2023年12月9日の投稿[6件]
深読みさせてしまいましたね、ごめんなさい。
「大、、」は「1155」の「宇宙語=大阪弁」からきていることで、宇宙を指す「大阪」のことでした。
だいたいにおいて、私は何かそういう学術的だったり、暗喩だったりすることは書けません(笑)
あ、あそこが戎橋だったのですね。
写真、たくさん撮ってきました。
あの橋のあたりは、とにかくすごい人でびっくりしました。
日本橋は同じ字でも、こちらでは「にほんばし」ですが、大阪では「にっぽんばし」でしたね。
同じエビスでも字が違うと、受けるイメージが違うものです。
秋葉原みたいなオタロード、ネーミングがいいですね。
わかりやすいです(≧▽≦)
「大、、」は「1155」の「宇宙語=大阪弁」からきていることで、宇宙を指す「大阪」のことでした。
だいたいにおいて、私は何かそういう学術的だったり、暗喩だったりすることは書けません(笑)
あ、あそこが戎橋だったのですね。
写真、たくさん撮ってきました。
あの橋のあたりは、とにかくすごい人でびっくりしました。
日本橋は同じ字でも、こちらでは「にほんばし」ですが、大阪では「にっぽんばし」でしたね。
同じエビスでも字が違うと、受けるイメージが違うものです。
秋葉原みたいなオタロード、ネーミングがいいですね。
わかりやすいです(≧▽≦)
1162
ぼくが解釈を間違えているのかもしれないのですが、1159の投稿の中で、「大、、でなくて宇宙は、2018年10月に行きました。」とあり、歌舞伎と宇宙がどうつながるのだろうとおもったんです。
松竹座はグリコの看板のすぐ向こうですよね。
タイムリーなことにあのグリコの看板がある橋は「戎橋(えびすばし)」といいます。
むかしはナンパする若いのが多かったことから「ひっかけ橋」とも言われていました。
大丸のあたりから南に2kmほど行くと、恵美須町という町があるんですが、こちらは戎でも恵比寿でもなく、恵比須なんですよね。
松竹座から1kmほど歩くと、日本橋という……むかしは「でんでんタウン」といったんですが、いまでは秋葉原に次ぐオタク街になっていて、本通りからすこし裏道に入ったところは「オタロード」と呼ばれているようです。
むかしはよくここでパソコン関係のものを物色したもので、電気関係ならいかがわしいものもよく売っていました。
ぼくが解釈を間違えているのかもしれないのですが、1159の投稿の中で、「大、、でなくて宇宙は、2018年10月に行きました。」とあり、歌舞伎と宇宙がどうつながるのだろうとおもったんです。
松竹座はグリコの看板のすぐ向こうですよね。
タイムリーなことにあのグリコの看板がある橋は「戎橋(えびすばし)」といいます。
むかしはナンパする若いのが多かったことから「ひっかけ橋」とも言われていました。
大丸のあたりから南に2kmほど行くと、恵美須町という町があるんですが、こちらは戎でも恵比寿でもなく、恵比須なんですよね。
松竹座から1kmほど歩くと、日本橋という……むかしは「でんでんタウン」といったんですが、いまでは秋葉原に次ぐオタク街になっていて、本通りからすこし裏道に入ったところは「オタロード」と呼ばれているようです。
むかしはよくここでパソコン関係のものを物色したもので、電気関係ならいかがわしいものもよく売っていました。
もとは外来の神様だから蔑称で戎と言っていたのに、今は日本の福の神の代表になっているのはおもしろいですね。
うわ~~、懐かしい!!
それです!!!
改めて配役を凝視してしまいました(笑)
すっかり忘れていた、海老蔵の團十郎花火も思い出しました←花火はプロジェクションマッピングの投影で、ぜんぜんおもしろくありませんでした。
歌舞伎は、筋書きをしっかり頭に入れてから観ないと、何が何だかわからず失敗することも多いです。
役者の見分けもつきにくく、今舞台にいるのは誰だっけ?ということもよくあります←あくまで私の場合です。
歌舞伎は、農園主さんが書いていらっしゃるように、何度か同じものを観てわかってくると、深みがでておもしろくなってくるものかもしれません。
宇宙とのつながりですか?
