山麓王国

2026年2月の投稿7件]

2026年2月28日 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する

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こんばんは。

今日は暖かいのですが、風が強くすごい花粉で、目がかゆく、モチベーション下がっています(笑)



つまらない話でごちゃごちゃするのも申し訳ないので、前回のお返事に追加せず、別に書かせていただきます。

先日、またNHKで七支刀のことを放送していましたが、お守りをいただいてから、さらに興味を惹かれるようになりました。

さっき、七支剣、石上神宮のことを、考えるというより思い浮かべただけなのですが、「石上神社(という文字)、最近どこかで見たような?」と感じました。

それで、武蔵一宮氷川神社のホームページで、境内社を見ていくと、「六社」のところに、「石上神社(神宮ではなく)」がありました。

何回もお参りしているのに、禁足地であった蛇の池の存在にも、最近まで気がつかなかったくらい、ぼんやりさんの私です(笑)

今頃気がついたとは・・・・・。

他の神社でも、石上神社が境内社や摂社、末社などにあるのを見たことがなかったので、ちょっと驚きましたが、おそらくスサノオがご祭神だからですよね。

それなら、六社のひとつにまとめず、単体でお祀りすればいいのに、と思った次第です。

近いうちにまた行く予定があるので、六社の石上神社で、農園主さんからいただいた七支刀のお守りのことをお伝えし、守ってくださるお礼を申し上げてきます。



さらに余談ですが、今年の最も吉方位である、千葉県館山市の、補陀落山那古寺と、安房神社にお参りに行ってきました。

那古寺安房神社の創始は、神武天皇即位の年だそうです。

書き足し:那古寺は、創立が717年です

山号か寺号に補陀落という名前言葉がついたお寺をお参りするのは初めてでしたが、古いままで、豪奢な塗り替えなどの手を加えていない、素朴で落ち着くお寺でした。



20260228202938-gizumo.jpg那古寺
20260228203041-gizumo.jpg安房神社

2026年2月23日 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する

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すみません、最後に雑談を書き足しました。←さらに追加しました。


縄張りという言葉の語源は知っていましたが、神社の大岩や巨木のしめ縄も、「縄張り」の意味だったんですね。

ちょっと新鮮な驚きでした。

農園主さんのおっしゃるとおり、簡素なお社程度ならともかく、社殿を建てれば、維持費や経費はかかるし、お賽銭程度ではとてもやっていかれませんね。

最近は経営難の寺社が多く、クラウドファンディングで資金集めをするところもありますが、結局は地元の氏子さん、檀家さんだけでは無理な時代なのかもしれません。

映画やアニメなどとコラボしたり、聖地となっている寺社は、グッズを作ったり、限定御朱印を授与したりと大忙しで、神仏は二の次か?と言いたくなります(笑)

でも、これも維持のためには賢いやり方かもしれません。

商店や会社とは違うので、よけいに補助金などの制度の充実は必須ですね。



今回も、興味深いお話をわかりやすく書いてくださり、ありがとうございました。

推測や想像の域を出て、感嘆すべきアカデミックリサーチだと思います。【書き足し】今回に限らずいつもです。

建国記念の日を視野に入れてのことでなく、偶然だっただけに、神武天皇が伝えたかった真実、というものを感じてしまいました。

以下、農園主さんの記事に対する反論はまったくなく、思いついたことや、疑問とも言えない当たり前のことを書いているかもしれないので、ご容赦ください。

また、質問のような文があっても、読み流していただいてかまいません。

私の、知識に基づかない素人目線の疑問で、農園主さんが混乱するのは困ります(笑)



そもそも論になるかもしれませんが、神武天皇は実在したというのが大前提ですね。

そして、神武を初代として、「天皇」という役職・制度を設けた人物、または勢力があったわけですね。

もしくは神武自身の意志で動いた、ということもあるでしょうか。

本人がずいぶん張り切って、神武東遷やまつりごとを行ったのか。または周りに担がれただけの天皇なのか。

そのあたりもわからないところです。

また、最初から、天皇の子どもを代々天皇としていくことに決めていた、ということでしょうか。



少し話が突飛な方向に行きますが、神武天皇に子どもがいなかったとすると、実質的に皇室の先祖は誰になるのでしょう。

アマテラスを神とみなし、神武天皇は人とみなすと、人から始まるのが自然のように思うので、神武天皇以外の人間ということかと思います。

また、アヒラツヒメ(卑弥呼)とタタラヒメは、神武天皇との間に子が恵まれできなかったので、養子を迎えて血筋を繋いだということも有り得るように思いますが、もちろん根拠はないです。

そして、神武天皇が、【書き足し:実子ではないけれど】自分の子どもだと主張する証として、また、皇位を継承できない子どもも、いずれどこかの首長にする目的で「耳」という字を付けた・・・・ということはないですよね(笑)




カンヌナカワミミですが、越の国にいたんですね。

以前、出雲のヤマタノオロチの正体は、越の国(新潟県)からやってきた豪族などの集団だという話がありました。

綏靖天皇の諱に含まれる「渟名川」は、高志国・越国にあった地名だということですが、綏靖天皇(カンヌナカワミミ)が越の国のヌナカワ地方にいた首長で、後に出雲に行った、ということは、時系列に有り得ることなのかわかりませんが、なきにしもあらずかもしれません。

そしてヌナカワヒメですが、大国主との間にタケミナカタを産み、タケミナカタは国護りの戦争でタケミカヅチに敗れ、諏訪に封じられたんですね。

諏訪大社のご祭神は、主祭神2柱(タケミナカタと、タケミナカタの妻 八坂刀売命)と、その上位置に、父神として大国主があります。

下社配祀として、「八重事代主神」です。

タケミナカタは、本当は越の国まで逃げたかったのを、途中の諏訪で追いつかれ、思いがけず封じられてしまったようにも思います。

【書き足し】タケミカヅチに投げられて、諏訪に飛ばされた、というのが正しいのでしょうか?
 
だとすると、越の国に行きたかった説は成り立ちませんね。
 
逃げて諏訪で追い詰められた説もあるようですが、いくら何でも諏訪まで投げ飛ばされないような気もします(笑)



越の国・新潟で大国主が祀られている神社を調べてみたので、余談として読み流してください。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%90%...

