2024年9月の投稿[7件]
2024年9月29日 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する
今回の件を書いてみたら、なんと現時点で6000文字を越えてきました(笑)
いくらなんでも一回で投稿すると読み疲れを起こすだろうとおもいましたので、これから4日おきくらいに、3回にわけて、時間をかけて加筆訂正しながら投稿していこうとおもいます。
その間にギズモさんが投稿していただいても問題ないですし、あるいは返信がなくてもまったく問題ないんですが、ぼくからはとりあえず返信はせず、いったん今回の内容を3回にわけて投稿しますので、あしからずご了承ください。
まず、お天気のご心配をいただいてありがとうございます。
ことしは夏から秋にかけてほんとうに雨が少なく、参っていますが、なんとか葉物は小出来ながらも育ってくれています。
例年のように安定した収穫にはならなそうですが、なんとかカタチになるように努力しています。
さて、ギズモさんの「免疫異常で境界線があいまいになる」として、人間がじぶん以外の世界にアクセスできるかもしれないというお話には、最初ファンタジー的なおもしろさを感じたあと、現実的にもそういうことがあることに気づきました。
たとえば天理教の教祖である中山みきは、いまでいうところのシャーマンであり、神がかりな気質をもっていたために、教祖としてあがめられることになったんですが、彼女を病理的にみると、多重人格や統合失調症だったともいわれています。
明治の世になって日本の社会は資本主義に舵をとったんですが、じつは宗教は資本主義とものすごく相性がいいんです。
それで中山みきのシャーマン的な言説を真に受ける人々と、これを「ビジネスにしよう」という動きがあいまって、一種の熱狂を生み、日本の新興宗教勢力の一角を担うまでに成長しました。
現代ではオウム事件や統一教会問題がきっかけになって、新興宗教不信が起こり、衰退しましたが、じつは「新興宗教= カルト」という見方はバブル期あたりに起こったもので、それ以前はみんなよくもわるくも純朴に新興宗教を受け入れてたんですよね。
ではなぜ中山みきが崇拝の対象になったのかというと、当時の人々に「障がい者にはわれわれには見えないものを見たり、感じたりする能力が備わっているのではないか」という観念があったからでした。
たとえば日本各地には、知的障がいだったり、身体が欠損して生まれてきた子供を、その地域に幸運をもたらす存在(神)がやってきてくれた、として大事にしたという伝承が残っています。
これは折口信夫の言い方を借りると「まれびと信仰」の一種ということになります。
折口信夫のいうまれびとは、「客人」とか「来訪者」というような意味なんですが、その客人は神の化身として扱われることが特徴です。
健常者ではない「異人」として生まれた子を、排除するのではなく、福をもたらす来訪者(神)として扱うんですね。
もちろん余裕のない家庭や集落では、そういった子を「鬼子」として捨てていたという話もあるんですが、一方で「免疫異常の人」を崇拝の対象にまで高めて大事にした社会もあったようです。
般若心経の輪っかの話なんですが、あらためて般若心経を読み直したんです。
あと玄奘三蔵の翻訳した金剛般若経も読んでみました。
するとかんちがいしていたところがあって、そのあたりを訂正しながらお話します。
まず、無限と無については、般若心経では「空」と「無」というカタチで使い分けてたんですね。
以下に般若心経をコピーしてみましたが、前半は「空」という文字がたくさん出てきて、後半には「無」がたくさん出てくることがわかるとおもいます。
空と無が出てくるところはきれいにわかれるので、行をわけてみました。
観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時
照見五蘊皆空 度一切苦厄
舎利子 色不異空 空不異色
色即是空 空即是色 受想行識亦復如是
舎利子 是諸法空相 不生不滅
不垢不浄 不増不減 是故空中
無色 無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法
無眼界 乃至無意識界 無無明 亦無無明尽
乃至無老死 亦無老死尽 無苦集滅道 無智亦無得
以無所得故 菩提薩埵 依般若波羅蜜多故
心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖 遠離一切顛到夢想
究境涅槃 三世諸仏 依般若波羅蜜多故
得阿耨多羅三藐三菩提 故知般若波羅蜜多
是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪
能除一切苦 真実不虚 故説般若波羅蜜多呪
即説呪曰
羯 諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶
般若心経
この空と無を意識しながらざっくり般若心経を説明すると、こうなります。
「われわれは空(無限)の一部である。かたちあるものはみな空から生じており、空は絶えず変化している。
われわれがあるとおもっている実体も、本来はかたちのない空から生まれていて、かたちのない空にかえる。
であれば、われわれがあるとおもっているものは、じつはないことがわかる。
身体も心も、感じることもすべて、ほんとうは、なにもかもが無である。
悟りを開いたといわれる菩薩も、じぶんが無であると理解し、無心を理解したところから涅槃の境地に至ったのだ」
これが輪っかの話ですね。
ひもの片方は無限の無(空)。片方はゼロの無。このふたつの無限と無をつないだところに、般若心経はフォーカスを当てている、と。
ほんとうは、ひもの輪っかが存在する以上、ぼくたちは存在しているはずなんですが、仏教はそれを「無い」というんです。
無いということを理解しないと、解脱はできないんだ、とまでいいます。
しかしそんな仏教に対して、司馬遼太郎はこのように指摘しました。
釈迦は煩悩を捨てろ、解脱せよとあまりに高いハードルを設けてしまったが、解脱ができるのは百万人にひとりの天才であり、実践はむずかしい。
釈迦の死後、煩悩を断てない人々は、神仏にすがって現世利益を求め、商売繁盛を祈るようになった。
「釈迦は商利の追求をむさぼりとしたが、かれの宗教がかれの死後二百年で力をうしない、変質もしくは他のものに変わらざるをえなかったのは、当然であったかもしれない。われわれは釈迦では救われない。それどころか釈迦はわれわれを委縮させるのみだ、と公言するダイヤモンド商人もいたであろう」
ではなぜ仏教はそこまでひもを無視して、空や無にこだわったのか、という理由が、金剛般若経に書かれていました。
(続く)
いくらなんでも一回で投稿すると読み疲れを起こすだろうとおもいましたので、これから4日おきくらいに、3回にわけて、時間をかけて加筆訂正しながら投稿していこうとおもいます。
その間にギズモさんが投稿していただいても問題ないですし、あるいは返信がなくてもまったく問題ないんですが、ぼくからはとりあえず返信はせず、いったん今回の内容を3回にわけて投稿しますので、あしからずご了承ください。
まず、お天気のご心配をいただいてありがとうございます。
ことしは夏から秋にかけてほんとうに雨が少なく、参っていますが、なんとか葉物は小出来ながらも育ってくれています。
例年のように安定した収穫にはならなそうですが、なんとかカタチになるように努力しています。
さて、ギズモさんの「免疫異常で境界線があいまいになる」として、人間がじぶん以外の世界にアクセスできるかもしれないというお話には、最初ファンタジー的なおもしろさを感じたあと、現実的にもそういうことがあることに気づきました。
たとえば天理教の教祖である中山みきは、いまでいうところのシャーマンであり、神がかりな気質をもっていたために、教祖としてあがめられることになったんですが、彼女を病理的にみると、多重人格や統合失調症だったともいわれています。
明治の世になって日本の社会は資本主義に舵をとったんですが、じつは宗教は資本主義とものすごく相性がいいんです。
それで中山みきのシャーマン的な言説を真に受ける人々と、これを「ビジネスにしよう」という動きがあいまって、一種の熱狂を生み、日本の新興宗教勢力の一角を担うまでに成長しました。
現代ではオウム事件や統一教会問題がきっかけになって、新興宗教不信が起こり、衰退しましたが、じつは「新興宗教= カルト」という見方はバブル期あたりに起こったもので、それ以前はみんなよくもわるくも純朴に新興宗教を受け入れてたんですよね。
ではなぜ中山みきが崇拝の対象になったのかというと、当時の人々に「障がい者にはわれわれには見えないものを見たり、感じたりする能力が備わっているのではないか」という観念があったからでした。
たとえば日本各地には、知的障がいだったり、身体が欠損して生まれてきた子供を、その地域に幸運をもたらす存在(神)がやってきてくれた、として大事にしたという伝承が残っています。
これは折口信夫の言い方を借りると「まれびと信仰」の一種ということになります。
折口信夫のいうまれびとは、「客人」とか「来訪者」というような意味なんですが、その客人は神の化身として扱われることが特徴です。
健常者ではない「異人」として生まれた子を、排除するのではなく、福をもたらす来訪者(神)として扱うんですね。
もちろん余裕のない家庭や集落では、そういった子を「鬼子」として捨てていたという話もあるんですが、一方で「免疫異常の人」を崇拝の対象にまで高めて大事にした社会もあったようです。
般若心経の輪っかの話なんですが、あらためて般若心経を読み直したんです。
あと玄奘三蔵の翻訳した金剛般若経も読んでみました。
するとかんちがいしていたところがあって、そのあたりを訂正しながらお話します。
まず、無限と無については、般若心経では「空」と「無」というカタチで使い分けてたんですね。
以下に般若心経をコピーしてみましたが、前半は「空」という文字がたくさん出てきて、後半には「無」がたくさん出てくることがわかるとおもいます。
