山麓王国

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2025年12月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する

Icon of gizumo
コンサートの準備や、娘婿の母親(群馬の)を交えての食事会など、いろいろな予定が集中してたてこんで、お返事が遅くなってしまっていました。

今回の記事も、本当に感銘を受けて読ませていただいていたので、農園主さんがそれほど気をお遣いになると、却って申し訳なく思います。

返信の苦労など、あろうはずはなく、謝るなどとは、とんでもないことです。

的外れなお返事を書いてしまいそうですが(笑)、落ち着いて何度もじっくり読ませていただき、それからのお返事ということで、近況も混ぜて書かせていただきますね。

いつも、本当に心に響く、貴重なお話を読ませていただいていること、とても感謝しております。

リセットはなし、ということで(笑)

充分に暖かい用意をして、お帰りくださいね。
Icon of nouennushi
前回はほんとうにじぶん勝手な長文の記事を書いてしまいました。

書いている間は、これも伝えたい、あれも伝えたいとおもって、勝手にどんどん興が乗ってしまいました。

しかしいざ送信してみると徐々に冷静になり、あんな記事に体裁を整えてご返信いただくご苦労を考えると申し訳なく、謝りたいとおもっていたのです。

これは社交辞令でもなんでもなく、個人的な羞恥心からくるものですが、わたしの前回の記事に触れずにいったんリセットして、ギズモさんの近況を書いていただきたいです(笑)



きょう、自治会で突発的な用事が入ったので、あした帰省することになり、いまこのような記事を書いています。

年末のコンサートがどのようなものであったか、またお聞かせいただければ幸いです。

それでは改めて、どうぞ良いお年をお迎えください。
Icon of gizumo
先にごあいさつをいただいてしまい、失礼しました。

今日、今年最後のコンサートが無事終わり、やっと一息つくことができました。

お返事が遅くなっていて申し訳ございませんが、来年に入り、すこしたってから、記事のお返事を書かせていただきます。

どうぞ、楽しく、佳い年末年始、お正月をお過ごしくださいね(^^♪
Icon of nouennushi
ギズモさん、こんにちは。

わたしはこれから1月5日くらいまで、実家に帰ります。

パソコンやスマホの利用が最低限になりますので、すこし早いのですが、本年もたいへんお世話になりました。

ギズモさんにとってもよいお年をお迎えください。
Icon of nouennushi
ややこしい話を聞いていただいているのはわたしのほうですから、お返事のタイミングは一切気になさらないでください。

おそらく次のお返事も、期間を区切るとしんどいとおもいますから、いつになってもけっこうです。

氷川神社でわたしのことをお話いただいて、ありがとうございました。

またさまざまな興味深いお話、お考えをありがとうございます。



今回はこれまでのまとめとして、日本の神代についてお話ししようとおもったのですが、とんでもない長さになってしまいました。

イザナギ・イザナミから卑弥呼・壱与、そこにスサノオがどう絡んだか。

出雲国とヤマト王権の関係性。

そして神武天皇の東遷、崇神天皇へと続き、最後は出雲族の氷川につながる話になります。

あくまでわたしが解釈した「物語」なのですが、神話と実際の歴史の時系列を整えたことで、おもしろい読み物にはなっているとおもいます。

長いので、ぜひゆっくりとお楽しみください(笑)



日本では7世紀になってようやく日本書紀、古事記によって、日本国家の主権を主張しました。

日本も大陸の王朝の歴史書のように、「紀元前よりむかしから国の歴史があった」と示したかったんですが、ヤマト王権の歴史は2世紀あたりに始まったようです。

それ以前は小国……ともいえぬような集団が各地を自治していたと考えられます。

神話では「混沌」とされる時期で、この時期にはヤマト王権につながる系譜はありません。

そのため、記紀神話ではあたかも紀元前から歴史がつながっているかのように、神代から初期の天皇の系譜までを長く引き延ばすレトリックを多用しました。



神武天皇の寿命が127歳だとか、バカげたことになっているのはそのためです。

今回わたしは、イザナギ・イザナミの国生み・神生みから10代崇神天皇までは、西暦100年ごろから250年ごろのたった150年の歴史だったのではないかと考えました。



ところで今回は、これまでわたしが推測した神話の話はぜんぶ忘れてください(笑)

スサノオの件でも、今回はかなり深掘りしましたので、前回と似ている部分もあるものの、まったく違う話になっています。

どうかご容赦ください。



さて、神武天皇や崇神天皇は、一般的には紀元前の生まれということになっているようですが、実際にはもっとのちの世に活躍したとおもわれます。

神武天皇は170年から220年ごろ。
崇神天皇は230年ごろから280年といったところでしょうか。



なぜそう考えるかというと、たとえば10代崇神天皇は倭迹迹日百襲姫命の甥っ子なのですが、この人の墳墓とされる箸墓古墳は250年ごろに建造されたことが、調査で明らかになっているんですね。

西暦250年あたりを生きた人の甥っ子が紀元前生まれだと、つじつまが合いません。



また欠史八代(2代目から9代目までの天皇)をほとんど存在しないものと考えると、神武天皇も2世紀ごろの人だと考えられます。

欠史八代とはよく言ったものだとおもいますが、それを証明するような話として、倭迹迹日百襲姫命のこんな伝説をご紹介しましょう。



倭迹迹日百襲姫命と大物主神が結ばれることになりました。

しかし逢瀬はいつも夜ばかり。

姫が「どうしても明るいところでお顔が見たい」と望みました。

大物主は「わかりました。それでは夜が明けたら櫛箱の中をのぞいてみてください」といいました。

あくる朝、姫が櫛箱をのぞくと、小さなヘビが入っていたため、悲鳴をあげてしまいます。

このヘビこそ、大物主の正体でした。

大物主は姫の態度に恥じ入って(あるいは大いに怒り)、三輪山へ帰ってしまいます。

姫が後悔して腰を落としたところ、箸が陰部に刺さって死んでしまったため、姫の墓は箸墓古墳と呼ばれるようになりました。




ちなみに大物主は奈良県の三輪山にいた製鉄集団の長だったとおもわれます。

櫛箱の中にいたのが「ヘビ」だったことも、製鉄との関係をにおわせます。



大物主は若いころ、勢夜陀多良比売(セヤダタラヒメ)を見初めて結婚しました。

その娘を比売多多良伊須気余理比売(ヒメタタライススキヨリヒメ)といいます。

ふたりとも名前に「たたら」が入っていますよね。



ギズモさんも疑問を感じておられたとおもうんですが、日本の製鉄の歴史は6世紀末から始まったといわれます。

しかしこれは発掘調査でそれ以上むかしの製鉄遺跡がみつからないだけで、少なくとも神話を読み解くうえでは、2世紀末にはすでにたたら製鉄は始まっていたと考えられます。



さて、そんな大物主の娘の比売多多良伊須気余理比売は、初代神武天皇の正妻になりました。

これは神話をそのまま読んでいると、非常にヘンな話です。



なぜなら、

・倭迹迹日百襲姫命(10代崇神天皇のおば)が大物主と結婚。

・初代神武天皇に大物主の娘が嫁ぐ。

時系列がめちゃくちゃです。

神武天皇に娘を差し出した大物主が、その数百年後に百襲姫と結婚したのでしょうか。



もちろんそんなことはありません。

まず大物主の娘が神武天皇の妻になります。

このとき、大物主はまだ30代といったところ。



その後20~30年後に、巫女の倭迹迹日百襲姫命と、老境の大物主が結婚。

そうすると、時系列でつじつまが合うのです。

欠史八代がほとんど存在しない、いたとしても神武天皇と崇神天皇の間にほとんど空白期間がない、と考えると、歴史の隙間が埋まります。

逆にいえば、神武天皇と崇神天皇の間に微妙な空白期間があったために、欠史八代が入り込んだとも考えられます。



今回はこんな感じで、神話と実際の歴史の時間差を埋めながら話を進めます。

それでは、日本の歴史の最初、イザナギとイザナミからはじめていきましょう。



神話によるとイザナギとイザナミの物語では、最初にイザナミから求愛をしましたがうまくいかず、イザナギから求愛すると国生みと神生みがうまくいくようになったとあります。

なぜイザナミが最初に求愛したのかというと、ふたりのいた社会ではイザナミのほうが立場が上だったからでしょう。

女性がトップにいる社会というと、卑弥呼とおなじ巫女ですね。

イザナミの墓は出雲にありますから、出雲の巫女だったと考えられます。



しかしイザナミが政治を主導するとうまくいきません。

そこでイザナギに政治を主導してもらい、イザナミが巫女としてサポートする形をとると、圧倒的なスピードで様々な国が出雲の国に従うようになり、多くの人(神)がふたりの国に従うようになりました。

これが国生みと神生みということでしょう。



しかしイザナミは道半ばで亡くなりました。

神話によると、イザナミは、火の神カグツチを生んだことで陰部を火傷して死んだとあります。

カグツチの体からは、大量の山祇命(ヤマツミノカミ:山の神)が生まれました。

この中には大山祇命という山の民の超大物もいました。



すこし性急かもしれませんが、山と火というと、単なる山の民ではなく、やはり製鉄集団の可能性を考えてしまいます。

しかしこのときはまだ「たたら」という言葉が出ませんから、自前での製鉄技術はなく、朝鮮や中国から鉄を買い付けて「鍛冶」をしていたのでしょう。



わたしは「出雲の山にいた製鉄鍛冶集団の中に不届き者がいて、イザナミを殺してしまった」と考えました。

イザナギは激怒し、カグツチを斬り殺します。

この一連の出来事が実際にはどんな感じだったのか、さらに想像を広げてみましょう。



イザナギと順調に国土を広げていったイザナミでしたが、あるときから政治的野心が顔をのぞかせます。

巫女の神懸かりで、じぶんの都合よく事を運ぼうとするようになったのでした。

イザナギはイザナミがおかしくなったことに気づいていません。

ついに山の民が怒り出し、なかでも過激な一派によってとうとうイザナミが殺されてしまいました。

イザナギはなにが起こったのかわかりませんから、激怒し、優秀な仲間を引き連れて、イザナミを殺した主犯を突き止めて殺しました。

しかしイザナミの死の原因を追究していくにつれて、どうやら山の民が相当な不満を抱えていたこと、イザナミに大きな問題があった可能性が浮上します。



まさかイザナミがそんなわけはないだろうとおもいつつ、そのこと問題を突き詰めていくと、イザナミの悪事を支えていた権力者たちによって、イザナギは出雲を追い出されてしまいました。

権力者たちはイザナギに向かって、「お前がどこかで国をつくれば、その国の人間を毎日1000人殺してやる」と脅します。

イザナギは「それならわたしは毎日1500人生まれる国をつくってやろう」というのでした。

イザナギはじぶんに付き従う者を引き連れて九州へ向かって、あらたな国家をつくり、そこでも巫女を立てます。

アマテラス(卑弥呼)でした。



イザナギは黄泉の国の穢れを川で落とすときに、左右の目からアマテラスとツクヨミを生み、鼻からスサノオを生んだといいます。

このうちアマテラスとスサノオは有名ですが、ツクヨミはいまいちはっきりしない存在ですよね。

おそらくツクヨミは「月を読む存在」。

つまり当時の天文である古代道教という規範が、アマテラスの隣にあったということでしょう。

イザナミには、巫女としての規範がなかったことが問題でした。



スサノオは朝鮮からやってきた集団の若い頭領で、出雲ではイザナミに可愛がられていましたが、これといった役職にはついていません。

イザナミが死ぬと、スサノオはイザナギに従って九州に行くのですが、そこで頭角をあらわします。



スサノオたちは、高千穂や出雲や朝鮮などの国々をつなぐ外交官のような存在でもあり、あるいは朝鮮からきたことから、鬼道(道教)を全国に伝え広める役割も担っていたのかもしれません。

ツクヨミとスサノオの伝承が似ていることを考えると、そもそも鬼道をアマテラスに教えたのも、スサノオの可能性があります。

しかし高千穂にいたスサノオに出雲国とのスパイの可能性が浮上しました。



さて、いったんここで想像を止めましょう。

これまでのことを考えると、イザナギは西暦100年ごろから170年ごろ。

イザナミは西暦100年ごろから140年ごろを生きたのではないかとおもいます。



イザナギは140年ごろに出雲を追い出されて、九州であらたな国をつくります。

アマテラス(卑弥呼)は西暦150年あたりに生まれて、160年あたりで高千穂の巫女となったのではないでしょうか。

そして230年あたりまで70~90歳と、相当長生きをしているとおもわれます。

箸墓古墳が250年あたりに建造されたことを考えると、アマテラスから崇神天皇までの皇統が、たった100年程度で一気に進んだということになります。


アマテラス

アメノオシホミミ

ニニギノミコト

山幸彦

ウガヤフキアエズノミコト

神武天皇
↓→このころに卑弥呼(アマテラス)が亡くなる
(欠史八代)

崇神天皇



これをどう100年におさめるのか。

神話を素直に解釈するわけにはいきませんから、わたしはアマテラスの巫女即位から神武天皇が即位するまでの物語は、九州にあったべつべつの小国を巻き込んで、ほんの20~30年の短期間で行われていたのではないかと考えました。

ここまででかなりわたしがおかしなことを言っているようにおもわれるかもしれませんが、神話をよむ限り荒唐無稽ということでもないのです。

ここからはまた想像を広げましょう。



まずイザナギが西暦160年ごろに、高千穂でアマテラス(卑弥呼)をたてました。

まだ10歳くらいの、幼い少女です。

イザナミのときとちがって、この少女には道教の規範を教え込んで、逸脱した神懸かりをしないようにしつけました。

スサノオがその役を引き受けたことから、アマテラスの側近として非常に高い地位を与えられ、さまざまな仕事を任されることになります。

しかしスサノオは次第に増長し、じぶんが出雲の王になれば、高千穂と出雲との抗争もなんとかできるのではないかと、野心を抱くようになりました。

そして、イザナミに会いに出雲へ行きたい、と言い出すようになったのです。



それを知ったイザナギは激怒しました。

これほどの地位と権限を与えたのに、まさかおまえはスパイだったのかと、怒りに任せてスサノオを一族ごと追放してしまいます。

しかしスサノオには野心はありましたが、高千穂を裏切ろうという気はありません。

じぶんの軽挙がこのような誤解を生んでしまったことをひどく後悔し、ほとんど出雲に着いたところで、やはりアマテラスにお会いしてじぶんに二心がないことをお伝えする、と言って、また高千穂に戻ったのでした。



高千穂ではスサノオが帰ってきたために、まさか出雲が攻め込んできたのかと武装します。

しかしスサノオはぼろぼろ泣きながら、じぶんの無実を伝えるのでした。

幼いアマテラスは女官とともにスサノオに対して、裏切り者ではないことの証明をしてみせよといいます。

そして取引として、スサノオからは5人の優秀な人材を差し出させました。(アマテラスとスサノオの誓約)

ほんとうに高千穂がほしい人材だったこともあり、スサノオは許されました。

このときスサノオの差し出した者のひとりが、アメノオシホミミです。



壮齢のアメノオシホミミにはすでに青年となった子がいました(ニニギノミコト)。

ニニギノミコトも秀でた才能の持ち主で、アマテラスに命じられるかたちで、正式に高千穂の王となりました。(天孫降臨)



スサノオはアマテラスに許してもらえたことで、いままで以上に野心を表に出して出雲と高千穂を行き来するようになります。

スサノオには「大きなことを為したい」という気持ちが強く、直情的でわがままで、しかも腕っぷしがめっぽう強いため、周囲を振り回して困らせるわるいクセがありました。

全国に向かう中で悪評も残しながら、出雲では「ニニギノミコトはわたしの縁者だ」といい、大山祇命と人脈を形成。

高千穂では「わたしは大山祇命とコネクションを持っている。大山祇命の娘をニニギノミコトの妻にして友好を図ろう」などと、余計なことをし始めるのでした。



ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメの伝説の中で、初夜を共にした次の日にコノハナサクヤヒメの妊娠がわかったことから、ニニギノミコトが「それはわたしの子ではない。国津神の子ではないのか」と告げたエピソードがあります。

国津神とは、「よその国の者、とりわけ出雲の者」という意味を持つ、とんでもない言葉でした。

これはコノハナサクヤが実際に子をはらんだというよりは、彼女にスパイの疑いがかけられたということのようにおもえます。



このあとコノハナサクヤが生んだのが山幸彦と海幸彦なのですが、九州における山の民と海の民をあらわすといわれます。

つまり、高千穂でニニギノミコトが王になる一方、九州の山の民(山幸彦)と海の民(海幸彦)による浦島太郎のような物語が展開されていたと考えられます。



山幸彦が竜宮城(朝鮮)の王のワタツミノカミから娘をもらい、子を授かった(ウガヤフキアエズノミコト)エピソードは、以前お話したかとおもいます。

さらにこのウガヤフキアエズノミコトが、山幸彦の妻の妹と結婚して、神武天皇を生みます。

山幸彦はじぶんの妻の妹をわが子にめとらせることで、ワタツミノカミとの結びつきをより強固なものにしたかったのでしょう。



しかし当時の女性の出産適齢期はかなり短かったはずです。

そう考えると、ウガヤフキアエズノミコトはほとんど精通してまもないころに、山幸彦の妻の妹と結ばれて、子を授かったと考えられます。

ワタツミノカミの後ろ盾を得て、山幸彦は海幸彦を帰順させ、破竹の勢いで高千穂に接近しました。

このとき、山幸彦は30代前半、ウガヤフキアエズノミコトは10代前半で、さらに赤ん坊の神武天皇がいたことになります。



さて、ここでまたスサノオに登場してもらいましょう。

わたしが今回の仮説をたてるうえでずっと疑問だったのが、アマテラスの岩戸隠れでした。

アマテラスが岩戸に隠れて、スサノオが追放される話は、いつ起こったのか。



卑弥呼の死んで壱与が立ったことと岩戸隠れを結びつけると、スサノオがソシモリへ行くのは100歳くらいになってしまいます。

神話だからそれもアリ、といえばそれまでなんですが、今回はできるだけ神話を実際の歴史に近づけたい。

そうすると、ニニギノミコトが高千穂にいるころ、アマテラスがスサノオに脅かされる出来事があったのではないか。

そして調べていくうちに、こんな形でつじつまが合いました。



先ほど、ニニギノミコトが妊娠したコノハナサクヤに暴言を吐いたエピソードがありましたが、その前にも、ニニギノミコトはイワナガヒメを大山祇命に送り返しています。

大山祇命が激怒して、「これでお前の寿命は神ではなく、人間とおなじになった」といったエピソードは有名ですね。



この大山祇命は先ほども話しましたが、イザナミを殺したカグツチから生まれた神のひとりであり、出雲の山の民のトップでした。

イザナギとは因縁があるのですが、スサノオが間をとりもつようなかたちで、大山祇命の娘をニニギノミコトがもらうことになります。

しかし、ニニギノミコトはこの政略結婚を快くおもわず、イワナガヒメを送り返したのみならず、コノハナサクヤも出雲のスパイだとおもうようになりました。

出雲の大山祇命が激怒して寿命のことを話したのは、あるいはこのようなニニギノミコトのふるまいに対して、「やはり高千穂を許さぬ。ニニギノミコトを殺してやる」という脅しだったのではないか。



実際神話では、コノハナサクヤが山幸彦たちを生んでしばらくすると、ニニギノミコトは崩御したとあります。

原因ははっきりしませんが、もし出雲からのスパイによって殺されたとすれば、卑弥呼が出雲勢力(スサノオ)を恐れて天岩戸に隠れた理由になります。



つまり、出雲と高千穂の関係性がいよいよ危ない、どうなるかわからないということになり、卑弥呼が姿をくらました間に、ニニギノミコトが殺されてしまいました。

アマテラスが天岩戸に隠れたことで世の中が暗くなったのはこのためです。



そうと知らぬスサノオが高千穂にやってくると、すぐさまとらえられました。

アマテラスが隠れたこと、大山祇命との争いによってニニギノミコトが崩御したことを伝えられ、その原因がスサノオにあるといわれたため、スサノオは大いにうろたえます。

スサノオに悪意はありませんでしたが、スサノオの行為が最悪の結果を招いたことは事実です。



スサノオはもはや高千穂にも出雲にも居場所を失い、失意にうちひしがれて生まれ故郷の朝鮮へ向かいましたが、やはりすぐにまた出雲へ戻ってしまいました。

ギズモさんのお考えをお借りすると、このときに製鉄について学び、出雲の豊富な砂鉄を利用すれば、自前で製鉄が行えるのではないかと考えたのかもしれません。

これはいい手土産ができたぞと、出雲にたどりつくと、大山祇命には会えませんでしたが、その子であるアシナヅチとテナヅチに会えました。

そこであたらしい製鉄の話を切り出そうとしましたが、どうも様子がおかしい。

聞くと、最近出雲の山であたらしい暴力的な勢力(ヤマタノオロチ)が出てきて、山が勝手に伐採されるわ、それを注意すると殺されたりするわで、山の民がみな困っているというのです。



そこでスサノオの野心がまた、にわかに持ち上がりました。

これは千載一遇の大チャンスだと、機を見るに敏なスサノオのセンサーが反応したのです。

スサノオは、ヤマタノオロチを討伐したら娘をわたしにくれないかと談判しました。

クシナダヒメはまだ10代前半の少女でしたが、なにせ大山祇命の孫ですから、政治的後ろ盾を得る意味で大きな意味があります。

そして見事ヤマタノオロチを退治すると、スサノオは一躍、出雲の製鉄利権のリーダー的存在となりました。



これまでは軽挙でまわりを振り回したり振り回されたり、居場所を失って朝鮮へ渡ったりとさんざんでしたが、ここへきて大山祇命の強力な後ろ盾は得られるわ、若い妻がもらえるわ、自前のたたら製鉄利権が手に入るわと、人生ウハウハの最高潮ではありませんか。

そこで一句。

「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠に 八重垣つくる その八重垣を」
(もっとたたらを踏んで、鉄を溶かして煙を上げろ 出雲に雲をなびかせよ 大事な妻を守るためにこの国をどこまでも堅固にするのだ)



なぜスサノオのエピソードに限って8の字が多いのか、というギズモさんの問いかけについてですが、わたしはこのように考えました。

朝鮮から出雲へきてからというもの、スサノオに突然幸運が舞い込んでくるようになるでしょう。

8という数字は「とても多い」という意味の聖数です。

8という数字が出てくるたびに、スサノオに最高の幸運が舞い込んでくるというイメージですね。



ヤマタノオロチでさえ、スサノオにとってはチャンスでした。

そして八塩折之酒、クシナダヒメとの間の八柱の神。

ギズモさんがおっしゃったように、クシナダヒメが8人姉妹の末っ子だったこともそうですね。

そして「八雲立つ」のあの歌は、もはや確変状態で8を連発しています。

冗談じみた解釈ではありますが、8という数字の多さは、出雲にきてからのスサノオのバカヅキ具合をあらわしているようにおもえてなりません。



文学的には、たとえばこれからわるいことが起こるようなときには、大雨の情況を描いたり、突然カラスがガアガア鳴き始めるとか、不吉な予兆を強調するレトリックがあります。

逆に吉兆の前触れだと、晴天だとか、虹がかかるといったようなことですね。

スサノオの場合は、吉兆を伝えるレトリックとして8がもちいられたのではないか、というのがわたしの推測です。



さて、ヤマタノオロチの腹から出た剣は、アマテラスに献上したとあります。

これはつまり、

「わたしにはアマテラスを困らせるような二心はなかったのです。出雲に帰ってきてしまいましたが、出雲の山の抵抗勢力を討伐したことで、大山祇命とも親族となり、あたらしい製鉄法によってわたしが製鉄利権を統一しました。ニニギノミコトの件については申し訳なかったが、どうか友好の証にこの剣を受け取っていただきたい」

ということでしょう。



スサノオから高千穂に話を戻します。

周辺の国々を制圧した山幸彦が高千穂にやってきました。

ワタツミノカミの後ろ盾も得て、海幸彦の国をも統合した山幸彦は、ニニギノミコトの後継者として認められます。

高千穂の王であることにするため、形式としてコノハナサクヤの子ということになりました。



このとき、卑弥呼(アマテラス)はまだ30代。

卑弥呼は神武天皇をかわいがり、高千穂にいる間は、形式的に神武天皇の妻(吾平津媛)ということにさえなりました。

しかし卑弥呼は神武天皇が15歳くらいになると、ヤマトの地を開拓するように命じ、東遷を見送ったのです。



神武天皇は見事にヤマトの地をおさめました。

卑弥呼は卑弥呼で、九州の地で巫女政治を行っています。

そして230年前後に卑弥呼が死ぬと、巫女がいないことで世が乱れてきたため、ヤマトの地にあらたな巫女として倭迹迹日百襲姫命(卑弥呼の後継者である壱与)が立てられます。



ここにきて、出雲にイザナミ、高千穂に卑弥呼、そしてヤマトに倭迹迹日百襲姫命、という結びつきが出てきました。

ちなみに神話におけるアマテラスは「道教(ツクヨミ)と共にある巫女」という意味で、高千穂の卑弥呼とヤマトの壱与の両方を掛け持ちする形になります。



ところで、吾平津媛(アヒラツヒメ)については情報が少ないのですが、東遷する際に神武天皇を見送ったとあります。

わたしはこの吾平津媛が卑弥呼だったと考えて、この話を組み立てました。



中国の歴史書では卑弥呼について「年既に長大なるも夫婿無し」とあります。

これはそもそも卑弥呼は独身ですが、すでに形式上の結婚状態だった神武天皇の東遷も見送っており、50代前後だったということでしょう。



卑弥呼の後継者の壱与は、卑弥呼の宗女(同族=親族)だったといいます。

欠史八代はほとんど存在しないと考えると、吾平津媛の義理の姪っ子が倭迹迹日百襲姫命になりますから、壱与との関係のつじつまも合います。



さきほど、倭迹迹日百襲姫命の結婚の伝説について書きました。

わたしは最初、大物主と倭迹迹日百襲姫命の結婚の伝説を読んだとき、老いた卑弥呼と老いた大物主の恋の話だと、これは成立しないんじゃないかとおもいました。

箸墓古墳がつくられたのが230~250年あたりですが、そうすると卑弥呼はどう若く見積もっても70~90代の最晩年なんです。

夜に逢瀬を重ねて、大物主の正体をみた卑弥呼が悲鳴を上げて破局する……。

いくらなんでも、卑弥呼の年齢を考えるとナンセンスではないでしょうか。

しかしここを、壱与として考えると、がぜんリアリティが出てくるのです。



また想像を広げましょう。

卑弥呼が亡くなります。

あるいはこのときすでに神武天皇も亡くなっており、ヤマト王権は内部分裂するようなかたちで複数の王が並び立っていたのかもしれません。

そう考えると、欠史八代はこの時期に王が乱立したことをあらわしているようにもおもえます。

また「卑弥呼が亡くなった後に国中に不服が巻き起こり、殺し合いが起きた」という中国の歴史書の説明にもなります。



大混乱の末、ヤマトに倭迹迹日百襲姫命(壱与)が立てられました。

このときに卑弥呼の死を弔う意味と、壱与の誕生を祝う意味で、ヤマトに箸墓古墳が建造されました。

このおかげで混乱はいったんおさまります。



そして若い壱与が老いた大物主と結婚することになりました。

もちろん政略結婚です。



大物主は三輪山の製鉄集団の頭で、娘を神武天皇に嫁がせて、出雲とも太いパイプを持つ、まさに中つ国全土の大物であり、フィクサーでした。

神話では大国主や崇神天皇の夢枕に立って、ああしろこうしろと指図する話が残っていますが、かれらが大物主のいうことを聞くくらいですから、いわゆるキングメーカーでもあったのでしょう。

大山祇命もそうでしたが、やはり当時の製鉄集団は絶大な権力をもっていたと考えられます。



しかしこのあとはご存じのとおりです。

何度か夜の逢瀬を重ねはしたものの、いざ顔をみたいと壱与がせがむと、大物主はもう髪も歯もすっかり抜け落ちた老人でした。

壱与はあまりのショックに、おもわず悲鳴をあげてしまいました。

大物主は表面的には恥じ入った様子をみせましたが、内心はメンツ丸つぶれにされてハラワタが煮えくり返り、ヤマト王権の必死の説得にも応じず、三輪山へ帰ってしまいました。



壱与と大物主の結婚は、政治的に重大な意味があったのです。

このころ、出雲国もかなり勢いが衰えていて、ヤマト王権に平らげられるのも時間の問題でした。

しかしヤマト王権ではすでに神武天皇も卑弥呼もおらず、新たに立った崇神天皇もまだ若い。

さらに壱与と大物主の結婚が破談になり、ヤマト側が混乱に陥ったため、首の皮一枚つながります。



神話では、少彦名がいなくなったあとの大国主が国家運営に悩んだとき、夢枕に大物主があらわれて、わたしを三輪山にまつればうまく国づくりができるだろうと言いました。

そしてそのようにすると実際、国づくりを為すことができたといいます。

これは、大物主が壱与と破局してくれたおかげで、出雲は難を逃れたということかもしれません。

あるいは出雲側と大物主の間で、陰謀めいた政治的策略があった可能性もあります。



いずれにせよ、決して私情を持ち込んではならない、ヤマト王権の政局を決定づける縁談でした。

壱与はじぶんのしでかしたことの重さに耐えきれず、自殺しました。

箸が陰部に刺さって死んだということですが、これはもしかしたら、すでにおなかに大山祇命との子供を身ごもっていたのかもしれません。

壱与が死んだことで、巫女による鬼道政治も断絶しました。



もともと、巫女による政治はイザナギが好んだ政治手法です。

崇神天皇の御代になると、もはや占いに頼って政治をする必要はないと考えたのかもしれません。

実際、崇神天皇は御肇国天皇(ハツクニシラススメラミコト)といわれますが、これははじめてこの国を統治したという尊称で、巫女に頼らなくても抜群の政治センスがあったようです。



壱与の死後、ヤマト王権はかねてから計画していた四道将軍の各地への派遣を急ぎ、実行します。

四道将軍は短期間で各地を平定しましたが、出雲の一帯は支配することができませんでした。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%...