能や歌舞伎など、古典芸能の解説、歌舞伎の見方を書いたりしている、渡辺保さんの「歌舞伎という宇宙」の本の事でしょうか?
これでしたら読んでいませんが、歌舞伎を知るにはわかりやすい参考書のようなものと聞いています。
このことでなければ、正直なところ、わかりません。
何か気がついたことがありましたか?
うわ~~、懐かしい!!
それです!!!
改めて配役を凝視してしまいました(笑)
すっかり忘れていた、海老蔵の團十郎花火も思い出しました←花火はプロジェクションマッピングの投影で、ぜんぜんおもしろくありませんでした。
歌舞伎は、筋書きをしっかり頭に入れてから観ないと、何が何だかわからず失敗することも多いです。
役者の見分けもつきにくく、今舞台にいるのは誰だっけ?ということもよくあります←あくまで私の場合です。
歌舞伎は、農園主さんが書いていらっしゃるように、何度か同じものを観てわかってくると、深みがでておもしろくなってくるものかもしれません。
宇宙とのつながりですか?
能や歌舞伎など、古典芸能の解説、歌舞伎の見方を書いたりしている、渡辺保さんの「歌舞伎という宇宙」の本の事でしょうか?
これでしたら読んでいませんが、歌舞伎を知るにはわかりやすい参考書のようなものと聞いています。
このことでなければ、正直なところ、わかりません。
何か気がついたことがありましたか?
1159
外来の神様としてのエビスさんは、もともとは外国人の蔑称としてつかわれている言葉ですよね。
あれは、むかしの日本人の性格を考えるとわかりやすいとおもうんですが、よそものはみんな蔑称で呼んでいたんですよね。
みんなじぶんの領地・領土を守る意識が強かったので、よそものは敵です。
戦国時代に貿易のために訪れた外国人は、肌の色にかかわらず「南蛮人」という蔑称で呼んでいました。
明治あたりでも「毛唐人」でした。
江戸時代の書物では「西洋人」という蔑称でない言葉もつかわれていたんですが、これは現金なもので、じぶんたちに文明であるとか、なにか利益を与えてくれるとわかって、はじめて言葉遣いが変わるわけです(笑)
「エビスさん(えべっさん)」というのも、蔑称がそのまま尊称になったという例だろうとおもいます。
ところで、ぼくは歌舞伎のことはほとんどわからないんですが、歌舞伎と宇宙にはつながりがあるのでしょうか。
おそらく2018年10月の大阪の歌舞伎というと、この公演ですよね。
https://www.kabuki-bito.jp/uploads/image...
以前にも言ったとおもうんですが、歌舞伎観劇が趣味というのはうらやましいです。
古典芸能はたぶん、わかるとどんどん深みが出てきておもしろいのだろうなとおもいます。
キャンディーズの歓声ですが、ビートルズのときも、歓声でだれでも音楽を聴いていないことに、当のビートルズもイヤになってしまったといいますよね。
いわゆる「失神コンサート」というのは、むかしほどは聞かなくなりましたが、あれは一種の集団ヒステリーなんだとおもいます。
ライブが、集団で狂乱状態になるための道具になっているんですね。
アメリカの1960年代のウッドストックという、ロックフェスティバルのときの映像をみていると、あきらかにドラッグでトランス状態になった人たちが、恍惚としながら爆音のライブを眺めてる様子がみられます。
主人公は演奏者である、というのがふつうのわきまえなんですが、狂乱状態になると、主人公がオーディエンスになるという逆転現象が起こるのでしょう。
外来の神様としてのエビスさんは、もともとは外国人の蔑称としてつかわれている言葉ですよね。
あれは、むかしの日本人の性格を考えるとわかりやすいとおもうんですが、よそものはみんな蔑称で呼んでいたんですよね。
みんなじぶんの領地・領土を守る意識が強かったので、よそものは敵です。
戦国時代に貿易のために訪れた外国人は、肌の色にかかわらず「南蛮人」という蔑称で呼んでいました。
明治あたりでも「毛唐人」でした。
江戸時代の書物では「西洋人」という蔑称でない言葉もつかわれていたんですが、これは現金なもので、じぶんたちに文明であるとか、なにか利益を与えてくれるとわかって、はじめて言葉遣いが変わるわけです(笑)
「エビスさん(えべっさん)」というのも、蔑称がそのまま尊称になったという例だろうとおもいます。
ところで、ぼくは歌舞伎のことはほとんどわからないんですが、歌舞伎と宇宙にはつながりがあるのでしょうか。
おそらく2018年10月の大阪の歌舞伎というと、この公演ですよね。
https://www.kabuki-bito.jp/uploads/image...
