあいまいなところが多い分、こういった想像を差し込むゆとりがあるのは、たのしいですね」と書いていらっしゃいますが、いろいろと想像できる、ロマンだと思います。
卑弥呼が操ったまじない、鬼道というものは、やはり農園主さんのお考えのように、道教、または道教の一端だったと考えます。
大陸から伝わったものに自分なりのエッセンスを加え、独自のものにしていったのではないかと思えます。
3世紀頃は、巫女的な存在の女性が権力を持つことが多かったようですが、卑弥呼が多くの女性の中でカリスマとして君臨できたのは、統率力や単純な占い、祭祀だけでなく、他には見られない独特な呪術などを用い、その絶対的な能力を周りに知らしめたからかもしれませんね。
宗教的なものは、その時代ごとの流行もあるかと思いますが、一般的な祝詞や静かにブツブツと唱えるお経より、火を用いた護摩法要や、現実離れした呪術のパフォーマンスのほうが、インパクトがあり心を奪われやすい、悪く言えば民衆を惑わせやすいと思います。
先日お参りした日光のお寺は、天台宗です。
ふだんは真言宗の護摩法要を見たり、参加することが多く、天台宗の護摩法要はほとんど見る機会がありません。
お経もだいぶ違うし、般若心経、ご真言の唱え方も、なんとなく天台宗の方は何を言っているか聞き取りにくく、地味な感じがします。
日光のお寺では、誰でも自由に護摩法要を見ることはできますが、有料で護摩札をお願いすると、護摩壇の前の席に座れます。
今回、お札を申し込んだ人は他にいなかったので、私と主人ふたりだけが護摩壇の前に座り、法要前に僧侶からお話がありました。
密教(台密)なので、普通は外から見えないよう、衣の中で印を結んだり、声も小さく静かに唱えたりするが、今日はおふたりだけなので、僧衣の外で、よく見えるように行います、とのことでした←これは、サービスというのでしょうか(笑)
30分少々でしたが、その修法の圧巻さに驚き、聞きほれ、見とれてしまいました←お坊さんに見とれたわけではないです(笑) もっとも後ろ姿しか見えませんが。
ここは健全なお寺ですが、こういうパフォーマンスに引っかかって、フラフラと入信してしまう類いの宗教もあるんだろうなと思いました(笑)
卑弥呼の鬼道にしろ、平安時代あたりの陰陽師にしろ、おおげさなパフォーマンスやあやしげな仕草は、願いを叶えてくれたり人を呪う力が絶大なんだろうと、人々に思い込ませるに充分だったのでしょう。
話がそれますが、國學院大學博物館で、『企画展「中世日本の神々―物語・姿・秘説―」』というのが開催されていると、ネットのニュースでみたので、行こうと思ったのですが、渋谷という場所はどうも行く気になれないところで、人の多さ、騒々しさに加え、運気を吸い取られる気がし、やめました(笑)
YouTubeに國學院大學博物館のサイトがあったので、企画展の短い展示解説の他、いくつか観てみましたが、以下はその中のひとつです。
https://www.youtube.com/watch?v=IgBwWXNH...
この中におもしろい解説があったので、ご存じのこととは思いますが、引用します。
「古代の神話を題材にした物語、言説が数多くある。そうした場合、『日本紀』すなわち『日本書紀に曰く』、という形でそれらが語られる。しかし、中世期のこういった『日本紀に曰く』、つまり日本紀にはこう書いてありますよとしてあっても、原典の日本書紀をみると、まったくそのような記述はみえないことが往々にしてある。あたかも日本書紀はじめ、古代の神道古典、神話に載っているように装いつつ、実は、中世に新たに語り出された物語もたくさんあるということになる。これは中世日本紀という」
中世の人が、実際は日本書紀などに書かれていないことを、あたかも書かれていたかのように書物を書いたことには、ますますロマンを感じてしまいました(笑)
日本書紀などの古代の書物、言説には信憑性があまりないと認識していたのか、またそうであっても日本書紀をないがしろにはできないので、『日本紀に曰く』と書いて、一応立てつつ、新たな物語を書いたのでしょうか。
実におもしろいですね。
論語の『子曰く』も、同類のような気がしてきました(笑)
神代の昔からの様々な言い伝え、書物は、決して正確なものではないということが、この動画でわかりましたが、神道の大学が言っているからと言って、100%信じられることばかりではないとも思います。
あいまいな点、疑わしい点が多ければ多いほど、より多くの想像を広げることができるし、その中に真実があるかもしれないという、楽しみがあります。
農園主さんのお考えは、どの記事も、単なる想像や珍説ではなく、様々な視点から構築した、優れた論文だと思います。
道教と、前方後円墳の関係も新鮮な驚きでした。
薄葬令は、大化の改新事業の一環ですね。
詳しくは知らず、ざっと調べてみましたが、細かい取り決めがあったんですね。
ご存じとは思いますが、リンクをはっておきます。
https://adeac.jp/yukuhashi-city/text-lis...
