2025年10月の投稿[3件]
2025年10月25日 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する
今回は牛頭天王についてのアラカルトというか、いろんな話をさせていただこうとおもいます。
わたしもいろいろ調べていくうちに、これまで理解しきれていなかったところの解像度があがって、よい勉強になりました。
しかし今回はかなり厄介な話で、わかりやすく伝えられるかどうか自信がありません。
話が多岐にわたるため、話が行ったり来たりします。
どうか、じっくりと読んでみてください。
ギズモさんは菅原道真など怨霊になった人間を、荒ぶる神としてたてまつる不思議についておっしゃっていましたが、あれは人間のサガなのかもしれませんね。
いまは社会のありようが変わりましたが、むかしはチカラの強い人間が「偉かった」。
いわゆるジャイアンみたいなタイプが、大将になるし、出世しました。
この場合、ジャイアンは荒神で、ジャイアンよりチカラの弱い者は、この荒神をたてまつって、機嫌をとらねばならないわけです。
生きてる人間ですらこうですから、強い恨みを残して死に、偶然そのときに社会に騒乱があれば、この荒ぶる御霊をしずめなければ気が済まない、とむかしの人々は考えました。
荒ぶる神がたてまつってくれと頼んだわけではなくて、むしろ下々の者の気が済まないから、たてまつっているという感じでしょうか(笑)
京の都で疫病が流行ったとき、疫神として祇園社に登場した牛頭天王も、その荒ぶる魂を鎮めるために盛大にまつられました。
しかしこれは仏教における牛頭天王です。
道教においては、牛頭天王は冥界のいち獄卒にすぎませんでした。
今回、牛頭天王を語るにあたってのキーワードは、「密教と道教」です。
奈良国立博物館には、辟邪絵(へきじゃえ)とよばれる、鬼を懲らしめる神を描いた絵が残されています。
この中には天刑星という、その名の通り天の刑罰を与える鬼神が、牛頭天王をはじめとする疫鬼をとらえて食べるという絵があります。
天刑星とは聞きなれない神ですが、道教に由来する神です。
https://emuseum.nich.go.jp/detail?conten...
ギズモさんは牛頭天王を「魔」とおっしゃいましたが、すくなくとも日本の道教における牛頭天王は魔の存在でした。
ところで、牛頭天王は祇園精舎の守り神ということですから、インドや中国で崇敬されていた神だったのかというと、じつは日本で創作された神です。
順序だてて説明しますと、牛頭天王はこのようなかたちで成立しました。
(祇園社での変化)
五道神 → 五頭天王 → 牛頭天王
(蘇民将来の伝説)
武塔神(五道神) = 速須佐雄能神 → 牛頭天王
あえて祇園社と蘇民将来伝説をわけたんですが、起源になるのは五道神という、現代ではほとんど名の知られていない神です。
五道神は、700年ごろに中国に密教が伝来したときに、仏教の五道(天道・人道・餓鬼道・畜生道・地獄道)を守護する神として崇敬されていた神でした。
ところが五道神が道教の中に組み込まれると、冥界(地獄)の役人(大臣)という立場に変化した、という経緯をもちます。
道教というのは不思議な宗教で、仏教とも密接に結びついています。
日本にくると、陰陽道を通じて神道ともつながりました。
極端な言い方かもしれませんが、「ほかの宗教に遠慮なく寄生する民間信仰」といっていいくらいです。
仙人になるだとか、妙な儀式(道術)を好んだりだとか、地獄思想が発達したりだとか、なにかと妙なことばかりしているのです。
以前にお話しした庚申信仰もそうですね。
庚申(かのえさる)の夜に人が眠ると、体内から三尸(さんし)の虫が出てきて、天帝にその人の罪を告げる。
そのため、人々は庚申の日には虫が出てこないように徹夜しなければならないというのです。
荒唐無稽なんですが、これが平安時代あたりから明治大正あたりまではわりと広く信じられていました。
いま出てきた天帝は、道教における最高神で、玉皇大帝といいます。
玉帝と略されたりもします。
あらゆる存在より上位に存在する神、という立場です。
これがじつにふざけた話で、ほかの宗教に遠慮なく寄生しながら、道教自体は最高神を用意して一神教を気取り、天帝には仏も神も皇帝もかなわないというのです(笑)
たとえば西遊記も道教の影響が強く、やはり天帝が登場します。
