山麓王国

2025年9月21日の投稿1件]

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すみません。個人的な話なんですが、今回から、一人称を「ぼく」から「わたし」に変更しようとおもいます。

年齢的なこともあるんですが、ことし自治会長をやるようになってから、公的な立場が求められる局面が増えました。

しかしなかなか一度癖づいた「ぼく」という一人称はなかなか抜けず、どうにもこのところ、違和感をおぼえることが多かったのです。

それで、これはトレーニングしていかないととおもった次第で、すみませんがお付き合いください(笑)



東日本大震災では、特に関東から東北の方々にとっては、ほんとうに長い期間トラウマが残る大災害ですね。

14年経ちましたが、どこか過去形にできない感覚があります。

わたしは当時買い物に出ていました。

関西も揺れたらしいんですが、そのときは気づかず、家に帰ってテレビでたいへんなことになったと知りました。

夜、気仙沼全域が真っ赤に燃えている映像をみて、この世の地獄をみたような、どうにもならない暗澹たる気分にとらわれたのがいまだに忘れられません。

テレビでみているだけでこれですから、被災当事者の苦難と心労はとても想像が及びません。

「しばらくの間は服を着たまま寝ていました」とのこと、決して大げさな反応ではないとおもいます。

むかし阪神淡路大震災があったとき、桂文珍という落語家は、いつ地震が起こってもすぐ逃げられるように、トレーラーハウスを買って数年間暮らしたそうです。

客観的にみれば、さすがにやりすぎのようにもおもえますし、奥さんやご家族はトレーラーハウスではなにかと不便なので、ふつうに家で暮らしたそうです。

文珍さんも数年するとさすがに冷静になり、家で暮らすようになったそうですが、被災当事者の強烈なパニックと不安感を考えると、決して極端な反応でもないのだとおもいます。



軍上層部の食事の件ですが、司馬さんは学徒動員で軍人になったとき、軍隊では上意下達さえ守っていれば思想教育もなく、ちゃんとした飯が三食食べられるし、一般人よりよほどよい暮らしができたと言っていました。

もちろん命をかけて死地に赴くわけですが、少なくとも生活面では保障があって、台風の目のような場所だったのでしょう。

むしろ一般人のほうがたいへんで、大人が子供たちに虐待じみた思想教育を行い、まともな食料供給もなく、しかも結果的に戦争に負けるわけです。

子供たちは愛国心をあおるだけあおられたあげく、はしごを外されました。

司馬さんより10ほど離れた子供たちが、じつは戦中戦後のいちばんの被害者だったといいます。



今回、仏教、あるいは宗教についてだけで、かなり長い話になってしまいました。

本質に注目するあまり、みもふたもない救いのない話なので、不快な印象を与えてしまうかもしれません。

あくまで個人的な見解として、ご理解いただけると幸いです。



ギズモさんのおっしゃる現世の救い、死後の救い(現当二世の救い)ということなんですが、宗教において救済の基礎となるのは称名を唱えることですね。

浄土真宗に限らず、称名を唱えるという行為は全世界共通のものです。

キリスト教では祭礼の際に「アーメン」といいます。

あれは意味としては「そのとおり」なんだそうですが、語源をたどっていくと、古代エジプトのアメン神にたどりつくといいます。

またハレルヤという言葉も、「ヤハウェ(ユダヤ教の絶対神)をたたえよ」という意味だそうですね。

加えて英語圏での「ジーザス」とか「オーマイゴッド」など、これらはむかしの日本だと「ナマンダブ(南無阿弥陀仏)」にあたる言葉でしょう。

さすがにわたしの時代では目にしたことはありませんが、日本のむかしのお年寄りは、驚いたり感動したりすると、なにかにつけて「ナマンダブナマンダブ……」と唱えたようです。

戦後、宗教意識の薄れた日本では、日常的に称名を唱える風習そのものがなくなりました。

西洋でも神を直接たたえるニュアンスを避ける人もいて、そういう人は「オーマイゴッド」のかわりに「オーマイグッドネス」なんていうそうですね。



個人が称名を唱えるのは救いを求めてのことでしょうが、組織としては人々がおなじ神仏を尊崇することで結託し、そのコミュニティの中で生きていこうとすることが目的でした。