「やはり日本では原始道教を本場中国とはまったくべつのかたちで理解し、一方では独自の古墳文化を生み、一方で神道を洗練させていったのではないでしょうか」という、農園主さんのお考えに同感です。
古代道教の影響を受けたとしても、それをすっかりマネしたわけではなく、取捨選択して、採り入れたり切り捨てたりしていき、日本独自のものにしていったのだと思います。
地図をありがとうございます。
その人物の地名(一応伏せます)は、古墳時代以前から全国にあったのですね。
長瀬の波牟許曽神社(お差支えあれば、削除します)には、配祀神として、スサノウもまつってありますね。
神社名は古来の蛇神信仰に由来するとのことですが、もちろん、古代からの蛇神信仰もあった上での想像、ひとつの珍説をお聞きください(笑)
波牟許曽神社は、スサノウがヤマタノオロチを退治した際のつるぎを、ご神体として密かにまつったので、ヘビそのものを信じたり、ヘビをまつったのではない、という説はめちゃくちゃでしょうか(笑)
熱田神宮に本体があり、皇居に形代があると言われる、草薙の剣の、いかにも真実のような話もありますね。
ここまで書いたあと、調べていてたら ↓ を見つけました。
「『日本書紀』には、スサノウノミコトがヤマタノオロチを退治した剣は、吉備にあったと記されていて、その場所は石上布都魂神社のことだと考えられている。剣はその後、奈良県の石上神宮へ移された。明治時代、石上神宮の禁足地が発掘され、伝承のとおり、剣が出土した」という記事と、もうひとつ。
石上神宮の祭神のうち、1柱は、『布都斯魂大神(ふつしみたまのおおかみ)』で、HPには、「記紀神話に見える、素戔嗚尊が出雲国(島根県東部)で八岐大蛇を退治されるのに用いられた天十握剣(あめのとつかのつるぎ)に宿られる御霊威を称えて布都斯魂大神と申し上げます」と書いてありました。
これを見ると、物部氏があがめていたのは実はスサノウの剣のことだった、或いは、物部氏はヘビをあがめていたが、後々剣の伝説が出現し、いつのまにかヘビ=剣とすり替わった、ということもあるのかなと考えますし、牛頭天王イコールスサノウとみなすと、ヤマタノオロチ(ヘビ)や退治した剣も関連がある、ということもあるかもしれません。
「牛頭天王が勧請されて波牟官神と合祀~~」というのは、まったく別の神様の合祀ということではなく、案外自然な流れで、これはスサノウが望んだことだったように思えます。
退治したヤマタノオロチの尾から天叢雲剣が出てきたわけですし、クシナダヒメは本来、霊蛇姫と表記したという考察もあり、スサノオとしては、(書き足し):ヘビを大切に思い、ヘビを自分と切り離せないものだと思っていたのでは。
参考までに、「天叢雲剣」のウィキペディアの「蛇の剣」の項目には、以下のように書かれています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%...
私の珍説は、農園主さんのように様々な説を検証したり筋立てて推理したものではなく、また、農園主さんのお考えを否定するものでもなく、くだらない思いつきにすぎないので、笑って読み飛ばしていただけたら幸いです(o_ _)o))
【追記】「牛頭天王と物部氏」で検索すると、AIの回答としては、「直接的な関係はないが、物部氏が鎮護していた土地では牛頭天王が信仰されたという歴史的関連性がある」でした。もともと物部氏と牛頭天王は、なんらかの関りがあったということでしょうか。
なんにしても、終始支離滅裂な想像で、読みにくく、申し訳ありません。
公民館の掛け軸、お榊を見ると掛け軸の大きさがわかりますが、ずいぶんと立派なものですね。
かなり年季が入っているように感じますが、みなさんで大事にしていらっしゃるのですね。
公民館のような公共の施設に神棚があることに驚きましたが、住んでいる地域を守ってくれている神様を大切におまつりするという、住民の方々に受け継がれてきた、篤い思いが伝わってくるように感じました。
余談ですが、日光にお参りした直後、洗濯機が壊れました ← 普通、いいことが来ませんか?(笑)
購入時から9年経っているので、修理依頼しても相当の費用がかかることを考え、即刻買い換えました。
ぼやぼやしていると、コインランドリー代が恐ろしくかかるので(笑)
6キロの洗濯物だと、30分の洗濯(ドラム式で乾燥無し)で、700円!!
