2024年12月27日の投稿[2件]
今回も、とても興味をひかれるお話を教えていただき、ありがとうございます。
農園主さんの、安徳天皇生存説に信憑性がないというお考えと、その理由、よくわかります。
あとから話を作った、ということなんですね。
能勢の陵墓がいまもていねいに守られていて、それが安徳天皇に対する愛からというお話には、心を打たれます。
後ほどゆっくりと読み直しさせていただきますが、とりあえず簡単なお返事で申し訳ございません。
今年もありがとうございました。
佳いお年をお迎えください(*^。^*)
ご両親、弟さんたちと、皆様お元気で、幸せな年末年始をお過ごしくださいね。
農園主さんの、安徳天皇生存説に信憑性がないというお考えと、その理由、よくわかります。
あとから話を作った、ということなんですね。
能勢の陵墓がいまもていねいに守られていて、それが安徳天皇に対する愛からというお話には、心を打たれます。
後ほどゆっくりと読み直しさせていただきますが、とりあえず簡単なお返事で申し訳ございません。
今年もありがとうございました。
佳いお年をお迎えください(*^。^*)
ご両親、弟さんたちと、皆様お元気で、幸せな年末年始をお過ごしくださいね。
四国には行ったことがないんですが、父方の祖母が徳島の出身でした。
祖母が徳島出身であることを知ったのは、最近のことです。
きっかけは子供のころ、祖母がお正月になるといつもおはぎをつくってくれた記憶でした。
これがもち米とうるち米を混ぜて炊いた「半殺し」というもので、一般的なおはぎと比べるとすこし変わっています。
子供のころはなにも気にせず食べていました。
数年前に、あれは徳島の郷土料理だと父が話したことで、ぼくははじめて祖母が徳島出身だったことを知ったんです。
このおはぎは徳島県那賀町が有名なんだそうですが、祖母が徳島のどこ出身なのかはよくわかりません。
つるぎ山は那賀町の北端からつるぎ町にかかっている標高約2000mの山なんだそうですね。
調べてみたんですが、剣山は近世に入ってから修験者の集まる霊峰になったようです。
現在では寺社があり、剣山大権現がまつられているそうですが、修験者が集まるまでは社殿もなにもありませんでした。
修験者が集まるようになったものの、この参道が非常に厳しいものだったため、宿泊施設を兼ねた寺ができたそうです。
そのお寺のうち、円福寺の史料に、安徳天皇と草薙の剣の縁起が残っています。
つまり江戸時代末期になって、安徳天皇と剣山が結びつけられたんですね。
山の呼び方が「けんざん」「つるぎやま」など近代になるまで安定しなかったのは、「剣山」という名称そのものが比較的あたらしいものだからでしょう。
もし修験者によって剣山という名前がつけられていなければ、いまも太郎笈と呼ばれていたかもしれません。
ギズモさんのおっしゃったように、徳島県に平氏の落人が住み着いた話とこの件は無関係ではないとおもいます。
徳島県祖谷地方に平国盛(平教経)が落ち延びて、その地を平定。
その後現在の美馬市のすこし東側にある吉野川市あたりに、おなじく落ち延びていた安徳天皇がおられ、お迎えしたとあります。
しかしこれは、後世につくられた伝説のようです。
ほんとうの落人もいました。
堀川内記という、朝廷で安徳天皇のお付きの医者をしていた男がいて、実際に平家滅亡後に祖谷地方に落ち延びて、医業と神官を兼ねながら暮らしていたというのです。
この堀川内記の子孫の家が、いま平家屋敷民俗資料館になっています。
そう考えると、堀川内記がきっかけで話に尾ひれがついて、平家の落人の伝説がまことしやかにふくらんでいった。
剣山も、もともと江戸時代の『異本阿波史』という本に「神宝の霊剣を納めている」という記述があったようです。
それが、修験者の山として剣山がひらかれるにあたって、安徳天皇と草薙の剣という脚色が加わったのでしょう。
安徳天皇が逃げ延びたという伝説は、西日本を中心として全国に残っていますね。
ぼくの知っているところだと、大阪の最北部に能勢という町があります。
ここは大阪といっても田舎です。
東京だと檜原村に近い風情のようにおもえます。
妙見信仰の総本山があることから、「能勢の妙見さん(妙見山)」として有名です。
この能勢に、野間という地域があります。
樹齢千年以上の大ケヤキが観光資源となっていて、ぼくも行ったことがありますが、じつに立派なものです。
ここで江戸時代、ある屋敷の屋根を修繕していた職人が、天井裏の柱に竹筒がくくりつけられているのを発見しました。