孫悟空が天界であばれまわり、天帝に向かってその座を譲れと言ったことで、天帝が釈迦如来に孫悟空の退治を依頼する。
それで釈迦如来が孫悟空を五行山に閉じ込めてしまう。
明確に天帝の立場が上とはいわないんですが、それとなく仏教の開祖である釈迦よりも権威的に描かれています。
ようするに道教という民間信仰にかかると、仏教だろうと時の権力者であろうと、ぜんぶ道教色に染められてしまうようなところがあります。
日本では最初から、密教が道教とないまぜになった状態で輸入されました。
そしてそれまで日本にあった仏教も神道も影響を受けてしまうわけです。
しかしこれは余談ですが、多神教の日本では天帝という一神教の設定だけはなかったもののように無視されてしまい、これといって崇められることもありませんでした(笑)
先日、奈良の朝廷が南都六宗から逃げるように、平安京に都を移した、という話をしました。
このとき朝廷が南都六宗のかわりに厚遇したのが、最澄と空海です。
かれらは中国にわたって、当時最先端の仏教宗派だった密教を学びましたが、密教の中で、五道神は秘匿性の高い神という位置づけでした。
つまり、修行者によってのみ信仰されるべき、門外不出の存在だったらしいのです。
民衆に積極的に仏教を教えない時代でもありました。
平安時代には、京都市内で疫病が毎年のように流行します。
863年には「御霊会(ごりょうえ)」が執り行われ、これが祇園祭のきっかけとなりました。
祇園祭で大衆にまつられるにあたって、五道神という名は姿を消し、疫神としての牛頭天王(スサノオ)があらわれます。
つまり祇園祭を開くにあたって、秘匿性の高い五道神を前に出すわけにいかず、べつの神ということにしなければならなかった。
ところで、蘇民将来の伝説ではすでに、五道神こと武塔神が、スサノオと同一だというわけですから、神仏が習合していることがわかります。
しかし、これが調べていくと、非常にややこしい問題でした。
というのも、蘇民将来の伝説が出てくる備後国風土記逸文は、鎌倉時代末期に書かれた『釈日本紀』に出てくるものです。
作者もはっきりしており、卜部兼方(うらべのかねかた)です。
1200年代後半に書かれたものだといいます。
『釈日本紀』の内容の多くは、当時すでに散逸している書物について書かれたものでした。
備後国風土記はもともと奈良時代に存在していたが、失われてしまったといいます。
しかし、果たして蘇民将来の話は、ほんとうに備後国風土記に描かれていたのでしょうか。
不遜ながら、わたしは蘇民将来の伝説は、卜部兼方による創作ではないかとおもっています。
つまり、疫病によって祇園祭を開こうということになり、秘匿されていた五道神が紆余曲折を経て牛頭天王になる。
この経緯を卜部兼方は知っています。
そしてこの出来事と日本書紀の記録などの整合性を持たせて、備後国風土記逸文として創作した。
なぜそう考えるのか、理由があります。
密教は6世紀(500年代)のインドで、ヒンドゥー教と仏教がまじりあうような形でおこりました。
密教が中国に伝わったのは、700年ごろでした。
最澄や空海は、この伝わったばかりの最先端の仏教宗派を学んで、持ち帰ったのです。
そうすると、備後国風土記が書かれたという6世紀に、すでに密教由来の神(武塔神)がいたというのでは、つじつまが合いません。
また祇園社の創建年にはふたつの説があるのですが、そのひとつは656年(斉明天皇2年)とされています。
高麗からの渡来人である伊利之が、新羅の牛頭山から牛頭天王(素戔嗚尊)を勧請したのが始まりだというものです。
これは日本書紀のスサノオの伝説にのっとったものでしょう。
社伝がそうなんだから否定するわけにはいかないのですが、これもやはりおかしい。
なぜかというと、新羅(韓国)には牛頭天王信仰があった形跡がないのです。
それどころか、中国にもインドにも、牛頭天王なんて神はいません。
もし勧請するにしても、それなりに名のある仏教由来の神でなければならないはずで、奈良時代に、突然降ってわいたように牛頭天王という神があらわれるのは、さすがに無理があります。
ここまで読んでいただくと、おわかりかとおもうのですが、牛頭天王の成り立ちは、信憑性の濃いルートを選んで解釈していくうちに、ややこしい問題が立ちはだかってきます。
どうも、正式な由緒にもところどころに嘘があって、この嘘を隠すために、さらに巧妙な嘘の伝説が上塗りされているようなのです(笑)