幸い、翌々日に配送・設置してくれ、助かりました。
今回、初めて日本製ではないものにしましたが、ビックコジマオリジナル製品で、製造は中国のハイアールです。
かなり迷ったのですが、値段が全然違いますし、最近のハイアールやアクアはずいぶん品質が向上していて、不具合が起きる確率は国産品と変わらないそうですね。
6キロの全自動ですが、古い洗濯機の回収代(家電リサイクル法により必須で 4,730円)、長期保証5年&全損補償で2,290円、延長の排水ホース代748円はかかりましたが、本体は34,800円のところ、思いがけず期間限定で10%引きなので、全部あわせて4万かかりませんでした。
日本のものに拘るのは、無用な思い込みだったんなぁと、安い買い物に満足しています(笑)
といっても、突然の出費は痛いです(>_<)
今頃になって暖かい日が続いていますが、さすがに虫の声も聞こえなくなってきました。
寒暖差が大きい日もありそうですので、体調に気をつけてお過ごしくださいね。
今回、お名前を敬称無しで、度々打ってしまった失礼をお許しください(笑)
珍説どころか、農園主さんの道教についての解釈に、どんどん惹き込まれてしまいました。
いつも記事を読ませていただくにあたり、知らない出来事などを調べながら読んでいくのですが、今回はたまたま、ほんのちょっぴりの知識があったため、さらに興味深く読めました。
最近の電子書籍の漫画は、韓国の人が描いている転生ものがとても多いですね。
韓国の漫画を日本語にしているのか、日本にいる韓国系のプロダクションが描いているのかは不明です。
その中で、現代韓国の若い医師が死んで、中国の実在した医師、華佗の若い頃(三国時代で、まだ無名の頃)に生まれ変わったという、無料の漫画を読んでいました。
電子書籍サイト、ピッコマの『転生した外科医~華佗伝~』です。
数年後に黄巾の乱が起きるのを転生前の知識として知っていて、現代の医術も駆使し(なぜか患部を見ただけで、レントゲンのように内臓や血管、骨が見えるという・・・)、大勢の人命を助ける神医として活躍しつつ、黄巾の乱を食い止めようとするストーリーなのですが、史実に基づいて話が作られているようです。
いよいよ有料部分になってきたため、黄巾の乱がまだ起きていない時点で、読むのを中止しました。
太平道や五斗米道、 蟲毒の話も出てきていました。
この頃の、宗教を含めた歴史のお話は、農園主さんが今回書いていただいたことで、わかりやすく理解できました。
三国時代、三国志がどうも理解しにくく、劉邦も劉備もごちゃごちゃになっており、ゲームをやっておけば覚えやすかったかなと、いまさらながら後悔しています(笑)
ゲームをしたり漫画を読むと、苦手な分野、知らなかったことに興味が出ますが、逆に史実をある程度知ってから漫画を読んだりゲームをすると、よけいおもしろいのかもしれませんね。
卑弥呼ですが、農園主さんが以前の記事のリンクをはってくださったので、読みかえしてみました。
今回の記事と合わせ、さらに興味深く、読ませていただきました。
リンク先の記事で、「古代史はあいまいなところが多い分、こういった想像を差し込むゆとりがあるのは、たのしいですね」と書いていらっしゃいますが、いろいろと想像できる、ロマンだと思います。
卑弥呼が操ったまじない、鬼道というものは、やはり農園主さんのお考えのように、道教、または道教の一端だったと考えます。
大陸から伝わったものに自分なりのエッセンスを加え、独自のものにしていったのではないかと思えます。
3世紀頃は、巫女的な存在の女性が権力を持つことが多かったようですが、卑弥呼が多くの女性の中でカリスマとして君臨できたのは、統率力や単純な占い、祭祀だけでなく、他には見られない独特な呪術などを用い、その絶対的な能力を周りに知らしめたからかもしれませんね。
宗教的なものは、その時代ごとの流行もあるかと思いますが、一般的な祝詞や静かにブツブツと唱えるお経より、火を用いた護摩法要や、現実離れした呪術のパフォーマンスのほうが、インパクトがあり心を奪われやすい、悪く言えば民衆を惑わせやすいと思います。
先日お参りした日光のお寺は、天台宗です。
ふだんは真言宗の護摩法要を見たり、参加することが多く、天台宗の護摩法要はほとんど見る機会がありません。
お経もだいぶ違うし、般若心経、ご真言の唱え方も、なんとなく天台宗の方は何を言っているか聞き取りにくく、地味な感じがします。
日光のお寺では、誰でも自由に護摩法要を見ることはできますが、有料で護摩札をお願いすると、護摩壇の前の席に座れます。
今回、お札を申し込んだ人は他にいなかったので、私と主人ふたりだけが護摩壇の前に座り、法要前に僧侶からお話がありました。
密教(台密)なので、普通は外から見えないよう、衣の中で印を結んだり、声も小さく静かに唱えたりするが、今日はおふたりだけなので、僧衣の外で、よく見えるように行います、とのことでした←これは、サービスというのでしょうか(笑)
30分少々でしたが、その修法の圧巻さに驚き、聞きほれ、見とれてしまいました←お坊さんに見とれたわけではないです(笑) もっとも後ろ姿しか見えませんが。
ここは健全なお寺ですが、こういうパフォーマンスに引っかかって、フラフラと入信してしまう類いの宗教もあるんだろうなと思いました(笑)
卑弥呼の鬼道にしろ、平安時代あたりの陰陽師にしろ、おおげさなパフォーマンスやあやしげな仕草は、願いを叶えてくれたり人を呪う力が絶大なんだろうと、人々に思い込ませるに充分だったのでしょう。
話がそれますが、國學院大學博物館で、『企画展「中世日本の神々―物語・姿・秘説―」』というのが開催されていると、ネットのニュースでみたので、行こうと思ったのですが、渋谷という場所はどうも行く気になれないところで、人の多さ、騒々しさに加え、運気を吸い取られる気がし、やめました(笑)
YouTubeに國學院大學博物館のサイトがあったので、企画展の短い展示解説の他、いくつか観てみましたが、以下はその中のひとつです。
https://www.youtube.com/watch?v=IgBwWXNH...
