2024年10月2日の投稿[1件]
6000字もの記事を書いてくださり、ありがとうございます。
3回にわけての投稿、農園主さんの返信はなしとのこと、承知しました。
シリーズ終了後だと、どこから手をつけていいかわからなくなりそうなので、今日は No.1513に対し、思ったことを書かせてください←ごめんなさい、けっこう長くなってしまいました(;^_^A
海外でも、障がいを持って生まれた子を「gift(神様からの贈り物)」と言ったりしますよね。
知的障がいの子は、心が純粋で、汚れがないことも、特別な存在として大事に扱った理由のようにも思えます。
また、純粋であるために、見えないはずのなにかが見え、聞こえないはずのなにかが聞こえるということも、あり得るのかもしれないですね。
中山みきは、多重人格者であったんですね。
人格が時々変わるのを見れば、神のような何かが憑いているように見えるのかもしれません。
(書き足し)それも、教祖として崇められた一因になったような気もします。
般若心経ですが、よく唱えているのに、「空」「無」がこれほどきれいに分かれていることに気づきませんでした。
昨年でしたか、成田山新勝寺にお参りした時、般若心経の写経をして納めたのですが、「いやに無が多いな~」とは思いましたが(笑)
同じ文章、語句でも、「読む(唱える)」「書く」「聞く」では、それぞれ違うんですよね、不思議なことに。
それ以前に、いかに何も考えず、わかったふりをして般若心経を唱えていたか、そこが問題でした(笑)
司馬遼太郎の考えは、ずいぶん思い切った感じですが、その通りですね。
これを「キリスト教」に置き換えても、同じことが言えるのではないかと思いました。
古くから多くの人に浸透してきた宗教も、時代が変わっていけばそれなりに変わるのは仕方ないですが、そこに金銭が絡んでくると、なかなか厄介なものとなってしまいますね。
輪っかのお話は、やっぱり何度イメージしても、どうも理解できていないようです。
輪っかの外はなんなんだろうと、とりとめなく考えてしまい、余剰意識もいいところですね(笑)
以前は駅に立っていて、無言で新聞を渡そうとしていたのが、最近は戸別訪問をするようになってきた「冨士大石寺顕正会」のことは、以前お話したことがあったかと思います。
日蓮宗から破門され、独立したようですが、これも一種の新興宗教なのでしょうね。
最近ちょっと(かなり)びっくりしたことがあったので、聞いてください(笑)
仕事の帰り、チェーン店のカフェに入りました。
隣の席に若い女性がふたり、座っていました。
ひとりの女性が熱心に何か話して聞かせていたのですが、声が小さいので内容はところどころしか聞こえません。
雰囲気が尋常ではなく、気になったのでテーブルを見ると、あのよく見かける冨士大石寺顕正の新聞が置いてあります。
しまいには涙ぐんで「浅井先生は私たちのためにこれだけのことをしてくださって~~~」と話していました。
勧誘なのか、団体内部の勉強会なのかはわかりませんでしたが、こういうふうに宗教にのめりこむ人たちっているんだな~と思い、本当に驚きました。
ここで送信しようと思ったのですが、数年前に、一般の女性のブログで読んだことを思い出しました。
その女性の元旦那さんは、精神病院に勤務していました(医師なのかどうかは知りません)。
ある日ひとりの患者さんが亡くなりました。
その方のけんか友だちが、その頃、個室に入っていたそうです。
友だちができるということは、(書き直し)閉鎖病棟ではなく普通に交流のできる病棟でしょう。
亡くなったことを知るはずもないのですが、その人が騒いでいるので、旦那さんが行ってみたそうです。
「なんで、あいつはあんなとこにいるんだ 。 気に入らねーな 、あいつをこっちに降ろせ!!」
と、天井を見上げながら、訴えていたそうです。
おそらく、純粋に見えたままを言える人だからこそ、見えたことを訴えたのだろう、と書いてありました。
精神病(訂正・精神疾患)の患者さんが言ったことなのに、作り話とか病気だからと捉えず、心霊現象とも考えず、本当に「見えた」のだろうと理解しているわけですね。