空と無が出てくるところはきれいにわかれるので、行をわけてみました。
観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時
照見五蘊皆空 度一切苦厄
舎利子 色不異空 空不異色
色即是空 空即是色 受想行識亦復如是
舎利子 是諸法空相 不生不滅
不垢不浄 不増不減 是故空中
無色 無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法
無眼界 乃至無意識界 無無明 亦無無明尽
乃至無老死 亦無老死尽 無苦集滅道 無智亦無得
以無所得故 菩提薩埵 依般若波羅蜜多故
心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖 遠離一切顛到夢想
究境涅槃 三世諸仏 依般若波羅蜜多故
得阿耨多羅三藐三菩提 故知般若波羅蜜多
是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪
能除一切苦 真実不虚 故説般若波羅蜜多呪
即説呪曰
羯 諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶
般若心経
この空と無を意識しながらざっくり般若心経を説明すると、こうなります。
「われわれは空(無限)の一部である。かたちあるものはみな空から生じており、空は絶えず変化している。
われわれがあるとおもっている実体も、本来はかたちのない空から生まれていて、かたちのない空にかえる。
であれば、われわれがあるとおもっているものは、じつはないことがわかる。
身体も心も、感じることもすべて、ほんとうは、なにもかもが無である。
悟りを開いたといわれる菩薩も、じぶんが無であると理解し、無心を理解したところから涅槃の境地に至ったのだ」
これが輪っかの話ですね。
ひもの片方は無限の無(空)。片方はゼロの無。このふたつの無限と無をつないだところに、般若心経はフォーカスを当てている、と。
ほんとうは、ひもの輪っかが存在する以上、ぼくたちは存在しているはずなんですが、仏教はそれを「無い」というんです。
無いということを理解しないと、解脱はできないんだ、とまでいいます。
しかしそんな仏教に対して、司馬遼太郎はこのように指摘しました。
釈迦は煩悩を捨てろ、解脱せよとあまりに高いハードルを設けてしまったが、解脱ができるのは百万人にひとりの天才であり、実践はむずかしい。
釈迦の死後、煩悩を断てない人々は、神仏にすがって現世利益を求め、商売繁盛を祈るようになった。
「釈迦は商利の追求をむさぼりとしたが、かれの宗教がかれの死後二百年で力をうしない、変質もしくは他のものに変わらざるをえなかったのは、当然であったかもしれない。われわれは釈迦では救われない。それどころか釈迦はわれわれを委縮させるのみだ、と公言するダイヤモンド商人もいたであろう」
ではなぜ仏教はそこまでひもを無視して、空や無にこだわったのか、という理由が、金剛般若経に書かれていました。
(続く)
2024年9月24日 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する
般若心経のヒモのお話、何度もイメージしてみました。
わかりやすい例えではありますが、正しく理解できたのかどうかは、ちょっと不安です。
無と無限によってつながっているということですが、「無」「無限」も、無いのではなく『ある』んですよね。
そこにじぶんが存在しているかどうかをうまく考えられず、考えているうちに、「無」「無限」の外にいるような気がしてきました(笑)
免疫にまで広がった今回のお話で、また様々なことを知ることができ、考えることもたくさんありました。
野菜を例に挙げてくださったのは、とてもイメージしやすく、理解できました。
柿のことは初めて聞きました。
一番初めに試した人は、瓢箪から駒が出る的な偶然の産物だったのか、考えて試行してみたのかわかりませんが、すごいことですね。
そもそも1500年も前に、無や無限というものの概念があったというのもすごいですね。
そして、1500年以上の仏典や思想が受け継がれて、そこからいろいろなものが派生し、どんなに研究しても答えがひとつではない、ということは、まさに無であり無限であるように思います。
般若心経に限らず、いろいろな仏典や経典、聖書、他の宗教の書物や口伝からそれぞれの教派が分かれていったのは、研究という言い方もできますが、これも多くの人の余剰意識が生みだしたものと言えるかもしれないですね。
人類最初の差別は、人間が住んでいる狭い範囲の地域を区切ることから始まり、だんだん範囲が広がって国になっていった、という話を読んだことがあります。
利便性による「区別」でなく、人を「差別」することから始まったんだそうです。
その区別は置いておくとして。
そのようにして人間が作った国もそうですが、もっと範囲をどんどん大きくし、地球の他の星にも名前をつけていくわけです。
これはあくまで「地球に住む人間」がしたことであって、他の惑星などにいる宇宙人(のような何か)がいたら、地球人が金星と名付けた星は、たぶん金星ではないわけで。
このように考えると、やはり人間は自分と、自分が住む地球を「存在する主たるもの」として認識していることになるかと思います。
しかし、広い宇宙にいる(はずの)宇宙人などのなにものかにしてみれば、そうではない。
そうなると、自分も地球も、『確かなものではない』、無の一部、無限の一部、または無そのもの、無限そのものだと思えてきます。
中学の卒業アルバムに「ひとり一言」を書くページがあり、そこにトルストイの言葉を書きました。
『この自分とは何か、無限なものの一部である』←当時母が持っていた、岩波文庫のトルストイ名言集?という本から選びました。
その時は、「トルストイは、人にはみな無限の可能性がある、ということを言っている」と思い選んだのですが、農園主さんの記事を読ませていただき、もしかしたら私の中学生の時の解釈は間違っていたのかも、と思ったのです。
出典は覚えていなかったので、ネットで調べてみましたが、おそらく『懺悔』の中から引用したものかと思います。
宗教に対する思いを書いたものですが、ソクラテスやアリストテレスなど哲学者の言葉、仏陀のことも書かれており、トルストイも「無」「無限」などにいたく興味を持っていたように思えます。
もちろんこういうことは、多くの作家や哲学者、宗教家たちが書いているでしょうし、今回の農園主さんの言わんとしているところとは違っていると思いますが、ふとトルストイの言葉を思い出したので、余談として書きました。
人間にはこの世は見えても、あの世は見えません。少なくとも生きている間は。
しかし、なんらかの「免疫異常」が起こるケースもないとは言えず、そういう人間(境界があいまいな人)も少しはいて、神仏など、一応は見えないものとされているなにものかとコンタクトを取れたりすることもあるのかもしれません。
そうなると、この世とあの世どころか、地球と宇宙、ありとあらゆるもの、「すべて」と地続きであるし、つながりがあるもののように思います。
あるけれどない、ないけれどある、そんなあいまいな場所に、肉体とこころを持つオリジナルの魂が存在していることは、本当に不思議ですね。
農園主さんの記事からいろいろと考えてしまい、なんだか訳のわからないことを書いてしまった気がします(笑)
(追記)
お天気には、本当に悩まされますね。
こちらも、8月に凄まじいほどのゲリラ雷雨が多かったので、レインコートと雨靴を買ったのに、9月はほとんど降っていません。
作物がよく育ち、たくさん収穫できる秋になりますように。
わかりやすい例えではありますが、正しく理解できたのかどうかは、ちょっと不安です。
無と無限によってつながっているということですが、「無」「無限」も、無いのではなく『ある』んですよね。
そこにじぶんが存在しているかどうかをうまく考えられず、考えているうちに、「無」「無限」の外にいるような気がしてきました(笑)
免疫にまで広がった今回のお話で、また様々なことを知ることができ、考えることもたくさんありました。
野菜を例に挙げてくださったのは、とてもイメージしやすく、理解できました。
柿のことは初めて聞きました。
一番初めに試した人は、瓢箪から駒が出る的な偶然の産物だったのか、考えて試行してみたのかわかりませんが、すごいことですね。
そもそも1500年も前に、無や無限というものの概念があったというのもすごいですね。
そして、1500年以上の仏典や思想が受け継がれて、そこからいろいろなものが派生し、どんなに研究しても答えがひとつではない、ということは、まさに無であり無限であるように思います。
般若心経に限らず、いろいろな仏典や経典、聖書、他の宗教の書物や口伝からそれぞれの教派が分かれていったのは、研究という言い方もできますが、これも多くの人の余剰意識が生みだしたものと言えるかもしれないですね。
人類最初の差別は、人間が住んでいる狭い範囲の地域を区切ることから始まり、だんだん範囲が広がって国になっていった、という話を読んだことがあります。
利便性による「区別」でなく、人を「差別」することから始まったんだそうです。
その区別は置いておくとして。
そのようにして人間が作った国もそうですが、もっと範囲をどんどん大きくし、地球の他の星にも名前をつけていくわけです。
これはあくまで「地球に住む人間」がしたことであって、他の惑星などにいる宇宙人(のような何か)がいたら、地球人が金星と名付けた星は、たぶん金星ではないわけで。
このように考えると、やはり人間は自分と、自分が住む地球を「存在する主たるもの」として認識していることになるかと思います。
しかし、広い宇宙にいる(はずの)宇宙人などのなにものかにしてみれば、そうではない。
そうなると、自分も地球も、『確かなものではない』、無の一部、無限の一部、または無そのもの、無限そのものだと思えてきます。