この中におもしろい解説があったので、ご存じのこととは思いますが、引用します。
「古代の神話を題材にした物語、言説が数多くある。そうした場合、『日本紀』すなわち『日本書紀に曰く』、という形でそれらが語られる。しかし、中世期のこういった『日本紀に曰く』、つまり日本紀にはこう書いてありますよとしてあっても、原典の日本書紀をみると、まったくそのような記述はみえないことが往々にしてある。あたかも日本書紀はじめ、古代の神道古典、神話に載っているように装いつつ、実は、中世に新たに語り出された物語もたくさんあるということになる。これは中世日本紀という」
中世の人が、実際は日本書紀などに書かれていないことを、あたかも書かれていたかのように書物を書いたことには、ますますロマンを感じてしまいました(笑)
日本書紀などの古代の書物、言説には信憑性があまりないと認識していたのか、またそうであっても日本書紀をないがしろにはできないので、『日本紀に曰く』と書いて、一応立てつつ、新たな物語を書いたのでしょうか。
実におもしろいですね。
論語の『子曰く』も、同類のような気がしてきました(笑)
神代の昔からの様々な言い伝え、書物は、決して正確なものではないということが、この動画でわかりましたが、神道の大学が言っているからと言って、100%信じられることばかりではないとも思います。
あいまいな点、疑わしい点が多ければ多いほど、より多くの想像を広げることができるし、その中に真実があるかもしれないという、楽しみがあります。
農園主さんのお考えは、どの記事も、単なる想像や珍説ではなく、様々な視点から構築した、優れた論文だと思います。
道教と、前方後円墳の関係も新鮮な驚きでした。
薄葬令は、大化の改新事業の一環ですね。
詳しくは知らず、ざっと調べてみましたが、細かい取り決めがあったんですね。
ご存じとは思いますが、リンクをはっておきます。
https://adeac.jp/yukuhashi-city/text-lis...
「やはり日本では原始道教を本場中国とはまったくべつのかたちで理解し、一方では独自の古墳文化を生み、一方で神道を洗練させていったのではないでしょうか」という、農園主さんのお考えに同感です。
古代道教の影響を受けたとしても、それをすっかりマネしたわけではなく、取捨選択して、採り入れたり切り捨てたりしていき、日本独自のものにしていったのだと思います。
地図をありがとうございます。
その人物の地名(一応伏せます)は、古墳時代以前から全国にあったのですね。
長瀬の波牟許曽神社(お差支えあれば、削除します)には、配祀神として、スサノウもまつってありますね。
神社名は古来の蛇神信仰に由来するとのことですが、もちろん、古代からの蛇神信仰もあった上での想像、ひとつの珍説をお聞きください(笑)
波牟許曽神社は、スサノウがヤマタノオロチを退治した際のつるぎを、ご神体として密かにまつったので、ヘビそのものを信じたり、ヘビをまつったのではない、という説はめちゃくちゃでしょうか(笑)
熱田神宮に本体があり、皇居に形代があると言われる、草薙の剣の、いかにも真実のような話もありますね。
ここまで書いたあと、調べていてたら ↓ を見つけました。
「『日本書紀』には、スサノウノミコトがヤマタノオロチを退治した剣は、吉備にあったと記されていて、その場所は石上布都魂神社のことだと考えられている。剣はその後、奈良県の石上神宮へ移された。明治時代、石上神宮の禁足地が発掘され、伝承のとおり、剣が出土した」という記事と、もうひとつ。
石上神宮の祭神のうち、1柱は、『布都斯魂大神(ふつしみたまのおおかみ)』で、HPには、「記紀神話に見える、素戔嗚尊が出雲国(島根県東部)で八岐大蛇を退治されるのに用いられた天十握剣(あめのとつかのつるぎ)に宿られる御霊威を称えて布都斯魂大神と申し上げます」と書いてありました。
これを見ると、物部氏があがめていたのは実はスサノウの剣のことだった、或いは、物部氏はヘビをあがめていたが、後々剣の伝説が出現し、いつのまにかヘビ=剣とすり替わった、ということもあるのかなと考えますし、牛頭天王イコールスサノウとみなすと、ヤマタノオロチ(ヘビ)や退治した剣も関連がある、ということもあるかもしれません。
「牛頭天王が勧請されて波牟官神と合祀~~」というのは、まったく別の神様の合祀ということではなく、案外自然な流れで、これはスサノウが望んだことだったように思えます。
退治したヤマタノオロチの尾から天叢雲剣が出てきたわけですし、クシナダヒメは本来、霊蛇姫と表記したという考察もあり、スサノオとしては、(書き足し):ヘビを大切に思い、ヘビを自分と切り離せないものだと思っていたのでは。
参考までに、「天叢雲剣」のウィキペディアの「蛇の剣」の項目には、以下のように書かれています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%...
