2025年5月21日の投稿[2件]
7世代というと、15歳くらいから子供を生んでいたむかしのサイクルでいえばだいたい100~150年くらい先ですね。
人間の一生の向こう側ということになるでしょうか。
日本でもむかしは、じぶんが死んだ後もその地域に住まう子孫ために、山の木を植樹したといいます。
山の木々は主伐して収穫するときにはじめて「儲け」が出ます。
それまでの間は、込み合った木々を間引く間伐をしたり、材木としての質を高めるために枝打ちをしたりします。
そういった作業から出た木々は、日々の煮炊きや風呂の薪として利用されました。
木々を育てるということが、暮らしそのものに直結していたんですね。
しかし主伐をした後に植樹をしても、じぶんが生きている間には収穫できませんし、儲けどころか出費と手間がかかります。
いまだけよければよい、じぶんの人生の間だけよければよい、というのであれば、植樹をせずに山を丸裸にするだけで放っておけばいいんですが、先人たちはそうしませんでした。
むかしの人々は、じぶんの暮らしが何百年先も変わらないということを確信していたからです。
資本主義や自由主義はこの、植樹をせずに山を丸裸にするだけで放っておいてしまう、ということを平気でやってしまいます。
なにせ基準が「お金がじぶんのポケットに入ってくるかどうか」「いまじぶんが豊かでいられるかどうか」だけなので、当然7世代先のことなんてほとんど考えていません。
子孫が苦しむかどうかより、いまじぶんが豊かであること、じぶんのポケットにお金が入ってくることのほうがよほど大事だという考え方です。
当然そんな調子だと、いずれどこかで子孫が破滅的な苦しみに見舞われることでしょう。
こういった、いまだけよければいいという困った問題を、将来の人間が克服できるかどうか。
少なくとも資本主義、自由主義ではもう「克服できなかった」という答えが出てしまっています。
が、たとえばAIに助けてもらう形であったり、あたらしい秩序の下でなら、再生できるでしょうか。
この再生は、地球のエネルギーが完全に枯渇したり、温暖化でどうしようもなくなったり、核戦争、あるいはそれらが複合的に噛み合わさった結果、強制的に起こるイベントかもしれません。
あるいは人類みずから立ち上がって、永続的な文明維持のために自発的・協力的に行うイベントとなる可能性もあります。
願わくば後者であってほしいとおもうのですが、おそらくこの逼迫した状況は、ぼくが生きている間はまだ起こらないようにおもえます。
しかしその決断のときを生きる世代は、前者・後者どちらのイベントにせよ、いったん江戸時代に近いところまで生活レベルを落とすことになります。
じぶんの寿命を10年以上差し出して、さらにこれまで文明がもたらしてくれた自由をあらかた捨て去る覚悟が必要になることでしょう。
心霊写真ですが、もう20年も前のことで、携帯も手元にはないので、写真自体もないとおもいます。
心霊ということでふとおもいだしたのですが、まだブログがほとんどなかったようなころ、あるホームページにこんなことが書かれてありました。
以下、一度お話ししたような気もしますし、そのときと話が多少変わっているかもしれませんが、記憶違いがあったとしてもそのままお話しします。
愛する人と死に別れて、その人が火葬されて、その水蒸気が雲になりました。
その雲が雨となり、山を伝い、川を流れ、海へ流れ、また水蒸気となり、山を伝い、川を流れ、海へ流れ、また水蒸気となり……。
その人はその循環について考えているうちに、じぶんの手元にあるコップの水にも愛する人がいるような気がしてきました。
そこで、じぶんの飲み水の中にその人の水蒸気のかけらが、どれくらい入っているかを、計算したのです。
その計算のやり方がどういうものだったか、まったく覚えてないんですが、まさか人ひとりが死んだくらいの水蒸気がコップ一杯の水に混じることなんてないだろうとおもったら、数字のうえでは、ほんの少し混じるんだそうです。
それは、まったくないというわけにはいかないくらい、はっきりした数値として、コップの中に含まれている。
ぼくは若いときにその話を読んで、なにか得体のしれない感動を覚えたのですが、ブックマークするのを忘れていました。