以前にも言ったとおもうんですが、歌舞伎観劇が趣味というのはうらやましいです。
古典芸能はたぶん、わかるとどんどん深みが出てきておもしろいのだろうなとおもいます。
キャンディーズの歓声ですが、ビートルズのときも、歓声でだれでも音楽を聴いていないことに、当のビートルズもイヤになってしまったといいますよね。
いわゆる「失神コンサート」というのは、むかしほどは聞かなくなりましたが、あれは一種の集団ヒステリーなんだとおもいます。
ライブが、集団で狂乱状態になるための道具になっているんですね。
アメリカの1960年代のウッドストックという、ロックフェスティバルのときの映像をみていると、あきらかにドラッグでトランス状態になった人たちが、恍惚としながら爆音のライブを眺めてる様子がみられます。
主人公は演奏者である、というのがふつうのわきまえなんですが、狂乱状態になると、主人公がオーディエンスになるという逆転現象が起こるのでしょう。
大阪では「戎」の字を使うんでしたね。
今、戎と恵比寿の違い、由来をちょっとだけ調べてきましたが、エビスと言ったら、やっぱりビールのイメージです(笑)
大、、でなくて宇宙は、2018年10月に行きました。
10年に一度くらいしか上演されない歌舞伎の演目が松竹座であったんです。
目的の夜の部を観たのですが、昼の部も観たくなり、翌日の切符を取ろうとしましたが、いい席が無く断念。
一度帰り、数日後にまた松竹座に行った、という次第です。
それぞれ1泊ずつして、水掛不動さん、グリコのあたり、大丸デパートとか、ちょっとだけうろうろしてきました。
演目は、先日亡くなった市川猿翁演出の『雙生隅田川(ふたごすみだがわ)』。
ご両親の自殺ほう助で逮捕された市川猿之助が引継ぎ、この時も出演していました。
敵討ちの話ですが、舞台で水を豪勢に使ったり、天狗になった主人公の宙乗りと、見どころ満載のものです。
歌舞伎というとお年寄りが観るものというイメージがありますが、4歳くらいの頃から観に行って(行かされて)いたので、私の歌舞伎好きはその影響です。
蘇民祭、そういうことなんですね。
古くからの伝統行事の残し方は、難しいですね。
簡略化するといずれ0になってしまうのではないかという気持ちもわかりますが、100として残していけないなら、農園主さんのお考えのように、30でも10でも残していった方がいいはずですよね。
スーザンボイルは、あの有名なイギリスのオーディション番組『ブリテンズ・ゴット・タレント』でグランプリをとったのがきっかけで、ブレイクしました。
ただ、あの番組は、審査員があまりにも大げさで、やらせの部分が多いように感じます。
最初に番組に出た時、「そのへんにいるボサボサ頭のふつうのおばさん」のイメージを観客に植え付けておいて、歌唱力とのギャップを際立たせようとした狙いがあったんだと思います。
本当に、優しそうで素朴で、好感の持てる人だと思います。
そういう人を、おかしな売り出し方でブレイクさせると、性格も変えてしまい健康を損ねたりと、結局は長続きしない使い捨てタレントになってしまう可能性が高いです。
話がとびますが、先日、YouTubeでいろいろな人の「朝日のあたる家」を観ていたら、キャンディーズの CANDIES FINAL CARNIVALで、伊藤蘭が歌っているのを見つけました。
1976年、蘭ちゃん、かわいくて若いです(笑)
それを途中まで観て、なんだかかわいそうになり、やめました。
一生懸命歌っているのに、ファンの歓声がすごいんですよね。
ヤジではなく応援の叫びだとは思うのですが、前奏・間奏の部分はしかたないとしても(生で演奏しているミュージシャンがいるので、本当はここでも静かに聴くべきですが)、
歌っている時はちゃんと聴いてあげてよ、と思ったわけです。
ファンあってのアイドルなので、こういう現象はあたりまえなのかもしれませんが、ファンならなぜちゃんと聴かない!!と思うわけです。
自分が小さいながらもステージに立つものであるので、よけい悲しくなったのだと思います。