クサは臭、ナギは蛇の意(ウナギ)で、原義は「蛇の剣」であるという説。神話の記述でも、この剣は蛇の姿をしたヤマタノオロチの尾から出て来ており、本来の伝承では蛇の剣であったとも考えられる。蛇の形状をした剣として蛇行剣がある。 高崎正秀は『神剣考』「草薙剣考」において、クサ=串=奇、で霊威ある意とし、ナギ=ナダ=蛇であるとして、この剣の名義を「霊妙なる蛇の剣」と説いている。また、その名はヤマタノオロチに生贄にされかけたクシナダヒメ(奇稲田姫)に通じるものであり、本来クシナダヒメは霊蛇姫(くしなだひめ)と表記したのではと考察。ヤマタノオロチに対する祭祀者でありながら同時に出雲を支配する女酋的存在ではなかったかとする。 なお垂仁天皇の神話でも、出雲の女性が蛇神だった事例がある。葦原色許男大神(出雲大社)の祟りが解けた誉津別命(本牟智和気王)は肥長比売と結婚するが、肥長比売の正体は「光る大蛇」だったという。
私の珍説は、農園主さんのように様々な説を検証したり筋立てて推理したものではなく、また、農園主さんのお考えを否定するものでもなく、くだらない思いつきにすぎないので、笑って読み飛ばしていただけたら幸いです(o_ _)o))
【追記】「牛頭天王と物部氏」で検索すると、AIの回答としては、「直接的な関係はないが、物部氏が鎮護していた土地では牛頭天王が信仰されたという歴史的関連性がある」でした。もともと物部氏と牛頭天王は、なんらかの関りがあったということでしょうか。
なんにしても、終始支離滅裂な想像で、読みにくく、申し訳ありません。
公民館の掛け軸、お榊を見ると掛け軸の大きさがわかりますが、ずいぶんと立派なものですね。
かなり年季が入っているように感じますが、みなさんで大事にしていらっしゃるのですね。
公民館のような公共の施設に神棚があることに驚きましたが、住んでいる地域を守ってくれている神様を大切におまつりするという、住民の方々に受け継がれてきた、篤い思いが伝わってくるように感じました。
余談ですが、日光にお参りした直後、洗濯機が壊れました ← 普通、いいことが来ませんか?(笑)
購入時から9年経っているので、修理依頼しても相当の費用がかかることを考え、即刻買い換えました。
ぼやぼやしていると、コインランドリー代が恐ろしくかかるので(笑)
6キロの洗濯物だと、30分の洗濯(ドラム式で乾燥無し)で、700円!!
幸い、翌々日に配送・設置してくれ、助かりました。
今回、初めて日本製ではないものにしましたが、ビックコジマオリジナル製品で、製造は中国のハイアールです。
かなり迷ったのですが、値段が全然違いますし、最近のハイアールやアクアはずいぶん品質が向上していて、不具合が起きる確率は国産品と変わらないそうですね。
6キロの全自動ですが、古い洗濯機の回収代(家電リサイクル法により必須で 4,730円)、長期保証5年&全損補償で2,290円、延長の排水ホース代748円はかかりましたが、本体は34,800円のところ、思いがけず期間限定で10%引きなので、全部あわせて4万かかりませんでした。
日本のものに拘るのは、無用な思い込みだったんなぁと、安い買い物に満足しています(笑)
といっても、突然の出費は痛いです(>_<)
今頃になって暖かい日が続いていますが、さすがに虫の声も聞こえなくなってきました。
寒暖差が大きい日もありそうですので、体調に気をつけてお過ごしくださいね。
今回、お名前を敬称無しで、度々打ってしまった失礼をお許しください(笑)
2025年11月10日 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する
よかったです。
当初意図していたのとまったくちがう話になったのですが、ふつうの歴史の本にはない話ではあるとおもいます。
珍説をお楽しみください(笑)
当初意図していたのとまったくちがう話になったのですが、ふつうの歴史の本にはない話ではあるとおもいます。
珍説をお楽しみください(笑)
とりあえず、お知らせです。
無事、鍵が開きました(*^。^*)
じっくり読ませていただきますね。
無事、鍵が開きました(*^。^*)
じっくり読ませていただきますね。
今回はわたしの地元の話題が混じっているので、鍵付きの投稿にさせていただきました。
鍵は、わたしの本名の、姓名のうち、名前の部分を漢字で入力してください。
たとえば、山田太郎だった場合は「太郎」と入力することになります。
もし名前を失念された場合は、ご一報ください。
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もし名前を失念された場合は、ご一報ください。
2025年11月2日 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する
牛頭天王について詳しく記事にしてくださり、本当にありがとうございます。
「牛頭天王についてのアラカルト」と書いてありますが、読みごたえのある、素晴らしい「牛頭天王フルコース」でした!!
これはもう立派な学術論文ですね。
しっかり頭にいれるため、繰り返し繰り返し読ませていただきましたが、かみ砕いて書いてくださっているので、とても読みやすかったです。
一般的に誰もが知っている(名前だけだとしても)神様仏様と違い、あまり周知されておらず、わざわざお参りに行こうとする人も恐らく少ないだろうと思われる、本当に特殊な存在だと思っていましたが、農園主さんの記事から、より身近に感じられます。
庚申信仰は、たまたま道教の一部だけが当時日本に入ってきて広まったものだと思っていたので、道教がずいぶん古くから、しかも密教とないまぜになった状態で輸入されていたとは驚きでした。
横浜中華街に関帝廟という道教のお寺がありますが、関帝廟をつくった時に、華僑が日本に道教を持ち込んだと思っていました。
ここには5柱の神様がいて、①玉皇上帝 ② 関聖帝君 ③ 地母娘娘 ④ 観音菩薩 ⑤ 福徳正神 の順番にお参りします。
②~⑤は、廟内にある像に向かいお参りしますが、①の玉皇上帝だけは、像がなく、廟内から外の門に向かい、天を見て拝みます。
別格で、天にいらっしゃるということなのでしょうね。
④の観音菩薩は仏様ですが、道教の女神と同一視されているようです。
西遊記に、天帝と釈迦如来が登場するのと同じようなことかもしれません(書き足し:神と仏が一緒に登場するのと、特定の神と仏が同一視されているのでは、意味が違いました、失礼しました)
関帝廟というのは他にもあって、大阪にもあるんですね。
初めて知りました。
大阪関帝廟は、「黄檗宗 白駒山 清寿院」というそうですが、黄檗宗というと、南都六宗より新しい宗派でしたよね。
禅宗であるけれど、密教や道教の影響を受けているようで、なかなか複雑なんですね。
そして、黄檗宗を検索していたら、偶然おもしろいものを見つけました。
音声入力で、「道教 黄檗宗」と言ったつもりが、Google君の耳が悪かったのか「東京 黄檗宗」で検索開始になりました(笑)
すると、トップに『黄檗宗 牛頭山 弘福寺』というお寺が出てきました。
https://ko-fukuji.wixsite.com/kofukuji/g...
