山麓王国

2025年6月21日の投稿1件]

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今回もお時間をいただきました。

いそがしくやってたんですが、あともう少しで自治会・畑とも仕事が落ち着くというタイミングで、油断して今週は風邪をひいてしまいました。

風邪の症状が出てからあわてて対策をしたのですが、ちゃんと対策するとはやく治るものですね。

喉の痛みが出始めていたのでアズノールでのうがい。

鼻の症状もあったので塩水での鼻うがいを徹底。

朝昼に銀翹散、夜は葛根湯、これを二日で、ほぼ軽快しました。

漢方とあなどるなかれ、ほんとうによく効きます。

喉と鼻の症状はうがいのおかげでほとんどなくなりました。
二日目に熱が上がりましたが、それも1日だけでした。

翌日には熱も下がり、喉と鼻の症状も軽快。

無対策だったらいまごろ風邪の症状がひどくなって倒れ込んでいたとおもいます。



ギズモさんもたいへんでしたね。

機材のトラブルもそうですが、やはり喉のケアはむずかしいですね。

喉が乾燥しないようにするといっても、なかなかふだんからケアを徹底するのはむずかしいです。

ミュージシャンはほんとうに喉を大事にしていますが、ここぞというときに酷使するためのメンテナンスという意味では、いくら気を付けても足りないくらいなのでしょう。



今回は以下、ずっと思考と錯覚の話で、なんだかとりとめのない話になってしまいました。

すみません。

ギズモさんのおっしゃった思考の話ですが、われわれの肉体は常になにかを錯覚しているんですよね。

たとえば人間の体は、神経の多く通る場所と、神経の少ない場所では、感覚の鋭さがまったく違うのだといいます。

手のように神経の多いところだと、二本の針で突っついたときに、二本の距離がかなり狭くても、二本だとわかるのだそうです。

ところが背中のように神経の少ないところだと、かなり広く二点をとらないと、二点を同時に突っつかれても一点で突っつかれたようにしか感じられないのだといいます。

こういう錯覚が、いろんなところで起こります。



がんは細胞のエラーですが、がんが増殖して痛みが発生しても、脳はじぶんの肉体が正常であるとおもっています。

脳の意志に反して、肉体側ではエラー細胞が増殖してしまうんですね。

脳はもっと生きていよう、がんよ治ってくれと考えるんですが、肉体はどんどんエラーが増えて、死に向かっていく。

肉体で起こっている実際を、脳がうまく認知できないというのも、錯覚のひとつでしょう。



ほかにも痛風は、針状の尿酸結晶が関節にとりつくんですが、尿酸結晶自体は本来わるさをするようなものではないそうです。

ところが関節にとりついた尿酸結晶を免疫細胞が敵と勘違いして、攻撃し始める。

この攻撃によって炎症が起こり、痛みが生じるのだそうです。

同様の病気に膠原病がありますが、肉体内の細胞も錯覚を起こすことがあるんですね。

いくら頭で病態を理解して、「尿酸結晶は敵じゃないから免疫細胞はおとなしくしてくれ」となだめたところで、肉体は脳から発する意志をきいてはくれません。

じぶんの肉体や細胞ですらこうなのですから、肉体を離れた外側を脳がどう認知するか、ということに関しては、誤解と錯覚であふれかえっている、といってもよさそうです。



ギズモさんの意識に紛れ込んできた思考Bについては、一般的には白昼夢といわれるものだとおもいます。

白昼夢はそれこそ意識による意識の錯覚のようなものですが、人類にはむかしから、明確な意識とはまた別個の意識が存在しました。

ただこれはふだんは隠れていて、表に出てくるのはめずらしいことです。

めずらしい現象だけど、人間を生きていると経験することがある。だから先人はわざわざ白昼夢という言葉をつくったのでしょう。



以前もお話ししましたが、多重人格という病態があります。

この場合は、ギズモさんのおっしゃる思考Bが、ギズモさんの主たる意識である思考Aを乗っ取って、独立してしまいます。

そして、思考Aと思考B、場合によっては思考CやDが現れて、交互に入れ替わる。

これは病的な白昼夢状態と言い換えられるかもしれません。