しかし結局その後、崇神天皇は武力で出雲を平定してしまうのです。

日本書紀に「振根の事件」のエピソードがあります。



出雲族の神宝を管理していた出雲振根が筑紫の国へ行った留守の間に、ヤマト王権から使者がきました。

崇神天皇が「出雲の神宝を見たい」といったことを告げると、出雲振根の弟たちは、あろうことから出雲の神宝を差し出してしまったのです。

これは言い換えれば、天皇家が他者に三種の神器を渡してしまうようなものでした。



筑紫の国から帰ってきた出雲振根は激怒して、弟たちを謀略によって斬り殺してしまいます。

ヤマトにいた崇神天皇はこの話を聞くと、今度は使いを出して、出雲振根を殺してしまいました。

そして出雲はヤマト王権によって平定されたとあります。



これは実際には直接的な戦争だったとおもうのですが、いずれにせよ出雲国は崩壊しました。

しかしじつは、出雲国が衰退したころから、すでに多数の同族が国を抜け出して、関東に支配権を広げていたんです。

この関東の出雲族が氷川神社につながってきます。



ところで、国譲り神話はいつの出来事だったのでしょう。

日本書紀では、ニニギノミコトが降臨するよりも前に、神々が大国主に葦原中つ国の統治権を譲るように談判したとあります。

大国主は紆余曲折の末、出雲大社の建造と引き換えに国譲りに応じます。



しかし、この話はおかしいのです。

出雲がニニギノミコトの即位以前に帰順していたとなると、「振根の事件」が崇神天皇の御代に起こったこととの整合性がとれません。

それに、スサノオの子が大国主であれば、少なくとも大国主の登場はヤマタノオロチ討伐以降ということになります。

大国主の夢枕に大物主が立ったのは、壱与がいたころです。

つまり大国主は、西暦200年以降に(少彦名との二頭で)出雲を統治していた王なのでしょう。

みんな言葉を濁すところなのだとおもいますが、記紀の国譲りは、神武天皇の東遷を正当化するために、神代に起こったこととして記された可能性があります。



余談ですが、どうも出雲の国譲りの問題には込み入ったものが多いですね。

戦後でも出雲の国造家の末裔という人がいて、かれらはしばしば、異様なほどの熱情でこの時代の出来事を語るのです。

ギズモさんも紹介しておられましたが、司馬さんの『司馬遼太郎が考えたこと』の1巻に「生きている出雲王朝」というエッセイが収められています。



ふだんは地方新聞社で働く一紳士であるW氏が、司馬さんを前に「いまでこそ新聞記者をしているが、私が当主であるW家は、出雲大社の社家である」と切り出します。

司馬さんいわく、かれは狂人ではないが、故郷である出雲に話が及ぶと、よほどはげしいおもいに駆られるらしく、一種の憑依状態になり、やや正常性を失って小陰謀めいた話をするそうです。

そのようすが司馬さんの好奇心を刺激したらしく、出雲についてのエッセイが展開されていきます。



このエッセイは1961年に書かれたものでしたが、わたしが物部について調べているときにも、インターネットのブログなどで、異様に込み入った出雲系の歴史を語る人々がいることに気づきました。

かれらの物語は、きわめて精緻な論理性で組み上げられているのに、途中からおかしな方向に話が進んでいくため、わたしもやはり「やや正常性を失って小陰謀めいた話」におもえます。



話を戻しましょう。

物部氏(経津主)と中臣氏(武甕槌)は出雲に国譲りを迫った氏族です。

崇神天皇が出雲を平定する前後に、多くの出雲族が関東へ流出しましたが、このふたりの氏族は関東でも、北は茨城の鹿島神宮(武甕槌大神)、南は千葉の香取神宮(経津主大神)で、挟み込むようにして封じました。

このような神社の配置を見ると、もしかしたら出雲族は新天地を求めて関東へ行ったというより、出雲族に関東を開拓させようというヤマト王権側の意図があって誘導されたのかもしれません。



以前調べたとき、氷川神社やその他関東の出雲族の系譜に、なぜか製鉄集団としての記録がないのが不思議でした。

祭神はスサノオですし、神話としてはヤマタノオロチ伝説からの斐伊川から、氷川になっていますよね。

しかし氷川信仰ではこのスサノオ神話から製鉄集団というメタファーが抜け落ちていて、荒川一帯の水神をあがめたというだけです。

実際、氷川神社の周辺をみても、鉄鉱山になりうる山がありません。



もしかしたら、関東の出雲族からは製鉄利権が奪われていたのかもしれません。

ヤマト王権からすると、手つかずの関東をあらたに開拓する余裕はないので、出雲族に開拓させたい思惑もありました。

当時の无邪志(むざし)、胸刺(むなさし/むさし)、知々夫(ちちぶ)の三国はみな出雲国造系が統治しました。

しかし武器利権を持たせたりはせず、小規模な自治を許すにとどめたのではないでしょうか。

イヤな解釈をすると、出雲国がヤマト王権に征服されたため、出雲族が関東に強制連行されたのではないか、という気さえします。



それはともかく、645年に大化の改新が起こると、関東の三国がひとつに統一されました。

その後8世紀に入ると、「武蔵国」という言葉があてられるようになります。



平安時代になると関東にいた農民たちが平氏や源氏と結びついて武士として台頭し、朝廷の脅威となりました。

この農民たちの多くは出雲族の出自だったはずです。



その後、朝廷を守護するという名目で鎌倉が幕府を開き、実質的な政治権力を手にしました。

さらに足利尊氏の時代には、既存の朝廷を大覚寺統(南朝)とし、みずからは持明院統(北朝)としてあらたに天皇を擁立します。

いわゆる南北朝時代ですね。



南北朝は半世紀以上にわたる敵対を続けましたが、最終的に南朝が北朝に譲位するかたちで、朝廷がひとつにまとまりました。

つまり、北朝が勝ったわけです。



イザナギ・イザナミが国づくりをした、日本のスタート地点ともいえる出雲でしたが、3世紀後半にはヤマト王権に帰順。

出雲から逃れた者たちも関東で苦しい開拓者となり、朝廷に抑圧されながら何世代も過ごしました。

しかしかれらが時を経て武士となり、室町時代にあらたな天皇を擁立し、その皇統が現代までつながるのです。

考えようによっては、出雲国は滅んだものの、出雲族は1000年かけて葦原中つ国を平定した覇者だったのかもしれません。



……。



さて、ほんとうに長い記事にお付き合いいただきました。

おそらくこれが、わたしの古代に対する見方の総まとめになるとおもいます。

スサノオのくだりは、じぶんでも物語を組み立てていくうちに、こんなパズルのピースのハマり方をするのかとおどろきながら書いていました。



最後に、河上哮ヶ峰(いかるがのみね)ですが、奈良の斑鳩との関係はわかりません。

しかし、ニニギノミコトが物部氏のご祭神だったことを考えると、物部氏を打倒したとされる聖徳太子と斑鳩が結びつくのは、どこか因縁を感じるところではあります。

あるいは物部氏を打倒したことで、蘇我氏が物部氏のルーツともいえる生駒の「いかるが」を奪って、聖徳太子と結びつけたのではないか。

もしそんな話だったら、ずいぶんいかがわしいですね(笑)



いよいよ年の瀬が迫ってきました。

こちらは、凍てるほど寒くなったかとおもうと、不思議にあたたかくなったりで、体調のリズムがなんだかおかしな感じです。

お互い体調管理に気を付けて過ごしましょうね。
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まず、お返事がだいぶ遅くなったことをお詫びします。


今回は、私の妄想が農園主さんを悩ませてしまったようで、申し訳なかったです(笑)

私にしてみれば、ポッと浮かんだ想像に過ぎなかったのですが(だいたい理知的で理路整然とした考えから、何かを指摘したり疑問を呈したりする頭脳は皆無です(笑))、物部氏があがめたのはヘビではなく~~~という話に、農園主さんが着目していないはずはないと、思ってはいました。

でも、さほど問題にする点はないので触れていなかったのだと思いましたが、実はこれほど貴重で興味深いお話が展開されるとは、いつもに(訂正:いつにも)まして驚かされました。

点があっても、それを結びつけようとすると、どこかにつじつまが合わないところが出て、考えれば考えるほど問題が出現する。

まして、記録や書物が多数あれば、混乱は必須だと思います。

確たるものがない時代のことで、正解と言えるものが出ないテーマですが、これほど多方向から紐解いて、最適解と言える解説に、本当に感嘆しています。

ほぼひとりじめして読ませていただけるとは、本当にありがたく、申し訳なく思います。

農園主さんのお考えを読ませていただき、そこから思いついたり考えたことを、支離滅裂で雑然としていますが、書かせていただきますね。

いくら能天気な想像にしろ、理解不足で誤ったことも多いはずですので、ご指摘ください。



当然別ものだとはわかっていますが、ふと感じたことがあって、改めて、ご祭神とご神体の違いを調べてみました。

現代の神社では、神様は仏様と違い、像をお祀りするということはなく、神様を描いた掛け軸のようなものも見かけません。

袋を担いで打ち出の小槌を持っているという姿が定着している大国主命etc.は別として、姿かたちのイメージがほとんどないのが神様だと思います。

そうした場合、例えば鏡、石、岩、剣など、誰でも容易にイメージできるご神体があれば、信仰する対象として、ご神体を通して神様を拝むという行為がやりやすくなるので、実際にないかもしれないご神体を設けたのかと考えてみました。

ご神体を祀ってあるところでも、普通は参拝客どころか、神職でさえ見ることが叶わないこともあります。

岩や石のようなものは、ご神体としてしめ縄をかけ、誰でも見られることもありますが、特に鏡や剣は、神職も見られないケースもあるらしいので、実際にあるのかないのか、あやしげです(笑)

物部氏は、なにをご神体として、その向こうにいるスサノオに祈ることにしようかと考えた時、スサノウといえば、剣かヤマタノオロチだと思ったのかもしれません。



ヤマタノオロチの真赤な目は、たたら製鉄に関わる人々が炎を凝視する目を表し、お腹ににじんだ血は、燃える炎や、炉の中の溶けた鉄を表しているという説もあるようですね。

そもそも、ヤマタノオロチ伝説は、製鉄技術を持ち込んだスサノウを、英雄化、神格化するために創作されたものかもしれません。

農園主さんのお考えのように、朝鮮からやってきた(連れてこられた)とすると、その後、出雲で製鉄や治水などの技術を広め(その技術が朝鮮から持ち込んだものか、スサノウの独自のアイデアなのかはわかりませんが)、人々からあがめられるようになったけれど、そこにいまひとつ、インパクトを与えるための、ヤマタノオロチ武勇伝、といったところでしょうか(笑)

物部氏は、製鉄技術を教えてくれたスサノオを崇拝していくために、ご神体として、現実にはなかったかもしれないスサノウの剣、或いは、スサノオが退治したヘビを祀ったのでは。

剣は製鉄の象徴であり、ヤマタノオロチ伝説をあとから作ったのであれば、ヤマタノオロチはなくてはならない存在です。

また、農園主さんの前回の記事に書かれていたように、
「スサノウは高天原を追放されてから、新羅のソシモリに降り立ったが、この地にはいたくないと言い」、出雲に行ったわけですよね。


ソシモリにどのくらい滞在したのかはわかりませんが、その間に製鉄技術を仕入れたというのも、私のこじつけにすぎないでしょう(笑)

たたら製鉄は日本独自の技術なんですね。

「日本の製鉄の歴史について」という記事を引用しますが、司馬遼太郎も、「司馬遼太郎が考えたこと 14」で、製鉄の歴史と社会的意味について書いているんですね。

https://www.aichi-steel.co.jp/smart/mi/c...

年代的に、つじつまが合っているのか、そうでないのかわからないのですが、朝鮮の製鉄職能集団の技術を、スサノウが「たたら製鉄」という技術に発展させたと同時に、朝鮮からの侵略者という厄介ものを追い払った、これが、ヤマタノオロチを退治した、ということなのかもしれませんね。

製鉄という、人間の実際の生活に密着した技術と関わりがあったりすると、もう神なのか人なのかわかりませんし、神話なのか伝記なのか、グレーゾーンもいいところです(笑)

根本的な問題として、神として人々を統べたのか、人の長たるものとして統治したのか。

ここから考えたらますます泥沼ですね(笑)



スサノオとたたら製鉄のお話は、以前農園主さんが「氷川神社」の関連から、詳しく述べてくださっていました。

http://sanrokuoukoku.babyblue.jp/sanlog....

この時は、まさか物部氏と関係してくるとは、夢にも思っていませんでした(笑)

ニギハヤヒノミコトの守護者として物部氏が降臨した場所が河上哮ケ峯とは、もしかすると斑鳩の、古代の書き方なのでしょうか。



大国主命も、朝鮮から来たという説もあるようですが、神話の時代から、出雲と朝鮮は行き来があったようで(国引き神話)、朝鮮から来たかもしれないし、行ったり来たりして日本に定住したということもあるのかもしれません。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%...



また話は飛びますが、なぜスサノオの話には、「8」が多いのでしょう。

「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠に 八重垣つくる その八重垣を」

まず「八雲」が「出雲」を指すことはわかります。

一般的には、八重垣に見立てた重なる雲で妻のクシナダヒメを包み込んでいるという解釈がありますが、「その八重垣」なんだと言いたいのでしょう。

ただの八重垣ではなく、出雲八重垣だと強調しているのでしょうか。

雲で八重垣を作ったらもうそれでいいのに、さらに「その八重垣を」という言葉が、なんだか暗号じみていると感じます(個人の感想です)

でも、農園主さんの「もっとたたらを踏んで、鉄を溶かして煙を上げろ 出雲に雲をなびかせよ 大事な妻を守るためにこの国をどこまでも堅固にするのだ」という解釈を読むと、暗号だのという妄想は払拭されました(笑)

スサノウにとって、やはり「出雲」が重要なポイントなのだと感じます。



クシナダヒメは蛇姫とも言われますし、ヤマタノオロチは水神とも山神とも言われているようですね。

また、クシナダヒメは8人姉妹です。

この「8」とヤマタノオロチの「8」、偶然でしょうか。

ヤマタノオロチの頭ひとつにつき、ひとりの娘・・・・。

実際は順番だったようですので無関係かもしれませんね(笑)

少し話が戻りますが、ヤマタノオロチは高志(越)の国(新潟)から来たという説もあるようなのですが、ヘビではなく、高志あたりからやってきた豪族たち侵略者が、出雲の地域を支配し住民を苦しめていたのを、スサノオが退治したというのが、無難な説かもしれません。

または、さきほど書いたように、朝鮮からの製鉄職能集団を退治した、という意味にもとれます。

実際、ヤマタノオロチのような怪物は、そうそういないだろうし、高志からの侵略者が、8人の娘を次々と差し出せといったなら、なんとなく腑に落ちます。

「8」から、何を想起させたかったのか。その謎は不明ですが。

勝手な妄想をすれば、「8」は、特に古代では「多くの数」を意味するそうですので、実際は、侵略者の犠牲になった娘は、クシナダヒメ姉妹の8人だけではなかったし、侵略者も八岐大蛇の頭と尾の数より、ずっと多かったのだと思えます。



セオニョのお話は、反物を織ったという共通のことから、織姫を連想しました。

フツとフルですが、古代朝鮮では漢字も使われていたようですので、勝手な想像になりますが、「布都」「布留」という言葉があったのなら、セオニョの布につながるようにも思えました。

そこからワカフツヌシに結びつけようと想像したのですが、まったくわかりません(笑)

それと、先ほどリンクをはった「国引き神話」のところに、

当初、作られた出雲国は「八束水臣津野命(やつかみずおみつぬのみこと)」によれば「狭布(さの)の稚国なるかも、初国小さく作らせり、故(かれ)、作り縫はな」という失敗作であったという。「狭布」すなわち国の形は東西に細長い布のようであったという。

ここにも「布」が出てきました。

これは、スサノウがヨノランとしてセオニョと新羅にいたが、なんらかの理由から出雲に来た、というお話に、いよいよ信憑性の高さを感じます。



物部太媛のお話も興味深いですね。

親や親族の政権争いのために、嫁ぐというより、送り込まれ、政治や権力争いに利用された女性が多いと思いますが、『成功の陰に女あり』という諺もあることですし、その影響は大きかったかもしれません。

これは、もしかすると、江戸時代の徳川家の政略結婚や縁組より、ミステリアスな気がします(笑)



話が前後したり、入り乱れて申し訳ないのですが、先日、埼玉県の、武蔵一宮氷川神社にお守りを受けに行った話をしました。

主人が上海に行ったので、事故ケガ病気のないよう、お願いして受けたお守りでしたが、無事帰ってきたので(軽い風邪をひいてきましたが)、そのお守りを納めるのと、お礼参りに行ってきました。

ご存じのとおり、ご祭神はスサノオなので、「このところ農園主さんからスサノウさまのことをいろいろ教えていただいてます」などと、お話してきました(笑)

そういえば、どこにもスサノウとヤマタノオロチのことは書いてないな、と思いながら神社を出ようとしたのですが、境内図の看板をふと見ると、「蛇の池」というのがあります。

その池のことは今までまったく知らず、行ったことはありません。

見ると、いちばん奥のところで、そんなところに道があったのも知りませんでした。

撮った写真をはりますが、スサノオとヤマタノオロチのことが書かれていました。

ネットで調べたら、この池が氷川神社の始まりであり、数年前まで禁足地だったとのこと。

少し奥まっているので、ひとりでは行きにくいところでしたが、他にもお参りしている人がいました。



農園主さんの記事からいろいろ妄想してしまいましたが、すべて、素人レベルのいいかげんな妄想です。

巳年の最後にヘビの話~~、とお書きになっていらっしゃいましたが、お返事を書き始めて下書きにためていた、ある日の真夜中です←怖い話を連想しそうな書き方ですが違います(笑)

前に雑談で書いたことがある、テレビ朝日の『全力坂』を、遅くまで起きていたので(深夜1:20くらいから5分の番組)、寝ながら携帯のワンセグで見ました。

氷川神社に行き、蛇の池もお参りした、その日の夜中です。

この日の坂は、なんと、東京都港区三田にある『蛇坂』でした。

思わず、笑ってしまいました(笑)



そろそろ農閑期が近づいてきましたね。

昨年末からの農閑期は、思いがけず体調をくずされたので、今年は元気で楽しい農閑期になりますように。

私は、今年もクリスマスコンサート、年忘れコンサートなどが控えているので、お互いに絶好調な体調で過ごしましょう(^^)v

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前回のギズモさんの返信で痛いところを突かれて、半ばおどろき、半ば頭をかいているような次第です。

というのも、前回物部氏について調べているときに、物部氏はスサノオやヤマタノオロチにかなり関係が深いのではないか、とおもってはいました。

ただ点と点はそろっているのですが、ここはすこし掘っただけで、大量の問題点が出てくるのです。

これは物部とスサノオの関係までは手が回らないなと判断しました。

それで結局、ヘビをまつる神社にヘビを退治したスサノオがまつられた、といってお茶を濁したのです。

ところがギズモさんから、このいちばん突かれると弱るところについてご指摘があったので、狼狽してしまいました(笑)

そしていま、いろいろ調べている最中なんですが、案の定泥沼です。

今回はとうとう1万字を越えてしまいました。

わたし自身かなり苦労して、きっと読むにあたって登場人物も多くとっつきづらいとはおもうのですが、興味深い内容にはなっているとおもいますので、ぜひ気負わずゆっくり読んでみてください。



物部氏については、先代旧事本紀という古い書物があります。

平安時代初期ごろに書かれたといわれますが、作者は不詳です。

ほとんど古事記や日本書紀を模したような内容なのですが、物部氏にかなり肩入れした改変があるのが特徴です。

江戸時代に国学者から偽書と指摘されるまでは、古事記や日本書紀より、こちらが日本最古の神話として神道関係者に読まれていました。

この先代旧事本紀によると、物部氏はニギハヤヒノミコトに付き従う守護者として、大和の地に天孫降臨(天孫降臨はニニギノミコトですね)したとあります。

場所は大阪と奈良を隔てる霊峰 生駒山の北側、河上哮ケ峯(いかるがみね)といわれます。



天孫降臨というとニニギノミコトが宮崎県の高千穂のあたりに降臨した、という伝説が一般的だとおもうんですが、実際には「一方そのころ」という形で各地べつの話が進みます。

ニニギノミコトが高千穂に天孫降臨した一方そのころ、ニギハヤヒノミコトは生駒山に降臨しました。

そしてさらに一方そのころ、スサノオは高天原を追い出されて朝鮮のソシモリへ行き、その後出雲でヤマタノオロチを退治するのです。



4~5世紀ごろにヤマト王権が統一国家をつくるまで、日本にはそれぞれ主権を狙う王族が割拠していました。

神々が降臨したのは、このややこしい時代です。

神話のフィルタを取りのぞくと、卑弥呼が倭国大乱を鎮めたのですが、死後にふたたび日本の国土は乱れます。

この乱世の時代に、物部氏とスサノオをはじめ、出雲の王族たちがどのように関係してきたのかということが今回のテーマになります。



出雲国風土記によると、スサノオは出雲の地を開拓した製鉄神のように描かれているといいます。

製鉄は古代日本にとって最重要の軍需産業でした。

物部氏はスサノオの宝剣をまつっていますから、スサノオが築いた製鉄産業に相当深くからんでいたようです。



物部氏はもともと古代吉備王国(岡山)を支配していたという説があります。

津山市から20kmほど南の赤磐市に石上布都魂神社があります。

創建年は不詳で、神代にはあったとされるほど古い神社です。

奈良の石上神宮ともつながりが深く、もともとスサノオの宝剣は石上布都魂神社にまつられていて、仁徳天皇の御代に石上神宮に遷されたんだそうな。

吉備王国(物部王国)は奈良時代までにはヤマト王権に帰順したといわれますが、仁徳天皇が宝剣を奈良に遷した以上、この時期までには吉備王国の独立性は失われていた可能性が高いですね。

しかし物部氏自体は、出雲から製鉄技術を学び、岡山の津山、赤磐を通ってヤマト国までの「鉄の道」をつくり、さらに全国に鉄鋼技術を広めたことで、ヤマト王権内でも権力を高めたようです。

このことを考えると、現在の岡山県に物部の姓が多いのもうなずけます。



ところでギズモさんから、石上神宮の布都斯魂大神のお話がありました。

冒頭に述べたとおり、わたしはこの話を読んで頭をかいたわけですが、ヘビではなく剣をご神体としてあがめていたのではないかというギズモさんの推測は、ほぼ正解だとおもいます。

この件は物部氏とスサノオと出雲をつなぐ、ものすごく重大な意味をもっていました。



石上神宮には布都御魂大神と布留御魂大神、そして布都斯魂大神がまつられています。

これらはすべて人ではなく、剣と宝という「モノ」をまつっており、しかもモノに込められた神格をまつっているわけです。

そういえば、つい先日NHKの特集番組で手塚治虫が、「アニメというのはアニミズムからきているように、つまり生命のないものに生命を与える技術でしょう」と言ってたんです。

生命のないものに生命を与えるのがアニミズムだとすれば、排仏派で古神道を重んじた物部氏が、剣や宝という無機物に魂を与えてご神体にしたというのは、あまりにも「物部」らしい話だと感じました。



物部氏は饒速日命とともに近畿へ天孫降臨したのですが、この一族はその後神武天皇が東遷した際に帰順しました。

そして物部氏は神武天皇がヤマトを平定するときに用いた剣の霊威を神格化して、布都御魂大神としてまつっています。



布留御魂大神は、饒速日命が天孫降臨する際に、高天原の神から授かった「天璽十種瑞宝」(あまつしるしとくさのみづのたから)の霊威です。



そして布都斯魂大神は、スサノオがヤマタノオロチを退治したときの神剣ですね。

つまり石上神宮では、間接的に神武天皇と饒速日命とスサノオを祭神にしている、ともいえます。



ところで、これらのモノ以外にも、物部氏の祭神には経津主命がいます。

一説には経津主命はさきほどの布都御魂大神(神武天皇の宝剣)の擬神化だといいます。

ようするに、これらの神々がすべてニアリーイコールの関係で物部をつなぐシンボルになってるんですね。



たとえば大阪の八尾に住んでいたとき、近所に矢作(やはぎ)神社がありました。

その近くには弓削(ゆげ)という名の地域もあり、同名の弓削神社が二社あります。

ここには弓をつくる弓削氏と矢をつくる矢作氏がいて、かれらはみずからの武器生産の技術を誇っていました。

この一帯はやはり物部氏が支配する地域でした。

矢作神社は物部氏の祖先の経津主命(フツヌシノミコト)を主祭神としてまつっています。

弓削神社は二社とも主祭神が饒速日命(ニギハヤヒノミコト)です。

おなじ物部の神社にもかかわらず祭神に統一性がないのは、物部があがめたのは物部にまつわる物語そのもの(霊威)だからでしょう。



そういう意味では、大蛇(波牟)もやはり物部の原点にかかわった存在として、信仰の対象になり得たのだとおもいます。

すこし憶測をまじえると、物部氏の中では、製鉄一族の意味も込めて神剣の霊威が最上位のシンボルだったのかもしれません。

岡山の石上布都魂神社にあったスサノオの神剣が石上神宮に遷されたのも、唯一無二のモノは最上位の石上神宮にまつられるべきだ、ということだったのでしょう。

そしてほかの物部系の神社では経津主命や饒速日命、あるいはスサノオをまつった。



では、大蛇である波牟がまつられる神社があったのはなぜでしょう。

いくつか推測できるのですが、まずは製鉄とも関係がなく、祭神でもないということは、物部の神社としての格が低かった可能性です。

当地の神社においても、創建年がかなり遅い(平安末期)ことを考えると、由緒あるご神体にあずかることができなかった可能性があります。

あるいは大蛇という物騒なものをシンボルにする以上、物部の中でも実戦集団のような荒っぽい立ち位置にあったのかもしれません。

この点についても当地は古くから武家が出張っていた場所で、おそらく相当荒くれた土地柄でした。

しかしこれらはいずれも推測の域を出ません。

物部氏にとっては神武天皇の宝剣も、高天原の神から授かった宝も、スサノオの宝剣も、ヤマタノオロチも、経津主命や饒速日命、スサノオ、宇摩志麻遅命といった神々も、物部氏の物語に関係したすべてが信仰の対象になり得たのでしょう。

そういうわけで、ギズモさんのおっしゃった、蛇ではなく剣がご神体だったのではないか、というお話は、すべて物部の物語としてつながっているという点でほぼ正解だとわたしはおもいます。




さて、物部とスサノオと出雲の関係性について考えてみましょう。

時系列でいうと、



・スサノオと物部氏は大国主の出雲国が成立するより前に、製鉄の面で密接にかかわっている。

・スサノオは出雲国の大将(王様)だったが、大国主(国造家)に出雲国を統治させ、国造家は一時は日本の頭領になるほどの勢いがあった。

・経津主命(物部氏の祭神)はタケミカヅチとともに出雲王国がヤマト王権に帰属するよう国譲りを迫り、国譲りを実現させた。

・経津主命は神武天皇の宝剣とおなじとみなされていることから、すなわち神武天皇(ヤマト王権)に製鉄利権が移ったことも示唆している。



ということになります。



余談ですが、布都(フツ)という言葉は刀剣で鋭く切り裂くさまをあらわす言葉とされています。

といっても、じつはそのパターンにあてはまらない神がいて、大国主の子にワカフツヌシ(和加布都努志、和加布都怒志、若布都主、若経津主)という神がいました。

この神はフツという名を持つのですが、農耕と狩猟の神であり、刀剣や鉄生産とは関係がありません。

名前から考えると「若かったころの経津主命」と考えられそうですが、出雲国をヤマト王権に帰順させたのが経津主命でしたから、出雲の神ということになるとつじつまが合いません。



この例外があるために、どうも一説によると、刀剣の鋭く切り裂くさまをあらわす言葉としての「フツ」ではなく、古代朝鮮にフツ(布都)やフル(布留)という言葉があったのではないかという推測もなされているようです。

つまりフツやフルという言葉を冠することで、「わたしは古代朝鮮の者である」という意味合いも含まれるのではないかというのです。

そうすると、スサノオが新羅からやってきたことや、そのスサノオの神剣をご神体とする物部氏と「フツ」という言葉がつながるでしょう。

大国主の子に刀剣と関係のないワカフツヌシがいることの食い違いも解消されるのは確かです。

しかし、朝鮮の氏族であることをわざわざ日本のご神体にするほど誇らねばならない意味がわかりません。

フツと刀剣のつながりは、ワカフツヌシを除けば成立しています。

神話に関してのあたらしい見解が現れるまでは、いまのところはやはりワカフツヌシは例外だと考えたほうがいいでしょう。



ところでスサノオについて、朝鮮に興味深い文献が残されています。

『三国遺事』といって、13世紀後半に僧侶の一然 (普覚国師) が、古代朝鮮(新羅,高句麗,百済)についての古い記録を収集した書物です。

この中に、「ヨノランとセオニョ」の物語があります。



2世紀のなかごろ、新羅の国でヨノランが海藻をとっていると、突然岩があらわれてヨノランを出雲に連れて行ってしまいました。

出雲にたどりついたヨノランは王として迎えられます。

一方、セオニョがいつまでも帰ってこない夫を心配して海に行くと、またも岩があらわれて、セオニョも出雲へ連れてこられました。

そしてセオニョはあらためてヨノランの王妃となります。

そのころ、新羅では太陽と月が光を失っていました。

ヨノランが太陽で、セオニョが月だったために、このようなことになったというのです。

新羅はふたりを返してくれるように出雲に頼みます。

しかしヨノランは、「これは天が決めたことだから帰れない。そのかわりセオニョの織った反物をまつれば、太陽と月は光を取り戻すだろう」と言いました。

そこで新羅の使者が反物を持ち帰り、祭事を執り行ったところ、ヨノランの言ったとおり光が取り戻された、という話です。



この話は現代の日本でおかしな形に曲折し、ヨノランが鉄生産の技術を日本に教えた、というような蛇足がついてしまいましたが、三国遺事の原典にはそのようなことは書かれていないそうです。

しかしそういった恣意的なこじつけをのぞいても、ヨノランとスサノオの接点はあきらかでしょう。



スサノオが朝鮮の出自なのか、あるいは日本(高天原)から追い出されたスサノオが朝鮮へ行き、また戻ってきたのかはわかりません。

スサノオがくるまでの出雲に製鉄技術があったかどうかもはっきりしません。

しかしスサノオが朝鮮から出雲へやってきたのは確かなようです。




ヤマタノオロチ神話を考えると、出雲にもともとあった製鉄集団をスサノオが襲って、製鉄利権を牛耳ったとも考えられます。

しかし一方で、スサノオ自身が製鉄技術を築いて、現地の人々を使役し、山々を赤く染め上げるほどの巨大製鉄所をつくったとも考えられます。

わたしにはどうも、後者が正解のような気がしています。



興味深いのは、たたら製鉄は日本独自の技術だということでした。

たたら製鉄は出雲が発祥です。

あるいはスサノオは、出雲でたたら製鉄そのものを生み出した技術者だったのかもしれません。

それはつまり、日本刀を生み出す玉鋼の生産技術を世界で最初に伝えたパイオニアということでもあります。

出雲の山を伝う赤い溶鋼を制する者として、ヤマタノオロチを制したスサノオの物語ができたようにおもえてなりません。



以下、さらに憶測です。

たたら製鉄をするには燃料となる木材が取れる山、そして砂鉄がとれる特殊な川も必要で、そこから鉄器が生み出されていきます。

スサノオは出雲の山々をフル稼働させて、現地の人足を用いてたたら場をつくらせ、山々の木を丸裸にするほど伐採。

丸裸にした山に植林し、四半世紀でまた伐採できる木々をよみがえらせ、周辺の川から大量の砂鉄を収穫。

それらを利用して鉄器はもちろん、玉鋼によっておそるべき切れ味を誇る刀をつくりあげるという、当時だれも成しえなかった巨大武器産業を生み出す剛腕をふるいました。

同時に、その地で細々と農業をしていた住民たちは、突如として山が丸裸になって土砂崩れが起きたり、鉄穴流しによって土砂が下流に流れたり、鉄鋼産業で発生する有害な産業廃棄物に悩まされます。

