山麓王国

2024年10月の投稿11件]

2024年10月29日 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する

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大変な時に、ご丁寧にお知らせいただきありがとうございます。

自治会のお仕事、相当なご負担のようですね。
いろいろ重なって疲れがたまり、腰のあたりの不調が起きたのかもしれませんね。

ヘルストロンは、講座で行っている高齢者施設に置いてあるのですが、大人気のようです。
合う合わないもあるでしょうが、農園主さんの場合、効果があったようですね。
温泉で温まったのもよかったかもしれません。

お返事は、1週間でなくても、半月でも一ヶ月でも、もっと先でもまったく問題ないので、くれぐれも無理のないようになさってください。
急に寒いので、冷えも大敵です。

お持ちの磁気ネックレスがどこのものかわかりませんが、ファイテンという会社をご存じでしょうか。

チタンの磁気ネックレスが有名で、スポーツ選手も使っているのですが、以前、家の近所にありました。
娘が小学生の時、「30人31脚」というスポーツ??があり、テレビ朝日で放映されていたのですが、娘の学校は何度も東京大会で入賞し、全国大会も出場しました。

その時「ファイテン」が無料で、参加児童全員に、磁気ネックレスと、チタンのパワーテープを提供してくれました。
テープは、ファイテンの会社の人が、児童ひとりひとりに貼ってくれていました。
子どもたちは、軽く走れると言って喜んでいましたが、実際はわかりません(笑)

それを今思い出したのですが、スポーツをする時だけでなく、痛みにも効果があるということですので、試しにテープ(丸いシールみたいな)を少し送ります。
よろしかったら使ってみてください(ファイテンで買うよりずっと安いのでお気になさらないようお願いします)

さっき、ヨドバシで注文したら、明日そちらに届くようです。郵便受け投函のはずです←早い(笑)

かぶれとかあるかもしれないので、あくまでお試しです。合わないようでしたら遠慮なく中止してください。

(追伸) 自宅以外の送り先のため、依頼主として私の名前が記載されているかもしれませんが、仕事の名前でなく本名です(笑)
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すみません。
左の歳時記にすこし書いたんですが、ちょっといろいろと立て込んでいて、いつものペースでお返事ができそうにありません。
一週間ほどお時間をいただきたいとおもいます。

喉の件なんですが、知らず知らず積み重なっている肉体の疲労ということもあろうかとおもいます。

個人的な話なんですが、以前磁気ネックレスをして四十肩がマシになったという話をしたとおもうんです。

それで、最近おなかが痛いのか腰がいたいのかよくわからない愁訴を抱えていたんですが、温泉へ行って入浴後、100円で20分といういわゆるヘルストロン(電位治療器)の機械があって、試しにやってみたんです。

そしたら家に帰って、なんだかカラダがラクでしてね(笑)

毎日やりたいけど、機械はすごい高いし、毎日行くにも時間も余裕もありません。

もしかしたら、磁石のついた全身タイツでも着ていれば絶好調なんではないかとおもうくらいでしたが、これはたぶん、病院に行って原因が見つかるタイプの不調ではないなともおもいました。

そういうことが出てくる年になったんだな、とおもって、そういう話もさせていただければとおもったんですが、またすこし先にお願いします💦

2024年10月26日 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する

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女の子の件は、勘ぐりではなく、仰る通りだと思います
新しい家庭で生きていくために、子どもなりにいろいろと考えることもあってなにかと落ち着かない時期だったでしょうし、相手の出方をみていたかもしれません。

本当の親であっても育ての親であっても、子どもにとって家庭は心が安らぐ場所でなければいけないし、親も試行錯誤しながら子どもを育てていくものだと思います。

幼稚園くらいのころ、何か悪いことをして(ウソをついたのかも)、母に手首にお灸をすえられ、部屋に鍵をかけて出られないようにされたことがありました。
熱い熱いと泣き叫んで、ドアを叩いていた記憶があります←振り落とせなかったはずはないと思うんですが???

祖母は止めるどころか楽しんでいるように見えたのですが、たぶんそのあたりは私の被害者意識からそう感じたのでしょうね(笑)
まぁ、文字通り、お灸をすえられたわけです、家族ぐるみでグルになって(笑)

私の友だちでも、お仕置きで真っ暗な蔵の中に入れられたとか、掃除をさせられたとか、正座させられたとか、しつけのための体罰はけっこうありました。
それが親の感情で日常的に行われたら、それはしつけではなく虐待ですね。

農園主さんがお書きになっていらっしゃるように、「平和とは、まず立場の強いものが立場の弱いものをおもんぱかり、立場の弱いものは多少の不満を飲み込んで、お互いがお互いのために努力している、双方の均衡状態」というのは、家庭でも言えることだなと思いました。
特に、子どもが大きくなってくると、そういう気持ちがお互いに必要ですね。

昨年のamazonのブラックフライデーの時、アイリスオーヤマの炊飯器を買いました。
炊飯メニューで、白米・玄米・炊き込み・かたさ・お米の銘柄等を選べるのですが、「お米の銘柄」メニューを使ったことはありませんでした。

数日前、ちゃんと見てみたら(1年たつのに今頃(笑))、「コシヒカリ・あきたこまち・つや姫・ゆめぴりか・ひとめぼれ」の他、「ヒノヒカリ」がありました!!
炊き方によってどれくらい味が変わるのかわかりませんが、それ以来「ヒノヒカリ」を選択して炊いています。
水気もつやもあって、かなりおいしいお米です。

「おかぼ」という言葉は聞いたことがありましたが、畑で作るお米なんですね。

お米は、本当にいきなりの高値なので、陸稲を試してみるのはいいことですね。
手間はかかりそうですが、うまく育っておいしく食べられますように(*^_^*)

9月は、去年と同じく、喉をやられました。
熱もなく元気なのですが、声がかすれて困りました。
普通の風邪だと言われましたが、どうしても弱いところにくるんですよね。
気管支過敏体質なので、ちょっとした気温差で咳が出たりして、本当に厄介です。

仕事を休むことはものすごくストレスですが、3日連続で(3ヶ所、別々のところ)休んでしまいました。
それ以来毎朝、起きたら声が出るか、歌えるかの不安に取りつかれ、それはもう神経崩壊しそうな日々です(笑)

今のところさほど問題なく歌えるのですが、今年は11月に1件、12月に2件のコンサートを入れてしまいました。

喉に支障が出ないよう、万全の対策と神仏頼みで乗り切ろうと思ってはいますが、去年、どんなにお願いしても、クリスマスコンサートどころか今年の3月まで歌えない状況だったことを思うと、お賽銭の額を増やすか、もっと真剣に拝むか、と、しょうもないことを真剣に思い悩んでいる今日この頃であります(笑)