しかしこの複数の意識は、健全なかたちであれば、たとえば家族に対してはタメ口で、他人に対しては敬語でしゃべるというような、まっとうな分別としてあらわれるんです。

もうすこし突っ込んだことをいうと、人類……ホモサピエンスがあらゆる霊長類より上位の存在になり得たのは、ウソをつくことができたからだといいます。

ウソとは、複数の意識を巧妙に使い分けるということでしょう。



人間はこの世で唯一ウソをつける存在です。

人間同士でも、より上手にウソをつける個体が、上位の存在になります。

たとえば政治家はできるかどうかもわからない理想(ウソ)を自信たっぷりに、臆面もなく人前で拡声器をつかいながら話すでしょう。

ホンネがわからないのに、ウソを堂々とつき通すところに、聞いているわれわれはなぜか「たのもしさ」を感じてしまったりします。



世界にあまねく神話も、白昼夢の延長線のようなものですね。

現実と非現実が入り乱れて、歴史の中にフィクションが紛れ込み、それらが神話・教義という形で虚実入り乱れて融合していきます。

人間が現実社会を生きるための規範と、ウソの物語が交雑するのです。

そういう意味では、ウソの中に神々が潜んでいる、ともいえるかもしれません。

ギズモさんに起こった意識の割り込みが、予知夢やパラレルワールドといった、どこかスピリチュアルな、第六感めいたことのように感じられたのも、自然なことだとおもいます。

たとえばシャーマンは、こういった意識の割り込みを意図的におこなえる……すくなくともそういう建前でやっていたわけです。

古くは全世界的にシャーマンの風習があったわけですし、こういったことは科学で解明できるようなものでもありませんから、いろいろな予測が成り立ち得ますよね。



ところで、ここからだんだん話がおかしな方向へいくんですが、神とはわれわれが理解できない存在……というか、理解できたら神じゃないんだそうです。

だから、たとえば経典であるとか神の肖像画というのは、あたかも神を描いているようですが、理解できるようになっているということは、実際は人間がつくりあげたものであり、ほんとうの神ではありません。

人間が神の思し召しを理解しようと努力した結果、経典や宗教芸術が生まれたといえます。

本来の神とは、人智の向こう側にあります。

どんなに科学が進歩しても、人間がなにをどうしようとも、理解のしようがない、あきらめるしかないところに神があると考えるべきかもしれません。

この人智を越えた存在の片鱗に触れたときの人間の態度は、「畏怖」「畏敬」などと表現します。

ギズモさんの意識に割り込んできた思考Bに、人間が抱えているよくわからないものを感じて、ふと畏れのような感覚が起こったとしたら、それは人間としてただしい態度だとおもいます。



科学は絶対的正しさをよりどころとしていますが、それこそ不遜で畏れ知らずですから、思考Bを実験・分析的なアプローチで解き明かそうとします。

神学の場合は、教義に反することのないように問題を克服しようと試みますよね。

神学はその点でどうしても科学にはなりきれませんが、解明しきれない問題に畏れの念をもっていた時代の人々のほうが、現代人よりは「持続可能な暮らしをしていた」と感じるのはぼくだけでしょうか。



では神学者でもなく、科学者でもないわれわれ凡百の人間はどうすべきかというと、こういったことには答えを見いだすべきではないのかもしれません(笑)

思考Bがたまたまじぶんの意識にまぎれこんできても、どうにも人間には推しはかることのできない要素があるようにおもえる。これはじつに畏れ多いことだ。

……という態度で受け流すのが、じつはわれわれにできるもっとも知的な態度のような気がするのです。

つまり、ソクラテスの言ったところの「無知の知」ですね。



ギズモさんのお父さんが天井を指さしてたずねた件も、これを解き明かすのはほんとうにむずかしいことです。

幼児が部屋の片隅を指さして「あれ誰?」と問うことがあるといいますが、いつか科学がこの現象の原因を解き明かすかもしれません。

しかしそれまでは、どこかそういった現象に畏れの念を感じながら、創造主のやることはようわからん、と受け流そうとおもっています(笑)

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