スサノオに巻き込まれた出雲の住民たちは、その手腕の荒さにへきえきしながらも、その能力にはひれ伏すしかなかったのではないでしょうか。

この憶測から「ハヤスサノオ」という言葉を考えると、どうも「時は金なり」の商売人としての優秀さと荒々しさを想像してしまいます。



さらに突飛な憶測を重ねると、スサノオが出雲で詠んだという「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」という一首。

この八雲は、一般的には島根県のたとえば宍道湖や中海からたなびく水蒸気の雲と考えるべきでしょう。

が、あるいはたたらの製鉄所から湧き上がる煙を、創設者のスサノオみずからが賞賛したのかもしれません。

「もっとたたらを踏んで、鉄を溶かして煙を上げろ 出雲に雲をなびかせよ 大事な妻を守るためにこの国をどこまでも堅固にするのだ」

という意味にもおもえてきます。



しかし出雲の権力者となったスサノオと、その後出雲の地を平定した大国主の関係ははっきりしません。

各書を読んでも、スサノオと大国主には血縁があったかもしれないし、なかったかもしれない。

日本書紀では親子だということになっているのですが、それ以外ではどうも関係性がはっきりしないのです。

いずれにせよ、大国主こそが出雲を統治し、一時はその名の通り全国を支配する勢いのあった存在で、スサノオは出雲の大将にとどまったことはたしかなようです。



この点でも憶測を働かせると……

スサノオが画期的な製鉄技術とその利権で出雲の王者として君臨していたところへ、バツグンの政治的能力をもった大国主(国造家)がやってくる。

大国主はスサノオに会うなり「あなたこそがこの国を築いた父だ」と慕い、持ち上げます。

スサノオは大国主に悪い気はしませんでしたが、それが政治的な手口だとも気づいていましたから、あれこれ難癖をつけて大国主を困らせました。

しかし大国主の政治的な老獪さと賢さはスサノオを上回っていたため、結局スサノオは大国主の出雲統治を許し、それどころかじぶんの娘さえも大国主にめとらせた……といったところです。

ちなみに大国主は浮気性で、たくさんの妻がいたそうですが、これはそれだけ大国主の政治的能力が高かったということであり、よその国の有力者と政略的に結びついて、その証としてその地の王族と複数の婚姻関係を結ぶことを拒まなかったのでしょう。



さて、このスサノオが物部氏とどう関係するのでしょうか。

スサノオの神剣をご神体にするほど関係性が濃いにもかかわらず、先代旧事本紀では、物部氏は生駒に天孫降臨したニギハヤヒノミコトに付き従った守護者からスタートしています。

近畿と出雲では、王国も違いますし、接点は失われます。



わたしはこのように考えます。

ニギハヤヒノミコトに従う前は、吉備のあたりにも物部の王国がありました。

あるいは吉備の物部もニギハヤヒノミコトに帰順したのかもしれませんが、その場合はスサノオは「国交」として物部を受け入れたかもしれません。

物部氏は、スサノオの製鉄技術、特に玉鋼による日本刀生産に目を付けました。

この武器利権に物部の将来性を感じたのです。

そしてスサノオからたたら製鉄の技術を授かり、物部氏は「鉄の道」を通じてたたら製鉄を近畿地方にも広めました。

https://articles.mapple.net/bk/8381/



かくして鉄生産の原点として、物部氏はスサノオをあがめることになります。

そしてその後、神武天皇がヤマト王権をつくるときの神剣も物部がつくったものだということを、ご神体にしてまつったのでしょう。



そろそろまとめますが、個人的には物部氏は「製鉄ネットワークを利用した武装集団」といった印象です。

鉄器生産技術を全国に広めて、その莫大な利権でみずからも武装して私兵化していたのではないか。

社会の表舞台に出てくるよりも、裏社会で活躍するタイプ。

その後、物部守屋の一派は負けはしたものの、いち豪族が朝廷の主力勢力とドンパチできるほどの武力を有していたわけです。

剣をシンボルとして、ある場所ではヘビ(オロチ・龍)さえあがめる、なんだか暴走族ややくざを想起させるいかつい集団です(笑)



それでは、物部氏の最後の話で終わりにしましょう。

物部太媛(ふとひめ)という女性がいました。

別名を、布都姫(ふつひめ)、石上夫人などといいます。

彼女は物部守屋の妹でした。



太媛は腹違いの兄弟である物部石上贄古(物部贄子)と結婚し、子を4人もうけます。

物部守屋を討伐したのは蘇我馬子ですが、なぜか太媛の娘が馬子の妻(鎌足姫(鎌姫)大刀自)となったといいます。

日本書紀では、物部守屋の妹が馬子の妻だったと記されており、食い違いがあります。

しかしいずれにせよ、物部守屋を殺した蘇我馬子が、なぜ物部守屋の縁者と結ばれるのでしょう。



これだけでも太媛はかなり興味深い人物なのですが、太媛はさらに当時の天皇である崇峻天皇の妻のひとりにもなるのです。

そして石上神宮の斎神の長(頭)として、崇峻天皇の御代には朝廷の政にも参加していたそうな。

近親の豪族風情と四人の子をなした女、当時の重臣である蘇我馬子や、崇峻天皇が競って奪うなんてことがあるでしょうか。

きわめて不自然です。

個人的には物部石上贄古の存在がかなり怪しいとおもったのですが、そもそもこの時代はおそろしくきなくさいのです。



太媛が嫁いだ崇峻天皇は、歴代天皇の中で唯一、臣下によって暗殺されています。

その臣下とは、蘇我馬子の部下でした。

蘇我馬子が命じて、崇峻天皇を暗殺させたのです。

崇峻天皇と蘇我馬子がなぜ対立したのかは、はっきりしません。



しかし崇峻天皇が亡くなった後に即位した推古天皇(額田部皇女)は、蘇我馬子と二頭政治を行います。

つまり蘇我馬子は崇峻天皇を殺害したことで、実質的に朝廷のトップとして政を行ったのでした。

推古天皇も天皇になるまでの間の動きがずいぶん怪しいのですが、ここでは話を端折ります。



推古天皇は聖徳太子を皇太子にしたといいます。

このあたりはご存じのとおり、ほんとうの歴史なのかどうかがはっきりしません。

蘇我馬子と推古天皇が「じぶんたちにとって都合のいい歴史」を創作していた可能性は否定できません。



さて、ここからまた憶測の物語です。

仏教を取り入れたい蘇我氏にとって、物部氏は邪魔な存在でした。

特に物部守屋は排仏イデオロギーに染まりきって、仏教とみるだけで攻撃せずにいられないのです。

寺院仏塔は破壊する、僧侶をむちゃくちゃに暴行するなど、きわめて過激な行動に及んでいました。

蘇我氏と物部氏の間で戦争が起こりそうな空気が漂い始めます。



しかしこのとき、物部氏の中でも、守屋の行動に疑問を感じる者がいました。

守屋に巻き込まれるのはバカバカしい、この局面でうまく立ち回るにはどうすればよいのか考えたのが、物部石上贄古と太媛でした。

物部石上贄古と太媛と子供たちも含めて、物部氏の生き残りを図るために、スパイとして朝廷と結びつくことに成功します。

朝廷側も物部守屋に手を焼いていましたし、べつに物部氏そのものを滅ぼしたいわけではなかったので、太媛たちの寝返りを喜びました。

かくして太媛は崇峻天皇の妻ということになり、さらには蘇我馬子にとっても都合の良い女として立ち回りました。

それは記紀に描かれるような実際の妻というよりは、崇峻天皇や蘇我馬子のそばにいて、物部氏の動向を伝える役割だったのでしょう。



さて、物部守屋は討伐されましたが、崇峻天皇は政権をおもうままにあやつる蘇我馬子に不快をおぼえました。

しかし蘇我馬子はその崇峻天皇の思惑さえ逆手に取ります。

天皇がボソッと「憎いと思っている者を斬りたいものだ」といっただけで、馬子はわたしに向けて言ったものだと解釈し、ただそれだけの理由で、天皇を暗殺させたのです。



太媛も物部石上贄古も、生没年が不詳です。

太媛は寝返りの功績として石上神宮の頭となり、崇峻天皇の在位のうちは国政にも携わったといいますが、その後どのような運命になったのかはわかりません。

物部石上贄古は、石上の名がつくだけでなく、「贄(にえ)」という言葉が入っています。

かれはもしかしたら、物部守屋を贄にささげて、石上の物部氏としての地位を築いたのではないでしょうか。

そのように考えると、生き残り戦略に長けた太媛と物部石上贄古は、崇峻天皇に守屋という贄をささげたあと、崇峻天皇亡きあとの蘇我馬子にもうまく取り入って、石上神宮の神官としてつつがなく晩年を送ったかもしれないとおもっています。



と、憶測を重ねましたが、物部守屋の戦争の裏でどのような謀略がうずまいていたのか、歴史の真相はやはりやぶの中です。

しかし確実なのは、石上神宮周辺にいた物部氏は、大阪で戦争をしていた物部守屋には積極的に与せず、静観していたということです。

結果、物部守屋は敗れましたし、物部という氏族そのものも衰退しました。

にもかかわらず石上の物部氏は生き残り、全国の物部氏が排斥されることもなかったのです。



さて、これで物部氏の話はおしまいです。

長くなりましたし、ややこしい話でしたが、伝わりましたでしょうか。

しかし巳年の最後にヘビの話をすることになるとは、不思議なことです(笑)

ギズモさんのご返信にいろいろと返信したかったのですが、結局今回もひとつの問題点に答えることに終始してしまいました。

複雑な内容ですので、今回は返信の日にこだわらずゆっくりと読んでみて、また感想やご意見をお聞かせください。
Icon of gizumo
こちらこそ、わざわざありがとうございます。

では、あのまま残させていただきますね。

物部氏とスサノオの関係性のお話、楽しみにしています!!

くれぐれも、ゆったりペースでご無理のないように、お願いいたします(^^♪
Icon of nouennushi
わたしの地域のお話について、お気遣いありがとうございます。

まったく問題ありませんので、そのままでけっこうです。

次回は物部氏とスサノオの関係性について、すこし踏み込んで書いてみようとおもいます。
Icon of gizumo
今回も、実に読みごたえのある、貴重なお話をありがとうございました。

珍説どころか、農園主さんの道教についての解釈に、どんどん惹き込まれてしまいました。

いつも記事を読ませていただくにあたり、知らない出来事などを調べながら読んでいくのですが、今回はたまたま、ほんのちょっぴりの知識があったため、さらに興味深く読めました。

最近の電子書籍の漫画は、韓国の人が描いている転生ものがとても多いですね。

韓国の漫画を日本語にしているのか、日本にいる韓国系のプロダクションが描いているのかは不明です。

その中で、現代韓国の若い医師が死んで、中国の実在した医師、華佗の若い頃(三国時代で、まだ無名の頃)に生まれ変わったという、無料の漫画を読んでいました。

電子書籍サイト、ピッコマの『転生した外科医~華佗伝~』です。

数年後に黄巾の乱が起きるのを転生前の知識として知っていて、現代の医術も駆使し(なぜか患部を見ただけで、レントゲンのように内臓や血管、骨が見えるという・・・)、大勢の人命を助ける神医として活躍しつつ、黄巾の乱を食い止めようとするストーリーなのですが、史実に基づいて話が作られているようです。

いよいよ有料部分になってきたため、黄巾の乱がまだ起きていない時点で、読むのを中止しました。

太平道や五斗米道、 蟲毒の話も出てきていました。

この頃の、宗教を含めた歴史のお話は、農園主さんが今回書いていただいたことで、わかりやすく理解できました。

三国時代、三国志がどうも理解しにくく、劉邦も劉備もごちゃごちゃになっており、ゲームをやっておけば覚えやすかったかなと、いまさらながら後悔しています(笑)

ゲームをしたり漫画を読むと、苦手な分野、知らなかったことに興味が出ますが、逆に史実をある程度知ってから漫画を読んだりゲームをすると、よけいおもしろいのかもしれませんね。



卑弥呼ですが、農園主さんが以前の記事のリンクをはってくださったので、読みかえしてみました。

今回の記事と合わせ、さらに興味深く、読ませていただきました。

リンク先の記事で、「古代史はあいまいなところが多い分、こういった想像を差し込むゆとりがあるのは、たのしいですね」と書いていらっしゃいますが、いろいろと想像できる、ロマンだと思います。

卑弥呼が操ったまじない、鬼道というものは、やはり農園主さんのお考えのように、道教、または道教の一端だったと考えます。

大陸から伝わったものに自分なりのエッセンスを加え、独自のものにしていったのではないかと思えます。

3世紀頃は、巫女的な存在の女性が権力を持つことが多かったようですが、卑弥呼が多くの女性の中でカリスマとして君臨できたのは、統率力や単純な占い、祭祀だけでなく、他には見られない独特な呪術などを用い、その絶対的な能力を周りに知らしめたからかもしれませんね。

宗教的なものは、その時代ごとの流行もあるかと思いますが、一般的な祝詞や静かにブツブツと唱えるお経より、火を用いた護摩法要や、現実離れした呪術のパフォーマンスのほうが、インパクトがあり心を奪われやすい、悪く言えば民衆を惑わせやすいと思います。

先日お参りした日光のお寺は、天台宗です。

ふだんは真言宗の護摩法要を見たり、参加することが多く、天台宗の護摩法要はほとんど見る機会がありません。

お経もだいぶ違うし、般若心経、ご真言の唱え方も、なんとなく天台宗の方は何を言っているか聞き取りにくく、地味な感じがします。

日光のお寺では、誰でも自由に護摩法要を見ることはできますが、有料で護摩札をお願いすると、護摩壇の前の席に座れます。

今回、お札を申し込んだ人は他にいなかったので、私と主人ふたりだけが護摩壇の前に座り、法要前に僧侶からお話がありました。

密教(台密)なので、普通は外から見えないよう、衣の中で印を結んだり、声も小さく静かに唱えたりするが、今日はおふたりだけなので、僧衣の外で、よく見えるように行います、とのことでした←これは、サービスというのでしょうか(笑)

30分少々でしたが、その修法の圧巻さに驚き、聞きほれ、見とれてしまいました←お坊さんに見とれたわけではないです(笑) もっとも後ろ姿しか見えませんが。

ここは健全なお寺ですが、こういうパフォーマンスに引っかかって、フラフラと入信してしまう類いの宗教もあるんだろうなと思いました(笑)

卑弥呼の鬼道にしろ、平安時代あたりの陰陽師にしろ、おおげさなパフォーマンスやあやしげな仕草は、願いを叶えてくれたり人を呪う力が絶大なんだろうと、人々に思い込ませるに充分だったのでしょう。



話がそれますが、國學院大學博物館で、『企画展「中世日本の神々―物語・姿・秘説―」』というのが開催されていると、ネットのニュースでみたので、行こうと思ったのですが、渋谷という場所はどうも行く気になれないところで、人の多さ、騒々しさに加え、運気を吸い取られる気がし、やめました(笑)

YouTubeに國學院大學博物館のサイトがあったので、企画展の短い展示解説の他、いくつか観てみましたが、以下はその中のひとつです。

https://www.youtube.com/watch?v=IgBwWXNH...

この中におもしろい解説があったので、ご存じのこととは思いますが、引用します。

「古代の神話を題材にした物語、言説が数多くある。そうした場合、『日本紀』すなわち『日本書紀に曰く』、という形でそれらが語られる。しかし、中世期のこういった『日本紀に曰く』、つまり日本紀にはこう書いてありますよとしてあっても、原典の日本書紀をみると、まったくそのような記述はみえないことが往々にしてある。あたかも日本書紀はじめ、古代の神道古典、神話に載っているように装いつつ、実は、中世に新たに語り出された物語もたくさんあるということになる。これは中世日本紀という」

中世の人が、実際は日本書紀などに書かれていないことを、あたかも書かれていたかのように書物を書いたことには、ますますロマンを感じてしまいました(笑)

日本書紀などの古代の書物、言説には信憑性があまりないと認識していたのか、またそうであっても日本書紀をないがしろにはできないので、『日本紀に曰く』と書いて、一応立てつつ、新たな物語を書いたのでしょうか。

実におもしろいですね。

論語の『子曰く』も、同類のような気がしてきました(笑)

神代の昔からの様々な言い伝え、書物は、決して正確なものではないということが、この動画でわかりましたが、神道の大学が言っているからと言って、100%信じられることばかりではないとも思います。

あいまいな点、疑わしい点が多ければ多いほど、より多くの想像を広げることができるし、その中に真実があるかもしれないという、楽しみがあります。

農園主さんのお考えは、どの記事も、単なる想像や珍説ではなく、様々な視点から構築した、優れた論文だと思います。



道教と、前方後円墳の関係も新鮮な驚きでした。

薄葬令は、大化の改新事業の一環ですね。

詳しくは知らず、ざっと調べてみましたが、細かい取り決めがあったんですね。

ご存じとは思いますが、リンクをはっておきます。

https://adeac.jp/yukuhashi-city/text-lis...

「やはり日本では原始道教を本場中国とはまったくべつのかたちで理解し、一方では独自の古墳文化を生み、一方で神道を洗練させていったのではないでしょうか」という、農園主さんのお考えに同感です。

古代道教の影響を受けたとしても、それをすっかりマネしたわけではなく、取捨選択して、採り入れたり切り捨てたりしていき、日本独自のものにしていったのだと思います。



地図をありがとうございます。

その人物の地名(一応伏せます)は、古墳時代以前から全国にあったのですね。

長瀬の波牟許曽神社(お差支えあれば、削除します)には、配祀神として、スサノウもまつってありますね。

神社名は古来の蛇神信仰に由来するとのことですが、もちろん、古代からの蛇神信仰もあった上での想像、ひとつの珍説をお聞きください(笑)

波牟許曽神社は、スサノウがヤマタノオロチを退治した際のつるぎを、ご神体として密かにまつったので、ヘビそのものを信じたり、ヘビをまつったのではない、という説はめちゃくちゃでしょうか(笑)

熱田神宮に本体があり、皇居に形代があると言われる、草薙の剣の、いかにも真実のような話もありますね。

ここまで書いたあと、調べていてたら ↓ を見つけました。

「『日本書紀』には、スサノウノミコトがヤマタノオロチを退治した剣は、吉備にあったと記されていて、その場所は石上布都魂神社のことだと考えられている。剣はその後、奈良県の石上神宮へ移された。明治時代、石上神宮の禁足地が発掘され、伝承のとおり、剣が出土した」という記事と、もうひとつ。

石上神宮の祭神のうち、1柱は、『布都斯魂大神(ふつしみたまのおおかみ)』で、HPには、「記紀神話に見える、素戔嗚尊が出雲国(島根県東部)で八岐大蛇を退治されるのに用いられた天十握剣(あめのとつかのつるぎ)に宿られる御霊威を称えて布都斯魂大神と申し上げます」と書いてありました。

これを見ると、物部氏があがめていたのは実はスサノウの剣のことだった、或いは、物部氏はヘビをあがめていたが、後々剣の伝説が出現し、いつのまにかヘビ=剣とすり替わった、ということもあるのかなと考えますし、牛頭天王イコールスサノウとみなすと、ヤマタノオロチ(ヘビ)や退治した剣も関連がある、ということもあるかもしれません。

「牛頭天王が勧請されて波牟官神と合祀~~」というのは、まったく別の神様の合祀ということではなく、案外自然な流れで、これはスサノウが望んだことだったように思えます。

退治したヤマタノオロチの尾から天叢雲剣が出てきたわけですし、クシナダヒメは本来、霊蛇姫と表記したという考察もあり、スサノオとしては、(書き足し)ヘビを大切に思い、ヘビを自分と切り離せないものだと思っていたのでは。

参考までに、「天叢雲剣」のウィキペディアの「蛇の剣」の項目には、以下のように書かれています。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%...

クサは臭、ナギは蛇の意(ウナギ)で、原義は「蛇の剣」であるという説。神話の記述でも、この剣は蛇の姿をしたヤマタノオロチの尾から出て来ており、本来の伝承では蛇の剣であったとも考えられる。蛇の形状をした剣として蛇行剣がある。 高崎正秀は『神剣考』「草薙剣考」において、クサ=串=奇、で霊威ある意とし、ナギ=ナダ=蛇であるとして、この剣の名義を「霊妙なる蛇の剣」と説いている。また、その名はヤマタノオロチに生贄にされかけたクシナダヒメ(奇稲田姫)に通じるものであり、本来クシナダヒメは霊蛇姫(くしなだひめ)と表記したのではと考察。ヤマタノオロチに対する祭祀者でありながら同時に出雲を支配する女酋的存在ではなかったかとする。 なお垂仁天皇の神話でも、出雲の女性が蛇神だった事例がある。葦原色許男大神(出雲大社)の祟りが解けた誉津別命(本牟智和気王)は肥長比売と結婚するが、肥長比売の正体は「光る大蛇」だったという。


私の珍説は、農園主さんのように様々な説を検証したり筋立てて推理したものではなく、また、農園主さんのお考えを否定するものでもなく、くだらない思いつきにすぎないので、笑って読み飛ばしていただけたら幸いです(o_ _)o))

【追記】「牛頭天王と物部氏」で検索すると、AIの回答としては、「直接的な関係はないが、物部氏が鎮護していた土地では牛頭天王が信仰されたという歴史的関連性がある」でした。もともと物部氏と牛頭天王は、なんらかの関りがあったということでしょうか。

なんにしても、終始支離滅裂な想像で、読みにくく、申し訳ありません。



公民館の掛け軸、お榊を見ると掛け軸の大きさがわかりますが、ずいぶんと立派なものですね。

かなり年季が入っているように感じますが、みなさんで大事にしていらっしゃるのですね。

公民館のような公共の施設に神棚があることに驚きましたが、住んでいる地域を守ってくれている神様を大切におまつりするという、住民の方々に受け継がれてきた、篤い思いが伝わってくるように感じました。



余談ですが、日光にお参りした直後、洗濯機が壊れました ← 普通、いいことが来ませんか?(笑)

購入時から9年経っているので、修理依頼しても相当の費用がかかることを考え、即刻買い換えました。

ぼやぼやしていると、コインランドリー代が恐ろしくかかるので(笑)

6キロの洗濯物だと、30分の洗濯(ドラム式で乾燥無し)で、700円!!  

幸い、翌々日に配送・設置してくれ、助かりました。

今回、初めて日本製ではないものにしましたが、ビックコジマオリジナル製品で、製造は中国のハイアールです。

かなり迷ったのですが、値段が全然違いますし、最近のハイアールやアクアはずいぶん品質が向上していて、不具合が起きる確率は国産品と変わらないそうですね。

6キロの全自動ですが、古い洗濯機の回収代(家電リサイクル法により必須で 4,730円)、長期保証5年&全損補償で2,290円、延長の排水ホース代748円はかかりましたが、本体は34,800円のところ、思いがけず期間限定で10%引きなので、全部あわせて4万かかりませんでした。

日本のものに拘るのは、無用な思い込みだったんなぁと、安い買い物に満足しています(笑)

といっても、突然の出費は痛いです(>_<)



今頃になって暖かい日が続いていますが、さすがに虫の声も聞こえなくなってきました。

寒暖差が大きい日もありそうですので、体調に気をつけてお過ごしくださいね。

今回、お名前を敬称無しで、度々打ってしまった失礼をお許しください(笑)
Icon of nouennushi
よかったです。

当初意図していたのとまったくちがう話になったのですが、ふつうの歴史の本にはない話ではあるとおもいます。

珍説をお楽しみください(笑)
Icon of gizumo
とりあえず、お知らせです。

無事、鍵が開きました(*^。^*)

じっくり読ませていただきますね。
Icon of nouennushi
今回はわたしの地元の話題が混じっているので、鍵付きの投稿にさせていただきました。

鍵は、わたしの本名の、姓名のうち、名前の部分を漢字で入力してください。

たとえば、山田太郎だった場合は「太郎」と入力することになります。

もし名前を失念された場合は、ご一報ください。
Icon of nouennushi
投稿を見るには鍵を入力:
Icon of gizumo
牛頭天王について詳しく記事にしてくださり、本当にありがとうございます。

「牛頭天王についてのアラカルト」と書いてありますが、読みごたえのある、素晴らしい「牛頭天王フルコース」でした!!

これはもう立派な学術論文ですね。

しっかり頭にいれるため、繰り返し繰り返し読ませていただきましたが、かみ砕いて書いてくださっているので、とても読みやすかったです。

一般的に誰もが知っている(名前だけだとしても)神様仏様と違い、あまり周知されておらず、わざわざお参りに行こうとする人も恐らく少ないだろうと思われる、本当に特殊な存在だと思っていましたが、農園主さんの記事から、より身近に感じられます。



庚申信仰は、たまたま道教の一部だけが当時日本に入ってきて広まったものだと思っていたので、道教がずいぶん古くから、しかも密教とないまぜになった状態で輸入されていたとは驚きでした。

横浜中華街に関帝廟という道教のお寺がありますが、関帝廟をつくった時に、華僑が日本に道教を持ち込んだと思っていました。

ここには5柱の神様がいて、①玉皇上帝 ② 関聖帝君 ③ 地母娘娘 ④ 観音菩薩 ⑤ 福徳正神 の順番にお参りします。

②~⑤は、廟内にある像に向かいお参りしますが、①の玉皇上帝だけは、像がなく、廟内から外の門に向かい、天を見て拝みます。

別格で、天にいらっしゃるということなのでしょうね。

④の観音菩薩は仏様ですが、道教の女神と同一視されているようです。

西遊記に、天帝と釈迦如来が登場するのと同じようなことかもしれません(書き足し:神と仏が一緒に登場するのと、特定の神と仏が同一視されているのでは、意味が違いました、失礼しました)



関帝廟というのは他にもあって、大阪にもあるんですね。

初めて知りました。

大阪関帝廟は、「黄檗宗 白駒山 清寿院」というそうですが、黄檗宗というと、南都六宗より新しい宗派でしたよね。

禅宗であるけれど、密教や道教の影響を受けているようで、なかなか複雑なんですね。

そして、黄檗宗を検索していたら、偶然おもしろいものを見つけました。

音声入力で、「道教 黄檗宗」と言ったつもりが、Google君の耳が悪かったのか「東京 黄檗宗」で検索開始になりました(笑)

すると、トップに『黄檗宗 牛頭山 弘福寺』というお寺が出てきました。

https://ko-fukuji.wixsite.com/kofukuji/g...

ここでは、スサノオの別称を牛頭天王としていますが、農園主さんの記事を読んでからこのお寺のことを知ると、なかなか興味深かったです。



牛の頭で出汁をとったクッパ、初めて知りましたが、豪快ですね。

韓国の市場では、鶏の頭や豚の頭と一緒に、牛の頭が売られているのでしょうか。

想像するとちょっと怖いです(笑)



西遊記は道教の影響が強いということで、ふと思い出しましたが、『聊斎志異』も道教ですね。

仙人とか妖怪、道術の話が多く、西遊記に劣らずおもしろい読み物です。

映画『空海 美しき王妃の謎』(原作・夢枕獏)では、空海の周辺で不思議なことが起きますが、呪い・幻術・蟲毒などの話が、要所要所に出てきます。

あれはもちろん創作ではありますが、時代考証もされているはずですから、空海がいたころの中国で、きっと密教と道教は密接な関係にあったのでしょう。

道教をテーマにした小説、創作が多いからかもしれませんが、仏教や神道、キリスト教などの様々な宗教の中で、道教にはいちばんロマンとファンタジーを感じます。

道教や陰陽師の話は、創作の題材になりやすいのでしょうね。




六観音のうちの、千手観音、十一面観音はよく見ますが、馬頭観音は、以前よくお参りしていた調布のお寺の境内や、六観音が安置されているお寺くらいでしか見ません。

近所の道路に馬頭観音だけがまつられている小さい堂宇があります。

調べてみたら、区内には、お寺、個人宅、道路など、29基ありましたが、馬頭観音をまつっていても、飼い馬の供養塔とされているところもあるようです。

なぜかわからないのですが、馬頭観音はなんとなく恐ろしい感じがして、通っても手を合わせることはありません。

安易に拝んだらいけない、という感じです。

牛や馬の顔がついているわけではなく、人間の身体をしていて、頭部に牛や馬があると認識はしていますが、やはり獄卒のイメージは強いですね。

本能的に、魔を感じるのかもしれません(笑)

牛頭天王も恐ろしいはずなのに、怖さを感じません。

もしかすると、前世で地獄に落ちていて、牛の獄卒から優しくされ(そんなはずはない・・)、馬の獄卒からいじめられていた、という記憶が残っているのかもしれません(笑)



蘇民将来の話が創作かもしれないというお話ですが、農園主さんが解説してくださった根拠とともに、もともとの伝説が「なんとなくありそうな話」だけに、逆に創作の可能性が高いと思えました。

八坂神社のホームページは以前見たことがありますが、宮司さんの写真があるのは珍しいという印象がありました(笑)

今回改めて読んでみましたが、創祀の二説があまりに簡潔すぎて、其の二に、「天神(祇園神)」についての説明がされていないのが不思議です。

其の一
渡来人が神様をお祀りしたのがはじまり
斉明天皇2年(656)に高麗より来朝した伊利之(いりし)が新羅国の牛頭山(ごずさん)に座した素戔嗚尊(すさのをのみこと)を当地(山城国愛宕郡八坂郷(やましろのくにおたぎぐんやさかごう)に奉斎したことにはじまる。


其の二
お坊さんがお堂を建立したのがはじまり
貞観18年(876)南都の僧・円如(えんにょ)が当地にお堂を建立し、同じ年に天神(祇園神)が東山の麓、祇園林に降り立ったことにはじまる。


ここでいう「天神(祇園神)」が、主祭神のスサノオと同一なのか、異なる神様なのか、疑問に思うのではないでしょうか。

其の一では、スサノウだと言っているわけですし。

新羅に座したというスサノウの信憑性は別として、他国にいた神様を他国の人が連れてきた日本の神社?? 