中学の卒業アルバムに「ひとり一言」を書くページがあり、そこにトルストイの言葉を書きました。
『この自分とは何か、無限なものの一部である』←当時母が持っていた、岩波文庫のトルストイ名言集?という本から選びました。
その時は、「トルストイは、人にはみな無限の可能性がある、ということを言っている」と思い選んだのですが、農園主さんの記事を読ませていただき、もしかしたら私の中学生の時の解釈は間違っていたのかも、と思ったのです。
出典は覚えていなかったので、ネットで調べてみましたが、おそらく『懺悔』の中から引用したものかと思います。
宗教に対する思いを書いたものですが、ソクラテスやアリストテレスなど哲学者の言葉、仏陀のことも書かれており、トルストイも「無」「無限」などにいたく興味を持っていたように思えます。
もちろんこういうことは、多くの作家や哲学者、宗教家たちが書いているでしょうし、今回の農園主さんの言わんとしているところとは違っていると思いますが、ふとトルストイの言葉を思い出したので、余談として書きました。
人間にはこの世は見えても、あの世は見えません。少なくとも生きている間は。
しかし、なんらかの「免疫異常」が起こるケースもないとは言えず、そういう人間(境界があいまいな人)も少しはいて、神仏など、一応は見えないものとされているなにものかとコンタクトを取れたりすることもあるのかもしれません。
そうなると、この世とあの世どころか、地球と宇宙、ありとあらゆるもの、「すべて」と地続きであるし、つながりがあるもののように思います。
あるけれどない、ないけれどある、そんなあいまいな場所に、肉体とこころを持つオリジナルの魂が存在していることは、本当に不思議ですね。
農園主さんの記事からいろいろと考えてしまい、なんだか訳のわからないことを書いてしまった気がします(笑)
(追記)
お天気には、本当に悩まされますね。
こちらも、8月に凄まじいほどのゲリラ雷雨が多かったので、レインコートと雨靴を買ったのに、9月はほとんど降っていません。
作物がよく育ち、たくさん収穫できる秋になりますように。
2024年9月19日 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する
今回はいよいよ突っ込んだ内容になって、すこし読むのがたいへんかとおもうんですが、理解していただければきっと気づきがあるとおもうので、ぜひ気合を入れてお読みいただけるとうれしいです(笑)
あの世とこの世のへだたりということなんですが、以前、般若心経の話をしました。
玄奘三蔵によって書かれた般若心経(あとで唯識のお話もします)は無について説いているんですが、無の解釈の仕方が現代のわれわれとはちょっとちがう、という話でした。
般若心経では「われわれがあるとおもっている肉体、意識はじつは存在しない。一切は無である。そして、存在しないというカタチで存在しているのだ」と、非常にややこしいことをいいます。
この場合、般若心経における無はゼロという意味だけではなくて、「なにもかもすべて」という意味も含んでいます。
一本のヒモがあって、片方の端っこはなにもないゼロの無。
もう片方の端っこはなにもかもすべてを包括する、無限の無。
このヒモの両端をくっつけて輪っかをつくったとします。
この輪っかはつまり、われわれがあるとおもっている世界です。
しかし般若心経はこの両端の、無と無限がくっついた部分をフォーカスしてるんですね。
つまり、宇宙という広大無辺の無限の世界にただようじぶんと、それもじきになくなるという死の世界(ゼロの世界)を、輪っかにしてつなぐ。
われわれの世界は無と無限によってつながっていて、その間にいるじぶんが存在しているようにおもえても、じつはそのように意識がとらわれているだけなのだ、というわけです。
これは、蝶がじぶんの夢をみているのか、じぶんが蝶の夢をみているのか、という荘子の思想や、余剰意識の問題と通じているところだとおもいます。
しかしみんなそうだとおもうんですが、われわれはじぶんの肉体や感覚が「ない」と断言するところまで、じぶんの肉体や意識を否定することはできません。
では、結局じぶんとはなんなのか。
われわれはなぜ、じぶんが存在しているというおもいこみにとらわれてしまうのか。
クローンのぼくができたときに、それぞれの自我をへだてるものはなんなのか。
これを解き明かすキーワードは、医学的な言葉でいう「免疫」なのではないかとおもっています。
人間の体には免疫がそなわっていますから、たとえば皮膚を移植する場合、他人の皮膚をじぶんの体に移しても、拒絶反応が出てうまくくっつかないんですね。
免疫というと、いま言ったように他人の組織を拒絶したり、ウイルスと戦ったり、細菌の感染に抗うという機能面だけが強調されます。
医学的には肉体が外敵に抗うシステム面だけが大事なので、免疫という言葉でかまわないんですが、もうすこし哲学的に意味を広げてみると、これは「じぶんとじぶん以外を区別するシステム」ということになるかとおもいます。
クローンの場合、皮膚や組織は取り換えがききますが、じぶんとクローンにはそれぞれ独立した免疫があるから、それぞれちがった意識をもつことになる、といえます。
互いの免疫が独立しているから、クローンを傷つけても、ぼくが「痛い」とはならないわけです。
前回の話のトマトの場合、植物には人間のような免疫細胞はないのですが、異物を排除するための自然免疫が備わっているといいます。
やはり外側から侵略されないシステムは備わっているんですね。
だからトマトの枝を折って土に挿して繁殖した場合、それぞれの免疫が独立するから、べつのトマトとして生きることになる、というわけです。
植物の場合、人間とくらべて免疫のありようが単純なんです。
たとえば、カボチャの種が発芽して、芽が出ます。
同時に、キュウリの種もまいておいて、これも芽が出ます。
このカボチャとキュウリの幼苗をそれぞれ半分に切って、カボチャの根っこのある茎にキュウリの頭の部分をつないで、専用のクリップで留めておくんです。
そうすると、カボチャの根っことキュウリの頭がつながります。
カボチャの根はキュウリの自根と比べると頑強なので、病気や乾燥に強いキュウリを育てることができるメリットがあるんですね。
こうした接ぎ木苗はホームセンターなどでよく出回っています。
しかしこれは人間では絶対にありえない話です。
このカボチャとキュウリの接ぎ木の話は、人間でいえばぼくとマイケル・ジャクソンをそれぞれ胴体から半分に切って、マイケルジャクソンの足をぼくにつないだらダンスがうまくなった、というくらい荒唐無稽です。
人間には免疫細胞があるので、たとえおなじ人間でも、よほどの近親、それも相性がピッタリ合わない限り、直接他人の細胞を受け付けることはできません。
しかし植物の場合は免疫のありようが単純なので、ある程度可能なんですね。
もちろんキュウリとナスみたいに、科のまったくちがう植物同士がつながることはないんですが、キュウリとカボチャのようにおなじウリ科であれば、われわれシロウトがけっこういい加減にやってもくっついてしまう。
この有名な例が、甘柿です。
甘柿は、種をそのまま植えると、すべて渋柿になります。
そこで、渋柿の幹に甘柿の枝を接ぎ木するんです。
そうすると接ぎ木した枝は甘柿に育ってくれるんですね。
われわれが現在食べている甘柿はすべて接ぎ木です。
最初の甘柿は、突然変異によってたまたまできたようで、われわれの祖先が渋柿の苗に甘柿の枝を接ぎ木しながら広めていったというわけです。
この接ぎ木の話でなにが言いたいのかというと、免疫のありようが単純な生物では、じぶんと他の存在の境界があいまいだということです。
つまり、単純な生き物ほど、より宇宙に近いといえるかもしれません。
だから仕組みが単純な生き物だと、わたしがあなたになったり、あなたがわたしになったり、わたしの一部から分裂したりということが比較的容易に起こりえる。
複雑な免疫を持ち、脳と神経が発達した人間は、余剰意識もあって、じぶんというものをオンリーワンの特別な存在だと信じて疑いません。
しかしその免疫を取っ払っていくと、だんだんじぶんと他人の境界があいまいになり、そしてとうとう最後には境界そのものがなくなってしまう、というわけです。
免疫による肉体の独立性は、死ぬと失われます。
死ねば免疫細胞も活動を止めますから、じぶんがじぶんである必要性がなくなります。
もうすこし突っ込んだことをいうと、たとえば腕を失ったとき、脳や心臓という肉体の免疫と自律をつかさどるほうは、独立性を維持しますが、そうでないほうは死にますよね。
この死んだほうの腕になにか「生きていた意味」があるかというと、われわれはなかなか意味を見いだせないとおもうんです。
それはかつてじぶんの一部でしたが、もはや腐りゆく肉の塊でしかありません。
その延長線でいえば、肉体ぜんぶが死んで、じぶんの独立性・精神・魂がすべて失われた場合も、やはり意味らしい意味はないのではないか。
たとえばぼくはいまこの腕でタイピングをしていますから、この腕にはちゃんと生きている意味があるはずなんです。
なのに腕が切り離されたとたん、それは意味を失い、ただの腐りゆく肉塊となる。
しかしこの、肉体が意味を失った向こう側について、人類はずっと考えてきたんですよね。
腕はともかく、最後の最後、じぶんの魂まで失われたら、そのあとはどうなるのか。
それでいまぼくは、死んだ肉体や精神は、この世界(宇宙)のあらゆる要素に溶け込んで、一体化すると考えています。
精霊信仰……たとえば日本の古神道の言い方でいえば、肉塊になった腕は「腕の神様」になるわけです。
有機物、無機物、霊魂など、目に見えるもの・見えないものの概念にへだたりのない、ありとあらゆるものが精霊(神)であるという考え方ですね。
これは、ギズモさんのおっしゃる「この世とあの世に分けへだてがない」ということにつながるのではないでしょうか。
ギズモさんの記事の
”余剰意識とは、「こころ」と同義、またはこころの一部でしょうか?”