武内宿禰の子孫の話も書かれていました。

大国主が主祭神で、事代主・タケミナカタは相殿神という位置づけの神社です。

社伝によれば大国主命が御子神である事代主命と建御名方命を従えて当地方へ神幸し、当地に滞在して住民に稲作の業を教える等の国土経営にあたった故事に因んで創祀されたと書かれています。


実際に越の国に行ったのかどうかはわかりませんが、農園主さんがお書きになっているように、高志国は出雲に味方して、国譲りの戦争に参加していたというように、出雲と高志国の関係性がわかるように思います。


書き足し:渟名川は糸魚川の姫川(支流のこと?)だったようですが、この神社は妙高市ですので、糸魚川市と、ほぼ隣り合わせの位置にあります。



大物主のお話を伺うと、かなりの策略家だったようですね。

崇神天皇の時代の再登場はおもしろいです。

そういえばいまさらですが、欠史八代の天皇の名前に「神」の字はないんですね。

初代の神武、次が10代の崇神天皇です。

これ一つとっても、なんとなく2~9代はあやしげです(笑)



事代主は、大国主を丁重に立てた上で、穏やかに引かせたように思えます。

ここでも、策略家の一面が見られますね。



何度も読んでいくうちに、↑のような、妄想とも疑問ともつかないものが次々出現しては消えていく事象に陥ってしまいました(笑)

自分でも訳がわからなくなり、まとまりのないお返事になってしまい、ごめんなさい。

私の不可解な返信で、農園主さんが混乱しないように、と思います。



ケッタイ、というのは大阪の方言みたいなものだとは知っていましたが、漢字で書ける言葉とは知りませんでした。

方言は文化だと思うので、主に漫才などから、大阪弁が自然に親しみやすい形で周知されているのは、とてもいいことだと思います。



出雲大社の神迎神事のお話、詳しいことをありがとうございます。

ずいぶんとおおがかりな神事が続けられていることは、ほんの数年前に知ったのですが、平安時代からの民間伝承だとは知りませんでした。

私の個人的な、考え、というよりイメージなのですが、天照大神は伊勢神宮に、大国主は出雲大社に、「祀られている」というより、幽閉されているような感じがします。

伊勢神宮と出雲大社は、神社の中でも特化した場所のせいかもしれません。

なので、神在月に全国から神様があつまると、大国主はことのほか、お喜びになるように思えます。

アマテラスは皇室にとっても重要なところなので、幽閉というより「そこから動かないでね」という意味合いのような気もしますが(笑)

來宮神社のことも、詳しいお話をありがとうございます。

ご神木として、樹齢2100年の大楠の大木があります。

30年ほど前は、普通に周りをまわって木に触れたのですが、いつの間にかインスタ映えする神社と化してしまい、触ることができなくなってしまいました。

最近は「映画 クスノキの番人(原作=東野圭吾)」とコラボしているようで、人の多さに辟易してしまいます。

やっぱり神社やお寺は、素朴で静かで、ゆっくりお参りできるところがいいですね。



今日は、2月23日で、富士山の日なんですね。知りませんでした。

22度くらいあったようで、桜も勘違いして咲きそうな日でしたが、このまま暖かくはならないでしょう。

気温差もあるので、気をつけてお過ごしください。



※追加の雑談(一部は以前書いたことがあるかもしれません)

埼玉県越谷市の久伊豆神社は、ご祭神が大国主です。

10年ほど前の引越しの時、私にとって暗剣殺?かなにかの大凶方位だったのですが、方位除け・八方除けに最も力があるということなので、こちらでご祈祷を受けました。

ご祈祷はいろいろな神社で受けたことはありますが、大国主が主祭神の神社としては、ここが初めてでした。

最初、若い神職さんが、脇で何か唱え始めました。

それが言葉になっているのかどうか忘れましたが、まるで低い音のサイレンのようにうなっているので、これには本当にびっくりしました。

それが終わると、正面にいる年配の神職さん(神主宮司かどうか不明)が、普通に祝詞を唱え始め、一般的なご祈祷になりました。

出雲大社の東京分祀でご祈祷を受けた時の記憶があいまいなのですが、やはり最初にうなっていたか、大国主を呼ぶ祝詞があったと思います。

ご祈祷は、まず、地の底?にいらっしゃる大国主を呼び起こすことから始まると、後から聞きました。

いちいち呼ばれる大国主も大変です(笑)

とても特殊なご祈祷だったので、大国主という神様の特別感がありました。


※2度目の追加

綏靖天皇の在位の日が、私の誕生日なんですが(笑)

欠史の時期で、いろいろあいまいな中で、在位の日が明確というのは、おもしろいですね。

2026年2月16日 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する

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こんばんは。

それでは次回は熊野について書かせていただこうとおもいます。

熊野はわたしも理解しにくい場所でしたが、調べてみるとおもしろいところでした。



ギズモさんが感じた、熊野に対する「異世界的、異質なもの」は、実際そうとしかいいようのないところがあります。

紀伊の国、そして熊野は、日本神話、空海、そして山岳信仰、民間信仰がまじりあい、関西風にいうとじつにケッタイ(怪態)な場所になっているのです。

そして、記紀神話が書かれていた奈良時代あたりには、熊野のような大原生林はまだうまく利用価値を見出すことができないむずかしい場所でした。



このあたりのことを目次として、次回をお楽しみいただければとおもいます。

またギズモさんの返信次第では、べつの話も加えさせていただくかもしれません(笑)

期日をもうけずにゆっくりでまったく問題ありませんが、ご返信を楽しみにしております。

2026年2月15日 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する

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いえいえ、わざわざありがとうございます←記事の最初に付け加えられたのことです。

記事のお返事は、またしばらくしたら書かせていただきますね。


それと、いつもわかりやすく、読みやすく、嚙み砕いて書いてくださっているので、長いとかややこしいなどとは、まったく思っていません。

短くする目的で記事を分けて投稿すると、お書きになりたい記事の本質から外れると思いますので、長い記事大歓迎です!