そういう由緒の神社も他にはあるでしょうし、悪いわけではありませんが、それでいいのか?と(笑)

いっそのこと、インドの祇園精舎から来ています、といった方が、信憑性があるような気もします(笑)

伊利之の子孫は八坂神社の神職を代々務めていた時代があったようですが、この伊利之についても八坂神社のホームページには説明がされていないようです。

「祇園社」の説明も、通り一遍にしか書かれていませんが、農園主さんの「祇園社とはなんなのか」のところで、インドの祇園精舎との関連が理解できました。



ところで、農園主さんのお住いのところの氏神様は、八坂神社でしたよね?

そしてご実家の近くの彌榮神社も、八坂神社の流れと伺いました。

スサノオ・牛頭天王とは、少なからずご縁がありそうですね。

ちょっとうろ覚えで、間違っていたら申し訳ないのですが、氏神さまにお参りした時竹が跳ね返ってケガした???、というお話を書いていらっしゃったように思います。

あれは、牛頭天王の歓迎のいたずらなのでは、と改めて思います。

牛頭天王は、怖いというより、なんとなくですが、私には、お茶目ないたずらっ子の(書き足し:悪意のない暴れん坊的な)イメージもあるんです。



昨日、朔日参りを兼ねて、お守りを受けに、埼玉県大宮の武蔵一之宮氷川神社に行ってきました。

氷川神社については、以前詳しく解説していただいていましたね。

夏越しの祓でお参りしてから、4ヶ月経ちました。

令和10年は、ご鎮座2500年だそうです。

ご祭神はスサノオですが、ご由緒に牛頭天王については書かれていません。

でも昨日は、牛頭天王=スサノオと思い、お参りして来ました。

本地仏が薬師如来なら、最強ではないかと思います(笑)

赤ちゃんのお宮参りと、七五三の人で、すごい賑わいでした。

山口百恵ちゃんも去年初孫の七五三で来たそうですが、この不景気な神社事情の中で、不謹慎ではありますが相当儲かっているのではと感じます(笑)

修繕や整備、維持など、経費もものすごいでしょうが。



ここのおみくじは変わっていて、大吉、吉、小吉、末吉、凶、吉平、平吉、平、向吉、凶向吉、凶末吉、初凶末吉、吉凶未分、吉凶相交の14種類です。

なかなか厳しいので有名だそうです。

箱に手を入れて引くタイプのおみくじは、「凶末吉」か「初凶末吉」でした。

ショックのためどちらだったか覚えていません(笑)←結ぶ木がないので、お札を納めるところに、家から持参したお守りやお札と一緒に納めてきました。

凶なのに、書かれていたことは、なぜかいいことばかりでした。

でも、凶のついたおみくじは気分が落ち込むので、やり直すことにしましたが、みくじ筒をガラガラ振って、出た棒の番号のおみくじを受ける方は、「吉」でした。

気の持ちよう、です(笑)

40代くらいの女性が一緒にいた人に「私、ここのお守りで本当に助けられたのよ」と話していたのですが、その具体的な内容を聞きたかったです(笑)


最近、熊出没のニュースが続いています。

東京都下でも目撃されていますが、そちらは大丈夫でしょうか。

くれぐれもお気をつけくださいね。

2025年10月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する

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今回は牛頭天王についてのアラカルトというか、いろんな話をさせていただこうとおもいます。

わたしもいろいろ調べていくうちに、これまで理解しきれていなかったところの解像度があがって、よい勉強になりました。

しかし今回はかなり厄介な話で、わかりやすく伝えられるかどうか自信がありません。

話が多岐にわたるため、話が行ったり来たりします。

どうか、じっくりと読んでみてください。



ギズモさんは菅原道真など怨霊になった人間を、荒ぶる神としてたてまつる不思議についておっしゃっていましたが、あれは人間のサガなのかもしれませんね。

いまは社会のありようが変わりましたが、むかしはチカラの強い人間が「偉かった」。

いわゆるジャイアンみたいなタイプが、大将になるし、出世しました。

この場合、ジャイアンは荒神で、ジャイアンよりチカラの弱い者は、この荒神をたてまつって、機嫌をとらねばならないわけです。

生きてる人間ですらこうですから、強い恨みを残して死に、偶然そのときに社会に騒乱があれば、この荒ぶる御霊をしずめなければ気が済まない、とむかしの人々は考えました。

荒ぶる神がたてまつってくれと頼んだわけではなくて、むしろ下々の者の気が済まないから、たてまつっているという感じでしょうか(笑)



京の都で疫病が流行ったとき、疫神として祇園社に登場した牛頭天王も、その荒ぶる魂を鎮めるために盛大にまつられました。

しかしこれは仏教における牛頭天王です。

道教においては、牛頭天王は冥界のいち獄卒にすぎませんでした。

今回、牛頭天王を語るにあたってのキーワードは、「密教と道教」です。



奈良国立博物館には、辟邪絵(へきじゃえ)とよばれる、鬼を懲らしめる神を描いた絵が残されています。

この中には天刑星という、その名の通り天の刑罰を与える鬼神が、牛頭天王をはじめとする疫鬼をとらえて食べるという絵があります。

天刑星とは聞きなれない神ですが、道教に由来する神です。

https://emuseum.nich.go.jp/detail?conten...

ギズモさんは牛頭天王を「魔」とおっしゃいましたが、すくなくとも日本の道教における牛頭天王は魔の存在でした。



ところで、牛頭天王は祇園精舎の守り神ということですから、インドや中国で崇敬されていた神だったのかというと、じつは日本で創作された神です。

順序だてて説明しますと、牛頭天王はこのようなかたちで成立しました。



(祇園社での変化)
五道神 → 五頭天王 → 牛頭天王

(蘇民将来の伝説)
武塔神(五道神) = 速須佐雄能神 → 牛頭天王



あえて祇園社と蘇民将来伝説をわけたんですが、起源になるのは五道神という、現代ではほとんど名の知られていない神です。

五道神は、700年ごろに中国に密教が伝来したときに、仏教の五道(天道・人道・餓鬼道・畜生道・地獄道)を守護する神として崇敬されていた神でした。

ところが五道神が道教の中に組み込まれると、冥界(地獄)の役人(大臣)という立場に変化した、という経緯をもちます。



道教というのは不思議な宗教で、仏教とも密接に結びついています。

日本にくると、陰陽道を通じて神道ともつながりました。

極端な言い方かもしれませんが、「ほかの宗教に遠慮なく寄生する民間信仰」といっていいくらいです。

仙人になるだとか、妙な儀式(道術)を好んだりだとか、地獄思想が発達したりだとか、なにかと妙なことばかりしているのです。

以前にお話しした庚申信仰もそうですね。

庚申(かのえさる)の夜に人が眠ると、体内から三尸(さんし)の虫が出てきて、天帝にその人の罪を告げる。

そのため、人々は庚申の日には虫が出てこないように徹夜しなければならないというのです。

荒唐無稽なんですが、これが平安時代あたりから明治大正あたりまではわりと広く信じられていました。



いま出てきた天帝は、道教における最高神で、玉皇大帝といいます。

玉帝と略されたりもします。

あらゆる存在より上位に存在する神、という立場です。

これがじつにふざけた話で、ほかの宗教に遠慮なく寄生しながら、道教自体は最高神を用意して一神教を気取り、天帝には仏も神も皇帝もかなわないというのです(笑)



たとえば西遊記も道教の影響が強く、やはり天帝が登場します。

孫悟空が天界であばれまわり、天帝に向かってその座を譲れと言ったことで、天帝が釈迦如来に孫悟空の退治を依頼する。

それで釈迦如来が孫悟空を五行山に閉じ込めてしまう。

明確に天帝の立場が上とはいわないんですが、それとなく仏教の開祖である釈迦よりも権威的に描かれています。



ようするに道教という民間信仰にかかると、仏教だろうと時の権力者であろうと、ぜんぶ道教色に染められてしまうようなところがあります。

日本では最初から、密教が道教とないまぜになった状態で輸入されました。

そしてそれまで日本にあった仏教も神道も影響を受けてしまうわけです。

しかしこれは余談ですが、多神教の日本では天帝という一神教の設定だけはなかったもののように無視されてしまい、これといって崇められることもありませんでした(笑)



先日、奈良の朝廷が南都六宗から逃げるように、平安京に都を移した、という話をしました。

このとき朝廷が南都六宗のかわりに厚遇したのが、最澄と空海です。

かれらは中国にわたって、当時最先端の仏教宗派だった密教を学びましたが、密教の中で、五道神は秘匿性の高い神という位置づけでした。

つまり、修行者によってのみ信仰されるべき、門外不出の存在だったらしいのです。

民衆に積極的に仏教を教えない時代でもありました。



平安時代には、京都市内で疫病が毎年のように流行します。

863年には「御霊会(ごりょうえ)」が執り行われ、これが祇園祭のきっかけとなりました。

祇園祭で大衆にまつられるにあたって、五道神という名は姿を消し、疫神としての牛頭天王(スサノオ)があらわれます。

つまり祇園祭を開くにあたって、秘匿性の高い五道神を前に出すわけにいかず、べつの神ということにしなければならなかった。



ところで、蘇民将来の伝説ではすでに、五道神こと武塔神が、スサノオと同一だというわけですから、神仏が習合していることがわかります。

しかし、これが調べていくと、非常にややこしい問題でした。

というのも、蘇民将来の伝説が出てくる備後国風土記逸文は、鎌倉時代末期に書かれた『釈日本紀』に出てくるものです。

作者もはっきりしており、卜部兼方(うらべのかねかた)です。

1200年代後半に書かれたものだといいます。

『釈日本紀』の内容の多くは、当時すでに散逸している書物について書かれたものでした。

備後国風土記はもともと奈良時代に存在していたが、失われてしまったといいます。



しかし、果たして蘇民将来の話は、ほんとうに備後国風土記に描かれていたのでしょうか。

不遜ながら、わたしは蘇民将来の伝説は、卜部兼方による創作ではないかとおもっています。



つまり、疫病によって祇園祭を開こうということになり、秘匿されていた五道神が紆余曲折を経て牛頭天王になる。

この経緯を卜部兼方は知っています。

そしてこの出来事と日本書紀の記録などの整合性を持たせて、備後国風土記逸文として創作した。



なぜそう考えるのか、理由があります。

密教は6世紀(500年代)のインドで、ヒンドゥー教と仏教がまじりあうような形でおこりました。

密教が中国に伝わったのは、700年ごろでした。

最澄や空海は、この伝わったばかりの最先端の仏教宗派を学んで、持ち帰ったのです。

そうすると、備後国風土記が書かれたという6世紀に、すでに密教由来の神(武塔神)がいたというのでは、つじつまが合いません。



また祇園社の創建年にはふたつの説があるのですが、そのひとつは656年(斉明天皇2年)とされています。

高麗からの渡来人である伊利之が、新羅の牛頭山から牛頭天王(素戔嗚尊)を勧請したのが始まりだというものです。

これは日本書紀のスサノオの伝説にのっとったものでしょう。



社伝がそうなんだから否定するわけにはいかないのですが、これもやはりおかしい。

なぜかというと、新羅(韓国)には牛頭天王信仰があった形跡がないのです。

それどころか、中国にもインドにも、牛頭天王なんて神はいません。

もし勧請するにしても、それなりに名のある仏教由来の神でなければならないはずで、奈良時代に、突然降ってわいたように牛頭天王という神があらわれるのは、さすがに無理があります。



ここまで読んでいただくと、おわかりかとおもうのですが、牛頭天王の成り立ちは、信憑性の濃いルートを選んで解釈していくうちに、ややこしい問題が立ちはだかってきます。

どうも、正式な由緒にもところどころに嘘があって、この嘘を隠すために、さらに巧妙な嘘の伝説が上塗りされているようなのです(笑)

しかもその嘘を、おそらく嘘と知りながらも、当の八坂神社が追認してしまっている。

もちろん最初に五道神を秘匿してしまった、という以上、憶測で考えるしかない点もあります。

そのあたり、もはやわからないですませたくなるところなのですが、いち私人であるわたしが子供のような無邪気さで、突っ込んではいけないところを気にせずに話した与太話、とおもっていただければとおもいます。



ところで祇園社には「五頭天王」という記述が残っているようです。

この「五頭天王」は、五道神から牛頭天王に変化するつなぎのような存在ですね。

五道神をどう秘匿するか、当時の関係者は相当頭を悩ませたのではないでしょうか(笑)



では、なぜ五頭天王が牛頭天王という名前になったのかというと、ここにもふたつの説があります。

ひとつは日本書紀の、スサノオの伝説によるものです。



日本書紀でスサノオは、乱暴狼藉の果てにアマテラスを隠れさせ、世を乱したことにより高天原を追放されました。

その際にスサノオは息子の五十猛神を連れて、新羅(朝鮮半島南東部)のソシモリに降り立ったとあります。

「素戔鳴尊、帥其子五十猛神、降到於新羅国、居曾尸茂梨之處。乃興言曰「此地、吾不欲居。」」
(スサノオは子のイソタケルと新羅国曾尸茂梨に降り立った。しかしスサノオは「この地には居たくない」と言った。)

ソシモリは「曾尸茂梨」や「蘇志摩利」というのですが、朝鮮の言葉では「牛の頭」を意味します。

いまでも韓国で「ソモリクッパ」というと、牛の頭を出汁にした雑炊のことをいうのだそうです。



しかしソシモリに着いたスサノオは「この場所にはいたくない」といいました。

そして出雲の簸の川(ひのかわ)に向かいます。

これはいまの島根県の斐伊川ですね。

なぜスサノオはソシモリを嫌がったのか、いろいろと物語的な類推ができそうですが、日本書紀には理由が書かれていません。

いずれにせよ出雲に帰ってきたスサノオは、その地にヤマタノオロチがいたので退治して、草薙の剣を手に入れました。

ここまでが、日本書紀のひとつのセンテンスになっています。

https://nihonsinwa.com/page/732.html

スサノオが新羅の牛頭という土地へ行って、さらに出雲へ帰ってくるというエピソードが、さまざまに肉付けされて、牛頭天王の由来になり、蘇民将来の伝説につながりました。



もうひとつの説が、牛頭というのは、道教における地獄の獄卒です。

この牛頭が、おなじく道教で地獄の役人であった五道神と結びついたのは、それほど不自然なことではありません。

そして祇園社の祭神となった牛頭天王は、仏教の五道(天道・人道・餓鬼道・畜生道・地獄道)を守護する密教の五道神に近い形で、仏教における修行の場である祇園精舎の守り神ということになったのも、自然です。

こちらは信憑線としては薄い説でしたが、道教が五道神、五頭天王、牛頭天王というような突拍子もない祭神を生む原動力だったのは間違いないでしょう。

このような神は、奈良時代以前の仏教や神道では、考えつくとっかかりがないのです。



すこし話が変わるのですが、道教には地獄思想がありました。

冥界には牛頭と馬頭という二体の獄卒がいます。

そして不思議なことに、日本には仏教でも牛頭天王だけでなく、馬頭観音がいるのです。

道教では地獄の獄卒である牛頭と馬頭が、仏教では牛頭も馬頭も神格を備えた仏として扱われていました。



牛頭天王と馬頭観音の仏像の造形は、おどろくほどよく似ています。

わたしたちは牛頭天王というと、ギリシャ神話のミノタウロスのような姿を想像するのではないでしょうか。

実際、道教における冥界の牛頭馬頭は、ミノタウロスのような半人半獣の姿で描かれています。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/c...



しかし、仏教の牛頭天王や馬頭観音は、憤怒の相をした仏の頭部に、牛、あるいは馬の飾りがなされているのです。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%AC%...

上のリンクの画像は馬頭観音のものですが、牛頭天王もたいていはほとんどおなじような造形です。

中には三面のうちのひとつが牛になっている牛頭天王像もあるのですが、ほとんどが憤怒の人面で、頭部に牛や馬があるものです。

https://tsushima-bunka.jp/map/uploadfile...

数ある蘇民将来の伝説の中には、牛の頭をした牛頭天王をおそれて宿を貸さなかった、というような物語もあります。

このあたり、当時の日本では、道教における獄卒の牛頭と、仏教における牛頭天王の造形のちがいが、明確に区別されていなかったのかもしれません。



さて、最後に、祇園社とはなんなのか、ということを考えてみましょう。

まずインドの祇園精舎の伝説ですが、スダッタという長者(須達長者)がシッダルタ(仏陀)に帰依します。

かれは私財をなげうって、その国の王子(祇陀太子)が所有する樹林を買いとり、シッダルタに寄進しました。

祇園精舎は「祇樹給孤独園精舎」の略で、祇陀太子の樹園(祇樹)を須達長者(給孤独)が買い取って、修行の場(精舎)にした、という意味をもちます。

これが仏教のひとつの伝説になってるんですね。



日本では、当時の有力貴族だった藤原基経(836 - 891)が、じぶんの邸宅を移す際に、旧宅を観慶寺に寄進しました。

貞観年間(859-877)のことだったといわれています。

観慶寺は藤原基経の邸宅、つまりいまの八坂神社の隣にあったお寺です。

この寄進を祇園精舎の伝説になぞらえて、最初は祇園寺、その後祇園社、祇園感神院などと称しました。

そしてここで祇園御霊会が行われ、祇園祭につながっていきます。

なぜ京都の祇園とインドの祇園精舎がつながるのか、という話をたどると、藤原基経に行き着くようです。



以上、長くなりましたが牛頭天王についていろいろとお話ししました。

雑多な内容ですので、読みづらい点についてはどうかご容赦ください。

またわたしの説明・解釈にも間違いがあるかもしれません。

もし疑問点などがありましたらお気軽にご質問ください。
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NHKの池波正太郎出演の番組ですが、たぶん私が偶然みたのと同じですね。

ずいぶん古いものを放送しているんだなと思いましたが、内容を確認せず、すぐ消してしまいました。

池波正太郎の人となりはわかりませんが、当時の作家は、おだてられ、持ち上げられて、その過程で尊大になっていくタイプが多かったように思います。

テレビなどで偉そうにしている姿を見ると、鼻持ちならない奴という認識を持ってしまいがちですが、池波正太郎は、農園主さんが感じたように、あえて尊大な態度をとっていたのかもしれません。

作品を読むと、変に凝らない描写や文体、わかりやすく読みやすい表現で人間の情をきめ細かく描いているあたりから、素直で実直な人なのではと感じます。

以前、知人の高齢男性が無理やり親切に貸してくれたのが『鬼平犯科帳』だったのですが、すっかりハマってしまい、『剣客商売』『仕掛け人・藤枝梅安』と、全巻読んでしまいました(笑)

シリーズは長編ですが、1話1話が短いのでキリよく読めるし、登場人物の人間関係がさほど複雑ではないので、気楽に読めるというのがよかったです。

ご存じかもしれませんが、埼玉県の羽生パーキングエリア(東北自動車道)上りは、2013年に『テーマ型エリア鬼平江戸処』として、「鬼平犯科帳」の世界観に基づいて、江戸風建築にリニューアルされました。

PAなので、SAより規模は小さいのですが、『鬼平犯科帳』に登場する店名を使用した、親子丼・1本うどん・お蕎麦屋・甘味などのお店、おみやげやさんがあります。

鬼平を知らなくても、江戸の町の雰囲気を充分に味わえるので、大人気スポットとなっています。




最初に記事を読ませていただいた時、『牛頭天王』という単語が目に入り、びっくりしました。

というのはその直前、ネットで『牛頭天王』を検索し、様々な資料に目をざっと通した後、ウィキペディアで『牛頭天王』を検索していたからでした。

牛頭天王については、どちらかと言えば「魔」という位置づけだということなど、ざっくりとしたことしか知りませんでしたが、もう少しきちんと知りたいと思い、調べていたところでした。

以前、氷川神社がなんとなく好きだということを書いたかと思いますが、氷川神社について私が知らなかったことを、農園主さんから教えていただいていました。

夏越の祓の話から、蘇民将来についても教えていただきました。

蘇民将来は、スサノウでなく牛頭天王としているものもありましたが、スサノウの本地が牛頭天王で、同一人物(同一神)とみれば、同じことですね。

とにかくすごくややこしいので、頭がおかしくなってきました(笑)

「護符」のところで興味深いことが書かれていました。

伊勢近辺の海女の習俗として、晴明紋の星印(五芒星)を手拭いに染め、これを「ショーメンショーライ」と称して魔除けとする民俗例がある(Wikipedia 牛頭天王「護符」より引用)


これだけだとよくわからないのですが、

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%...

こちらだと、安倍晴明と蘆屋道満に関係する、陰陽道が起源らしいと書かれています。

海女さんたちが、神仏に護ってもらうのではなく、陰陽道によって魔除けをすることが、なんだかおもしろいと思いました。

神仏にお願いするよりも、おまじないのほうが効き目があるような気もしますね(笑)


八坂神社のお話で、「人々は疫病の神を一方的に恐れるのではなくて、楽しむんですね」と書いてくださったことで、祇園祭の意味がとてもよく理解できました。

ずいぶん前に見つけたものですが、

https://intojapanwaraku.com/rock/culture...

これにも、牛頭天王、祇園祭のことが書かれています。

しかし、このライターは「結局はよくわからない論」でまとめてしまっているので、読む方はもっとわかりませんね(笑)

また、「牛頭天王」のウィキペディアには、「牛頭天王と素戔嗚尊の習合神である祇園大明神」の護符の絵がありました。



俊徳丸はハンセン氏病だという現実的な解釈もあったのですね。

当時、多少なりとも病気の可能性を考えたにしても、呪いということで、法話の意味が色濃くなるのでしょう。

生きている人間の強い念に、他人を不幸にするほどの力があるのなら、一途に祈れば神仏による利益も得られると思いますし、よこしまな心で生きるより、純粋な心で信心する方がいいですよね。

俊徳丸のお話は呪いと信心がセットになっていますが、西洋でも呪う側と純粋な気持ちで生きている者がセットのお話も多いですね。

呪いとまではいかなくても、人を憎んだり恨んだりすることは、人間ならば一度はあると思います。

ずっときれいな心で生きるというのは思ったより大変なことですが、利他を広げるためにも、マイナーな気持ちはどんどんバッサリ切り捨てていくのが大事、でもなかなか難しいですね(笑)



「口づけ」の件ですが、恐ろしく軽薄なことを書いてしまっていました(笑)

おっしゃるとおり、キスは神聖なもので、特に聖職者が信者の額にするキスは、神様の愛、祝福をいただくことになりますし、生々しいものではありませんでした。

神仏から直接何かをもらうことは現実的にはできないので、神父や牧師などの聖職者、お坊さんを通して受けるわけですね。

日本だと、徳の高い僧侶の袈裟を触ることで、ご利益があると思っている人がいますが、わかるようなわからないような(笑)

同性同士でも、海外ではキスはあいさつ代わりだったりしますし、単純に習慣でもありますよね。

そういえば日本人は、キスもしないし、握手もしないし、ハグもしませんね。

あいさつでそういった身体の触れ合いをしませんが、その代わりにお辞儀をします。

これは、日本人独特の清潔感に対する観念からくるものなのかもしれないし、相手の身体に触れない、近づかないことが、相手への敬意のあらわれのように思います。



菅原道真や平将門、崇徳天皇などの、怨霊とされた人たちも、最初は彼等の怨念、魂を鎮めるために建てた神社が、いつのまにか普通に参拝する神社になっていますが、これもおもしろいですね。

今は菅原道真がご祭神の神社が、住んでいるところの氏神さまなのですが、普通に学問の神様ですよね(笑)

安徳天皇も怨霊とされ、鎮魂のために鎮守八幡宮が創建されたそうですので、余談です。

『義経千本桜』は、もともとは人形浄瑠璃の作品で、後に歌舞伎の演目になったようですが、とにかく長いですので、ちゃんと観たことはありません。

史実に忠実な部分と、そうでないところもあるのですが(物語なのであたりまえですね)。

壇ノ浦で入水して死んだはずの安徳天皇が、生きていて、しかも女の子だという設定でした。

義経が安徳天皇(女の子の)を保護しますが、母に会いたいと泣く安徳帝を、母の建礼門院のところに連れて行き、安徳帝が出家するというお話になっています。

昨年、No.1554で、安徳天皇について詳しく書いてくださっていたので、読み返させていただきましたが、やはり私も生存説には無理を感じます。

ものがたり的には、入水はあまりにもかわいそうなので、生存説がいろいろ発生するのかもしれませんね。



家や家の周りの掃除は、自分が気持ちよく過ごすためというより、農園主さんのお書きになっているように、神様仏様に対する気持ちからだったのですね。

祓い、清めるというのは、身の回りを清潔に保つだけでなく、たぶん心から悪いものを取り去って清く保つという意味もありますよね。

現代でも、日本はどこに行っても白い靴が汚れないのですごいと外国人が驚くそうですが、室町時代あたりでも、ヨーロッパの人が驚くような清潔な暮らしをしていたんですね。

最近、ゴミ屋敷という言葉をよく聞きますが、反面、掃除に関してのライフハックも大流行しています。

参考になることが多いですが、みんなあれほど熱心に日々おそうじしているのかどうか、疑問です(笑)

厄除けも掃除もですが、すべてのことは「気になるならやったほうがいい」というのが、まさにベストな考えだと思います。

縁起物や厄除けのグッズを集めたりするのは、おっしゃる通り、精神衛生の問題に大きく働いています。

自己満足、ですね(笑)

あれもこれもではなく、自分なりのこだわりもあるのですが、問題は、毎年受けていたお札や縁起物のうち、どれかをやめようと思ってもできないということですね。

やめたら悪いことがきそうで、精神衛生に支障をきたします(笑)



わたくしごとですが、久しぶりに日光に行ってきました。

昨年母が亡くなった時は、行かないで法要だけお願いしていたので少し気になっていましたが、今回お参りしすっきりしました。これも精神衛生ですね(笑)

数年前、母方の祖父母と、父の位牌を新たに作り、永代供養ではありますが、年忌の法要はお願いしています(祖父母のお墓は墓じまいし、お骨はそのまま東京のお寺にありますが、両親は散骨です)。

牛久のように、位牌が誰でも見られるわけではなく、奥から出してきてくれて、お焼香の用意もしてくれました。

輪王寺の三仏堂(本堂)で、「天海大僧正 等身大座像」の初開帳もあり、宝物公開が11月25日までだったので、いいタイミングでした。

日光の帰りに鬼平の羽生パーキングに寄ったわけですが、日光も羽生も、平日だからか、あまり混んでおらず、外国人観光客もまばらでした。



輪王寺宝物殿のお庭、逍遥園での写真です。

まだ紅葉はチラっと見かけるくらいでした。

雨模様の日だったので、薄暗いです。



いよいよ寒くなってきましたね。

おでんやシチューなどで内臓を温めて、体調をくずさないようお気をつけくださいね←それより熱燗の季節ですよね(笑)


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僕という一人称は、もとをたどると召使とかしもべという意味なんだそうです。

むかしからいまのように使われていた一人称ではありません。

それが明治維新のころ、江戸末期に革命家たちが京都に集まったときに、じぶんを「僕」、相手を「君」と呼んだのが、ぼくという一人称の広まるきっかけでした。

刀を腰に差して、幕府を転覆させてやろうか、それとも外国人を打ち払おうか、と考えるようなギラギラした連中が「ぼく」と言うのだから、どうも怖いようなところがあります。

もちろん現代ではそんな毒気は抜けて、ぼくという一人称は子供がつかうか、あるいは単にへりくだった表現となりました。



しかしたとえば、総理大臣や天皇が「ぼく」では困ります。

なぜかというと、このような立場の人が公的な場で無用にへりくだって、立場をあやふやにすると、むしろ下座に構えている周囲が困るからです。

わたしは総理大臣でも天皇でもないし、そういった立場自体をこれまで嫌っていましたから、できれば一生「ぼく」でいたいとおもっていました(笑)

ところが、自治会長になると、自治会の人はじぶんが陳情を申し上げやすいように、自治会長を上座に持ち上げます。

ふだんわたしのことを名前で呼んで対等に接してくれる80代の大先輩も、陳情があるときは「ところで自治会長さん」と下座から迫ってくるのです。



つまり、「ぼく」ではどうも周囲の風当たりがおかしいから、わたしのほうから周囲の人々に忖度して、わたしを自称せざるをえなくなってきたんですよね(笑)

上座に座って神輿に乗るのは、実際には下から槍で突っつかれて、常に座り方を矯正させられるようなもので、じつに居心地のわるいものです(笑)

もっといえば、じつは下座のほうが怖い存在なんですよね。

池部良さんが「ぼく」と自称していたということですが、自然と人から持ち上げられて立場を得ることの多い方だったようですから、「ぼく」と自称してへりくだるくらいでちょうど立場が均衡するような、強い魅力の持ち主だったのでしょう。

神輿を担ぐ側が、担いでいて気分がよいというタイプの人がたまにいます。

そういうタイプの方だったのではないかと推察しました。



最近、池波正太郎が出演していた古いNHKの番組をみました。

池波さんの実際の姿をみるのは初めてでしたが、あの人はたぶんわるい人じゃないとおもいます。

が、椅子にふんぞり返って、じぶんを大きく見せようとしているのが鼻につきました。

池波正太郎は大正12年生まれで、司馬遼太郎や遠藤周作と同い年です。

池部さんよりは5つほど年下ですが、おなじ軍人の世代ですね。



謙虚な池部さんとは対照的なようですが、池波さんは池波さんで、どうせ上座にたてまつられるのならと、おもいきってふんぞり返っていたのかもしれません。

いわば神輿の乗り方のスタイルの違いです。

池波さんの場合は自然と周囲から持ち上げられるのではなく、たたき上げでのしあがっていったタイプでした。

もちろん作家としての実力はすごかったわけですから、先生、先生と持ち上げられて、自然と神輿に乗ることになります。

神輿を担ぐ側としては、池波さんが謙虚であるよりも、ふんぞり返ってくれていたほうが、たてまつってさえおればよいという点でラクだったでしょう。

そう考えると、池波さんもじぶんを持ち上げる人たちに気を遣って、わざと相手がゴマをすりやすいように、身の丈にあわぬ尊大な態度をとっていたのかもしれません。



自利が満たされてから利他が広がっていく関係性は、「衣食足りて礼節を知る」ということなのか、ということですが、その通りだとおもいます。

そこをもうすこし掘り下げていくと、衣食が足りた以上は、あとはひたすら利他に生きるほかない、というメッセージでもあるんですよね。

なぜかというと、自利から始まって利他へ広がっていく、ということが万人に共通した考えであれば、世界中の人はまずじぶんが受け取らねばならないと考えていることになります。

世界中の人が、まず最初に受け取ることだけを考えていたら、だれも与える側には回りません。

そうなると、結局だれも受け取る側に回れませんから。



ツバメの子供が巣で口をあけながらピーピー鳴いているのを「自利行為」だとすると、餌をとって巣に持ち帰って子の口に運んでやる親ツバメは「利他行為」をしていることになります。