ここでは、スサノオの別称を牛頭天王としていますが、農園主さんの記事を読んでからこのお寺のことを知ると、なかなか興味深かったです。
牛の頭で出汁をとったクッパ、初めて知りましたが、豪快ですね。
韓国の市場では、鶏の頭や豚の頭と一緒に、牛の頭が売られているのでしょうか。
想像するとちょっと怖いです(笑)
西遊記は道教の影響が強いということで、ふと思い出しましたが、『聊斎志異』も道教ですね。
仙人とか妖怪、道術の話が多く、西遊記に劣らずおもしろい読み物です。
映画『空海 美しき王妃の謎』(原作・夢枕獏)では、空海の周辺で不思議なことが起きますが、呪い・幻術・蟲毒などの話が、要所要所に出てきます。
あれはもちろん創作ではありますが、時代考証もされているはずですから、空海がいたころの中国で、きっと密教と道教は密接な関係にあったのでしょう。
道教をテーマにした小説、創作が多いからかもしれませんが、仏教や神道、キリスト教などの様々な宗教の中で、道教にはいちばんロマンとファンタジーを感じます。
道教や陰陽師の話は、創作の題材になりやすいのでしょうね。
六観音のうちの、千手観音、十一面観音はよく見ますが、馬頭観音は、以前よくお参りしていた調布のお寺の境内や、六観音が安置されているお寺くらいでしか見ません。
近所の道路に馬頭観音だけがまつられている小さい堂宇があります。
調べてみたら、区内には、お寺、個人宅、道路など、29基ありましたが、馬頭観音をまつっていても、飼い馬の供養塔とされているところもあるようです。
なぜかわからないのですが、馬頭観音はなんとなく恐ろしい感じがして、通っても手を合わせることはありません。
安易に拝んだらいけない、という感じです。
牛や馬の顔がついているわけではなく、人間の身体をしていて、頭部に牛や馬があると認識はしていますが、やはり獄卒のイメージは強いですね。
本能的に、魔を感じるのかもしれません(笑)
牛頭天王も恐ろしいはずなのに、怖さを感じません。
もしかすると、前世で地獄に落ちていて、牛の獄卒から優しくされ(そんなはずはない・・)、馬の獄卒からいじめられていた、という記憶が残っているのかもしれません(笑)
蘇民将来の話が創作かもしれないというお話ですが、農園主さんが解説してくださった根拠とともに、もともとの伝説が「なんとなくありそうな話」だけに、逆に創作の可能性が高いと思えました。
八坂神社のホームページは以前見たことがありますが、宮司さんの写真があるのは珍しいという印象がありました(笑)
今回改めて読んでみましたが、創祀の二説があまりに簡潔すぎて、其の二に、「天神(祇園神)」についての説明がされていないのが不思議です。
ここでいう「天神(祇園神)」が、主祭神のスサノオと同一なのか、異なる神様なのか、疑問に思うのではないでしょうか。
其の一では、スサノウだと言っているわけですし。
新羅に座したというスサノウの信憑性は別として、他国にいた神様を他国の人が連れてきた日本の神社??
そういう由緒の神社も他にはあるでしょうし、悪いわけではありませんが、それでいいのか?と(笑)
いっそのこと、インドの祇園精舎から来ています、といった方が、信憑性があるような気もします(笑)
伊利之の子孫は八坂神社の神職を代々務めていた時代があったようですが、この伊利之についても八坂神社のホームページには説明がされていないようです。
「祇園社」の説明も、通り一遍にしか書かれていませんが、農園主さんの「祇園社とはなんなのか」のところで、インドの祇園精舎との関連が理解できました。
ところで、農園主さんのお住いのところの氏神様は、八坂神社でしたよね?