どうぞ、お気遣いのないようにお願いします(^^♪



今までずっと、神話の時代~古墳時代くらいまでは、年代も人物もあいまいな期間と思っており、諸々ひっくるめて「古代」のようにとらえていましたが、時系列まで研究なさった記事は、新鮮ですし、とてもおもしろく読ませていただいています。

農園主さんの記事を、すべて正確に読み取っているとは言えないかもしれませんが、その際はご指摘ください。



思いがけないことでの熊野詣延期は、ご両親も残念に思ったでしょうが、きっと今ではないということかもしれませんね。

農園主さんもお書きになっているように、よく「呼ばれる」という言い方をしますが、たぶん4月よりも、いいタイミングが来るのではないでしょうか。

熊野は、日本の寺社の中でも、いちばんわかりにくいように思います。

以前、農園主さんが書いてくださった「善財王」のお話、確かこれが熊野権現の縁起だと思うのですが、とても印象に残っています。

ただ、熊野信仰、熊野の本地垂迹についてネットで調べたりしても、なかなか頭にスッと入らず、どうしても理解が及びません。

頭が悪いから、というのはさておき(笑)、熊野はややこしすぎます。

それと、なぜか感覚的にも、熊野は日本の寺社の中で、異世界的、異質なものを感じます。

私の場合、興味はものすごくあっても、たぶん、呼ばれていないように感じます(笑)

2026年2月14日 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する

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※すみません。今回、投稿後にいろいろと手直しを行っています。

選挙の立会でのねぎらいのお言葉、ありがとうございます。

パイプ椅子に14時間座ると、お尻が3日痛みました(笑)

当日は大雪でしたが、無事に役を終えられてよかったです。



「お札を1年で買い替えるというのは、寺社のお金儲けの一環」というのは、ギズモさんのおっしゃる通りで、寺社もお金を得なければならないんですよね。

江戸時代以前の神社は、地域が管理している山や川に勝手によそ者が入らないように縄張りをしたというものがほとんどでした。

山や川、あるいは土地でさえ明確な所有権がなかったので、その地に住まう人々は神の名を借りて、所有権を主張したのです。



なので多くの神社では、大岩や巨木にしめ縄を施して、かんたんな鳥居をたてて、頻繁に地元民がお祭りをすることで、ここは神(管理者)がいるのだぞ、ということをアピールしました。

ごく簡素なお社をつくったところもありましたが、多くが無社殿社です。

こういう仕組みであれば神社の管理は、手間はかかってもお金がかかるようなものではありません。

大事なのは社殿でもお金でもなく、じぶんたちで地域を維持しようという心意気と、みんなで集まれる場所があることでした。



これが明治以降、各地で立派な社殿を建ててしまったがために、社殿の維持管理のため、神道も儲け主義の土俵に乗らざるをえなくなりました。

これはわたしの住む田舎の話ですが、お賽銭や地域の会費だけでは社殿の維持には到底追い付かず、かといって地元の有志が大きなお金を出すような時代でもありません。



ちいさな規模の神社ですから、お祭りといってもほとんど自治会の役員だけですませますし、境内にお守りを授与するようなところもありません。

けれど、社殿に関しては明治以降によほどがんばったのでしょう、授与所があってもおかしくないくらい立派なのです。

地域の自治会が共同で神社の予算を管理しているのですが、人口減少で会費も年々減少する中、爪に火をともすような努力で健全な予算運用を心掛けています。

しかし社殿の傷んできたところ、たとえば木部の腐った鳥居をどうしようかというような、足元の懸案事項のお金すら用意できず、苦慮しているのが実際です。



先日選挙の立会をしているときに、当地の神社の会計をもう何年もやっておられる方とご一緒したので、お話をうかがいました。

ほんとうは神社の会計は毎年交代するのですが、その方は神社の敷地の問題や、これまで先送りにされてきた会計上の問題を解決するために、もう何年も篤志で役を引き受けていただいています。

じつは先年、地域の宮司さんが90歳で亡くなったのですが、この方は生前、神社の敷地であったり、お金の問題などのややこしい部分を、地域の理解が得にくいという理由で、ややこしいままにしていました。

これは宮司さんを責められる話ではなくて、むしろ宮司さんは「神社の暗部を引き受けてくれていた」一面があります。

しかし宮司さんが亡くなったことで、今後は地域の自治会で神社を運営していくことになり、そこでこれまでの問題を一気に解決しようという流れになったそうです。

それで今年度にようやく神社としての体裁を整えるめどがたって、各団体に補助金の申請などをおこなえるとのことでした。

これまでは補助金申請も、土地の問題や会計面での未解決な部分が問題視されて、門前払いされていたらしいのです。

補助金申請がとおり、会計手続きをルーティンで進められるように段取りがつけば、会計のお役も次に引き渡せるといってその方は笑っていましたが、目に見えないところでたいへんな苦労があったのだと感じ入った次第です。



そういう事情を考えると、授与所があるような大きな神社が儲け主義になるのは仕方ないのでしょう。

個人的には、そもそも絢爛な社殿を建てようなどと見栄を張らず、小さなお社と、先人がつないできた土地を守ろうとする土着の精神性を大事にしていれば、こんなことにならなかったのではないかとおもいます。

ですが、問題解決にご苦労なさっている方を目の当たりにしては、なかなかそんなホンネはいえませんね(笑)



さて、神様の「同一」の問題なんですが、これは推理力が試されるパズルのようになっています。

書かれてある言葉をそのまま受け止めても、話が通じるようにはなっているのですが、その中にウソとほんとうが混じっているんですね。

今回はこの同一の問題を調べていくうちにわかった、かなり特殊な話をしたいとおもいます。



ちょうどいまわたしがこの記事を書いているのは建国記念日なんですが、だれがどのように同一の神であるかを調べるうちに、「天皇は神武天皇で血筋が途絶えていた」という、きわめて不敬な気付きを得てしまいました(笑)