1817年といいますから、江戸から明治に切り替わるほぼ半世紀前です。
中に入っていたのは書簡で、藩に届けられ、当時の役人がこれを苦労して解読しました。
するとどうやら大昔に、藤原経房という男が息子にあてた遺書であることがわかります。
なんとそこには経房が壇ノ浦で二位尼に請われて、安徳天皇を預かって逃げ延びて、能勢の地にたどりついたこと。
そして安徳天皇はその1年後に崩御したが、じぶんは陵墓を守るためにその地に残ったことが記されていたというのです。
この書簡の内容は幕府にも伝えられ、当時の江戸や上方を駆け巡るニュースになりました。
しかしこの文書にはいろいろと矛盾点があり、真偽のほどは怪しいといわれています。
写本はいまも残っているのですが、明治時代には原本も紛失したそうで、真贋の細かい部分を調べることもできなくなっています。
ところで、個人的には安徳天皇生存説には信憑性がないとおもっています。
夢がないとおもわれるかもしれませんが、やっぱり感覚的にそうおもわざるを得ないんです。
というのも、平徳子はおなじ船のうえで、安徳天皇と二位尼が入水するところを目の当たりにしていたわけでしょう。
それを見届けて、みずからも入水。
ところが源氏方に助けられてしまいます。
もし安徳天皇が逃げたと知っていたら、徳子は入水できたでしょうか。
6歳の子を置いて、母親は死ねるだろうか、というのが最初の疑問点です。
次に、徳子が助けられたあと、安徳天皇は死んだと割り切って、生きているかもしれないのにその菩提を弔い、世を捨てることができるでしょうか。
もし安徳天皇が生きている可能性があるなら、寂光院に入寺することもなく、平家の再興のために、なにかアクションを起こしたとおもうのです。
入水した安徳天皇は替え玉だった、という話もあります。
しかしおなじ船に乗っていて、我が子がいつの間にか脱出していて、入水する安徳天皇が替え玉であることに徳子も女房たちも気づかなかった、というのはさすがにあり得ないでしょう。
それに当時の人々も、安徳天皇が生きていたなんてうかつなことを、書き残したり、伝承したりはできないはずなんです。
その時代に生きた人たちにとっては「うかつなことを言えば殺される」わけですから。
ちょっと話が変わりますが、丹後地方には明智たま(細川ガラシャ)という人がいました。
(彼女も日本史上有数の悲劇のヒロインです)
明智光秀の娘で、同盟相手の細川忠興(丹後田辺藩)の妻になるんです。
しかしそれから約4年後、光秀が謀反を起こして、信長を討ってしまいました。
そのあと、秀吉が光秀を討伐するのは、よく知られた歴史ですね。
嫁いだとはいえ逆賊の光秀の娘ですから、秀吉に殺せと言われる可能性があります。
そこでたまは夫の忠興によって秘境へ移され、行方不明であるとして、2年ほど幽閉されるんです。
この隠棲地については、丹波の山の中の「三戸野」だったという記述が残っています。
後世『細川ガラシア夫人』という戯曲を書いたドイツ人が、丹後の「味土野」に行って、これがガラシャの隠棲地にちがいないといいました。
それでいま味土野はガラシャ隠棲の地として観光地化しています。
ところが最近、「三戸野」は丹後ではなくて、もっと南の京丹波町の水戸のことを指すのではないか、という調査が出たんです。
京丹波町にはむかし「三戸野峠」と呼ばれた峠もあったそうで、こうなるとがぜん信憑性が高まります。
ガラシャの隠棲地がごっそり入れ替わるような話です。
ところが、この「三戸野」という情報すら、じつは江戸時代に書かれた軍記ものである『明智軍記』という、あまり信憑性のない書物からきているといわれています。
元ネタの信憑性が薄いわけですから、もう細川ガラシャ隠棲地は、まったくわからなくなってしまうんです。
当時そこに住んでいた人だって、ここにはお姫さんが暮らしていた、なんて絶対に言わないし、書き残すようなことはしません。
そんなことをしたらその地にどんな災いをもたらすかわかりません。
そのようなことを踏まえると、やはり生存説が出てくること自体、緊張感が薄いようにおもえるんです(笑)
しかし、安徳天皇生存説を各地の人がつくった気持ちはよくわかります。
平家物語でかわいそうな死に方をした安徳天皇のエピソードを聞いて、なんとか生きていたという物語にならないものか、とおもった人は、全国各地にいたことでしょう。
それで、たいていの人は物語と現実の区別がついているのだけど、中にはその分別を踏み越えて、ほんとうにあたらしい物語をつくってしまうタイプの人がいるわけです。
