山麓王国

No.1307

Icon of nouennushi
1306
以下の一節ですね。

我が乘るところの此舟は、即ちヱネチアの舟にして、翼ある獅子の旗は早く我が頭上に翻れり。帆は風に厭きて、舟は忽ち外海に走り出で、我は艙板の上に坐して、藍碧なる波の起伏を眺め居たるに、傍に一少年の蹲れるありて、ヱネチアの俚謠を歌ふ。其歌は人生の短きと戀愛の幸あるとを言へり。こゝに大概を意譯せんか。其辭にいはく。朱の唇に觸れよ、誰か汝の明日猶在るを知らん。戀せよ、汝の心の猶少く、汝の血の猶熱き間に。白髮は死の花にして、その咲くや心の火は消え、血は氷とならんとす。來れ、彼輕舸の中に。二人はその蓋の下に隱れて、窓を塞ぎ戸を閉ぢ、人の來り覗ふことを許さゞらん。少女よ、人は二人の戀の幸を覗はざるべし。二人は波の上に漂ひ、波は相推し相就き、二人も亦相推し相就くこと其波の如くならん。戀せよ、汝の心の猶少く、汝の血の猶熱き間に。汝の幸を知るものは、唯だ不言の夜あるのみ、唯だ起伏の波あるのみ。老は至らんとす、氷と雪ともて汝の心汝の血を殺さん爲めに。少年は一節を唱ふごとに、其友の群を顧みて、互に相頷けり。友の群は劇場の舞群の如くこれに和せり。まことに此歌は其辭卑猥にして其意放縱なり。さるを我はこれを聞きて輓歌を聞く思ひをなせり。老は至らんとす。少壯の火は消えなんとす。



ぼくなりに、翻訳してみます。


わたしが乗ったのはベネチアの船だった。
ベネチアを象徴する有翼の獅子の旗が、頭上で忙しくひらめいている。

帆が風をはらみ、船はたちまち外海へ走り出す。
わたしは甲板の上に座って、起伏する紺緑の波を眺めていた。

そばで少年の集団のうちのひとりが、ひざまずいてベネチアで愛された歌を歌っている。
この歌は人生の短さと恋することの幸せをあらわしたものだが、おおまかに意訳してみよう。


朱の唇を重ねよ。あしたがまたくるとは限らないのだから。
恋せよ。汝の心が若く、汝の血が熱いうちに。
白髪は死の花。
咲けば心の火は消え、血は氷になっていく。

あの小舟の中に来たれ。
屋根に隠れて、窓をふさいで戸を閉じれば、だれの目にもつかないだろう。
乙女よ、だれもふたりの恋の幸せを邪魔することはない。
波の上に漂って、波が押し引きするようにふたりも愛し合う。

恋せよ、汝の心が若く、汝の血の熱いうちに。
汝の恋の幸せを知っているのは、言葉をもたぬこの夜と、波だけだ。
老いはすぐにやってくる。氷と雪とで汝の心と血を殺すために。



少年は一節を歌うたびに、仲間を振り返って、お互いにうなずき合っていた。
仲間たちは劇場の役者たちのように唱和している。

この歌の歌詞はまことに卑猥で、放埓で、無節操だが、わたしはむしろこの歌に挽歌を聞くような気持ちがした。
老いはすぐにやってくる。若さの灯火はすぐ消えるのだ。



こんなところでしょうか。

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