利他行為で必死になる親ツバメがいなければ、子ツバメは自利を訴えるうちに餓死することでしょう。

人間の場合も、じぶんの自利を辛抱して、だれかの自利のために、利他的に立ち回る必要があります。

そうすることで、だれかの「衣食足りて礼節を知る」が生まれ、そして次の利他が生まれる、という循環になっているんですよね。



おまんじゅうがみっつ手元にあったとして、ひとつは家族に、ひとつは社会に分け与える。

じぶんもひとつのおまんじゅうをいただく。

ひとつだと物足りなくてガッカリなんですが、そこは辛抱しようといって、ふたつを利他として施す。

あの詩(「慈悲の瞑想」というそうです)の意味は、つまりそういうことだとおもいます。

みっつのおまんじゅうを独り占めする人ばかりだと、おまんじゅうを食べたときはおなかいっぱいで満足かもしれませんが、次にじぶんが飢えたときに、だれも手を差し伸べてくれません。

自利がまず満たされないことには利他が広がっていかない、という人間の業は、実際そうなんですが、それでも結局人間は自利の追求だけでは生きていけず、分け与えていかねばならないんですよね。

(そうでなければ、「親しい人」や「生きとし生けるもの」に祈りをささげる理由がありませんから)



ところで、キリスト教では口づけを聖なる行為と位置付けているようです。

西洋人はなにかにつけやたらとキスをしますが、キリスト教という土台があればこその行為なのでしょう。

その点キリスト教圏以外では、口づけにさしたる意味づけがありません。

イスラム教では、わざわざ公共の場でのキスは避けるべきとして戒めているくらいです。

日本の場合、接吻となると急に神聖さが失われ、それこそ「口吸い」のように、行為そのものが際立つ露骨な言葉になります。

ですから俊徳丸と許嫁の娘がもし、口づけをして病が癒えたという話になるのなら、高安から追い出された俊徳丸が、舟で朝鮮半島へこぎつけ、遠路はるばるエルサレムの聖墳墓教会へ向かい、許嫁もたまたま聖墳墓教会に行って出会う、基教説話にまで達した場合は成立するかもしれませんね(笑)



呪いの話が出ましたが、「呪」と「祝」は、語源をたどるとおなじ「祭礼のときの言葉」でした。

これがいつしか、片方はわるい意味に、片方はよい意味とわかれます。

原始宗教では、呪いと祝いは混然としていました。



たとえば八坂神社の祇園祭では、スサノオ(牛頭天王)の脅威を祓うためにお祭りをします。

人々は疫病の神を一方的に恐れるのではなくて、楽しむんですね。

楽しむことがお祓いになっているので、一生懸命楽しまないと神仏の祟りがあるぞというわけです。

祓っても祓っても、毎年呪いを鎮めるために祝うというわけで、呪いと祝いが汽水域のようになっています。

この元になったスサノオの話は、備後国風土記という、奈良時代初期に編纂された書物までさかのぼります。

古神道のころの、仏教などの影響の少ない物語は、呪いと祝いが未分化なものが多いようにおもえます。



これが室町あたりから広まった俊徳丸伝説になると、呪いは西洋の魔女がかける「魔法」に近い形となります。

この魔法を観音菩薩が解いて救済して(祝って)くれる。

呪いは呪い、救済は救済ではっきりわかれています。

またこの時代になると神仏が人間の苦しみを救う祝いの要素が出てくるんですが、こういう変化は日本の場合は平安時代あたりから起こってきたものだろうとおもいます。



現在のような科学の時代になると、呪いと祝いは科学的に分析されて、たいていのことは解明してしまったとおもいます。

さすがにそこまで考える必要もないとおもうのですが、俊徳丸のかかった業病は、いまでいうハンセン氏病だったという話さえありました。

菅原道真や平将門、崇徳天皇といった怨霊とされる歴史上の人物も、現代のわれわれが呪いのチカラを信じているかというと、もうほとんどだれも信じていません。

こういった怨霊的なものがなにか悪いものをもたらすとすれば、それは「疑心暗鬼を生ず」で、じぶんの心の働きがそういった悪いものへの感受性を高めている。

つまり、プラセボのようなことが起こっているんだ、という科学的説明がなされます(笑)



そう考えると、ネット上の「炎上」は、現代の呪いですね。

ある人の起こした行動に対して、多数の人が「けしからん」といって攻撃をする。

しかし物理的なチカラではない形で攻撃をするわけですから、この炎上を食らう人は肉体的には痛くもかゆくもない。

痛くもかゆくもないのだけど、実際に炎上を受けた人はやはりいろんな面(特に精神面や法的罰則)でひどい目にあうことが多いです。



お住まいのリフォーム工事、お疲れさまでした。

建物ひとつを多くの人で共有するわけですから、定期的に建物全体のメンテナンスが必要なのだとおもいますし、ふだんから共益費を負担なさっているのだとおもいますが、わたしの家のようなおんぼろ一軒家はだれが修繕してくれるわけでもないので、たいへんうらやましいことです(笑)

ギズモさんのお部屋には厄除け、縁起物がたくさんあるとのことですが、そういうことは、やはり精神衛生にはよいのだとおもいます。

以前仲間内で、「厄除けに意味はあるのか」という話をしたときに、ある人が「気になるならやったほうがいい」と答えました。

わたしはその答えに感心したのですが、ようするに「気のもの」なんですよね。

だから、神仏に感謝をするとか、常から身辺を祓い清めておく、といったことで、じぶんにとってよい気をまとっておくというのは、少なくとも精神衛生にはよいのでしょう。



というのも……。

また話が長くなってしまいますが、室町時代以降、日本にやってきたヨーロッパの人々は、日本人があまりにも清潔な暮らしをしていることに驚いたそうです。

もちろん清潔といっても、現代の衛生観念には遠く及ばないんですが、それでも当時のヨーロッパに比べると清潔でした。

当時のヨーロッパの食堂では、床に背の高い草の葉が敷かれていて、客は食べ終わった肉の骨や食べかすをこの草に放り込んでいたそうです。

草に紛れてしまえば、見た目はそんなに汚れたように見えないというふざけた話なんですが、この草に隠れたゴミは野良犬に食わせていました。

また当時の西洋人は家でも土足で入りましたし、みな至るところでツバを吐いていたといいます。

日本にきた宣教師が、日本人の家は清潔なので、どこでツバを吐いたらいいのかわからないといった記述が残っているくらいですから、西洋人にとって日本人は不思議な民族におもえたことでしょう。



日本人が清潔だったというのは、古神道から続く「祓い清める」という行為からきています。

たとえば神社にお参りするときに、手水場で手を洗って口をすすぎます。

あれは儀礼的なもので、現代のわれわれはあの程度の手洗いと口すすぎでは、ほとんど衛生的な効果はないと知っています。

それでもむかしの人は、神域に入るにあたってじぶんの体の不浄を清めておこう、と考えたんですね。



日本の場合はアニミズムですから、神社にかぎらずあらゆる場所に神がいます。

台所や便所も、神様がいるのだから最低限の清潔は保とうということになる。

この清潔感は、現代の衛生観念とは違うもので、細菌感染を防ぐための衛生というよりは、祓い清めるという意味ですね。

つまり、科学的合理性に基づいて細菌を落とせているか、というようなことではなくて、その行為によってきちんと祓い清められているかどうかが、とても大事なんです。



そういう意味で日本人は、山や川もきれいにしようと努めました。

家の中だって往来だって、ちゃんと掃除しておかないと神様仏様に申し訳がないとおもっていたことでしょう。

祓い清めるという観念は、キリスト教や仏教では重要ではなかったので、宣教師たちは神道独自の観念をもった日本人の生活のありようが不思議だったのだとおもいます。

そういった日本の民族性を考えると、お祓いという形での精神衛生はバカにできないとおもいます。



今回も長くなってしまいました(笑)

季節の変わり目で体調を崩しやすい時期かとおもいますし、ぼちぼち年の瀬の背中が見えてくるころで、気ぜわしくなってくる時期でもあるとおもいます。

服装や掛布団のコントロールがむずかしい時期ですが、お互い体調に留意しながら乗り切っていきましょう。

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農園主さんの言文一致トレーニングで気づいたのですが、女性の場合、「私・わたし」と書いても、話す時は「わたし」ではなく「あたし」と言う人が多いと思いますし、それ以外を聞きません。

訂正: (言文一致は、「日常に用いられる話し言葉に近い口語体を用いて文章を書く」ことが本来の意味のようですので、使い方が間違っていますよねm(_ _"m))

今どき、小説にでてくるような「わたくし・あたくし」というのも全く聞かなくなりましたし。

男性だと、ぼく・わたし・俺が一般的でしょうが、「俺」は友だちや家族以外には、まず使いませんよね。

個人的に、「ぼく」はとても好ましく思っていたのですが、対外的に「わたし」で統一していくためには、書き言葉も同じにすると、慣れてきて違和感がなくなってきそうですね。

私はあまり推しはいないのですが、ひとりだけ大好きだった俳優さんがいます。

映画『青い山脈』の主人公を演じた、池部良です←すみません、どうでもいい話が少々続きます(笑)

父親は、画家・風刺漫画家の池部鈞。岡本太郎は従兄。大正7年の生まれ。立教大英文科在学中から、映画監督になりたくて東宝撮影所のシナリオ研究所に通い、立教を卒業して東宝に入社。戦時下だったため監督職に空きがなく、俳優として起用されるうち若手俳優のホープとなるが、召集。大卒だったため幹部候補生となり、少尉としてハルマヘラ島に配属、その後中尉となり終戦。映画・ドラマで二枚目俳優をやりながら、エッセイを多く書いた随筆家でもある(エッセイで日本文芸大賞受賞)。日本映画俳優協会初代理事長。2010年、92歳没。

この池部良が、本でも普段の会話でも「ぼく」を使っていて、奥様が公の場でも夫を「ボク(エッセイではカタカナでした)」と呼んでいたというのが印象的でした。

「万年青年」と言われたくらい若く、80歳過ぎても60代にしか見えない人でした。

私は、映画はほとんど観ていないし、ドラマも、室生犀星の『杏っ子』で犀星役を演じたものと、エッセイをドラマ化したものしか観ておらず、もっぱらエッセイのファンで、本はすべて読みました。

たぶん池部良が80才になるかならないかの頃、池袋のメトロポリタンホテルで、日本俳優協会関連の集まりがあるのを知りました。

文芸座が豊島区にあった関係なのか、豊島区民は参加できたので、それで申し込んだと思いますが、一般の人は見当たりませんでした(笑)

会費は1万円で、立食パーティーでした。

女優の藤村志保さんのお姉さまが豊島区巣鴨で料亭を経営していた関係か、藤村志保さんも、いらしていました。

後にも先にも、自分から会いに行ったのは、池部良ただひとりです。しかも、ひとりで(笑)

思いがけず、知り合いの区議さんたちも来ていたので、ずっとひとりぼっちではありませんでしたが、自分から食べ物を取りに行く勇気もなく、飲み物1杯1万円ということになりました(笑)

でも、池部良と話すこともでき、行った甲斐はありましたし、とても素敵な経験でした。



「本質に注目するあまり、みもふたもない救いのない話なので、不快な印象を与えてしまうかもしれません」と書いてくださっていましたが、不快どころか、どれもこれも興味深く考えさせられることばかりでした。

ありがとうございます。

まず自利が満たされなければ、利他が広がっていかないという、人間の業を肯定してくれるメッセージ

これは「衣食足りて礼節を知る」ということに(書き足し:も)つながるのかなと思いましたが、それではあまりに短絡的でしょうか。

実生活で考えると、自分の身の回りの事が充分でない時は、とてもとても他人のことにかまけている余裕はありません。

金銭的に不安がない時でも、精神的に余裕がなければ、やはり他人のことにはなかなか心が行き届きません。

そういう時、仏教に限らず、他の宗教でも、或いは哲学のようなものでも、『人間の業を肯定してくれるメッセージ』があると、生き方がずいぶん違ってくるように思います。





「南無阿弥陀仏」の称名を唱える仲間たちによるコミュニティをつくるところにありました。これはおなじ思想を持つ同志で結ばれるわけですから、非常に強固な結びつきになります。現在のように人々が守るべきルールが機能していなかった時代に、仏教の教義は最低限の法律となりました


この部分は、少しばかり衝撃的でした。

同じ称名を唱える仲間たちがコミュニティをつくっていき、仏教の教義が、たとえ最低限だとしても法律となっていったことに驚いたのですが、その事実を考えると、仏教というものの偉大さ、重要さを改めて深く感じます。

仏教はあまりに無限であって、どの部分を知ろうとするか、或いはどの部分を偶然にしろ知ることができるか、それによって仏教への見方、向き合い方が変わるように思います。

私は、農園主さんの記事によって、偏ることなく、様々な角度から様々なことを知ることができ、本当に感謝しています(仏教に限りませんが)。



昨年母が亡くなった時、僧侶を呼ばずに火葬をしました(後日、法要はしました)。

葬儀やさんの年配の男性が火葬の前に、「私がお念仏を唱えさせていただいてもいいですか?」とおっしゃったので、お願いしました。

短いご挨拶のあと、「ナンマンダブ」と、何回か唱えたのですが、「南無阿弥陀仏」ではなく、「ナンマンダブ」? ?

浄土宗や真宗なのかもしれないですが、「ナムアミダブツ」とは言わないんだ、と少し驚きました(笑)

今は、お坊さんを呼ばない火葬が増えているので、葬儀会社の方も慣れているようでした。



俊徳丸のお話、これは何度読んでも新鮮に感じます。

許嫁の娘が、容姿が変わってしまった俊徳丸を見ても、逃げたり知らん顔をしたりせず、それどころか一緒に悲しみ、一緒に観音様に祈ったというのは、このお話の最大のポイントに思います。

呪いをかけられた本人が一生懸命祈るならわかりますが、一緒に祈ることは、お互いにとっての自利利他であったと思うのです。

相手を幸せにし、それによって自分も幸せになる。幸せの循環ですね。

一心寺の祈りの言葉をありがとうございます。

わかりやすく、心にす~~っとしみてきますね。



日本では、一生懸命祈る、拝む。それで神仏が願いを叶えてくれたり、呪いを解いてくれるという話が多いですね。

西洋だと、カエルに変えられた王子や、眠らされてしまったお姫様は、王子やお姫様のキスで簡単に呪いが解けてしまいます(笑)

宗教観の問題なのか、他に理由があるのかわかりませんが、特に印象にあるのは、『美女と野獣』でした。

呪いにより野獣に変えられてしまった王子は、野獣として死ぬ直前、ベルのキスを受け呪いが解けて王子に戻りますよね。

ディズニーのアニメも実写版も何度も観たので、ケチはつけたくないのですが、あのギリギリのタイミングであんなに簡単に?? という感は否めません(笑)

俊徳丸のお話のように、一生懸命祈った末に、呪いが解けての感動です。

変わり果てた俊徳丸を見た許嫁の娘が、俊徳丸に口づけをしたら呪いが解けたという話なら、日本では仏教説話どころか、物語にもなりそうにないです(笑)

そのあたりは、西洋と日本との、習慣や宗教、価値観の差なのかもしれませんね。

俊徳丸の話で気づいたのですが、おもしろいのは、日本だけでなく、世界中で、昔から人を呪うという観念があったことです。

魔法使いや禍々しい存在のものではなく、普通の人間が人間を呪うことが普通にあったというのが、なんだか興味深いです。

これは、「神仏を信仰すればご利益がある」の裏返し的なもので、「呪えば相手はきっとひどい目にあう」という考え方もあったのでしょうね。

平安時代あたりの加持祈祷にしても、病気平癒・国家安泰のようないいことばかりではなく、人を呪う呪詛もあったでしょうし、人間は業の深い生き物だと思います。

たいした信仰心を持ち合わせていない私ですが、「祈る、称名を唱える」ということは、その行為だけで救われるような気はします。



前回の農園主さんの記事で、親鸞のお話を伺いました。

先週、私の講座にいつも出てくださる男性と偶然道で会ったので、「お出かけでしたか?」とご挨拶したところ、「そこのホールで親鸞を勉強する会があったので出てました」と。

近くには仏教科のある大正大学もあるので、そこのお坊さんの講義かと思ったのですが、普通の人だと。

よくよく聞いてみると「親鸞会」と言って本部が富山県にあり、その代表者(高森氏)から「入門してください」と言われ、ほぼ義理で富山まで行ったそうですが、入門はお断りしているとのこと。

この会は知らなかったので少し調べてみましたが、認識不足なら申し訳ないのですが、ちょっと胡散臭い団体のようですね。

入門すれば会費を納めるようですし、大学のイベントに積極的に行き、勧誘的なことも行っているので、「幸福会ヤマギシ会」のやり口を思い起こします。

その男性は89才ですが、見た目は70代。

野球をやったり、歌の講座に出たり短歌も作ったりと、毎日元気に忙しく過ごしていらっしゃいます。

認知もないし理知的な方なので、うっかり入信することはないと思いますが、そういう会があったことを知り、びっくりしました。



余談ですが、この夏、住まいの窓枠(サッシ)と窓ガラス&網戸を総取り替えする工事がありました(費用の負担はありません)。

戸数が多いので、3ヶ月ほど経ちますが、まだ終わっていない棟もあります。

ベランダに面した部屋、お風呂・トイレ・キッチンと、5ヶ所なのですが、朝8時から夕方5時までかかるそうで、一日いられる日を指定しなければならず、日程を合わせるのが大変でした。

他の部屋を見ていたら、午後3時くらいに終わっていたので、そのくらいで済むかとふんでいたら、8時半に始まり、午前11時半に終わりました(笑)

おかげで、移動した家具をもとに戻したり、ほこりの掃除など、ゆっくりできて助かりました。

うちは、前にお話したと思いますが、玄関には元三大師の疫病除けの護符、神社の方位除けのお札がはってあり、数々の縁起物もはってあります。

ベランダの窓際には、神棚があってお札がまつってありますし、その脇の本棚の上には、仏様各種(笑)のお札も置いてあります。

「この家、あやしいからさっさと終わらせようぜ」ということで、気合を入れて工事をし、早く済んだのかもしれません(笑)

冗談はともかく、一部屋ひとり以上の職人さんが来て、実に手際よく終わらせました。総勢、10人くらいが入れ替わり立ち替わり来ていました。

終わった後には、防水専門の方が来て、お風呂とトイレの防水工事をしていきました。

窓のサッシのお掃除はいつも苦労していましたが、新品のサッシは気持ちいいですね。


早いもので、もう10月になります。

自治会のお仕事などでたてこむ時期かと思います。

くれぐれもご無理のないよう、お過ごしくださいね( ^^) _U~~

うちは12階ですが、夜は虫の鳴き声がよく聞えてきます。

癒しの声を聞きながら寝るのがこの時期の至福の時間ですが、時折車の音がうるさいので、「車に負けるな!」と応援しています(笑)
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すみません。個人的な話なんですが、今回から、一人称を「ぼく」から「わたし」に変更しようとおもいます。

年齢的なこともあるんですが、ことし自治会長をやるようになってから、公的な立場が求められる局面が増えました。

しかしなかなか一度癖づいた「ぼく」という一人称はなかなか抜けず、どうにもこのところ、違和感をおぼえることが多かったのです。

それで、これはトレーニングしていかないととおもった次第で、すみませんがお付き合いください(笑)



東日本大震災では、特に関東から東北の方々にとっては、ほんとうに長い期間トラウマが残る大災害ですね。

14年経ちましたが、どこか過去形にできない感覚があります。

わたしは当時買い物に出ていました。

関西も揺れたらしいんですが、そのときは気づかず、家に帰ってテレビでたいへんなことになったと知りました。

夜、気仙沼全域が真っ赤に燃えている映像をみて、この世の地獄をみたような、どうにもならない暗澹たる気分にとらわれたのがいまだに忘れられません。

テレビでみているだけでこれですから、被災当事者の苦難と心労はとても想像が及びません。

「しばらくの間は服を着たまま寝ていました」とのこと、決して大げさな反応ではないとおもいます。

むかし阪神淡路大震災があったとき、桂文珍という落語家は、いつ地震が起こってもすぐ逃げられるように、トレーラーハウスを買って数年間暮らしたそうです。

客観的にみれば、さすがにやりすぎのようにもおもえますし、奥さんやご家族はトレーラーハウスではなにかと不便なので、ふつうに家で暮らしたそうです。

文珍さんも数年するとさすがに冷静になり、家で暮らすようになったそうですが、被災当事者の強烈なパニックと不安感を考えると、決して極端な反応でもないのだとおもいます。



軍上層部の食事の件ですが、司馬さんは学徒動員で軍人になったとき、軍隊では上意下達さえ守っていれば思想教育もなく、ちゃんとした飯が三食食べられるし、一般人よりよほどよい暮らしができたと言っていました。

もちろん命をかけて死地に赴くわけですが、少なくとも生活面では保障があって、台風の目のような場所だったのでしょう。

むしろ一般人のほうがたいへんで、大人が子供たちに虐待じみた思想教育を行い、まともな食料供給もなく、しかも結果的に戦争に負けるわけです。

子供たちは愛国心をあおるだけあおられたあげく、はしごを外されました。

司馬さんより10ほど離れた子供たちが、じつは戦中戦後のいちばんの被害者だったといいます。



今回、仏教、あるいは宗教についてだけで、かなり長い話になってしまいました。

本質に注目するあまり、みもふたもない救いのない話なので、不快な印象を与えてしまうかもしれません。

あくまで個人的な見解として、ご理解いただけると幸いです。



ギズモさんのおっしゃる現世の救い、死後の救い(現当二世の救い)ということなんですが、宗教において救済の基礎となるのは称名を唱えることですね。

浄土真宗に限らず、称名を唱えるという行為は全世界共通のものです。

キリスト教では祭礼の際に「アーメン」といいます。

あれは意味としては「そのとおり」なんだそうですが、語源をたどっていくと、古代エジプトのアメン神にたどりつくといいます。

またハレルヤという言葉も、「ヤハウェ(ユダヤ教の絶対神)をたたえよ」という意味だそうですね。

加えて英語圏での「ジーザス」とか「オーマイゴッド」など、これらはむかしの日本だと「ナマンダブ(南無阿弥陀仏)」にあたる言葉でしょう。

さすがにわたしの時代では目にしたことはありませんが、日本のむかしのお年寄りは、驚いたり感動したりすると、なにかにつけて「ナマンダブナマンダブ……」と唱えたようです。

戦後、宗教意識の薄れた日本では、日常的に称名を唱える風習そのものがなくなりました。

西洋でも神を直接たたえるニュアンスを避ける人もいて、そういう人は「オーマイゴッド」のかわりに「オーマイグッドネス」なんていうそうですね。



個人が称名を唱えるのは救いを求めてのことでしょうが、組織としては人々がおなじ神仏を尊崇することで結託し、そのコミュニティの中で生きていこうとすることが目的でした。

ときにこの結託は、国家と肩を並べ、あるいは国家を凌駕することもあるほどの脅威となります。

救済とは、宗教組織が設定した後付けの理屈でした。

わるい言い方をすれば救済とは、信仰によるコミュニティを維持するために、馬の鼻面の先にぶら下げたニンジンのようなものです。

もちろん宗教者が衆生をだまそうとしたわけではないのですが、信仰することでなにか直接的ないいことがあるといわなければ、民衆はなかなかついてきてくれませんでした。



日本の仏教説話だと、もう何度も紹介した気がするのですが、俊徳丸伝説が代表的です。

現在の大阪府八尾市高安のあたりにあった長者の息子の俊徳丸は、見目麗しくかしこい子でしたが、継母にいじめられたあげく呪われて業病にかかります。

すっかり容貌の変わった俊徳丸はそのまま家を追い出されて、西へさまよい四天王寺領内で乞食をすることになります。

一年も経ったころ、高安の隣村の長者の、許嫁の娘がやってきました。

彼女はむかし、おさない俊徳丸が四天王寺の稚児舞楽に参加していたのをみてから相思相愛の関係になったのでした。

娘は容姿の変わったこの男が俊徳丸だと一目で気づきます。

そしてお互いひとしきり涙をこぼすと、ふたり一緒に四天王寺にまつられている観音菩薩にお祈りを捧げました。

そうすると不思議なことに継母の呪いが解け、俊徳丸の業病がたちどころに治癒したのです。

ありがたい功徳に感謝して高安へ帰ると、俊徳丸の父は亡くなっており、家は没落、継母は乞食同然の暮らしをしていました。

俊徳丸は許嫁の娘と結婚し、娘の家の後継ぎとなり、長者となりましたとさ……。



この話では、日本最古の本格仏教寺院である四天王寺の観音菩薩にお祈りをすると、現実的な救済があるという物語になっています。

こういった話は、本格的に仏教が大衆に広まり始めた鎌倉時代あたりから、僧侶たちが各村々で話し聞かせたものといわれています。

人々は「仏さまを拝めばわかりやすい現世利益が訪れる」という利益誘導を喜びました。

原理的な小難しい理屈を言ったって、大衆はさっぱり理解してくれないのです。



しばらく話がそれます。

前回、大衆に仏教が広まったのは鎌倉時代からだといいました。

しかし仏教の布教と、民衆の統率の試みは奈良時代にも行われていたのです。

こういった大衆への布教の元祖は行基(668~749)でした。

かれは民衆への布教が禁止されていた西暦700年ごろに、朝廷のいうことをきかず民衆に仏教の功徳を説き、地域に橋をかけたり道をつくったり、民衆の自立をうながしました。

行基の生没年は、空海の生没年からほぼ一世紀前です。

このころは奈良仏教、南都六宗が隆盛を極めており、行基は玄奘三蔵(602~664)の教えをもとにした法相宗という、当時はまだあたらしい宗派に属していました。

玄奘が亡くなってすぐ行基が生まれた、というくらい近い年代の人ですから、いまでいう仏教系の新興宗教のようなものですね。

この行基の活動が政治的に無視できないほど大きな反響を呼んだのです。



はじめ朝廷は行基を反逆者とみなし弾圧しました。

朝廷にとって、行基の行動は民衆を団結させ、民衆に自治を行わせるという点で、きわめて危険だったのです。

しかし民衆と積極的にかかわり、絶大な信頼を得ている点で政治に利用できるとわかると、朝廷はにわかに行基を持ち上げました。

朝廷が民衆のリーダーである行基を取り込むことで、クーデターを抑え込んだとも考えられます。



行基の生きた時代は、ちょうど三世一身法の時代でした。

つまりあたらしい土地を開墾したら、三世代の間だけは所有権を認めてやるという制度です。

ようするに当時の朝廷は仏教の独占に限らず、なにかにつけておそろしくケチでした(笑)

利己的で独占欲の強い朝廷に対して、行基は徹底して利他行をおこない、民衆の暮らしをよくしようと努力します。

三世一身法については結局、民衆の労働意欲が落ちてどうしようもなくなったので、朝廷側が譲歩して、わずか20年後には墾田永年私財法として、開墾した土地はいつまでも民の所有物と認める、としました。

行基が亡くなったのは墾田永年私財法ができてから6年後でしたが、このような革新的な制度が比較的短期間に成立したのは、当時の仏教勢力がそれだけ政権の脅威となっていたことを物語っています。

行基の死後、朝廷は手のひらを返し、やはり大衆への仏教流布は禁じられることとなりました。

しかし墾田永年私財法はその後、関東を開拓した農場主たちがじぶんの土地を守るために武装して、武士の世をつくるきっかけとなります。



行基が亡くなったとき、のちの桓武天皇はまだ12歳。

桓武天皇は都を奈良から京都に移した天皇ですが、行基以来、要求の肥大化した仏教勢力にほとほと手を焼きました。

そのため、都を移してからは南都六宗を遠ざけて、あるあたらしい宗派を優遇するようになります。

それが真言宗(空海)と天台宗(最澄)でした。

ですので、源氏物語で加持祈祷を行っていた僧侶たちは、ギズモさんのおっしゃるように密教だったことでしょう。

仏教勢力の増長によって都が引っ越しまでしなければならなかったのは、単に政治的に結びつきすぎたという話以上に、民衆を結託させ、朝廷の政権を転覆させかねない危うさをもっていたからでした。



こういった歴史をみると、仏教が国家によって独占されていたころから、民衆の仏教需要が高かったことがわかります。

民衆はまとまりのないじぶんたちの暮らしに規律を与え、コミュニティを作ってくれるリーダーを欲していたのでしょう。

それでも長い間、仏教は権力者によって独占されていました。

当時から都を出て全国を行脚する僧侶が各地に寺を建てたりはするのですが、民衆を団結させてコミュニティを形成するリーダーは現れませんでした。

鎌倉時代以降、大衆仏教を広めた開祖たちが、ようやく各地でリーダーシップを発揮し始めたというわけです。



話をもとに戻しますが、民衆はむずかしい理屈がわかりません。

その点、親鸞は極めつけで「南無阿弥陀仏だけ覚えなさい。それ以外はなんにも知らなくて大丈夫だ。それだけ唱えていれば、必ず阿弥陀仏はお前を極楽往生させてくれる」と言いました。

シンプルな教えが民衆にウケたのは言うまでもありません。

あまりに極楽往生のハードルを下げてしまったものだから、どうせ極楽往生できるならと遠慮なく悪事を働く者が出てきたくらいです。

それで親鸞はあらためて「薬があるからといって毒を好んではならぬ」(極楽往生できるからといって、この世で悪事を好むようなことはするな)と戒めなければなりませんでした(笑)

実際に阿弥陀仏が死後の衆生を救ってくれるかどうかはさておき、親鸞は厳しい時代を生きる人々を安心させることには成功したといえるでしょう。

しかし実際の信仰の効能は、先ほどもいったように救済にあるのではありません。

「南無阿弥陀仏」の称名を唱える仲間たちによるコミュニティをつくるところにありました。

これはおなじ思想を持つ同志で結ばれるわけですから、非常に強固な結びつきになります。

現在のように人々が守るべきルールが機能していなかった時代に、仏教の教義は最低限の法律となりました。

この法律に従って暮らしているぶんには、コミュニティの仲間は支えあって生きていられる。

きょう一日の飯を仲間同士で分け与えながら食っていくことができるわけです。

そしてかれらは徐々にじぶんのコミュニティを自立させ、国のような堅牢なものにしていきます。

結果、朝廷が警戒していた事態は、戦国時代に現実のものとなります。



信長が一向宗(浄土真宗)と合戦を行ったのは、一向宗がすでに大名と同等にみなされるほどの力をつけていたからです。

そして本願寺側から信長に戦争を吹っかけ、各地で一向一揆が起こりました。

その間、当然大量の一向宗徒の血が(もちろん信長軍の血も)流れました。

また天台宗の比叡山延暦寺も、信長によって焼き討ちにあいますが、こちらはいよいよ悲惨で、僧兵のみならず、学者から子供までが虐殺されました。



宗教コミュニティが武力を用いて戦争をする、というのは洋の東西を問わずよくあることですが、これではまったく救いがありませんよね。

いくら敬虔に宗教を信じても、戦争になれば人殺しをしなきゃならないかもしれません。

いくら神を信仰しても、理不尽に殺されるときには殺されます。

病気で若く死ぬかもしれないし、俊徳丸のように四天王寺でお祈りをしても報われないかもしれません。

逆に、宗教に背を向けていても幸せに生きることができないとは限らない。

ギリシャ神話にせよ日本神話にせよ、神はもともとは、荒ぶる存在だったようです。

決して救いを与えたりはせず、ただひたすら人間の脅威であり、人々は神々を畏怖し、おまつりして、鎮めなければならなかった。

それがどこかで、目に見える形で救いを与えるような存在へ変貌していくんですね。



ところである仏教学者が言ってましたが、仏教の原理は非常に厳しいもので、甘いことなんて一切言わないというのです(笑)