お疲れがたまっているとのこと、大丈夫ですか?
このところの気温差で、調子をくずす人が多いようです。

よけいなことかもしれませんが、リポビタンなどのドリンクは、普段飲む習慣がない人には効き目があるそうです。

お風呂にゆっくり入ると疲れが取れるといいますが、これは私の場合逆効果で、よけい疲れます(笑)
冷え性なので、本当はよく温まるといいんですけどね。

私の個人的な感覚では、カレーや東南アジア系の料理は、辛さに関係なく、種類の豊富な香辛料のせいか、元気になれると感じます。
でも、喉に刺激を与えたくないので、去年9月からカレーもキムチもタイ料理も食べていません。
食べられないと思うと、よけい食べたくなるものです(笑)

2024年10月22日 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する

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遊郭の女郎さんの話を読んでいて考えさせられたのですが、平和とは、まず立場の強いものが立場の弱いものをおもんぱかり、立場の弱いものは多少の不満を飲み込んで、お互いがお互いのために努力している、双方の均衡状態なんですね。

つまり、立場が上の人間が立場の弱い人間を虐げるようなことがあってはならないし、立場が下の人間が不満を噴出させて暴れるようなことがあると、これもやはり平和とはいえません。

心の平穏に関してもおなじだとおもいます。

遊女という非常に立場の弱い、いわば男を断れない立場で、どのようにじぶんの心を納得させるかというと、相手がまずじぶんに優しくしてくれる人なのだと信じることだったというのは、とても納得がいきます。

そのうえでさらにじぶんから積極的に他者に尽くそうとしていると、相手からも善意が返ってくるようになりますよね。

人間だれしも魚心あれば水心で、じぶんに優しく接してくれたり、いつもにこやかにしている人に対しては、じぶんからもなにかを与えたいとおもうものです。

そうやって、善意の循環ができて、じぶんの居場所が生まれる。

そのような「ホスピタリティ」が主体的にできるようになるのはやはり大人になってからですね。



ギズモさんの幼少期に出会った、虐待を受けていた女の子がウソをつくクセは、親にじぶんをアピールしたかったのと、もうひとつはきっとじぶんの責任を回避したかったんだとおもいます。

虐待というのは、じぶんがどういう選択をしようが逃れようのない、八方手詰まりの地獄です。

それであたらしい育ての親にせめてよくおもわれたいから、ギズモさんにお菓子を買ってあげたんだとアピールをしたんですよね。

で、今度はギズモさんがポテトチップ食べたいって言うから来たのだといって、じぶんの責任を回避する。

ギズモさんの文章を読んで、ぼくが勝手におもったことですが、その子はじぶんがわがままなこと(つまり主体的な言動)をすることで、虐待を受けた経験があったんじゃないかなあと。

だから、じぶんから主体的に行動することが、虐待につながるとおもって恐れていたのではないでしょうか。

じぶんが連れていきたいとおもったからギズモさんを工場に連れてきた、というと、そのせいでまた虐待を受けるかもしれません。

だから、ギズモさんが来たいと言ったから連れてきたんだとウソをついて責任を回避した。

子供なりに心を防衛してたのかもしれません。

天秤にかけたときに、友達(ギズモさん)にウソをついたとおもわれることよりも、これからの親にどう接するかということがよほど喫緊の問題だったんだとおもったのですが、もちろんこれはぼくの勝手な勘ぐりです(笑)



お米ですが、ヒノヒカリは西日本でよくつくられている品種で、ぼくも以前食べましたがふつうにおいしいです。

いま市場に出回っているお米は、よほど食通でなければ食味はみな極上です。

わたくし事ですが、ぼくはことしの米の高値にあきれて、来年から陸稲のうるちともち米を主食用につくろうかとおもっています。

陸稲というのは、畑でつくれるお米なんです。収量が少ない、食味が劣るなどの問題がありますが、水田ができない地域などでむかしはよくつくられていたといいます。

陸稲はもち米の食味はふつうなのですが、うるちはパサパサしてまずいのだそうです。

どれくらいまずいのかわからないのでとりあえずつくってみようとおもうんですが、まあ市場に出回ることのないお米で、陸稲のお米はおかきなどの加工用に回るみたいです。

食味でいえば水稲がおいしいのは間違いないんですが、陸稲は収穫した籾を翌年そのまま使えますし、主食をつくるコストは下がりそうです(笑)



ほんとうにことしはヘンな天気が続きますね。

やっと寒くなったとおもったら、またきょうは生ぬるいようなおかしな気温です。

朝と日中の気温差が激しくて、最近なんだか疲れがたまっています。

お互いに体調に留意しながら乗り切っていきましょうね。

2024年10月18日 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する

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さらに詳しい解説をありがとうございます。

ものすご~~く腑に落ちるというか、なるほど!と思うことばかりです。

最後の、『過去のことや未来のことを心配しない、という考え方はもちろんただしいんですが、そのためには過去や未来に対する前向きな学びの姿勢が必要で、ここが欠けていると、なかなかいまを生きる不安は取り払うことができないんじゃないかとおもうのです』というのは、とても大切なことですね。

過去のいいことも悪いことも未来のことも、くよくよと気持ちが参ってしまうほどに思い詰めるのではなく、また、何も考えることなく過ごすのでもなく、前向きに反省し、そこから学ぶことが大事なのですよね。
ついつい、くよくよ思考になりがちなのですが、そこは改めなければいけません。

多重人格の人の例は、理解しやすかったです。
「そうせざるを得ない」境遇で、つらすぎる日々を送っていたら、どこかで気持ちの逃げ道を設けないと、精神も肉体も崩壊しますね。

以前、電子書籍の漫画で親から虐待を受けた子の実話集を読みましたが、壮絶としか言えません。
とても、かわいそう、なんて簡単に言える状況ではないですね。

私が小学生のころ、夏休みに叔父の家に泊まりに行っていました。
近所にポテトチップの湖池屋の工場があり、そのあたりの奥さんたちは、そこにパートに出ている人が多かったようです。

6年生の夏休み、隣の家に来た小学1年生の女の子を紹介されました。
最近引き取られてきた遠縁の子なので、一緒に遊んであげてねと。

奥様方の井戸端会議を盗み聞きした(笑)ところによると、親に虐待されていたとのこと。
見るとはなしに見れば、手や顔などにタバコの火を押しつけられたあとがたくさんあります。

ある時お菓子屋さんに一緒に行き、それぞれ自分のお金でお菓子を買ったのですが、あとからその子がおばさん(養女になったのか引き取られただけかは不明。その子が「おかあさん」と呼んでいたのかどうかも覚えていないので便宜上「おばさん」にしておきます)に、「ギズモちゃんがお菓子を買ってくれというので、買ってあげた」と言ったのです。
もちろんうそです。

他の日は、そのおばさんがパートに行っている工場に一緒に行こうと言われ行ったのですが、おばさんに「ギズモちゃんがポテトチップ食べたいって言うから来たの。あげて」と言い、またまたびっくりです(笑)