ということですが、ぼくもそうだとおもいます。
最初に「あとで唯識のお話もします」と述べましたが、玄奘三蔵は「すべてはこころが作り出す仮の世界」という唯識の思想を確立しました。
しかし般若心経ではその唯識すら虚構なんだといって、人間の意識を無と無限の中に放り込んでしまうんです。
そのように、本来死なねば得られない意識の融合を、生きながらにしてムリヤリ得ようとする試みを、仏教では「解脱」といいました。
つまり仏教では、死にアプローチしていく行為自体を、仏教徒の生きる意味にしてしまったんですね。
なぜそんなことをしたのかというと、われわれのこころは、いざ分解してみると、生き物の本能と、本能に肉付けする余剰意識くらいしかありません。
じつは意識を徹底的に分解して、唯識の中をいくら探しても、「生きる意味」は見いだせないことに玄奘三蔵は気づいていたのだとおもいます。
(あるいは仏陀の時代からそれはわかっていたのかもしれません)
しかし人間は、じぶんが死ぬとわかったとたん、生きることそのものに意味を見いだして……つまり、必死で生きるようになりますよね。
だから、わざと疑似的に死に片足を突っ込んだような状況をつくる(解脱に向かう)ことで、生きる意味を見いだそうとした、ということなんでしょう。
それがある時代では極端に解釈されて、補陀落渡海や即身仏という無茶苦茶なカタチで実践されたこともあります。
しかし唯識にしても般若心経にしても、意識を分解するとか、生きながら死ぬというようなこねくり回した考えは、やっぱり余剰意識によってやっていることで、荘子の言い方を借りれば、人為的で自然に即してはいません。(←すこし表現を変えました)
ほかの動物はこんなふうに生き死にについて思い悩んだりしませんし、動物には明確なこころを感じにくい。
その点でいえば、やはり余剰意識がこころ、あるいはこころの一部というのはただしいとおもいます。
というわけで、これだけ長く話しても、ではなぜぼくやギズモさんが、それぞれのオリジナルの魂をもって生きているのか、ということについては謎のまま……おそらくそこは現代では答えの出せることではないようにもおもうんですが、今回もワガママ勝手におもうところを述べさせていただきました(笑)
あの世とこの世のへだたりということなんですが、以前、般若心経の話をしました。
玄奘三蔵によって書かれた般若心経(あとで唯識のお話もします)は無について説いているんですが、無の解釈の仕方が現代のわれわれとはちょっとちがう、という話でした。
般若心経では「われわれがあるとおもっている肉体、意識はじつは存在しない。一切は無である。そして、存在しないというカタチで存在しているのだ」と、非常にややこしいことをいいます。
この場合、般若心経における無はゼロという意味だけではなくて、「なにもかもすべて」という意味も含んでいます。
一本のヒモがあって、片方の端っこはなにもないゼロの無。
もう片方の端っこはなにもかもすべてを包括する、無限の無。
このヒモの両端をくっつけて輪っかをつくったとします。
この輪っかはつまり、われわれがあるとおもっている世界です。
しかし般若心経はこの両端の、無と無限がくっついた部分をフォーカスしてるんですね。
つまり、宇宙という広大無辺の無限の世界にただようじぶんと、それもじきになくなるという死の世界(ゼロの世界)を、輪っかにしてつなぐ。
われわれの世界は無と無限によってつながっていて、その間にいるじぶんが存在しているようにおもえても、じつはそのように意識がとらわれているだけなのだ、というわけです。
これは、蝶がじぶんの夢をみているのか、じぶんが蝶の夢をみているのか、という荘子の思想や、余剰意識の問題と通じているところだとおもいます。
しかしみんなそうだとおもうんですが、われわれはじぶんの肉体や感覚が「ない」と断言するところまで、じぶんの肉体や意識を否定することはできません。
では、結局じぶんとはなんなのか。
われわれはなぜ、じぶんが存在しているというおもいこみにとらわれてしまうのか。
クローンのぼくができたときに、それぞれの自我をへだてるものはなんなのか。
これを解き明かすキーワードは、医学的な言葉でいう「免疫」なのではないかとおもっています。
人間の体には免疫がそなわっていますから、たとえば皮膚を移植する場合、他人の皮膚をじぶんの体に移しても、拒絶反応が出てうまくくっつかないんですね。
免疫というと、いま言ったように他人の組織を拒絶したり、ウイルスと戦ったり、細菌の感染に抗うという機能面だけが強調されます。
医学的には肉体が外敵に抗うシステム面だけが大事なので、免疫という言葉でかまわないんですが、もうすこし哲学的に意味を広げてみると、これは「じぶんとじぶん以外を区別するシステム」ということになるかとおもいます。
クローンの場合、皮膚や組織は取り換えがききますが、じぶんとクローンにはそれぞれ独立した免疫があるから、それぞれちがった意識をもつことになる、といえます。
互いの免疫が独立しているから、クローンを傷つけても、ぼくが「痛い」とはならないわけです。
前回の話のトマトの場合、植物には人間のような免疫細胞はないのですが、異物を排除するための自然免疫が備わっているといいます。
やはり外側から侵略されないシステムは備わっているんですね。
だからトマトの枝を折って土に挿して繁殖した場合、それぞれの免疫が独立するから、べつのトマトとして生きることになる、というわけです。
植物の場合、人間とくらべて免疫のありようが単純なんです。
たとえば、カボチャの種が発芽して、芽が出ます。
同時に、キュウリの種もまいておいて、これも芽が出ます。
このカボチャとキュウリの幼苗をそれぞれ半分に切って、カボチャの根っこのある茎にキュウリの頭の部分をつないで、専用のクリップで留めておくんです。
そうすると、カボチャの根っことキュウリの頭がつながります。
カボチャの根はキュウリの自根と比べると頑強なので、病気や乾燥に強いキュウリを育てることができるメリットがあるんですね。
こうした接ぎ木苗はホームセンターなどでよく出回っています。
しかしこれは人間では絶対にありえない話です。
このカボチャとキュウリの接ぎ木の話は、人間でいえばぼくとマイケル・ジャクソンをそれぞれ胴体から半分に切って、マイケルジャクソンの足をぼくにつないだらダンスがうまくなった、というくらい荒唐無稽です。
人間には免疫細胞があるので、たとえおなじ人間でも、よほどの近親、それも相性がピッタリ合わない限り、直接他人の細胞を受け付けることはできません。
しかし植物の場合は免疫のありようが単純なので、ある程度可能なんですね。
もちろんキュウリとナスみたいに、科のまったくちがう植物同士がつながることはないんですが、キュウリとカボチャのようにおなじウリ科であれば、われわれシロウトがけっこういい加減にやってもくっついてしまう。
この有名な例が、甘柿です。
甘柿は、種をそのまま植えると、すべて渋柿になります。
そこで、渋柿の幹に甘柿の枝を接ぎ木するんです。
そうすると接ぎ木した枝は甘柿に育ってくれるんですね。
われわれが現在食べている甘柿はすべて接ぎ木です。
最初の甘柿は、突然変異によってたまたまできたようで、われわれの祖先が渋柿の苗に甘柿の枝を接ぎ木しながら広めていったというわけです。
この接ぎ木の話でなにが言いたいのかというと、免疫のありようが単純な生物では、じぶんと他の存在の境界があいまいだということです。
つまり、単純な生き物ほど、より宇宙に近いといえるかもしれません。
だから仕組みが単純な生き物だと、わたしがあなたになったり、あなたがわたしになったり、わたしの一部から分裂したりということが比較的容易に起こりえる。
複雑な免疫を持ち、脳と神経が発達した人間は、余剰意識もあって、じぶんというものをオンリーワンの特別な存在だと信じて疑いません。
しかしその免疫を取っ払っていくと、だんだんじぶんと他人の境界があいまいになり、そしてとうとう最後には境界そのものがなくなってしまう、というわけです。
免疫による肉体の独立性は、死ぬと失われます。
死ねば免疫細胞も活動を止めますから、じぶんがじぶんである必要性がなくなります。
もうすこし突っ込んだことをいうと、たとえば腕を失ったとき、脳や心臓という肉体の免疫と自律をつかさどるほうは、独立性を維持しますが、そうでないほうは死にますよね。
この死んだほうの腕になにか「生きていた意味」があるかというと、われわれはなかなか意味を見いだせないとおもうんです。
それはかつてじぶんの一部でしたが、もはや腐りゆく肉の塊でしかありません。
その延長線でいえば、肉体ぜんぶが死んで、じぶんの独立性・精神・魂がすべて失われた場合も、やはり意味らしい意味はないのではないか。
たとえばぼくはいまこの腕でタイピングをしていますから、この腕にはちゃんと生きている意味があるはずなんです。
なのに腕が切り離されたとたん、それは意味を失い、ただの腐りゆく肉塊となる。
しかしこの、肉体が意味を失った向こう側について、人類はずっと考えてきたんですよね。
腕はともかく、最後の最後、じぶんの魂まで失われたら、そのあとはどうなるのか。
それでいまぼくは、死んだ肉体や精神は、この世界(宇宙)のあらゆる要素に溶け込んで、一体化すると考えています。
精霊信仰……たとえば日本の古神道の言い方でいえば、肉塊になった腕は「腕の神様」になるわけです。
有機物、無機物、霊魂など、目に見えるもの・見えないものの概念にへだたりのない、ありとあらゆるものが精霊(神)であるという考え方ですね。
これは、ギズモさんのおっしゃる「この世とあの世に分けへだてがない」ということにつながるのではないでしょうか。
ギズモさんの記事の
”余剰意識とは、「こころ」と同義、またはこころの一部でしょうか?”