まぁ、アイドルではないので(笑)、演奏や歌唱の時は、みなさん、シーンとして聴いてくださるのはありがたいです。
中村仲蔵なら、終わった後の拍手ひとつない静寂に包まれ落ち込むのでしょうが、適度な拍手もいただけるので、アイドルにならないでよかった、と(笑)
今、戎と恵比寿の違い、由来をちょっとだけ調べてきましたが、エビスと言ったら、やっぱりビールのイメージです(笑)
大、、でなくて宇宙は、2018年10月に行きました。
10年に一度くらいしか上演されない歌舞伎の演目が松竹座であったんです。
目的の夜の部を観たのですが、昼の部も観たくなり、翌日の切符を取ろうとしましたが、いい席が無く断念。
一度帰り、数日後にまた松竹座に行った、という次第です。
それぞれ1泊ずつして、水掛不動さん、グリコのあたり、大丸デパートとか、ちょっとだけうろうろしてきました。
演目は、先日亡くなった市川猿翁演出の『雙生隅田川(ふたごすみだがわ)』。
ご両親の自殺ほう助で逮捕された市川猿之助が引継ぎ、この時も出演していました。
敵討ちの話ですが、舞台で水を豪勢に使ったり、天狗になった主人公の宙乗りと、見どころ満載のものです。
歌舞伎というとお年寄りが観るものというイメージがありますが、4歳くらいの頃から観に行って(行かされて)いたので、私の歌舞伎好きはその影響です。
蘇民祭、そういうことなんですね。
古くからの伝統行事の残し方は、難しいですね。
簡略化するといずれ0になってしまうのではないかという気持ちもわかりますが、100として残していけないなら、農園主さんのお考えのように、30でも10でも残していった方がいいはずですよね。
スーザンボイルは、あの有名なイギリスのオーディション番組『ブリテンズ・ゴット・タレント』でグランプリをとったのがきっかけで、ブレイクしました。
ただ、あの番組は、審査員があまりにも大げさで、やらせの部分が多いように感じます。
最初に番組に出た時、「そのへんにいるボサボサ頭のふつうのおばさん」のイメージを観客に植え付けておいて、歌唱力とのギャップを際立たせようとした狙いがあったんだと思います。
本当に、優しそうで素朴で、好感の持てる人だと思います。
そういう人を、おかしな売り出し方でブレイクさせると、性格も変えてしまい健康を損ねたりと、結局は長続きしない使い捨てタレントになってしまう可能性が高いです。
話がとびますが、先日、YouTubeでいろいろな人の「朝日のあたる家」を観ていたら、キャンディーズの CANDIES FINAL CARNIVALで、伊藤蘭が歌っているのを見つけました。
1976年、蘭ちゃん、かわいくて若いです(笑)
それを途中まで観て、なんだかかわいそうになり、やめました。
一生懸命歌っているのに、ファンの歓声がすごいんですよね。
ヤジではなく応援の叫びだとは思うのですが、前奏・間奏の部分はしかたないとしても(生で演奏しているミュージシャンがいるので、本当はここでも静かに聴くべきですが)、
歌っている時はちゃんと聴いてあげてよ、と思ったわけです。
ファンあってのアイドルなので、こういう現象はあたりまえなのかもしれませんが、ファンならなぜちゃんと聴かない!!と思うわけです。
自分が小さいながらもステージに立つものであるので、よけい悲しくなったのだと思います。
まぁ、アイドルではないので(笑)、演奏や歌唱の時は、みなさん、シーンとして聴いてくださるのはありがたいです。
中村仲蔵なら、終わった後の拍手ひとつない静寂に包まれ落ち込むのでしょうが、適度な拍手もいただけるので、アイドルにならないでよかった、と(笑)
1155
ギズモさんの宇宙に行った2度の経験談をぜひうかがいたいです(笑)
蘇民祭ですが、あれはやっぱり備後風土記に出てくる蘇民将来とスサノオ(牛頭天王)の伝説に基づいてるんでしょう。
ただ、あのお祭り自体はまったく現代にそぐわないというか……あの裸祭りは現代人はやりたくないとおもいます。