そしてあれからいくら探しても検索できないまま、いまに至ります。
心霊という精神現象は、このコップの中に含まれた愛する人のような、ぼんやりとはかないものだろうとおもうのですが、そうするとあのときWさんの横にいた顔のようなはっきりした形のものは、なんだか露骨すぎるというか、主張が強すぎますね(笑)
和菓子の水無月は京都だと非常にポピュラーなんですが、あれは単純だからこそむずかしいようで、ういろうがボソボソ、小豆も塩梅がいい加減、といったようなものが多いですね。
元をたどればそれぞれの家でつくっていた素朴なお菓子ですから、上出来なものを期待しすぎると気の毒ではあるんですが(笑)
しかし小豆はまだともかく、ういろうは美味しいものだともっちりとして歯ごたえがあって、こんなにおいしいものがあるのかとおもえるものです。
あのもちもちと歯ごたえのバランスをとるのはむずかしいのでしょう。
スーパーのういろうを買っても、これといった感動がありません。
三重県のご当地品、もう伊勢で暮らしていたころから30年近く経っていますから、ぼくも知らないものが多かったです。
おかげ犬もはじめて知りました。
あおさは有名ですし、美味しいのですが、当時からまあまあいい値段でした。
伊勢では日常の贈り物にすると喜ばれるものといった印象です。
伊勢の局地的な珍味なんですが、「さめたれ」という、サメの肉をたれに浸けた加工品があります。
お酒のアテにちょうどよくて、なかなかおいしいのですが、伊勢から離れるととんとみかけません。
あとは、手こね寿司といって、薄切りにしてたれに浸けたカツオを乗せたちらし寿司があって、これもポピュラーでした。
これらは当時、スーパーでも当たり前に売っていました。
ところでわたくしごとですが、先日献血に行き、血液検査の結果が出ました。
脂質制限をしていますが、たしかにコレステロール値は下がっていました。
210あたりをうろうろしていたのが、180と目にみえる形で下がっており、それ以外の項目はいつもとおなじ。
総コレステロール値には血中の中性脂肪も含まれているので、この調子で脂質制限を続けて、低めのコレステロール値を維持していくつもりです。
人間の一生の向こう側ということになるでしょうか。
日本でもむかしは、じぶんが死んだ後もその地域に住まう子孫ために、山の木を植樹したといいます。
山の木々は主伐して収穫するときにはじめて「儲け」が出ます。
それまでの間は、込み合った木々を間引く間伐をしたり、材木としての質を高めるために枝打ちをしたりします。
そういった作業から出た木々は、日々の煮炊きや風呂の薪として利用されました。
木々を育てるということが、暮らしそのものに直結していたんですね。
しかし主伐をした後に植樹をしても、じぶんが生きている間には収穫できませんし、儲けどころか出費と手間がかかります。
いまだけよければよい、じぶんの人生の間だけよければよい、というのであれば、植樹をせずに山を丸裸にするだけで放っておけばいいんですが、先人たちはそうしませんでした。
むかしの人々は、じぶんの暮らしが何百年先も変わらないということを確信していたからです。
資本主義や自由主義はこの、植樹をせずに山を丸裸にするだけで放っておいてしまう、ということを平気でやってしまいます。
なにせ基準が「お金がじぶんのポケットに入ってくるかどうか」「いまじぶんが豊かでいられるかどうか」だけなので、当然7世代先のことなんてほとんど考えていません。
子孫が苦しむかどうかより、いまじぶんが豊かであること、じぶんのポケットにお金が入ってくることのほうがよほど大事だという考え方です。
当然そんな調子だと、いずれどこかで子孫が破滅的な苦しみに見舞われることでしょう。
こういった、いまだけよければいいという困った問題を、将来の人間が克服できるかどうか。
少なくとも資本主義、自由主義ではもう「克服できなかった」という答えが出てしまっています。
が、たとえばAIに助けてもらう形であったり、あたらしい秩序の下でなら、再生できるでしょうか。
この再生は、地球のエネルギーが完全に枯渇したり、温暖化でどうしようもなくなったり、核戦争、あるいはそれらが複合的に噛み合わさった結果、強制的に起こるイベントかもしれません。