3回にわけての投稿、農園主さんの返信はなしとのこと、承知しました。
シリーズ終了後だと、どこから手をつけていいかわからなくなりそうなので、今日は No.1513に対し、思ったことを書かせてください←ごめんなさい、けっこう長くなってしまいました(;^_^A
海外でも、障がいを持って生まれた子を「gift(神様からの贈り物)」と言ったりしますよね。
知的障がいの子は、心が純粋で、汚れがないことも、特別な存在として大事に扱った理由のようにも思えます。
また、純粋であるために、見えないはずのなにかが見え、聞こえないはずのなにかが聞こえるということも、あり得るのかもしれないですね。
中山みきは、多重人格者であったんですね。
人格が時々変わるのを見れば、神のような何かが憑いているように見えるのかもしれません。
(書き足し)それも、教祖として崇められた一因になったような気もします。
般若心経ですが、よく唱えているのに、「空」「無」がこれほどきれいに分かれていることに気づきませんでした。
昨年でしたか、成田山新勝寺にお参りした時、般若心経の写経をして納めたのですが、「いやに無が多いな~」とは思いましたが(笑)
同じ文章、語句でも、「読む(唱える)」「書く」「聞く」では、それぞれ違うんですよね、不思議なことに。
それ以前に、いかに何も考えず、わかったふりをして般若心経を唱えていたか、そこが問題でした(笑)
司馬遼太郎の考えは、ずいぶん思い切った感じですが、その通りですね。
これを「キリスト教」に置き換えても、同じことが言えるのではないかと思いました。
古くから多くの人に浸透してきた宗教も、時代が変わっていけばそれなりに変わるのは仕方ないですが、そこに金銭が絡んでくると、なかなか厄介なものとなってしまいますね。
輪っかのお話は、やっぱり何度イメージしても、どうも理解できていないようです。
輪っかの外はなんなんだろうと、とりとめなく考えてしまい、余剰意識もいいところですね(笑)
以前は駅に立っていて、無言で新聞を渡そうとしていたのが、最近は戸別訪問をするようになってきた「冨士大石寺顕正会」のことは、以前お話したことがあったかと思います。
日蓮宗から破門され、独立したようですが、これも一種の新興宗教なのでしょうね。
最近ちょっと(かなり)びっくりしたことがあったので、聞いてください(笑)
仕事の帰り、チェーン店のカフェに入りました。
隣の席に若い女性がふたり、座っていました。
ひとりの女性が熱心に何か話して聞かせていたのですが、声が小さいので内容はところどころしか聞こえません。
雰囲気が尋常ではなく、気になったのでテーブルを見ると、あのよく見かける冨士大石寺顕正の新聞が置いてあります。
しまいには涙ぐんで「浅井先生は私たちのためにこれだけのことをしてくださって~~~」と話していました。
勧誘なのか、団体内部の勉強会なのかはわかりませんでしたが、こういうふうに宗教にのめりこむ人たちっているんだな~と思い、本当に驚きました。
ここで送信しようと思ったのですが、数年前に、一般の女性のブログで読んだことを思い出しました。
その女性の元旦那さんは、精神病院に勤務していました(医師なのかどうかは知りません)。
ある日ひとりの患者さんが亡くなりました。
その方のけんか友だちが、その頃、個室に入っていたそうです。
友だちができるということは、(書き直し)閉鎖病棟ではなく普通に交流のできる病棟でしょう。
亡くなったことを知るはずもないのですが、その人が騒いでいるので、旦那さんが行ってみたそうです。
「なんで、あいつはあんなとこにいるんだ 。 気に入らねーな 、あいつをこっちに降ろせ!!」
と、天井を見上げながら、訴えていたそうです。
おそらく、純粋に見えたままを言える人だからこそ、見えたことを訴えたのだろう、と書いてありました。
精神病(訂正・精神疾患)の患者さんが言ったことなのに、作り話とか病気だからと捉えず、心霊現象とも考えず、本当に「見えた」のだろうと理解しているわけですね。