前言をひるがえすようなかたちになるのですが、綏靖天皇が神武天皇の子であるというのは、わたしの調べ方の甘いところで、間違いだったようです。



ところで、わたしは以前、神武天皇の九州での妻のアヒラツヒメを卑弥呼と書きました。

あれもかなり飛躍していますが、「同一人物」の推測です。

しかし、わたしはいまもアヒラツヒメは卑弥呼(アマテラス)だと考えています。



神話では、神武天皇(カンヤマトイワレヒコ)とアヒラツヒメは、九州で子に恵まれていたといいます。

多芸志美美命(タギシミミノミコト)という名でした。

古事記では、さらに岐須美美命(キスミミノミコト)にも恵まれたとありますが、この子については記述が一切ありません。

卑弥呼には子がいないはずなのに、子がいるのはおかしいとおもわれるでしょう。

が、「神武天皇に子供がいる」ということ自体がウソなんです。

その理由は、神武天皇の子の名前にありました。



タギシミミは神武東遷に付いていったといいます。

実際には饒速日が亡くなって、ナガスネヒコがヤマトを乗っ取るかもしれないという緊急事態で、20代、あるいは10代でヤマトへ向かったとおもわれる神武天皇が、乳幼児を連れて戦に出るとは考えられません。

しかし、ここではそういうことにしておきましょう(笑)



神武天皇はヤマトでタタラヒメと結ばれて、さらにふたりの子をもうけました。

長男が神八井耳命(カンヤイミミノミコト)、次男が神渟名川耳尊(カンヌナカワミミノミコト)です。



正当な皇位継承者はヤマトで得た子なので、神武天皇が崩御すると、タギシミミはこの兄弟を殺そうと計画しました。

しかしカンヤイミミとカンヌナカワミミは事前にこの計画を知ります。

そこで逆にタギシミミを討とうということになったのですが、カンヤイミミは手が震えてタギシミミを矢で射ることができませんでした。

かわりにカンヌナカワミミがタギシミミを射殺します。

このことを恥じたカンヤイミミは皇位継承の座からおりて、次男のカンヌナカワミミが二代目綏靖天皇となりました。

神話におけるこのエピソードは、「タギシミミの反逆」といわれています。



日本書紀での綏靖天皇のエピソードは、タギシミミの反逆しかありません。

わたしはそれで前回、神武天皇の子の綏靖天皇はかなり早くに亡くなり、それがきっかけで欠史八代の時代になったと考えました。

しかしどうやら、タギシミミもカンヤイミミもカンヌナカワミミも、みんな神武天皇の子ではなさそうなのです。



順を追って説明します。

まずタギシミミの妻は、なんと神武天皇の妻のタタラヒメなのです。

つまり、子供が父親の、それも天皇の腹違いの母をめとる。

ふつうに考えて、そんなことがあるでしょうか。



しかしこれはタギシミミの名前から考えると、ある推測が成り立ちました。

まずタギシミミの「たぎし=多芸志」は出雲の地名です。

しかもあの稲佐浜のすぐ近くでした。

名前の「耳(ミミ)」は、地域を束ねる首長をあらわすといわれます。



「出雲の地名」
「名前に含まれる耳」
「妻が事代主(大物主)の娘のタタラヒメ」


この3点をつなげて考えると、タギシミミは出雲の多芸志のあたりを束ねていた若き首長で、国譲りの戦争に参加していた。

そして事代主(大物主)とともにヤマトへやってきたのではないでしょうか。



名前の「耳」で考えていくと、神武天皇のヤマトでの子、

神八井耳命(カンヤイミミノミコト)
神渟名川耳尊(カンヌナカワミミノミコト)

にも耳が入っていますよね。

耳という名がどこかの首長をあらわすのだとすれば、じつは神武天皇の子はすべて、実子ではなかったということになってしまうのです。

つまり、アヒラツヒメもタタラヒメも、子には恵まれていませんでした。



綏靖天皇の諱(いみな)に含まれる「渟名川(ぬなかわ)」というのは、高志国・越国(こしのくに)にあった、いまの新潟県糸魚川のあたりの地名です。

ここには奴奈川姫(ヌナカワヒメ)の伝説があって、大国主から求愛を受けたヌナカワヒメがタケミナカタを産んだという伝説があります。

カンヌナカワミミ(綏靖天皇)は、越の国のヌナカワ地方にいた首長だったのかもしれません。



ちなみにタケミナカタは国譲りの戦争の際に、タケミカヅチに敗れて信濃の諏訪に封じられます。

つまり高志国は出雲に味方して、国譲りの戦争に参加していたわけです。



わたしはカンヌナカワミミも出雲の戦争に参加していて、事代主とともにヤマトへやってきたのではないかと推測しています。

なぜなら綏靖天皇の妻は一説には葉江の妹の河俣姫ですが、一説では五十鈴依媛命といわれます。

五十鈴依媛命はタタラヒメの妹……つまり大物主(事代主)の娘なのです。



カンヤイミミの八井は、地名なのかどうかはっきりません。

しかし九州やヤマトに系譜をもつ多氏の祖であることから、九州と奈良のヤマト王権にネットワークをもつ、実力者だったのではないかとおもわれます。

そういう意味で、カンヤイミミの皇位継承順位はトップだったのでしょう。

タギシミミは、神武東遷の際に熊野に同行するなど、神武天皇の戦勝に大きく貢献しましたが、ヤマト王権と出雲の関係性からいっても、皇位からは外れていたのかもしれません。