しかもその嘘を、おそらく嘘と知りながらも、当の八坂神社が追認してしまっている。
もちろん最初に五道神を秘匿してしまった、という以上、憶測で考えるしかない点もあります。
そのあたり、もはやわからないですませたくなるところなのですが、いち私人であるわたしが子供のような無邪気さで、突っ込んではいけないところを気にせずに話した与太話、とおもっていただければとおもいます。
ところで祇園社には「五頭天王」という記述が残っているようです。
この「五頭天王」は、五道神から牛頭天王に変化するつなぎのような存在ですね。
五道神をどう秘匿するか、当時の関係者は相当頭を悩ませたのではないでしょうか(笑)
では、なぜ五頭天王が牛頭天王という名前になったのかというと、ここにもふたつの説があります。
ひとつは日本書紀の、スサノオの伝説によるものです。
日本書紀でスサノオは、乱暴狼藉の果てにアマテラスを隠れさせ、世を乱したことにより高天原を追放されました。
その際にスサノオは息子の五十猛神を連れて、新羅(朝鮮半島南東部)のソシモリに降り立ったとあります。
「素戔鳴尊、帥其子五十猛神、降到於新羅国、居曾尸茂梨之處。乃興言曰「此地、吾不欲居。」」
(スサノオは子のイソタケルと新羅国曾尸茂梨に降り立った。しかしスサノオは「この地には居たくない」と言った。)
ソシモリは「曾尸茂梨」や「蘇志摩利」というのですが、朝鮮の言葉では「牛の頭」を意味します。
いまでも韓国で「ソモリクッパ」というと、牛の頭を出汁にした雑炊のことをいうのだそうです。
しかしソシモリに着いたスサノオは「この場所にはいたくない」といいました。
そして出雲の簸の川(ひのかわ)に向かいます。
これはいまの島根県の斐伊川ですね。
なぜスサノオはソシモリを嫌がったのか、いろいろと物語的な類推ができそうですが、日本書紀には理由が書かれていません。
いずれにせよ出雲に帰ってきたスサノオは、その地にヤマタノオロチがいたので退治して、草薙の剣を手に入れました。
ここまでが、日本書紀のひとつのセンテンスになっています。
https://nihonsinwa.com/page/732.html
スサノオが新羅の牛頭という土地へ行って、さらに出雲へ帰ってくるというエピソードが、さまざまに肉付けされて、牛頭天王の由来になり、蘇民将来の伝説につながりました。
もうひとつの説が、牛頭というのは、道教における地獄の獄卒です。
この牛頭が、おなじく道教で地獄の役人であった五道神と結びついたのは、それほど不自然なことではありません。
そして祇園社の祭神となった牛頭天王は、仏教の五道(天道・人道・餓鬼道・畜生道・地獄道)を守護する密教の五道神に近い形で、仏教における修行の場である祇園精舎の守り神ということになったのも、自然です。
こちらは信憑線としては薄い説でしたが、道教が五道神、五頭天王、牛頭天王というような突拍子もない祭神を生む原動力だったのは間違いないでしょう。
このような神は、奈良時代以前の仏教や神道では、考えつくとっかかりがないのです。
すこし話が変わるのですが、道教には地獄思想がありました。
冥界には牛頭と馬頭という二体の獄卒がいます。
そして不思議なことに、日本には仏教でも牛頭天王だけでなく、馬頭観音がいるのです。
道教では地獄の獄卒である牛頭と馬頭が、仏教では牛頭も馬頭も神格を備えた仏として扱われていました。
牛頭天王と馬頭観音の仏像の造形は、おどろくほどよく似ています。
わたしたちは牛頭天王というと、ギリシャ神話のミノタウロスのような姿を想像するのではないでしょうか。
実際、道教における冥界の牛頭馬頭は、ミノタウロスのような半人半獣の姿で描かれています。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/c...
しかし、仏教の牛頭天王や馬頭観音は、憤怒の相をした仏の頭部に、牛、あるいは馬の飾りがなされているのです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%AC%...
上のリンクの画像は馬頭観音のものですが、牛頭天王もたいていはほとんどおなじような造形です。
中には三面のうちのひとつが牛になっている牛頭天王像もあるのですが、ほとんどが憤怒の人面で、頭部に牛や馬があるものです。
https://tsushima-bunka.jp/map/uploadfile...
