山麓王国

2026年の投稿19件]

2026年3月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する

Icon of gizumo
こんばんは。

スギ花粉の時期に入った頃、今年の花粉は例年の3倍だと、ジャガー横田の旦那さんで医師の木下氏が言っていたので(ネットの記事)、ドキドキしていました。

ところが、最初の頃は目のかゆみがひどかったのですが、その後落ち着いていて、むしろ例年より軽いかもしれません。

薬を飲んでもけっこう大変な年もありますが、この分でいけば楽勝かな、とすっかり気を緩めています(笑)

とは言え、スギがピークアウトしても、ヒノキもあるので、例年はゴールデンウイークあたりまで四苦八苦します。

先日、60才くらいになったら花粉症が治ったという女性の話を聞いたので、まだ先ですが、その情報に一縷の望みをかけてみます(笑)



伊勢うどんは、どこかのお店のメニューで見たことはあるのですが、食べたことはありません。

たまり醤油のような濃口醤油をかけたものかと思っていましたが、甘さもあるんですね。

お醤油をおいしく召し上がっていただき、なによりです。



司馬遼太郎さんのお話は、私もシンクロニシティ、五次元の介入、そして、何らかの意思が働いていると感じます。

司馬さん本人ということもあるでしょうが、司馬さんの守護霊だった人たちが次の逸材を見つけ、農園主さんが感じたように、「あんたもええかげん、なにか世に問うたらどないや」、さらには「あんたならできるやろ?」と、働きかけているように思います。

これは荒唐無稽な想像ではなく、見えないなにかがさりげない形で、気づかせてくれて、後押ししてくれているのではないでしょうか。

司馬さんがやり残したことを、伝えたいのかもしれませんね。

偶然と思ってスルーしてしまう人は、そこでおしまいでなんの進展も望めませんが、気づいたことにより意識が変わり、いろいろなことがブラッシュアップする転機となる人もいます。

ぜひ、司馬さん&守護霊さんたちの激励を受け止め、為すべきことを進めてください。

的確な表現でなかったら申し訳ないのですが、農園主さんは、パラダイムシフターだと思っています。

また、農園主さんの今までのお話から、司馬さんは、ずいぶん多くのことに興味を持ち、造詣が深かったことを知りました。



今回、Amazonのfireタブレットを立ち上げようと思った理由と、その中に『木曜島の夜会』があったことは、まったく別のことなのに、不思議なつながりがあったことに、私も驚いています。

書名だけ見ても熊野が出てくるとは思えないし、読まないという可能性も大きかったように思えます。

「タブレット、見てみぃ」という司馬さんのテレパシーかもしれませんね。

「木曜島」という島を知りませんでした。

真珠貝の貝殻で作られたボタンがどういうものか調べてみたのですが、子どもの頃に、ワイシャツや婦人服についているのを見ていました。

ボタンを無くした時に使うための「ボタンの箱」なるものが、どこの家庭にもあったように思います。

皮でできたボタン、木のボタン(ダッフルコートについてるみたいな)など、いろいろなボタンがありましたが、その中に、真珠貝の貝殻から作ったと思える、光沢がきれいなボタンもありました。

時々その箱で遊んでいたので、とても懐かしく思い出しました。



海人族についてのお話をありがとうございます。

日本は海に囲まれている場所が多いので、海辺に住む人々は誰でも泳ぎに長け、海に潜れるという思い込みがありました。

また、真珠は鳥羽の海女さんのイメージが強かったので、「死の危険がつきまとう過酷な仕事」とは??と思い、木曜島の海が危険なのかと調べてみて驚きました。

https://www.au.emb-japan.go.jp/files/100...

真鍮製のヘルメットに潜水服、激しい潮流、サイクロンにサメ・・・・。

危険極まりない仕事だったんですね。

この大変な仕事が、後年、真珠の養殖につながったことは、日本の大偉業のひとつだと思います。

女性は、冠婚葬祭で真珠をつける場面が多いので、誰でも真珠のネックレスは持っているはずですが、本物とも限らないですね。

真珠は極めて真贋がわかりにくいもので、じ~~っと見ただけでは本物か偽物かわかるはずがないそうで、質屋さんが一番苦労するのが真珠の見定めだそうです(笑)

ご存じのことで申し訳ありませんが、モーパッサンの『首飾り』は、ダイヤモンドのネックレスとして書かれていたのに、他の国などで映画や小説になると、「真珠の首飾り」とされることが多くなりました。

サマセット・モームの小説で、モーパッサンの『首飾り』をモチーフにした『物知り博士』がありますが、真珠が本物かどうかを見分けて、賭けをする話です。

その当時も見分けがつきにくい偽物があったということがわかります。

現代では、本当に見分けがつかない、品質のいいプラスチックのものが安価で気軽に買えるので、わざわざ高価な本物を買う必要もないと思います。

男性も、葬儀などで真珠のタイピンをしていたように思いますが、今はどうなのでしょう。

そもそも、冠婚葬祭で真珠をつけるという慣習が始まったのは、1965年あたりだと言いますが、バレンタインのチョコレートのように、真珠業界のプッシュが強かったのかもしれませんね(笑)

やはり真珠は、特に女性にとっては特別のものだと思うので、農園主さんが教えてくださった、熊野のダイバーの方々に感謝したいと思います。



インドシナ系の人々が船で日本に来て、沿岸を支配し自治した。少彦名はインドシナの医学を日本に持ち込んだ。

インドシナの影響がずいぶんと大きかったこと、海人族の活躍が目覚ましかったことが、よくわかりました。

「ヒコ」という名前、古代においては「海や川に関わる者」ということがわかると、「ヒコ」がつく人の人物像が捉えやすくなってきますね。

以前の記事の、『「耳」は地域を束ねる首長をあらわす』のように、「ヒコ」は海や船、漁業などを支配する人々の名前につけたようにも思えます。

また、関連はないのかもしれませんが、「ヒ」と「コ」で、卑弥呼を連想してしまいます。



当時の年貢の納め方の推移について、具体的でわかりやすい説明をありがとうございます。

お米であれ、現金であれ、相当厳しかったのですね。

お金を得るための選択肢は、地域やそれまでの暮らしにより大きく差があるのかもしれませんが、木曜島の話は、命懸けでも現金を得るための仕事があったことを、よかった、と安易に言えないように思います。



熊野権現は、本当に奥が深いですね。

由来がシンプルな自然崇拝の神々のままであれば、神様たちも人間も、双方まるく収まっていたと思うのですが(笑)

本地垂迹も、結局は人間の都合で生まれたものと思うので、そうしないといけなかった時代が終われば、もとに戻してもいいような気がします(笑)

徳川家康が権現さまというのは、前々から納得がいかないことでした(笑)

菅原道真や乃木神社のように、人間が死んで、神様として祀られたいうことでよかったのでは、とという、単純な話で良かったと思います。

最初から神様だった神と、人間が神様になったのでは、どうしても違いを感じてしまいます(書き足し):が、人間を神として祀ったのは人間だし、権現としたのも人間なので、そこに正しさを求めたらだめですね(笑)



前回の、皇室の先祖がイザナギ・イザナミというお話は、とても納得できることでした。

しかしその後、では皇室以外の日本人の先祖もイザナギ、イザナミと言えるのではないだろうか?と考えてしまいました(笑)←もちろん、農園主さんに反論しているわけではありません。

イザナギ・イザナミ以降、複雑になってくるので、例えば徳川家などが本家と分家に枝分かれしているような感じなのではと思います。

西洋では、最初はアダムとイブだったらしいので、これをイザナギ・イザナミに置きかえてもいいのかな、と、どうでもいいようなことを考えました(笑)



ところで、↓のネットニュースをお読みになりましたか?

https://news.yahoo.co.jp/articles/f062fa...

男性や女性の奴婢100人あまりが順葬されたという話は読んだことがありますが、これひとつとっても、やはり中国の神仙思想、道教から来ていますね。

そして、このニュースでさらに、卑弥呼は主に道教を主体にしていたのではと思いました。

アマテラスが卑弥呼だとすると、伊勢神宮の鏡も、道教からきたものでは?と考えてみたりしましたが、私の場合、根拠のない想像です(笑)



あっという間に桜がほぼ満開になりました🌸

卒業式の写真を桜の前で撮る学校が多くなり、桜イコール入学式のイメージはなくなりましたね。

♪春は名のみの 風の寒さや(早春賦)♪

朝晩の気温差がずいぶんあるので、気をつけてお過ごしください。
Icon of nouennushi
こんばんは。

今回はまとまった考察はせずに、雑談をしようとおもっていたんですが、結局いろいろ書いてしまいました(笑)



前々回、ギズモさんが花粉症のお話をされていましたが、当地よりずいぶん早い印象で、わたしは2月にはまだ症状らしい症状がありませんでした。

それで花粉症の地域差について調べてみたのですが、太平洋側と日本海側だと、太平洋側のほうが春は早く訪れるようですね。

また都市部のほうがヒートアイランド現象や、排気ガスと結合するなどで、花粉症は強く出るようです。

もちろん田舎は杉山や檜山が近くにあるので、結局症状が強く出るのはおなじだとおもいますが(笑)



ところで、熊野について番外編の話があります。

以前にも話したことがあるような気がするのですが、きみょうな偶然というか、不思議な体験です。



わたしはギズモさんと歴史のお話しをするようになってから、どうも司馬遼太郎さんがちょくちょく様子をうかがっているような気がしてなりません。

もちろん司馬さんの肉体は消滅しているわけですが、どこかから「いまのあんたはこれを読まんとアカン」といって、作品を差し出してくれているような気がするのです。

『この国のかたち』というエッセイ集をトイレ読書している間、ギズモさんと歴史の話をしていると、作品の中でその話題が出てくることは一度や二度ではなく、ほとんど毎回なにかしら接点が出てくるのでした。

こちらが話題にしたことが、あとから司馬さんの作品の中に出てくるのです。



もちろん、わたしが司馬さんの作品を読むときに、わざわざ接点を探して関連付けている可能性はあります。

しかしそれにしたって、頻度が多い。

わたしは読書家でもなく、一日に数ページ~数十ページほど、トイレや風呂といったついでになんらかの本を読んでいる程度です。

ここ数年は司馬さんの作品が多いのですが、いまは平岩弓枝さんの西遊記全4巻を数か月かけて読んでいます。

平岩さんの作品からはこちらの話題にシンクロするようなことはありません。



で、つい数日前、何年かぶりにAmazonのfireタブレットを充電して立ち上げました。

もはやパスワードも忘れていて難儀したのですが、なんとかおもいだして中に入ると、以前購入して読まずじまいになっていた、司馬さんの『木曜島の夜会』の電子書籍があったのです。



なんとなく、風呂読書をしてみようとおもいました。

わたしは老眼鏡がないと本が読めないのですが、電子書籍であればフォントを大きくできるので、入浴中でも読書ができます。

読み進めていくと、なんとこれが熊野の話でした。

ちょうど紀州や熊野について調べて、前回ギズモさんに返信したあとです。

『木曜島の夜会』というタイトルからまさか熊野が出てくるとはおもいもしませんでした。



司馬さんで熊野が出てくる作品を検索すると、『街道をゆく』が出てくるばかりです。

司馬さんの作品にどれだけ熊野が出てくるかわからないんですが、木曜島の夜会にあたったのは相当な偶然でした。



すこし、わたしなりの解説も加えながら木曜島の話をします。

木曜島はオーストラリア領の小さな島で、明治時代から戦後まで、熊野の人々を中心に貝を収穫していました。

真珠貝(南洋真珠)なんですが、当時は真珠も貝肉もおまけみたいなもので、衣服のボタンをつくるのに貝殻が高級品として重宝されたのです。

海に潜ることをいとわない適性が求められ、死の危険がつきまとう過酷な仕事なんですが、高給が得られることもあり、当時は熊野(串本町)の人々が多く木曜島に渡ってダイバーになりました。



なぜ熊野なのか、そのルーツをたどると、紀州の海人族に行き着くといいます。

司馬さんによると、海人族としての紀州人の性質が、明治に入って、木曜島のダイバーの適性としてあらわれた、というわけです。



しかし海人族は全国に分布していました。

日本の海岸沿いであればどこでもよさそうなものですが、熊野の海人族は神武水軍以来の筋金入りです。

また明治に入ったばかりの熊野では、ともかくお金が必要でした。

明治政府が、これまで認められていた米納を、すべて金納にするように統制したからです。



それまでお金の必要がなかった農民は困り果てて、その地域で現金商売をしていた人に田んぼを管理してもらい、みずから小作人になりました。

小作人は地主の奴隷のようなものですが、それでも望んで小作になったのは、これまでどおり百姓をして地主に年貢を出していれば、地主がその米で金を得て、税を立て替えてくれるからです。

ちなみに紀州と年貢の関係については、「八公二民」というすさまじい税率が有名です。



紀州藩は徳川吉宗の時代に、藩が百姓のつくった米を8割持っていき、百姓に2割残しました。

すなわち八公二民。

これはいくらなんでもムチャな税率です。

江戸幕府の天領では飢饉の折でも四公六民を堅持していました。



宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」では、一日に玄米四合を食べるという記述があります。

玄米四合でおよそ2000kcalですから、米だけ食べていた時代であれば、それくらい食べてようやく人心地がつくくらいの量でしょう。

四合は600g。

これを一年毎日食べたとしたら、約220kg必要です。



むかしは3反の田んぼで米を作って、おおむね1トンの収穫でした。

人力で3反の田んぼを維持しようとすれば、家族が総出で必死にやらねばなりません。

このうち800kgを藩が持っていってしまえば、残りは200kg。

子供と親を含めて家族が10人いたら、ひとり一年に20㎏しか米を食べることができません。



20㎏なんて、年を越すこともできないような量ですね。

おそらく当時の紀州の農民は、ほんの少量の米に雑穀やイモ、菜っ葉や雑草を混ぜた雑炊を常食して、命をつないでいたのでしょう。



明治維新の際にも、危急存亡であるとのことで八公二民が復活します。

このときはさすがに百姓の不満が爆発して一揆が起こり、藩はこれをなんとか鎮圧したものの、増税の撤回と税率の引き下げの要求を飲まざるを得ませんでした。

そして明治維新以降、税が米納から金納に切り替わります。

税率は「地価の3%」でした。



これがどれくらいの税率かというと、天領の四公六民を参考にしたもので、平均収穫量の半分ほどが税に持っていかれるくらいだったといいます。

半分なら、八公二民よりマシだとおもわれるかもしれません。

しかし地価の3%は固定なので、不作でお米がほとんど穫れない年でも、税は「地価の3%ぶんをきっちり払え」ということになってしまったのです。



熊野のような山深い地域で、現金を得るのはたいへんなこと……というより、ほとんど無理なことでした。

なにせ資本主義をするにも産業がなく、地理的に孤立しています。

水産業にしたって、魚を売るにも交通網が発達していません。

そこへ西洋から、木曜島で貝殻を集める、お金のもうかるきみょうで危険な職業がやってきたそうな。

西洋の人々も、木曜島の貝に目をつけたはいいものの、ダイバーになれる人を探すのに苦労していました。



なにせまだ世界中で資本主義が行き届いていない時代ですから、お金のために命を懸ける人が少なかったのです。

オーストラリアの現地人(アボリジニ)はお金に興味がありませんでした。

中国人はこの仕事を嫌がり、西洋人はこの仕事に向いておらず、といった具合で、お金に飢えていて海に潜るのが得意だった熊野の人々は、この仕事にうってつけだったのです。



最盛期、木曜島のダイバーの8割が、熊野人だったといいます。

しかしこの仕事は極めて危険で死と隣り合わせだったうえ、貝ボタンの需要は戦後プラスチックが流通すると急速にすたれました。

ちなみに現在、和歌山の串本から三重県の鳥羽は真珠の養殖の先進地ですが、これは木曜島のダイバーたちの知見が生かされてできた産業です。



なぜ司馬さんがわたしたちの会話にさりげなく入ってこられるのか、理由はわからないんですが、ほとんどの場合、こちらの知りたいことを掘り下げてくるような刺激を与えてくれます。

今回にしても、海人族というキーワードから思考のとっかかりをいただきました。

これを、たんなる偶然と考えるべきか、あるいは以前お話したような「五次元の介入」と考えるべきか。

なんだか結局バカバカしい話なんですが、わたし自身は司馬さんに「あんたもええかげん、なにか世に問うたらどないや」とお尻を叩かれているような気もしているのです(笑)



海人族について、お話しします。

海人族は当時の日本各地の川や海を支配した者たちで、それぞれ独立した存在でした。

いまでも日本の各海や川で、独立した漁業権がありますが、いにしえの海人族も各地の海を自治していたんですね。

かれらのルーツをたどると、インドシナ系の人々が船で日本に渡来してきたところからくるといわれます。

船をつくる技術を持った者が日本にきて、その沿岸を支配して自治した、というわけですね。



神武と対立したナガスネヒコも海人族とのつながりが指摘されています。

すねの長い人という、きわめて特徴的な名前ですが、それはかれの体型が当時としては日本人離れした、インドシナ系の系譜だったことをあらわすのかもしれません。



さて、重要な余談なんですが、古代の名前に「ヒコ(彦・毘古など)」がつくケースがあるでしょう。

このルーツをたどっていくと、どうも海人族につながっていくようなのです。



日本の地名に「我孫子(あびこ)」があります。

これは古くは「阿毘古」とも書かれました。

この毘古は、たとえば「少名毘古那」「猿田毘古」とあるように、人名にもつかわれる言葉なんですね。



我孫子の語源のひとつは、網曳(あびき)が転じたものだといいます。

網を曳く者、つまり漁師。



大阪の天王寺の南側にも我孫子がありますが、いまでこそ都市部で周囲一帯アスファルトと建物に覆われているものの、ここは海運をつかさどる住吉大社の近くで……ようするに大昔はここから西は一面の海でした。

また千葉県の我孫子市は、海には面していませんが、南の手賀沼、北の利根川にはさまれる形で、おそらくその地の産業として漁業があったことでしょう。

つまり古代におけるヒコという名前には、海や川に関わる者というニュアンスがあるようなのです。



すべてがパターンに当てはまるわけではないものの、そのように考えるととてもおもしろいことがわかります。

猿田彦、少彦名、クエビコ、ナガスネヒコ……。

神武天皇も諱(いみな)は「神日本磐余彦天皇」で、彦が入りますね。



ちなみに天皇の諱は、14代仲哀天皇まで、ずっとヒコの名が入ります。

饒速日やニニギノミコト、山幸彦やウガヤフキアエズにも諱にヒコが入ります。



しかし欠史八代以降は彦がついても、あまり海人族のニュアンスが感じられません。

現代では名前に彦がついても、べつに水を連想することはないですね。

おそらく古代の間に、徐々にヒコという名前が、男性をあらわすだけの記号に変わっていったのではないかとおもいます。



少彦名が天乃羅摩船でやってきたというのは、インドシナの医学や農学の知識をもった者が船で日本にやってきて、出雲やヤマトで重宝されたのかもしれません。

猿田彦は海人族のネットワークから外れた海賊のような存在で、日本の海のことをよく知っており、ニニギを高千穂に連れてきたのかもしれません。

と、想像がどんどん広がりますが、このあたりにして話を戻しましょう。



神武天皇ははじめて近畿へ向かったにもかかわらず、浪速で敗戦したあと、紀州をぐるっと回り込んで新宮に上陸しました。

神武軍がなぜそんな戦略をおもいついたのか不思議だったのですが、おそらくその地の水運を理解していた海人族が、神武軍を先導していたのでしょう。



神話では、神武には3人の兄がいました。

彦五瀬命(ヒコイツセノミコト)、稲飯命(イナイノミコト)、三毛入野命(ミケイリノノミコト)です。



彦五瀬命は東遷のさなかにナガスネヒコの矢を受けて薨去しました。

彦五瀬命という名前にも、瀬が含まれるあたりに海との関係を感じますが、穀物と食料の神とも解釈されているそうです。



稲飯命は熊野で嵐にあった際、「じぶんの母は海の神であるのに、なぜこんな目にあうのか」と嘆いたあと、海に入って鋤持神(サイモチノカミ)になったといわれます。

母が海の神というのは、父のウガヤフキアエズの妻が玉依姫で、ワタツミの娘だったからです。

稲飯命も、海との関係が強いですが、名前はやはり稲と飯で、穀物と食料ですね。

入水して神になったのは、やはり死を意味するのかもしれません。



さらに三毛入野命も同様に、熊野へ向かう嵐の中で嘆いたあと、荒波を渡って常世の国へ渡ります。

ちなみに古代、ケという言葉は穀物や食料をあらわしました。

気比神宮(けひじんぐう)のケも穀物と食料をあらわし、外宮の祭神である豊受大神(トヨウケ)のケも、食料と穀物をさしますね。

神武天皇も「若御毛沼命」と呼ばれたりしますから、やはり食物と穀物をつかさどっています。



ようするに神武の兄弟はみな熊野の海と強い関係性があり、熊野の海で亡くなり、かつ穀物と食料に関係のある神でした。

しかしこの三柱の神を実際の神武の兄と考えるべきかは、むずかしいところです。



神武以外、兄弟全員熊野へ行く船で薨去していることを、どう考えるべきでしょうか。

なぜ兄弟の中で神武だけが嵐の中で生き延びることができたのでしょう。



さらに、浪速でナガスネヒコに敗戦したとき、なぜ神武が陣頭指揮をとっていたのでしょう。

「日の御子であるわたしが、太陽ののぼる東にむけて矢を放ったのが敗因だった。天神地祇(天神族と国つ神)をまつり、西へ回り込もう」

と言ったとき、長兄の彦五瀬命は矢を受けて重傷ではありましたが、まだ生きていました。

ほかのふたりの兄も健在です。

なぜ末弟の神武が、もう王になったつもりで話をしているのでしょうか。



この点疑問は残るのですが、いずれにせよ、東遷に海人族が大勢かかわっており、陣頭指揮をとれる人間も神武を含め、複数いたのでしょう。



そのように考えると、神武軍は相当な大船団でした。

そして浪速で敗戦したあと、熊野上陸までの間にかなり数を減らし、陣頭指揮がとれる人間も減ってしまいました。

あるいは紀ノ川沿いにいた名草戸畔(ナグサトベ)、熊野にいた丹敷戸畔(ニシキノトベ)といった女首長を退治したというのは、神武軍の略奪行為だったのかもしれません。



さて、油断するとどんどん長くなりそうなので、今回はこのへんで切り上げましょう(笑)