これら3者が神武天皇亡きあとの皇位をめぐって争い、結果カンヌナカワミミが皇位を得ました。

が、綏靖天皇もなんらかの理由ですぐに崩御するのです。

そしてタギシミミの反逆には、やはり大物主が絡んでいるようにおもえます。

大物主は、タギシミミにタタラヒメをあてがい、皇位の簒奪(さんだつ)をそそのかしたのではないでしょうか。

神武天皇の妻がタギシミミの妻になったことを理解しようとすると、「大物主がそう取り計らった」と考えるほかありません。



しかしタギシミミは皇位争奪に負けて死んでしまいました。

大物主は綏靖天皇にも妻を送っていますが、カンヌナカワミミは越の国の者です。

出雲の大物主からすると綏靖天皇はセカンドベストだったうえに、綏靖天皇も皇子を残さなかったのでしょう。



その後、磯城県主や各地の首長、ウマシマジの血縁などがそれぞれ天皇を擁立する大乱戦となり、しばらく大物主は政治の舞台から姿を消しました。

しかしウマシマジの血縁である10代崇神天皇の御代になると、大物主はまた倭迹迹日姫命を通じて再登場するのです。



ところで欠史八代には、最大の謎が残っています。

欠史八代が神武天皇の血筋ではなかったとすると、これらの天皇は、いったい何者なのでしょう。

妻はそれぞれ葉江であったり、大物主だったり、ウマシマジの血筋だったりするわけですが、天皇が何者で、どこからきたのかがわかりません。

綏靖天皇は諱にヒントがありましたが、3代目からは推測のとっかかりもなくなって、袋小路に入ってしまうのです

だからこそ「欠史八代」なのかもしれませんね。



ところで、大物主はなぜここまで天皇家に執着したのでしょうか。

大物主は皇位の簒奪に失敗し、後年、若い倭迹迹日姫命と結婚してまで天皇の血筋につながろうとしました。

この執念と熱量は、単なる権力欲で片付けられるものではありません。

その点で崇神天皇は、大物主を相当警戒していたのではないかとおもいます。

わたしが崇神天皇だったら、こう考えます。



いまだ内憂外患の状況なのだから、ヤマト王権としては大物主の権力は利用できるだけすればよいが、どうやらあの爺さんは出雲の者らしい。

下手にわたしの血筋と結びつけたら、出雲を平らげる計画が危うくなり、天下の平定がいよいよ遠ざかってしまう。

巫女のおば(倭迹迹日姫命)と結婚しようとしているが、あの老人にはすこし夢をみてもらったあと、丁重に三輪山にまつっておくのがよかろう。

しかしそもそもあのおばが、大物主に吹き込まれたことをそのまま神託として告げたせいで、王権が巻き込まれてしまったのが問題なのだ。

巫女の神託というかたちで、大物主のような輩が介入する隙を与えている。

あのような巫女政治はそもそも、神武以前の伝統の政治手法なのだから、わたしの代で巫女の政治介入も終わらせてやろう。



ここにきてわたしは、ようやく大物主と倭迹迹日姫命の神話のエピソードが理解できたようにおもえます。

つまり倭迹迹日姫命が「お顔が見たい」と望み、櫛箱をのぞくと子蛇(大物主)がいた。

そしておどろいた倭迹迹日姫命の陰部に箸が刺さって死んだ、というくだりです。

わたしはこれを最初、単に老いた大物主に倭迹迹日姫命がおどろいて拒否した、と解釈したのですが、もっと深い意味があったようです。



櫛は巫女と結びつく神具なのですが、この箱の中に蛇が入っていたということは、出雲の者(ヘビ)がヤマトの巫女にとりついていた、ということでしょう。

崇神天皇は、大物主を出雲のスパイのような存在であるとみなしました。

このとき大物主の子種をはらんでいた倭迹迹日姫命も、大物主と出雲の関係におどろきます。

そして倭迹迹日姫命が自死……あるいは最悪、ヤマト王権によって殺されたのではないか。

けっきょく大物主は三輪山にまつられる存在となり、倭迹迹日姫命も箸墓古墳にまつられ、イザナギの時代から続いていた巫女政治も、いったん終わりました。



ところで倭迹迹日姫命で巫女政治が断絶したあと、アマテラス(巫女)をヤマトではないどこかにまつるための長い旅が始まります。

崇神天皇は、巫女を政治中枢から遠ざけたかったのでしょう。

まず崇神天皇の娘の豊鍬入姫命が、アマテラスの鎮座する場所を求めて全国を旅します。

しかし豊鍬入姫命は病に倒れ、次に11代垂仁天皇の娘の倭姫命(ヤマトヒメノミコト)が後を継ぎました。



そして長い旅の末、ようやく天照大神は伊勢の地に鎮座することになります。

この旅の中でアマテラスの鎮座する候補地になった場所が、全国各地の元伊勢として残りました。



さて、ギズモさんのご質問の件なのですが、大物主と事代主は、おっしゃるとおり同一であるとわたしは考えています。

つまり出雲で事代主と呼ばれていた神が、ヤマトでは大物主と呼ばれたのです。

そして事代主が、国譲りの際に大国主の運命を決定づける働きをしたことから、大国主の奇魂・幸魂ということになったのでしょう。



では、事代主がなぜヤマトへ向かうことになり、大国主の奇魂・幸魂となったのか。

ここからは話をわかりやすくするための、わたしの創作の物語をお聞きください。



国譲り(くにゆずり)とは、関東の領有権をめぐる、ヤマト王権と出雲王国の戦争でした。

ヤマト王権は九州と奈良から軍勢を送り、出雲もまた地方と連合して戦いましたが、稲佐浜で進退きわまります。

ギズモさんが問われた通り、このときタケミカヅチの軍勢は「さあ、国譲りをするのかしないのか、否・然を決めよ」と迫っていました。

しかしこの戦争では各地の王国が出雲に味方しており、天孫族の軍団に屈するべきではないという声も多くあったのです。



海岸近くに即席の陣屋を築き、出雲軍は最後の決断を急ぎます。

事代主は、もはや戦争を続けることは得策ではないと主張しました。

大物主大国主は、徹底抗戦すべしという周囲の首長たちの意見も取り入れたうえで、事代主にたずねました。



「ヤマトで少彦名が倒れた後、この国(関東)はわたしたちが必死になって開拓した。

関東の領有権が出雲にあるのは明らかである。

しかし出雲が国づくりに注力して疲弊したいまになって、ヤマトは国づくりの功を奪おうと、出雲に戦争を仕掛けた。

大義はわれらにあろう。

それでもこの戦をやめよというのか」



事代主が申し上げました。

「国づくりの功が出雲にあることはだれもが知っております。

しかしこのまま戦えば、出雲は滅びるでしょう。それではもはや出雲にはなにも残りませぬ。

これよりわたしがタケミカヅチと交渉を行いましょう。

大国主様がこの戦の引き際をつくっていただけるなら、わたしは大国主様の名のもとに出雲の国体を護持することを要求しまする」