私とのこと以外にも、ひんぱんにうそをついていました。

その時私が思ったのは、つらい思いをして育ってきたから、うそをついて自分をアピールしたりする子になったんだ、だったらその子に「うそつかないで!」と言うのは追い詰めることになるのでよくない、ということでした。
普通に育っていないから悪い子になっちゃった、とは思えなかったわけです。

うそをつくことも多重人格のひとつの症例ですね。
その後、その子とは会っていませんが、引き取られたおうちで大事にされ、虐待された過去が心の重荷になっていなければいいなと思います。

つらいことにユーモアをもって向き合うというのはなかなか難しいことかもしれませんが、考え方を悪いほうに置かないというのなら、案外できそうですね。
変なたとえ話ですが、遊郭の女郎さんが、お客さんを自分が好きな人だと思って接することで、地獄のような苦しさつらさが減るように思える、というのを読んだことがあります。
発想の転換ですね。

ところが、そこをさらに通り越し、どんなことをしたら喜んでくれてまた来てくれるかとまで考えるようになれると、お客さんも増え、いいお客さんもつくようになると。
ホスピタリティですね。

その気持ちの切り替えがうまくできないと、どんどん追い詰められていくわけです。

ユーモアの引き出しをつくっておくということは、とても納得できます。
それを使う状況になった時、どうしてもうまくできなかったら、とりあえず無理に笑ってみる、ということはできそうですね。

顔で笑って心で泣いて、と言いますが、笑った顔を作ると、心もそれに同化して穏やかになるそうです。

『ファクトフルネス』のお話も重要なことだと思います。
事実とかけ離れた情報、報道が日常になっているように感じますが、テレビやネットのニュースをむやみに信じるのではなく、きちんと事実を調べて、安心できることが多いということを認識するのが大切ですね。

やたらと不安を煽る報道が多いのに加え、正しくないことをSNSなどで拡散する人が増えているので、気をつけないといけないと思っています。

あ、そうそう、お米の話ですが。
「今年は新米の時期になっても今までのようには流通しない」というネットのニセ情報に振り回され、9月初旬に農家直送の新米を予約してしまいました(笑)
ところが9月末あたりから、スーパーでもお米は普通に売られるようになりました。価格はだいぶ上がりましたが。

つい先日、静岡県の農家から届きましたが、ヒノヒカリという銘柄で、とてもおいしいです。
この銘柄は、今まで売られているのを見たことがありませんでしたが、他県産のヒノヒカリの口コミがよくなかったので心配していました。

暑い夏が過ぎ、急に寒すぎる日が来たと思うと、また半袖でもいいような暑い日。
なんだかおかしな気候ですが、気温差にはお気をつけくださいね。

2024年10月14日 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する

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ロゴセラピーの自己距離化の実践は、カンタンなようで意外とむずかしいのではないか、「結局はこころの持ち方なのでしょうか。」というギズモさんの問いかけについてなんですが、半分その通りだとおもいます。

あとの半分はというと、「そうせざるを得ない」んだとおもいます。

この「そうせざるを得ない」状態は、多重人格の人をたとえにするとわかりやすいのではないかとおもいます。

心の中に複数の別人格をつくる、不思議な精神病理なんですが、たいていの多重人格患者は、子供のころにひどい虐待を受けているというのです。

苛烈な虐待でこころがもたなくなって、べつの人格をつくって、逃げ場にする。

これはロゴセラピーでいえば自己距離化ですね。

でも、多重人格の子供は、そうせざるを得ないから、そうしたわけです。

子供ですから、ユーモアで自己距離化をはかることはできません。

虐待で精神が追い込まれていくうちに、だれからなにを教わるわけでもないのに、じぶんの人格を複数にわけてしまうんですね。

いま親から殴られているのは、じぶんではなくてもうひとりの〇〇だ、という具合に。

それで、虐待を受けるときの苦しみをべつの人格に負担させるために、別人格のリアリティが形成されていきます。

つまり、いま殴られている〇〇の性格や気質を、本来のじぶんとはまったくべつのものにして、できるだけ細かいディテールまで構築しておけば、より上手に苦しみを逃がすことができる。

別人格のリアリティが増せば増すほど、じぶん本体の苦しみを、別人格に負担させたつもりになれる、というわけです。

しかし多重人格は、自己距離化ではあるけど、もはや精神が崩壊した状態ですよね。

じぶんで人格の統一をコントロールできない状態になっているからです。

ほんとうは、そうなる前に対処しなければならないんです。



おそらくヴィクトール・フランクルも、ホロコーストの極限状況で、そして戦後じぶんの家族がみな収容所で亡くなっていたという事実を知ったとき、精神が崩壊するほどの苦しみを味わったはずです。

そのときに紡いだユーモアは、半分はロゴセラピーを実践するために、こころの持ち方をコントロールしたのだとおもうのですが、あとの半分はそうしなければ精神が維持できなくて、そうせざるを得なかったのだとおもいます。

人間はだれしも、じぶんの精神が破綻するくらいの苦しみに見舞われる可能性がありますよね。

他人を頼るわけにもいかず、じぶんひとりで苦しみ抜かねばならないこともあります。

そういうときにじぶんを他人事のように扱うユーモアを醸成しておくというか、じぶんのこころを救う手段のひとつとして引き出しをつくっておく、という感覚でしょうか。

ユーモアの引き出しをもっておくことで、精神が破綻する手前の状況をギリギリで維持するようなイメージです。

そういう意味では、ロゴセラピーの自己距離化は、禅や解脱と似てはいるんですが、より現実的に差し迫った危機に対処する心理療法なのだとおもいます。



自己距離化にフォーカスを当ててもうすこし続けますが、宗教だと神様の存在も自己距離化なんだとおもいます。

じぶんに起こる不幸や苦しみを、「神様が思し召しなのだから」といって前向きに受け止めるのは、じぶんに起こった出来事を神様というクッションで緩和してるんですよね。

人生がいくら苦しくても、最後は阿弥陀如来が救ってくれる、というような考えも、そうです。

つまり、神様視点でじぶんをとらえるという、自己距離化をおこなっているわけです。

だから、ロゴセラピーはこれまで人類がやってきたことの、理論化なんですよね。

なにかあたらしいことを言ってるのではなくて、「これまで人類がやってきた苦しみから逃れる方法を、カンタンにまとめてみました」という感じです。

わざわざ教わらなくても、人間は極限の状態になれば人格を分裂させてでも自己距離化をおこなってしまいます。

そういう意味では、解脱の修行や只管打坐のように、精神状態が平常のときにわざわざ無理して自己距離化をはかるのは、「スパルタすぎる避難訓練」みたいなもので、あんまり意味がないのかもしれません(笑)



ギズモさんがおみくじをひいて、「神の教」に書かれていたことで救われるおもいになったのは、キリスト教でいうところの「同伴者イエス」を得たような感覚だったのではないでしょうか。