ギズモさんから熊野権現についてのご質問をいただきましたが、おっしゃるように熊野の縁起は熊野権現でいよいよややこしくなりました。

そしてギズモさんが冒頭で書かれていたように、多くの人はこのややこしい縁起に、ふつうの寺社には感じない妖しい雰囲気を感じ、威容に打たれたのでしょう。



たとえば熊野三社の神はそれぞれ、

家津美御子大神(ケツミミコオオカミ)(阿弥陀如来)

速玉大神(ハヤタマオオカミ)(薬師如来)

牟須美大神・夫須美大神(ムスビオオカミ・フスミオオカミ)(千手観音)

です。



これらの神々は、記紀にはありません。

つまり、熊野で独自に信仰されていた大神でした。

その名前はそれぞれ、その後の縁起のややこしさを考えると、あまりにもシンプルなものです。



ケツミミコというのは、ケが入るので、食べ物の神ですね。

ちなみにケは、毛です。

ようするに「生えてくるもの」で、植物や木々という意味でした。

野菜や果樹が生えているということと、それらが食べ物になるということが、「ケ」のひと言に集約されているんですね。

熊野の大地に生える豊かで美しい食べ物を司る御子として、ケツミミコです。



速玉というのは、イザナギの吐いた唾から生まれた速玉男命からきています。

唾液というので、直感的に汚いとおもうかもしれません。

が、この場合は真逆で、勢いよく放たれた神聖な水がけがれを祓うということで、水神、海神としての性質をもちます。

速玉大神は熊野の海や川の水神でした。



牟須美大神は、「むすび」とありますが、これはものごとの始まりを意味します。

夫須美大神も言葉は違いますが、おなじ「むすぶ」という意味です。

牟須美大神は、あらゆる魂を生み出す熊野の大地をつかさどる神ということになるのでしょう。



これら非常にシンプルな由来をもつ自然崇拝の神々が、後世に熊野権現として、阿弥陀如来や薬師如来、千手観音と合一しました。

ちなみに本地垂迹とは、仏教の仏(本地)が、日本神話の神の姿を借りてあらわれる(垂迹)ことです。

そして、この仏が姿をあらわして、権現になります。

徳川家康も権現扱いされましたが、あれは家康が人の姿を借りて垂迹していたけれど、その本地は東照大権現であった、という物語ですね。



明治新政府が目の敵にしたのが、権現と牛頭天王でした。

なぜかというと、朝廷をないがしろにして、圧政を敷いてきた徳川が権現を名乗っていたのも気に入らないし、神道を原理主義的にとらえたら、神仏習合はもってのほかだったからです。

このため牛頭天王はスサノオに姿を変え、祇園社は八坂神社になりましたし、各地の権現は日本の神々の神号があらためて与えられたのです。



しかし皮肉なことに、東照大権現に関しては、東照社が東照宮に改められはしたものの、祭神が徳川家康という実際上の人物であるために、あらためて神の名を与えるわけにもいかず、東照大権現もそのままになってしまいました。

いわばこの家康を排除するのが目的だったはずなのですが、明治政府はこの本丸を生き延びさせてしまうんですね(笑)



それはともかく、熊野三社についても、

家津美御子大神(ケツミミコオオカミ)(阿弥陀如来)→スサノオノミコト

速玉大神(ハヤタマオオカミ)(薬師如来)→イザナギノミコト

牟須美大神(ムスビオオカミ)(千手観音)→イザナミノミコト

となりました。



千手観音がイザナミというのは百歩譲ってわからなくもありませんが、なぜ阿弥陀如来がスサノオ、薬師如来がイザナギになるのでしょうね(笑)

わたしは、明治以降ややこしい縁起がシンプルになればよかったけれど、よけいややこしくなってしまった、といいました。

その原因は、ケツミミコやハヤタマへの信仰に戻せばよかったのに、わざわざスサノオやイザナミを付け加えてしまったところにあるとおもっています。



ギズモさんのおっしゃった船禅頂は、日光を補陀洛山に見立てて、勝道上人をおまつりしてるんですね。

日光という名前は栃木の二荒山(男体山)を音読みして「にこう」から「にっこう(日光)」に転じたといいます。

さらに二荒山を訓読みして、ふたあら → ふたら → 補陀洛 に転じました。

言葉遊びのように信仰が発展していく場合、「神嘗月」から「神無月」に変化したときもそうでしたが、何でもありの信仰の匂いがしますね(笑)



しかし日光での補陀洛信仰は、勝道上人より後に、熊野那智の修験者が全国に遊行する中で根付いたのではないかという気もします。

ギズモさんのおっしゃった高野聖もそうですが、熊野信仰が全国区の知名度になったのは、かれら遊行者が全国で紀伊の霊験を布教したからでした。

日光の山々は修験にはもってこいですし、修験者が好んで集まり、徐々に熊野信仰と結びついていったのかもしれません。

その中で同時並行的に、言葉遊びで二荒山と日光、補陀洛が結びついたのではないでしょうか。

中禅寺湖からはるか補陀洛を礼拝するのは、たしかにきみょうではあるのですが、湖に花を手向けるあたり、趣があっていいですね。



モロヘイヤうどんの活用レシピについて、ありがとうございました。

わたしはそのまま茹でて釜揚げみたいにして食べるばかりだったのですが、パスタにしていただくのはよいですね。

うちはいま植物油の類がないのですが、唯一もらい物のアマニ油の小さなボトルだけが冷蔵庫にありました。

これでペペロンチーノをつくろうとおもいます。



わたしも話しそびれていたのですが、2月にようやくかつおの刺身を買い、満を持してギズモさんからいただいたてこねずしの素を利用しました。

情けない話なのですが、このところの値上げラッシュで、わたしの節約志向が強まってしまい、刺身を買う機会がほとんどなくなったのです(笑)

それがたまたま月初めのセールで特売になっていたので、喜んで買ってきました。



結論からいうと、わたしが学生時代に伊勢市内のスーパーで買っていたてこねずしとは比べ物にならない美味しさでした。

合わせ酢の風味も、市販の寿司酢ではなく寿司屋の酢飯みたいです。

漬け醤油も深いコクがあって、かつおにテリが出てもっちりとした風味になりました。



伊勢の料理というのは、伊勢うどんもてこねずしもそうですが、ファーストフード的なんです。

伊勢うどんはお伊勢参りにきたたくさんの客に対応できるように、わざと伸びきったうどんにして、甘辛いしょうゆだれをかけてすぐ出せるようにしていました。

てこねずしも、漁師が船上ですぐにご飯を食べるためにつくられた料理で、凝ったところがありません。

そのぶん、素材のしょうゆにはこだわりがあるのでしょうね。

三重県は色の濃くて深みのあるたまり醤油が有名なのですが、これは醤油発祥と言われる和歌山の湯浅からきている文化なのでしょう。



ふとおもいついて、手こねずしのかつおに漬けこむ醤油(醤油にみりんと砂糖が原材料でした)の余りに、少量のだしの素を加えて、チルドうどんとネギでなんちゃって伊勢うどんをつくったのですが、あまりにも三重県で食べた伊勢うどんの味でおどろきました。

醤油がおいしいと、てこねずしも伊勢うどんもおいしいという発見をさせていただいて、感謝しております。
Icon of gizumo
熊野について、みごとに興味の取っ掛かりをつくっていただき、ありがとうございました。

今まで知り得たものとは、まるっきりアプローチが違うことにまず驚いたのですが、切り口というか、視点によって、これほど印象や興味が違ってくることにも驚きでした。

異世界であり、異質である、ややこしい熊野はどこに行ったんだ?という感じで、まるっきり違う印象になるとは思いませんでした。

今までの熊野は、私にとっては「高野聖」のイメージで、漂う雰囲気が妖しく、普通の寺社には感じないものでした。

また、どの仏がなんの神という、あの複雑な本地垂迹の図式を覚えないと、熊野は理解できないという思い込みが強くあったので、これも厄介のもとでした。

熊野は、どこからどんな情報を得るかによって、知識のほとんどが先入観で築かれてしまうという、いい例だったと思います。




まず、出雲由来の文明が、紀伊国に流入してきていたことは、もう本当にへ~~~っという驚きでした。

出雲と熊野は接点がないものという、おかしな思い込みをしていたからなのですが、それは、地域的な問題ではなく、出雲大社と熊野神社の系列ことから、まったく別だと思っていたわけです。

出雲が様々な地域に与えた影響は、想像より大きかったわけですね。



「熊野の那智が天竺の補陀落の入り口にあるという伝説」を知らなかったので、補陀落は日本独自の思想だと思っていました。

前に補陀落渡海のお話を伺った時、自分でも調べたはずなのですが、今回改めて調べたら、新発見がありました。

日本では那智山、日光山(二荒山)、室戸岬、足摺岬などが補陀落に擬され、観音信仰の霊場となった[8]。日光には、毎年8月(旧暦6月)に行われる「船禅頂」(補陀落禅頂)という、中禅寺湖畔の勝道上人の遺跡を巡って花を手向ける行事がある[9]。(Wikipedia)


この行事は知らなかったので、機会があれば船禅頂に参加したいと思います。

(書き足し: 那智山、室戸岬、足摺岬はわかりますが、いきなり日光という離れたところも補陀落に擬されたのは、勝道上人が登ったという、日光補陀落山の逸話のせいなのかもしれませんがからだとしても、ちょっと腑に落ちない気がします。那智の近くでまとめてほしいです(笑))




インドから来た裸形上人が修行をして、熊野で修験道の基礎を確立したのが、おそらく熊野と仏教がつながったはじまり、ということなのですね。

善財王の話は、室町時代の『御伽草子』にある『熊野の本地』の説話ということなのですが、裸形上人が日本に持ち込んだという可能性もありそうですね。

いずれにしろ、熊野のインド感はかなり濃いという印象は強いです。



熊野の話に空海が登場することも、びっくりしました。

例によって(笑)、おかしな思い込みで、無関係だという認識があったからでしょう。

京都の東寺でも、金剛峯寺ほど正式なものではないようですが、御影堂で、早朝6時から行われる生身供があります。

1200年続く法要で、空海に朝食(一の膳、二の膳、お茶)をお供えします。

僧が主体ではなく、信者の方々が中心に和讃を唱えたりし、その後、お坊さんが参列者全員に、仏舎利の授与をしてくださいます。

授与といってもいただけるわけではなく、仏舎利の入っている布の袋を、額と手に当ててくださいます。

本当に仏舎利が入っているのかわかりません(笑)

わかりませんが、とてもご利益をいただいた気分になりました。

私が行った時に、NHKのようでしたが、取材班が来て録画撮影の準備をしており、「そこどいてください」と言われました(笑)


 

詳しい地図もありがとうございます。

近いと言えば近い距離ですね。

熊野詣での人気が平安時代~室町時代あたり、その後、流行がお伊勢参りに移行していく、という流れだったのでしょうか。

平安時代~室町時代にかけて、「神道・密教・山岳信仰・民間信仰」がごちゃまぜだったというのは、とてもユニークですね。

よく冗談で祈る時「神様仏様キリスト様(イエス様?)」と言いますが、ミックス信仰は、宗教をこえた素朴な信仰心を感じます。

ごちゃごちゃしていたために、熊野権現なるものをつくり、シンプル化しようとしたのでしょうか。

※書き足し: 「室町時代以降、さらに全国で熊野権現がまつられるようにもなり~~~~~~~もはや熊野信仰は、建て増しに建て増しを重ねた大迷宮のようなややこしさ~」とあるので、熊野権現にまとめようとしたのではなく、「増えた」ということですよね。失礼しました。

ところがそうはならなかった(笑)

現在もややこしいまま「放置」と書いていらっしゃいますが、放置なのですね(笑)

もっとも、これをわかりやすい熊野にするのは並大抵な事ではないと思いますし、変にまとめたり切り捨てたりすれば、熊野におわす神仏もお困りになると思います(笑)



紀伊国へ移住した出雲族がいて、出雲の神々を信仰した。

それによって熊野は「死と再生の場所」となり、死の世界の入り口となる、という流れは、とても自然なことだったんですね。

さらに神武天皇の東遷で、「復活」が加わる。

助けたヤタガラスとは、紀伊国の出雲族で、神武軍を助ける集団だったのですね。

それにしても高倉下の活躍は目覚ましいものがありますね。

高倉下がいなければ、神武東遷は失敗に終わっていたのかもしれません。



熊野信仰の核にあたる部分は、あの複雑な寺社の縁起ではなく、熊野が「人間の生き死にを飲み込むほどの大原生林」だったこと

わたしたちが熊野を信仰する場合には、この大原生林のもつ神秘と、そこに人々が信仰を寄せたと言う事実だけをみていればいいでしょう


これはわかりやすく、熊野に対する考え方、捉え方の集大成だと感じました。

信仰は、シンプル イズ ベストだと認識させられる、貴重なお話でもありました。



日本神話が、実際の血がつながっていなくても「皇統はつながっている」と宣言する「思想の物語」だという、ものすごくインパクトある、わかりやすい説明をありがとうございます。

また、神武の崩御と卑弥呼が没したタイミングが重なるというお話。そうだったんですね。

卑弥呼がアヒラツヒメというかたちで、神武のそばで帝王としての覚悟と運命を教育したというのも、その場が見えるようでとても納得できました。

イザナギが高千穂に国を築く際、阿多氏と結びついて幼い卑弥呼をもらいうけたという説、これには特に感嘆しました。

阿多、アヒラツヒメに謎が多いのは、卑弥呼の出自をあえてぼかし、巫女としての神性、神秘性をあげるためのように感じました。

卑弥呼と神武天皇の結びつき、関係性には、不思議な縁が働いているように思いますし、やはり神武天皇の活躍は、初代天皇として、末代まで称えられる目覚ましいものがあったことを知りました。



ポツダム宣言の受諾ですが、日本にとって天皇制の維持が最重要事項であったというのは、いまさらながら、驚きを通り越した驚きです。

天皇制を維持できても、アメリカに占領され支配されてしまっていたら、今の日本はありませんよね。

今でもアメリカの顔を見ながらご機嫌取りをしている体質は続いているようですが(笑)



実質的な皇室の先祖がイザナギ、イザナミというのは、決して拍子抜けではなく、アクロバティック解釈でもなく、お話を読むと、とても納得できることです。

そして、さらなるびっくりは、出雲族の武士団が鎌倉で幕府を形成したということでした←本当に何も知らず、恥ずかしいです(笑)

最初のすめらぎが生まれるきっかけとなった吉野山が、南朝の最後の場所というのは、本当に皮肉というか、不思議な因縁ですね。

そして、農園主さんの他に、そのことに気づく人がいるのかどうかが気になります(笑)

また、「北朝がすめらぎを得たことで、イザナギとイザナミの陰陽が調和した」という解釈も、神話の時代から続く日本の歴史において、過去に生きた人々がそこで終わったのではなく、脈々と続き、どこかで様々な形でつながっていることを意識させられました。



破邪の御太刀のお話をありがとうございます。

攘夷派の氏子の奉納なんですね。

武器として使えない大太刀を作ることで、人々の祈り、魂が込められているような気がします。

それにしても、ゲームの武器に出てきそうなネーミングですね(笑)

国宝級のものは報道されても、こういうものは貴重でもほとんど周知されていないのは、残念なことです。



お誕生日にいただいたモロヘイヤのおうどんですが、ご報告を忘れていました。

普通に茹でて麺つゆでと思っていたのですが、色がきれいなので、イタリアンにしてみました。

最初は、オリーブオイルで炒め、具材はツナと野菜、塩胡椒+コンソメ味で。

次は、なんちゃってペペロンチーノを作りました(笑)

にんにくがアレルギーなので、香りづけ程度にし、オリーブオイルで炒め、缶詰のアンチョビ、イタリアンパセリ、豆板醤少々(アンチョビが塩辛いので少しにしました)で味付けしましたが、どちらもおいしかったです。

モロヘイヤ感はあまりなく、ゆずの香りがして、大変おいしくいただきました。

珍しいものをありがとうございました。



昨日は思いがけず雪が降りましたが、積もりませんでした。

布団を一枚しまった後に寒さが戻り、かといってまた出すのも(笑)

新年度に向け、自治会のお仕事も慌ただしくなるころと思います。

気温差もあるので、くれぐれもお身体にはお気をつけくださいね。
Icon of nouennushi
今回はまず、呼ばれていないように感じるとおっしゃったギズモさんに、熊野への興味の取っ掛かりをつくってみようとおもいます(笑)

そのあとで、前回のギズモさんからのご返信に対して、いくつかじぶんなりに考えたことを書いてみますね。



古代の熊野はほとんど人間を拒むような大原生林でしたが、縄文土器が発掘されますから、古くから人は住んでいました。

おそらくそぼくな自然信仰と、最軽量の文明で生活をしていたこととおもわれます。

しかし神話を読んでいると、2世紀末くらいだとおもうんですが、饒速日についてきた出雲の人々が、紀伊国の豊富な山林資源を利用して製鉄や産業をおこしたようなのです。

わたしはこの時期に、ただの「木の国」だった紀伊国に、出雲由来の重量のある文明が流入したと考えました。



奈良時代にうつりましょう。

西国巡礼(三十三箇所巡礼)の最初の札所は熊野那智の青岸渡寺です。

ちなみにあの補陀落渡海をおこなった補陀洛山寺は、青岸渡寺の別院でした。

この寺青岸渡寺の由緒をみると、仁徳天皇の時代に裸形上人というインド人が熊野に漂泊したとあります。

この僧侶が修行をして、熊野で修験道の基礎を確立したというのですが、これは熊野の那智が天竺(インド)の補陀落の入り口にあるという伝説から創作されたものでしょう。

実際に寺院が建立されたのは7世紀はじめごろらしいので、おそらくそのあたりで熊野と仏教がつながっていったとおもわれます。



平安時代の816年(9世紀初頭)に、空海が高野山で真言密教の総本山、金剛峯寺をひらきました。

ちなみに高野山はおなじ和歌山でも、熊野ではありません。

熊野は和歌山の南東、三重県の南部にありますが、高野山は和歌山の北部に位置します。

20260219090926-nouennushi.png



もちろん高野山も人里離れた深山でしたし、生活するにも厳しい場所だったのは間違いありません。

しかし熊野の山はそれどころではない秘境でした。



そういえば、高野山から紀ノ川に降りたあたりに九度山があります。

ここは真田昌幸と幸村の親子が、西軍に味方したために徳川家康にうとまれ、幽閉させられた場所でした。

真田親子は最初、高野山にいたのですが、あまりの寒さに音を上げて、九度山におりてきたそうな。



そんなへんぴな場所に、伝説的高僧である空海が大霊場を開きました。

この時期から紀伊国がにわかに注目され、人が集まるようになります。

人が集まるようになったことで、熊野も信仰の場として人気を集めるようになりました。



平安時代中期になると、天皇や皇族も熊野に御幸するようになります。

庶民も熊野を訪れるようになり、室町時代にかけてあまりの参詣客の多さに「蟻の熊野詣で」といわれるほどになりました。

平安時代から室町時代にかけて熊野は、神道・密教・山岳信仰・民間信仰などが闇鍋のようにミックスされた、ひどくややこしい霊場になるのです。



室町以降、さらに全国で熊野権現がまつられるようにもなりました。

もはや熊野信仰は、建て増しに建て増しを重ねた大迷宮のようなややこしさになっています。

これが明治の神仏分離令で、シンプルに……なったらよかったんですが、さんざんややこしい縁起を重ねてきた熊野が、いまさら単純化できるはずもありません。

結局熊野は現在に至っても、ややこしいまま放置されているんですね(笑)