ほとんどの人々が意地とプライドでものごとを考える中、事代主は戦争さえ取引としてとらえていました。



さらに事代主は続けました。

「たとえヤマトに国をゆずったとしても、国づくりの功は大国主様のものです。

わたしはなんとしてもヤマトの王権に挑み、わが身を賭してヤマトに出雲の爪痕を残しましょう」



大国主はしばらくうつむきながらじっと考えていましたが、顔を上げて、いいました。

「よくわかった。おぬしに頼みたいことがひとつある。

ヤマトに命じて、出雲に社をつくるように。それこそが出雲の国体である。

また、おぬしにヤマトの青垣(山)を与えてもらえるように交渉せよ。

そこで製鉄をおこない、少彦名の縁をたどって産業を盛り立てれば、ヤマトはぬしを頼るであろう。

ヤマトへはこの戦に参加した同盟国のめぼしい者も連れていき、ヤマト王権に士官させよ。

出雲の命運はおぬしに託した」



わたしはこのときに事代主が、若きタギシミミやカンヌナカワミミたちを連れて行ったのではないかと推測しています。

大国主は国譲りのあと出雲大社にまつられたとありますが、それはあるいは戦死を意味するのかもしれません。

しかし事代主がおらず、出雲が徹底抗戦の果てに敗れていれば、神話での出雲および大国主の評価はまったくちがったものになっていたはずです。

その点で、やはり事代主は大国主の運命を決定づける、奇魂・幸魂だったのでしょう。

そして事代主はヤマトで大物主となって、出雲とヤマトをつなぐ経済界のドンとなり、天皇の外戚の座を執拗に狙い続けました。



しかしわたしは、もちろん出雲に対して同情的ではあるのですが、だからヤマト王権がわるい、ともおもえないのです。

神武天皇はヤマトの主権がナガスネヒコに奪われぬよう、命をかけて奮闘しました。

天孫族からすれば、この戦い領土を広げるための戦いは使命であり、どのような手段をつかってでも日本を一統し、天孫族による秩序をもたらしたいと考えていたことでしょう。

大国主が関東の領有権を主張したとき、もしヤマトがそのまま受け入れていれば、それはヤマト王権が出雲の連合に平らげられることを意味します。

ヤマト王権は強大な国家が弱小国家を虐げるようにして国譲りを迫ったのではなくて、出雲の脅威に対してとことん必死だったのではないでしょうか。



欠史八代の争いも、それだけヤマトにいた多くの者が「国家運営」「国家というあたらしいムーブメント」に対して夢中になっていたということです。

まだ明確な国家がなかった時代に、神武天皇は見事に最高権力者としてあるべきビジョンをみせつけました。

個人的に神武天皇は、ある種の清潔さを感じる稀有な神であり、やはり偉大だったとおもいます。


【注】
ここでわたしは国譲りの話題で神武天皇を引き合いに出しましたが、国譲りの戦争はヤマトに饒速日がいたときに行われたものかもしれません。

神武東遷にタギシミミが参加していたのであれば、国譲りの戦争はそれ以前に行われていたことになるからです。




出雲に神が集まる神迎神事についてのお話をありがとうございます。

出雲の神迎えは神話にはなさそうなエピソードなので調べてみました。

これは平安時代あたりから形作られていった民間伝承なんですね。



和風月名の神無月というのは、もともと奈良時代から伊勢神宮で10月に行われていた神嘗祭(かんなめさい)から、神嘗月(かんなめづき)と呼ばれていたようです。

この嘗というのは、神々が新米を召し上がるという意味ですね。

神嘗祭では天照大神に新米を献上し、11月の新嘗祭では全国の神々、そして天皇に新米を献上します。

この神嘗月が平安時代に、八百万の神が大国主に会いに行く「神無月」へと解釈が変わっていき、出雲ではさらに「神在月」ということになりました。

民間伝承ですから、言葉遊びのようにして意味が変化してるんです。

八百万の神々が大国主、そして出雲に会いに来てくれるという物語は、大国主や出雲に同情した日本神話の読者をホッとさせる後日譚として、市民権を得たのかもしれませんね。



熱海の来宮神社では「大己貴命・五十猛命・日本武尊」の3柱をまつっているのですね。

こちらも来歴を拝見しました。

おそらく古くは明神信仰と権現信仰が混じる形で、標高700mほどの日金山を霊峰として、地元特有の神仏を崇敬していたのでしょう。

それで、「木の宮」から「来宮神社」になったようですね。

ご祭神の一柱である五十猛命は木の神です。

五十猛命はスサノオとともにソシモリへ行き、そこで日本にはない木の種を持ち帰って、大八洲をすべて山にし、紀伊の大神になったそうな。

紀伊の語源は「木」です。

来宮神社ではきっとむかしから、東国の民としての猛々しい誇りと、山の霊気にあやかり、ご神木をあがめるような、素朴な崇敬があったところなのでしょうね。



ところで、親から4月に、紀伊の熊野三山にお参りしないかと誘われました。

それで熊野についても調べていたのですが、つい最近、ある出来事が起こりました。

来年度、自治会の副会長をしていただく予定だった方に病気がみつかり、治療に入るということで、わたしが来年度、また副会長をすることになったのです。

自治会長・副会長は新年度にはあれこれと忙しいので、実家の母に電話し、旅行の話はキャンセルしました。

わりかし本気で残念なのですが、公共の役割ですから仕方ありませんね(笑)

あるいは今回熊野に行けないことも、なにかの暗示なのかもしれません。

きっとまた、呼ばれれば行けることもあるのでしょうし、焦らず待つことにします。

熊野について調べたことは、また機会があればお話ししますね。



さて、もう慣れてしまわれたかもしれませんが、今回もたいへん長い話になってしまいました(笑)

できるだけわかりやすくを心掛けてはいるのですが、なにせ今回も入り組んだ話でしたから、ややこしいとおもいます。

一万字を越えると、どこを拾って返信すべきかで悩まれるでしょうし、毎回心苦しくおもっています。

なにとぞご返信はご無理のないようにお願いします。

2026年2月9日 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する

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書き足しをしないで新しく投稿で、失礼します。


国護りの話はいくつか読んだことがありますが、単純に、「するかしないか」のような表現をしたものしか知らず、農園主さんが書いてくださった『否・然』の言葉を初めて知りました。