ということですが、ぼくもそうだとおもいます。
最初に「あとで唯識のお話もします」と述べましたが、玄奘三蔵は「すべてはこころが作り出す仮の世界」という唯識の思想を確立しました。
しかし般若心経ではその唯識すら虚構なんだといって、人間の意識を無と無限の中に放り込んでしまうんです。
そのように、本来死なねば得られない意識の融合を、生きながらにしてムリヤリ得ようとする試みを、仏教では「解脱」といいました。
つまり仏教では、死にアプローチしていく行為自体を、仏教徒の生きる意味にしてしまったんですね。
なぜそんなことをしたのかというと、われわれのこころは、いざ分解してみると、生き物の本能と、本能に肉付けする余剰意識くらいしかありません。
じつは意識を徹底的に分解して、唯識の中をいくら探しても、「生きる意味」は見いだせないことに玄奘三蔵は気づいていたのだとおもいます。
(あるいは仏陀の時代からそれはわかっていたのかもしれません)
しかし人間は、じぶんが死ぬとわかったとたん、生きることそのものに意味を見いだして……つまり、必死で生きるようになりますよね。
だから、わざと疑似的に死に片足を突っ込んだような状況をつくる(解脱に向かう)ことで、生きる意味を見いだそうとした、ということなんでしょう。
それがある時代では極端に解釈されて、補陀落渡海や即身仏という無茶苦茶なカタチで実践されたこともあります。
しかし唯識にしても般若心経にしても、意識を分解するとか、生きながら死ぬというようなこねくり回した考えは、やっぱり余剰意識によってやっていることで、荘子の言い方を借りれば、人為的で自然に即してはいません。(←すこし表現を変えました)
ほかの動物はこんなふうに生き死にについて思い悩んだりしませんし、動物には明確なこころを感じにくい。
その点でいえば、やはり余剰意識がこころ、あるいはこころの一部というのはただしいとおもいます。
というわけで、これだけ長く話しても、ではなぜぼくやギズモさんが、それぞれのオリジナルの魂をもって生きているのか、ということについては謎のまま……おそらくそこは現代では答えの出せることではないようにもおもうんですが、今回もワガママ勝手におもうところを述べさせていただきました(笑)
2024年9月15日 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する
まず、農園主さんのお考えが、トンデモとか眉唾とはみじんも思っていないことを宣言しておきます(*^_^*)
答えの出ないものをいろいろと考えていくのは、「余剰意識」によるものなんですね。
荘子が説いたのは、余剰意識の活用はあまり意味がなく自然に即して考えればいい、ということのようですが、答えが出ないようなこと、考えてもあまり意味がないことをあれこれ考えるのは、楽しいですね。
こういうことができるから、人間っておもしろいんだ、と思います。
生活に必要のない知識や情報は、生きるにおいてさほど重要ではなく、知らなくても差し支えないものかもしれません。
結局は、自己満足の世界、知識欲を満たすだけのものではないかと。
でも、こういったものがなかったら、「知りたい」という欲や好奇心がなかったら、人生は実につまらないものだろうな、と思います。
荘子の教えは、いっさいをあるがままに受け入れる、ということですね。それが自然であると。
これはビートルズの『Let it Be』、「あるがままに、身を委ねなさい」と同じような考え方かと思います。
キリスト教だと、例えば試験勉強を一生懸命やったら、あとは神様に委ねなさい、と教えられます。
委ねてしまい、あとはくよくよと思い悩むな、ということかもしれません。
思い、考え方イコール物の見方であって、それによってずいぶん生き方が変わるのではないか、と思えます。
余剰意識であれやこれやと考え、時には自然に即してあるがままに受け入れる、この二刀流ですね。
今回の記事もずいぶん考えることの多い内容でしたが、すべてが「なるほどなぁ~」と、ストーンと響きました。
私は子どものころから変わっていたのでしょう。今もですが(笑)
人が死んだあと、天国とか地獄に行くというシステムも理解はしていましたが、それを理解はしつつ(天国地獄があるかどうかは別にして)、「見えない・聞こえないだけで、そばにいる(ある)」ように思っていました。
それは本当になんの根拠もない「感覚」としてであり、霊感はないと断言できます(笑)
つまり、この世とあの世は地続きのようなもの、と感じていたわけですね。
分かれ目があるようであって、実はない。
肉体がなくなったあと、「なにか」になって、その辺や、空、宇宙や自然などに「いる。ある」といったらわかりやすいでしょうか。
そこをもっと言えば、転生、ということに関係してくるかもしれません。
(追記)「じぶんの意識とじぶん以外の世界(この場合は蝶の意識)には、じつは分けへだてがないのかもしれません」というのも、この世とあの世に分けへだてがないのかもしれない、ということと、似ている??ように感じます。
以前お話した諸星大二郎の漫画や、手塚治虫の「火の鳥」など、一例ですが、やはり「宇宙」は不可欠だと考えていますね。
農園主さんがおっしゃる「生まれ変わりは地球に限らないぞ」というのも、とっても納得できることです。
人間の身体は「借り物」で、地球や宇宙の歴史のほんの一部分、わずか100年足らずの間借りていて、それを繰り返したり、ほかの何かになったり、悠久の時を漂い続ける、ということかもしれません。
電飾と電球のお話は、例えとしてとても理解しやすいです。
昔読んだなにかに書いてあったことですが、漫画や小説の作り話ではなく、宗教の話でもなく、哲学などに関係する話だったように思います。
無限の宇宙のどこかには、すべてを管轄する絶対的な存在がある。
それを神と呼んでもいいし、高度な文明の宇宙人でもいいし、他の何かでもいい。
その何かが、人間それぞれの人生のシナリオをあらかじめ決定している。
例えば人間がいろいろなことを自分で決めたように思ったとしても、それは実は自分で考えたことではなく、結局はなにものかに生かされ、ゆだね(させられ?)、自然に受け入れていることになる。
これは、農園主さんが書いていらっしゃる「電球がじぶんで灯っているのではなく~」ということのように思えました。
「あらかじめ決められているなら、何も考えず成り行きにまかせよう」と考えるのも、案外難しいことですね。
余剰意識とは、「こころ」と同義、またはこころの一部でしょうか?
唯識論のように、すべてはこころが作り出す仮の世界、と考えると、なんとなくいろいろなことがつながってくるように思えます。
「ジャンケンマン」のお話、いい例をありがとうございます。
確かに理屈をわからない側からすると、マジックか予知ができる「特別なすごい人」ということになりますね(笑)
こういうことが、陰陽道や密教に存在したというのは、とっても興味深いお話です。
さて最後に「トンデモ」話です(笑)
母は、霊感があったわけではないと思うのですが、よく不思議な体験をする人でした。
その中でよく起きていた現象が、「誰かがスカートを引っ張る」というものでした。
私も経験があるのですが、裾のほうをクイっと引っ張られる感覚です。
もちろんそばには誰もいないので、私は「地続きの人だぁ」と自然に思っています。
人(追記・霊)ではなく、動物や妖怪、神仏、未知のなにか、ということもあり得ますね。
答えの出ないものをいろいろと考えていくのは、「余剰意識」によるものなんですね。
荘子が説いたのは、余剰意識の活用はあまり意味がなく自然に即して考えればいい、ということのようですが、答えが出ないようなこと、考えてもあまり意味がないことをあれこれ考えるのは、楽しいですね。
こういうことができるから、人間っておもしろいんだ、と思います。
生活に必要のない知識や情報は、生きるにおいてさほど重要ではなく、知らなくても差し支えないものかもしれません。
結局は、自己満足の世界、知識欲を満たすだけのものではないかと。
でも、こういったものがなかったら、「知りたい」という欲や好奇心がなかったら、人生は実につまらないものだろうな、と思います。
荘子の教えは、いっさいをあるがままに受け入れる、ということですね。それが自然であると。
これはビートルズの『Let it Be』、「あるがままに、身を委ねなさい」と同じような考え方かと思います。
キリスト教だと、例えば試験勉強を一生懸命やったら、あとは神様に委ねなさい、と教えられます。
委ねてしまい、あとはくよくよと思い悩むな、ということかもしれません。
思い、考え方イコール物の見方であって、それによってずいぶん生き方が変わるのではないか、と思えます。
余剰意識であれやこれやと考え、時には自然に即してあるがままに受け入れる、この二刀流ですね。
今回の記事もずいぶん考えることの多い内容でしたが、すべてが「なるほどなぁ~」と、ストーンと響きました。
私は子どものころから変わっていたのでしょう。今もですが(笑)
人が死んだあと、天国とか地獄に行くというシステムも理解はしていましたが、それを理解はしつつ(天国地獄があるかどうかは別にして)、「見えない・聞こえないだけで、そばにいる(ある)」ように思っていました。
それは本当になんの根拠もない「感覚」としてであり、霊感はないと断言できます(笑)
つまり、この世とあの世は地続きのようなもの、と感じていたわけですね。
分かれ目があるようであって、実はない。
肉体がなくなったあと、「なにか」になって、その辺や、空、宇宙や自然などに「いる。ある」といったらわかりやすいでしょうか。
そこをもっと言えば、転生、ということに関係してくるかもしれません。
(追記)「じぶんの意識とじぶん以外の世界(この場合は蝶の意識)には、じつは分けへだてがないのかもしれません」というのも、この世とあの世に分けへだてがないのかもしれない、ということと、似ている??ように感じます。
以前お話した諸星大二郎の漫画や、手塚治虫の「火の鳥」など、一例ですが、やはり「宇宙」は不可欠だと考えていますね。
農園主さんがおっしゃる「生まれ変わりは地球に限らないぞ」というのも、とっても納得できることです。
人間の身体は「借り物」で、地球や宇宙の歴史のほんの一部分、わずか100年足らずの間借りていて、それを繰り返したり、ほかの何かになったり、悠久の時を漂い続ける、ということかもしれません。
電飾と電球のお話は、例えとしてとても理解しやすいです。
昔読んだなにかに書いてあったことですが、漫画や小説の作り話ではなく、宗教の話でもなく、哲学などに関係する話だったように思います。
無限の宇宙のどこかには、すべてを管轄する絶対的な存在がある。
それを神と呼んでもいいし、高度な文明の宇宙人でもいいし、他の何かでもいい。
その何かが、人間それぞれの人生のシナリオをあらかじめ決定している。
例えば人間がいろいろなことを自分で決めたように思ったとしても、それは実は自分で考えたことではなく、結局はなにものかに生かされ、ゆだね(させられ?)、自然に受け入れていることになる。
これは、農園主さんが書いていらっしゃる「電球がじぶんで灯っているのではなく~」ということのように思えました。
「あらかじめ決められているなら、何も考えず成り行きにまかせよう」と考えるのも、案外難しいことですね。
余剰意識とは、「こころ」と同義、またはこころの一部でしょうか?