あるいは人類みずから立ち上がって、永続的な文明維持のために自発的・協力的に行うイベントとなる可能性もあります。
願わくば後者であってほしいとおもうのですが、おそらくこの逼迫した状況は、ぼくが生きている間はまだ起こらないようにおもえます。
しかしその決断のときを生きる世代は、前者・後者どちらのイベントにせよ、いったん江戸時代に近いところまで生活レベルを落とすことになります。
じぶんの寿命を10年以上差し出して、さらにこれまで文明がもたらしてくれた自由をあらかた捨て去る覚悟が必要になることでしょう。
心霊写真ですが、もう20年も前のことで、携帯も手元にはないので、写真自体もないとおもいます。
心霊ということでふとおもいだしたのですが、まだブログがほとんどなかったようなころ、あるホームページにこんなことが書かれてありました。
以下、一度お話ししたような気もしますし、そのときと話が多少変わっているかもしれませんが、記憶違いがあったとしてもそのままお話しします。
愛する人と死に別れて、その人が火葬されて、その水蒸気が雲になりました。
その雲が雨となり、山を伝い、川を流れ、海へ流れ、また水蒸気となり、山を伝い、川を流れ、海へ流れ、また水蒸気となり……。
その人はその循環について考えているうちに、じぶんの手元にあるコップの水にも愛する人がいるような気がしてきました。
そこで、じぶんの飲み水の中にその人の水蒸気のかけらが、どれくらい入っているかを、計算したのです。
その計算のやり方がどういうものだったか、まったく覚えてないんですが、まさか人ひとりが死んだくらいの水蒸気がコップ一杯の水に混じることなんてないだろうとおもったら、数字のうえでは、ほんの少し混じるんだそうです。
それは、まったくないというわけにはいかないくらい、はっきりした数値として、コップの中に含まれている。
ぼくは若いときにその話を読んで、なにか得体のしれない感動を覚えたのですが、ブックマークするのを忘れていました。
そしてあれからいくら探しても検索できないまま、いまに至ります。
心霊という精神現象は、このコップの中に含まれた愛する人のような、ぼんやりとはかないものだろうとおもうのですが、そうするとあのときWさんの横にいた顔のようなはっきりした形のものは、なんだか露骨すぎるというか、主張が強すぎますね(笑)
和菓子の水無月は京都だと非常にポピュラーなんですが、あれは単純だからこそむずかしいようで、ういろうがボソボソ、小豆も塩梅がいい加減、といったようなものが多いですね。
元をたどればそれぞれの家でつくっていた素朴なお菓子ですから、上出来なものを期待しすぎると気の毒ではあるんですが(笑)
しかし小豆はまだともかく、ういろうは美味しいものだともっちりとして歯ごたえがあって、こんなにおいしいものがあるのかとおもえるものです。
あのもちもちと歯ごたえのバランスをとるのはむずかしいのでしょう。
スーパーのういろうを買っても、これといった感動がありません。
三重県のご当地品、もう伊勢で暮らしていたころから30年近く経っていますから、ぼくも知らないものが多かったです。
おかげ犬もはじめて知りました。
あおさは有名ですし、美味しいのですが、当時からまあまあいい値段でした。
伊勢では日常の贈り物にすると喜ばれるものといった印象です。
伊勢の局地的な珍味なんですが、「さめたれ」という、サメの肉をたれに浸けた加工品があります。
お酒のアテにちょうどよくて、なかなかおいしいのですが、伊勢から離れるととんとみかけません。
あとは、手こね寿司といって、薄切りにしてたれに浸けたカツオを乗せたちらし寿司があって、これもポピュラーでした。
これらは当時、スーパーでも当たり前に売っていました。
ところでわたくしごとですが、先日献血に行き、血液検査の結果が出ました。
脂質制限をしていますが、たしかにコレステロール値は下がっていました。
210あたりをうろうろしていたのが、180と目にみえる形で下がっており、それ以外の項目はいつもとおなじ。
総コレステロール値には血中の中性脂肪も含まれているので、この調子で脂質制限を続けて、低めのコレステロール値を維持していくつもりです。
