No.1282
ゆっくりお休みをいただいて、助かりました。
こちらはきのうからたっぷり雪が積もり、除雪のしどおしでした。
どれくらい積もったかというと、これくらい。

暖冬の影響か、べちゃ雪で除雪もしにくく、車が通ると圧雪でワダチがガチガチに凍ってアイスバーンになり、きょうの正午ごろに、集落の登り坂の一部で車が立ち往生してしまったということで、朝からずっと雪かきしてました。
今夜もまだ降るらしいんですが、おそらくあとひと息で今回の豪雪は収束するでしょう。
それにしても、ここ数年、一度に50cm以上降るドカ雪が続いています。
暖冬のことしくらいは安心できるだろうとおもってたんですが、結局ことしもひどい大雪でした(笑)
1279
遠藤周作については、たしかさくらももこのエッセイにも書かれていたはずで、いたずら好きのじいさんだ、というような内容だったとおもいます。
遠藤さんは非常にひょうひょうとしたユーモアのある人物でしたが、同時に家族内でこじれていたり、キリスト教の問題など、いわゆる純文学的な暗いテーマを心に抱えた人でもあり、肉体的に病気の多い人でもあったんですよね。
個人的には、この人は人間の「虚をつく」のがよほど好きなのか、エッセイでも純文学でも、ずっとそんなことばかりしてる印象です。
じぶんでも狐狸庵と名乗っていましたが、実際に狐狸のようなつかみどころのなさがあったのだとおもいます。
かれが日本人の立場でキリスト教に挑んでいくのも、重苦しく書きながら、じつは無邪気で無垢な子供が、大人にえげつない質問をするような、あどけなさを装いながら、相手の虚をつくユーモアを秘められているようにおもえます。
たとえば多神教の日本と、一神教のキリスト教の対立や融合なんて、ものすごく基本的で重要なテーマですが、キリスト教の中では臭い物のフタのようなところがあって、ギズモさんもおっしゃってましたが、ほんとうに嫌な顔をしたり批判する人もいたことでしょう。
遠藤さんはそこをなんの悪気もなく突っつくんですよね(笑)
それでもし、本気で顔を真っ赤にして怒る人がいたら、あんなマジメな作品を書いていながら、遠藤さん自身は狐狸が人を化かして喜ぶように、愉快げに笑っていた気がしてなりません。
というのも、重苦しい問題提起の作品ほど、心にどこか楽観性、ユーモアがないと書けないとおもうからです。
タモリのヨーデル話法からヨーデルの詳しいお話、ありがとうございます。
「歌唱力よりアイドル性が重視されている」という話をうかがいながら、そういえばこんな子がいたな、とYouTubeをゴソゴソ探し回っていました。
ご存知かもしれませんが、貼り付けておきます。
ソフィア・シキチェンコというウクライナの歌手ですが、彼女はもう大人になっています。
ギズモさんのおっしゃるとおり、民族音楽としてのヨーデルをいちばんうまく歌うのは東欧人だとおもいます。
日本人がそれっぽいことをしても、文化的に根を張っていないのでうまくいきません。
しかしそこを踏み込んで考えていくと、日本人はじぶんたちの民族音楽を、日本独自のカタチでどれだけ進化させてきただろうか、という考えが鎌首をもたげてきました。
日本的な音楽を、外国の音楽と融合させて、なにかあたらしげにしたものはあります。
けれど、アメリカでブルースがロックに発展していった、ジャズがフュージョンに発展していったというような、自国内での突然変異というようなことは、日本ではあまり起こらない気がします。
その点で「平成あたりから、どんどん歌手の質が低下している」というご指摘にも、同調できるフシがあります。
昭和は、結局明確なカタチになったかははっきりしませんが、なにか生み出そうとはしてたんですよね。
昭和には商業的な中にも日本的な音楽をブラッシュアップしていこうという気風があったのが、平成になると商業音楽であることだけが大事になっていくでしょう。
売れる音楽、儲かる音楽だけが正義という価値観の中で、大事なモノを落っことしてしまったような気がするのです。