さて、ざっと熊野のあらましを説明しました。

ここでいったん神話の時代の熊野に戻りましょう。



日本書紀ではイザナミの墓所は熊野の有馬村だったといいます。

なぜイザナミと熊野が結びつくのでしょう。



さらにもうひとつ、古事記ではオオナムチが八十神にいじめられたあと、大屋毘古(オオヤビコ)の助けを得るために紀ノ国へ向かいます。

大屋毘古は五十猛と同一とされたりもするのですが、どちらもスサノオの子神でした。

さらにオオナムチは、スサノオの住む根の堅州国へ向かいます。

なぜこうも紀伊国と出雲が結びつくのでしょうか。



これは、饒速日のころに紀伊国へ定住した出雲族がいたと考えれば、理解できます。

かれらは紀伊国で、じぶんたちの知っている時代の出雲の神々を信仰したことで、紀伊国に根付いたのです。

熊野と出雲神話が結びつく理由は、ここにあります。



熊野が「死と再生の場所」なのも、この時期の出雲信仰からきています。

イザナミは黄泉津大神で、スサノオも根の国の主、大国主も幽世大神ですね。

出雲は黄泉の国の入り口ですが、熊野もまた異界(死の世界)の入り口となりました。



そこに神武天皇の東遷がかかわってくることで、「復活」のニュアンスが生まれます。

神武天皇は難波に船をつけてナガスネヒコに対戦し、負けました。

その後神武軍は船で和歌山を海岸沿いに南下して熊野に回り込みます。

そして熊野三山を抜けて、吉野山から奈良へ向かいます。



熊野を抜ける際に、神武天皇の一行は遭難してしまいました。

熊野での遭難は、ほとんど死を意味します。

しかしヤタガラスに助けてもらって、熊野を抜けることができたのです。



また、神武天皇が熊野の山の毒気にあてられて寝込んでしまったというエピソードがあります。

このとき、高倉下命(タカクラジ)が、こんな夢をみたのです。



アマテラスが神武天皇の苦境をみかねてタケミカヅチを派遣しようとしたものの、タケミカヅチが言いました。

「わたしが行かずとも、わたしが国を平定した剣を、高倉下の倉に入れておきました。高倉下が神武天皇にこの剣を献上すれば、ヤマトも平定されましょう」



高倉下が目覚めて倉をみてみると、たしかに剣がありました。

剣を献上すると、神武天皇は蘇生したといいます。

この剣が、いま石上神宮のご神体となっている布都御魂でした。

氷川神社の六社にまつられている石上神社も、このときの神武天皇のエピソードを縁起にされていますね。

熊野が死と「再生」の場所とされるのは、これらの神武復活のエピソードがもとになっています。



ところで、高倉下は奇妙な系譜の持ち主です。

天香山命(アマノカグヤマノミコト)と同一ともいわれるのですが、天香山命の父親は天火明命でした。

「天火明命」は、山陰を旅していたときの饒速日の呼び名ですね。



なぜ天火明命の子が、紀伊国にいるのでしょうか。

そしてどうやって神武軍を助けたのか。

この点を結びつけるために、わたしはこう考えました。



さきほども言いましたが、饒速日はヤマトへ向かう道中で、山陰(出雲族)の製鉄集団も引き連れています。

かれらは紀伊国の豊富な山林資源を利用して武器生産をおこないました。

高倉下が饒速日の実際の子だったかどうかはさておき、天孫族に対する理解の深い、紀伊の製鉄氏族だったのでしょう。



さて、ここからは、神話をできるだけ現実に近い形で考えます。

難波で敗戦した神武の軍団は、船で和歌山を回り込み、熊野方面に向かいました。

難波はその名の通り波の激しい場所で、下船すれば平野部ですから、船での戦いは不利なのです。

神武天皇は「東に向かう戦いでは勝てない。西へ回り込まねばなるまい」といいました。

紀ノ川沿いにはナガスネヒコの息のかかった連中がいますから、和歌山西部から奈良に向かうことはできません。

熊野を越え、吉野山を抜けて高台から奈良の平野部を狙うゲリラ戦に、一縷の望みをかけたのです。

しかしこの熊野越えがたいへんな難所でした。



神武軍は熊野の荒坂の津に上陸したのですが、そのあたりは丹敷戸畔(ニシキノトベ)という原住民の巫女が支配していました。

神武軍は丹敷戸畔を誅したのですが、これでいよいよ神武軍は疲弊し、熊野の行軍はいっそう厳しいものになります。



一方、神武の敗戦を伝え聞いた高千穂の卑弥呼(アマテラス)は、ヤマトへ援軍を送るかどうかを会議していました。

しかしいま軍勢を送るよりは、急いで使いを出して紀伊国から饒速日の縁者を頼り、神武軍を助けてもらうほうが早いだろう、ということになります。

結果、天孫族への理解が深い高倉下が、神武天皇をお救いすることになりました。



そして紀伊国の出雲族で神武軍を助ける集団(ヤタガラス)が結成され、神武軍を救出します。

このころの紀伊国は、もともとその地に住んでいた原住民と、ナガスネヒコに与する者と、天孫族に理解を示す者がいました。

一命をとりとめた神武軍は、高倉下からじゅうぶんな武器が与えられたのみならず、大勢の仲間を得ました。



神話では布都御魂を神武天皇に与えたとありますが、当然戦争は剣一本でどうにかなるものではありません。

高倉下は神武軍の者にじゅうぶんな装備を与えましたが、それだけの財力をもった権力者で、天孫族に対する肩入れがあったのでしょう。

神武の軍隊はここで、死の窮地から救われ、復活したというわけです。

布都御魂とは一本の剣ではなく、神武軍を勝利に導いた武器の霊威でした。



ちなみにギズモさんが書かれていた、氷川神社にまつられている石上神社は、神武天皇の縁起が書かれてありますから、おそらく石上神宮のことをさすのでしょう。

じつは石上神宮をさらに山奥に向かうと、石上神社(いしがみじんじゃ)があるのですが、ここは石上神宮とは関係がないそうな。

また石上布都魂神社が岡山にありますが、ここは御祭神がスサノオで、神武天皇の縁起はありません。

氷川神社の六社では住吉大社も住吉神社となっていますので、おそらく「神社」という呼称で統一しているのだとおもわれます。



さて、また神話解釈の部分が長引いてしまいましたが、ここからは空海の話になります。

平安京では空海と最澄のもたらした密教が隆盛を極めていました。

修行僧たちは秘密主義的な密教の修行をおこない、庶民は道教も仏教も神道も一緒にしたような、なんでもありの信仰をするようになっていました。

神仏習合自体は奈良時代から始まっていたのですが、底が抜けたような何でもありになっていったのは、平安時代からです。



ちなみに空海自身がどうおもっていたかはわかりませんが、民衆の神輿の上にかつがれた空海は、エンタメ性の強いアイドル(偶像)と化しました。

民衆は各地で、ありもしない空海の奇跡をまことしやかに広め、仏教は誇大妄想化していきました。

いまでも金剛峯寺では、空海は修行を続けているということになっているため、食事が御廟に運ばれています。



空海が金剛峯寺を開いた結果、紀伊国そのものが誇大妄想的な異界となりました。

特に熊野は、大原生林がもつ元来の神秘性と、神話にもとづく「死と復活」のイメージ、そして山岳信仰(権現信仰)、さらに密教、道教的な民間信仰……これらが虚実織り交ぜながら融合していったのです。

ギズモさんが「ややこしすぎる」と感じた「異世界的、異質なもの」の原因は、ここにあります。



たとえば、ギズモさんのお話で引き出していただいた善財王ですが、これは室町時代に書かれた『御伽草子』にある『熊野の本地』の説話でしたね。

インド(天竺)の摩訶陀国の善財王と、その妻と王子が、艱難辛苦の物語の果てに、紀伊国へと垂迹し、熊野権現となったという物語です。

この物語は当時、熊野の神秘性を高めることに大きく貢献しました。

しかしこの話はスケールは大きいけれど、原理的にはめちゃくちゃで、宗教に理解がある人ほど、頭を抱えたくなることでしょう(笑)



熊野の寺院の縁起にたびたびインドが登場するのは、熊野の那智が天竺(インド)の補陀落山とつながっているとされるからです。

ギズモさんがご紹介くださった那古寺は、おなじ補陀洛山の山号でも、房総半島の海辺から、はるか補陀洛山をあがめる、ごくそぼくな観音信仰の真言宗だったことでしょう。

しかし熊野の補陀落信仰はひどく過激で、さきほども申しましたが、棺桶舟に上人を閉じ込めて渡海させる習慣がありました。

これは実質的な自殺の強要でしたが、渡海によって往生した上人は、補陀落山で観音に救われ再生すると信じられていたのです。

どんな宗教でも、自殺して救いを得るような教えはありません。

しかし熊野では仏教の原理のうえに、じぶんたちに都合のいい物語を建て増しした結果、逆に原理の部分が失われて、補陀落渡海という狂信的な悪習慣が生まれてしまいました。



わたしは熊野信仰の核にあたる部分は、あの複雑な寺社の縁起ではなく、熊野が「人間の生き死にを飲み込むほどの大原生林」だったことだとおもいます。

わたしたちが熊野を信仰する場合には、この大原生林のもつ神秘と、そこに人々が信仰を寄せたという事実だけをみていればよいでしょう。

ほかの神仏習合や山岳信仰、民間信仰がまじりあったややこしい部分は、ほとんど無視しても問題ないとおもいます。



さて、以上が熊野の話でした。

ここからはギズモさんのご返信に対するわたしなりの考察です。



記紀神話は、皇統の物語ですね。

しかしこれは物語ですから、実際に血縁がつながっているわけではないのです。

日本神話はつまり、実際の血がつながっていなくても「皇統はつながっている」と宣言する「思想の物語」でした。



わたしは神武天皇から「国家をつなぐ責任が生じた」と解釈しています。

天皇という呼称は、実際には推古天皇あるいは天武天皇の時代につかわれるようになりました。

それがなぜ神武を「天皇」としたかというと、この時点から「すめらぎ=皇統」によって国家を維持する思想が始まったからです。

血筋という意味では序盤からつまづいているわけですが、それでもなにがなんでも、万世一系ということにしなければならないんだという強烈な思想が、天皇(すめらみこと)という言葉にあらわれています。



ところで高千穂の場合、権力者の子孫を残すことで国をつなぐという思想はなかったようです。

女王の卑弥呼(アマテラス)には子がありませんでした。

それでも実際の血縁関係ではない周辺の有力な王族と手を組んで、女王統治のもとに「天孫」があるということにしたのでしょう。

高千穂では卑弥呼こそが天(カリスマ)であり、唯一無二の存在でした。

だからこそ高千穂のヤマト王権は、卑弥呼が亡くなると瓦解したのです。

卑弥呼の没後、九州では熊襲をはじめとした「まつろわぬ者(ヤマト王権に従わぬ者)」がはびこりました。



すめらぎの点でいえば、ヤマト王権にとって大国主は脅威だったことでしょう。

大国主は山陰各地の王族と連合し、実質的なリーダーとして、各地の王族の女性と関係を持ちました。

ヌナカワヒメもそうですね。

子を残すことで国家を存続させていくという思想は、むしろ出雲で完成しつつあったのかもしれません。



さて、神武天皇が実在したかどうかということについては、わたしも引っかかっていました。

高千穂から奈良へ軍勢が送られたのは間違いないとおもいます。

しかし軍の中に神武がいたかどうかは、はっきりしません。



特にわたしが引っかかっていたのは、神武の崩御と、卑弥呼が没したタイミングが重なることでした。

あるいは、神武はおらず、高千穂軍が奈良のヤマトを実効支配していたのかもしれません。

そして高千穂で卑弥呼が没すると、ヤマトで壮絶な権力闘争が起こった。

そのように考えることもできそうです。



しかし高千穂でも女王の下に王をつくっていたのに、当時の国家がその地に王をつくらずにやっていけるでしょうか。

また大物主と神武天皇の関係もありますをなかったこととすると、大物主がヤマト王権に取り入るきっかけがなくなってしまいます

東遷後の各氏族への論功行賞は、絶対的な権力者がいないとなかなかまとまらないでしょう。

そのように考えると、やはり神武天皇は存在して、たまたま崩御の時期が卑弥呼の没年と重なったと考えるほうがしっくりくるようにおもえました。



神武天皇がいたと考えた場合、東遷にじぶんの意志が働いていたかという件ですが、神武は自然に運命を受け入れていたと考えています。

運命を受け入れるという点で、卑弥呼と神武天皇はほんとうによく似ています。

わたしは以前、イザナミに足りなかったのはツクヨミ(道教)だったといいました。

これはいわば巫女としての規範ですね。

もっと突っ込んでいうと、巫女の帝王学です。

イザナギはまるで幼児に英才教育をほどこすように、幼い卑弥呼(アマテラス)に徹底的に巫女の帝王学を教え込んだのではないでしょうか。

そして卑弥呼は従順にじぶんの運命を受け入れて、すぐれた巫女(帝王)になりました。



神武天皇もまた天孫族の運命に対してひどく従順で、しかも完璧な帝王でしょう。

たとえ天才でも、教育されないまま才能を発揮することはできません。

ではいったいだれからこの英才教育をほどこされたのか。

そこでわたしは、アヒラツヒメが卑弥呼だったのではないかという飛躍した考えに至るのです。

わたしは卑弥呼がアヒラツヒメというかたちで、神武のそばで帝王としての覚悟と運命を教育したのではないかという線を捨てきることができません。



余談ですが、アヒラツヒメも不思議な存在でした。

アヒラツヒメは、阿多の小椅の君(あたのおばしのきみ)の妹といわれます。

阿多とは、海幸彦を祖神とする隼人の一族です。



また古事記ではコノハナサクヤヒメは神阿多都比売(カムアタツヒメ)と呼ばれていました。

やはり名前に阿多が入ります。

なぜ九州の有力者である阿多の名が、出雲の大山祇命の娘であるコノハナサクヤヒメと結びつくのでしょう。

海幸彦を起源とする阿多氏と、出雲の大山祇がなんらかの関係性をもっており、コノハナサクヤとニニギが結びついたのでしょうか。



しかしこの場合、コノハナサクヤから山幸彦と海幸彦が生まれたという時系列に決定的な狂いが生じます。

阿多にはなにかががあるような気がしてなりません。



しかしそういった疑問があるということはさておき、今回気になるのは、アヒラツヒメの名には「阿多」が含まれていない点です。

阿多の小椅の君の妹ですから、阿多の一族であろうと推測されているわけですが、その場合はふつう名前に阿多が入るはず。

しかし、アヒラツヒメは両親も不明で、阿多の名もありません。

阿多の小椅の君が何者であるかも、阿多であるということ以外は不明。

アヒラツヒメは神武東遷の際に同行することもなく、東遷を為したあとに奈良へ向かうこともありませんでした。

わたしはこのあまりにも謎の多いアヒラツヒメを、卑弥呼だと疑う余地があると考えています。

あるいはもっと突拍子もない想像をふくらませるとしたら、そもそも卑弥呼の出自が阿多の一族からきており、イザナギが高千穂に国を築く際に、阿多氏と結びついて幼い卑弥呼をもらいうけたのかもしれません。



話を戻しましょう。

神武は天孫族の領土奪還のために東遷(戦争)することを運命として受け入れました。

そして苦難の末にヤマトの王(天皇)となると、この生まれたての国家をみごとにおさめてしまいます。

神武自身に乱れた逸話もなく、下剋上をねらう諸侯も完全に掌握しました。

王としてあまりにもできすぎていて、前回書いた通り「ある種の清潔さを感じる稀有な神」です。

言い方を変えると、ほんとうに実在していたのか疑わしいくらい清潔ですね(笑)



さらに余談ですが、イザナギが仕込んだ帝王学は、それだけ完成されたものだったとおもうのです。

ただこれは、「生まれたての国家においては」という但し書きがつきます。

ある程度国家が成長すると、巫女の神懸かりによる独裁よりも、もっと現実的で論理的な政治が求められるようになります。

しかしさいころを振ってばくちをするがごとき巫女政治には、依然として人々を惹きつける求心力がありました。

だからこそ崇神天皇は巫女政治を嫌い、巫女の象徴であるアマテラスを伊勢に封印したのではないでしょうか。



さて、実質的な皇室の先祖はだれかという話ですが、実際の血筋となると、これまで何度も途切れているようです。

初期の天皇の実在性はもちろん、26代継体天皇も天皇の血筋として認められるのかどうか議論されているようですね。

しかしさきほども申しましたが、大事なのは天皇のDNA以上に、すめらぎの思想です。



日本がポツダム宣言を受諾するとき、政府は唯一、国体の護持を条件にしました。

つまり天皇制という思想の維持だけが、敗戦を認める条件だったのです。つまり天皇制さえ維持してくれれば、日本がアメリカに占領され、支配されることも、その他あらゆる理不尽も甘んじて受けるというのです。

戦後、天皇を取り巻く環境は激変しましたが、それでもすめらぎは続いています。



ところで、すめらぎの思想というところで考えると、わたしは結局、実質的な皇室の先祖は、イザナギ、イザナミにたどりつくのではないかとおもえます。

ギズモさんはきっとこのわたしの答えを聞いて、はぐらかされたようで拍子抜けされたことでしょう(笑)

しかし無根拠にそう考えているわけではありません。



イザナギ・イザナミという名前の意味をたどると、「いざなう者」となります。

道教の陰陽でいえば、男は陽で、女は陰ということになるようですね。

もちろん、イザナミが陰だからわるいという話ではありません。

あの勾玉がふたつ合わさったような太陰大極図は、陰と陽があわさって、ひとつの循環になっていることをあらわしています。



人が死んで減ってしまえば、国は滅亡するというイザナミの陰。

人が多く集まって社会を形成すれば国になるというイザナギの陽。

イザナミが一日1000人黄泉の国へ連れていくことがあらわしているのは、人は死ぬという厳然たる事実です。

それに対してイザナギは1500人生まれる国をつくるといいました。

イザナギは、国家のためには死ぬ人数よりも多い人数をうまねばならないという、非常にシンプルな社会思想を持っていたんですね。



このイザナギから生じたアマテラスとスサノオは、対照的な運命をたどります。

一方はイザナギの教育によって高千穂の絶対女王となり、一方はイザナギと決別してみずから運命を切り開き、イザナミのいた出雲の支配者となりました。

ヤマトと出雲の、すめらぎをめぐる数奇な運命が、神話よりずっと後世にも続いたという話は、以前にもしました。



ヤマト王権は一時は出雲連合を平らげ、すめらぎを得ました。

出雲は滅亡したかにみえましたが、奈良時代になると関東で武士団が発生します。

かれらの出自をたどれば、はるかむかしに関東を開拓(国づくり)した出雲族が大勢いたことでしょう。

そしてこの武士団が鎌倉で幕府を形成します。



京都の朝廷を守るという名目で生まれた幕府でしたが、足利尊氏の時代になると北朝を擁して、京の朝廷を牛耳りました。

そしてもともとの朝廷は奈良吉野へ追われ、南朝として北朝と争います。

しかし結果的にすめらぎは南朝から北朝へ禅譲されました。

神武天皇が熊野を抜けて復活し、最初のすめらぎが生まれるきっかけとなった吉野山が、南朝の最後の場所だったというのは皮肉なことです。



日本書紀や古事記、先代旧事本紀を編纂した人々も、まさか将来、出雲族とすめらぎがこのように関係してくるとは、想像だにしていなかったことでしょう。

しかしわたしには北朝がすめらぎを得たことで、イザナギとイザナミの陰陽が調和したようにおもえるのです。

……いろいろややこしい話をしましたが、皇統はイザナギ・イザナミから始まり、紆余曲折を経ながらいまもいざなわれ続けている、というのがわたしのアクロバティック解釈です(笑)



さて、アマテラスが伊勢神宮、大国主が出雲大社に「封じられている」と感じるという件ですが、わたしもそうおもいます。

伊勢神宮にアマテラスが鎮座したよりも前に、神話で「まつられた神々」は、ヤマト王権によってむりやり鎮魂されたと考えたほうがよいのかもしれません。

出雲大社も、三輪山も、箸墓古墳も、伊勢神宮も、「丁重にまつることで、ヤマト王権の礎になっていただく」というような意味合いが感じられます。

言い方を変えれば、たたりを防いでいるわけですが、これは実際丁重にまつらねば、出雲族が反乱を起こしたり、巫女勢力の恨みがつのったりといった実害があったことでしょう。



タケミナカタとタケミカヅチの力比べですが、わたしもこれは戦争だったとおもいます。

九州勢力(タケミカヅチ)が越の国の勢力(タケミナカタ)を諏訪で封じた、ということでしょう。

ギズモさんのおっしゃるように、タケミナカタの軍勢は越の国まで逃げて援軍を頼むつもりでしたが、諏訪で進退窮まり、降伏したのかもしれませんね。



さて、今回もやはり長くなりました(笑)

三寒四温といいますが、ギズモさんの予測された通り、雪が降るほどではないものの、寒さがぶり返しています。

わたしもぼちぼち花粉症が始まってきました。

不快な時期ですが、先日ふきのとうが芽吹いているのを発見し、いつの間にか梅の花も咲いています。

春はたしかに近づいているようですね。



最後になりますが、安政6年に、吉田松陰の思想に共鳴した攘夷派の氏子が、山口県下松市(くだまつし)の花岡八幡宮に破邪の御太刀(はじゃのおんたち)といわれる、巨大な刀を奉納しました。

全長4m65cm、重量75kg。

人間があつかう刀ではありませんが、動乱の日本を守るという、破邪の願いが込められているそうな。

https://www.google.com/search?q=%E7%A0%B...