おみくじというかたちで、目にはみえないけれどじぶんのそばに、必要なときに大事なことを伝えてくれる存在がある、という感覚が、ギズモさんの支えになったのではないかとおもいます。

人間は肉体もこころも、ひとりで生きていけるものではなくて、なにか支えが必要なんですよね。



取り越し苦労をしない、過去のことや未来のことを心配しないというのも、すこし深く解釈していかないと、実践がむずかしいようにおもえます。

ほんとうにまったく過去のことも未来のことも考えないということになると、人間として落第してしまいますよね(笑)

5年ほど前にベストセラーになった『ファクトフルネス』という本がありました。

あれは、国連の出しているデータをもとに、世界の事実(ファクト)を知ることで、ウソ(フェイク)に惑わされないようにすれば、いまやるべきことに集中できるし、安心して日々を暮らすことができるという内容でした。

タイトルの「ファクトフルネス」は、マインドフルネス(禅)とファクト(事実)を掛け合わせた言葉なんですね。

事実を知ることで、禅の境地のように、客観的・俯瞰的にものごとをとらえて、生きることに安心することができる、というような意味合いです。

その本によると、世界には問題点もあるし、不安になることもあるけれど、ただしい事実を知れば、安心できることもたくさんあるし、じつは世界がよくなっていることもわかる、といいます。

たとえば、世界にはいまだに飢餓や貧困がはびこっている、といいますが、国連のデータをきちんと読んでいくと、戦後、世界の飢餓や貧困の割合は改善されてきているといいます。

もちろん問題は残っているのだけど、決して絶望なんかしなくてよいし、希望がもてる状態なんだ、安心していいんだ、と。



なにが言いたいのかというと、われわれはどんな状況であっても、過去からなにかただしいものを学び取って、未来をいいものにしていく覚悟が必要だということです。

そうすれば、過去を悔やんだり、未来を恐れたりせず、いまやるべきことに集中できるようになる、という理屈ですね。

過去のことや未来のことを心配しない、という考え方はもちろんただしいんですが、そのためには過去や未来に対する前向きな学びの姿勢が必要で、ここが欠けていると、なかなかいまを生きる不安は取り払うことができないんじゃないかとおもうのです。

2024年10月10日 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する

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壮大なテーマであり、本来はかなり難解なお話であったはずなのに、3回に分けてわかりやすく書いてくださったので、都度理解しながら、またいろいろなことを考えさせられながら読むことができました。
ありがとうございました。
話の腰を折るなどということは全然ないので、気になさらないでくださいね。

ロゴセラピーのふたつの実践方法、わかりやすい説明をありがとうございます。
これは、シンプルで簡単にできるように思えますが、なかなか難しいとも言えますね。
結局はこころの持ち方なのでしょうか。ちょっと意識を変えてみることで生きる苦しみに対処できるというのは、信仰や宗教に対し不信感を持っている人や興味のない人にも実践でき、生きる希望につながると思います。

自分から距離を置くというのは、「何も考えない」という対処法より、変な表現ですが、積極的な方法に感じます。
何も考えないようにするのは、それもひとつの対処法ではあるけれど、なんとなくピンときません。
とは言え、座禅や阿字観のような、瞑想の時間を作ることも有益と思っていますが。

内省のように、自分の心を分析しながら折り合いをつけてうまく生きていくのではなく、ユーモアでものごとと対峙する。
ものの見方を変えること、気持ちの持ち方を変えることの大事さがわかるセラピーだと思います。

「今回話した思想は、じぶんが生きるステージによって変化していきます」というのは、とてもしっくりきました。
ずっと同じではなく、その時々変わっていいというのは、ひとつの信仰やひとつの思想、考えを持ち続け、貫き通すべきだという考え方より、柔軟で気が楽になるように思います。

座右の銘のひとつとして、パソコンのデスクトップに『起きていないことを不安にしない』と書いた付箋(紙ではなくアプリの付箋)を貼っていたのですが、パソコンを替えたため、すっかり忘れていました(笑)

このところ、その「起きていないこと」でずっと悩んでおり、どうも鬱々として心が晴れませんでした。
10月1日、お正月以来行っていなかった、埼玉県越谷の久伊豆神社(ご祭神=大国主命・言代主命)にお参りに行きました。
月末から主人が海外に行くので、お守りを受けるためでした。

参道を歩いていると、太鼓が鳴り始め、ご祈祷が始まりました。
そこそこ大きな神社で、混んでいる時はご祈祷を受ける人が多いのですが、本堂を見るとお宮参りの若いご夫婦一組だけでした。

ちょうどご祈祷が始まったところに行ったとか、チョウチョが飛んでいたとか、風がさ~~っと吹いたとかは、縁起のいいしるしと言います。
しばらくお賽銭箱の横でご祈祷を聞いていましたが(ただで(笑))、箱に入っているおみくじをひきました。書き足し・おみくじは100円を箱に入れ、勝手に箱から出す形式です。

ひく前に、住所・生年月日・名前、「今の私に必要なおみくじをお願いします」と言ってからひきました。

おみくじは、書いてあることがよくなくても大吉だったり、なかなかいいことが書いてあっても凶だったりと、バラバラのことが多いので、書かれている内容のほうが大事だと思っています。

そのおみくじは大吉だったので、まずそれはそれでうれしかったのですが、「願望」「待人」「旅行」「病気」などが書かれている裏面には「神の教」が書いてあります。

そこには、
「過ぎた繰り言とりこし苦労、神の授けし身を破る」
取り返しのつかぬ過去の事を、繰り返し思い悩んだり、定かでは無い将来の事を案じ煩うのは、唯心を痛め身を損なうだけの無益な事である。今日は唯今日の務めを、朗らかに一生懸命尽くし、明日は明日の務めに精を出す。日々神様の御心に寄り添い、明るく正しい心で暮らすことが肝要であり、禍も転じて幸いとなる唯一つの正道である。

と書かれていました。

これ、ロゴセラピーのふたつめ、ですよね。
おみくじをひいたのは10月1日で、農園主さんがロゴセラピーの記事をまとめていらっしゃる最中でしたでしょうか? これも不思議ですね(笑)

このおみくじを見た時、不覚にも涙が出てきました。
そうだ、起きていないことをくよくよしているなんてアホらしいじゃないか、自分が悩んでいて鬱々としているからと家族にも冷たくしていた、これは改めないといけない、とものすごい反省をし、このタイミングでこのおみくじをありがとう神様!!となったわけです(笑)

そこに、農園主さんの今回の記事を読ませていただき、このシンクロはなんだろう、と再度感激しました。

過去でもない未来でもない、今を明るくしっかりと生きる、これを肝に銘じます。

精神的に鬱々とすると免疫が落ちるそうですが、身体とこころがつながっている証拠ですね。

今回の記事は、生きる意味、そしてどうやってつらいことを乗り越えて、うまくこの世で生きていくかということについて、とても考えさせられましたし、その答えも納得することができました。
ありがとうございます。