事実、仏陀は生きることの本質は苦しみだといいましたし、わかりやすい救済はそこにはありません。

以前、般若心経についてお話したときに、般若心経は無と無限をつないだわっかのようなものを説いているといいました。

命はみなこのわっかのひもを端から端へ渡っていきます。

虫も、花も、動物も、生まれたところからひもを渡りはじめ、そして死んだところがひもの終端です。

このひもは、命そのものといえるでしょう。

そしてこのひもの両端は、かたほうが「無」で、かたほうが「無限」になっています。

このひもの端っこをつないでわっかをつくると、無と無限がくっつきますよね。

以前、この話がむずかしいとおっしゃっていたとおもうのですが、今回はこの話をもう少しちがったアプローチで話してみようとおもいます。



わたしたちは死ぬと、実体を失って、無限の宇宙に還ります。

そして同時に、次の命の準備をします。

わたしたちは死んだら無限の一部になりますが、これから命になろうとしているわれわれは、まだ実体のない無です。

無限と無を区別することはむずかしいのですが、実体を失って無限の宇宙に溶け込んだあと、またなにかに生まれることを1とする前提で考えれば、まだなにもないゼロ、無の存在でもあるというわけです。



わたしたちは死んで無限になり、同時に命を目指す無となり、そしていつかまたほんのひと時、形あるなにものかとして、わっか(ひも)を渡ります。

そしてこのわっかの終端までいけば、また無限へ還り、そして命に向かう無をさまよい、いつか時がくれば生まれ、ひもを渡る……ということを繰り返す。

しかし般若心経は、一瞬だけ命を得た実体のあるわれわれでさえ、じつは「存在がある」とおもい込むのは勘違いなんだぞ、ということを言っているのだと解釈しています。



実際わたしたちは動物として必要だから感覚をそなえて生きているけれど、植物の場合は感覚器官がなくても生きていますよね。

人間でも、感覚器官が欠損した状態で生きている人がいます。

たとえば蓮はうつくしい花を咲かせますが、当の蓮には目がないので、じぶんがどのようなうつくしい花を咲かせているか、知ることはできません。

なので、じぶんが命を生きているということと、じぶんが存在しているという感覚を結びつけるのは勘違いだという般若心経はたしかに正しいんです。



しかしこんな感じでいくら仏教の原理を突き詰めたって、だれも得をしませんよね(笑)

仏教の原典を掘り下げていけば、お金ががっぽり手に入る、病気が治る、子宝に恵まれるといったわかりやすいご利益はないわけですから。

むしろそういう期待は、仏教を信仰すればするほど裏切られるといえるでしょう。



その点、やはり仏教の原理は厳しいとおもいます。

しかし、この無常観を基礎として、その上に人生という建物を築いていくのでないと、どこかで建物がぐらぐらしてしまうというか、人生が行き詰ってしまうようにもおもえます。

特に現代のように、じぶんの分限をはるかに超えた豊かさでじゃぶじゃぶになっている場合、その豊かさが剥奪されるだけで、じぶんのはかなさに耐えられなくなることでしょう。

なぜかというと、社会の豊かさは虚飾であるという無常を自覚していないからですね。

豊かな時代であれ、あるいは厳しい時代であれ、われわれはただ生まれた時代の環境に翻弄されるばかりのちっぽけな存在であり、仏陀が考えた四苦八苦のように、苦しみばかりが本質のむなしい存在です。

苦しくむなしい、ひどく頼りない存在であることが自覚できてはじめて、ギズモさんのおっしゃった自利と利他のような規範で、いま生きている間だけでもみんな手を携えていこうじゃないかという、地に足のついた謙虚な一歩が踏み出せるのではないかとおもっています。

それはおそらく、現当二世の救いの第一歩でもあるように感じています。



今回、落語の話などいろいろとお返事したいこともありましたが、仏教の話だけでかなり長くなってしまいましたので、いったんここで筆をおきます。

最後に、大阪の天王寺にある一心寺の存牟堂(ぞんむどう)ミュージアムにあった詩です。

これも以前紹介したかもしれません。

まず自利が満たされなければ、利他が広がっていかないという、人間の業を肯定してくれるメッセージだとおもっています。

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途中で断念してお帰りになったにしても、ずいぶんいろいろなところを回っていらしたんですね。

当時は余震もずいぶん続いていたし、不安なことも多かったかと思います。

ついこの間のような気がしますが、地震からもう14年も経つんですね。

しばらくの間は服を着たまま寝ていましたし、お風呂もささっとすませていました。

船に乗っているような、足元がぐるぐるする感覚も、けっこう長いこと取れませんでした。

地震が起きた時に近所の信用金庫にいたのですが、すぐに外を見てみました。

あの揺れで車が普通に走っているのがとても不思議でした。

地下鉄も電車も緊急停止していたかと思うのですが、車が急に止まったら、それも怖いですね。



仏教の移り変わり、とてもわかりやすく説明していただき、ありがとうございます。

源氏物語は親鸞の時代より前だと思いますが、病気は物の怪の仕業と考え、僧が加持祈祷をする場面がみられます。

密教なのでしょうが、この頃の仏教は、衆生を救うものではなかったのですね。

実際に大衆を救うことからかけ離れ、『金持ちは僧侶を集めてお祈りをして、それでじぶんは国や民を救う善人だとおもい込んで』いたというのは、いつの世でもお金持ちや特権階級にありがちな、意識のずれですね。

悪いことをしているわけではないですが(欲得にからんでいたとしても)、「いいことをしている」と思うこと自体、あまり感心できることではありません。

人のために何かをして「あげた」という考え方より、「お互いさま、おかげさまで」の心が、自分も周りも救うように思います。


一般庶民のための仏教に推移していったのは、庶民を救うという大義以前に、食いっぱぐれた仏教者を救済する手立てだったんですね。

大衆仏教を広めた宗派の開祖が、様々な圧力に負けず、一般庶民のための仏教を確立していってくれたことは、現代の日本人にとって、とてもありがたいことだったと思います。



『羅生門』の話ですが、人間は極限の状況におかれると、生きるためには悪を悪と思わなく(認めなく)なったり、善悪があいまいになったりと、善人も悪人も紙一重になっていきますが、戦争中も同じような状況、精神状態になった人が多かったかと思います。

食べものがなく、カエルを食べたり飢え死にしたりする人がいて、戦地で人を殺さざるを得ない人がいて、特攻などで死んでいく人がいる中で、軍部の上の組織の人間は、白米を食べお酒を飲み、様々な快楽に浸っていたわけですが(そうでない人もいたのでしょうが)、それもお国のため【書き足し:日本を戦争に勝たせ、国民を救うために、上に立つ人間としての役目があった】という大義名分があったわけで、これは親鸞以前の金持ちや僧侶の在り方と似ている気がしました。

『耐え難きを耐え、忍び難きを忍び』という言葉も、一部の階級の人たちには、通用していなかったのでしょう。

小学生の時に学童疎開をしていたという、親戚の人から聞いた話では、東京より農作物などがあるという話だったのに、結局疎開先でも食べ物がなく、みんな、ひもじい思いをしていたそうです。

親元から送られてくる薬(錠剤らしいですがなんの薬かはわかりません)をかじったり、親が作って送ってくれたお手玉の中に入っていた生の小豆を、友だちや先生に内緒で、こっそり食べたりしていたと聞きました。

そのように食糧事情の劣悪な時代に育った日本人ですが、けっこう長寿の人が多いのには驚きます。

むしろ、食べ物に困らない現代の人の方が、健康状態は悪いかもしれませんね。

朝起きて夜は寝る、そんな当たり前の生活をしない人が増えているのも、どんどん不健康になっていく原因でしょう。

やむを得ない場合は別として、食べ物に気をつけること、規則的な生活をすること。それを守るだけで、一定の健康は維持できるように思います。



現代は、信仰心のあるなしに関係なく、気軽に寺社仏閣にお参りすることができます。

絵馬をたまに見てみるのですが、「宝くじがあたりますように」、「病気が治りますように」、「○○大学に合格しますように」などという個人の願い事の他に、「世界が平和になりますように」などという、願い事も多くみられます。

仏教では(浄土宗では?)、自利と利他は切り離せないものとしており、両面を兼ね備えることを理想としていますね。

これをものすごくわかりやすく言えば、自分が幸せになると同時に、他人の幸せを願うこと。

これは、簡単なようですが、とても難しいかもしれないと思います。

誰かのためになにかしても、その相手が幸せだと感じてくれるとは限らないし、自分の幸せにしても、感じ方は変動するもののような気がします。

「自分が幸せでなければ人を幸せにすることはできない」と言いますが、とても奥の深い言葉だと思えます。

少し話がとびます。

外国の哲学者が言った言葉なのですが、誰の言葉だったのか思い出せません。

「生きている時に神を信じないで、死んだ時に神がいたとわかった。生きている時に一生懸命神を信じていたのに、死んでみたら神はいなかった。このどちらが幸せだろうか」という内容のものです。

親鸞の『現世利益和讃』では、「念仏を唱え、阿弥陀様を信じることが、人間の煩悩による迷いや不幸から解放され、信心を喜ぶという、この世で最も大きな利益である」と説いていますね。

反面、来世利益も、浄土宗では同時に説いています。

『現当二世の救い』というそうですが、さきほど例にした海外の哲学者の言葉は、言わんとするところは違うのかもしれませんが、人間であれば、現世と来世、双方の利益を望みたいところかと思います。

身も蓋もない考え方ですが、神仏がいるかいないかは、死んでみたところでわからないかもしれないですよね。

だったら、いないんだから信じても無駄と思って生きるより、いなくてもいいからちょっとだけでも信心して生きてみようかな、と思うのがベターなのかもと。

死んだ時に神仏がいなくてショックを受けても、それはその時のことで、信じて生きてきたことを後悔することはなさそうに思います。

確固とした信仰を指しているのではなく、『神仏はいるかもしれない』程度の意識でも、自分が幸せになり、人を幸せにすることに、大きな効果(この単語は適切ではないかもしれませんが)があるように思えるのです。

さて、支離滅裂になってきたので、この話題はこのへんで(笑)



そういえば、と、話がまたもとに戻ってしまいますが(笑)

畠中恵のしゃばけシリーズはずっと読んでいますが、最新刊で、「天照大神と大日如来は同じ」ということがサラっと書かれていました。

まわりくどい説明がないので、本地垂迹の話を知らない人は、創作の一部だと思うかもしれませんね。



古典落語でも、改変することはあるんですね。

農園主さんのように落語に詳しい方が聞くと、通常の噺と変わっているとか、ここを端折ったとか、それこそ枝雀さんのようにうっかり飛ばしてしまったとかがわかるのでしょうが、あまり詳しくない人が聞いたら、これが『崇徳院』という落語なんだな、と認識してしまうわけですが、それもおもしろいですよね。

本を読んで、ストーリーを知るだけでも楽しいものですが、いろいろな噺家さんの落語を聞いて比べてみるのは、落語の醍醐味だと思います。

落語では長屋がよく登場しますが、釘が隣に、という話は、長屋の造りを知らないと、わかりにくいかもしれませんね。



同じ演目を話していても、マクラが長年同じということもないでしょうが、毎回違うということも、あまりないのかもしれませんね。

でも、聞く方も話す方も、マクラが変わると新鮮ですね。

3代目桂米朝の『鹿政談』、NHKの配信が見当たらなかったので、ニコニコ動画で見てみました。



https://www.nicovideo.jp/watch/sm4514275...

農園主さんがごらんになったのは、同じものでしょうか。

枝雀さんよりはゆっくりですが、それなりに早口なのに、明瞭で聴き取りやすいですね。

上方落語に武士がでてこない理由を話していましたが、そのうち奉行や奈良の燈籠、鹿の話になったので、本題に入ったかと思いましたが、マクラでしたね(笑)

確かに15分ほどありました。



上方の落語家さんが、noteに『鹿政談』を興味深く解説したものを見つけました。

噺家さんによって、お奉行の名前が違うというのは、ユニークですね。

https://note.com/monshiro/n/n24f611fa1f4...





鶏ガラスープのレシピをありがとうございます。

野菜も入れるんですね。

圧力鍋がないので(安全とわかっていても怖いから( ̄▽ ̄;))、気長にじっくり作ってみます。

日本では、風邪を引いた時や胃腸の調子が悪い時は、おかゆやおじやで、あまり汁物を積極的に摂ったりしないですが、西洋だと鶏のスープが定番らしいです。

おかゆよりよほど栄養、滋養がありますね。

鶏でも豚でも牛でも、骨がついたものを煮込むとおいしいですよね。

骨には、驚くほどのうまみがあることがよくわかります。



いくらか、涼しくなってきました。

今年の夏は例年の暑さと違うせいか、ふだんは飲まないソフトドリンクや、ゼリーをちょっと摂りすぎました。

最初は気にせず飲んでいたのですが、人工甘味料を使った飲料・ゼリーが多いことに気づき、それからはよく見て買っています。

果糖ブドウ糖液糖という甘味料は、安心と思い込んでいましたが、これもよくないんですね。

飲料以外にも入っているので、シャットアウトは難しいですが、ほどほどにしたいと思います。
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牛久大仏、ギズモさんのご記憶の通り、東北に旅をしたときに訪れました。

ほんとうは仙台まで行きたかったんですが、宮城県に到着して車中泊をしていたところ、地震に見舞われました。

震度5~6くらいだったのですが、これが余震の可能性もあると考えると、もうぼちぼち潮時だとおもい、帰ることにしました。

その帰りの道中で牛久に立ち寄った次第です。

そんな時間はなかったのですが、できることなら岩手県、青森へ向かい、さらに日本海側から今度は秋田、新潟と観光ができればよかったなとおもいます(笑)



牛久大仏は浄土真宗ですが、開祖の親鸞の言葉として伝わる有名な言葉があります。

「善人なおもて往生をとぐ。いわんや悪人をや」

ご存じとはおもいますが、これは悪人正機という逆説で、善人を自称するような無自覚な人間でさえ極楽往生をするのに、悪人を自覚している者が往生できないはずがない、という意味です。

親鸞は、阿弥陀如来は本来、悪人をこそ救いたいと願っているのだ、といいました。

では、どういう人が悪人で、どういう人が善人だったのでしょう。



当時の世相を考えると、京の都は度重なる飢饉で生活困窮者があふれていました。

それこそ芥川龍之介の『羅生門』のように、死人の衣服をはぎとってそれを売って生活せざるを得ないような人もいたわけです。

それどころかとことん追い詰められれば、餓死者の死肉で食いつないだというような者すらいたことでしょう。

そのような者たちは「この世を生きても地獄、死んでなお地獄に落ちる」という、どうしようもない苦しみの中で生きざるをえませんでした。

かれらはじぶんが罪深いことをイヤというほど自覚して、じぶんは悪人だという責め苦の中で生きています。

それに対して、都の貴族は飢饉などの災害が起こると、寺院を利用して加持祈祷を行いました。

そんなことのために庶民から吸い上げた税を浪費したのです。

都の足元で餓死者が出ている惨状にもかかわらず、金持ちは僧侶を集めてお祈りをして、それでじぶんは国や民を救う善人だとおもい込んでいるのです。



都が奈良から京都へ移った平安時代には、仏教の考え方も変遷しています。

つまり、国のための仏教から、一般庶民のための仏教へと軸足を移しつつありました。

こういう変化がなぜ起こったのか。

元をたどると奈良時代に仏教権力が増長しすぎて、政治に口出しをするようになったからです。

こういった仏教勢力のありようを朝廷の貴族がいやがって、都を京に移しました。

京では加持祈祷は行うのですが、平安京内にあたらしい個人的な仏教寺院を建築することは禁じられたんです。

すると、これまで奈良朝廷のもとで甘い汁を吸っていた僧侶たちの多くは食いっぱぐれますよね。

国家鎮護のための仏教が、ほかならぬ朝廷によって半ば否定されてしまったわけです。

食いっぱぐれた仏教者は、なんとかしてあたらしい食い扶持を見つけなければなりません。

そこで民衆というあたらしい分野で信仰を獲得するようになり、各宗派によって苛烈なシェア争いが起こったわけです。

実際、民衆は苦しい暮らしの中でも、僧侶たちを養ってくれました。

これが、平安時代に仏教が大衆化し、さらに多様な宗派が生まれた原因です。



国家守護のための仏教を伝統的にやっている側からすると、大衆に仏教を広めようといって出て行った連中が気にいりません。

親鸞もそうですが、法然や日蓮など、大衆に仏教を広めた宗派の開祖がよく流罪にあったのは、それだけ政権や伝統的な寺院勢力から目をつけられていた、ということです。

しかし大衆仏教を広めようとする側からすると、庶民の苦境や暮らしのありように目を向けず、かれらから吸い上げた税でよい暮らしをし、加持祈祷で世のためになにかしているような気になっていることが気に入らない。

うがった見方をすれば、親鸞はこういう連中を皮肉って「善人」と言ったのかもしれません。



そのように考えていくと、浄土真宗の建造物である牛久大仏は、開祖の親鸞が望んだものだったのかどうか。

ああいった金満な大仏を建立することは、たとえバブル期の国民総中流が実現された豊かな時代だといえども、非常に「善人」的な所業です。

もちろん「善人なおもて往生をとぐ」ですから、牛久大仏におまつりされた方々も阿弥陀如来は救ってくれるでしょう。

しかし浄土真宗の側で、阿弥陀如来が本来救いたいのはそういう人ではなかったはずだ、という根本的な問いかけがなかった点で、個人的にはどうもあの仏教テーマパークにはいい感じがしないのが正直なところです。

もちろん、もっと手前のところまでたどって、そもそも親鸞たちが、シェア争いのために大衆仏教を開拓したという視点でみれば、非常に人間的たくましさや人間的あさましさにあふれており、金満な豊かさを求めていくことこそ、宗教の本来のありようなのかもしれません(笑)



桂枝雀の「宿替え」、ご覧になったんですね。

あの話は江戸落語では「粗忽の釘」として知られる話です。

夫婦で引っ越しをするんですが、粗忽者(おっちょこちょい)の親父がほうきをかけるフックがないからというので、あろうことか屋根の瓦と瓦を止める特大の瓦釘を長屋の薄壁に打ち付けてしまいます。

釘が隣の壁を突き抜けてしまったはずだとおかみさんにどやされて、親父がお隣さんのところへ行ったら、お隣の仏壇の阿弥陀仏のそばから釘が突き抜けていました。

当然隣人は仰天するんですが、親父は「えらいことだ。あしたから毎日ここまでほうきをかけに来なければならんのか」とボケたことを言う。

それだけの噺ですね。



枝雀さんはこの親父をずいぶんにぎやかに演じています。

あの番組では、胴くくりを畳にもかけていたせいで荷物が持ち上がらない、というくだりがなぜかおかしなことになって、話の段取りが狂ってしまったんですね。

それをアドリブでつないでいく当意即妙がみられましたが、そういえば枝雀さんの「宿屋仇」という落語では、終盤に見台が壊れて、それをアドリブで取り繕うなんてこともありました。

枝雀さんは舞台上のアクシデントが多い人でした。

なにせ話すスピードが桁違いに速いので、枝雀さん自身でもついていくことができず、軽いトチりがよくあったんです。

CD音源の落語を聞いていると、間違えるたびによくこの手のアドリブをやっていて、大いにウケています。

枝雀さんはビートたけしより8つほど年上なんですが、あの時代の漫才は非常に速かったんです。

速い芸というのが、当時の落語でももてはやされていたんでしょう。

江戸だと志ん朝さんは枝雀さんとほぼ同世代ですが、あの人も演目の佳境に入るとものすごい早口で、しかも正確でした。

その点現代の落語は、あまり速さを求めないようです。




枝雀さんは古典落語でも気に入らないと改変するというような、大胆なことをするんですが、たとえば「崇徳院」という落語があります。

崇徳院というと、「瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に あわんとぞおもう」が有名ですが、この句が落語の主題になってるんですね。

大阪の高津神社にお参りしたときに、一瞬だけ出会った女性に恋煩いをしてしまった船場の若旦那。

この若旦那は女性から「瀬をはやみ岩にせかるる滝川の」と書かれた紙をもらっていました。

当然下の句は「割れても末に あわんとぞおもう」ですから、女性からの、またお会いしたいというメッセージなんですよね。

それで若旦那がお店の熊五郎に相談して、熊五郎が単身、女性を探すことになります。

しかし少ない手掛かりで広い大阪をどうやって探せばいいのか。

途方にくれるんですが、往来を大声で「瀬をはやみ! 岩にせかるる滝川の!」とわめきながら歩いたりと、何日もすったもんだします。

それでも結局手掛かりが得られず、疲労の極の中、最後に入った床屋で、主人と客がくだんの女性の話をしているのを耳にするんです。

するとどうやら向こうもお店のご令嬢で、若旦那のことをおもって恋煩いしている真っ最中なんだそうな。

おどろいた熊五郎が客に詰め寄ります。

相手も急にご令嬢の恋煩いの相手の手掛かりが知れたものだから、喜べばいいのにけんか腰になり、もみあいになるうちに、床屋の鏡が割れる。

床屋の主人が「どないしてくれるねん」というと、大喜びの熊五郎、

「心配しなさんな。割れても末に買わんとぞおもう」

という、これが一般的なサゲです。



枝雀さん、このドタバタするばかりで要領を得ないサゲがイヤだったんでしょう(笑)

最後、熊五郎と客がもみあいになったところで話を区切って、

「探す相手がめでたく知れて、一対の夫婦(めおと)が出来上がります。『崇徳院』という、おめでたい一席でございました」

と、サラッとサゲてしまって、ふたりが夫婦になれたと伝えるんですね。

この夫婦になったというのは枝雀さんのサービスで、本来の古典にはそのようなくだりはありません。

でも、個人的にはじつに心根の温かい、よい改変だとおもいます。



ところで、けさNHKで桂米朝の「鹿政談」をみました。

おどろいたことに、マクラが15分以上。

演目より長い時間のマクラでした。

枝雀さんの「宿替え」ではほとんどマクラがなかったでしょう。

調べてみたら、30秒でした。

枝雀さんの師匠が米朝さんですが、伝統の師匠と革新の弟子といった感じで非常に対照的なおもしろみを感じます。



鶏がらスープの件なんですが、レシピというほどのものはありません。

つかうのは玉ねぎやニンジンといった、カレーにつかうような香味野菜と、あとは塩だけです。



鶏がらと野菜と水を鍋に入れて……ぼくの場合は圧力鍋に入れますが、野菜が溶けて、鶏がらのうまみがすっかり出てしまうまで、じっくり煮ます。

圧力鍋の場合、あくとりはできませんが、玉ねぎやニンジンくらいならアクは気になりません。

あとは鶏がらを引き上げて、塩で味をととのえていきます。

やることはこれだけで、これが基本のスープになります。

余計なことをしないので、老若男女問わず優しい味付けのスープになるとおもいます。

逆にいえば、余計なことをしないのがコツかもしれません(笑)



ここから、たとえばニンニクやショウガ、白ネギやセロリなど、さらに香りの強い野菜を足して複雑な味付けにしてもよいでしょうし、いまの時期だと仕上がったスープに焼いた夏野菜を足してもいいとおもいます。

もちろんコショウを加えたり、バジルを加えたり、やろうとおもえばいくらでも足し算ができます。

母に出したのは、基本のスープでした。



そういえば、最後にカエルの件でひとつ、こんな記事をみつけました。

https://tanba.jp/2025/08/%e5%af%82%e3%81...

戦時中、兵庫県尼崎の杭瀬から丹波に疎開した児童が書き残した記録で、

「終戦直前には、田んぼ畑に跳んでいる普通の蛙を、自分で皮をはぎ、塩焼きにして食べた経験、これは三匹までは美味、五匹以上は青臭さが鼻について食べるのは無理」

とあったそうな。

田んぼにいるカエルというのは総じて小さくて、非常に歩留まりがわるく、肉として食べられるところは一匹20gもないとおもいます。

これを3匹までしか無理だったというんですから、50gも食べないうちに、嫌気がさすようなものだったんですね。

戦時中の飢えた子供でさえ「食べるのは無理」というんですから、救荒食にもなり得ない食材ということだったのでしょう。

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この過酷な暑さの中でも世間は夏休みなので、どこに行っても子どもや若者が多く、人の多さで暑さが倍増します・・・。

小さな子どもの首にまでファンが設置されているので(笑)、いきなり爆発しないだろうな?と心配になります。

外の暑さでファンは相当熱を帯びているので、あり得ないことではないように思います。

なにしろ、バスを待つ10分ほどの間に、バッグの金具が触れないほど熱くなりますから。

高校野球は、野球が好きではないので見ないんですが、今年も吹奏楽の演奏は盛り上がっていました。

あの暑さでプレイする球児も大変ですが、金管楽器が相当熱くなっているだろうなと、よけいな心配をしていました(笑)




同じ落語でも噺家さんによってマクラが違うし、マクラを聞けば、その方の落語を聞くかやめるかを決める材料にもなると思います。

落語の場合、出囃子とマクラは不可欠なものと思っていましたが、一時的にでも省略した人がいたとは知りませんでした。

革新的ですが、もう少し頑張って続ければ、案外お客さんも慣れてきて、ウケもよく、定着した可能性もありますね(笑)

日常生活では、当たりさわりのない時候のあいさつがベストのように思います。

お天気がよければ「いいお天気ですね」が差しさわりないですし、時候のあいさつというのは、会話にしても手紙にしても、日本の文化かもしれません。

「こんにちは」「こんばんは」だけだと、次の話題に進みにくそうですよね。

コンサートでも、最初に観客を惹きつける話は不可欠です。

「こんにちは、今日はお集まりいただきありがとうございます。では1曲目をお聴きください」ではただの能無しなので、なんの話をどんなニュアンスでするかが、曲目のチョイスや順番よりも気を遣います。

落語と言えば、『寿限無』を採り入れ、シャンソンなども歌う、5分ほどの演目を作ってあるのですが、まだ初演に至っていません(笑)

主人公は小学生の女の子で、「寿限無寿限無~~~省略~~~長久命の長子」という名前です(笑)




日本酒だと、冷や・ぬる燗・あつ燗と、好みの温度で飲むのは普通ですが、ドイツのホットビールは知りませんでした。

そういえば薬用酒として、ハーブを入れたホットワインもありましたね。

ビールも温めると、薬効があるような気がします。

冷やは、昔はおそらく常温のことを言ったかと思うんですが、最近は冷蔵庫に入れたつめた~~~い日本酒を言いますよね。

『親の意見と冷や酒は後で効く』という諺もあるので、飲みやすいからと冷たい日本酒を飲むと、あとから悪酔いしそうです。

酔いかげんは別として、夏でも温かい飲み物を飲み、冷えたものは極力避けた方が、内臓を冷やさず、身体にはいいようですね。

とはいえ、この夏は、ふだんは食べないアイスクリームや、冷えた飲み物がどうしても欲しくなってしまい、反省中です(笑)



4月12日の記事で、牛の屠殺のことを書いてくださっていますが、その中に

ノッキングによって気絶した牛が、ごくまれに放血中に意識を回復することがあります。するとかわいそうに、意識を回復したとたん一気にストレスが高まり、血圧が上がります。とありました。

この時の牛のストレスや、今回のヘビに飲み込まれていくカエル、鶏をしめた時のお話を考えると、動物には、やっぱりなにかしらの感情らしきものが確実にあるように思えます。

植物も、「ここは動物が荒らしに来るから実をつけるのをやめよう」みたいな意思(のようなもの)の伝達をするそうですし、この世の中のありとあらゆるものは、「感情」という明確なものでなくても、なにか持っているんだと感じます。

「いただきます」という言葉は、食材の命と、それを育てた人や自然の恵みに感謝する意味があると言いますが、農園主さんがその鶏を余すことなく召し上がったのは、なによりの感謝の心だと思いますし、お母さまが鶏ガラスープを絶賛なさったのも、その鶏への最大の供養に思えました。

また、もちろん、スープを作った農園主さんへの賛辞も込められていたことでしょう。



串に刺さった鶏を仕入れて焼いている焼き鳥屋さんではなく、丸鶏をさばいて焼き鳥にしている焼き鳥屋さんに行くと、鶏ガラスープが無料で提供されることがあります。

鶏ガラスープの素を使ったものとは、ぜんぜん違い(あたりまえですが)、おいしいです。

焼き鳥で思い出したので、ビールの話に戻ります(笑)

先日くら寿司に行った時、ノンアルコールビールを飲んだのですが、最近のノンアルコールは格段においしくなりましたね。

黙って出されたら、ビールと勘違いするレベルで、ほろ酔い気分になれました(笑)



救心の成分は初めて知りましたが、びっくりです。

カエルの皮や分泌物の効能、最初に試した人は誰だったのでしょう(笑)

民間療法、民間薬(幻覚剤も含む)というのは、先人の冒険的精神によって築かれたものだと気づかされます。

うかうかとチャレンジして、亡くなってしまった人もいるはずですよね。

食べるだけでなく、危険かもしれない分泌物までというと、本当に命を余すことなくということになるので、カエルも本望かもしれません。



私が幼稚園くらいの頃だったかと思いますが、近所の商店街に、『ガマの油売り』が来ていました。

子どもの頃ですのでうろ覚えかもしれませんが、袴をはき、鉢巻をしたおじさんが、袖をめくり、刀で腕に傷をつけました。

血が出たのかどうか覚えていないのですが、「ガマの薬」を塗り、傷があっというまに治った、というようなことを言っていましたし、なんとなく聞き覚えのある口上に合わせて、紙を刀で切っていました。

周りのおとなが、傷は偽物とか、インチキとか言っていたのも覚えています(笑)