おそらく百済からヤマト王権に贈られた七支刀も、そのような破邪の意味合いを込めてつくられたものなのでしょうね。

2026年2月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する

Icon of gizumo
こんばんは。

今日は暖かいのですが、風が強くすごい花粉で、目がかゆく、モチベーション下がっています(笑)



つまらない話でごちゃごちゃするのも申し訳ないので、前回のお返事に追加せず、別に書かせていただきます。

先日、またNHKで七支刀のことを放送していましたが、お守りをいただいてから、さらに興味を惹かれるようになりました。

さっき、七支剣、石上神宮のことを、考えるというより思い浮かべただけなのですが、「石上神社(という文字)、最近どこかで見たような?」と感じました。

それで、武蔵一宮氷川神社のホームページで、境内社を見ていくと、「六社」のところに、「石上神社(神宮ではなく)」がありました。

何回もお参りしているのに、禁足地であった蛇の池の存在にも、最近まで気がつかなかったくらい、ぼんやりさんの私です(笑)

今頃気がついたとは・・・・・。

他の神社でも、石上神社が境内社や摂社、末社などにあるのを見たことがなかったので、ちょっと驚きましたが、おそらくスサノオがご祭神だからですよね。

それなら、六社のひとつにまとめず、単体でお祀りすればいいのに、と思った次第です。

近いうちにまた行く予定があるので、六社の石上神社で、農園主さんからいただいた七支刀のお守りのことをお伝えし、守ってくださるお礼を申し上げてきます。



さらに余談ですが、今年の最も吉方位である、千葉県館山市の、補陀落山那古寺と、安房神社にお参りに行ってきました。

那古寺安房神社の創始は、神武天皇即位の年だそうです。

書き足し:那古寺は、創立が717年です

山号か寺号に補陀落という名前言葉がついたお寺をお参りするのは初めてでしたが、古いままで、豪奢な塗り替えなどの手を加えていない、素朴で落ち着くお寺でした。



20260228202938-gizumo.jpg那古寺
20260228203041-gizumo.jpg安房神社
Icon of gizumo
すみません、最後に雑談を書き足しました。←さらに追加しました。


縄張りという言葉の語源は知っていましたが、神社の大岩や巨木のしめ縄も、「縄張り」の意味だったんですね。

ちょっと新鮮な驚きでした。

農園主さんのおっしゃるとおり、簡素なお社程度ならともかく、社殿を建てれば、維持費や経費はかかるし、お賽銭程度ではとてもやっていかれませんね。

最近は経営難の寺社が多く、クラウドファンディングで資金集めをするところもありますが、結局は地元の氏子さん、檀家さんだけでは無理な時代なのかもしれません。

映画やアニメなどとコラボしたり、聖地となっている寺社は、グッズを作ったり、限定御朱印を授与したりと大忙しで、神仏は二の次か?と言いたくなります(笑)

でも、これも維持のためには賢いやり方かもしれません。

商店や会社とは違うので、よけいに補助金などの制度の充実は必須ですね。



今回も、興味深いお話をわかりやすく書いてくださり、ありがとうございました。

推測や想像の域を出て、感嘆すべきアカデミックリサーチだと思います。【書き足し】今回に限らずいつもです。

建国記念の日を視野に入れてのことでなく、偶然だっただけに、神武天皇が伝えたかった真実、というものを感じてしまいました。

以下、農園主さんの記事に対する反論はまったくなく、思いついたことや、疑問とも言えない当たり前のことを書いているかもしれないので、ご容赦ください。

また、質問のような文があっても、読み流していただいてかまいません。

私の、知識に基づかない素人目線の疑問で、農園主さんが混乱するのは困ります(笑)



そもそも論になるかもしれませんが、神武天皇は実在したというのが大前提ですね。

そして、神武を初代として、「天皇」という役職・制度を設けた人物、または勢力があったわけですね。

もしくは神武自身の意志で動いた、ということもあるでしょうか。

本人がずいぶん張り切って、神武東遷やまつりごとを行ったのか。または周りに担がれただけの天皇なのか。

そのあたりもわからないところです。

また、最初から、天皇の子どもを代々天皇としていくことに決めていた、ということでしょうか。



少し話が突飛な方向に行きますが、神武天皇に子どもがいなかったとすると、実質的に皇室の先祖は誰になるのでしょう。

アマテラスを神とみなし、神武天皇は人とみなすと、人から始まるのが自然のように思うので、神武天皇以外の人間ということかと思います。

また、アヒラツヒメ(卑弥呼)とタタラヒメは、神武天皇との間に子が恵まれできなかったので、養子を迎えて血筋を繋いだということも有り得るように思いますが、もちろん根拠はないです。

そして、神武天皇が、【書き足し:実子ではないけれど】自分の子どもだと主張する証として、また、皇位を継承できない子どもも、いずれどこかの首長にする目的で「耳」という字を付けた・・・・ということはないですよね(笑)




カンヌナカワミミですが、越の国にいたんですね。

以前、出雲のヤマタノオロチの正体は、越の国(新潟県)からやってきた豪族などの集団だという話がありました。

綏靖天皇の諱に含まれる「渟名川」は、高志国・越国にあった地名だということですが、綏靖天皇(カンヌナカワミミ)が越の国のヌナカワ地方にいた首長で、後に出雲に行った、ということは、時系列に有り得ることなのかわかりませんが、なきにしもあらずかもしれません。

そしてヌナカワヒメですが、大国主との間にタケミナカタを産み、タケミナカタは国護りの戦争でタケミカヅチに敗れ、諏訪に封じられたんですね。

諏訪大社のご祭神は、主祭神2柱(タケミナカタと、タケミナカタの妻 八坂刀売命)と、その上位置に、父神として大国主があります。

下社配祀として、「八重事代主神」です。

タケミナカタは、本当は越の国まで逃げたかったのを、途中の諏訪で追いつかれ、思いがけず封じられてしまったようにも思います。

【書き足し】タケミカヅチに投げられて、諏訪に飛ばされた、というのが正しいのでしょうか?
 
だとすると、越の国に行きたかった説は成り立ちませんね。
 
逃げて諏訪で追い詰められた説もあるようですが、いくら何でも諏訪まで投げ飛ばされないような気もします(笑)



越の国・新潟で大国主が祀られている神社を調べてみたので、余談として読み流してください。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%90%...

武内宿禰の子孫の話も書かれていました。

大国主が主祭神で、事代主・タケミナカタは相殿神という位置づけの神社です。

社伝によれば大国主命が御子神である事代主命と建御名方命を従えて当地方へ神幸し、当地に滞在して住民に稲作の業を教える等の国土経営にあたった故事に因んで創祀されたと書かれています。


実際に越の国に行ったのかどうかはわかりませんが、農園主さんがお書きになっているように、高志国は出雲に味方して、国譲りの戦争に参加していたというように、出雲と高志国の関係性がわかるように思います。


書き足し:渟名川は糸魚川の姫川(支流のこと?)だったようですが、この神社は妙高市ですので、糸魚川市と、ほぼ隣り合わせの位置にあります。



大物主のお話を伺うと、かなりの策略家だったようですね。

崇神天皇の時代の再登場はおもしろいです。

そういえばいまさらですが、欠史八代の天皇の名前に「神」の字はないんですね。

初代の神武、次が10代の崇神天皇です。

これ一つとっても、なんとなく2~9代はあやしげです(笑)



事代主は、大国主を丁重に立てた上で、穏やかに引かせたように思えます。

ここでも、策略家の一面が見られますね。



何度も読んでいくうちに、↑のような、妄想とも疑問ともつかないものが次々出現しては消えていく事象に陥ってしまいました(笑)

自分でも訳がわからなくなり、まとまりのないお返事になってしまい、ごめんなさい。

私の不可解な返信で、農園主さんが混乱しないように、と思います。



ケッタイ、というのは大阪の方言みたいなものだとは知っていましたが、漢字で書ける言葉とは知りませんでした。

方言は文化だと思うので、主に漫才などから、大阪弁が自然に親しみやすい形で周知されているのは、とてもいいことだと思います。



出雲大社の神迎神事のお話、詳しいことをありがとうございます。

ずいぶんとおおがかりな神事が続けられていることは、ほんの数年前に知ったのですが、平安時代からの民間伝承だとは知りませんでした。

私の個人的な、考え、というよりイメージなのですが、天照大神は伊勢神宮に、大国主は出雲大社に、「祀られている」というより、幽閉されているような感じがします。

伊勢神宮と出雲大社は、神社の中でも特化した場所のせいかもしれません。

なので、神在月に全国から神様があつまると、大国主はことのほか、お喜びになるように思えます。

アマテラスは皇室にとっても重要なところなので、幽閉というより「そこから動かないでね」という意味合いのような気もしますが(笑)

來宮神社のことも、詳しいお話をありがとうございます。

ご神木として、樹齢2100年の大楠の大木があります。

30年ほど前は、普通に周りをまわって木に触れたのですが、いつの間にかインスタ映えする神社と化してしまい、触ることができなくなってしまいました。

最近は「映画 クスノキの番人(原作=東野圭吾)」とコラボしているようで、人の多さに辟易してしまいます。

やっぱり神社やお寺は、素朴で静かで、ゆっくりお参りできるところがいいですね。



今日は、2月23日で、富士山の日なんですね。知りませんでした。

22度くらいあったようで、桜も勘違いして咲きそうな日でしたが、このまま暖かくはならないでしょう。

気温差もあるので、気をつけてお過ごしください。



※追加の雑談(一部は以前書いたことがあるかもしれません)

埼玉県越谷市の久伊豆神社は、ご祭神が大国主です。

10年ほど前の引越しの時、私にとって暗剣殺?かなにかの大凶方位だったのですが、方位除け・八方除けに最も力があるということなので、こちらでご祈祷を受けました。

ご祈祷はいろいろな神社で受けたことはありますが、大国主が主祭神の神社としては、ここが初めてでした。

最初、若い神職さんが、脇で何か唱え始めました。

それが言葉になっているのかどうか忘れましたが、まるで低い音のサイレンのようにうなっているので、これには本当にびっくりしました。

それが終わると、正面にいる年配の神職さん(神主宮司かどうか不明)が、普通に祝詞を唱え始め、一般的なご祈祷になりました。

出雲大社の東京分祀でご祈祷を受けた時の記憶があいまいなのですが、やはり最初にうなっていたか、大国主を呼ぶ祝詞があったと思います。

ご祈祷は、まず、地の底?にいらっしゃる大国主を呼び起こすことから始まると、後から聞きました。

いちいち呼ばれる大国主も大変です(笑)

とても特殊なご祈祷だったので、大国主という神様の特別感がありました。


※2度目の追加

綏靖天皇の在位の日が、私の誕生日なんですが(笑)

欠史の時期で、いろいろあいまいな中で、在位の日が明確というのは、おもしろいですね。
Icon of nouennushi
こんばんは。

それでは次回は熊野について書かせていただこうとおもいます。

熊野はわたしも理解しにくい場所でしたが、調べてみるとおもしろいところでした。



ギズモさんが感じた、熊野に対する「異世界的、異質なもの」は、実際そうとしかいいようのないところがあります。

紀伊の国、そして熊野は、日本神話、空海、そして山岳信仰、民間信仰がまじりあい、関西風にいうとじつにケッタイ(怪態)な場所になっているのです。

そして、記紀神話が書かれていた奈良時代あたりには、熊野のような大原生林はまだうまく利用価値を見出すことができないむずかしい場所でした。



このあたりのことを目次として、次回をお楽しみいただければとおもいます。

またギズモさんの返信次第では、べつの話も加えさせていただくかもしれません(笑)

期日をもうけずにゆっくりでまったく問題ありませんが、ご返信を楽しみにしております。
Icon of gizumo
いえいえ、わざわざありがとうございます←記事の最初に付け加えられたのことです。

記事のお返事は、またしばらくしたら書かせていただきますね。


それと、いつもわかりやすく、読みやすく、嚙み砕いて書いてくださっているので、長いとかややこしいなどとは、まったく思っていません。

短くする目的で記事を分けて投稿すると、お書きになりたい記事の本質から外れると思いますので、長い記事大歓迎です!

どうぞ、お気遣いのないようにお願いします(^^♪



今までずっと、神話の時代~古墳時代くらいまでは、年代も人物もあいまいな期間と思っており、諸々ひっくるめて「古代」のようにとらえていましたが、時系列まで研究なさった記事は、新鮮ですし、とてもおもしろく読ませていただいています。

農園主さんの記事を、すべて正確に読み取っているとは言えないかもしれませんが、その際はご指摘ください。



思いがけないことでの熊野詣延期は、ご両親も残念に思ったでしょうが、きっと今ではないということかもしれませんね。

農園主さんもお書きになっているように、よく「呼ばれる」という言い方をしますが、たぶん4月よりも、いいタイミングが来るのではないでしょうか。

熊野は、日本の寺社の中でも、いちばんわかりにくいように思います。

以前、農園主さんが書いてくださった「善財王」のお話、確かこれが熊野権現の縁起だと思うのですが、とても印象に残っています。

ただ、熊野信仰、熊野の本地垂迹についてネットで調べたりしても、なかなか頭にスッと入らず、どうしても理解が及びません。

頭が悪いから、というのはさておき(笑)、熊野はややこしすぎます。

それと、なぜか感覚的にも、熊野は日本の寺社の中で、異世界的、異質なものを感じます。

私の場合、興味はものすごくあっても、たぶん、呼ばれていないように感じます(笑)
Icon of nouennushi
※すみません。今回、投稿後にいろいろと手直しを行っています。

選挙の立会でのねぎらいのお言葉、ありがとうございます。

パイプ椅子に14時間座ると、お尻が3日痛みました(笑)

当日は大雪でしたが、無事に役を終えられてよかったです。



「お札を1年で買い替えるというのは、寺社のお金儲けの一環」というのは、ギズモさんのおっしゃる通りで、寺社もお金を得なければならないんですよね。

江戸時代以前の神社は、地域が管理している山や川に勝手によそ者が入らないように縄張りをしたというものがほとんどでした。

山や川、あるいは土地でさえ明確な所有権がなかったので、その地に住まう人々は神の名を借りて、所有権を主張したのです。



なので多くの神社では、大岩や巨木にしめ縄を施して、かんたんな鳥居をたてて、頻繁に地元民がお祭りをすることで、ここは神(管理者)がいるのだぞ、ということをアピールしました。

ごく簡素なお社をつくったところもありましたが、多くが無社殿社です。

こういう仕組みであれば神社の管理は、手間はかかってもお金がかかるようなものではありません。

大事なのは社殿でもお金でもなく、じぶんたちで地域を維持しようという心意気と、みんなで集まれる場所があることでした。



これが明治以降、各地で立派な社殿を建ててしまったがために、社殿の維持管理のため、神道も儲け主義の土俵に乗らざるをえなくなりました。

これはわたしの住む田舎の話ですが、お賽銭や地域の会費だけでは社殿の維持には到底追い付かず、かといって地元の有志が大きなお金を出すような時代でもありません。



ちいさな規模の神社ですから、お祭りといってもほとんど自治会の役員だけですませますし、境内にお守りを授与するようなところもありません。

けれど、社殿に関しては明治以降によほどがんばったのでしょう、授与所があってもおかしくないくらい立派なのです。

地域の自治会が共同で神社の予算を管理しているのですが、人口減少で会費も年々減少する中、爪に火をともすような努力で健全な予算運用を心掛けています。

しかし社殿の傷んできたところ、たとえば木部の腐った鳥居をどうしようかというような、足元の懸案事項のお金すら用意できず、苦慮しているのが実際です。



先日選挙の立会をしているときに、当地の神社の会計をもう何年もやっておられる方とご一緒したので、お話をうかがいました。

ほんとうは神社の会計は毎年交代するのですが、その方は神社の敷地の問題や、これまで先送りにされてきた会計上の問題を解決するために、もう何年も篤志で役を引き受けていただいています。

じつは先年、地域の宮司さんが90歳で亡くなったのですが、この方は生前、神社の敷地であったり、お金の問題などのややこしい部分を、地域の理解が得にくいという理由で、ややこしいままにしていました。

これは宮司さんを責められる話ではなくて、むしろ宮司さんは「神社の暗部を引き受けてくれていた」一面があります。

しかし宮司さんが亡くなったことで、今後は地域の自治会で神社を運営していくことになり、そこでこれまでの問題を一気に解決しようという流れになったそうです。

それで今年度にようやく神社としての体裁を整えるめどがたって、各団体に補助金の申請などをおこなえるとのことでした。

これまでは補助金申請も、土地の問題や会計面での未解決な部分が問題視されて、門前払いされていたらしいのです。

補助金申請がとおり、会計手続きをルーティンで進められるように段取りがつけば、会計のお役も次に引き渡せるといってその方は笑っていましたが、目に見えないところでたいへんな苦労があったのだと感じ入った次第です。



そういう事情を考えると、授与所があるような大きな神社が儲け主義になるのは仕方ないのでしょう。

個人的には、そもそも絢爛な社殿を建てようなどと見栄を張らず、小さなお社と、先人がつないできた土地を守ろうとする土着の精神性を大事にしていれば、こんなことにならなかったのではないかとおもいます。

ですが、問題解決にご苦労なさっている方を目の当たりにしては、なかなかそんなホンネはいえませんね(笑)



さて、神様の「同一」の問題なんですが、これは推理力が試されるパズルのようになっています。

書かれてある言葉をそのまま受け止めても、話が通じるようにはなっているのですが、その中にウソとほんとうが混じっているんですね。

今回はこの同一の問題を調べていくうちにわかった、かなり特殊な話をしたいとおもいます。



ちょうどいまわたしがこの記事を書いているのは建国記念日なんですが、だれがどのように同一の神であるかを調べるうちに、「天皇は神武天皇で血筋が途絶えていた」という、きわめて不敬な気付きを得てしまいました(笑)

前言をひるがえすようなかたちになるのですが、綏靖天皇が神武天皇の子であるというのは、わたしの調べ方の甘いところで、間違いだったようです。



ところで、わたしは以前、神武天皇の九州での妻のアヒラツヒメを卑弥呼と書きました。

あれもかなり飛躍していますが、「同一人物」の推測です。

しかし、わたしはいまもアヒラツヒメは卑弥呼(アマテラス)だと考えています。



神話では、神武天皇(カンヤマトイワレヒコ)とアヒラツヒメは、九州で子に恵まれていたといいます。

多芸志美美命(タギシミミノミコト)という名でした。

古事記では、さらに岐須美美命(キスミミノミコト)にも恵まれたとありますが、この子については記述が一切ありません。

卑弥呼には子がいないはずなのに、子がいるのはおかしいとおもわれるでしょう。

が、「神武天皇に子供がいる」ということ自体がウソなんです。

その理由は、神武天皇の子の名前にありました。



タギシミミは神武東遷に付いていったといいます。

実際には饒速日が亡くなって、ナガスネヒコがヤマトを乗っ取るかもしれないという緊急事態で、20代、あるいは10代でヤマトへ向かったとおもわれる神武天皇が、乳幼児を連れて戦に出るとは考えられません。

しかし、ここではそういうことにしておきましょう(笑)



神武天皇はヤマトでタタラヒメと結ばれて、さらにふたりの子をもうけました。

長男が神八井耳命(カンヤイミミノミコト)、次男が神渟名川耳尊(カンヌナカワミミノミコト)です。



正当な皇位継承者はヤマトで得た子なので、神武天皇が崩御すると、タギシミミはこの兄弟を殺そうと計画しました。

しかしカンヤイミミとカンヌナカワミミは事前にこの計画を知ります。

そこで逆にタギシミミを討とうということになったのですが、カンヤイミミは手が震えてタギシミミを矢で射ることができませんでした。

かわりにカンヌナカワミミがタギシミミを射殺します。

このことを恥じたカンヤイミミは皇位継承の座からおりて、次男のカンヌナカワミミが二代目綏靖天皇となりました。

神話におけるこのエピソードは、「タギシミミの反逆」といわれています。



日本書紀での綏靖天皇のエピソードは、タギシミミの反逆しかありません。

わたしはそれで前回、神武天皇の子の綏靖天皇はかなり早くに亡くなり、それがきっかけで欠史八代の時代になったと考えました。

しかしどうやら、タギシミミもカンヤイミミもカンヌナカワミミも、みんな神武天皇の子ではなさそうなのです。



順を追って説明します。

まずタギシミミの妻は、なんと神武天皇の妻のタタラヒメなのです。

つまり、子供が父親の、それも天皇の腹違いの母をめとる。

ふつうに考えて、そんなことがあるでしょうか。



しかしこれはタギシミミの名前から考えると、ある推測が成り立ちました。

まずタギシミミの「たぎし=多芸志」は出雲の地名です。

しかもあの稲佐浜のすぐ近くでした。

名前の「耳(ミミ)」は、地域を束ねる首長をあらわすといわれます。



「出雲の地名」
「名前に含まれる耳」
「妻が事代主(大物主)の娘のタタラヒメ」


この3点をつなげて考えると、タギシミミは出雲の多芸志のあたりを束ねていた若き首長で、国譲りの戦争に参加していた。

そして事代主(大物主)とともにヤマトへやってきたのではないでしょうか。



名前の「耳」で考えていくと、神武天皇のヤマトでの子、

神八井耳命(カンヤイミミノミコト)
神渟名川耳尊(カンヌナカワミミノミコト)

にも耳が入っていますよね。

耳という名がどこかの首長をあらわすのだとすれば、じつは神武天皇の子はすべて、実子ではなかったということになってしまうのです。

つまり、アヒラツヒメもタタラヒメも、子には恵まれていませんでした。



綏靖天皇の諱(いみな)に含まれる「渟名川(ぬなかわ)」というのは、高志国・越国(こしのくに)にあった、いまの新潟県糸魚川のあたりの地名です。

ここには奴奈川姫(ヌナカワヒメ)の伝説があって、大国主から求愛を受けたヌナカワヒメがタケミナカタを産んだという伝説があります。

カンヌナカワミミ(綏靖天皇)は、越の国のヌナカワ地方にいた首長だったのかもしれません。



ちなみにタケミナカタは国譲りの戦争の際に、タケミカヅチに敗れて信濃の諏訪に封じられます。

つまり高志国は出雲に味方して、国譲りの戦争に参加していたわけです。



わたしはカンヌナカワミミも出雲の戦争に参加していて、事代主とともにヤマトへやってきたのではないかと推測しています。

なぜなら綏靖天皇の妻は一説には葉江の妹の河俣姫ですが、一説では五十鈴依媛命といわれます。

五十鈴依媛命はタタラヒメの妹……つまり大物主(事代主)の娘なのです。



カンヤイミミの八井は、地名なのかどうかはっきりません。

しかし九州やヤマトに系譜をもつ多氏の祖であることから、九州と奈良のヤマト王権にネットワークをもつ、実力者だったのではないかとおもわれます。

そういう意味で、カンヤイミミの皇位継承順位はトップだったのでしょう。

タギシミミは、神武東遷の際に熊野に同行するなど、神武天皇の戦勝に大きく貢献しましたが、ヤマト王権と出雲の関係性からいっても、皇位からは外れていたのかもしれません。