最近、マイナスの感情、例えば怒りとか悲しみとか不安、取り越し苦労、悩み、そういったもので心が疲弊することくらいばかばかしいものはない、と思うようになりました。

人生、残った時間はさほど多いとはいえません←まだ高齢ではないけど(笑)

一日の3分の1は寝ていることだし、いずれ健康な高齢者になれればいいですが、介護が必要になれば思うように行動できなくなりますよね。

そう思うと、人生はいいことばかり、楽しいことばかりあるわけではないので、発想をうまく転換させて、書き足しと訂正 いやなこと、つらいこともユーモアをもってぶつかり、楽しく笑って過ごし、周りの人を不快にさせず楽しくさせて生きていくことが、とっても大事なことだと思うようになったのですいます。

そんなわけで、今回の農園主さんの記事シリーズは、今の私に最も必要な事ばかりだったのです(o_ _)o))

2024年10月7日 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する

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今回のギズモさんへの返信は最後に書かせていただきます。

まずは前回の続きをどうぞ。



(前回の続き)

ロゴセラピーで伝えているふたつの実践方法が、般若心経と似ているという話でした。

ロゴセラピーが伝えていることのひとつは、じぶんが恐れることに、ユーモアをもってあえてぶつかってみること。

たとえば、人前でしゃべるのが恐い、言葉が出てこなくなる、顔が赤くなる、というような場合は、

「よし、きょうは盛大にどもって、赤鬼みたいに顔を真っ赤にして、みんなを大笑いさせてやろうじゃないか」

というような感じで、あえてじぶんがおそれることに突っ込んでいくのです。

このときに大事なのが、じぶんという人間からあえて距離をとることです。

ロゴセラピーでは「自己距離化」というようです。

じぶんの置かれている状況や、じぶんの肉体や精神から、距離を置くために、ユーモアを積極的に利用するんですね。



この自己距離化は、ヴィクトール・フランクルが師事していたフロイトも似たことを言っています。

ドイツ語でガルゲンフモール(Galgenhumor)というのですが、日本語にすると、「絞首台のユーモア」あるいは「曳かれ者の小唄」なんていわれたりもするようです。

Galgen が絞首台で、humorがユーモアですね。

ある月曜日、絞首台に曳かれていく罪人が、「ああ、今週もいいことがありそうだ」と言ったというのです。

今週にいいことがあろうとなかろうと、もうこの罪人はいま絞首台で首をくくられて死ぬわけですから、かれは冗談(ユーモア)を言ったのです。

もちろん強がりなんですが、これが大事なんだとフロイトはいいました。

ユーモアによってじぶんから距離を置くことで、恐怖から自我の崩壊を防ぐ効果があるというのです。

おもうようにならない現実が目の前にあるのだけど、その状況にじぶんが屈することなく、主体的に生きるためには、ユーモアが必要だというわけです。

ヴィクトール・フランクルも実際に収容所の中で、このユーモアによる自己距離化を実践していたといいます。

さすがに絞首台のユーモアやホロコーストは極端な例ですが、ロゴセラピーの場合、ユーモアをもって日常の困難に立ち向かうことで、生きる不安を解消していくことができるといいます。