調べてみたら、このガマの油もセンソなんですね。

口上は伝統芸能として伝承されているようですが、『蝦蟇の油』という古典落語もあるんですね。

アンデルセンの童話『親指姫』、グリム童話の『カエルの王様』、イソップ物語、鳥獣戯画など、カエルの活躍に、あらためて感心してしまいました(笑)



農園主さんも、牛久大仏の悪趣味さをお感じになったんですね。

仏像や大仏は、普通は魂入れ(開眼供養)をするということですが、牛久大仏はどうなのか、わかりませんでした。

ただの建造物だとしたら、拝むのもおかしな話ですよね。

墓地は、他人のお墓がたくさんあっても、そこに行くのは違和感はないのですが、お位牌がずら~っと林立しているところを、言い方は悪いですが見物するシステムというのは、どうにも気になりますし、気持ち悪ささえ感じました。

記憶が間違っていたら申し訳ないのですが、東日本大震災のあと、福島まで車でいらしたとき、牛久も通ったと伺ったかと思います。



10年ほど前に初めて仙台に行った時、ひとりだったので、タクシーを利用して何ヶ所か行きました。酔うので、最小限でしたが。

仙台城跡一帯は伊達政宗公の銅像のある青葉山公園となっており、本丸跡からは仙台市内、太平洋を一望できます。

少し離れた場所に大きな白い観音様が見えたので、そこも案内してもらおうかと思い、運転手さんに尋ねたら、「あれは金儲けで作ったもので、わざわざ見るものではありません」というようなことを言われました(笑)

仙台大観音と言い、1991年に、仙台市制100周年を記念して建立された、高さ100mの観音様で、牛久大仏の次に大きなもののようですね。

牛久大仏はこの2年後の1993年に造られていますが、対抗したのでしょうか(笑)

牛久大仏も仙台大観音も、遠くからも目立つ大きなものを建てれば集客できるという短絡的な考え、金儲け主義によるものが大きいのかもしれませんが、農園主さんがおっしゃるとおり、もうテーマパークですね。

宗教や信仰に興味のない人も、気軽に行ける観光地としてとらえるのがよさそうです。

余談ですが、牛久大仏を道路から最初に見た時(斜め下から見上げる位置)、天皇陛下(今上天皇)の顔によく似ているな、という印象を受けました。

後日、ネットで画像を改めて見ると、さほど似てはいないのですが、その場ではとても似ていると思えました←だからどうだということではないですが(笑)



夏というと、かなり暑い日は雷雨や夕立があり、やむとス~~っと涼しくなったものですが、最近は降らないですね。

コンクリートの地面が冷えないまま朝になり、息つく間がないくらい、四六時中暑さが継続している感じです。

高齢者・非課税世帯にエアコン購入の補助金(8万程度?)を出すことになったようですが、電気代のことは考慮しているのでしょうか。

テレビのニュース番組などでよく、クーラーがあってもつけないという高齢者を非難していますが、電気代を考えてつけたくないという人も多いはずです。

生活保護世帯は、冬季加算という暖房代が追加支給されるそうですが、夏にはそういう手当はないそうです。

書き足し:生活保護者へのインタビューでは、冷房をつけたら食費を削っても追いつかないと話していました。

全国民に2万円給付の話も立ち消えになったようですが、異常気象による災害にあった人々への手あつい支援、一般家庭の電気代援助など、ぜひ実行してほしいものです。



ということで、今回も世間話ですので、お返事はゆっくりのんびりのペースでお願いします(o_ _)o))

体調をくずさないよう、特に睡眠不足にお気をつけくださいね。



ここまでの下書きを投稿しようと思っていたのですが、昨夜、偶然にもNHKで桂枝雀の落語を放送していました。

『おとなのEテレタイムマシン 日本の話芸「宿替え」桂枝雀』(1993年放送)

途中からだったので、さきほど、NHK+の見逃し配信を観ました。

説明のところには「前半でセリフを飛ばしてしまうハプニングが。どう取り繕って噺に戻すのか~~」と書かれていました。

どこ?と思いながら観てみると、確かにありました。

そこをうまくごまかすのではなく、さっさと本題に戻すのでもなく、間違ったのをカミングアウトしたうえでけっこう引っ張って、うまく事態を収拾している部分、すごいな~とえらく感心しました。

失敗を非難したりシーンとしてしまうのではなく、枝雀に拍手を贈るかのような観客の態度と、枝雀の、観客の反応を見ながら進めていったであろう機転に、桂枝雀という噺家さんの素晴らしさを感じました。

落語は、話術の巧みさだけでなく、手振りなどの表現、表情。客席との肌感覚のやり取り。

まさに演劇をこぢんまりと凝縮させたような、日本の文化、芸術だということを再認識しました。



【書き足し】
農園主さんが作った、鶏ガラスープのことが頭からはなれません(笑)

パックの鶏ガラが売っていたら(たまに見かける程度です)、ぜひ作ってみたいと思います。

秘伝でなければ、大雑把でかまいませんので、レシピを教えていただけたらうれしいですm(_ _"m)
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毎年似たようなものではあるのですが、ことしはいよいよ暑いわ、干ばつだわ、降り始めたら災害寸前の大雨になるわで、異常気象が当たり前になってきた感じがありますね。

自治会長をやっていて気づいたことですが、自治会内で用事があって人に会ったとき、最初に時候のあいさつをするとスムーズなんですよね。

「こんにちは。あついですね」からはじまって、二言三言会話をしたあとで、本題に入ると、お互いに心づもりができます。

いわば落語でいうところの「マクラ」であり、劇場の「前説」にあたるものですが、日常会話でもこういう前置きがないと本題からいきなり切り出すというわけにはいかないものですね。

今回のように無茶苦茶な暑さだと、みんな暑いという感覚を共有しているので、「暑いですね」がいいあいさつになりました(笑)

そういえば桂枝雀という上方の落語家がいたのですが、かれは天才肌であり合理主義者で、あるとき落語のマクラを省略して、いきなりネタを始めたのだそうです。

それをみて師匠の桂米朝が驚いたという話があるのですが、型破りな枝雀さんでもさすがにマクラがないとおさまりがわるいとわかったようで、しばらくするとまた元の伝統的なスタイルに戻ったそうな。



ところで、ビールは日本以外では常温で出すところも多いそうですね。

日本では明治時代あたりからビール文化が本格化しますが、やはりその当時はみな常温でビールを飲んでいたことでしょう。

しかし日本でビールを常温で飲む文化が定着しなかったのは、太平洋戦争でビール文化が断絶したからだとおもいます。

戦後しばらくして、ビール文化がまた機運を得て盛り上がっていくのですが、そのころには高度経済成長の中、氷式冷蔵庫など、冷蔵保存が一般家庭にも少しずつ浸透していきます。

ビールは冷やして飲むもの、というかたちでメーカーの刷り込みが行われて、酒造メーカーも冷やして飲むことを前提にしたビール販売戦略をとりました。

常温で飲むことを楽しむという文化が醸成しないまま断絶したので、冷やして飲むのが当たり前、という文化になったんだとおもいます。

そういえばうちの集落で冬に飲む機会があったとき、ある老爺が「ビールを燗にしてくれ」といったのを覚えています。

冷たいと体にこたえるからだとおもうんですが、ビールを温めて飲みたいというのは、あまりわれわれの価値観にはないところです。

でもドイツではホットビールが飲まれていて、ハーブや砂糖を足して薬用酒のようにして飲むでしょう。

日本では「たまご酒」がありますが、ビールをいろんな温度、アレンジで楽しむ文化が日本に根付かなかったのは、もしかしたらもったいないことだったかもしれません。

大阪にいたぼくでもなじみのない言葉ですが、大阪では「カチ割りビール」といって、ビールに氷を入れて飲む文化があるようです。

これは東南アジアでは比較的ポピュラーな飲み方みたいですね。



蛙の笛、いい歌ですね。

田舎にいると、カエルの大合唱は風物詩でしたが、最近はうちのまわりも田んぼをやる人が減って、むかしのようにやかましいほどの虫の音やカエルの鳴き声はなくなってきました。

カエルのコロコロという鳴き声はじつに牧歌的で、あいつらはあんな粘膜を剝き出しの皮膚で暮らしていて、どうしてあんなにのどかに生きられるのだろうと不思議な気がします。

しかしせっかくよい歌をご紹介いただいたのに、ここからどんどんおかしな方向に話がそれていきます。



数年前、足元でキューキューと悲しげな鳴き声が聞こえました。

なんとカエルがちょうどヘビに飲み込まれている真っ最中だったのです。

カエルとはまったく種のちがう人間でも「なんて切ない鳴き声なんだろう」とわかるくらい、悲しげな鳴き声でした。

あんなほとんど脳みそのない生き物にも、世をはかなむ感情はあるのだ、と妙なところで感心したのをおぼえています。



カエルからはすこし話がずれますが、むかし養鶏をしているご近所さんからいただいた2羽の老鶏をしめたときも、おなじようなことをおもいました。

鳥は記憶力がなく、ものごとを深く考えることができないというのですが、一羽を逆さづりにして首を切って放血していると、もう一羽が羽をくくられたまま逃げ出して、藪の中に首を突っ込んで座り込んでしまったのです。

これはわるいことをした、とおもいました。

鶏には現状を理解することができないだろうとおもっていたのですが、そんなことはなく、鶏はじぶんの仲間が殺されているのをみて、恐怖したようです。

おびえて首を突っ込んでいた鶏は、恐怖を長引かせるのが気の毒だったので、その場で首を切ってしめました。

あのような恐怖を与えてしまうのは本意ではありませんでした。

罪滅ぼしになるわけでもありませんが、その後、鶏はとさかから内臓から足の骨まで、ほぼ余すことなくおいしくいただきました。

ちょうど母親がうちにきていたのですが、こんなにうまい鶏ガラのスープは飲んだことがないと褒めていたのが、よけいに心にチクチク刺さったものです(笑)



しかし、漫画の演出とはいえ、カエルを生で食べるのはかなりリスキーですね。

中島らもの『アマニタ・パンセリナ』という本があります。

アマニタ・パンセリナとはテングタケという有名な毒キノコの学名なんですが、あえて一見わかりにくい学名のほうをタイトルに選んだのでしょう。

ドラッグや市販薬など、いろいろな危ない薬をらもさん独自の視点で紹介するという作品です。

そこに南米のヒキガエルのエピソードがありました。

中南米のある部族の話だったとおもうんですが、祭りでトリップする際に、ヒキガエルを口にくわえて踊るんだそうです。

ヒキガエルの分泌物がなんらかの作用をもたらすそうですが、文字通り、正気の沙汰ではありません。

もちろんギズモさんの漫画のお話はフィクションであるという分別はあるのですが、「戦争中で、食べ物がないから貴重な食料なの」といった女学生は、生きたカエルの分泌物の作用をわかっていて、ありがたがった可能性すら感じました(笑)



もう少しカエルの話をしますが、うちのお隣の長老が戦後間もない子供のころ、大きな切り傷を負ったそうです。

するとちかくにいた老婆が「クソガエル」といわれる……畑にいる小さなカエルなんですが、これを捕まえて、おもむろに皮をひん剥きました。

そしてその皮を長老少年の傷の上にぺたりと貼り付けたんだそうな(笑)

ずいぶん気持ちの悪い話ですが、不思議なことに傷口の出血はあっという間に止まったといいます。

感染症リスクを考えるとかなり野蛮な話ですが、カエルには妙な薬効があるものです。



そういえばあの救心の主成分もセンソといって、やはりカエルの分泌物なんだそうですね。

その救心のホームページに、ムツゴロウさんがカエルの分泌物を舐めて元気に徹夜したというエピソードがありました。

https://www.kyushin.co.jp/herb/herb05.ht...

ホンモノのガマの油はとんでもない苦さだったそうです。

すると南米でヒキガエルをくわえてトリップを決めていた部族は、薬理効果を得るためにずいぶん苦いおもいをしていたのかもしれません。

いわんやカエルを生で食べていた女学生をや、ですね(笑)



カエルの話はこのへんにしておいて、ぼくも以前、牛久大仏の中を見物したことがあります。

車で茨城を走りながら、大仏が見えてくると、子供のころにみた「超合金ロボ」のような大きさにギョッとしました。

ギズモさんのおっしゃるように、如来像の胎内は数フロアぐるりと位牌が並んでいて、あれは永代供養になっているわけでしょう。

ホームページをみると、大きいスペースが100万円、小さいほうで30万円なんだそうで、明朗会計はよいことなのかもしれませんが、どうにも営利のにおいがきつく、わるい意味で感心しました。

あの胎内での永代供養は相当数並んでいるので、それだけ死後の安寧を願う遺族からの申し込みがあるということですね。

もしギズモさんが気分がわるくなられたというのであれば、霊的なものというよりは、臆面もなく仏教を商売化して、テーマパーク化する破戒的な悪趣味と、そういうものに疑問を感じないご遺族側の無邪気な信仰に「あてられた」とでもいうべきものではないかとおもいます(笑)

すくなくともぼくが訪れたときは、そのような気味悪さをつよく感じたのをおぼえています。



牛久大仏は1983年に着工したということですから、高度経済成長期からバブルへと向かう空前の好景気の影響を強く受けていますね。

そういう意味では、いまはもう信仰による寄進が無尽蔵に集まる時代ではありませんし、あのようにテーマパーク化してお金を集めないと、苑や仏像の維持管理ができないのかもしれません。

これもやはりギズモさんのおっしゃったように、先々を考えると経営が苦しくなるかもしれませんね。

しかしバブル時代に行政が第三セクターでつくった大型のハコモノでさえあらかた生き残れなかったことを考えると、浄土真宗だけであれだけの建造物を管理しているのだから、うまくやっているほうなのでしょう。



返信が以前に比べてゆっくりになりましたが、個人的にこれくらいのペースが落ち着いて書くことのできるペースで、ありがたいです。

ことしはこれからも10月になると自治会事業で立て込みますし、返信が遅れがちになるのはお互い様、ということでどうかご容赦ください(笑)

盆も過ぎて暦は残暑といいますが、気を抜けない暑さが続きます。

なんとか健康を維持して乗り切りましょうね。
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暑いですね~(;^_^A アセアセ・・・

仕事先でも近所でも、ご挨拶のひと声目は「暑いですね~~」になっています(笑)

今年の夏のように、連日40度近くで、連日熱帯夜がデフォルトになったらと思うと、本当に怖ろしいです。

毎日のように熱中症で救急搬送される人がいますが、家の中で熱中症になる人の方が多いそうです。

そうはいっても、炎天下で仕事をする人のご苦労は、並大抵のものではないでしょう。

ベストなどに扇風機のようなファンがついているものを着ている作業員の方をよく見ますが、リュックの背中にファンがついているものもあるんですね。

以前は、夏、クーラーを使うと電気が足りないだのなんだの言ってましたが、今年の夏の電気使用量は相当のはずなのに、一言も聞こえてこないのは不思議です。



先日、この暑さで窓ガラスの熱割れが多発しているというニュースがありました。

今までそんな話を聞いたことがなかったのですが、今後も毎年このような暑さになるなら、暑さに強い窓ガラスを作る会社がでてきそうですね。

昔上海にいた時、夏は38度以上が当たり前でした。

40度になると会社はすべて休みという決まりがあったので、40度に達していても、決して40度という発表がされません(笑)

それほどの暑さの中でも窓ガラスが割れたという話は聞いたことがなかったのですが、近くにビールで有名な『光明啤酒』の工場??がありました。

薄い緑色の瓶のビールですが、これをなぜか外の炎天下に置いておくので、けっこうな頻度でボーン!と破裂するのを見ました。

お店でビールを注文すると、こともあろうに常温で提供されます。

ホテルのバーやレストランだといくらかマシで、「ぬるい」と感じる程度には冷えています(笑)

日本だと、グラスやジョッキも冷やしてあるので、考えられないことですね。



農園主さん、台湾でカエルを召し上がったことあるんですね。

日本でも、昭和の終わりごろでしょうか、炉端焼きのお店があって、カエルとかスズメを焼いていたと、母から聞いたことがあります。

私は上海で、『田鶏』を食べたことがありますが、食用カエルなのか、そのへんの池から捕まえてきたのかはわかりません(笑)

抵抗なく食べましたが、おいしかったです。

ウシガエルの分布図をありがとうございます。

特定外来生物に指定されていたんですね。知りませんでした。

余談ですが、『蛙の笛』という唱歌があります。

♪月夜のたんぼで コロロ コロロ コロロ コロコロなる笛は

あれはね あれはね あれは蛙の 銀の笛 ささ 銀の笛♪

輪唱で有名な『カエルの歌』では、

クワ クワ クワ クワ ケケケケケケケケ クワ クワ クワ (地方により多少違うそうです)

どちらにしろ、ウシガエルをモデルにした歌詞ではなさそうですね(笑)

単純に考えると、個体の大きさでも声の高さ(周波数)が異なるので、鳴き声も変わるのかもしれませんが、私のイメージでは蛙は全部ゲコゲコです(笑)




蛙と言えば、昔読んだ怖い漫画で、中学校??で、帰りが遅くなった女子が、教室でひとりの気味の悪い女学生が座っているのを見つけます。

クラスの子ではないので、不思議に思っていると、その女学生が生きた蛙を食べているんですよね。

今は戦争中で、食べ物がないから貴重な食料なの、と言いながら。

女子は気絶したのか逃げたのか忘れましたが、この漫画のおかげで(せいで?)、戦時中は食料に困っていたため誰でも蛙を食べていたという認識ができてしまいました。

実際はどこでも誰でもということはないのかもしれませんね。

話がとても逸れてしまい、失礼しました(笑)

この系統の漫画はずいぶん昔に読んだのですが、最近調べてみると、絵の作風から、漫画家は古賀新一だと思います。

ずっと楳図かずおだと思っていました。



消費税のお話ですが、読ませていただき、消費税というものが今までまったくわかっていなかったことに気づきました。

わかりやすい例を挙げてくださったので、ドーンと、すっきり!!理解できました。

ありがとうございます。

『なんらかの対立構造をつくって、徹底的に叩きながら成長していくという仕組み』、ポピュリズムのお話、とても興味深かったです。

信念に基づいていいことだけを一生懸命やっているより、むちゃな主張で意図的に衆目をあつめ、味方にしていくほうが有効というのが、現代の政治の形なのですね。

どんな政治であれ、誰もが日本に住んで良かったと言えるような、国であってほしいです。



選挙の時のお仕事を微細に書きとめてくださり、その大変さに驚きました。

あのような流れで事が進められるとは、知りませんでした。

投票箱の前に微動だにせず座り、じ~~っと投票用紙を入れるのを見ていられると、なんだかものすごく悪いことをしているようで、なにか注意されるのではと気おくれし、あんなに大勢いなくてもいいのになぁと長年思っていたのですが、大変なお役目なんですね。

傍目には、「座って監視しているだけで、そうそう問題も起きることがないので、楽な仕事」と思っていたのですが、とんでもないことでした。



地蔵盆ですが、お地蔵さまはお堂に入ったままでなく、出すのですね。

おかしな例えですが、おそらくお米10キロの袋より持ち上げにくく、神経も遣うので、大変な労働だと思います。

うっかり足にでも落としたら大けがをしそうです。

お盆とはまた違うイベントのようですが、やはり神事・仏事の類は、できるなら残していくことが大事ですね。

同じようなことをしても地域で異なるでしょうし、古くから伝承されてきている行事は、お話を伺うだけでも神妙な気持ちになります。



今回も、いろいろなことを教えていただき、ありがとうございました。

私のよもやま話からお話を広げていただき、気づかなかった蓮のロマンを感じることができました。

公共施設建設工事がなかったら、まだ眠り続けていたかもしれませんね。

そう思うと、蓮の神性というものに、心を打たれます。

農園主さんが書いていらっしゃるところの蓮の花の神聖さを思うと、数千年眠っていてあるきっかけで萌芽したのは、お釈迦様など、神仏のメッセージのように思います。



『一日がちゃんと終わることに妙に納得』というのは、とっても同意するお話でした。

少し意味合いが違うかもしれませんが、いやなことをしないといけない時など、「あと5時間、あと4時間~~」とカウントダウンし、時間さえ過ぎればいやなことが終わる、と自分に言い聞かせることを最近覚えました。

そのように暗示をかけなくても、同じように時は過ぎるのですが、けっこう効き目があります(笑)

もちろんいいことでも時間が過ぎるし、いいことだらけでも一日は終わるのですが、とりあえずなにがあっても一日というものはちゃんと終わるものなんだな、と最近考えていたので、農園主さんが感じたことにちょっとびっくりでした。



今週は、日帰りで茨城県の牛久に行ってきました。

牛久は東京に近いので、1時間半もあれば行けますが、牛久大仏→牛久シャトー(日本で最初のワイン醸造所)→阿見プレミアムアウトレットのコースです。

牛久浄苑は、浄土真宗東本願寺派本山東本願寺が運営しているそうで、牛久大仏(ブロンズ)は立像としてはギネス記録です。

浄苑なので、お寺と違い、お堂はありませんが、800円払うとエレベーターで大仏の胸まで(5階建て)上がれます。

牛久大仏の拝観券を買った時、浄苑のお墓のパンフレットを一緒に渡されましたが、中でもいろいろなグッズを売っているし、苑内には仲見世や庭園、動物園もあり、かなりの商売意欲を感じました(笑)←庭園のみで大仏胎内に入らなければ500円でした。



今日、仕事先の職員さんたちに茨城のおみやげを差し上げたのですが、牛久に行ったと言うと、副館長(女性)がすぐ「牛久大仏??」と。

ご主人の亡くなったご両親(茨城県神栖の人)のお墓が牛久浄苑にあるそうで、できた時(存命中)にすぐ買ったそうです。

首都圏最大級の公園墓地だそうですが、墓じまいを希望する人が多い現代です。経営は難しくなりつつあるでしょうね。

大仏胎内には、1フロアまるまる、お位牌が安置されている階がありました。

かなりの数で、○○家、と書かれたお位牌がずらっと並んでいました。

知らずに堂内(追記:お寺だと本堂にあたるところだということでした)に入った時、なんとなくいや~な感じがしたのですが、人様のお位牌だとわかったとたん、主人を引っ張って「早く出よう」と言いました(笑)

またオカルトチックなお話になりますが、その後ずっと、身体の熱感(熱は平熱)、しびれ、何とも言えない倦怠感、めまい、肩こり、軽い吐き気が4日ほど続き、今日になってやっとスッキリしてきました。

「牛久に行ってからなんだか調子が悪くて」と、その女性副館長に行ったら「あ~~連れてきちゃったのね」と言われました(笑)

まぁ、無きにしも非ず、というところでしょうか。

猿田彦神社の火打石は毎日打ってますし、お不動様のご真言も唱えていたのですが、あのお位牌の数には対抗できなかったのかもしれません(笑)

言い訳になってしまいますが、人の位牌が気持ち悪いという失礼な意味とは違います。

位牌は、故人が顔を出せる(現れることができる)媒体だと聞いたことがあるので、各家庭のお仏壇ではなく、こういうところに数えきれないお位牌があると、そのパワーというか、念は相当強いものだと、いやおうなしに気づいてしまった(訂正:気づかされた)体験でした。

ということで、ここ数日、どうにもお返事を打つ気力と体力が失われ、気になりながらも遅くなってしまいました(o_ _)o))



今回も、とりとめのないよもやま話でした。


慢性熱中症というのもあるそうですし、くれぐれもお気をつけください。

ポカリや経口補水液が有効のようですが、糖分・塩分のリスクもありますし、難しいところですね。

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猛烈な暑さ、日照りで体調管理がほんとうにむずかしいですね。

ぼくも水分代謝がうまくいかず、水分をとりすぎる、おなかを壊す、の繰り返しです(笑)



これは覚え書きですが、選挙の立会は、朝6時すぎに公民館に集合し、7時から投票開始しました。

夜の8時に投票所を閉じて、そこから開票所までバスで投票箱を運び、9時半にまた公民館に帰ってきて解散という流れでした。

どうやら投票所が閉じて開票所への送迎がはじまると、市内のほとんどのバスやタクシーが出払うほどだったようで、やはり選挙はお祭りなんだとおもいます。

ひたすら座っているだけの長丁場でしたが、家に帰ってきたとき、ちゃんと一日は終わるものなのだな、と妙な感心をしていました。



ひと昔前の自治会というと、お酒の場が多く、ワガママを言う人が多かったのでトラブルも多かったようです。

もっとむかし、大正以前にさかのぼるとこのあたりは田んぼの水の問題で殺し合いが起きるような土地柄だったといいますから、いわゆる村長の役割はたいへんなものでした。

ぼくが移住してからのことを考えるだけでも、いまの自治会長の役割はずいぶん楽になったとおもいます(笑)

ことしはうちのあたりは記録的な大旱魃ですが、むかしのように溜池も上水道もない時代だったら、村の中はたいそう乱れていたことでしょう。



古代蓮のお話、おもしろいですね。

土の中にある蓮の種が、数千年発芽する機能を失わずに、あるきっかけで萌芽する。この数千年という期間、種は果たしてどのように命を生きているのか。

植物には意識はありませんが、しかしたしかにその種は命としての役割を生きているわけでしょう。

動物の精子と卵子は生命とはいえないんだそうで、これは植物でいえば花粉とめしべの関係ですね。

そこから結実して種になったものは、人間でいえば受精したあとの胎児のようなものですから、やはり命です。

夜に眠って気づけば朝、というような感じで、じぶんの命がたまたま古代蓮の種であれば、土中で眠っている間に数千年が過ぎている。

人間の視点でみるとあまりにも長い孤独で、命の実感がないようさえおもえます。

蓮の花の神聖さを愛でるたとえで「蓮は泥より出でて泥に染まらず」という言葉がありますが、種の時点から特殊な神性があるようにおもえました。



大きなサイズのオタマジャクシは、おそらくウシガエルのオタマジャクシでしょう。

あれはギョッとするサイズですよね(笑)

あのカエルは夜になると、「ブオーン、ブオーン」と、聞きようによってはたしかに牛のような鳴き声で鳴きます。

世界最大級の大きさのカエルなんだそうで、戦前に食用に輸入された外来種なんだそうです。

むかしぼくが住んでいた大阪の八尾という、郊外の用水路でも盛大に繁殖して、大合唱していました。

八尾にいたときは気持ち悪いのと、夜の騒音で迷惑なだけでしたが、そういえば台湾でカエルの足を食べたことがあります。

鶏せせりのようなプリプリとした食感で美味でした。

捕獲して皮をむいても、足だけしか食べられるところがない(骨付きで一匹100gほど)という、歩留まりのわるさを無視していいのであれば、たしかに食用としては優秀だとおもいます。

調べてみましたが、北海道から沖縄まで、日本中に生息域があるものの、分布はまだらです。

当時熱心にウシガエルを食用として繁殖させていたところと、そうでないところがあったのでしょう。

戦前戦中の食糧難の時期でも、日本ではカエル食に抵抗がある地域が少なくなかったそうですから、そのあたりが分布のムラにつながっているようです。

https://www.nies.go.jp/biodiversity/inva...