みんなそれを半ば怪しいとおもいながらも、疑わしきは罰せずの気持ちで乗っかっているうちに、ウソがマコトになっていく。
なにせ能勢の安徳天皇の陵墓は、いまもていねいに守られてるといいます。
ぼくは生存説に関しては懐疑的な立場ですが、先人たちの安徳天皇愛についてはホンモノだとおもっています。
クリスマスのメッセージをありがとうございました。
師走はやはりあわただしいですね。
あした以降、年末年始はネットをしている時間がありませんので、これで年の瀬のあいさつに代えさせていただきます。
ギズモさんにおかれましても、よいお年をお迎えください。
早く指のケガが治りますように。
祖母が徳島出身であることを知ったのは、最近のことです。
きっかけは子供のころ、祖母がお正月になるといつもおはぎをつくってくれた記憶でした。
これがもち米とうるち米を混ぜて炊いた「半殺し」というもので、一般的なおはぎと比べるとすこし変わっています。
子供のころはなにも気にせず食べていました。
数年前に、あれは徳島の郷土料理だと父が話したことで、ぼくははじめて祖母が徳島出身だったことを知ったんです。
このおはぎは徳島県那賀町が有名なんだそうですが、祖母が徳島のどこ出身なのかはよくわかりません。
つるぎ山は那賀町の北端からつるぎ町にかかっている標高約2000mの山なんだそうですね。
調べてみたんですが、剣山は近世に入ってから修験者の集まる霊峰になったようです。
現在では寺社があり、剣山大権現がまつられているそうですが、修験者が集まるまでは社殿もなにもありませんでした。
修験者が集まるようになったものの、この参道が非常に厳しいものだったため、宿泊施設を兼ねた寺ができたそうです。
そのお寺のうち、円福寺の史料に、安徳天皇と草薙の剣の縁起が残っています。
つまり江戸時代末期になって、安徳天皇と剣山が結びつけられたんですね。
山の呼び方が「けんざん」「つるぎやま」など近代になるまで安定しなかったのは、「剣山」という名称そのものが比較的あたらしいものだからでしょう。
もし修験者によって剣山という名前がつけられていなければ、いまも太郎笈と呼ばれていたかもしれません。
ギズモさんのおっしゃったように、徳島県に平氏の落人が住み着いた話とこの件は無関係ではないとおもいます。
徳島県祖谷地方に平国盛(平教経)が落ち延びて、その地を平定。
その後現在の美馬市のすこし東側にある吉野川市あたりに、おなじく落ち延びていた安徳天皇がおられ、お迎えしたとあります。
しかしこれは、後世につくられた伝説のようです。
ほんとうの落人もいました。
堀川内記という、朝廷で安徳天皇のお付きの医者をしていた男がいて、実際に平家滅亡後に祖谷地方に落ち延びて、医業と神官を兼ねながら暮らしていたというのです。
この堀川内記の子孫の家が、いま平家屋敷民俗資料館になっています。
そう考えると、堀川内記がきっかけで話に尾ひれがついて、平家の落人の伝説がまことしやかにふくらんでいった。
剣山も、もともと江戸時代の『異本阿波史』という本に「神宝の霊剣を納めている」という記述があったようです。
それが、修験者の山として剣山がひらかれるにあたって、安徳天皇と草薙の剣という脚色が加わったのでしょう。
安徳天皇が逃げ延びたという伝説は、西日本を中心として全国に残っていますね。
ぼくの知っているところだと、大阪の最北部に能勢という町があります。
ここは大阪といっても田舎です。
東京だと檜原村に近い風情のようにおもえます。
妙見信仰の総本山があることから、「能勢の妙見さん(妙見山)」として有名です。
この能勢に、野間という地域があります。
樹齢千年以上の大ケヤキが観光資源となっていて、ぼくも行ったことがありますが、じつに立派なものです。
ここで江戸時代、ある屋敷の屋根を修繕していた職人が、天井裏の柱に竹筒がくくりつけられているのを発見しました。
1817年といいますから、江戸から明治に切り替わるほぼ半世紀前です。
中に入っていたのは書簡で、藩に届けられ、当時の役人がこれを苦労して解読しました。
するとどうやら大昔に、藤原経房という男が息子にあてた遺書であることがわかります。
なんとそこには経房が壇ノ浦で二位尼に請われて、安徳天皇を預かって逃げ延びて、能勢の地にたどりついたこと。
そして安徳天皇はその1年後に崩御したが、じぶんは陵墓を守るためにその地に残ったことが記されていたというのです。
この書簡の内容は幕府にも伝えられ、当時の江戸や上方を駆け巡るニュースになりました。