もうひとつは、過ぎ去った過去や、まだきていない未来を意識せず、いまやるべきことに集中しようというものです。

人間はじぶんの行動をいちいち反省しすぎてしまうことがあるので、過去に起こったこと、未来に起こるであろうことと距離を置いて、いま現在やるべきことに集中する。

ロゴセラピーの実践的な部分だけを切り抜くと、このふたつだけなんですね。



般若心経がじぶんや煩悩を捨てて修行をしろというのと、生きる不安を解消するためにじぶんから距離を置こうとするロゴセラピーとは、共通点があるとおもいます。

じぶんに執着しすぎると、かえってよくない、という点です。

意識がすべてだという唯識の思想は正しくて、われわれは生きている限りじぶんの意識から逃れることができません。

われわれが見ている景色だって、われわれに起こる出来事だって、それはじぶんがあるからこそ感じるのであって、それはふだんは、とてもありがたいことです。

けれど、肉体が痛みに支配されたり、社会から迫害を受けたり、死が近づいて苦しみばかりの状況になったら、今度はこの意識が邪魔になってきます。

そうすると今度は、逆にじぶんから距離を置いて、じぶんの意識を切り離す努力をしないと、苦しみに耐えられなくなる、というわけです。



これまでの話をまとめてみます。

般若心経は人間の意識を切り離して、無と無限(宇宙)に同化することが大事だ、という思想に至りました。

しかし個々の人間がどう生きるべきかということまでは示しませんでした。

日本の仏教の場合、それを補完したのが日蓮宗です。

しかし日蓮宗の考え方も、人々が社会のために奉仕することで、社会の人々を救うのだとは言いましたが、個々人が幸せに生きる方法については教えてくれませんでした。



というのも、近代以前の社会では、みんな生きることに必死で、それ以上の幸せを考えている余裕はなかったし、いまよりもずっと、差し迫ったところに死があったんですよね。

だから当時の人々は、みんな死に方ばかりを考えました。武士は立派な死に方を求めたし、浄土宗はあの世に救いを求めました。

これは日本だけではなく、世界中そうだったとおもいますし、日蓮宗のような考え方のほうが、めずらしかったとおもいます。

みんなあまり、生きていること自体に意味を求めたりはしなかったんです。




それが近代西洋で産業革命が起こり、社会が大きくなり、爆発的な豊かさが得られるようになりました。

そこで合理主義が台頭すると同時に、ようやくひとりひとりの幸福を追求していく思想が生まれます。

実存主義では、人間には明確な価値があると主張して、社会の役に立つことでじぶんの価値を高めるべきだと主張しました。

ヴィクトール・フランクルはさらにそこから、人間の生きる苦しみに対処するための実践法をロゴセラピーというカタチで提示します。

たとえば現代では、たとえば手術をするときには麻酔をつかうし、がんで肉体に痛みが出て耐えられない場合も、モルヒネなどをもちいて緩和ケアをおこないますよね。

肉体と苦しみを切り離す技術が、科学的にも確立したわけですが、こういうことはやはり、豊かさという土台がなければ成り立たないことだとおもいます。

その点では、やはり実存主義は人々を救済しているとおもいます。



どうしても人間が生きる意味についてまで説明したかったために、ギズモさんとの対話の腰を折る格好になって申し訳ないです。

では最終的に、ぼくはこの一連の思想をどう理解したか、ということなんですが、こう考えるのがバランスがよいのではないかとおもいます。



ぼくは、元気でいる間は実存主義的にものを考えるのがよいとおもいます。

社会のためになるように努力をし、社会の中に居場所をみつけて、よりどころにする。

生きる意味は、向こうからやってくるのではなくて、じぶんから見つけていくものだ、という考え方ですね。

しかしじぶんがたとえ元気であっても、ホロコーストや、いわれなき差別のようなカタチで、じぶんが社会から迫害されて、仲間外れにされてしまうこともあるでしょう。

そうすると、いくら元気でも社会の役に立てず、じぶんの存在意義を見失うかもしれません。

そういうときは、ロゴセラピーを利用して、ユーモアと自己距離化によってじぶんの精神を維持しなくてはならないでしょう。



では、肉体が衰えて社会の役に立てなくなったり、あとは死を待つだけ、という状況になればどうするか。

もちろんそんな中でも、せめてじぶんにできることはないかという模索はするとおもいます。

しかし人間、肉体や精神がいうことをきかなければどうしようもありません。

そうなったときは、もはや実存主義に頼る段階は過ぎています。

そうなれば、神仏に救われることを祈ることになるでしょう。

死ねばみな救われる、という宗教はここにきて役に立ちます。

ぼくとしては特定の信心を持たないので、じぶんが死ねば宇宙のエレメントになるのだという考えを支持します。

いずれにせよ、死ねばこの肉体のとらわれから救われるのは間違いありません。

このようにして、今回話した思想は、じぶんが生きるステージによって変化していきます。

この地図があれば、われわれが生きて、そして死ぬことの見通しが立つのではないでしょうか。

というわけで、長かった話もこれでおしまいです(笑)

お付き合いいただいてありがとうございました。



(前回の投稿への返信)

宗教とは人が集まって支え合うシステムのようなものだとおもいますが、「本人の達成感、熱意、宗教への熱い思い」は、その根幹をなすとおもいます。

欲徳がらみでない熱意は、ほんとうに大事だとおもいます。

おそらくいまここでわれわれが話しているようなことも、宗教や信仰の集会に近いものだとおもいますし、かなり深いところまで理解を進めているとおもうんですが、なぜこれが成立するかというと、お互いに欲徳がからんでおらず、忖度のない関係だからだとおもいます。

けれど、もちろん宗教の集会のように「ある目的をもって人が集まる」中で、心のとらわれが解放されていくこともあるでしょう。

満たされないおもいがあったときに、べつの目標を達成しようとすることで、心を満たそうとする行動を、心理学的には、「代償行動」というのだそうです。

以前にも言ったとおもうのですが、ギズモさんにとって、たいへんな時期に信仰とその仲間が代償的に作用して、心の安定が得られたのであれば、それはなによりだったとおもいます。



じぶんが「生かされている」という感覚ですが、大事だとおもいます。

じぶんがいま主体的に……つまり実存主義的に生きていると、「生かされている」という感覚は薄れていきますよね。

けど、人間はずっと実存を保っていることはできません。つまり、衰えるし、死にます。

人間はじぶんの衰えや死を予測できる生き物なので、いつまでも主体的に社会の主人公でいられるわけではないことを知っています。

だからこそ、大いなるなにかに「生かされている」という敬虔な考えは、元気なときにこそしっかり意識しておく必要があるんですよね。

2024年10月6日 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する

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時々不思議なシンクロが起きますね(笑)

今回もNO.1516について、考えたことを書かせていただきます←最初900字だったのが、どんどん長くなってしまい、また自分のことばかりでごめんなさい。

2018年に仙台に行った時、偶然立ち寄ったお寺が、千日回峰行を成した大阿闍梨、塩沼亮潤が開山した、福聚山慈眼寺でした。
このお寺のホームページを読んだこともあり、著書『歩くだけで不調が消える 歩行禅のすすめ』も読んでいましたが、そのお寺だとはまったく思わずにお参りしました。

本堂の脇に小屋のような小さなところがあり、中に入るとお札や著書などが置いてあります。
そこで、もしかしてあの大阿闍梨のお寺?と気づきました。

すると、さっきまで庭の掃き掃除をしていた男性が入ってきたのですが、お顔を見ると大阿闍梨ご本人だったので、ここでまた驚きました(笑)
とても柔和で感じの良い方で、あの苦行を成し遂げた方という雰囲気ではありませんでした。

持っているのと同じ本を購入し、何かひとことふたこと話した記憶があるのですが、覚えていません(笑)

千日回峰行はやらなくてもすむことなのかもしれませんが、壮絶な、解脱に近い難行苦行をすれば、ネームバリューも上がり、護摩祈祷に訪れる人が増え、収益にもつながるということもありますね。

でも、それよりも、本人の達成感、熱意、宗教への熱い思い(自己満足の部分もあるかも?)の問題が大きいように思えます。

金剛般若経の、「教義を説く側と、聞く側の資格が煩悩からの解脱」ですが、煩悩があったとしても、双方の純粋で欲得がらみでない熱意も資格なのでは、と思います。


『夜と霧』はずいぶん前に、単行本で読みました。

内容もですが、写真が壮絶で、衝撃を受けた記憶があります。
ロゴセラピーというのは知りませんでしたが、とても興味があります。


以前プロテスタントの教会に数年通っていたことはお話したと思います。

当時、母親のことで、決しておおげさではなく、自分が死ぬか母を殺すかと、誰にも言えずに日々悶々と悩んでいた時期でしたが、たまたまクリスマスのイベントで、その教団の聖歌隊が近くの商業施設に出演するというチラシを見て、観に行ったのがきっかけでした。

行ってみて数年、いろいろわかったことがありました。

何かを買えという勧誘はまったくありませんが、献金はあります(これについては以前書いたことがありました)。

洗礼を受けた後は「月定献金」というのがあり、目安として月収の1~3割とのことです。
私の場合、当時は自分の収入はなかったので、納めなくてもいいですよ、と言われました。

半期に一度か年に一度か忘れましたが、収支表が配られるので目を通すと、牧師とその妻(宣教師)の給与が合わせて50万もありました(30年も前です)。
毎月決まっているのか、その月の収入によって変動するのかはわかりません。

牧師夫妻の服装は質素で、牧師夫人はバザーで購入したスーツを着て礼拝に出ており、ぜいたくをしているようには見えませんでしたが、けっこうな収入ですよね。

他に、教会の運営費はもちろん、牧師館(牧師一家は2階の一部が住居)の修繕費や、諸経費、積み立て金も別に取ってあるので、ずいぶん余裕のある収入だと思います。

ただ、月定献金を納めてくれる信者が減れば生活も困窮するわけなので、貯金はしていたと思います。

壺を売ったりハンコを作らせたりと、詐欺まがいのことをしなくても、宗教で過分な(私の感覚です)収入を得るのはどうなんだろう?と、ずいぶん疑問を感じたものでした。

不登校に近い若者や、障がいのある人、いじめにあっている人、人間関係がうまくいかず継続して仕事に従事できない人など、様々な悩みを持った人が来ていました。
みなさん熱心に通ってくるのですが、今、冷静に考えてみると、信仰は二の次という人が多かったように思えます。