お盆、うちの自治会では地蔵盆のお祭りの風習が残っていて、もう子供の数はほとんどないのですが、お地蔵さんのよだれかけを交換したり、ささやかな地域のコミュニケーションの場として活用しています。

当地では子供のうちに亡くなったとか、水子だったというような、夭折した子供を石彫りの地蔵として公民館前におまつりしており、これが20体以上あります。

有志の女性が2年に1度、よだれかけをつくってくれて、ぼくも含めて男衆がよだれかけを交換します。

1体10kgほどと、ほんとうに子供くらいの重さがあるのですが、これをお堂から出して交換して、またお堂に戻すので、汗だくになります(笑)



地蔵盆はご先祖さんの霊が帰ってくる盂蘭盆とは区別されていますが、根っこの部分はおなじ祖霊をおまつりするイベントですね。

地蔵盆は、いつまでも歳を取らない祖霊の子供たちと、地域の子供たちが主役のイベントなんですが、最近はうちの自治会では子供の数が減ってきました。

しかし子供がいなくなればやめるというのではなくて、お地蔵さんの御守をするイベントとして細々とでもやっていこうじゃないかというかたちで話を進めています。

いわゆるお盆よりも後の8月20~30日の間の土曜日に行われることが多いとおもうのですが、これは地蔵菩薩の縁日が24日だからなんだそうです。

そういった自治会の催しとしてのお盆のイベントはやりますが、家でお盆だからといってなにかするかといわれれば、せいぜいお墓参りくらいで、ぼくの場合はそれすら親に任せている現状です(笑)



最後に、いまの政治の「わざわざ恥をさらすような発言や行動をする人が多いのはなぜなんだろう」という件ですが、これはちょっとこじれてるようです。

というのも、たとえば兵庫県の斎藤知事や、安芸高田市長だった石丸伸二、NHK党の立花だとか、あるいは最近だと参政党のような言説もそうですが、一見すると論理性が破綻しているようにみえます。

しかしああいった、庶民の一般感覚とはズレた主張が支持を集めているのはなぜなのか。

これは、「対左翼」ということを軸にするとわかりやすくなります。



これまで弱者の味方を気取りながら、グローバリズムや個人主義を推し進め、巨大な利権を得ていた左翼運動に対して、現代では批判が集まっていて、どこの国でも右傾化が進んでいます。

この左翼嫌悪が民意になっているんですね。

極端な話、左翼をぎゃふんと言わせることができるのであれば、なんだっていい、という状況になってしまっている。

左翼的な論理に巻き込まれるくらいなら、まともな受け答えをしなくていいし、最悪その人の政治手腕がどのようなものであるかも問わない、という有権者が意外と多いんです。

それで、左翼をおちょくるような政治的主張が幅を利かせるようになりましたし、そういった主張がインターネットのSNSを通じて伝播されています。

ともかくなんらかの対立構造をつくって、徹底的に叩きながら成長していくという仕組みです。



もっと広い見方でいえば、左翼でなくてもいいんです。

たとえば社会そのものに不満がある層に向けて、「消費税にムカつきませんか」とやって、消費税を下げようなどといいだす。

実際には消費税は、税金を払っていない人や旅行に来た外国人からもとれる税制なので、これを下げてしまうと、いま日本で税金を支払っている現役労働者にツケがきて、さらに重税が課されるようになってしまいます。

だれにとっても消費税が上がるのは嫌だとおもうんですが、それでも現役労働者の税負担を軽減してやろうということになると、万人からとれる消費税を増やすしかないそうで。

政治家はその点わかっているはずなんですが、なにせ庶民の消費税アレルギーをおもうと、消費税減を叫ぶほうがメリットが大きい。

それで特に野党議員が、無責任に大衆迎合して、消費税減を叫ぶんですね(笑)



「わざわざ恥をさらすような発言や行動をする人」は、意図的に対立構造をつくって、わざと社会を炎上させて衆目をあつめている、といえます。

このやり方が常套手段と化していて、しかも現代の政治運動として成功しているから悩ましいですね。

言い方を変えれば、「悪名は無名に勝る」ということでしょうか。

こういった政治家たちは市民の感情の動き方だけを気にして、むちゃくちゃな主張で市民のイデオロギーを煽りたてて、あとは野となれ山となれですから、まさにポピュリズム(扇動政治)です。



……と、ずいぶんセンシティブなところに話が進んでしまいました。

この話はここでおしまいです。

ギズモさんにおかれましても長い夏でたいへんだとおもいますが、体調管理に気を付けて、なんとか乗り切りましょうね。
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投票所の立会人のお役目、お疲れ様でした。

さぞお疲れになったことと思います。

自治会の会長のお仕事は、伺っている以外にも多くの煩雑なことがあるでしょうが、大きな問題がなく、平穏無事なことが一番ですね。



お返事のお気遣いのないよう、簡単な感想と、雑談です。


司馬さんのいうところの、「場当たり的な、禅的な」、というのは、志士たちの意識がなんとなくですが理解できる気がします。

『葉隠』のわかりやすい翻訳をありがとうございます。

生きる意味より、死ぬ意味のほうに重きをおいたのは、根底に、「恥」というものの捉え方が大きく存在していたのかとも思えます。

また、常に死を思って生きることで、生きることを充実させていたようにも感じました。

命を惜しむという生き方、惜しまずに~という生き方、どちらもそれなりに深い意味がありますね。

農園主さんがお書きになった、「じぶんの生き様が恥にならないように生きて、死ぬ」、このことば、今の政治家に聞かせたいです。

政治に対する思いとは離れたところで、わざわざ恥をさらすような発言や行動をする人が多いのはなぜなんだろうと思います。


生き方、死に方は、時代によって変化するものかもしれませんが、よくも悪くも自分の納得のいく人生を送ることが大切ですね。

後悔のない人生はないと言いますが、時が経って激しい後悔の念がぼんやりとぼやけてきて、あ~~もう、あの時はしょうがなかったしぃ、みたいになんとなく納得し、「まずまずいい人生だったなぁ」と思いながら死んでいけたらなぁ、としょうもないことを考えています(笑)


前にお話したかもしれませんが、私の部屋は西日が素晴らしくよく当たります(笑)

この時期は、夜7時になっても、遮光カーテンを通してさえ明るい日差しを感じます。

そんなわけで、どう頑張っても暑さ&まぶしさで、とてもパソコンの前にいられないのですが、そうも言っていられないので、けっこうな時間を西日の前で過ごします。

クーラーはつけていますが、この時間帯は効き目があまりないため、熱が体内に蓄積されてしまうようで、それが長時間放散されず、いつも軽めの熱中症になっているみたいです。

神経をかなり遣う仕事が終わった翌日から4日ほど頭痛が続き、薬を飲んでも治らなかったのですが、ひどい肩こりもあるので少しつらかったです。

もともと頭痛持ちですが、軽度の熱中症もありそうですね。



一昨日、埼玉県行田市の「古代蓮の里」というところに、蓮の花を見に行きました。

東京の上野の不忍池の蓮とはぜんぜん違い、高さもあり葉も大きいのに驚きました。

HPには、
「行田蓮(古代蓮)」は原始的な形態を持つ1400年から3000年前の蓮であると言われています。古代蓮の里にほど近い公共施設建設の工事の際に、偶然出土した種子が自然発芽し甦り、池に開花しているのが発見されました(昭和48年)。地中深く眠っていた多くの蓮の実が出土し、自然発芽して一斉に開花した事は極めて珍しいと言われています。
と書かれています。


着いたとたん、雷が鳴っていましたが、稲妻が地面まで届いた(落ちた?)のを初めて見ました。

空やビルの合間に光るのはよく見ますが、視界を遮るものがないので、空の高いところから地面に吸い込まれるところまで見えました。

知らないことがまだまだたくさんあってあたりまえなのですが、衝撃的な体験でした(笑)

もうひとつびっくりしたことが。

蓮が咲いている小さな池が点在しているのですが、そこに、それはそれは大きなオタマジャクシが!!

まだ足が出ていないのに(たぶん)、長さが17~18センチくらいありました。

数もものすごいので、これが一斉に蛙になったらどんなことにと思ったら、ゾゾっとしました(笑)


先日ネットで、神奈川県の大船フラワーセンターで「双頭蓮」が咲いた、というニュースを見ました。

50~100年に一度、1本の茎に2つ花が咲くそうで、見ると幸せがくると書かれていました。

調べてみたら、新潟県の高田城址公園や茨城県坂東市でも今年開花したそうですし、毎年どこかで咲いているようなことも書かれていたので、さほどラッキーでもないですね(笑)


古代蓮の里の蓮の葉があまりにも大きく、コロボックルが隠れているように思いました(笑)

よく見れば違いますが、フキの葉っぱとちょっと似ていますよね。




数日前に娘と娘ムコが家に来たのですが、娘ムコに「東京ではお盆はやらないんですか?」と聞かれました。

東京では7月なのですが、お盆飾り(きゅうりやナスなど)や果物をお供えしていなかったので、???と思ったのでしょう(家にお仏壇はありませんが、両親と主人の父親の写真を飾り、お線香をあげ、金剛鈴を鳴らしています)

私が子どもの頃から、家でも近所でもお盆になにかやっているのを見たことがなく、具体的に何をするか、ほとんどわかっていませんでした。

10年ほど前に父が亡くなってからは、スーパーで売っているおがらを買い、ベランダで燃やしてお迎えし、お供え物もしていたのですが、昨年母が亡くなってからやめました。

墓じまいなど、供養の形が変わってきている今、お盆の慣習はだいじなことなので、手を抜かないようにしたいとは思うのですが、あえて迎え火で呼ばなくても勝手に来るはずだし、送り火を焚いても帰ってくれないかも、と思った次第です(笑)


本当にものすごい暑さですが、体調はいかがでしょうか。

体力的にも精神的にもご無理のないよう、充分に気をつけてくださいね。

少し日にちをあけて投稿しましたが、遅くなってごめんなさい(o_ _)o))
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日付の件は不思議でしたが、下書きをこちらで保存されているのですね。

もちろんまったく問題ありません。



今回は、前回の続きのような話なんですが、雑談のような調子になってしまいました。

あまりはっきりした結論に至らないのは前回とおなじです。

ことしは7月になってからもなんとも気忙しい日々が続いており、うまくまとめるための時間と気力が足りないのが悩みです。



水無月の件ですが、もうギズモさんには過分なお心遣いをいただいていますから、これ以上は恐縮でとても受け取れません(笑)

水無月に限らず、ぜひギズモさんとご家族のために楽しんでいただければとおもいます。



幕末の志士は後世に興味があったのか、改めて考えてみたのですが、おそらく現代のような未来予想はしていなかったのではないかとおもいます。

それどころか、まさか明治に入って間もなく、武士の時代が終わってしまうわけです。

当の武士たちが、近いうちに武士の身分を取り上げられてしまう未来を予測できていたら、明治維新は起こるはずがありません(笑)

当時の志士たちの行動原理は、以下のようなものでしょう。

「江戸幕府は見掛け倒しの弱腰で、国内からはまるで商売人のように暴利を貪り、海外からの侵略者にはこびへつらい、じぶんが生きることにばかり汲々としていて、だれも命を懸けない。中枢にいる連中は腐敗しきっている。この状況を変えねばならぬ」

これ以上のことは考えていない……というか、具体的にどう世の中が動くかということは、みんな手探りで、わかっていなかったのだとおもいます。



江戸幕藩体制を終わらせたあと、どのように日本を統治するか、新政府と各藩藩主が集まって、共和制について議論したこともありました。

いまの日本は立憲君主制といって、憲法というルールと天皇という君主のいる国ということですね。

共和制の場合は、君主はおらず、選挙によってえらばれた代表者が国家のトップとなります。

しかしこの議論はたった一度行われただけで、まったく煮詰まることもなく、あっさりと立ち消えになりました。

天皇制を廃止するところまで踏み込むのは、維新の機運の中でも、さすがにできなかった(やる気がなかった)のでしょう。



そのように、江戸から明治になる過渡期においては、なにもかもがふわふわとして定まっていませんでした。

旧幕府軍と新政府軍による戊辰戦争、不平士族が西郷をかついで新政府に立ち向かった西南戦争のような内戦も起こっています。

憲法や法律などのシステムについては西洋の文明を移入することにしよう、という、非常に他力本願なところもありました。

つまり、志士たちの将来をおもう気持ちというのは、明確なビジョンがあったわけでなく、やはり司馬さんが言ったように、場当たり的な、禅的なものだったのではないかとおもいます。

志士たちが、じぶんの命だけを手弁当のようにして参加した明治維新には、「禅的な死」という共通認識があったとおもいます。

では禅的な死とはなにかというと、江戸時代に書かれた『葉隠』における有名な「武士道というは死ぬことと見つけたり」という言葉に集約されます。



この「武士道というは……」の部分には続きがあります。



武士道といふは死ぬことと見つけたり。
二つ二つの場にて、早く死ぬかたに片付くばかりなり。
別に仔細なし。
胸すわつて進むなり。
図に当らぬは犬死などといふ事は、上方風の打ち上りたる武道なるべし。

二つ二つの場にて、図に当るやうにわかることは、及ばざることなり。
我人、生きる方がすきなり。多分すきの方に理が付くべし。
若し図にはづれて生きたらば、腰抜けなり。
この境危うきなり。

図にはづれて死にたらば、犬死気違なり。
恥にはならず。これが武道に丈夫なり。

毎朝毎夕、改めては死に改めては死に、常住死身になりて居る時は、武道に自由を得、一生越度なく、家職を仕果すべきなり。




翻訳すると、以下のようになります。



武士道とはつまり、死ぬことだったのだ。
もしふたつの選択肢があった場合は、早く死ぬほうを選ぶ。
むずかしく考えることはない。
腹を決めてそのようにすればよい。
うまくいかなかったら犬死にではないかというような考えは、まるで商売人が考えそうな打算の武士道である。

ふたつの選択肢があった場合、どちらを選んでどうなるか、わかる人間などいない。
もちろん、じぶんを生きている以上、生きるほうが好きなのは当然だろう。
みんななんだかんだ理由をつけて、生きるほうを選ぶものである。
しかし、生きるほうを選んでその選択が間違っていた場合は、腰抜け、恥さらしではないか。
ここが危なっかしいところなのだ。

もし死ぬほうを選んで、それが間違っていたとしたら。
たしかに犬死にかもしれぬ。
わざわざ死ぬほうを選ぶなど、気ちがいと言われるかもしれぬ。
しかしこの場合、犬死に気ちがいではあっても、恥にはならない。
武士道という点では、それでじゅうぶん立派なのである。

毎朝、毎晩、その都度死の覚悟を定めて、つねに死んだ身となっていれば、命を惜しむ心の束縛から自由を得た状態となる。

そうすれば生涯恥をさらすことなく、お家を守ることができるであろう。



ようするに、命を惜しむな、死を恐れるな、というわけです。

司馬さんはこういった武士道マインドを実践して実際に死んでいった志士に、禅を感じて、しかも疑問におもったんですね。

なぜそんなあっさりと死んでしまうのだろう、と。



『葉隠』を書いたのは佐賀藩の山本常朝という武士でした。

この山本常朝は華蔵庵という僧房で、湛然和尚に教えを受け、42歳で出家します。

山本常朝は60歳で亡くなるのですが、かれが晩年に著したのが『葉隠』でした。

そして常朝に仏道を指南した湛然和尚は曹洞宗だったんです。



ギズモさんも書いておられましたが、曹洞宗は禅宗ですね。

つまり『葉隠』という武士思想の基礎と、禅宗は密接につながっていました。

司馬さんはそのあたりまでわかっていたはずです。

そのうえで、たとえ武士とはいえ、葉隠のように人間があっさり死ぬほうを選ぶというマインドが、やはり納得いかない。

江戸幕府の連中はみな命を惜しんで腐敗政治の中でのんびりやっていました。

維新の志士だけが突然変異のように、社会のために命を惜しまず、当たって砕けてしまうのだから、不思議におもうのも当然です。

だから司馬さんは、「彼らは未来を信じていたのかしら、生まれかわることを信じていたのかしら」と思案したのでしょう。

司馬さんは上方(大阪)の人です。

司馬さんは商売人ではありませんし、太平洋戦争を経験し、「いつでも死ねることだけが特技だ」というくらい腹の決まった人でしたが、それでもおなじ時代の特攻隊の若者たちでも、家族をおもい、生きることへの執着をのぞかせるなど、逡巡する感情の動きがありました。

そういった極限の状況を知っているからこそ、志士が迷いなく死んでいったということがうまく理解できないんですね。



おそらく志士たちの死の心構えとは、以下のようなシンプルなものだったでしょう。

・じぶんの生き様が恥にならないように生きて、死ぬ。
・どのような形になるにせよ、腐敗しきった現状を変える。

それ以上の……たとえばじぶんの死後の安寧を願って念仏をとなえるだとか、ことさら未来に強い希望を抱いたりとか、あるいは生まれ変わったらもっとよい社会になるようにする、というような「じぶんを救うための考え」は、多くの志士にとっては雑音だったのではないかとおもいます。

それで、みんなこの雑音をできるだけ聞かないようにして、やせ我慢を当たり前のものとして、死んでいったのでしょう。



と、2回続けて司馬さんの話になってしまいました(笑)

この話はこのあたりで切り上げます。

おみくじの話なんですが、うちの親は、おみくじにじぶんの生き方が決められたり振り回されるのがイヤだから、という理由で、寺社にお参りしてもおみくじはひきません。

ぼくは、おみくじを引いたじぶんも含めて、運勢という妙なものを受け止めようとおもうので、おみくじに抵抗はありません。

ぼくの場合は、なにかを信じるとか、指針を得るためにおみくじを引くというよりは、じぶんの力ではどうしようもないことがある、ということを確かめるためにおみくじを引きます。

なので、たとえばおみくじを何度もひいて、そのたびにちがう結果が出るとします。

そのような行動をしてしまうじぶんの運命のおかしさも、おみくじの内容が毎回ちがうことの理不尽さも、じぶんの力ではどうしようもないことなので、受け止めるしかありません。

この「じぶんではどうしようもないことを受け止める」という修行のためにおみくじを引いている、という感覚です(笑)



わたくしごとですが、来週は選挙で、ぼくは自治会長の手前、投票所の立会人として、当日はまる一日、14時間ほど拘束されます(笑)

さらにここ最近は近所の陳情を受け付けたり、その対応で神経をすり減らしています。

こういう立場になってみてわかりましたが、自治会長は上座にすわってふんぞり返るというような性質のものではなくて、ムリヤリ上座にすわらされて、やってることは庶務とか、あるいは中間管理職のようなことばかりです。

お金になるわけでもないですし、みんながこの役回りを嫌がる理由もわかるのですが、こういう役回りを負う人がいないと、公共は立ち行かないんですよね。

言い訳がましくなりますが、いましばらく忙しい時期が続くようで、返信ペースが乱れがちになることをご容赦ください。
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【書き足し・お詫び】
「新規に投稿」を押さないで投稿したのかもしれません。投稿日が7月2日になっているのに気がつきました。

記憶が間違っていなければ、7月8日だったかと思います。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

手のケガ、破傷風などの心配がなくて、本当によかったです。

マダニ感染症で死者も出ているそうですが、植物も虫も怖いですね。

外来種のアライグマに付着しているマダニから感染することが多いらしいのですが、都内でアライグマが増加しているようで、最近、家の近所でアライグマが捕獲されたというニュースがありました。


自由意志のお話、非常におもしろいですが、なかなか一筋縄ではいかないテーマだと考えさせられました。

一生懸命考えているのですが、きちんと理解しないまま枝葉が広がってしまい、カオスに陥っています(笑)



遺伝、教育や環境によるプログラムに従わない行動がエラーであり、人間の自由意志だとすると、人生エラーが多いほど、充実しておもしろいのではないかと思ってしまいました。

現状維持(プログラムに従って生きる)もひとつの立派な生き方ですが、変革人生もまた楽しからずや、というところではないかと(笑)

自分で選択したつもりのことでも、それは、実は自分の意志で選んだのではない、という見方もできますね。



幕末の志士たちの行動は、世の中を憂いて、将来的に世の中を変えたいという信念に基づくものだったのでしょうが、自分たちの志が後世にどうひきつがれるのか見てみたいという気持ちが、まったくないはずはないと思えます。

でも彼らはそれを必要としなかったのでしょうね。

漫画『JIN~仁~』のラストでは、龍馬の死後、仁にはなぜか龍馬の声が聞こえ、心(頭)の中で会話ができるようになりますが、仁は龍馬が斬られた場に居たことにより、龍馬の血液や脳髄液を眼球や身体に浴びたので、龍馬の意識が仁の肉体に同居したという筋書きになっています。

龍馬は、「仁と一緒に未来を見てみたい、だから帰れ(仁がいた元の世界)」と言っていたかと思います。

創作なので、実際に未来を見たいと龍馬が言った史実があるのかどうかは不明ですが、あれを読んだ時、現代の日本や世界を見た龍馬はどう思うだろう、と考えたことがありました。

日本や世界の目覚ましい発展に驚くとともに、自分の名が教科書に出てきたり、変わることのない幕末ブームにも、さぞかし目を見張ったと思います。

地動説に魅入られた人たちも、「自分の役割はここまで、あとは後世の人間が受け継ぎ発展させてくれる」という、強い信念のもとに生きて憂いなく死んでいったとすると、幕末の志士たちと共通点があるように思います。



話がずいぶん逸れました(笑)

自由意志のお話は思ったより複雑で、考えが四方八方に散らばってしまい、うまく感想をまとめられず申し訳ありません。

書いては消し、書いては消し、で、結局まとまりませんでした←いつも、ですね(笑)

中でも、頭がぐるぐるしてしまったのは、プログラムで行動していること、それはその人の「運命」で、逆らって生きるのは(エラー)運命を書き換えているのか、あるいはそれも運命なのか、ということでした。



最近、都会からなぜそんなところに?という場所に移り住み、自給自足で暮らす道を選ぶ人たちのことをテレビの番組でよく観ますが、沖縄の離島で原始人的生活をしている方は、それとは違い、現状の変化を嫌ってのことなんですね。

地元のホテルの女将さんの話、「長崎さんはあんな生活をしているけど、話してみると意外にまともで挨拶もする」というのを読み、これはちょっと考えさせられました。

ああいった生活をしていたら、「(少しばかり)頭のおかしい人」と思われることがほとんどなのでしょうね。

信念をもって生きている人とは理解されないことがお気の毒に感じますが、たぶんご本人はぜんぜん気にしていないのでしょう(笑)



ここ数日、楽譜や仕事関係のファイルの断捨離をしていたのですが、仕事のこと・レシピ・ノージャンルの覚え書きを書いているノートも整理してまとめようと四苦八苦していました(笑)

その中に、2年ほど前に若いのに癌で亡くなった奈良のお寺の住職が、SNSで発信していた言葉を、いくつか書きとめてあったものがあります。

・あの世とは思考の世界。思いの数だけ道がある。
・生前、三途の川があると思っていた人には川が用意されていて、死後の世界を考えたことがない人は、真っ暗な道をとぼとぼと行く。

抜粋の走り書きをいくつか読み返してみて、あれ??と思い、調べてみたら、曹洞宗の住職でした。

この方の話は、住職にしては宗教的な押しつけがなく、素直に心にすっと入るものが多かったのですが、禅の教えによるものだったからでしょうか。



水無月の記事を教えていただき、ありがとうございました。

カレーとかパフェとかの食べ歩きを記事にしている人はよく見かけますが、水無月とは!!

なにしろ売る期間が短く、早くても1週間前くらいから、短いと6月30日限定販売のお店も多く、この期間に購入すること自体、難しそうですね。

特長など、よくあれだけ克明に書けるなぁと思いますが、もっと簡潔においしいまずいを述べてほしかったです(笑)



6月30日、以前お話したことがある、埼玉県の「武蔵一之宮氷川神社」の夏越の祓に行ってきました。

この日は、神職さん・巫女さんたちが茅の輪をくぐる神事があります。

暑いので、その日そこに行かなくても近所の氷川神社でくぐってくればいいよね~、と何度も悪魔のささやきが聞こえましたが、結局ちゃんと行きました(笑)

14時開始と聞いていたのですが、15分前に着いてすぐ、社務所から大勢の神職さん、巫女さんがでてきて並びはじめました。

一列になって神橋を渡り、おひとりずつ茅の輪をくぐっていきます。

それが終わってから、参拝者が順番に茅の輪をくぐっていくのですが、すぐに舞殿で大勢の神職による儀式が10分ほど行われました。

それが終わると、また神職さんたちがぞろぞろと拝殿まで歩き、3分ほどの短い神事がありました。

夏越の祓の茅の輪くぐりはここ数年毎年やっていますが、神事は初めて拝見しました。

やはり神事というのは、感動しますね。

かなりの人が来ていましたが、隣にいた50代くらいの女性ふたりが(神事を知らず来たのが話の様子でわかりました)、ず~~っと、「来てよかったね!! ほんとによかったね~~~!」と何度も話していました。



このお参りのことを言いたかったわけではなかったのですが(笑)

神社の近くの西武そごうデパートで、「京都 五建外郎」というお店が期間限定で出店しており、水無月を販売していたので、電話で取り置きをお願いしておき、帰りに買ってきました。

他のお店、鶴屋吉信などは、日持ちが当日中なのですが、五建外郎の水無月は真空パックで8日間日持ちするというので、農園主さんに1パック(4切れ)お送りしようと思いまして。

ところが、帰ってから食べてみたところ、とてもとても召し上がっていただけるような味ではなかったので、申し訳ありませんが取りやめました。

外郎専門店ということですので、絶対おいしいと思ったのに・・・・。

真空パックなので味が落ちるのかもしれませんね。


猛烈な暑さが続いていますが、熱中症にならないよう、充分にお気をつけくださいね。



【書き足し】

武蔵一之宮氷川神社でおみくじを引きましたが(箱に手を入れて紙のおみくじを取るタイプ)、「平(たいら)」でした。

「心に苦労がたえない兆(うらかた)なり」と書かれており、そのあとに「自分のおこないしだいで良くも悪くもなるなり」とあって、そりゃ誰だってそうだよね、と思いました(笑)

ここのおみくじは、

大吉>吉>吉平>小吉>末吉>平吉>平>凶向吉>凶末吉>初凶末吉>吉凶末分>吉凶相交>凶 の順番です。

おみくじは予言ではないので、必ずそのとおりになるわけではないし、いいことも悪いことも書かれていますが、誰でも「大吉」が出ればうれしいものです。

「平」で帰るのはどうにも納得できなかったので(笑)、筒を振って番号が書かれている竹の棒を引きだす方のおみくじを引いたら「末吉」でした。

内容的には「平」も「末吉」も似たようなものでしたが、心も落ち着いたし、微力ながら神社の売り上げに貢献したし(笑)、いい気分で帰ってきた、というわけでした。
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あらためて、先日はどうもありがとうございました。

あと、おかげさまで手の腫れは落ち着きました。

心配していた破傷風や、炎症がひどくなるといった症状はいまのところなく、落ち着いています。

ギズモさんに、誕生日を境に厄落としだとおっしゃっていただいて、なるほどそうかもしれないとおもえました。

ものごとにはバイオリズムのような波があって、よいことも長く続くものではないし、わるいこともおなじですね。

あるタイミングをきっかけに、続いていたわるいことが底をついて、好転していくことはよくありますし、ぼちぼちそういうタイミングとおもいたいところでもあります(笑)

末吉は「上がり目」ですから、そこからは上がっていく運勢ですしね。



ところで先日、夏越の祓での和菓子、水無月の話題をいただきましたが、こんなブログ記事がありました。

https://note.com/rakusaku/n/n196c96a6682...

なかなかこんなことをしている方はめずらしいとおもうのですが、水無月を食べ比べしておられます。

ギズモさんのおっしゃっていたとらやと俵屋吉富もレビューされていました。

特にそこから広げていくような話でもないのですが、ういろうに小豆という単純な和菓子にこれほどいろんな種類とこだわりがあるのを実際に知ると、あらためて驚きます。



肉体内の細胞にも意志があるのかという件ですが、細胞には役割のプログラムはあるとおもうのですが、人間のような複合的な意志はないとおもいます。

しかし人間自体にも、自由意志はないという説があります。

つまり、遺伝や外界の教育などの刺激によって、じぶんの行動が決定されるだけで、じぶん個人の自由な意志というものは存在しないというのです。



もしそうであれば、人間もまた最初のプログラム(遺伝)と、後から書き換えられたプログラム(教育や環境)で行動しているといえます。

そして細胞がエラーを出すことがあるように、人間もやはり、プログラムに必ずしも従わず、エラーをだすことがあります。

陰謀論にひっかかったり、イデオロギーに傾倒したり、カラダが病気になっても病気ではないと信じ込んだり……。

ぼくは、あるいはこのエラー(プログラムに従わない行動)こそが、人間の自由意志なのではないかとおもっています。



ところでつい最近「チ。」というアニメをみました。

いまはアベマで最終話まで全話みられるんですが、おもしろいものでした。

どういう話かというと、中近世(15世紀)のヨーロッパが舞台です。

日本だとまだ戦国時代になるより前の室町時代。コロンブスがアメリカ大陸を発見する大航海時代よりもすこし前といったところです。

金儲けを肯定するプロテスタントが生まれるよりも前ですね。

地動説を取り締まる異端審問官と、審問官たちに殺されながらも地動説の情報をつないでいく人々の物語です。

主人公は複数登場するのですが、ほんの数話の間でどんどん死んでいきます。

しかしみんな、地動説に魅入られて、この説が後世につながっていくことを信じて、じつにいさぎよく死んでしまうのです。

「知らないことを一生懸命知ろうとしても、生きている間に、いったいどのくらいのことを知ることができるのか・・・・。」

あの作品には、ギズモさんの問いかけに対するひとつの答えがあるような気がしました。

つまり、あの作品で地動説に魅入られた者たちは、結局コペルニクスが世界の認知を変える現場を知らないまま死んでいきます。

地動説という、あくまで真実のとっかかりのようなものに触れただけで、あとはそれをどうにかしてつないでいくのがじぶんの役割だといって、それがどのように発展していったかという歴史の真実は知らないのです。



われわれもおそらく、こんなに情報過多の時代ですが、ほとんど「なにも知らないまま」死んでいくことでしょう。

それで、じぶんの人生で得られた知恵を、次世代が引き継いでくれます。

人間の文明というのは、つねにあたらしい世代が前の世代の屍を越えていくようにしてリレーを繰り返し、発展しています。

でもこの発展はさっき言った、人間のエラーだとおもいます。

人間は本来は、遺伝と教育によって、前の世代とおなじようにして生きているべき生き物です。

生存できるかどうかという視点でみれば、現状が変わらないほうがよくて、変革は起こらないほうがいいんですよね。

だから、エラーのない生き方という意味では、異端審問官のほうがよっぽどまともです。

科学的真実がどうであろうと、じぶんに授かった肉体と、先人に教わった知恵の中に生きていくのは、おかしなことではありません。

でもエラーこそが人間の自由意志という意味では、異端審問官の生き方には自由意志がありません。



いま、司馬遼太郎とドナルド・キーンの対談の本が手元にあります。

『日本人と日本文化』というタイトルです。

その中に、禅について対談しているときに、司馬さんがふと明治の志士の死に方について話すんです。

その部分をすこし引用します。



司馬 日本人の場合は、いろんな宗教が入ってきたわけですが、日本人にいちばんうまく適合した宗教は、これもほんとうの禅とどれだけ関係があるかどうかは別として、私は禅だと思います。禅は日本人とウマが合ったという感じです。(中略)直感的なところとか、煩瑣な理屈がないということがひじょうによかったんでしょうね。たとえば、幕末の志士などは、平気で死んでしまって、お念仏のひとつも唱えないのかしらと私はときどき思うのです。彼らは未来を信じていたのかしら、生まれかわることを信じていたのかしらと、いろいろ思うのですけれど、彼らは別にそれを思って死んだのではありませんね。どうもあのころになると、禅というものはずいぶん武士の心の中に入っていたらしい。アッという間に空に帰することができるような人間がずいぶんといたらしい。



禅宗は思想面でいえばシンプルな宗教で、人間に優劣をつけません。

仏さんが上で人間が下、というようなこともしないんですね。

それで、人間の中に仏性が宿っているというんです。

じぶんの内にある仏性を悟ろうと修行して、あとはひたすら生活を突き詰めます。

生活が「完璧に調和する」ところを目指すところから、日本に到来した禅宗は、あのシンプルで無駄がない東山文化のような禅芸術にむすびつきました。

禅寺では食事作法や掃除の仕方などが、異様なほど厳しいものになっています。

そうやって生活を研ぎ澄ましていくと、死さえも洗練された簡素さで受け止めてしまう……と、まあ現実離れした考えですが、そのあたりの恬淡とした死への態度を、司馬さんは明治維新の志士にたとえたのでしょう。



この明治維新の志士たちは、みんなあまりじぶんの命に執着せず、それぞれの立場で日本の将来を憂いていました。

もし名を成さずに死ぬとしても、じぶんの生き方が次の世代になにかしらのバトンを渡す、時代の礎になるだろうという、そういうぼんやりした理念だけを懐に抱えて、その時代を生きて、死ぬにしても満足して死んでいったのだとおもいます。

明治維新の志士たちの行動は、変革を求めるものなので、エラーなわけですが、同時に非常に魅力的な自由意志によって活躍していたのだとおもいます。



そのように考えていくと、ほとんどの人々は、すべてを知りたい、すべてを為したいと願い、自由意志に向かっていくのですが、いまだだれもすべてを為すことも知ることもできませんし、われわれはみな道半ばに死んでいく仲間なのかもしれません。

ごく一部には、自由意志を求めず、現状が変化することを嫌い、原始人のようにして暮らすことを望む人もいます。

沖縄の離島で、裸で採集生活をしながら生活し続ける日本人の老人がいたのをテレビでみたことがあります。

調べてみたら長崎真砂弓という人らしいのですが、ああいう暮らしは現代人がそうそうできるものではないですね。

実際、以下の記事のように、ああいう原始的な生き方を文明人の側が許さない、という側面もあるようです。

https://www.dailyshincho.jp/article/2015...



なんだか尻切れトンボのような終わり方になりますが、この話はいったんここで終わりにしておきます。

ぬか漬け、いまの時期から始めると、夏野菜から冬野菜までゆっくり楽しめますね。

ひとり暮らしだとぬか漬けは持て余してしまうのでつくりませんが、家族で食事のたびに季節の野菜のぬか漬けをおかずの一品にする、ということができれば、続けられそうな気がします。

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