これら3者が神武天皇亡きあとの皇位をめぐって争い、結果カンヌナカワミミが皇位を得ました。

が、綏靖天皇もなんらかの理由ですぐに崩御するのです。

そしてタギシミミの反逆には、やはり大物主が絡んでいるようにおもえます。

大物主は、タギシミミにタタラヒメをあてがい、皇位の簒奪(さんだつ)をそそのかしたのではないでしょうか。

神武天皇の妻がタギシミミの妻になったことを理解しようとすると、「大物主がそう取り計らった」と考えるほかありません。



しかしタギシミミは皇位争奪に負けて死んでしまいました。

大物主は綏靖天皇にも妻を送っていますが、カンヌナカワミミは越の国の者です。

出雲の大物主からすると綏靖天皇はセカンドベストだったうえに、綏靖天皇も皇子を残さなかったのでしょう。



その後、磯城県主や各地の首長、ウマシマジの血縁などがそれぞれ天皇を擁立する大乱戦となり、しばらく大物主は政治の舞台から姿を消しました。

しかしウマシマジの血縁である10代崇神天皇の御代になると、大物主はまた倭迹迹日姫命を通じて再登場するのです。



ところで欠史八代には、最大の謎が残っています。

欠史八代が神武天皇の血筋ではなかったとすると、これらの天皇は、いったい何者なのでしょう。

妻はそれぞれ葉江であったり、大物主だったり、ウマシマジの血筋だったりするわけですが、天皇が何者で、どこからきたのかがわかりません。

綏靖天皇は諱にヒントがありましたが、3代目からは推測のとっかかりもなくなって、袋小路に入ってしまうのです

だからこそ「欠史八代」なのかもしれませんね。



ところで、大物主はなぜここまで天皇家に執着したのでしょうか。

大物主は皇位の簒奪に失敗し、後年、若い倭迹迹日姫命と結婚してまで天皇の血筋につながろうとしました。

この執念と熱量は、単なる権力欲で片付けられるものではありません。

その点で崇神天皇は、大物主を相当警戒していたのではないかとおもいます。

わたしが崇神天皇だったら、こう考えます。



いまだ内憂外患の状況なのだから、ヤマト王権としては大物主の権力は利用できるだけすればよいが、どうやらあの爺さんは出雲の者らしい。

下手にわたしの血筋と結びつけたら、出雲を平らげる計画が危うくなり、天下の平定がいよいよ遠ざかってしまう。

巫女のおば(倭迹迹日姫命)と結婚しようとしているが、あの老人にはすこし夢をみてもらったあと、丁重に三輪山にまつっておくのがよかろう。

しかしそもそもあのおばが、大物主に吹き込まれたことをそのまま神託として告げたせいで、王権が巻き込まれてしまったのが問題なのだ。

巫女の神託というかたちで、大物主のような輩が介入する隙を与えている。

あのような巫女政治はそもそも、神武以前の伝統の政治手法なのだから、わたしの代で巫女の政治介入も終わらせてやろう。



ここにきてわたしは、ようやく大物主と倭迹迹日姫命の神話のエピソードが理解できたようにおもえます。

つまり倭迹迹日姫命が「お顔が見たい」と望み、櫛箱をのぞくと子蛇(大物主)がいた。

そしておどろいた倭迹迹日姫命の陰部に箸が刺さって死んだ、というくだりです。

わたしはこれを最初、単に老いた大物主に倭迹迹日姫命がおどろいて拒否した、と解釈したのですが、もっと深い意味があったようです。



櫛は巫女と結びつく神具なのですが、この箱の中に蛇が入っていたということは、出雲の者(ヘビ)がヤマトの巫女にとりついていた、ということでしょう。

崇神天皇は、大物主を出雲のスパイのような存在であるとみなしました。

このとき大物主の子種をはらんでいた倭迹迹日姫命も、大物主と出雲の関係におどろきます。

そして倭迹迹日姫命が自死……あるいは最悪、ヤマト王権によって殺されたのではないか。

けっきょく大物主は三輪山にまつられる存在となり、倭迹迹日姫命も箸墓古墳にまつられ、イザナギの時代から続いていた巫女政治も、いったん終わりました。



ところで倭迹迹日姫命で巫女政治が断絶したあと、アマテラス(巫女)をヤマトではないどこかにまつるための長い旅が始まります。

崇神天皇は、巫女を政治中枢から遠ざけたかったのでしょう。

まず崇神天皇の娘の豊鍬入姫命が、アマテラスの鎮座する場所を求めて全国を旅します。

しかし豊鍬入姫命は病に倒れ、次に11代垂仁天皇の娘の倭姫命(ヤマトヒメノミコト)が後を継ぎました。



そして長い旅の末、ようやく天照大神は伊勢の地に鎮座することになります。

この旅の中でアマテラスの鎮座する候補地になった場所が、全国各地の元伊勢として残りました。



さて、ギズモさんのご質問の件なのですが、大物主と事代主は、おっしゃるとおり同一であるとわたしは考えています。

つまり出雲で事代主と呼ばれていた神が、ヤマトでは大物主と呼ばれたのです。

そして事代主が、国譲りの際に大国主の運命を決定づける働きをしたことから、大国主の奇魂・幸魂ということになったのでしょう。



では、事代主がなぜヤマトへ向かうことになり、大国主の奇魂・幸魂となったのか。

ここからは話をわかりやすくするための、わたしの創作の物語をお聞きください。



国譲り(くにゆずり)とは、関東の領有権をめぐる、ヤマト王権と出雲王国の戦争でした。

ヤマト王権は九州と奈良から軍勢を送り、出雲もまた地方と連合して戦いましたが、稲佐浜で進退きわまります。

ギズモさんが問われた通り、このときタケミカヅチの軍勢は「さあ、国譲りをするのかしないのか、否・然を決めよ」と迫っていました。

しかしこの戦争では各地の王国が出雲に味方しており、天孫族の軍団に屈するべきではないという声も多くあったのです。



海岸近くに即席の陣屋を築き、出雲軍は最後の決断を急ぎます。

事代主は、もはや戦争を続けることは得策ではないと主張しました。

大物主大国主は、徹底抗戦すべしという周囲の首長たちの意見も取り入れたうえで、事代主にたずねました。



「ヤマトで少彦名が倒れた後、この国(関東)はわたしたちが必死になって開拓した。

関東の領有権が出雲にあるのは明らかである。

しかし出雲が国づくりに注力して疲弊したいまになって、ヤマトは国づくりの功を奪おうと、出雲に戦争を仕掛けた。

大義はわれらにあろう。

それでもこの戦をやめよというのか」



事代主が申し上げました。

「国づくりの功が出雲にあることはだれもが知っております。

しかしこのまま戦えば、出雲は滅びるでしょう。それではもはや出雲にはなにも残りませぬ。

これよりわたしがタケミカヅチと交渉を行いましょう。

大国主様がこの戦の引き際をつくっていただけるなら、わたしは大国主様の名のもとに出雲の国体を護持することを要求しまする」

ほとんどの人々が意地とプライドでものごとを考える中、事代主は戦争さえ取引としてとらえていました。



さらに事代主は続けました。

「たとえヤマトに国をゆずったとしても、国づくりの功は大国主様のものです。

わたしはなんとしてもヤマトの王権に挑み、わが身を賭してヤマトに出雲の爪痕を残しましょう」



大国主はしばらくうつむきながらじっと考えていましたが、顔を上げて、いいました。

「よくわかった。おぬしに頼みたいことがひとつある。

ヤマトに命じて、出雲に社をつくるように。それこそが出雲の国体である。

また、おぬしにヤマトの青垣(山)を与えてもらえるように交渉せよ。

そこで製鉄をおこない、少彦名の縁をたどって産業を盛り立てれば、ヤマトはぬしを頼るであろう。

ヤマトへはこの戦に参加した同盟国のめぼしい者も連れていき、ヤマト王権に士官させよ。

出雲の命運はおぬしに託した」



わたしはこのときに事代主が、若きタギシミミやカンヌナカワミミたちを連れて行ったのではないかと推測しています。

大国主は国譲りのあと出雲大社にまつられたとありますが、それはあるいは戦死を意味するのかもしれません。

しかし事代主がおらず、出雲が徹底抗戦の果てに敗れていれば、神話での出雲および大国主の評価はまったくちがったものになっていたはずです。

その点で、やはり事代主は大国主の運命を決定づける、奇魂・幸魂だったのでしょう。

そして事代主はヤマトで大物主となって、出雲とヤマトをつなぐ経済界のドンとなり、天皇の外戚の座を執拗に狙い続けました。



しかしわたしは、もちろん出雲に対して同情的ではあるのですが、だからヤマト王権がわるい、ともおもえないのです。

神武天皇はヤマトの主権がナガスネヒコに奪われぬよう、命をかけて奮闘しました。

天孫族からすれば、この戦い領土を広げるための戦いは使命であり、どのような手段をつかってでも日本を一統し、天孫族による秩序をもたらしたいと考えていたことでしょう。

大国主が関東の領有権を主張したとき、もしヤマトがそのまま受け入れていれば、それはヤマト王権が出雲の連合に平らげられることを意味します。

ヤマト王権は強大な国家が弱小国家を虐げるようにして国譲りを迫ったのではなくて、出雲の脅威に対してとことん必死だったのではないでしょうか。



欠史八代の争いも、それだけヤマトにいた多くの者が「国家運営」「国家というあたらしいムーブメント」に対して夢中になっていたということです。

まだ明確な国家がなかった時代に、神武天皇は見事に最高権力者としてあるべきビジョンをみせつけました。

個人的に神武天皇は、ある種の清潔さを感じる稀有な神であり、やはり偉大だったとおもいます。


【注】
ここでわたしは国譲りの話題で神武天皇を引き合いに出しましたが、国譲りの戦争はヤマトに饒速日がいたときに行われたものかもしれません。

神武東遷にタギシミミが参加していたのであれば、国譲りの戦争はそれ以前に行われていたことになるからです。




出雲に神が集まる神迎神事についてのお話をありがとうございます。

出雲の神迎えは神話にはなさそうなエピソードなので調べてみました。

これは平安時代あたりから形作られていった民間伝承なんですね。



和風月名の神無月というのは、もともと奈良時代から伊勢神宮で10月に行われていた神嘗祭(かんなめさい)から、神嘗月(かんなめづき)と呼ばれていたようです。

この嘗というのは、神々が新米を召し上がるという意味ですね。

神嘗祭では天照大神に新米を献上し、11月の新嘗祭では全国の神々、そして天皇に新米を献上します。

この神嘗月が平安時代に、八百万の神が大国主に会いに行く「神無月」へと解釈が変わっていき、出雲ではさらに「神在月」ということになりました。

民間伝承ですから、言葉遊びのようにして意味が変化してるんです。

八百万の神々が大国主、そして出雲に会いに来てくれるという物語は、大国主や出雲に同情した日本神話の読者をホッとさせる後日譚として、市民権を得たのかもしれませんね。



熱海の来宮神社では「大己貴命・五十猛命・日本武尊」の3柱をまつっているのですね。

こちらも来歴を拝見しました。

おそらく古くは明神信仰と権現信仰が混じる形で、標高700mほどの日金山を霊峰として、地元特有の神仏を崇敬していたのでしょう。

それで、「木の宮」から「来宮神社」になったようですね。

ご祭神の一柱である五十猛命は木の神です。

五十猛命はスサノオとともにソシモリへ行き、そこで日本にはない木の種を持ち帰って、大八洲をすべて山にし、紀伊の大神になったそうな。

紀伊の語源は「木」です。

来宮神社ではきっとむかしから、東国の民としての猛々しい誇りと、山の霊気にあやかり、ご神木をあがめるような、素朴な崇敬があったところなのでしょうね。



ところで、親から4月に、紀伊の熊野三山にお参りしないかと誘われました。

それで熊野についても調べていたのですが、つい最近、ある出来事が起こりました。

来年度、自治会の副会長をしていただく予定だった方に病気がみつかり、治療に入るということで、わたしが来年度、また副会長をすることになったのです。

自治会長・副会長は新年度にはあれこれと忙しいので、実家の母に電話し、旅行の話はキャンセルしました。

わりかし本気で残念なのですが、公共の役割ですから仕方ありませんね(笑)

あるいは今回熊野に行けないことも、なにかの暗示なのかもしれません。

きっとまた、呼ばれれば行けることもあるのでしょうし、焦らず待つことにします。

熊野について調べたことは、また機会があればお話ししますね。



さて、もう慣れてしまわれたかもしれませんが、今回もたいへん長い話になってしまいました(笑)

できるだけわかりやすくを心掛けてはいるのですが、なにせ今回も入り組んだ話でしたから、ややこしいとおもいます。

一万字を越えると、どこを拾って返信すべきかで悩まれるでしょうし、毎回心苦しくおもっています。

なにとぞご返信はご無理のないようにお願いします。
Icon of gizumo
書き足しをしないで新しく投稿で、失礼します。


国護りの話はいくつか読んだことがありますが、単純に、「するかしないか」のような表現をしたものしか知らず、農園主さんが書いてくださった『否・然』の言葉を初めて知りました。

農園主さんがご存じのことばかりとは思いますが、ちょっとした発見をした話をお読みください。



出雲大社のホームページには、『天照大御神様は目に見える世界(顕事・政事)を、大国主大神様は目には見えない世界(幽事・神事)を主宰される神様』と書かれています。

旧暦の10月10日なので毎年日程が異なりますが、昨年の神迎神事(神在月)はずいぶん遅かったです。


11月29日の夜に斎行されました神迎神事・神迎祭にて全国八百萬の神々を出雲大社にお迎えし、翌日から12月6日までの1週間、神々により縁結びの神議り(かむはかり=会議)がなされました。

この神在祭の期間中には様々な祭典が古式ゆかしく斎行され、12月6日夕刻の神等去出祭(からさでさい)にて全国八百萬の神々は出雲大社をお発ちになられました。
(出雲大社ホームページより)



出雲の観光ガイドには、以下のように紹介されています。

出雲大社の西方1kmにある稲佐の浜で、神々をお迎えする神迎神事(かみむかえしんじ)が斎行されます。
夕刻7時、浜で御神火が焚かれ、注連縄が張り巡らされた斎場の中に神籬(ひもろぎ)が2本、傍らに神々の先導役となる龍蛇神が海に向かって配置され、神事が斎行されます。(浜での神事は20分~30分ほど)
神事が終わると、神籬は両側を絹垣で覆われ、龍蛇神が先導となり、高張提灯が並び奏楽が奏でられる中、参拝者が続き、浜から出雲大社へ行列が続きます。
この後、出雲大社拝殿において国造(こくそう)以下全祀職の奉仕により「神迎祭」が執り行われます。これが終わると、ようやく神々は旅(宿)社である東西の十九社に鎮まられます。

神々の先導の竜蛇神は、豊作や、豊漁・家門繁栄などの篤い信仰があります。神迎祭終了後には特別拝礼、さらに神在祭期間中にも境内に竜蛇神を奉祭し、一般の自由参拝が可能です。



八百万の神が一斉に出雲大社に出向き、大国主が議長となり、会議をするんだそうです。

前に書いたかもしれませんが、神様たちが出雲に向け各地を出立する日、おみやげを神棚に用意します。

会議中、みんなで飲んでいただく日本酒の1合瓶、おつまみ(甘いものと塩気のもの)です。

神様たちはお酒が大好きだそうですので、なにとぞよしなにお願いします、という賄賂ではなく、気持ちとして、です(笑)



神様たちは、いきなり出雲大社集合ではなく、稲佐の浜に集まってから、龍蛇神先導のもと、出雲大社に向かいます。

その一連の儀式を、神職たちが行うわけです。


 
「否・然(いな・さ)」、ここから稲佐の浜と、名付けられたのでしょうか。

古事記では、「伊那佐之小濱」と書かれているようですが、後に稲佐の浜になったということですね。

いずれにしろ、「いな・さ」ですし、稲佐の浜は、国護りにおいて重要な場所でしたね。

出雲大社に直行しては、ならないわけです(神様たちが船で行くなら別ですが)。

書き足し: 船(または舟)で行く説が有力みたいですね。飛ぶ、というのも歩くのも、瞬間移動もピンときません(笑)

稲佐は「鋳成(イナリ)」つまり、製鉄から来た名前とも言われるみたいですが、関連はあるにせよ、やはり否然(いなさ)からが順当に思えます。



ということに、農園主さんの記事で気がついたのですが、書き忘れていたので、書かせていただきました。



昨日は一日お疲れ様でした。

心身ともにお疲れになったことと思います。

できたら今日はゆっくり過ごしてくださいね。

こちらは予想より雪が積もったので、こっそり雪を持ってきて、手のひらサイズの雪だるまを作りました(笑)

さすがに外ではできません( ̄▽ ̄;)
Icon of gizumo
※最後に、質問を付け加えました。

こんにちは(^^♪

お返事が遅れていて、ごめんなさい。

雑用が重なったところに、恒例の新春吉方位旅に出かけ、なんだか落ち着く間がありませんでした。

とりあえず、という形になって、なんとも申し訳ないのですが、途中まで書きためていたものと、雑談です。



お守りに関してのお考え、まったく同感です。

神棚仏棚の木札・紙札は、年末から1月にかけ、受け直しますが、お守りは、1年を目途にはするものの、愛着も出るので、長年持っているものもあります。

ことに、今回農園主さんからいただいたものは、ずっとそばに置かせていただき、大事にして、長年守っていただくつもりです→図々しいかも(笑)

ここからは小声でいいますが、お札を1年で買い替えるというのは、寺社のお金儲けの一環で、毎年買い替えてもらわないと困るため、1年経つとご利益がなくなる云々と騒ぎ立てているように思います(小声終了)。

日光の東照宮・輪王寺などでは、お坊さんたちが、お守りや縁起物を買うよう、終始声高に勧めているので本当にうるさいのですが、「1年で買い替える必要はありません、ずっとお持ちいただけます」と言うので、1回売れればいいのか?と、なんだか不思議です(笑)



緊張の件では、生意気なことを、大変失礼しましたm(_ _"m)

農園主さんの「じぶんが楽しめているかどうかを考えて」、これ、とっても大事なことです。

私にはこれが欠けていて、緊張はあまりしないくせに、自分が楽しむ余裕がありません。

自分が楽しんでいないのに、喜んでいただけるものが提供できるわけがないです。

昨年末のコンサートからは、事前にお参りする時に、喉に支障なく、体調が絶好調で臨めますように、という決まり文句の他、「お客様に楽しんでいただけて、自分も楽しんでできますように」というのを、付け加えました(笑)

そのおかげなのかどうかわかりませんが、皆さまに楽しんでいただき、自分も楽しみながら行うことができました。



今回も、壮大なテーマのご考察、ありがとうございました。

前から感じていたのですが、日本の神様や古代の人物の名前は、本当にややこしいです。

例えば大国主の別名は、Wikipediaで見ると、10以上ありますよね(笑)

しかも、その「別名」の他に、「別称」として「大国主大神」とあります。

誰それと「同一視されている」、という場合もありますね。

書物によって違うことがあるのかもしれませんが、統一できないまでも、せめて覚えやすい程度の数であってほしいです(笑)

読み方がほぼ同じでも、全然違う漢字を当てはめているものも多いですね。

今回の記事でも、難しい名前が多く、欠史八代とその妻の名前を書くだけでも、大変な労力だったことと思います。



今回の記事では、まったく知らない名前が多かったので、自分の知識の無さに、ちょっとショックでした(笑)

「葉江」という人も知りませんでしたし、2代目で神武天皇の血筋が途絶えたことも知りませんでした。

複数の天皇に関わったというと、最後に書いてくださった、武内宿禰もそうなんですね。

葉江の場合は、娘をどんどん天皇に嫁がせられるだけの、権力やコネクションを持っていたのでしょうが、娘たちも、幸せであったのか、気になるところではあります。



丹後の元伊勢籠神社のご祭神は、彦火明命で、饒速日命と同一なのですね。

饒速日命は、Wikipediaの中で、

『先代旧事本紀』では、天火明命(アメノホアカリ)とニギハヤヒは同一神とされる。他方、『新撰姓氏録』においてはニギハヤヒは、天神(高天原出身、皇統ではない)、天火明命(アメノホアカリ)は天孫(天照大神の孫)とし両者を別とする
と書かれています。

『新撰姓氏録』では両者を別とするとは書かれていますが、饒速日命イコール天火明命なら、饒速日命と天火明命と彦火明命は、同じですよね??