唯識論のように、すべてはこころが作り出す仮の世界、と考えると、なんとなくいろいろなことがつながってくるように思えます。
「ジャンケンマン」のお話、いい例をありがとうございます。
確かに理屈をわからない側からすると、マジックか予知ができる「特別なすごい人」ということになりますね(笑)
こういうことが、陰陽道や密教に存在したというのは、とっても興味深いお話です。
さて最後に「トンデモ」話です(笑)
母は、霊感があったわけではないと思うのですが、よく不思議な体験をする人でした。
その中でよく起きていた現象が、「誰かがスカートを引っ張る」というものでした。
私も経験があるのですが、裾のほうをクイっと引っ張られる感覚です。
もちろんそばには誰もいないので、私は「地続きの人だぁ」と自然に思っています。
人(追記・霊)ではなく、動物や妖怪、神仏、未知のなにか、ということもあり得ますね。
2024年9月10日 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する
すこし追記なんですが、さっきの投稿で、ぼくたちは電飾の電球のひとつだといいました。
ぼくが投稿の序盤で「われわれは結局のところ、大きな自然世界からたまたまじぶんという夢をみているだけなのではないか」といった、自然世界とじぶんの関係と、電球と電飾の関係はおなじです。
電球はすなわち電飾であり、電飾は電球を余すことなくつないでいます。
ぼくという存在は、大きな自然世界がみている夢のように感じる、というのは、電球がじぶんで灯っているのではなく、電飾のつないでいる電線が電球を灯している関係とおなじです。
ここからさらに、もし地球で最初の生命体が、どこか宇宙からきた命のかけらだったとしたらと考えると、やっぱりもしかしたら、生まれ変わりは地球に限らないぞと、いよいよ(ぼくだけが)楽しくなります。
ややこしい追記で失礼しました。
ぼくが投稿の序盤で「われわれは結局のところ、大きな自然世界からたまたまじぶんという夢をみているだけなのではないか」といった、自然世界とじぶんの関係と、電球と電飾の関係はおなじです。
電球はすなわち電飾であり、電飾は電球を余すことなくつないでいます。
ぼくという存在は、大きな自然世界がみている夢のように感じる、というのは、電球がじぶんで灯っているのではなく、電飾のつないでいる電線が電球を灯している関係とおなじです。
ここからさらに、もし地球で最初の生命体が、どこか宇宙からきた命のかけらだったとしたらと考えると、やっぱりもしかしたら、生まれ変わりは地球に限らないぞと、いよいよ(ぼくだけが)楽しくなります。
ややこしい追記で失礼しました。
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答えの出ない不思議な話をもうすこし続けさせてください。
けっこう重要なことを話しているつもりなんですが、今回はぼくの話すことにいよいよ偏りがあるというか、トンデモに片足を突っ込んでいるところがありますので、前回以上にあくまで眉唾物の話としてお読みいただけると幸いです(笑)
中国の思想家、荘子は紀元前300~200年ほどを生きたといわれ、思想書である「荘子」を著し、道教の始祖などといわれます。
ただほんとうに荘子という人物がいたのかどうかイマイチはっきりしないようです。それこそ仙人というか、謎の多い伝説的存在です。
この荘子の思想の中に「胡蝶の夢」という有名な話があります。
ある男が、蝶になった夢をみました。そして目を覚ましたときに、考えるのです。
わたしは蝶になった夢をみたのか。
あるいはいまのじぶんは、蝶がみている夢ではないのか、と。
荘子はこのたとえ話から以下のような思想を伝えます。
じぶんが蝶であるか、蝶がじぶんであるかと考えるようなことは、人為的に考えたことである。
じぶんが蝶の夢をみたのか、蝶がじぶんの夢をみているのかと、どちらかに正解を求めるようなことには意味がない。
じぶんが蝶の夢をみたこと、いまじぶんを生きていることはそれぞれ真実なのだから、その真実だけ受け止めて、あとは自然に預けてしまえばいいのだ、と。
ここにぼくの解釈を付け加えると、じぶんの意識とじぶん以外の世界(この場合は蝶の意識)には、じつは分けへだてがないのかもしれません。
胡蝶の夢の話を借りれば、われわれは結局のところ、大きな自然世界からたまたまじぶんという夢をみているだけなのではないか、ともおもえます。
たとえばトマトを育てていると、主枝からたくさんの側枝が出てきます。
そしてこの側枝を折り取って、土に差して水をやっておくと、側枝から根が生えてきて、またトマトとして生長して、花を咲かせて実をつけるんです。
ではこのとき、トマトの意志というものがあるなら、最初に植え付けたトマトと、側枝から根を張ったトマトは、べつのものでしょうか。
それとも、まったく意志の分別のない、おなじトマトであると言い切れるものでしょうか。
人間にたとえると、腕をちぎって培養液につけておいたら成長して、ぼくそっくりの存在になったとします。
この場合、本体のぼくと、培養液で腕から育ったぼくは、べつのものでしょうか、それともおなじぼくでしょうか。
実際、現在のクローン技術では、元の本体そっくりの生命を生み出すことが可能だといいます。
もし人間のクローンをつくった場合、「意識の所有者」はべつなのに、じぶんとまったくおなじ存在がいるということになります。
そうすると、ぼくの意識、ぼくの魂とは、いったいなんなのか。
「意識の所有者」なんてものは、ほんとうに存在するのだろうか。
そんなにポンポンとじぶんの分身ができてしまうようでは、じぶんの意識や魂なんて、ずいぶん頼りないものにおもえてきます。
それでふと、このように考えます。
もしかしたら、ぼくの意識も、ぼくの魂も、地球の生命の歴史に紐づいていて、見えない根っこでつながっているのではないか。
前回の投稿で、じぶんに生まれ変わりがあるとしたら、べつの星で生まれることもありえるか考えると、永遠に宇宙の迷子になる可能性が高そうだ、といいました。
そうやって考えていくと、地球に生まれたわれわれは、やっぱり地球の所有物なんじゃないかな、とおもえてきました。
そしてぼくたちの意識や魂はあたかもじぶんが独占しているようにおもえますが、じつは地球の生命の歴史から借りているだけではないか。
たとえると、クリスマスの電飾で照明が点滅するものがありますよね。
じぶんという存在はその電飾の電球のひとつのようなものではないかと。
手前の電球と電線はつまり、地球の生命の歴史です。
手前からどんどん電球が点滅していき、いまじぶんという電球が一瞬光って、消える。
ぼくはぼく自身で光っているようにおもっているけど、じつは手前から光っている電飾のシステムがあって、じぶんはたまたまこの一瞬を光っているだけ、というわけです。
電飾の場合は電線があって、電球同士のエネルギーがつながっているからわかりやすいけど、人間の場合は電線でつながっているわけでもないし、独立した意識が肥大しているので、なんだかじぶんの肉体はじぶんだけのもの、とおもいこんでしまいがちなのではないか。
そして地球上にあるじぶんとじぶん以外のあらゆる存在は、肉体があるからへだたっているようにおもえるけど、ほんとうはへだたりがない、と考えたほうが自然なようにもおもえるのです。
人間には脳があって、自律とはまたちがった「意識」をもっています。
植物には意識はないけれど、自律して生きていますよね。
人間も呼吸をしたり、髪の毛・爪が伸びるということは、意識しなくても勝手に自律しておこなっています。
だから、植物がそうであるように、生きることそのものには、じつは意識は必要がありません。
しかし動物は植物とちがって、じぶんからなにかを捕食しなければ生きていません。
植物のように生きるために必要なモノ(土・水・太陽光)が自動的に手に入る場合は意識はなくてもいいんですが、動物の場合は工夫しないと生きていけないので、そのために意識が必要になったわけです。
もちろん人間以外も動物には脳がありますから、意識はあります。
けれど、人間以外の動物は脳が小さかったり、神経の数が少なかったりして、意識のレベルが低いんですね。
では意識の基本的な役割はなにかというと、「食べること」「子孫を残すこと」「じぶんより強い外敵からうまく逃げること」くらいのものです。
このみっつであれば、ハエでもやってのけることができます。
しかし人間の場合は脳の容量が大きく、神経もかなりたくさん張っているので、基本的な意識以外にも、意識を利用することができるんですね。
この人類の余剰意識の活用の仕方は複雑多岐にわたります。
ぼくがここでいま書いているようなことも、余剰意識によるものです。
じぶんが蝶になった夢をみたのか、蝶がじぶんになった夢をみたのか、ということも、人間ならではの余剰意識の活用です。
その点で荘子は、あんまり人間が余剰意識をこねくり回してああだこうだと考えることには意味がないといい、もっと自然に即して考えればいいんだと説いたんですね。