こちらはきのうからたっぷり雪が積もり、除雪のしどおしでした。
どれくらい積もったかというと、これくらい。

暖冬の影響か、べちゃ雪で除雪もしにくく、車が通ると圧雪でワダチがガチガチに凍ってアイスバーンになり、きょうの正午ごろに、集落の登り坂の一部で車が立ち往生してしまったということで、朝からずっと雪かきしてました。
今夜もまだ降るらしいんですが、おそらくあとひと息で今回の豪雪は収束するでしょう。
それにしても、ここ数年、一度に50cm以上降るドカ雪が続いています。
暖冬のことしくらいは安心できるだろうとおもってたんですが、結局ことしもひどい大雪でした(笑)
1279
遠藤周作については、たしかさくらももこのエッセイにも書かれていたはずで、いたずら好きのじいさんだ、というような内容だったとおもいます。
遠藤さんは非常にひょうひょうとしたユーモアのある人物でしたが、同時に家族内でこじれていたり、キリスト教の問題など、いわゆる純文学的な暗いテーマを心に抱えた人でもあり、肉体的に病気の多い人でもあったんですよね。
個人的には、この人は人間の「虚をつく」のがよほど好きなのか、エッセイでも純文学でも、ずっとそんなことばかりしてる印象です。
じぶんでも狐狸庵と名乗っていましたが、実際に狐狸のようなつかみどころのなさがあったのだとおもいます。
かれが日本人の立場でキリスト教に挑んでいくのも、重苦しく書きながら、じつは無邪気で無垢な子供が、大人にえげつない質問をするような、あどけなさを装いながら、相手の虚をつくユーモアを秘められているようにおもえます。
たとえば多神教の日本と、一神教のキリスト教の対立や融合なんて、ものすごく基本的で重要なテーマですが、キリスト教の中では臭い物のフタのようなところがあって、ギズモさんもおっしゃってましたが、ほんとうに嫌な顔をしたり批判する人もいたことでしょう。
遠藤さんはそこをなんの悪気もなく突っつくんですよね(笑)
それでもし、本気で顔を真っ赤にして怒る人がいたら、あんなマジメな作品を書いていながら、遠藤さん自身は狐狸が人を化かして喜ぶように、愉快げに笑っていた気がしてなりません。
というのも、重苦しい問題提起の作品ほど、心にどこか楽観性、ユーモアがないと書けないとおもうからです。
タモリのヨーデル話法からヨーデルの詳しいお話、ありがとうございます。
「歌唱力よりアイドル性が重視されている」という話をうかがいながら、そういえばこんな子がいたな、とYouTubeをゴソゴソ探し回っていました。
ご存知かもしれませんが、貼り付けておきます。
ソフィア・シキチェンコというウクライナの歌手ですが、彼女はもう大人になっています。
ギズモさんのおっしゃるとおり、民族音楽としてのヨーデルをいちばんうまく歌うのは東欧人だとおもいます。
日本人がそれっぽいことをしても、文化的に根を張っていないのでうまくいきません。
しかしそこを踏み込んで考えていくと、日本人はじぶんたちの民族音楽を、日本独自のカタチでどれだけ進化させてきただろうか、という考えが鎌首をもたげてきました。
日本的な音楽を、外国の音楽と融合させて、なにかあたらしげにしたものはあります。
けれど、アメリカでブルースがロックに発展していった、ジャズがフュージョンに発展していったというような、自国内での突然変異というようなことは、日本ではあまり起こらない気がします。
その点で「平成あたりから、どんどん歌手の質が低下している」というご指摘にも、同調できるフシがあります。
昭和は、結局明確なカタチになったかははっきりしませんが、なにか生み出そうとはしてたんですよね。
昭和には商業的な中にも日本的な音楽をブラッシュアップしていこうという気風があったのが、平成になると商業音楽であることだけが大事になっていくでしょう。
売れる音楽、儲かる音楽だけが正義という価値観の中で、大事なモノを落っことしてしまったような気がするのです。