それではなぜそれほど熱心に礼拝に出たり、日曜日以外も来て、なにかしら手伝ったりしていくのか。

教会は、阻害されない、仲間外れにされない、どんな人も受け入れてもらえる、話はきちんと聞いてもらえる、という、実に居心地のいい空間だからだったのでしょう。

誰からも否定されず心が休まる場所があれば、なにかしらの生きる希望、意欲というのが起きてくると思いますが、そこが宗教の場ということになると、純粋で敬虔な信仰とはかけ離れたものにもなり得るかもしれません。

もちろん、そこから熱心な信者になることも多々ありますし、宗教と自分の居場所がどういうふうにつながるか、それは個々の問題ですね。

教会など宗教の場に行くきっかけが信仰ではなくても、その後も信仰心が希薄だったとしても、そこが生きる意味を見つけられる場である(あった)と思う人はいるように感じます。

私の気持ちとしては、ほどほどの信心をして生きている間救ってほしいし、信心したとしても死後にどんな目に合うのかわからないから死後も救ってほしいと思うのですが、両方とも望むのはどうなのでしょうか(笑)

もうひとつ。
私の場合、その教会に行き、熱心な信仰の時期→ちょっと冷めてきてほどほどの時期→教会の人間関係に疲れてそこから離れ、カトリック教会に1年ほど通った時期を経て、母に関する心の問題はだいぶ払拭されました。

信仰による心の安定(これを救いと言っていいのかわかりません)と、週に一回でも逃れられる居場所ができたということが、ちょうどその時私に必要なことだったのはないかと捉えており、その時、生きる意味(生かされる意味)について、ほんの少し考えた、というお話でした(笑)

実際のところ、今も、生きる意味はなんなのか?ということの明確な答えはわかっていませんが、キリスト教の言うところの「生かされている」という捉え方は、なんとなく納得しています。
書き足し・「生かされている」こと、これはキリスト教でなくても、仏教でも神道でも、結局は同じかと思います。

2024年10月3日 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する

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ギズモさんの返信を読みながら、「あれ、日蓮宗や顕正会の話はしたっけな」とおもいました。

前回の投稿の続きとして、今回、日蓮の話をしていたからです。

不思議なことに、ギズモさんはぼくが話すより前に日蓮の話をなさっていたんです(笑)



勧誘の話を読みながらおもったのが、宗教って、末端の信者ほど信仰に対して純粋で、敬虔だということでした。

でもそれは、金儲けとしての宗教教団の、隠れ蓑として作用してしまいます。

教団は明確に金儲けの意図をもっているのだけど、そうおもっていない熱狂的な末端の信者がいて、教団側は外側に向けてかれらをみせることで、「ほらうちの宗教は金儲けなんて考えていない、こんなにも純粋な信仰なんですよ」と。



精神病棟の患者さんの話、興味深かったです。

おそらく、自他の境界があいまいな、いわゆる第六感が働く人はほんとうにいるのだろうとおもいます。

ただ、それで金儲けをしているような人は、ほぼすべてニセモノだとおもいますが。

さて、前回の続きです。



(前回の続き)

金剛般若経は、玄奘三蔵が翻訳した仏教の経典のひとつですが、煩悩から解脱しなければならない理由を、以下のように述べています。

「修行者が衆人に施しを与えるにあたって、あるいは衆人が修行者から施されるにあたって、じぶんの肉体や精神といった煩悩に囚われていてはならない」

この場合の施しというのはお金ではなくて、「教義を施す」という意味合いですね。

教義を説く、あるいは教義を教えてもらうためにも資格が必要で、その資格が煩悩からの解脱だというのです。

たしかに現代の日本でも千日回峰行を成した大阿闍梨などは、解脱に近い苦行を成し遂げたことで、「衆生に施しを与える資格を得た」ということになるわけですが、しかしこれは現代人にとっては非常に物足りない理由なのではないでしょうか。

ぼくが以前に書いた、死を目前にすると人間は生きている意味を見いだすから解脱を目指す、というのは、仏教の場合はまちがいだったようです。

仏教はぼくが言ったような、個人主義的な理由で解脱を目指そうとはしていません。

よくよく考えると、仏教ではそもそも「ひとりひとりが生きる意味」については語っていないんですね。

仏教は、国家鎮護にはじまって、次は魂の救済……つまり信心して死後に救ってもらおうというところに存在意義があります。

(訂正)日本に渡ってきた仏教は国家鎮護に利用され、次は衆生の魂の救済……つまり信心して死後に救ってもらおうというカタチで変化してきました。

仏教が個人の生きる意味のようなものを考えだすのは、鎌倉時代になって、日蓮が日蓮宗(法華宗)を立ち上げてからなんですね。



ぼくはどうしても今回の3回の話で、生きる意味についてまで話を広げたかったんですが、ちょっとアプローチを変えて、西洋の話をさせてください。

これまではずっと東洋の思想から人間を理解しようとしたんですが、近代西洋はどのように考えたのか。

ちょうどぼくはいま、テレビ番組の「こころの時代」で、ヴィクトール・フランクルのロゴセラピーが取り上げられているのをみていました。

ヴィクトール・フランクルはユダヤ人で、ジークムント・フロイトに師事する精神科医でもありました。

ホロコーストの経験を描いた『夜と霧』という作品でも知られています。

かれは戦時中、ナチスによって強制収容所に送られました。

極限の迫害、死の恐怖と苦しみを味わいながらも、生きて終戦を迎えることができました。

しかし親も兄弟も、さらには妻も、収容所でみんな亡くなっていたんですね。

失意と苦悩の中、かれはかねてからの仕事であったロゴセラピーの確立をめざしました。

そんなロゴセラピーは「実存主義」という思想を土台にしています。



実存主義は19世紀に登場しました。

どうしてこの思想が生まれたかというと、近代西洋で産業革命が起こってから、文明社会がどんどん巨大になったからなんです。

社会が巨大になると、人々をより合理的に動かす必要が出てきます。

それでまず合理主義が台頭し、合理性で社会を統制するようになりました。

ところが、あまりに人間を合理的に働かせすぎると、人間は生きる意味を見失ってしまうんですね。

これは現代でもそうだとおもいます。

ただ家賃や光熱費を支払い、食べて寝るだけで終わっていく生活を維持するために、一日中ロボットのような仕事をしていると、「じぶんはなんのために生きているんだろう」とむなしさにとらわれてしまいます。