数ある蘇民将来の伝説の中には、牛の頭をした牛頭天王をおそれて宿を貸さなかった、というような物語もあります。
このあたり、当時の日本では、道教における獄卒の牛頭と、仏教における牛頭天王の造形のちがいが、明確に区別されていなかったのかもしれません。
さて、最後に、祇園社とはなんなのか、ということを考えてみましょう。
まずインドの祇園精舎の伝説ですが、スダッタという長者(須達長者)がシッダルタ(仏陀)に帰依します。
かれは私財をなげうって、その国の王子(祇陀太子)が所有する樹林を買いとり、シッダルタに寄進しました。
祇園精舎は「祇樹給孤独園精舎」の略で、祇陀太子の樹園(祇樹)を須達長者(給孤独)をが買い取って、修行の場(精舎)にした、という意味をもちます。
これが仏教のひとつの伝説になってるんですね。
日本では、当時の有力貴族だった藤原基経(836 - 891)が、じぶんの邸宅を移す際に、旧宅を観慶寺に寄進しました。
貞観年間(859-877)のことだったといわれています。
観慶寺は藤原基経の邸宅、つまりいまの八坂神社の隣にあったお寺です。
この寄進を祇園精舎の伝説になぞらえて、最初は祇園寺、その後祇園社、祇園感神院などと称しました。
そしてここで祇園御霊会が行われ、祇園祭につながっていきます。
なぜ京都の祇園とインドの祇園精舎がつながるのか、という話をたどると、藤原基経に行き着くようです。
以上、長くなりましたが牛頭天王についていろいろとお話ししました。
雑多な内容ですので、読みづらい点についてはどうかご容赦ください。
またわたしの説明・解釈にも間違いがあるかもしれません。
もし疑問点などがありましたらお気軽にご質問ください。
わたしもいろいろ調べていくうちに、これまで理解しきれていなかったところの解像度があがって、よい勉強になりました。
しかし今回はかなり厄介な話で、わかりやすく伝えられるかどうか自信がありません。
話が多岐にわたるため、話が行ったり来たりします。
どうか、じっくりと読んでみてください。
ギズモさんは菅原道真など怨霊になった人間を、荒ぶる神としてたてまつる不思議についておっしゃっていましたが、あれは人間のサガなのかもしれませんね。
いまは社会のありようが変わりましたが、むかしはチカラの強い人間が「偉かった」。
いわゆるジャイアンみたいなタイプが、大将になるし、出世しました。
この場合、ジャイアンは荒神で、ジャイアンよりチカラの弱い者は、この荒神をたてまつって、機嫌をとらねばならないわけです。
生きてる人間ですらこうですから、強い恨みを残して死に、偶然そのときに社会に騒乱があれば、この荒ぶる御霊をしずめなければ気が済まない、とむかしの人々は考えました。
荒ぶる神がたてまつってくれと頼んだわけではなくて、むしろ下々の者の気が済まないから、たてまつっているという感じでしょうか(笑)
京の都で疫病が流行ったとき、疫神として祇園社に登場した牛頭天王も、その荒ぶる魂を鎮めるために盛大にまつられました。
しかしこれは仏教における牛頭天王です。
道教においては、牛頭天王は冥界のいち獄卒にすぎませんでした。
今回、牛頭天王を語るにあたってのキーワードは、「密教と道教」です。
奈良国立博物館には、辟邪絵(へきじゃえ)とよばれる、鬼を懲らしめる神を描いた絵が残されています。
この中には天刑星という、その名の通り天の刑罰を与える鬼神が、牛頭天王をはじめとする疫鬼をとらえて食べるという絵があります。
天刑星とは聞きなれない神ですが、道教に由来する神です。
https://emuseum.nich.go.jp/detail?conten...
ギズモさんは牛頭天王を「魔」とおっしゃいましたが、すくなくとも日本の道教における牛頭天王は魔の存在でした。
ところで、牛頭天王は祇園精舎の守り神ということですから、インドや中国で崇敬されていた神だったのかというと、じつは日本で創作された神です。
順序だてて説明しますと、牛頭天王はこのようなかたちで成立しました。
(祇園社での変化)
五道神 → 五頭天王 → 牛頭天王
(蘇民将来の伝説)
武塔神(五道神) = 速須佐雄能神 → 牛頭天王
あえて祇園社と蘇民将来伝説をわけたんですが、起源になるのは五道神という、現代ではほとんど名の知られていない神です。
五道神は、700年ごろに中国に密教が伝来したときに、仏教の五道(天道・人道・餓鬼道・畜生道・地獄道)を守護する神として崇敬されていた神でした。
ところが五道神が道教の中に組み込まれると、冥界(地獄)の役人(大臣)という立場に変化した、という経緯をもちます。
道教というのは不思議な宗教で、仏教とも密接に結びついています。
日本にくると、陰陽道を通じて神道ともつながりました。
極端な言い方かもしれませんが、「ほかの宗教に遠慮なく寄生する民間信仰」といっていいくらいです。