農園主さんがご存じのことばかりとは思いますが、ちょっとした発見をした話をお読みください。



出雲大社のホームページには、『天照大御神様は目に見える世界(顕事・政事)を、大国主大神様は目には見えない世界(幽事・神事)を主宰される神様』と書かれています。

旧暦の10月10日なので毎年日程が異なりますが、昨年の神迎神事(神在月)はずいぶん遅かったです。


11月29日の夜に斎行されました神迎神事・神迎祭にて全国八百萬の神々を出雲大社にお迎えし、翌日から12月6日までの1週間、神々により縁結びの神議り(かむはかり=会議)がなされました。

この神在祭の期間中には様々な祭典が古式ゆかしく斎行され、12月6日夕刻の神等去出祭(からさでさい)にて全国八百萬の神々は出雲大社をお発ちになられました。
(出雲大社ホームページより)



出雲の観光ガイドには、以下のように紹介されています。

出雲大社の西方1kmにある稲佐の浜で、神々をお迎えする神迎神事(かみむかえしんじ)が斎行されます。
夕刻7時、浜で御神火が焚かれ、注連縄が張り巡らされた斎場の中に神籬(ひもろぎ)が2本、傍らに神々の先導役となる龍蛇神が海に向かって配置され、神事が斎行されます。(浜での神事は20分~30分ほど)
神事が終わると、神籬は両側を絹垣で覆われ、龍蛇神が先導となり、高張提灯が並び奏楽が奏でられる中、参拝者が続き、浜から出雲大社へ行列が続きます。
この後、出雲大社拝殿において国造(こくそう)以下全祀職の奉仕により「神迎祭」が執り行われます。これが終わると、ようやく神々は旅(宿)社である東西の十九社に鎮まられます。

神々の先導の竜蛇神は、豊作や、豊漁・家門繁栄などの篤い信仰があります。神迎祭終了後には特別拝礼、さらに神在祭期間中にも境内に竜蛇神を奉祭し、一般の自由参拝が可能です。



八百万の神が一斉に出雲大社に出向き、大国主が議長となり、会議をするんだそうです。

前に書いたかもしれませんが、神様たちが出雲に向け各地を出立する日、おみやげを神棚に用意します。

会議中、みんなで飲んでいただく日本酒の1合瓶、おつまみ(甘いものと塩気のもの)です。

神様たちはお酒が大好きだそうですので、なにとぞよしなにお願いします、という賄賂ではなく、気持ちとして、です(笑)



神様たちは、いきなり出雲大社集合ではなく、稲佐の浜に集まってから、龍蛇神先導のもと、出雲大社に向かいます。

その一連の儀式を、神職たちが行うわけです。


 
「否・然(いな・さ)」、ここから稲佐の浜と、名付けられたのでしょうか。

古事記では、「伊那佐之小濱」と書かれているようですが、後に稲佐の浜になったということですね。

いずれにしろ、「いな・さ」ですし、稲佐の浜は、国護りにおいて重要な場所でしたね。

出雲大社に直行しては、ならないわけです(神様たちが船で行くなら別ですが)。

書き足し: 船(または舟)で行く説が有力みたいですね。飛ぶ、というのも歩くのも、瞬間移動もピンときません(笑)

稲佐は「鋳成(イナリ)」つまり、製鉄から来た名前とも言われるみたいですが、関連はあるにせよ、やはり否然(いなさ)からが順当に思えます。



ということに、農園主さんの記事で気がついたのですが、書き忘れていたので、書かせていただきました。



昨日は一日お疲れ様でした。

心身ともにお疲れになったことと思います。

できたら今日はゆっくり過ごしてくださいね。

こちらは予想より雪が積もったので、こっそり雪を持ってきて、手のひらサイズの雪だるまを作りました(笑)

さすがに外ではできません( ̄▽ ̄;)

2026年2月6日 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する

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※最後に、質問を付け加えました。

こんにちは(^^♪

お返事が遅れていて、ごめんなさい。

雑用が重なったところに、恒例の新春吉方位旅に出かけ、なんだか落ち着く間がありませんでした。

とりあえず、という形になって、なんとも申し訳ないのですが、途中まで書きためていたものと、雑談です。



お守りに関してのお考え、まったく同感です。

神棚仏棚の木札・紙札は、年末から1月にかけ、受け直しますが、お守りは、1年を目途にはするものの、愛着も出るので、長年持っているものもあります。

ことに、今回農園主さんからいただいたものは、ずっとそばに置かせていただき、大事にして、長年守っていただくつもりです→図々しいかも(笑)

ここからは小声でいいますが、お札を1年で買い替えるというのは、寺社のお金儲けの一環で、毎年買い替えてもらわないと困るため、1年経つとご利益がなくなる云々と騒ぎ立てているように思います(小声終了)。

日光の東照宮・輪王寺などでは、お坊さんたちが、お守りや縁起物を買うよう、終始声高に勧めているので本当にうるさいのですが、「1年で買い替える必要はありません、ずっとお持ちいただけます」と言うので、1回売れればいいのか?と、なんだか不思議です(笑)



緊張の件では、生意気なことを、大変失礼しましたm(_ _"m)

農園主さんの「じぶんが楽しめているかどうかを考えて」、これ、とっても大事なことです。

私にはこれが欠けていて、緊張はあまりしないくせに、自分が楽しむ余裕がありません。

自分が楽しんでいないのに、喜んでいただけるものが提供できるわけがないです。

昨年末のコンサートからは、事前にお参りする時に、喉に支障なく、体調が絶好調で臨めますように、という決まり文句の他、「お客様に楽しんでいただけて、自分も楽しんでできますように」というのを、付け加えました(笑)

そのおかげなのかどうかわかりませんが、皆さまに楽しんでいただき、自分も楽しみながら行うことができました。



今回も、壮大なテーマのご考察、ありがとうございました。

前から感じていたのですが、日本の神様や古代の人物の名前は、本当にややこしいです。

例えば大国主の別名は、Wikipediaで見ると、10以上ありますよね(笑)

しかも、その「別名」の他に、「別称」として「大国主大神」とあります。

誰それと「同一視されている」、という場合もありますね。

書物によって違うことがあるのかもしれませんが、統一できないまでも、せめて覚えやすい程度の数であってほしいです(笑)