ときにこの結託は、国家と肩を並べ、あるいは国家を凌駕することもあるほどの脅威となります。

救済とは、宗教組織が設定した後付けの理屈でした。

わるい言い方をすれば救済とは、信仰によるコミュニティを維持するために、馬の鼻面の先にぶら下げたニンジンのようなものです。

もちろん宗教者が衆生をだまそうとしたわけではないのですが、信仰することでなにか直接的ないいことがあるといわなければ、民衆はなかなかついてきてくれませんでした。



日本の仏教説話だと、もう何度も紹介した気がするのですが、俊徳丸伝説が代表的です。

現在の大阪府八尾市高安のあたりにあった長者の息子の俊徳丸は、見目麗しくかしこい子でしたが、継母にいじめられたあげく呪われて業病にかかります。

すっかり容貌の変わった俊徳丸はそのまま家を追い出されて、西へさまよい四天王寺領内で乞食をすることになります。

一年も経ったころ、高安の隣村の長者の、許嫁の娘がやってきました。

彼女はむかし、おさない俊徳丸が四天王寺の稚児舞楽に参加していたのをみてから相思相愛の関係になったのでした。

娘は容姿の変わったこの男が俊徳丸だと一目で気づきます。

そしてお互いひとしきり涙をこぼすと、ふたり一緒に四天王寺にまつられている観音菩薩にお祈りを捧げました。

そうすると不思議なことに継母の呪いが解け、俊徳丸の業病がたちどころに治癒したのです。

ありがたい功徳に感謝して高安へ帰ると、俊徳丸の父は亡くなっており、家は没落、継母は乞食同然の暮らしをしていました。

俊徳丸は許嫁の娘と結婚し、娘の家の後継ぎとなり、長者となりましたとさ……。



この話では、日本最古の本格仏教寺院である四天王寺の観音菩薩にお祈りをすると、現実的な救済があるという物語になっています。

こういった話は、本格的に仏教が大衆に広まり始めた鎌倉時代あたりから、僧侶たちが各村々で話し聞かせたものといわれています。

人々は「仏さまを拝めばわかりやすい現世利益が訪れる」という利益誘導を喜びました。

原理的な小難しい理屈を言ったって、大衆はさっぱり理解してくれないのです。



しばらく話がそれます。

前回、大衆に仏教が広まったのは鎌倉時代からだといいました。

しかし仏教の布教と、民衆の統率の試みは奈良時代にも行われていたのです。

こういった大衆への布教の元祖は行基(668~749)でした。

かれは民衆への布教が禁止されていた西暦700年ごろに、朝廷のいうことをきかず民衆に仏教の功徳を説き、地域に橋をかけたり道をつくったり、民衆の自立をうながしました。

行基の生没年は、空海の生没年からほぼ一世紀前です。

このころは奈良仏教、南都六宗が隆盛を極めており、行基は玄奘三蔵(602~664)の教えをもとにした法相宗という、当時はまだあたらしい宗派に属していました。

玄奘が亡くなってすぐ行基が生まれた、というくらい近い年代の人ですから、いまでいう仏教系の新興宗教のようなものですね。

この行基の活動が政治的に無視できないほど大きな反響を呼んだのです。



はじめ朝廷は行基を反逆者とみなし弾圧しました。

朝廷にとって、行基の行動は民衆を団結させ、民衆に自治を行わせるという点で、きわめて危険だったのです。

しかし民衆と積極的にかかわり、絶大な信頼を得ている点で政治に利用できるとわかると、朝廷はにわかに行基を持ち上げました。

朝廷が民衆のリーダーである行基を取り込むことで、クーデターを抑え込んだとも考えられます。



行基の生きた時代は、ちょうど三世一身法の時代でした。

つまりあたらしい土地を開墾したら、三世代の間だけは所有権を認めてやるという制度です。

ようするに当時の朝廷は仏教の独占に限らず、なにかにつけておそろしくケチでした(笑)

利己的で独占欲の強い朝廷に対して、行基は徹底して利他行をおこない、民衆の暮らしをよくしようと努力します。

三世一身法については結局、民衆の労働意欲が落ちてどうしようもなくなったので、朝廷側が譲歩して、わずか20年後には墾田永年私財法として、開墾した土地はいつまでも民の所有物と認める、としました。

行基が亡くなったのは墾田永年私財法ができてから6年後でしたが、このような革新的な制度が比較的短期間に成立したのは、当時の仏教勢力がそれだけ政権の脅威となっていたことを物語っています。