そしてご実家の近くの彌榮神社も、八坂神社の流れと伺いました。
スサノオ・牛頭天王とは、少なからずご縁がありそうですね。
ちょっとうろ覚えで、間違っていたら申し訳ないのですが、氏神さまにお参りした時竹が跳ね返ってケガした???、というお話を書いていらっしゃったように思います。
あれは、牛頭天王の歓迎のいたずらなのでは、と改めて思います。
牛頭天王は、怖いというより、なんとなくですが、私には、お茶目ないたずらっ子の(書き足し:悪意のない暴れん坊的な)イメージもあるんです。
昨日、朔日参りを兼ねて、お守りを受けに、埼玉県大宮の武蔵一之宮氷川神社に行ってきました。
氷川神社については、以前詳しく解説していただいていましたね。
夏越しの祓でお参りしてから、4ヶ月経ちました。
令和10年は、ご鎮座2500年だそうです。
ご祭神はスサノオですが、ご由緒に牛頭天王については書かれていません。
でも昨日は、牛頭天王=スサノオと思い、お参りして来ました。
本地仏が薬師如来なら、最強ではないかと思います(笑)
赤ちゃんのお宮参りと、七五三の人で、すごい賑わいでした。
山口百恵ちゃんも去年初孫の七五三で来たそうですが、この不景気な神社事情の中で、不謹慎ではありますが相当儲かっているのではと感じます(笑)
修繕や整備、維持など、経費もものすごいでしょうが。
ここのおみくじは変わっていて、大吉、吉、小吉、末吉、凶、吉平、平吉、平、向吉、凶向吉、凶末吉、初凶末吉、吉凶未分、吉凶相交の14種類です。
なかなか厳しいので有名だそうです。
箱に手を入れて引くタイプのおみくじは、「凶末吉」か「初凶末吉」でした。
ショックのためどちらだったか覚えていません(笑)←結ぶ木がないので、お札を納めるところに、家から持参したお守りやお札と一緒に納めてきました。
凶なのに、書かれていたことは、なぜかいいことばかりでした。
でも、凶のついたおみくじは気分が落ち込むので、やり直すことにしましたが、みくじ筒をガラガラ振って、出た棒の番号のおみくじを受ける方は、「吉」でした。
気の持ちよう、です(笑)
40代くらいの女性が一緒にいた人に「私、ここのお守りで本当に助けられたのよ」と話していたのですが、その具体的な内容を聞きたかったです(笑)
最近、熊出没のニュースが続いています。
東京都下でも目撃されていますが、そちらは大丈夫でしょうか。
くれぐれもお気をつけくださいね。
「牛頭天王についてのアラカルト」と書いてありますが、読みごたえのある、素晴らしい「牛頭天王フルコース」でした!!
これはもう立派な学術論文ですね。
しっかり頭にいれるため、繰り返し繰り返し読ませていただきましたが、かみ砕いて書いてくださっているので、とても読みやすかったです。
一般的に誰もが知っている(名前だけだとしても)神様仏様と違い、あまり周知されておらず、わざわざお参りに行こうとする人も恐らく少ないだろうと思われる、本当に特殊な存在だと思っていましたが、農園主さんの記事から、より身近に感じられます。
庚申信仰は、たまたま道教の一部だけが当時日本に入ってきて広まったものだと思っていたので、道教がずいぶん古くから、しかも密教とないまぜになった状態で輸入されていたとは驚きでした。
横浜中華街に関帝廟という道教のお寺がありますが、関帝廟をつくった時に、華僑が日本に道教を持ち込んだと思っていました。
ここには5柱の神様がいて、①玉皇上帝 ② 関聖帝君 ③ 地母娘娘 ④ 観音菩薩 ⑤ 福徳正神 の順番にお参りします。
②~⑤は、廟内にある像に向かいお参りしますが、①の玉皇上帝だけは、像がなく、廟内から外の門に向かい、天を見て拝みます。
別格で、天にいらっしゃるということなのでしょうね。
④の観音菩薩は仏様ですが、道教の女神と同一視されているようです。
西遊記に、天帝と釈迦如来が登場するのと同じようなことかもしれません(書き足し:神と仏が一緒に登場するのと、特定の神と仏が同一視されているのでは、意味が違いました、失礼しました)
関帝廟というのは他にもあって、大阪にもあるんですね。
初めて知りました。
大阪関帝廟は、「黄檗宗 白駒山 清寿院」というそうですが、黄檗宗というと、南都六宗より新しい宗派でしたよね。
禅宗であるけれど、密教や道教の影響を受けているようで、なかなか複雑なんですね。
そして、黄檗宗を検索していたら、偶然おもしろいものを見つけました。
音声入力で、「道教 黄檗宗」と言ったつもりが、Google君の耳が悪かったのか「東京 黄檗宗」で検索開始になりました(笑)
すると、トップに『黄檗宗 牛頭山 弘福寺』というお寺が出てきました。
https://ko-fukuji.wixsite.com/kofukuji/g...