しかしこの文書にはいろいろと矛盾点があり、真偽のほどは怪しいといわれています。
写本はいまも残っているのですが、明治時代には原本も紛失したそうで、真贋の細かい部分を調べることもできなくなっています。
ところで、個人的には安徳天皇生存説には信憑性がないとおもっています。
夢がないとおもわれるかもしれませんが、やっぱり感覚的にそうおもわざるを得ないんです。
というのも、平徳子はおなじ船のうえで、安徳天皇と二位尼が入水するところを目の当たりにしていたわけでしょう。
それを見届けて、みずからも入水。
ところが源氏方に助けられてしまいます。
もし安徳天皇が逃げたと知っていたら、徳子は入水できたでしょうか。
6歳の子を置いて、母親は死ねるだろうか、というのが最初の疑問点です。
次に、徳子が助けられたあと、安徳天皇は死んだと割り切って、生きているかもしれないのにその菩提を弔い、世を捨てることができるでしょうか。
もし安徳天皇が生きている可能性があるなら、寂光院に入寺することもなく、平家の再興のために、なにかアクションを起こしたとおもうのです。
入水した安徳天皇は替え玉だった、という話もあります。
しかしおなじ船に乗っていて、我が子がいつの間にか脱出していて、入水する安徳天皇が替え玉であることに徳子も女房たちも気づかなかった、というのはさすがにあり得ないでしょう。
それに当時の人々も、安徳天皇が生きていたなんてうかつなことを、書き残したり、伝承したりはできないはずなんです。
その時代に生きた人たちにとっては「うかつなことを言えば殺される」わけですから。
ちょっと話が変わりますが、丹後地方には明智たま(細川ガラシャ)という人がいました。
(彼女も日本史上有数の悲劇のヒロインです)
明智光秀の娘で、同盟相手の細川忠興(丹後田辺藩)の妻になるんです。
しかしそれから約4年後、光秀が謀反を起こして、信長を討ってしまいました。
そのあと、秀吉が光秀を討伐するのは、よく知られた歴史ですね。
嫁いだとはいえ逆賊の光秀の娘ですから、秀吉に殺せと言われる可能性があります。
そこでたまは夫の忠興によって秘境へ移され、行方不明であるとして、2年ほど幽閉されるんです。
この隠棲地については、丹波の山の中の「三戸野」だったという記述が残っています。
後世『細川ガラシア夫人』という戯曲を書いたドイツ人が、丹後の「味土野」に行って、これがガラシャの隠棲地にちがいないといいました。
それでいま味土野はガラシャ隠棲の地として観光地化しています。
ところが最近、「三戸野」は丹後ではなくて、もっと南の京丹波町の水戸のことを指すのではないか、という調査が出たんです。
京丹波町にはむかし「三戸野峠」と呼ばれた峠もあったそうで、こうなるとがぜん信憑性が高まります。
ガラシャの隠棲地がごっそり入れ替わるような話です。
ところが、この「三戸野」という情報すら、じつは江戸時代に書かれた軍記ものである『明智軍記』という、あまり信憑性のない書物からきているといわれています。
元ネタの信憑性が薄いわけですから、もう細川ガラシャ隠棲地は、まったくわからなくなってしまうんです。
当時そこに住んでいた人だって、ここにはお姫さんが暮らしていた、なんて絶対に言わないし、書き残すようなことはしません。
そんなことをしたらその地にどんな災いをもたらすかわかりません。
そのようなことを踏まえると、やはり生存説が出てくること自体、緊張感が薄いようにおもえるんです(笑)
しかし、安徳天皇生存説を各地の人がつくった気持ちはよくわかります。
平家物語でかわいそうな死に方をした安徳天皇のエピソードを聞いて、なんとか生きていたという物語にならないものか、とおもった人は、全国各地にいたことでしょう。
それで、たいていの人は物語と現実の区別がついているのだけど、中にはその分別を踏み越えて、ほんとうにあたらしい物語をつくってしまうタイプの人がいるわけです。
みんなそれを半ば怪しいとおもいながらも、疑わしきは罰せずの気持ちで乗っかっているうちに、ウソがマコトになっていく。
なにせ能勢の安徳天皇の陵墓は、いまもていねいに守られてるといいます。
ぼくは生存説に関しては懐疑的な立場ですが、先人たちの安徳天皇愛についてはホンモノだとおもっています。
クリスマスのメッセージをありがとうございました。
師走はやはりあわただしいですね。
あした以降、年末年始はネットをしている時間がありませんので、これで年の瀬のあいさつに代えさせていただきます。
ギズモさんにおかれましても、よいお年をお迎えください。
早く指のケガが治りますように。