読み方がほぼ同じでも、全然違う漢字を当てはめているものも多いですね。

今回の記事でも、難しい名前が多く、欠史八代とその妻の名前を書くだけでも、大変な労力だったことと思います。



今回の記事では、まったく知らない名前が多かったので、自分の知識の無さに、ちょっとショックでした(笑)

「葉江」という人も知りませんでしたし、2代目で神武天皇の血筋が途絶えたことも知りませんでした。

複数の天皇に関わったというと、最後に書いてくださった、武内宿禰もそうなんですね。

葉江の場合は、娘をどんどん天皇に嫁がせられるだけの、権力やコネクションを持っていたのでしょうが、娘たちも、幸せであったのか、気になるところではあります。



丹後の元伊勢籠神社のご祭神は、彦火明命で、饒速日命と同一なのですね。

饒速日命は、Wikipediaの中で、

『先代旧事本紀』では、天火明命(アメノホアカリ)とニギハヤヒは同一神とされる。他方、『新撰姓氏録』においてはニギハヤヒは、天神(高天原出身、皇統ではない)、天火明命(アメノホアカリ)は天孫(天照大神の孫)とし両者を別とする
と書かれています。

『新撰姓氏録』では両者を別とするとは書かれていますが、饒速日命イコール天火明命なら、饒速日命と天火明命と彦火明命は、同じですよね??

こんな感じで、最初に書いたように、ひとりの神さまや人に別名や同一視が当たり前のようにあるので、頭がパニックです(笑)

うっかりすると、違う人物(神)なのに同じと思っていたり、同じ人物(神)なのに違う人物だと思い込んでいたりするので、間違って理解して間違ったことを書いていたら申し訳ありません。



節分から立春にかけて毎年行く、吉方位のお参り旅行ですが、今年は仕事の関係で1泊しかできないのと、直前のホテル予約となってしまい、ものすごくバタバタしてしまいました。

そのため、行き慣れた熱海にして、何回か訪れている来宮神社にお参りすることにしました。

ご祭神は、大己貴命・五十猛命・日本武尊の3柱です。

農園主さんの前回の記事に、事代主のお話があったので、事代主と大国主がご祭神の、熱海の今宮神社にしようと思って調べたのですが、ホームページを見たら、『宮司ご挨拶』というところに、キャピキャピ系のおね~さんの写真が(笑)

宮司、禰宜、権禰宜さんたちがみんな同じ名字なので、家族や親族なのでしょう。

名字が「泉明寺」というのですが、珍しいので「名字の由来net」で調べたら、静岡県にみられる名字で、全国人数は10人ほどだそうです。

神社で「寺」がつく名字はユニークですね。

結局、今宮神社は行かなかったのですが、機会があれば、行ってみようと思います。



ところで、「事代主」を祀った神社と、「事」の字がつく「事任八幡宮」などは、お願いをする際、なるべく短い言葉で言うという、暗黙のシステムがあるそうです。

「財運!!」 「健康!!」というように。

一言主神社(あまりありませんが)が、そういうお願いの仕方なのですが、一言主は、大国主の息子である(と言われている)事代主と同一視される場合が多いそうです。

「事」は、「言」でもあるみたいです。

くどくど言うな、一言で願わないと、お前たちの言いたいことがよくわからんではないか、というお考えの、短気で時短好きの神様なのでしょうか(笑)←これについて、数行下にも書きました。

書き足し:
 短く願いなさいということではなく、「一言の祈願でもおろそかにしない」という見方もあります。



ここで、頭がごちゃごちゃになってしまい、恐らくきちんと理解できていないことをひとつ挙げさせてください。


大国主の前にあらわれた、幸魂・奇魂が、「大物主」だったといわれる。


このあと、ニニギノミコト天孫降臨の話で、なぜなら、幸魂・奇魂(事代主)が三輪山に行く意味がないからです

これは日本書紀で幸魂・奇魂のエピソードと並べて書かれてあるのですが、あるいは大国主の幸魂・奇魂とは、事代主のことだったのかもしれません

と書いてあるので、「大物主」と「事代主」は同じ、と解釈していいのでしょうか?



そして、次の、

事代主は大国主の息子といわれますが、一説には大国主自身ともいわれたりします。

しかし大国主と大物主は性格からなにから、まったくちがうのです。

わたしは事代主は、大国主の息子ではなく、大国主と年がほとんど離れていない出雲の重臣だったのではないかと考えました。


このお考え、同感です。

「一言で願え」というのは、まさに農園主さんが書いていらっしゃるように、大物主の「合理的・ワンマンな気質・怜悧な優秀さ」がピタッと当てはまります。

私の考えは、ちょっと外れた視点からですが、神様の性格もそれぞれで、なんだかおもしろいです(笑)



2月11日は「建国記念の日」で、神武天皇の即位日(紀元節)ですね。

この時期に、古代の天皇や日本の神様のお話を伺うことができるのは、日本のことをちゃんと知りなさい、興味を持ちなさいという、神武天皇はじめ、古人の御業かもしれません。

いつも、ありがとうございます。



この数日は珍しい暖かさでしたが、明日明後日は雪予報です。

日曜日は選挙で一日仕事、ずっと座っているとだんだん冷えてきますので、お気をつけくださいね。

とりあえずのお返事になってしまい、申し訳ありませんでしたが、また続きを書かせていただきますね。



※追加: 

すみませんが、どうしても理解ができない点(農園主さんの記事についてではなく、一般的な話です)があるので、質問させてください。

「幸魂・奇魂」の、具体的な意味です。

ネットで調べられる範囲での意味は、なんだか抽象的で、わかったようなわからないような、で完結してしまいます(笑)

・ひとつの霊(神?)に対し、4つの魂がある。

・幸魂・奇魂はそのうちのふたつである。

・大国主は、自分の幸魂・奇魂を三輪山に鎮めた。


幸魂・奇魂は、大国主自身の魂である、と解釈するのは間違いで、「大国主の前にあらわれた、幸魂・奇魂が、大物主だったといわれる」「あるいは大国主の幸魂・奇魂とは、事代主のことだったのかもしれません」と書いていらっしゃるように、別の存在の魂ということなのか、或いは、大国主と大物主と事代主が同一視されていて、「同じ」とまとめてしまっていいのか・・・。

謎です(笑)

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