こんな感じで、最初に書いたように、ひとりの神さまや人に別名や同一視が当たり前のようにあるので、頭がパニックです(笑)

うっかりすると、違う人物(神)なのに同じと思っていたり、同じ人物(神)なのに違う人物だと思い込んでいたりするので、間違って理解して間違ったことを書いていたら申し訳ありません。



節分から立春にかけて毎年行く、吉方位のお参り旅行ですが、今年は仕事の関係で1泊しかできないのと、直前のホテル予約となってしまい、ものすごくバタバタしてしまいました。

そのため、行き慣れた熱海にして、何回か訪れている来宮神社にお参りすることにしました。

ご祭神は、大己貴命・五十猛命・日本武尊の3柱です。

農園主さんの前回の記事に、事代主のお話があったので、事代主と大国主がご祭神の、熱海の今宮神社にしようと思って調べたのですが、ホームページを見たら、『宮司ご挨拶』というところに、キャピキャピ系のおね~さんの写真が(笑)

宮司、禰宜、権禰宜さんたちがみんな同じ名字なので、家族や親族なのでしょう。

名字が「泉明寺」というのですが、珍しいので「名字の由来net」で調べたら、静岡県にみられる名字で、全国人数は10人ほどだそうです。

神社で「寺」がつく名字はユニークですね。

結局、今宮神社は行かなかったのですが、機会があれば、行ってみようと思います。



ところで、「事代主」を祀った神社と、「事」の字がつく「事任八幡宮」などは、お願いをする際、なるべく短い言葉で言うという、暗黙のシステムがあるそうです。

「財運!!」 「健康!!」というように。

一言主神社(あまりありませんが)が、そういうお願いの仕方なのですが、一言主は、大国主の息子である(と言われている)事代主と同一視される場合が多いそうです。

「事」は、「言」でもあるみたいです。

くどくど言うな、一言で願わないと、お前たちの言いたいことがよくわからんではないか、というお考えの、短気で時短好きの神様なのでしょうか(笑)←これについて、数行下にも書きました。

書き足し:
 短く願いなさいということではなく、「一言の祈願でもおろそかにしない」という見方もあります。



ここで、頭がごちゃごちゃになってしまい、恐らくきちんと理解できていないことをひとつ挙げさせてください。


大国主の前にあらわれた、幸魂・奇魂が、「大物主」だったといわれる。


このあと、ニニギノミコト天孫降臨の話で、なぜなら、幸魂・奇魂(事代主)が三輪山に行く意味がないからです

これは日本書紀で幸魂・奇魂のエピソードと並べて書かれてあるのですが、あるいは大国主の幸魂・奇魂とは、事代主のことだったのかもしれません

と書いてあるので、「大物主」と「事代主」は同じ、と解釈していいのでしょうか?



そして、次の、

事代主は大国主の息子といわれますが、一説には大国主自身ともいわれたりします。

しかし大国主と大物主は性格からなにから、まったくちがうのです。

わたしは事代主は、大国主の息子ではなく、大国主と年がほとんど離れていない出雲の重臣だったのではないかと考えました。


このお考え、同感です。

「一言で願え」というのは、まさに農園主さんが書いていらっしゃるように、大物主の「合理的・ワンマンな気質・怜悧な優秀さ」がピタッと当てはまります。

私の考えは、ちょっと外れた視点からですが、神様の性格もそれぞれで、なんだかおもしろいです(笑)



2月11日は「建国記念の日」で、神武天皇の即位日(紀元節)ですね。

この時期に、古代の天皇や日本の神様のお話を伺うことができるのは、日本のことをちゃんと知りなさい、興味を持ちなさいという、神武天皇はじめ、古人の御業かもしれません。

いつも、ありがとうございます。



この数日は珍しい暖かさでしたが、明日明後日は雪予報です。

日曜日は選挙で一日仕事、ずっと座っているとだんだん冷えてきますので、お気をつけくださいね。

とりあえずのお返事になってしまい、申し訳ありませんでしたが、また続きを書かせていただきますね。



※追加: 

すみませんが、どうしても理解ができない点(農園主さんの記事についてではなく、一般的な話です)があるので、質問させてください。

「幸魂・奇魂」の、具体的な意味です。

ネットで調べられる範囲での意味は、なんだか抽象的で、わかったようなわからないような、で完結してしまいます(笑)

・ひとつの霊(神?)に対し、4つの魂がある。

・幸魂・奇魂はそのうちのふたつである。

・大国主は、自分の幸魂・奇魂を三輪山に鎮めた。


幸魂・奇魂は、大国主自身の魂である、と解釈するのは間違いで、「大国主の前にあらわれた、幸魂・奇魂が、大物主だったといわれる」「あるいは大国主の幸魂・奇魂とは、事代主のことだったのかもしれません」と書いていらっしゃるように、別の存在の魂ということなのか、或いは、大国主と大物主と事代主が同一視されていて、「同じ」とまとめてしまっていいのか・・・。

謎です(笑)

2026年1月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する

Icon of nouennushi
こんばんは。

お札の役目が終わったからと、お祓い箱にしなくてよかった、というギズモさんのお言葉は、わたしも感じていることでした。

ギズモさんの場合は、お札を継続して授与してもらう、という意味だとおもいます。

わたしの場合はお守り自体がくたびれて、もうご返納していただきたがっている、と感じるのでなければ、お守りはどんなに時が経ってもわたしを守ってくれますし、決してわるい影響を与えたりはしない、と考えています。



緊張についてのお話、ためになりました。

わたしも年を取ると緊張の仕方が変わるような気がしているのですが、その手前の段階で、人を楽しませたい、人に心地よくいてもらいたい、という意識のあるなしが、心地よい緊張にかかわっているような気がしました。

わたしはこれまでの人生を振り返っても、他人を楽しませるかどうかよりも、じぶんが楽しめているかどうかを考えていた気がします。

といっても、この年から突然意識が変わるともおもえないので、おそらくこれからもそうなんだとおもいます。

しかし人を楽しませる緊張感を会得しないまま、年をとって緊張感がなくなるのは、なんだかとても残念な気もします。




さて、前回お伝えした通り、古代のお話をさせていただきます(笑)



欠史八代の時代は、2代目の綏靖天皇で神武天皇の血筋が途絶えたことから、20年ほどの間で王が横並びに乱立した時代なのではないかとわたしは考えています。

欠史八代を読み解くカギになるのが「磯城県主(しきのあがたぬし)」です。

いまでも奈良県に磯城郡という地名で残っているのですが、神武天皇の時代に政権中枢を担っていた地域です。

この磯城県主に葉江(波延)という人物がいました。



まず磯城県主と葉江に注目して、欠史八代とその妻をみていただきたいのです。

(初代 神武天皇)
2代 綏靖天皇 (日本書紀)大物主の娘  (古事記)葉江の妹
3代 安寧天皇 (日本書紀)大物主の孫の娘  (古事記)葉江の娘
4代 懿徳天皇 (日本書紀)安寧天皇第一皇子の娘  (古事記)葉江の血族の娘
5代 孝昭天皇  尾張連の祖・奥津余曾の妹の世襲足媛 (日本書紀)葉江の娘、あるいは倭國豊秋狭太媛の娘
6代 孝安天皇  孝昭天皇第一皇子の娘 (日本書紀)葉江の娘、あるいは十市県主五十坂彦の娘である五十坂媛
7代 孝霊天皇 (日本書紀)磯城県主の大目の娘  (古事記)十市県主の祖の大目の娘
8代 孝元天皇  ウマシマジの後裔の大水口宿禰命の娘の欝色謎命
9代 開化天皇  ウマシマジの後裔の大綜麻杵命の娘の伊香色謎命
(10代 崇神天皇)



これをみると、葉江は欠史八代のうち、3代(あるいは2代)から6代までの天皇に后を与えています。

これは神話どおりに数十年おきに天皇が皇位を渡していったと考えると、葉江の寿命のつじつまが合いません。

しかしこの天皇の交代劇が短い期間中に、一度に起こったことだと考えれば、葉江が娘をどんどん天皇に嫁がせたというようなこともじゅうぶん可能です。



逆に短い期間で一気に起こったことだと考えると、たとえば3代安寧天皇の妻「大物主の孫の娘」は、無理があることがわかります。

なにせ大物主は10代崇神天皇の折に登場して、倭迹迹日姫命と結婚しようとします。

欠史八代のころの大物主は40代半ばから50代くらいでしょうから、孫はいたかもしれませんが、ひ孫がいるような年ではありません。



4代と6代の天皇が、先代の第一皇子の娘と結婚するというのも、奇妙ですね。

これは天皇が姪っ子と結婚するようなものですが、先代が孫をもうけて、皇太子に嫁がせるまで成長を待つには、20年は短すぎます。

結局、実際の歴史の時系列の矛盾点を省きながら考えていくと、やはり葉江は当時の複数の天皇の擁立に深くかかわっていたとおもうのです。



さて、欠史八代を語るには、饒速日命を避けて通ることはできません。

饒速日はニニギノミコトの兄で、神武天皇に先駆けてヤマトの地を開拓しました。

饒速日の息子はウマシマジ(宇摩志麻遅命)といいます。

饒速日→ウマシマジの血筋は、その後物部や穂積といった豪族につながっていきました。



丹後の天橋立近くの元伊勢籠神社のご祭神は彦火明命(ヒコホアカリノミコト)ですが、彦火明は饒速日と同一といわれます。

なぜ丹後で饒速日が出てくるのか、ということなんですが、饒速日はヤマトの地へ向かうまでに、出雲、但馬、丹後と、本州の山陰を経由するルートを通り、その道中で複数の妃をもって、子をもうけていたようです。

なので、饒速日には山陰各地に落胤(落としだね)があったと考えられます。



饒速日は神話に伝わるように、アマテラスの命でいきなり生駒山に降臨したわけではありません。

卑弥呼に命じられて、九州から奈良へと遠征をしました。

旧事本紀では饒速日命が降臨する際に大量の神々が付き従ったとあります。

これは九州から付き従った豪族もいたでしょうが、遠征の旅路の中で、様々な国に立ち寄り、多くの部下を得たのでしょう。



さて、ここからしばらく話が変わるのですが、出雲の話をします。

旧事本紀に書かれてあることなんですが、饒速日のヤマト遠征に付き従った神の中に、少彦根命がいました。

少彦名と少彦根命で、すこし漢字がちがうのですが、これはもちろん少彦名のことで、もしかしたらこのころすでに、饒速日に従う形で少彦名が出雲から失われていた可能性があります。

つまり少彦名はヤマト側から、大国主の国づくりを手伝った、とわたしは考えました。



オオナムチが出雲の王になったのは、わたしの時代考察でいうと、190年あたりになります。

このときすでにスサノオは根の国にいたということですから……つまり60歳あたりで亡くなっていたのでしょう。

スサノオは40代後半から50代にかけて出雲の王となり、若いクシナダヒメと子を為して、10年ほどで亡くなったとおもわれます。



オオナムチは日本書紀ではスサノオの子でした。

しかし古事記では八十神にいじめられたり、根の国のスサノオの難題を解決して、スセリビメと結ばれて……つまり結局はスサノオの養子になります。

オオナムチ、すなわち大国主のエピソードをみていると、たよりない優男のようにもおもえるのですが、実際には勇敢さと、部下と協調しながらものごとを進めるやさしさを兼ね備えた大人物でした。



さて、旧事本紀のとおり少彦名が饒速日に従ってヤマトへ行ったとすれば、これは180年ごろですから、少彦名は大国主よりかなり年上だったのでしょう。

少彦名はその身体的特徴もそうですが、クエビコ(久延毘古)という知恵の神のカカシと同一とされることから、いまでいう障がい者だった可能性があります。

しかし少彦名は、ハンデキャップを補って余りある優秀な知性を持っていました。

少彦名はその伝説をうのみにするなら、医療、米作り、酒造、陶業と、その後大物主に引き継がれる産業の基礎部分を為したようです。

さらに出雲の大国主と共同で、おそらく10年あるかないかの短い期間だとおもいますが、関東開拓(国づくり)をおこない、そして大国主より早く、200年ごろに世を去ったのでしょう。



しかし少彦名が亡くなると、大国主が「葦原中国はわたしが開拓した。わたし以外に治めることのできる者はいない」と宣言しました。

すると、神話によれば大国主の前に幸魂・奇魂があらわれ、こういったのです。

「違う。わたしがあるからこそ、お前は国づくりを行えたのだ」

そして「わたしを三諸山(奈良の三輪山)にまつりなさい」というので、大国主はそのようにしました。

この幸魂・奇魂が大物主だったといいます。



このエピソードはつまり、出雲国が国づくり(関東開拓)をしたと主張したのを、ヤマト王権が許さなかったということでしょう。

これは実際には、関東の領有権をめぐって、ヤマト・九州の連合と、出雲との戦争にまで発展したのだとおもいます。

結果、大国主はヤマト王権に屈するかわりに、出雲大社の建設を要求し、受け入れられました。



ちなみに、神話では大国主が国譲りをしたことで、ニニギノミコトが天孫降臨したというのですが、これはわたしの時系列ではつじつまが合いません。

饒速日が奈良を開拓しているころ、ニニギノミコトはすでに皇位についているか、あるいは崩御しています。

奈良にヤマト王権が成立した時期でなければ、大国主の国譲りは成立しません。

なぜなら、幸魂・奇魂(事代主)が三輪山に行く意味がないからです。



出雲は出雲大社があることによって、国譲りをした後も、国家のような存在であることが許されます。

しかしそれが許されたのは、その後大物主がヤマトで絶大な権力を発揮したからで、大物主が亡くなると、崇神天皇は結局出雲を滅ぼしてしまいました。

このあと、出雲の人々が苦しいおもいをしたであろうことは、以前話したとおりです。



ところで、大国主が国譲りするにあたって、事代主が三輪山へ行くこととなりました。

これは日本書紀で幸魂・奇魂のエピソードと並べて書かれてあるのですが、あるいは大国主の幸魂・奇魂とは、事代主のことだったのかもしれません。

この際、フツヌシとタケミカヅチが大国主に強硬に談判して、国譲りするのかしないのか、「否・然(いな・さ)」を問うのですが、これは先ほども述べた通り、出雲とヤマト(および九州王国)の間で戦争があったのでしょう。

そして大国主はこのとき返事をすることができず、事代主に相談するのです。

事代主は国譲りするように、大国主に進言しました。



事代主は大国主の息子といわれますが、一説には大国主自身ともいわれたりします。

しかし大国主と大物主は性格からなにから、まったくちがうのです。

わたしは事代主は、大国主の息子ではなく、大国主と年がほとんど離れていない出雲の重臣だったのではないかと考えました。



つまり、事代主が大国主にみずから提案してヤマトへ向かい、三輪山で製鉄事業を行い、さらに少彦名の事業も引き継いだのではないか、と。

なにせ大物主は、大国主とちがってひどく合理的で、怜悧な優秀さがありました。

大物主のような経営的センスは、ちょっと大国主からは感じることができません。

事代主は判断が的確で、しかし言い方を変えればワンマンな気質があります。

そしてなにより大国主とちがって、女の扱いが下手でした。

大物主の女性エピソードは、なんだか気持ち悪いものが多いのです(笑)



大国主は出雲大社にまつられると同時に、幽世(かくりよ)の神となったということですから、出雲の地で亡くなったのでしょう。

大国主の偉大さは、敗戦を認めるかどうかを部下にゆだね、そうすべしと決まったら、いさぎよくみずからすべての責任をとったところにあります。

ただ部下に判断を投げていたのではなく、最後きちんと責任をとる覚悟も背負っていたんですね。



おそらく国づくりにおいては、少彦名の死後、出雲側が多くの苦労を負ったのでしょう。

だから、大国主が国づくりの主権を主張したのは、正当な主張でした。

ヤマト王権が紡いだ神話では、国譲りはニニギノミコトの天孫降臨のためだとか、あれこれ理屈付けをしますが、実際には出雲の功績を強奪したように感じられます。

国づくりの面で出雲にこれといった功績がないのなら、出雲大社をつくってくれという要求をヤマト側が飲む必要もありません。

しかしヤマト王権は、大国主をたたえる巨大な神社を建造しました。



じつは国譲りでは、ヤマト王権から出雲に対して、かなり理不尽な要求があったのではないか。

そして大国主はその理不尽をすべて受け止めて、責任を負いました。



記紀神話がヤマト王権の物語であるにもかかわらず、一介の出雲の王に「大国主」というビッグネームを与えたのは、このあたりの負い目があったのでしょう。

大国主は表面だけ見ると、女性に守られるばかりで、頼りない優男のようにおもえますが、じっくり調べていくと、じつに偉大で魅力的な神でした。

スセリビメが惚れ、スサノオが一目置いたのも、さもありなんです。



さて、事代主は出雲にとっての最善、ヤマト王権にとっての最善、さらに大国主の名誉、じぶんの利益を総合的に考えました。

経営者は勝ち馬に乗って、八方よしを心掛けることで利益を拡大しますが、事代主は政治においても経営においても、このあたりのバランス感覚が非常に優れています。

事代主は出雲でも優秀だったはずですが、ヤマト王権も完全に大物主(事代主)に依存します。

神武天皇は大物主の娘を娶りましたし、ヤマト王権内の産業の多くが大物主の利権となりました。



さて、長い脱線でしたが、饒速日と欠史八代に話を戻しましょう。

饒速日命はヤマトへ行くと、もともとヤマトの地に住んでいたナガスネヒコと出会い、かれの妹をめとり、ウマシマジをもうけます。

ナガスネヒコは天孫族との縁を得たことで、ヤマトの地の権力を掌握した気になって増長しました。



日本書紀によると、神武天皇がヤマトにやってきたとき、饒速日命は存命だったとありますが、旧事本紀ではもう亡くなっていたとあります。

饒速日が直接神武天皇に下ったほうが神武東遷の正当性は高まるのですが、わたしは饒速日は亡くなっていたとおもいます。

なぜなら饒速日命が生きていたら、天孫族の外戚にすぎないナガスネヒコが、神武天皇に強硬に盾突くわけにもいかなかったはずですから。



あるいは、そもそも饒速日が亡くなり、ナガスネヒコにヤマトが乗っ取られそうだと高千穂に伝わったため、神武天皇が急ぎ海路を利用してヤマトにつかわされた可能性すらあるとおもうのです。

わたしはなぜ神武天皇が饒速日のように各地で有力氏族を仲間にしたり、子をもうけなかったのか不思議だったのですが、海路や水路をフル活用して、全速力でヤマトまで向かったのかもしれません。

そのように考えると、当時まだ10代だった可能性すらある神武天皇が、アマテラスに命じられて東遷を行った不可解さについても、納得できます。



ちなみにナガスネヒコは天孫族ではありません。

だからナガスネヒコは、饒速日が死んで手中に入れたヤマトの地を、いまさらまた天孫族に明け渡すなどまっぴらごめんだとおもっていました。

しかしウマシマジは饒速日の子ですから、天孫族の血が入っています。

「天孫族の血統」は、この時代に、じぶんが何者であるかを指し示してくれるとても強い光を放っていたのでしょう。



ウマシマジからすれば、たとえナガスネヒコの抵抗が功を奏したとしても、後ろ盾のない独立国家になるだけでした。

天孫族の血筋を利用して九州の王国の後ろ盾を得たほうが、ウマシマジの将来にとってよほど有利なのです。

じぶんの血筋でいえば、神武天皇に準ずる立場にはなれることでしょう。

結果、ウマシマジは神武天皇に恭順の意を示して、ナガスネヒコを討伐してしまいました。

もちろんじぶんの伯父ですから、複雑なおもいがあったのは間違いありません。

神武天皇はその労に報いるかたちで、ウマシマジを申食国大夫(おすくにのまえつきみ)という、当時の政権の頂点の役職でむかえました。



おなじく神武天皇がヤマトで戦っているときに、兄磯城と弟磯城のエピソードがあるのです。

これはナガスネヒコとウマシマジのエピソードそっくりなのですが、神武天皇に反抗していた兄磯城を、弟磯城が討つのです。

弟磯城こと黒速(クロハヤ)は、この功績により初代の磯城県主になりました。



しかし神武天皇が崩御すると、二代目磯城県主の葉江が天皇一族の外戚になろうとします。

葉江がなぜこれほどの情熱を傾けて、複数の天皇を擁立したのか、はっきりしたことはわかりません。

なんとなく神話から読み取れることといえば、初代の黒速も二代目の葉江も、三代目の大目も、名前に「命(みこと)」などの尊称がないことです。

わたしはこのあたりでどうも、かれらは天皇の外戚になれるような身分ではなかったのではないかという気がしました。



実際、欠史八代の系譜をじっくり見ていくと、横並びになった王の中で、実際の権力を手にしたのは、8代目以降の天皇でした。

8代 孝元天皇
9代 開化天皇

ですね。



孝元天皇の正妻は、欝色謎命(うつしこめのみこと)といって、穂積氏の祖先といわれる大水口宿禰の娘でした。

穂積氏は、物部氏とおなじくウマシマジの系譜です。

そしてこの孝元天皇から倭迹迹日姫命が生まれました。



開化天皇の后は伊香色謎命(いかがしこめのみこと)です。

孝元天皇と開化天皇がなぜ欠史八代の勝者だったかを読み解くには、この伊香色謎命がキーパーソンとなります。

しかしその前に、伊香色謎命の兄の伊香色雄命(いかがしこおのみこと)についての伝説をお話ししましょう。



日本書紀によると、10代崇神天皇の御代に、疫病が流行りました。

国全体が乱れる中、八百万の神をまつる神浅茅原(現在の奈良県桜井市のあたり)で、倭迹迹日姫命が神懸かりを起こします。

神に乗り移られた倭迹迹日姫命がいいました。

「わたしは大物主である。わたしを奉れば国は落ち着くだろう」

しかしはっきりしたことがわからないまま、時がたちました。



そんなある日、崇神天皇の夢枕に大物主が立ちます。

「大田田根子(おおたたねこ)と市磯長尾市(いちしのながおち)に、大物主神と倭大国魂を奉らせよ」

そこで崇神天皇が号令を発すると、現在の大阪府堺市のあたりで、大田田根子を探し当てたのです。

(今回、市磯長尾市については話を省略します)