ギズモさんが葬儀場に向かうまで飛んでいた二匹のアゲハチョウは、「義理の息子さんのお父さんがみている夢」(あるいは未知の次元を介した干渉)だったかもしれないし、そうではない単なる偶然かもしれません。
いずれにせよ、ギズモさんがなにかのメッセージのように感じたのであれば、それは実際の正解かどうかはともかく、自然にそう感じたこととして受け止めてよいのだとおもいました。
さて、日食・月食の原理を知っている人、の話なんですが、ものすごくくだらないたとえを話します。
ぼくが子供のころ、コインゲームで「ジャンケンマン」というものがありました。
コインを入れて、じゃんけんをするだけのゲームなんですが、ふつうにやってるとなかなか勝てません。
しかし、このゲームはたまに次になにを出せばいいのか、ヒントが出ることがあるんです。
それを知っていれば、負けている子の横にいて、ヒントが出たときに「かわって」といって、勝ち目を利用していれば、メダルがたまります。
しかしそういう他愛ない裏技でも、知らない子からすると、いったいどうしてそんなことができるのか、不思議でたまらないんですね(笑)
こういった裏技をだれにも教えずに、秘密にしておいてじぶんの仕事の評価を高めるというようなやり方が、むかしの陰陽道であったり、密教(真言)に存在したのでしょう。
それ以外でもむかしは大工や植木屋、鍛冶屋など、じぶんの持ってるすぐれた技術は門外不出のものとして、一子相伝にして技術屋としての仕事をつないでいくのが当たり前でしたね。
最後にインターステラーが難解だという話なんですが、これだけおさえておけばとてもわかりやすくなるポイントがあります。
まず、いまの人類のテクノロジーでは、宇宙船が太陽系外に飛び出したり、人間をコールドスリープさせる技術はありませんが、映画の世界ではそういう技術が確立しています。
次に、五次元空間では重力だけが干渉できるという点です。
なので、主人公は未来の五次元空間から重力波を利用して、主人公の娘の身の回りでポルターガイスト現象を起こしたわけです。
最後に、なぜ生身の人間が五次元空間へ行くことができたのかというと、人間にとって愛は観測可能なエネルギーで、愛が不可能を可能にした、というのです。
最後の点はいろいろ飛躍しすぎてます。
ただ人類がここまでテクノロジーを発展させて繁栄していることも愛のエネルギーだと考えたら、この愛(観測可能なエネルギー)はこれまでじつに多くの不可能を可能に変えてきたわけで、いまや五次元の取っ掛かりさえつかもうとしています。
その点で、荒唐無稽ではあるのですが、一笑に付すわけにもいかず、いちおう納得させられてしまうんですよね。
もし作品をご覧になったら、もっと解説したいポイントはありますが、それはまたいつか(笑)
答えの出ない不思議な話をもうすこし続けさせてください。
けっこう重要なことを話しているつもりなんですが、今回はぼくの話すことにいよいよ偏りがあるというか、トンデモに片足を突っ込んでいるところがありますので、前回以上にあくまで眉唾物の話としてお読みいただけると幸いです(笑)
中国の思想家、荘子は紀元前300~200年ほどを生きたといわれ、思想書である「荘子」を著し、道教の始祖などといわれます。
ただほんとうに荘子という人物がいたのかどうかイマイチはっきりしないようです。それこそ仙人というか、謎の多い伝説的存在です。
この荘子の思想の中に「胡蝶の夢」という有名な話があります。
ある男が、蝶になった夢をみました。そして目を覚ましたときに、考えるのです。
わたしは蝶になった夢をみたのか。
あるいはいまのじぶんは、蝶がみている夢ではないのか、と。
荘子はこのたとえ話から以下のような思想を伝えます。
じぶんが蝶であるか、蝶がじぶんであるかと考えるようなことは、人為的に考えたことである。
じぶんが蝶の夢をみたのか、蝶がじぶんの夢をみているのかと、どちらかに正解を求めるようなことには意味がない。
じぶんが蝶の夢をみたこと、いまじぶんを生きていることはそれぞれ真実なのだから、その真実だけ受け止めて、あとは自然に預けてしまえばいいのだ、と。
ここにぼくの解釈を付け加えると、じぶんの意識とじぶん以外の世界(この場合は蝶の意識)には、じつは分けへだてがないのかもしれません。
胡蝶の夢の話を借りれば、われわれは結局のところ、大きな自然世界からたまたまじぶんという夢をみているだけなのではないか、ともおもえます。
たとえばトマトを育てていると、主枝からたくさんの側枝が出てきます。
そしてこの側枝を折り取って、土に差して水をやっておくと、側枝から根が生えてきて、またトマトとして生長して、花を咲かせて実をつけるんです。
ではこのとき、トマトの意志というものがあるなら、最初に植え付けたトマトと、側枝から根を張ったトマトは、べつのものでしょうか。
それとも、まったく意志の分別のない、おなじトマトであると言い切れるものでしょうか。
人間にたとえると、腕をちぎって培養液につけておいたら成長して、ぼくそっくりの存在になったとします。
この場合、本体のぼくと、培養液で腕から育ったぼくは、べつのものでしょうか、それともおなじぼくでしょうか。
実際、現在のクローン技術では、元の本体そっくりの生命を生み出すことが可能だといいます。
もし人間のクローンをつくった場合、「意識の所有者」はべつなのに、じぶんとまったくおなじ存在がいるということになります。
そうすると、ぼくの意識、ぼくの魂とは、いったいなんなのか。
「意識の所有者」なんてものは、ほんとうに存在するのだろうか。
そんなにポンポンとじぶんの分身ができてしまうようでは、じぶんの意識や魂なんて、ずいぶん頼りないものにおもえてきます。
それでふと、このように考えます。
もしかしたら、ぼくの意識も、ぼくの魂も、地球の生命の歴史に紐づいていて、見えない根っこでつながっているのではないか。
前回の投稿で、じぶんに生まれ変わりがあるとしたら、べつの星で生まれることもありえるか考えると、永遠に宇宙の迷子になる可能性が高そうだ、といいました。
そうやって考えていくと、地球に生まれたわれわれは、やっぱり地球の所有物なんじゃないかな、とおもえてきました。
そしてぼくたちの意識や魂はあたかもじぶんが独占しているようにおもえますが、じつは地球の生命の歴史から借りているだけではないか。
たとえると、クリスマスの電飾で照明が点滅するものがありますよね。
じぶんという存在はその電飾の電球のひとつのようなものではないかと。
手前の電球と電線はつまり、地球の生命の歴史です。
手前からどんどん電球が点滅していき、いまじぶんという電球が一瞬光って、消える。
ぼくはぼく自身で光っているようにおもっているけど、じつは手前から光っている電飾のシステムがあって、じぶんはたまたまこの一瞬を光っているだけ、というわけです。
電飾の場合は電線があって、電球同士のエネルギーがつながっているからわかりやすいけど、人間の場合は電線でつながっているわけでもないし、独立した意識が肥大しているので、なんだかじぶんの肉体はじぶんだけのもの、とおもいこんでしまいがちなのではないか。
そして地球上にあるじぶんとじぶん以外のあらゆる存在は、肉体があるからへだたっているようにおもえるけど、ほんとうはへだたりがない、と考えたほうが自然なようにもおもえるのです。
人間には脳があって、自律とはまたちがった「意識」をもっています。
植物には意識はないけれど、自律して生きていますよね。
人間も呼吸をしたり、髪の毛・爪が伸びるということは、意識しなくても勝手に自律しておこなっています。
だから、植物がそうであるように、生きることそのものには、じつは意識は必要がありません。
しかし動物は植物とちがって、じぶんからなにかを捕食しなければ生きていません。
植物のように生きるために必要なモノ(土・水・太陽光)が自動的に手に入る場合は意識はなくてもいいんですが、動物の場合は工夫しないと生きていけないので、そのために意識が必要になったわけです。
もちろん人間以外も動物には脳がありますから、意識はあります。
けれど、人間以外の動物は脳が小さかったり、神経の数が少なかったりして、意識のレベルが低いんですね。
では意識の基本的な役割はなにかというと、「食べること」「子孫を残すこと」「じぶんより強い外敵からうまく逃げること」くらいのものです。
このみっつであれば、ハエでもやってのけることができます。
しかし人間の場合は脳の容量が大きく、神経もかなりたくさん張っているので、基本的な意識以外にも、意識を利用することができるんですね。
この人類の余剰意識の活用の仕方は複雑多岐にわたります。
ぼくがここでいま書いているようなことも、余剰意識によるものです。
じぶんが蝶になった夢をみたのか、蝶がじぶんになった夢をみたのか、ということも、人間ならではの余剰意識の活用です。
その点で荘子は、あんまり人間が余剰意識をこねくり回してああだこうだと考えることには意味がないといい、もっと自然に即して考えればいいんだと説いたんですね。
ギズモさんが葬儀場に向かうまで飛んでいた二匹のアゲハチョウは、「義理の息子さんのお父さんがみている夢」(あるいは未知の次元を介した干渉)だったかもしれないし、そうではない単なる偶然かもしれません。