もちろんぜいたくを言わなければ食っていくことができるわけで、日常で死の恐怖に苛まれることだってなく、きちんと社会の役にも立っている。

にもかかわらず、心が満たされなくて、生きているのがつらくなるのです。

この合理主義の弊害が、近代西洋の社会問題でした。

そこで生まれたのが、実存主義です。

社会を発展させるのが人間の目的だという点は、合理主義も実存主義も共通してるんです。

しかし人間を鋳型にはめて管理して社会を発展させる合理主義では、人間が社会のために消費されるだけになってしまいます。

だから人の個性や自我を認めて、じぶんの適性を追求していくやり方で社会を発展させていくべきじゃないか、というのが実存主義です。

つまり、社会が合理的になろうとすればするほど、同時にわれわれはじぶんの主体性を見つめ直して、生きがいや生きる意味を積極的にみつけていかねばならない、というわけです。



実存主義では、人間は鋳型からつくられた道具ではなく、かといって般若心経のいう空や無でもなく、まちがいなく実存しているという立場をとります。

さらにじぶんの実存にはきちんと意味があることを、じぶん自身で求めていかなければいけない、ともいいました。

そのためには、理性的で善良に暮らし、主体的にこの社会にかかわっていくことが必要だというのです。



さっき例にとった日蓮宗(法華宗)は、実存主義とすこし似ています。

ごく大雑把にいえば、日蓮はこんなことを言いました。

「よその宗派のように、死んでから阿弥陀如来に救ってもらおうというのではダメだ。いまこの世に生きているわれわれが努力して、この世に生きる人々を救うというのでなければ、意味がないだろう」

まあ、日蓮宗の排他性や分派といった是非は置いておくとして、日蓮の主張に共鳴する人は多かったようです。

時代を経て宮沢賢治も日蓮宗に帰依しましたし、霊友会、立正佼成会、創価学会、顕正会あたりも日蓮宗から派生した新興宗教です。



ちなみに、ぼくは日蓮宗にも実存主義にも、不信、というか不満を感じています。

なぜならこれらの思想は、社会でなんの役にも立てないといって苦しんでいる、事情のある人々には「生きる意味」を提示していないからです。

実存主義も日蓮宗も、社会の役に立てる人にフォーカスを当てた思想でしょう。

社会にうまくかかわることができない……たとえば重度の障がい者や、気力・体力の衰えた老人にとっては救いがないとおもうのです。

もちろん実存主義によってみんなが社会を成熟させることで、本来鬼子や姥捨てのように扱われて捨てられていた命も救われるようになれば、それはいいことだとはおもいます。

しかし、その鬼子や姥捨ての当事者たちの生きる意味については、実存主義も日蓮宗も教えてくれません。

この不平等について考えると、まだ死ねばみな救われると説く浄土信仰のほうが、思想の上では平等な気がするほどです。

社会にうまく関われない人の生きる意味については、現代社会でもまだ明確な答えを見いだせていないんですね。



それはともかく(笑)

実存主義から派生したロゴセラピーは、般若心経とも似ているところがあります。

ロゴセラピーの主張は、むずかしいものではありません。

基本的にはふたつのことを言ってます。

(続く)

2024年10月2日 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する

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6000字もの記事を書いてくださり、ありがとうございます。
3回にわけての投稿、農園主さんの返信はなしとのこと、承知しました。

シリーズ終了後だと、どこから手をつけていいかわからなくなりそうなので、今日は No.1513に対し、思ったことを書かせてください←ごめんなさい、けっこう長くなってしまいました(;^_^A

海外でも、障がいを持って生まれた子を「gift(神様からの贈り物)」と言ったりしますよね。

知的障がいの子は、心が純粋で、汚れがないことも、特別な存在として大事に扱った理由のようにも思えます。
また、純粋であるために、見えないはずのなにかが見え、聞こえないはずのなにかが聞こえるということも、あり得るのかもしれないですね。

中山みきは、多重人格者であったんですね。
人格が時々変わるのを見れば、神のような何かが憑いているように見えるのかもしれません。
(書き足し)それも、教祖として崇められた一因になったような気もします。

般若心経ですが、よく唱えているのに、「空」「無」がこれほどきれいに分かれていることに気づきませんでした。
昨年でしたか、成田山新勝寺にお参りした時、般若心経の写経をして納めたのですが、「いやに無が多いな~」とは思いましたが(笑)

同じ文章、語句でも、「読む(唱える)」「書く」「聞く」では、それぞれ違うんですよね、不思議なことに。
それ以前に、いかに何も考えず、わかったふりをして般若心経を唱えていたか、そこが問題でした(笑)

司馬遼太郎の考えは、ずいぶん思い切った感じですが、その通りですね。
これを「キリスト教」に置き換えても、同じことが言えるのではないかと思いました。

古くから多くの人に浸透してきた宗教も、時代が変わっていけばそれなりに変わるのは仕方ないですが、そこに金銭が絡んでくると、なかなか厄介なものとなってしまいますね。

輪っかのお話は、やっぱり何度イメージしても、どうも理解できていないようです。
輪っかの外はなんなんだろうと、とりとめなく考えてしまい、余剰意識もいいところですね(笑)

以前は駅に立っていて、無言で新聞を渡そうとしていたのが、最近は戸別訪問をするようになってきた「冨士大石寺顕正会」のことは、以前お話したことがあったかと思います。
日蓮宗から破門され、独立したようですが、これも一種の新興宗教なのでしょうね。

最近ちょっと(かなり)びっくりしたことがあったので、聞いてください(笑)

仕事の帰り、チェーン店のカフェに入りました。
隣の席に若い女性がふたり、座っていました。
ひとりの女性が熱心に何か話して聞かせていたのですが、声が小さいので内容はところどころしか聞こえません。

雰囲気が尋常ではなく、気になったのでテーブルを見ると、あのよく見かける冨士大石寺顕正の新聞が置いてあります。

しまいには涙ぐんで「浅井先生は私たちのためにこれだけのことをしてくださって~~~」と話していました。

勧誘なのか、団体内部の勉強会なのかはわかりませんでしたが、こういうふうに宗教にのめりこむ人たちっているんだな~と思い、本当に驚きました。

ここで送信しようと思ったのですが、数年前に、一般の女性のブログで読んだことを思い出しました。

その女性の元旦那さんは、精神病院に勤務していました(医師なのかどうかは知りません)。

ある日ひとりの患者さんが亡くなりました。
その方のけんか友だちが、その頃、個室に入っていたそうです。
友だちができるということは、(書き直し)閉鎖病棟ではなく普通に交流のできる病棟でしょう。

亡くなったことを知るはずもないのですが、その人が騒いでいるので、旦那さんが行ってみたそうです。

「なんで、あいつはあんなとこにいるんだ 。 気に入らねーな 、あいつをこっちに降ろせ!!」
と、天井を見上げながら、訴えていたそうです。

おそらく、純粋に見えたままを言える人だからこそ、見えたことを訴えたのだろう、と書いてありました。

精神病(訂正・精神疾患)の患者さんが言ったことなのに、作り話とか病気だからと捉えず、心霊現象とも考えず、本当に「見えた」のだろうと理解しているわけですね。

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