ここでは、スサノオの別称を牛頭天王としていますが、農園主さんの記事を読んでからこのお寺のことを知ると、なかなか興味深かったです。
牛の頭で出汁をとったクッパ、初めて知りましたが、豪快ですね。
韓国の市場では、鶏の頭や豚の頭と一緒に、牛の頭が売られているのでしょうか。
想像するとちょっと怖いです(笑)
西遊記は道教の影響が強いということで、ふと思い出しましたが、『聊斎志異』も道教ですね。
仙人とか妖怪、道術の話が多く、西遊記に劣らずおもしろい読み物です。
映画『空海 美しき王妃の謎』(原作・夢枕獏)では、空海の周辺で不思議なことが起きますが、呪い・幻術・蟲毒などの話が、要所要所に出てきます。
あれはもちろん創作ではありますが、時代考証もされているはずですから、空海がいたころの中国で、きっと密教と道教は密接な関係にあったのでしょう。
道教をテーマにした小説、創作が多いからかもしれませんが、仏教や神道、キリスト教などの様々な宗教の中で、道教にはいちばんロマンとファンタジーを感じます。
道教や陰陽師の話は、創作の題材になりやすいのでしょうね。
六観音のうちの、千手観音、十一面観音はよく見ますが、馬頭観音は、以前よくお参りしていた調布のお寺の境内や、六観音が安置されているお寺くらいでしか見ません。
近所の道路に馬頭観音だけがまつられている小さい堂宇があります。
調べてみたら、区内には、お寺、個人宅、道路など、29基ありましたが、馬頭観音をまつっていても、飼い馬の供養塔とされているところもあるようです。
なぜかわからないのですが、馬頭観音はなんとなく恐ろしい感じがして、通っても手を合わせることはありません。
安易に拝んだらいけない、という感じです。
牛や馬の顔がついているわけではなく、人間の身体をしていて、頭部に牛や馬があると認識はしていますが、やはり獄卒のイメージは強いですね。
本能的に、魔を感じるのかもしれません(笑)
牛頭天王も恐ろしいはずなのに、怖さを感じません。
もしかすると、前世で地獄に落ちていて、牛の獄卒から優しくされ(そんなはずはない・・)、馬の獄卒からいじめられていた、という記憶が残っているのかもしれません(笑)
蘇民将来の話が創作かもしれないというお話ですが、農園主さんが解説してくださった根拠とともに、もともとの伝説が「なんとなくありそうな話」だけに、逆に創作の可能性が高いと思えました。
八坂神社のホームページは以前見たことがありますが、宮司さんの写真があるのは珍しいという印象がありました(笑)
今回改めて読んでみましたが、創祀の二説があまりに簡潔すぎて、其の二に、「天神(祇園神)」についての説明がされていないのが不思議です。
其の一
渡来人が神様をお祀りしたのがはじまり
斉明天皇2年(656)に高麗より来朝した伊利之(いりし)が新羅国の牛頭山(ごずさん)に座した素戔嗚尊(すさのをのみこと)を当地(山城国愛宕郡八坂郷(やましろのくにおたぎぐんやさかごう)に奉斎したことにはじまる。
其の二
お坊さんがお堂を建立したのがはじまり
貞観18年(876)南都の僧・円如(えんにょ)が当地にお堂を建立し、同じ年に天神(祇園神)が東山の麓、祇園林に降り立ったことにはじまる。
ここでいう「天神(祇園神)」が、主祭神のスサノオと同一なのか、異なる神様なのか、疑問に思うのではないでしょうか。
其の一では、スサノウだと言っているわけですし。
新羅に座したというスサノウの信憑性は別として、他国にいた神様を他国の人が連れてきた日本の神社??
そういう由緒の神社も他にはあるでしょうし、悪いわけではありませんが、それでいいのか?と(笑)
いっそのこと、インドの祇園精舎から来ています、といった方が、信憑性があるような気もします(笑)
伊利之の子孫は八坂神社の神職を代々務めていた時代があったようですが、この伊利之についても八坂神社のホームページには説明がされていないようです。
「祇園社」の説明も、通り一遍にしか書かれていませんが、農園主さんの「祇園社とはなんなのか」のところで、インドの祇園精舎との関連が理解できました。
ところで、農園主さんのお住いのところの氏神様は、八坂神社でしたよね?
そしてご実家の近くの彌榮神社も、八坂神社の流れと伺いました。
スサノオ・牛頭天王とは、少なからずご縁がありそうですね。
ちょっとうろ覚えで、間違っていたら申し訳ないのですが、氏神さまにお参りした時竹が跳ね返ってケガした???、というお話を書いていらっしゃったように思います。
あれは、牛頭天王の歓迎のいたずらなのでは、と改めて思います。
牛頭天王は、怖いというより、なんとなくですが、私には、お茶目ないたずらっ子の(書き足し:悪意のない暴れん坊的な)イメージもあるんです。
昨日、朔日参りを兼ねて、お守りを受けに、埼玉県大宮の武蔵一之宮氷川神社に行ってきました。
氷川神社については、以前詳しく解説していただいていましたね。
夏越しの祓でお参りしてから、4ヶ月経ちました。
令和10年は、ご鎮座2500年だそうです。
ご祭神はスサノオですが、ご由緒に牛頭天王については書かれていません。
でも昨日は、牛頭天王=スサノオと思い、お参りして来ました。
本地仏が薬師如来なら、最強ではないかと思います(笑)
赤ちゃんのお宮参りと、七五三の人で、すごい賑わいでした。
山口百恵ちゃんも去年初孫の七五三で来たそうですが、この不景気な神社事情の中で、不謹慎ではありますが相当儲かっているのではと感じます(笑)
修繕や整備、維持など、経費もものすごいでしょうが。
ここのおみくじは変わっていて、大吉、吉、小吉、末吉、凶、吉平、平吉、平、向吉、凶向吉、凶末吉、初凶末吉、吉凶未分、吉凶相交の14種類です。
なかなか厳しいので有名だそうです。
箱に手を入れて引くタイプのおみくじは、「凶末吉」か「初凶末吉」でした。
ショックのためどちらだったか覚えていません(笑)←結ぶ木がないので、お札を納めるところに、家から持参したお守りやお札と一緒に納めてきました。
凶なのに、書かれていたことは、なぜかいいことばかりでした。
でも、凶のついたおみくじは気分が落ち込むので、やり直すことにしましたが、みくじ筒をガラガラ振って、出た棒の番号のおみくじを受ける方は、「吉」でした。
気の持ちよう、です(笑)
40代くらいの女性が一緒にいた人に「私、ここのお守りで本当に助けられたのよ」と話していたのですが、その具体的な内容を聞きたかったです(笑)
最近、熊出没のニュースが続いています。
東京都下でも目撃されていますが、そちらは大丈夫でしょうか。
くれぐれもお気をつけくださいね。