いずれにせよ、ギズモさんがなにかのメッセージのように感じたのであれば、それは実際の正解かどうかはともかく、自然にそう感じたこととして受け止めてよいのだとおもいました。
さて、日食・月食の原理を知っている人、の話なんですが、ものすごくくだらないたとえを話します。
ぼくが子供のころ、コインゲームで「ジャンケンマン」というものがありました。
コインを入れて、じゃんけんをするだけのゲームなんですが、ふつうにやってるとなかなか勝てません。
しかし、このゲームはたまに次になにを出せばいいのか、ヒントが出ることがあるんです。
それを知っていれば、負けている子の横にいて、ヒントが出たときに「かわって」といって、勝ち目を利用していれば、メダルがたまります。
しかしそういう他愛ない裏技でも、知らない子からすると、いったいどうしてそんなことができるのか、不思議でたまらないんですね(笑)
こういった裏技をだれにも教えずに、秘密にしておいてじぶんの仕事の評価を高めるというようなやり方が、むかしの陰陽道であったり、密教(真言)に存在したのでしょう。
それ以外でもむかしは大工や植木屋、鍛冶屋など、じぶんの持ってるすぐれた技術は門外不出のものとして、一子相伝にして技術屋としての仕事をつないでいくのが当たり前でしたね。
最後にインターステラーが難解だという話なんですが、これだけおさえておけばとてもわかりやすくなるポイントがあります。
まず、いまの人類のテクノロジーでは、宇宙船が太陽系外に飛び出したり、人間をコールドスリープさせる技術はありませんが、映画の世界ではそういう技術が確立しています。
次に、五次元空間では重力だけが干渉できるという点です。
なので、主人公は未来の五次元空間から重力波を利用して、主人公の娘の身の回りでポルターガイスト現象を起こしたわけです。
最後に、なぜ生身の人間が五次元空間へ行くことができたのかというと、人間にとって愛は観測可能なエネルギーで、愛が不可能を可能にした、というのです。
最後の点はいろいろ飛躍しすぎてます。
ただ人類がここまでテクノロジーを発展させて繁栄していることも愛のエネルギーだと考えたら、この愛(観測可能なエネルギー)はこれまでじつに多くの不可能を可能に変えてきたわけで、いまや五次元の取っ掛かりさえつかもうとしています。
その点で、荒唐無稽ではあるのですが、一笑に付すわけにもいかず、いちおう納得させられてしまうんですよね。
もし作品をご覧になったら、もっと解説したいポイントはありますが、それはまたいつか(笑)
2024年9月5日 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する
この世で起きるいろいろな「不思議な話」をすべてスピリチュアルで解決するのは簡単ですが、私が知りたいのはそうではなくて、まさに、農園主さんが様々な角度から書いてくださったようなことでした。
しかしながら、ここまで物理的かつ科学的なお話、農園主さんの広汎な知識やご見解には、改めて感服しました。
ダークマターの記事の引用、そして五次元のわかりやすいご説明をありがとうございます。
謎だったものが、だんだんと解明できてくるという、本当にすごい研究をしている人たちがいることに驚きます。
蝶の話は、よく聞きますね。
前回書こうと思ったのですが、スピリチュアルに偏った考えを持っていると思われたくなかったので(笑)、避けました。
群馬の家(義理の息子の実家)で身内だけのお通夜があり(私は行きませんでした)、翌日は、家から出棺しました。
少ししてから、葬儀場に向かおうと家を出て、車に乗り込む際、アゲハがふわふわ飛んでいました。
誰も何も言いませんでしたが、私は、あ!!と思いました。
田舎ですし、アゲハが飛んでいたからと言ってどうということのない、普通の光景かと思いますが、1匹だけゆったりと飛んでいました。
そして葬儀場に着き(車で5分ほど)、車を降りたら、同じ(はずはないですが)アゲハが飛んでいて、まるで道案内するかのように、葬儀場の入り口まで飛んでいなくなってしまいました。
話は変わり、母が小学校低学年の時、福島のお寺に学童疎開していました。
もう終戦間近のことですが、ある日、真っ黒の大きな蝶が飛んできて、母の周りだけをずっと飛び続けていたといいます。
ちょうどその頃東京の留守宅では、家にいた全員が、母の父親の「俺だ、今帰ったよ」という声を聞いたそうです。
そして翌日、戦死の公報が届きました。
興味深いのは、昔の人は、そういう不可解な出来事について、偶然とか嘘とはとらえず、実に自然に、当たり前のように受け止めていたということです。
うちの家系だけおかしい(笑)のではなく、どこにでも、そういう傾向があったように思います。
農園主さんが書いていらっしゃるように、『科学がなかったころから、われわれは感覚的に、なにか本質的なことを理解していたのかもしれない』というお話にも通じるかもしれません。
太古では、日食・月食の原理を知っている人が、「神様がお怒りなので、これから空が真っ暗になる」と言って、実際その通りになり、民から預言者と怖れられていた人がどこの国でもいましたが、あれは自然現象を知らない人にとっては、本当に神様が起こした現象、または一種のオカルト、心霊現象の類ですよね。
安倍晴明なども、天地の理に精通していたからこそ、できたことが多かったと思います。
強烈な心霊現象や微弱なメッセージ、そういう科学的・物理的に納得できない何かをすべて否定してしまう人もいれば、「そういうこともあるのでは?」と受け止める人もいるわけですよね。
の部分を充分に理解したうえで、心底興味を持って読ませていただきました。
ありがとうございます。
「インターステラー」、とっても興味がありおもしろそうなので、すぐに観るつもりでしたが、なかなか時間が取れませんでした。
ネットで見ると、けっこう難解な内容のようですが、近いうちに必ず観ますね。
しかしながら、ここまで物理的かつ科学的なお話、農園主さんの広汎な知識やご見解には、改めて感服しました。
ダークマターの記事の引用、そして五次元のわかりやすいご説明をありがとうございます。
謎だったものが、だんだんと解明できてくるという、本当にすごい研究をしている人たちがいることに驚きます。
蝶の話は、よく聞きますね。
前回書こうと思ったのですが、スピリチュアルに偏った考えを持っていると思われたくなかったので(笑)、避けました。
群馬の家(義理の息子の実家)で身内だけのお通夜があり(私は行きませんでした)、翌日は、家から出棺しました。
少ししてから、葬儀場に向かおうと家を出て、車に乗り込む際、アゲハがふわふわ飛んでいました。
誰も何も言いませんでしたが、私は、あ!!と思いました。
田舎ですし、アゲハが飛んでいたからと言ってどうということのない、普通の光景かと思いますが、1匹だけゆったりと飛んでいました。
そして葬儀場に着き(車で5分ほど)、車を降りたら、同じ(はずはないですが)アゲハが飛んでいて、まるで道案内するかのように、葬儀場の入り口まで飛んでいなくなってしまいました。
話は変わり、母が小学校低学年の時、福島のお寺に学童疎開していました。
もう終戦間近のことですが、ある日、真っ黒の大きな蝶が飛んできて、母の周りだけをずっと飛び続けていたといいます。
ちょうどその頃東京の留守宅では、家にいた全員が、母の父親の「俺だ、今帰ったよ」という声を聞いたそうです。
そして翌日、戦死の公報が届きました。
興味深いのは、昔の人は、そういう不可解な出来事について、偶然とか嘘とはとらえず、実に自然に、当たり前のように受け止めていたということです。
うちの家系だけおかしい(笑)のではなく、どこにでも、そういう傾向があったように思います。
農園主さんが書いていらっしゃるように、『科学がなかったころから、われわれは感覚的に、なにか本質的なことを理解していたのかもしれない』というお話にも通じるかもしれません。
太古では、日食・月食の原理を知っている人が、「神様がお怒りなので、これから空が真っ暗になる」と言って、実際その通りになり、民から預言者と怖れられていた人がどこの国でもいましたが、あれは自然現象を知らない人にとっては、本当に神様が起こした現象、または一種のオカルト、心霊現象の類ですよね。
安倍晴明なども、天地の理に精通していたからこそ、できたことが多かったと思います。
強烈な心霊現象や微弱なメッセージ、そういう科学的・物理的に納得できない何かをすべて否定してしまう人もいれば、「そういうこともあるのでは?」と受け止める人もいるわけですよね。
今回の話は、ネット上にうっすらとはびこる「五次元意識」のようなスピリチュアル、チャネリングのようなものではないし、あくまで科学的な事実と可能性から、われわれがなにか感覚的に理解している不思議な話をつないで「楽しむ話」だとおもっていただけるとありがたいです
の部分を充分に理解したうえで、心底興味を持って読ませていただきました。
ありがとうございます。
「インターステラー」、とっても興味がありおもしろそうなので、すぐに観るつもりでしたが、なかなか時間が取れませんでした。
ネットで見ると、けっこう難解な内容のようですが、近いうちに必ず観ますね。