行基の死後、朝廷は手のひらを返し、やはり大衆への仏教流布は禁じられることとなりました。

しかし墾田永年私財法はその後、関東を開拓した農場主たちがじぶんの土地を守るために武装して、武士の世をつくるきっかけとなります。



行基が亡くなったとき、のちの桓武天皇はまだ12歳。

桓武天皇は都を奈良から京都に移した天皇ですが、行基以来、要求の肥大化した仏教勢力にほとほと手を焼きました。

そのため、都を移してからは南都六宗を遠ざけて、あるあたらしい宗派を優遇するようになります。

それが真言宗(空海)と天台宗(最澄)でした。

ですので、源氏物語で加持祈祷を行っていた僧侶たちは、ギズモさんのおっしゃるように密教だったことでしょう。

仏教勢力の増長によって都が引っ越しまでしなければならなかったのは、単に政治的に結びつきすぎたという話以上に、民衆を結託させ、朝廷の政権を転覆させかねない危うさをもっていたからでした。



こういった歴史をみると、仏教が国家によって独占されていたころから、民衆の仏教需要が高かったことがわかります。

民衆はまとまりのないじぶんたちの暮らしに規律を与え、コミュニティを作ってくれるリーダーを欲していたのでしょう。

それでも長い間、仏教は権力者によって独占されていました。

当時から都を出て全国を行脚する僧侶が各地に寺を建てたりはするのですが、民衆を団結させてコミュニティを形成するリーダーは現れませんでした。

鎌倉時代以降、大衆仏教を広めた開祖たちが、ようやく各地でリーダーシップを発揮し始めたというわけです。



話をもとに戻しますが、民衆はむずかしい理屈がわかりません。

その点、親鸞は極めつけで「南無阿弥陀仏だけ覚えなさい。それ以外はなんにも知らなくて大丈夫だ。それだけ唱えていれば、必ず阿弥陀仏はお前を極楽往生させてくれる」と言いました。

シンプルな教えが民衆にウケたのは言うまでもありません。

あまりに極楽往生のハードルを下げてしまったものだから、どうせ極楽往生できるならと遠慮なく悪事を働く者が出てきたくらいです。

それで親鸞はあらためて「薬があるからといって毒を好んではならぬ」(極楽往生できるからといって、この世で悪事を好むようなことはするな)と戒めなければなりませんでした(笑)

実際に阿弥陀仏が死後の衆生を救ってくれるかどうかはさておき、親鸞は厳しい時代を生きる人々を安心させることには成功したといえるでしょう。

しかし実際の信仰の効能は、先ほどもいったように救済にあるのではありません。

「南無阿弥陀仏」の称名を唱える仲間たちによるコミュニティをつくるところにありました。

これはおなじ思想を持つ同志で結ばれるわけですから、非常に強固な結びつきになります。

現在のように人々が守るべきルールが機能していなかった時代に、仏教の教義は最低限の法律となりました。

この法律に従って暮らしているぶんには、コミュニティの仲間は支えあって生きていられる。

きょう一日の飯を仲間同士で分け与えながら食っていくことができるわけです。

そしてかれらは徐々にじぶんのコミュニティを自立させ、国のような堅牢なものにしていきます。

結果、朝廷が警戒していた事態は、戦国時代に現実のものとなります。



信長が一向宗(浄土真宗)と合戦を行ったのは、一向宗がすでに大名と同等にみなされるほどの力をつけていたからです。

そして本願寺側から信長に戦争を吹っかけ、各地で一向一揆が起こりました。

その間、当然大量の一向宗徒の血が(もちろん信長軍の血も)流れました。

また天台宗の比叡山延暦寺も、信長によって焼き討ちにあいますが、こちらはいよいよ悲惨で、僧兵のみならず、学者から子供までが虐殺されました。



宗教コミュニティが武力を用いて戦争をする、というのは洋の東西を問わずよくあることですが、これではまったく救いがありませんよね。

いくら敬虔に宗教を信じても、戦争になれば人殺しをしなきゃならないかもしれません。

いくら神を信仰しても、理不尽に殺されるときには殺されます。

病気で若く死ぬかもしれないし、俊徳丸のように四天王寺でお祈りをしても報われないかもしれません。

逆に、宗教に背を向けていても幸せに生きることができないとは限らない。

ギリシャ神話にせよ日本神話にせよ、神はもともとは、荒ぶる存在だったようです。

決して救いを与えたりはせず、ただひたすら人間の脅威であり、人々は神々を畏怖し、おまつりして、鎮めなければならなかった。

それがどこかで、目に見える形で救いを与えるような存在へ変貌していくんですね。



ところである仏教学者が言ってましたが、仏教の原理は非常に厳しいもので、甘いことなんて一切言わないというのです(笑)