1月~3月の真冬の岩手での裸祭りが、神事だから強要されてよいとはちょっと言えません。
最近つくづくおもうんですが、ほんとうに古くからやってきた神事(あるいは田舎の行事)をつないでいきたいのであれば、その形式の部分をどんどん現代に合わせていく必要があるとおもっています。
なのにどうもうちの田舎をみていても、100か0かという話になってしまいがちなんです。
ぼくは昔ながらの100では続けられないなら、現代風に30にでも10にでも簡略化して、ともかく息を細くしてでも続けて行けばいい、とおもっています。
でも多くの人は、簡略化をすると宗教行事として意味がないとか、簡略化をするとそのままいずれ断絶して0になってしまうとおもってしまうようです。
「続けていくために簡略化をするんだ」という目的意識を明確にすれば、また将来、田舎で人口が増えるような機会があれば、むかしながらの神事を復活させることもできるかもしれません。
なのに、みんなもう、いまのことしか考えないクセがついてしまったのか、100年後に細々とでもつないでいくことに意義があるという意見はなかなか聞かれません。
古代の神道が仏教と習合していったようなことも、その時代に合わせて神道を弱体化させてでも生き残ろうということだったはずです。
蘇民祭にしても、裸祭をやめて、まったくちがう形になってでも、現代社会によりそう様式にして、次の時代につないでいく、という考えはなかったのか、とおもいます。
スーザンボイル、画像検索をするとどれも笑顔の写真で好感がもてました。
ただ実際にお会いしたわけでも、性格もフィーリングもわかりませんから、それ以上はなにもわかりません(笑)
六所神社の縁起物の写真、じつに福々しくていいですね。ありがとうございます。
この戎さんもニコニコしておられて、好感がもてましたし、鯛がかわいいです。
ギズモさんの宇宙に行った2度の経験談をぜひうかがいたいです(笑)
蘇民祭ですが、あれはやっぱり備後風土記に出てくる蘇民将来とスサノオ(牛頭天王)の伝説に基づいてるんでしょう。
ただ、あのお祭り自体はまったく現代にそぐわないというか……あの裸祭りは現代人はやりたくないとおもいます。
1月~3月の真冬の岩手での裸祭りが、神事だから強要されてよいとはちょっと言えません。
最近つくづくおもうんですが、ほんとうに古くからやってきた神事(あるいは田舎の行事)をつないでいきたいのであれば、その形式の部分をどんどん現代に合わせていく必要があるとおもっています。
なのにどうもうちの田舎をみていても、100か0かという話になってしまいがちなんです。
ぼくは昔ながらの100では続けられないなら、現代風に30にでも10にでも簡略化して、ともかく息を細くしてでも続けて行けばいい、とおもっています。
でも多くの人は、簡略化をすると宗教行事として意味がないとか、簡略化をするとそのままいずれ断絶して0になってしまうとおもってしまうようです。
「続けていくために簡略化をするんだ」という目的意識を明確にすれば、また将来、田舎で人口が増えるような機会があれば、むかしながらの神事を復活させることもできるかもしれません。
なのに、みんなもう、いまのことしか考えないクセがついてしまったのか、100年後に細々とでもつないでいくことに意義があるという意見はなかなか聞かれません。
古代の神道が仏教と習合していったようなことも、その時代に合わせて神道を弱体化させてでも生き残ろうということだったはずです。
蘇民祭にしても、裸祭をやめて、まったくちがう形になってでも、現代社会によりそう様式にして、次の時代につないでいく、という考えはなかったのか、とおもいます。
スーザンボイル、画像検索をするとどれも笑顔の写真で好感がもてました。
ただ実際にお会いしたわけでも、性格もフィーリングもわかりませんから、それ以上はなにもわかりません(笑)
六所神社の縁起物の写真、じつに福々しくていいですね。ありがとうございます。
この戎さんもニコニコしておられて、好感がもてましたし、鯛がかわいいです。