大田田根子に出自を問うと

「父は大物主神、母は活玉依姫です」

と答えました。

まごうことなき、大物主の系譜です。



さらに占いを重ねると、伊香色雄(いかがしこお)を神班物者(神への捧げものを分配する者)にすればよいと出ました。

伊香色雄はウマシマジの血筋、すなわち物部の祖先でした。

この占いにより、石上神宮が建造されたといわれます。

この神託によって、たしかに国の騒乱はおさまったそうな。



さて、3代目から7代目までの天皇には、磯城県主から后を出していましたよね。

8代目の孝元天皇の正妻は欝色謎命(うつしこめのみこと)です。

そして夫人が伊香色謎命(いかがしこめのみこと)でした。



伊香色謎命は、若いころに8代目孝元天皇の夫人となり、その後9代目開化天皇の正妻になりました。

伊香色謎命は、伊香色雄命のきょうだいです。

ややこしい血筋の話でしたが、ようするに、孝元天皇も開化天皇も、ウマシマジの血筋で妻を選んだのです。



ところで日本書紀では、大物主と倭迹迹日姫命の破局の物語は、この大田田根子を探す騒動の後に記されています。

つまり、大物主は生きていたんですね。

なのになぜ大物主は、わざわざ倭迹迹日姫命に神懸かりさせて、「大物主を奉れ」なんてことを言わせたのでしょう。



これはつまり、欠史八代の権力争いが続いている間、大物主はヤマト王権と距離を置いていたということだとおもわれます。

"大物主"が"倭迹迹日姫命"の口を借りて"崇神天皇"に、託宣を伝えるというあたりに、ヒントがありますね。



おそらく大物主は、8代孝元天皇がウマシマジの系譜とつながった時点で目をつけていました。

大物主は、磯城県主の擁立した天皇にはかかわらず、ウマシマジの系譜の天皇を選んだのです。

そして、欠史八代の覇権争いに事実上の決着がついて、10代崇神天皇の御代になってから、本格的にまたヤマト王権と関わりだしたということでしょう。



このとき、これみよがしに孝元天皇の娘である倭迹迹日姫命を利用することで、孝元天皇の系譜とつながったことをアピールしました。

つまり大物主は、勝ち馬をじゅうぶん見極めて、最終的に欠史八代の勝者を決めたキングメーカーだったといえます。

この点でも、大物主の抜け目ないしたたかな性格がみえてきますね。

しかしこういった大物主の強大な権力を、若きカリスマだった崇神天皇は危険視したのかもしれません。



大物主が大田田根子を探し出した理由については、大物主の後継者を探し、天皇家とのつながりを維持する目論見があったようにおもえます。

しかし実際には、大田田根子は三輪氏や鴨氏という有力な豪族の祖先となり、大神神社の祭主にもなったのですが、大物主の強大な権力をそのまま引き継ぐことはありませんでした。

これも、崇神天皇のちからが働いていたようにおもえます。



さて、これで欠史八代の話はおしまいで、最後に武内宿禰の話をさせていただきます。

いままで10代崇神天皇までの話をしてきましたが、そこから2代先の景行天皇の時代から、16代仁徳天皇までに使えた仕えたのが武内宿禰ですね。

じつは天皇の寿命が人間よりも長い時代は、仁徳天皇までです。


10 崇神天皇 120歳 在位68年   BC97 ~BC30
11 垂仁天皇 140歳 在位99年   BC29 ~AC70
12 景行天皇 106歳 在位60年  AC71 ~AC130
13 成務天皇 106歳 在位60年   AC131~AC190
14 仲哀天皇 52歳  在位9年    AC192~AC200
(神功皇后 (100歳 在位69年)(AC201~AC269)
15 応神天皇 110歳 在位41年   AC270~AC310
16 仁徳天皇        在位87年   AC313~AC399


仁徳天皇以降、天皇の寿命はおおむね人間と変わらなくなります。

つまり、仁徳天皇の崩御以降、神話の年数と実際の歴史の年数の整合性がとれてくるわけですね。



わたしは崇神天皇の実際の在位期間は230年あたりから270年ごろだと考えています。

そうすると、仁徳天皇の在位期間は313年から399年ですから、崇神天皇の御代から早ければ40年。

遅くても120年ほどで、実際の歴史にほぼ追いつくのです。

6代の天皇がバトンタッチしていく期間としては、かなり現実的ではないでしょうか。



さて、景行天皇14年に武内宿禰が生まれました。

おそらく景行天皇は長期政権だったのでしょう。

ヤマトタケルを含め、神話におけるエピソードも豊富です。

もちろん額面通り60年の在位とはいきませんが、30~40年ほど在位したと考えましょう。

すると景行天皇が崩御したころ、武内宿禰は20~30代です。



次の成務天皇も武内宿禰を大臣に起用します。

しかし各地の国や県に首長を置くという以外は、ほとんど記述がなく、崩御しました。

父の在位が長かったからか、成務天皇の在位期間はかなり短かったとおもわれます。



次の仲哀天皇は熊襲討伐の道半ばで病気になって崩御します。

在位期間は9年。

これはそのまま受け取っていいでしょう。



このとき、武内宿禰は40~50歳といったところです。

では次の神功皇后は仲哀天皇の后なんですが、応神天皇が即位するまでの間に摂政として政治を行いました。

天皇が二代続いて早く亡くなったため、皇后が摂政になったとおもうのですが、この時代の神話はどうも嘘くさく、三韓征伐といって、朝鮮半島への出兵をして、朝鮮を従えたという伝説があるのです。



神功皇后は一時途絶えていた巫女政治を行ったようなんですが、この時期の神話はやたら勇ましく、武勇に満ちたエピソードが豊富なんですね。

日本が新羅を圧倒した、というような、なんだか戦時中の大本営発表みたいなことが書かれてあるのですが、真偽のほどは極めて怪しい。

おそらく実際には、ヤマトからの朝鮮への侵略行為はあったものの、朝鮮半島の戦争でヤマトが存在感を示した、という程度のことでしょう。

むしろその後長く朝鮮半島と友好関係と敵対関係を両立させる関係の中で、日本に渡来人が大量にやってくることとなります。

神功皇后は応神天皇が即位するまでの十年ほど、摂政として政治をしていたのでしょう。



次の応神天皇は武運で有名な八幡神としてあがめられました。

八幡神は応神天皇、神功皇后、そして比売神で、八幡三神とされます。

応神天皇は、まるでアマテラスの時代のように、母の神功皇后の神懸かりを利用して戦争をしていました。

そう考えると後世の武人にとって、武運を神に任せるという意味で、八幡神ほどうってつけの神はいなかったことでしょう。



応神天皇の在位期間は41年とされていますが、実際には20年くらいだと考えます。

すると、景行天皇が40年、成務天皇が10年以内、仲哀天皇が9年、神功皇后が10年、応神天皇が20年。

武内宿禰は景行天皇14年に生まれていますから、これら天皇の時代をすべて足し算すると75歳。



といっても近代以前の天皇の寿命が平均して50歳ほどで、在位期間が平均11年ほどであることを考えると、これでも相当長く見積もっています。

実際にはもう少し在位期間が短く、武内宿禰は70手前で仁徳天皇の家臣となったのではないでしょうか。

そのように考えると、相当長生きはしたものの、武内宿禰はやはり人間の寿命だったとおもわれます。



日本書紀で、仁徳天皇が武内宿禰に、あなたほどの長寿はいないといって称える箇所があります。

これが武内宿禰の出てくる最後なんですが、もしかしたら80歳、90歳を超えてもまだヤマト王権に仕えていたのかもしれませんね。



というわけで、今回もかなり長くなりましたが、いろいろと考察を述べました。

きっと今回も読むのにご苦労なさるとおもうのですが、お返事は拾いたいところだけ拾っていただいてかまいませんし、時間を区切らず気の向いたときにゆっくりでかまいません。



ギズモさんの書き足しにあったわたしの過去の記事ですが、日本神話に対するわたしの立場は、あのときと変わっていません。

しかし古代に対する細かい認識はここのところ、調べれば調べるほど、どんどん変わっています(笑)

もしわたしの記事の中で疑問を感じることなどがあれば、ご質問ください。



最後になります。

最近は温暖化の影響か、冬の本番が大寒(1月20日)以降、3月あたりまでといった感じになりました。

当地ではこのあたりから除雪が忙しくなります。

2週間ほど前に、ついうっかり人の集まるところに行ってしまい、風邪をひいてしまいました。

が、いまはもう元気です。

田舎ではあまり風邪をひかないので、たまに風邪をもらって免疫をつけるのもいいのかもしれない、と前向きに考えています(笑)

まだまだ寒さが続きますが、ギズモさんもご自愛ください。
Icon of gizumo
※最後に少し書き足しました。


お返事をありがとうございます。

棚から吊り下げて、神社の鈴のようにしてくださったとのこと、ありがとうございます。

数年前に日光に行った時に東照宮で買った鈴は、「鈴鳴龍」というのですが、これも八雲の鈴と同じ作りなので、音色が同じです。

一方、穴があいているタイプの鈴は、もっとクリアな音色だということに、昨日初めて気がつきました(笑)


農園主さんがおっしゃるように、なぜか氷川神社に行くと、穏やかさを感じます。

私のイメージだと、スサノオは、西遊記の孫悟空と重なりますが、あくまで個人的な感想です(笑)



コンサートのことなど、おほめいただき、恐縮です。

3歳から、音楽に限らず舞台に立っているので、慣れているはずですが、実は毎回、開始10分前くらいに、めちゃくちゃ緊張します(笑)

心臓が早鐘のようにドクドクしますが、それを過ぎるとすっかり落ち着いてしまいます。

・・・・のはずなのですが、『愛の讃歌』の時、弾き語りなので歌詞を見ているのに、1行とばして歌ってしまったので、その行に戻って歌い、ごまかしました(笑)

越路吹雪の歌詞ではないので、気がつく方はいないだろうという、希望的観測でした(笑)




まさに「人を楽しませる」というのが、私の課題であり、天職としての一環だと思います。

ただ聞かせるだけでは、堅苦しい、窮屈なものとなりがちなので、楽しんでもらえ、笑ってもらえるコンサートを目指して、セットリストを考えています。

「吉本で修行してきました」というホラを吹くのが定番です(笑)



あがり症とのことですが、その緊張は、周りの方に、農園主さんの真摯で一生懸命なお人柄を感じていただけるものかもしれません。

血圧が上がるのはご心配でしょうが、適度な緊張は、いいところでもあると思います。

慣れることは必要ですが、慣れすぎは却ってよくないこともありますね。

年を取ると、若い頃に比べ、恥ずかしさをさほど感じなくなったり、悪く言うと図々しくなるとか言いますので、あと10年以上経つと、状況は変わるかもしれません。

他人事だと思っていいかげんなことを、と思われたら申し訳ないですが、案外なにかがきっかけであがらなくなることもあるので、難しいかもしれませんが、気楽に臨んでみてくださいね。



今の住まいに引っ越したのは約10年前ですが、私にとってこの方角は、暗剣殺?かなにかで、大凶方位でした。

そこで、埼玉県の久伊豆神社(主祭神 大国主命)でご祈祷をしていただき、八方除けのお札を玄関に貼りました。

観ていただいた方によると、方位除けの寺社はいろいろあるけれど、大国主命が最強だということでした。

八方除けのお札は1年経ったらはがしていいそうですが、まだ貼ってあります。

神棚には毎年新しいお札をお祀りし、久伊豆神社を時々お参りしていますが、今年からは(追加・神棚の久伊豆神社の)お札はもうやめようかな、と思いました。

お札を違う神社に納める(お返しする)のは失礼と思い、お参りに行き、お賽銭箱の前で「今年からはお札は神棚にお祀りしません、ありがとうございました。時々お参りには来ますね」と神様にお伝えし、お札の納め所に向かいました。

ところがここで、「それはよくない」と強く感じ(この時は何か聞こえたとか浮かんだのではありません)、ここでやめたら絶対後悔するだろうという気持ちがあふれてきたため、もう一度拝殿の前に戻り、神様に、お札を引き続き神棚にお祀りしますと伝え、新しくお札を買いました。

「あなたの役目は終わったからおはらい箱です」と言っているみたいで、自分がいやになったわけですが、まさに「お祓い箱」にするところでした(笑)



そんなわけで、スサノウの他は、大国主とご縁があるように思うのですが、大国主命もスサノウも、出雲から移動?した神様ですので、大国主のことは、非常に知りたいと思っていました。

また、武内宿禰のお話も、私のつまらない疑問にお答えいただけるようで、ありがとうございます。

目次全部に、とても興味をひかれました。

次回の記事、とても楽しみにしていますが、くれぐれもご無理のないよう、ゆっくりアップなさってください。



農閑期とはいえ、なにかとお忙しそうですね。

確定申告は、最近はネットで完結しますが、けっこう煩雑ですし、頭と神経と時間を遣います。

最近、老眼が始まったので(近視なので老眼になるのが遅かったようです)、特に数字が見づらくなりました。

なんだかあちこちぼやけてきて、しまいに頭がぼやけてこないかと、いらぬ心配をしています(笑)



書き足し:古代の天皇と神、神道のことで、だいぶ前に農園主さんが、簡潔でわかりやすく書いてくださっていたのを思い出し、探してみましが、 No.1084の記事でした。

その時に読んだだけでは理解不足だったことが、最近の記事によってつながってきて、よりおもしろく感じました。
Icon of nouennushi
お返事はいらないとのことでしたが、いろいろ書くことがありましたので、ふつうに返事をさせていただきます(笑)



氷川神社のお守りの鈴、届きました。

ほんとうにありがとうございます。

清浄できれいな音色ですね。

うちは本棚のいちばん上を神棚がわりにして、神符やお守りを保管しています。

人様からありがたい心をいただいたときには、その方への直接の感謝だけでなく、家で棚にも手を合わせるのですが、この棚から吊り下げて、神社の鈴のようにさせていただきました。

きっとよく鳴らすことになることでしょう。



八雲紋についてのお話、ありがとうございます。

八雲が吉兆をあらわす紋様であるとのこと、なんだかヤマタノオロチの問題を解決したスサノオが、横にクシナダヒメを連れて、おだやかな宍道湖や斐伊川の向こうの山々にたなびく幾筋もの煙を眺めながら、呵呵大笑している姿をおもいうかべました。

紋様の真ん中にジュンサイがあるということは、氷川神社総本社のシンボルが、蛇の池の清浄な湧き水ということなんですね。

やはり氷川神社に感じるのは全体的に、強さよりも穏やかさです。

暴れ川の荒川とスサノオという荒ぶる取り合わせと、実際の氷川神社がかもす穏やかな印象のギャップは、じつに不思議で魅力的です。



すこしだけ前回の返事になりますが、昨年末のコンサートのお話を、ありがとうございました。

セットリストの名曲の数々と、替え歌で緩急が効いていますね。

参加された方々はさぞ楽しまれたことでしょう。

舞台から人を楽しませるのは、きっとその適性がある方には大きな喜びなのだとおもいますが、一発勝負に対する重圧も伴いますよね。

わたしはいわゆるあがり症なので、人前に立つこと自体が大の苦手です。

ことしはたかだか自治会の中で話すだけで、血圧が上がって困りました(笑)

それだけに、人を楽しませるために人前に出られる方には、無条件の尊敬があります。

以前ギズモさんが、音楽についてのいろんなトリビアや、クイズなどの記事を書かれていたとき、こういうアプローチで人を楽しませようという遊び心がじぶんには欠けているとつくづくおもったものです。



ところで今回の返事とはべつに、次は欠史八代と、出雲の謎を解き明かそうとおもいます。

前回ほどではありませんが、やはり長い話になります。

かんたんに目次を書くと、こんな感じです。

・欠史八代は磯城県主とウマシマジの血筋による覇権争いだった
・大国主とは何者だったのか
・少彦名は大国主よりもかなり年上だった
・大物主はもともと出雲の事代主だった
・武内宿禰とそのころの天皇の寿命の関係について

この目次をみても、いまはなんのことかよくわからないとおもいますが、次回読んでいただければ、きっとスッキリご理解いただけるとおもいます。



当地は22日から一気に大雪に見舞われるようです。

この時期はちょうど暦のうえでの大寒で、毎年大雪に見舞われるタイミングです。

しかしむかしは12月ごろから2~3月まで雪がとけないまま、ということもよくあったらしいので、近年はまだ暖かくてありがたいです。

とはいえ、地域の除雪で忙しくなりそうですし、じつは今月末に地元の選挙があって、来月に衆議院選挙があるでしょう。

地元の選挙は別の自治会がやってくれるんですが、衆院選ではまたうちの自治会が当たり、わたしが選挙管理委員(しかもまた責任者)になりました。

確定申告も控えていますし、なんだかにわかに気ぜわしいです(笑)



それでは、記事を書きまとめるまで一週間ほどお時間をいただきたいのですが、また次回にお会いしましょう。
Icon of gizumo
♪ 業務連絡です(笑)


1月は神仏棚のお札をお取り替えするので、順次、寺社をお参りしていますが、昨日、武蔵一宮氷川神社に行ってきました。

お参りしてから、神札や干支絵馬、干支の置物などを買うため、並びました。

1月末までは、授与所の窓口が10ヶ所くらいに増設されており、さほど混雑はありませんでした。

並ぶ列ごとに、エリアを仕切るロープがはられているのですが、小さな鈴が吊るしてありました。

普通なら目にとまらない場所だったのですが、参拝者が鳴らしながら通っていったので、気がつきました。

除災招福「八雲の鈴」と書かれていましたが、へ~~と思っただけで通り過ぎようとしたところ、「送りなさい」という言葉がひらめきました。

霊感は間違いなくありませんが、時々、声が聞こえるのではなく、瞬間的に頭に言葉が浮かぶことがあります。

以前、目が覚めた瞬間に言葉がひらめき(ひらがなのイメージ)、なんのことだかわからなかったのですが、検索したら、長年お参りしていなかった身内のお寺の名前だったことがありました。

この「送りなさい」は、瞬時に、農園主さんに送りなさい、ということだと理解しました。

拝殿に戻り、買ったもの全部をまとめて入れた袋の口を開いて、しばらくお賽銭箱の隅に置き、ご神気を投入していただいてあります。

ということで(笑)、八雲の鈴を、レターパックライト(非対面・郵便受け届け)でさきほど、お送りしました。

鈴だけで、手紙もなにもない、愛想のないもので、ごめんなさい。



この八雲の鈴、神紋(社紋)の八雲紋のデザインなのですが、一般の氷川神社は巴紋で、総本社である武蔵一宮氷川神社だけが、八雲紋だそうです。

それについて、武蔵一宮氷川神社が、noteに書いていますので、引用します。

https://note.com/ichinomiyahikawa/n/ne1d...


実は、八雲紋のことも、鈴のことも、長年お参りしているのに知りませんでした。

蛇の池といい、何をしに行ってたんだという(笑)

スサノウが朝鮮半島に行った話も、別の記事に書かれていましたので、参考までに。

https://note.com/ichinomiyahikawa/n/ne85...



スサノオのことなど、あまり周知されていないものも、把握しているのかもしれませんね。


余談ですが、熊手は、掻き集める・掻き込む動作をする。鈴などの音の出るものは振って音を鳴らす。

飾っておくのではなく、時々こういうことをすると開運につながるそうです。

水琴窟の音色だそうですので、ぜひ時々振ってみてください(自分のも買ったので、シャラシャラ鳴らしています♪)



さらに余談です。

神社の最寄り駅は「大宮」なのですが、構内の商業施設の中に、「YAKUMO」という洋菓子のお店ができていました。

武蔵一宮氷川神社の鳥居の形のパッケージに入ったクッキーや、フィナンシェなどの焼き菓子の販売で、武蔵一宮氷川神社とタイアップしていると思います。

令和10年(2028年)に創建2500年を迎えるにあたり、記念事業として本殿・拝殿などの銅板屋根の葺き替え工事や、一の鳥居の建立など、大規模な改修・整備が進められています。

昨年、境内にカフェを新しく作りましたが、これも駅構内のYAKUMOも、記念事業にかかる費用に充てるための戦略の一環ですね(笑)



以上、業務連絡でした(笑)

お返事はいりません(*^▽^*)


※書き足し: どう考えても、頭のおかしい、あやしい世界の人が書いたように見えますが、お気を悪くしないでくださいね<(_ _)>
Icon of gizumo
※今回、誤字や書き直しが多く、申し訳ありません。


先日は、お心のこもった数々、ありがとうございました。

温かい紅茶に高槻のはちみつを入れて飲ませていただこうと、小さいスプーンに1杯のせてみたら、スッキリした透明な色でキラキラし、とろ~~りとしているので、あ、これは紅茶に入れたらもったいないと、はちみつだけいただきました。

あまりのおいしさにびっくりしました!