事実、仏陀は生きることの本質は苦しみだといいましたし、わかりやすい救済はそこにはありません。

以前、般若心経についてお話したときに、般若心経は無と無限をつないだわっかのようなものを説いているといいました。

命はみなこのわっかのひもを端から端へ渡っていきます。

虫も、花も、動物も、生まれたところからひもを渡りはじめ、そして死んだところがひもの終端です。

このひもは、命そのものといえるでしょう。

そしてこのひもの両端は、かたほうが「無」で、かたほうが「無限」になっています。

このひもの端っこをつないでわっかをつくると、無と無限がくっつきますよね。

以前、この話がむずかしいとおっしゃっていたとおもうのですが、今回はこの話をもう少しちがったアプローチで話してみようとおもいます。



わたしたちは死ぬと、実体を失って、無限の宇宙に還ります。

そして同時に、次の命の準備をします。

わたしたちは死んだら無限の一部になりますが、これから命になろうとしているわれわれは、まだ実体のない無です。

無限と無を区別することはむずかしいのですが、実体を失って無限の宇宙に溶け込んだあと、またなにかに生まれることを1とする前提で考えれば、まだなにもないゼロ、無の存在でもあるというわけです。



わたしたちは死んで無限になり、同時に命を目指す無となり、そしていつかまたほんのひと時、形あるなにものかとして、わっか(ひも)を渡ります。

そしてこのわっかの終端までいけば、また無限へ還り、そして命に向かう無をさまよい、いつか時がくれば生まれ、ひもを渡る……ということを繰り返す。

しかし般若心経は、一瞬だけ命を得た実体のあるわれわれでさえ、じつは「存在がある」とおもい込むのは勘違いなんだぞ、ということを言っているのだと解釈しています。



実際わたしたちは動物として必要だから感覚をそなえて生きているけれど、植物の場合は感覚器官がなくても生きていますよね。

人間でも、感覚器官が欠損した状態で生きている人がいます。

たとえば蓮はうつくしい花を咲かせますが、当の蓮には目がないので、じぶんがどのようなうつくしい花を咲かせているか、知ることはできません。

なので、じぶんが命を生きているということと、じぶんが存在しているという感覚を結びつけるのは勘違いだという般若心経はたしかに正しいんです。



しかしこんな感じでいくら仏教の原理を突き詰めたって、だれも得をしませんよね(笑)

仏教の原典を掘り下げていけば、お金ががっぽり手に入る、病気が治る、子宝に恵まれるといったわかりやすいご利益はないわけですから。

むしろそういう期待は、仏教を信仰すればするほど裏切られるといえるでしょう。



その点、やはり仏教の原理は厳しいとおもいます。

しかし、この無常観を基礎として、その上に人生という建物を築いていくのでないと、どこかで建物がぐらぐらしてしまうというか、人生が行き詰ってしまうようにもおもえます。

特に現代のように、じぶんの分限をはるかに超えた豊かさでじゃぶじゃぶになっている場合、その豊かさが剥奪されるだけで、じぶんのはかなさに耐えられなくなることでしょう。

なぜかというと、社会の豊かさは虚飾であるという無常を自覚していないからですね。

豊かな時代であれ、あるいは厳しい時代であれ、われわれはただ生まれた時代の環境に翻弄されるばかりのちっぽけな存在であり、仏陀が考えた四苦八苦のように、苦しみばかりが本質のむなしい存在です。

苦しくむなしい、ひどく頼りない存在であることが自覚できてはじめて、ギズモさんのおっしゃった自利と利他のような規範で、いま生きている間だけでもみんな手を携えていこうじゃないかという、地に足のついた謙虚な一歩が踏み出せるのではないかとおもっています。

それはおそらく、現当二世の救いの第一歩でもあるように感じています。



今回、落語の話などいろいろとお返事したいこともありましたが、仏教の話だけでかなり長くなってしまいましたので、いったんここで筆をおきます。

最後に、大阪の天王寺にある一心寺の存牟堂(ぞんむどう)ミュージアムにあった詩です。

これも以前紹介したかもしれません。

まず自利が満たされなければ、利他が広がっていかないという、人間の業を肯定してくれるメッセージだとおもっています。

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