これは、社交辞令でもなんでもなく、これほどおいしいはちみつは生まれて初めてです。

香りにくせがなく、とろみ具合もいいですし、まろやかで、ふっくらと甘い、という言い方は変かもしれませんが、とにかく幸せの味だと感じました。

百花蜜だからでしょうか。

口に入れた瞬間に広がる、ふくふくとした香りと甘さ、食べたあとに残る甘さの余韻は素晴らしいものでした。

スライスしたレモンをはちみつ漬けにしてみましたが、このはちみつは、そういったものやジャムに使ったりせず、そのままいただくのがベストだと感じました。

毎日少しずつ、大事にいただきますね。


たまごかけごはん用のお醤油はよく見ますが、だし巻き卵用というのは、とても珍しいと思います。

近々作ってみて、またお知らせします。


石上神宮のお守りなんですが、最初、枝のように見え、サボテンの柄?と思ってしまい、ごめんなさい。

発想があまりにおかしいですね(笑)

七支刀(六叉の鉾)というものを知りませんでしたが、それにしても石上神宮ならば、剣を連想して然るべきでした。

このデザインを選んでくださったこと、とてもうれしく思います。

今思い出しましたが、昨年の奈良国立博物館での特別展を機に、 七支刀の科学調査をしたとかで、NHKでチラっとですが観た記憶がありました。

ご神符とお守りは、バッグのお守り入れにお納めした(訂正・おさめた)と言いましたが、家にいる時間の方が長いので、ピアノと机の中間に置かせていただきました。

書き足し:お守りやお札は、寺社にお返しするときは「納める」ですが、バッグに「納めた」は間違いですね。収めるでいいのかもしれませんが、「おさめる」にしておきます(笑)

改めて、心よりお礼を申し上げます。



さて、長らくお待たせしましたが、No.1683のお返事です。

例によって話が順序だっておらず、支離滅裂で読みづらいことを、最初にお詫びします(笑)



「記紀神話で、紀元前から歴史がつながっているかのように、神代から初期の天皇の系譜までを長く引き延ばすレトリック」が多用されたということに、まず驚きました。

次に、「神話と実際の歴史の時系列を整えた」ということに、驚きを通り越し、感嘆と言っていいのか、驚異を感じたと言っていいのか、言葉に困りました。

神話と歴史は、話の内容に大きな差、違いがあるものだと思っていましたし、ましてや時系列のあいまいさ、ちぐはくさは、あって当然という認識でした。

中でも、神武天皇のありえない寿命は、アマテラスのひ孫のひ孫ということで、神の血を引いているからさもありなん、と、素直に信じていました(笑)

※書き足し ご存じでしょうが、武内宿禰は300才まで生きたと言われていますよね(文献により差がある)。天皇などと関わった記録もあるようですが、実際に長生きしたとは思えません。仙人だとか、何度も生まれ変わったとかいう話も聞きます。謎の人ですね(笑)



欠史八代ですが、2代から8代訂正:9代)まで書物や言い伝えなどが残っていないのに、初代の神武天皇に関して逸話が多いのも、神武天皇の神格化や、特殊な存在だと強調したかったのだろうかと思っていました。

欠史八代がほとんど存在しない、いたとしても神武天皇と崇神天皇の間にほとんど空白期間がない、と考えると、歴史の隙間が埋まります。

逆にいえば、神武天皇と崇神天皇の間に微妙な空白期間があったために、欠史八代が入り込んだとも考えられます。


この考え方には、圧倒されました。

空白期間をなくせば、おっしゃるとおり歴史の隙間がなくなるわけで、そうなると、2代から8代訂正:9代)の存在は単なる辻褄合わせであり、存在した人物かどうかもかなりあやしくなってきますね。

だからこそ、資料などが残されていない。

そこまでして、2代~8代訂正:9代)天皇を捏造した(かもしれない)ことに、とても興味を感じます。



三輪山のお話ですが、製鉄集団の長であり、神でもあり、ヘビ、そしてタタラ・・・。

妻の話に違いはあっても、出雲のスサノオの話が場所を変えて出現したような不思議さをすごく感じます。



倭迹迹日百襲姫命といい、イザナミといい、女性の陰部に箸が刺さったり、火傷をして死んだという逸話は興味深いです。

その逸話が事実かどうかはさておき、イザナミは一応神話では神様ですよね。

「なりなりて~~」にあるように、人間と同じ仕組みで妊娠し子を産むわけですから、確かに重要な場所ですが、単純なケガではすまず死に至ったということは、人間も神も等しく陰部から子を産むことや、女性にとっての重要な部分だと、強調したかったように思えました。

だいたい、イザナギ・イザナミ書き直し:のような、神様が死ぬというのは不思議です(笑)

訂正:イザナミやアマテラスなどを、神と捉えず、巫女と考えれば普通のことなのですが。



アマテラスから崇神天皇までの「↓」で書かれた皇統、これが100年で一気に進んだというのも、とても興味深く感じました。

アマテラスの巫女即位から神武天皇即位までが20~30年というのは、神話の時代から天孫降臨までの期間がすごく長いと思い込んでいたので、実は短かったというのに驚きました。

時系列を整えることは考えられないくらい大変な作業だと思うのですが、山幸彦(書き足し):,ウガヤフキアエズノミコト,神武天皇の年の話でも、それが伝わってきます。



コノハナサクヤヒメとイワナガヒメのお話は有名ですが、そこから出雲のスパイの話、スサノオ、アマテラスにつながるのも、興味深く思います。

スサノウの「8」についてのお考えも、すっと腑に落ちます。

アヒラツヒメを知りませんでしたが、卑弥呼だったんですね。

卑弥呼ではなく、壱与と大物主の話も、なるほどなぁ、と、うなりました。



四道将軍のうち、3人は知りませんでしたが、吉備津彦命は、桃太郎のモデルになった人ですね。

昨年の12月、調布の布田天神社で、娘たちがご祈祷を受けたので同席しました。

七五三の子どもが多かったので、ご祈祷は短め(ちょっと損した気分 笑)で、女性の神職さんが(いつもは男性だそうです)、ご祭神である少彦名の紙芝居をしてくださいました←神社でそんなイベント的ご祈祷があることに驚きました。

少彦名は一寸法師のモデルになったと話していましたが、以前「一寸法師」の歌について調べていた時、そのことを知りました。

おとぎ話と神様は、なにかと関連がありますね。



出雲は、ヤマト政権によって平定されたんですね。

そして、出雲族は関東に強制連行され、大変な時代を乗り越え、実は1000年かけて葦原中つ国を平定した覇者となった。

これには、なんだか感動しました。

出雲系の歴史を語る人々のお話、おもしろいですね~。

そういう人たちが集まって陰謀を企てているのか、スピリチュアルなのか、ちょっと気になるところです。

出雲族だった人たちが成仏していなくて、現代の人に憑依して、再建を図ろうとしているとか。

なきにしもあらずです(笑)



「氷川神社の周辺をみても、鉄鉱山になりうる山がない」と書いていらっしゃいましたが、そういえば秩父の武甲山は石灰石の山だったと思い出しました。鉄鉱山と関連はありませんが。

以前それを書いた時、農園主さんが、

「人類の文明は道具をつかうところから始まりますが、鉄鉱石鉱山から鉄鉱石を採掘するようになったのが、「山を切り崩してじぶんたちの道具を得る」暮らしのはじまりでしょう。古墳時代には、島根県(出雲)のあたりで鉄穴流し(かんなながし)といって、山を削ってこの土砂を水に流し、土に含まれる砂鉄を採取するやり方で鉄を採集していました。
農具、武具、民具にと、当時の鉄の需要はすでに全国規模のものでしたが、出雲のたたら製鉄は鉄製品の需要を支える一大産業だったのです」と書いてくださっていました。

「山を削って土砂を水に流し、土に含まれる砂鉄を採取する」という行為や、そこから鉄を採集するという技術は、いったい誰が考え出したのかと、気が遠くなります。

未来からやってきた人間が教えたとしか思えません(笑)

製鉄に限ったことではないですが、人間というのは本当に怖ろしいくらい利口な生き物なんだな(だったんだな)、と実感します。

現代の人間より、格別に素晴らしいと思います。



農園主さんが書いていらっしゃいますが、大物主は酒造の神様でもありますね。

近くにちょっと本格的な感じの酒屋さんがあるのですが、数年前一度だけ、珍しいお酒を購入したいと思い、行きました。

大きな杉玉が中に吊ってあり、三輪山という札がついていました。

「大神神社」と書かれていたかは覚えていませんが、「三輪山」というのを見て、大物主のことを思い出し、すごいところの杉玉だなと驚きました。

今調べたら、大神神社の三輪明神へ新酒を奉納すると、木札を下げた杉玉を戴くのだそうですね。

そこは酒蔵ではなく、酒屋さんですが、なぜあったのか不思議です。



鹿島神宮と香取神宮のことですが、「東国三社参り」と言って、三ヶ所(書き足し:鹿島神社、香取神社、息栖神社)の神社を全部巡る習わしのようなものがあります。

一ヶ所欠けてもいけない、みたいなことで、セットで回ります。

出雲の国護り神話によると、鹿島神宮と香取神宮の御祭神が日本を平定し、案内した息栖神社の御祭神とともに東国に鎮座したといわれるそうです。

私は何年か前に、偶然三社ともお参りしましたが、神社という見方ではなく、物部氏と中臣氏と考えると、非常におもしろいですね。

また、案内したという息栖神社の御祭神は「久那斗神」ですが、天孫降臨で案内をした猿田彦と同一視される他、八衢比古(やちまたひこ)、八衢比売(やちまたひめ)と同神とも言われるそうです。

たくさんに分かれた道の道祖神という意味合いらしいですが、なんとなく、スサノウのヤマタノオロチを連想してしまうのは、妄想でしょうか(笑)



壮大なお話、何度も何度も読ませていただきました。

「物語」と言えば物語かもしれませんが、日本の起源を解説した、歴史的・学術的なご考察だと思います。

ありがとうございました。



ところで、石上神宮のそばには、布留川という川があるんですね。

近所に、布留川(ふるかわ)さんという方がいらっしゃるのですが、一般的には古川、古河と書くのに、珍しいなと思いましたが、日本の苗字ランキングを調べると、千葉県に非常に多い苗字だそうです。

石上神宮の布留川の他に、千葉の平将門伝説もあるようですが、その布留川さんの出身がどこかは知りません。



年末の仕事(コンサート)が無事済み、緊張の糸がプッツンと切れたので、今年の三が日は、徹底的にダラダラしてみました(笑)

家事はいつもと変わらずしましたが、家での仕事をしなかったので、誕生日あたりからツケが回ってきて、四六時中追いまくられました。

やっといくらか落ち着き、高槻のはちみつで、ほっこりまったりさせていただいております(それにしてもおいしい♪)

コンサートについては、たいして書くこともないのですが、ちょっとだけ。


クリスマスコンサートは、

♪もみの木・荒野の果てに・神の御子はこよいしも(パイプオルガンの音色で)の演奏

♪雪は降る(弾き語り)
 
♪伊藤市長と前橋市長の時事ネタで替え歌(卒業写真・ホテル)

♪映画音楽の主題歌で好きな曲をあげてもらい、その場で弾きました。シャレード、愛情物語、慕情、ひまわり。

♪ベサメムーチョ 弾き語り

♪アンコール曲・映画「エデンの東」の主題歌弾き語り


年末コンサートは、

♪↑の中から 替え歌と 雪は降る。

♪サマータイム

♪圭子の夢は夜ひらく

♪テネシーワルツ(江利チエミバージョン)

♪アンコール=「愛の讃歌」越路吹雪のではなく、元詞を訳した歌詞で歌いました


両方とも、二部は、参加者さん全員で歌う歌謡曲・唱歌の伴奏をしたので、一部の持ち時間は35分くらいでした。

替え歌は、ウケましたが、時事問題なので、今年はもう歌えません(笑)

まじめな歌では何度もブラボーをいただき、準備が足りなく不安な要素もありましたが(「雪は降る」は前日に決めました(笑))、まずまずの出来でした←自画自賛(笑)



1月も真ん中となりました。

近所にお住いの80才をこえた女性が、この寒さにまだほとんど暖房をつけていないそうです。

毎日ジムに通っていて、ウオーキングも欠かさないお元気な方ですが、私も見習わないと(笑)

寒いというより、冷えがつらいですし、加湿器を常時つけていないと喉が乾燥するので困ります。

時々はちみつを摂って、喉のダメージがないよう、気をつけます。

今年の雪の具合はいかがでしょうか。

冷えないよう、気をつけてお過ごしください。
Icon of nouennushi
喜んでいただけて、なによりありがたいことです。

大阪に暮らしていても、「高槻のはちみつ」なんていわれると、あんな都会ではちみつが得られるのだろうか、と首をかしげたくなるんですが、高槻市は南部が都市化されていて、北部が広大な山林になってるんですね。

京都市内から西に、箕面や丹波にかけて広がる山地の入り口ともいえるところです。

以前安徳天皇の生存説の際にお話したことがあったとおもうんですが、大阪の能勢にある大ケヤキで有名な野間地区は、ここから西に10㎞ほどの、やはり山間部にあります。



だし巻き卵のもとなんですが、毎年大阪からこちらへ帰るときに立ち寄る卵屋があります。

京丹波の国道沿いに大きな養鶏場があり、直売所が併設されているんです。

10年ほど前に鉄腕DASHというテレビ番組の、ゼロ円食堂という企画に登場したこともあるそうな。

個人的にはそれより前の、ここへ移住したときからおいしい卵が安いので、よく利用していました。

特に新年の数日間だけ、割れ卵や小型卵などがふだんの半額くらいで売られていて、これを喜んで買います。

自社製のマヨネーズや卵関係の調味料などもつくっているようで、これも「めずらしいもの」という視点からひとつ選んでしまいました(笑)



大神神社は神符ですが、石上神宮のお守りは七支刀のデザインを選びました。

七支刀(六叉の鉾)は、4世紀ごろに百済から伝わった祭具と考えられます。

日本書紀と、剣にはめこまれた象嵌の文字をあわせて解釈すると、百済にあった谷那の鉄山の良質の鉄を利用してつくられた、百兵もの敵(万難)を退ける、つまり魔よけの祭具だったようです。

実際に使用する武器ではなく、百済とヤマト王朝の軍事的友好の証としてささげられた装飾品だったのでしょう。



ことしもギズモさんにとってよい一年になりますように。

おたがい寒さに負けないようにがんばりましょう。

前回の記事のお返事は、ほんとうにいつでもかまいません(笑)
Icon of gizumo
こんばんは。

仕事で外出していたため、再配達をお願いしたので、受取りとお礼が遅くなり失礼いたしました。

この度はお心のこもったものばかりをいただき、大変ありがたく、とっても恐縮しています。

だんだんお誕生日がうれしくないものとなりつつありますが、農園主さんのお心遣いの数々はとてもうれしく、思わずニコニコしてしまいました。


モロヘイヤのおうどん、初めて見ました!!

身体によさそうですし、色もきれいです。

大変めずらしいものをありがとうございます。

たまごやさんのお醤油は、色が薄いと思ったら、京都のお店のもので、京風だしまき醤油なんですね。

おだしも入っていて、甘味はオリゴ糖、これも身体によいものですね。

上品な甘さで、間違いなくおいしいと思います。

はちみつは、最近トーストに塗って食べることが多いのと、温かい紅茶に入れて寝る前に飲んでいるのですが、そろそろなくなりそうだったので、こちらも早速使わせていただきます。

チーズにかけても、最高です!!

書き足し 純国産とは、とても貴重なものをありがとうございます!

書き足しの追加 高槻で採れたハチミツなんですね。貴重以上に貴重なハチミツ。とてもぜいたくなので、ちょっとずついただきます。



お守り2体は本当に思いがけず、ありがたく頂戴し、すぐにお守り入れ(常時使っているバッグの中にお守りを入れるケースがあるので)に納めさせていただきました。

今年は絶対、いいことばかりがくるはずです(*^-^*)


覚えていてくださっただけでなく、お気持ちのこもった、たくさんのプレゼントまでいただき、心より感謝しています。

外箱は、いい加減なことはまったくないですし、お気になさるようなことではないのに、気を遣させてしまい、私のほうこそ申し訳ありませんm(_ _"m)

おかげさまで、幸先のよいお誕生日になりました。

遅くなりましたが、本年もよろしくお願いいたします(o_ _)o)


感謝の気持ちと感激がいっぱいで、お礼をうまくお伝え出来ず、ごめんなさい。



よい年末年始をご家族で過ごされたようで、なによりです。

本格的に寒くなってきそうですが、お身体には充分にお気をつけくださいね。

記事のお返事、近日中に書かせていただきますので、もう少々お待ちください<m(__)m>

本当に、本当に(語彙不足(笑))、ありがとうございました(^^♪
Icon of nouennushi
※今回の話は単なるわたしの備忘録であり、読み物にすぎませんので、返信は必要ありません。



帰省した時に、どこかで時間をつくって、奈良の大神神社(おおみわじんじゃ)と石上神宮に行こうと決めていました。

しかしいざ帰省すると、父があのあたりの地理をよく知っているとのことで、結局両親とわたしの3人で奈良へ行くことに。

親がいうには、正月3日に行くのはどうかということでしたが、どう考えても大混雑が見込まれるので、年末にしようと提案し、30日に参拝しました。



大阪の近畿自動車道から南阪奈道路で橿原へ向かいます。

高速道路降り口の正面である東側には藤原宮跡、天香久山がありました。

降り口の南側には畝傍山……つまり橿原神宮と神武天皇陵があります。

が、今回は位置関係を知ったということで通過します。

父が運転してくれているので、わたしは助手席で観光していました。



高速を降りてから北東に8㎞ほどで、三輪山のふもとに着きます。

ここに大物主とその一族をまつる大神神社があるわけですが、朝10時の時点では駐車場はすいていました。



大物主はどうにもつかみどころのない存在です。

三輪山は鉄鉱山で、大物主の妻と娘の名前にたたらが含まれることから、製鉄と結びつきます。

しかし同時に酒造の神としてもあがめられています。

また堺にいた子(おおたたねこ)のエピソードを含めると、陶業にも結びつくのです。

いまでいうところの、多角経営、総合商社といったところでしょうか。

しかし、どうも存在性そのものがふわふわしていて、どのような大人物であったのか、想像が尽きません。



大神神社にはランドマークになりうる規模の大鳥居があり、大きな駐車場が何か所もありました。

境内はかなり広く、観光地化されています。

よく神社には摂社や末社といったかたちで境内社がありますが、ここは大神神社の中に、狭井神社、久延彦神社、さらに若宮神社である大直禰子(おおたたねこ)神社がありました。

つまり大神神社の境内の中に、独立した神社がみっつあって、それぞれに授与所もあるのです。

こういう入れ子構造の神社はあまり見たことがないな、とおもったのですが、全国の神社でみればよくあるのかもしれません。



参拝をしているうちに、参拝客がどんどん増えてきて、参拝を終えて駐車場を出るのに難儀しました。

大渋滞が起こっていたのです。

これは年始にお参りしていたらどうなっていたことでしょう。

駐車場を出るまでに1時間近くかかり、ほんとうはここでお土産を買う予定だったのですが、駐車場前の大混雑をみて急いで車に向かうほかなく、なにも買えませんでした。



大神神社を出てほんの1㎞ほど北西に、箸墓古墳がありました。

ほんとうはここも訪れたかったのですが、もうお昼時で、なにせ大神神社の駐車場があんなことになっていたから、この先お昼ご飯を済ませて石上神宮へ行くことを考えると、立ち寄っている時間がなく、外側から古墳の森を眺めるだけで終わりました。

古墳というのは現代では単なる森になってしまっていますが、それでも箸墓古墳には威容を感じました。

往時にはおそらく前方後円墳として朱塗りの陶器や埴輪が並んでいて、訪れる人々は古代の祭儀の迫力に心を奪われたことでしょう。



地図でみると、箸墓古墳から東に檜原神社があります。

ここは元伊勢のひとつで、ご祭神はアマテラスです。

先ほどの大神神社からも北に1㎞ほどの距離で、おなじ三輪山のふもとにあります。

そして箸墓古墳は檜原神社からさらに下った西側にある。



おそらく檜原神社は、倭迹迹日百襲姫命の、つまり巫女としてのアマテラスのおわす場所で、そこに卑弥呼と合わせて箸墓古墳が建造されたとわたしは考えています。



20260107111212-nouennushi.png



さて、箸墓古墳からさらに北へ進み、昼食をすませ、石上神宮へ行きました。

大神神社のような規模なのかとおもっていたのですが、石上神宮は森の中にたたずむ落ち着いたたたずまいでした。

じゅうぶんな広さの駐車場がありましたが、渋滞はありません。

正月に営業するのであろう屋台が準備にいそしんでいましたが、大神神社のような門前町はなく、つまり土産物屋もなく、ゆっくりと参拝できました。

どちらかというと駐車場のすぐ隣が天理教の本部で、こちらのほうが独特な威容を発しています。



神社のふもとでは布留川の水を利用した田園が広がっており、たいへんのどかな景色です。

境内には神使の鶏が放し飼いにされていました。

観賞用の、尾長のきれいな鶏です。

よく人に慣れており、手を差し出せば抱っこさせてくれそうなくらい。



ここは古代、物部の武器庫だったところで、たしかに境内のはずれには禁足地があります。

しかし物々しい雰囲気はまったくなく、森の幽玄なたたずまいが印象的でした。



今回訪れた場所は、日本の古代、神武天皇から崇神天皇の時代の神話の物語の中心地です。

三輪山の高いところから奈良平野を眺めると、四方を山に囲まれ、さらに平野の中にも名高い山がそびえていました。

いわゆる神奈備(かんなび)ですね。

当時の人々は、まるで要塞のように外敵を防ぎ、山と水と信仰に恵まれたこの地を、楽園のように感じていたことでしょう。



帰りは天理のインターから高速で一気に帰りましたが、家に着いたらもう夕方でした。

お土産がまったく買えず、箸墓古墳への参拝もできなかったのが残念ですが、夕方に帰り着くことができて、結果オーライだったのだとおもいます。

実際に訪れてみることで理解できたこともたくさんある、よい旅になりました。



(追記)
ささやかですが、ギズモさんのお誕生日に届け物をしています。

すべてこの旅のお土産で構成したかったのですが、上記の理由により、お守り以外は、帰りの道中に立ち寄った大阪北部から丹波の変わった品と、今回の帰省時にいただいた不思議なおうどん(味は美味しかったのですが)のお裾分けになりました。

ちょうどよいサイズだったとはいえ、箱があまりにもいい加減なので、その点は田舎者で粗忽者のオッサンのやることだとあきらめていただきたく、メッセージにも書いてはいるのですが、重ねてお詫びを申し上げます。

編集

■全文検索:

複合検索窓に切り替える

■複合検索:

  • 投稿者名:
  • 投稿年月:
  • #タグ:
  • カテゴリ:
  • 出力順序:

■新着画像リスト:

新着画像リストは出力しない設定になっています。

全230個 (総容量 183.18MB)

■日付検索:

■カレンダー:

2026年3月
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293031

■カテゴリ:

■最近の投稿:

最終更新日時:
2026年3月28日(土) 10時30分40秒〔7日前〕