仙人になるだとか、妙な儀式(道術)を好んだりだとか、地獄思想が発達したりだとか、なにかと妙なことばかりしているのです。
以前にお話しした庚申信仰もそうですね。
庚申(かのえさる)の夜に人が眠ると、体内から三尸(さんし)の虫が出てきて、天帝にその人の罪を告げる。
そのため、人々は庚申の日には虫が出てこないように徹夜しなければならないというのです。
荒唐無稽なんですが、これが平安時代あたりから明治大正あたりまではわりと広く信じられていました。
いま出てきた天帝は、道教における最高神で、玉皇大帝といいます。
玉帝と略されたりもします。
あらゆる存在より上位に存在する神、という立場です。
これがじつにふざけた話で、ほかの宗教に遠慮なく寄生しながら、道教自体は最高神を用意して一神教を気取り、天帝には仏も神も皇帝もかなわないというのです(笑)
たとえば西遊記も道教の影響が強く、やはり天帝が登場します。
孫悟空が天界であばれまわり、天帝に向かってその座を譲れと言ったことで、天帝が釈迦如来に孫悟空の退治を依頼する。
それで釈迦如来が孫悟空を五行山に閉じ込めてしまう。
明確に天帝の立場が上とはいわないんですが、それとなく仏教の開祖である釈迦よりも権威的に描かれています。
ようするに道教という民間信仰にかかると、仏教だろうと時の権力者であろうと、ぜんぶ道教色に染められてしまうようなところがあります。
日本では最初から、密教が道教とないまぜになった状態で輸入されました。
そしてそれまで日本にあった仏教も神道も影響を受けてしまうわけです。
しかしこれは余談ですが、多神教の日本では天帝という一神教の設定だけはなかったもののように無視されてしまい、これといって崇められることもありませんでした(笑)
先日、奈良の朝廷が南都六宗から逃げるように、平安京に都を移した、という話をしました。
このとき朝廷が南都六宗のかわりに厚遇したのが、最澄と空海です。
かれらは中国にわたって、当時最先端の仏教宗派だった密教を学びましたが、密教の中で、五道神は秘匿性の高い神という位置づけでした。
つまり、修行者によってのみ信仰されるべき、門外不出の存在だったらしいのです。
民衆に積極的に仏教を教えない時代でもありました。
平安時代には、京都市内で疫病が毎年のように流行します。
863年には「御霊会(ごりょうえ)」が執り行われ、これが祇園祭のきっかけとなりました。
祇園祭で大衆にまつられるにあたって、五道神という名は姿を消し、疫神としての牛頭天王(スサノオ)があらわれます。
つまり祇園祭を開くにあたって、秘匿性の高い五道神を前に出すわけにいかず、べつの神ということにしなければならなかった。
ところで、蘇民将来の伝説ではすでに、五道神こと武塔神が、スサノオと同一だというわけですから、神仏が習合していることがわかります。
しかし、これが調べていくと、非常にややこしい問題でした。
というのも、蘇民将来の伝説が出てくる備後国風土記逸文は、鎌倉時代末期に書かれた『釈日本紀』に出てくるものです。
作者もはっきりしており、卜部兼方(うらべのかねかた)です。
1200年代後半に書かれたものだといいます。
『釈日本紀』の内容の多くは、当時すでに散逸している書物について書かれたものでした。
備後国風土記はもともと奈良時代に存在していたが、失われてしまったといいます。
しかし、果たして蘇民将来の話は、ほんとうに備後国風土記に描かれていたのでしょうか。
不遜ながら、わたしは蘇民将来の伝説は、卜部兼方による創作ではないかとおもっています。
つまり、疫病によって祇園祭を開こうということになり、秘匿されていた五道神が紆余曲折を経て牛頭天王になる。
この経緯を卜部兼方は知っています。
そしてこの出来事と日本書紀の記録などの整合性を持たせて、備後国風土記逸文として創作した。
なぜそう考えるのか、理由があります。
密教は6世紀(500年代)のインドで、ヒンドゥー教と仏教がまじりあうような形でおこりました。
密教が中国に伝わったのは、700年ごろでした。
最澄や空海は、この伝わったばかりの最先端の仏教宗派を学んで、持ち帰ったのです。
そうすると、備後国風土記が書かれたという6世紀に、すでに密教由来の神(武塔神)がいたというのでは、つじつまが合いません。
また祇園社の創建年にはふたつの説があるのですが、そのひとつは656年(斉明天皇2年)とされています。
高麗からの渡来人である伊利之が、新羅の牛頭山から牛頭天王(素戔嗚尊)を勧請したのが始まりだというものです。
これは日本書紀のスサノオの伝説にのっとったものでしょう。
社伝がそうなんだから否定するわけにはいかないのですが、これもやはりおかしい。
なぜかというと、新羅(韓国)には牛頭天王信仰があった形跡がないのです。
それどころか、中国にもインドにも、牛頭天王なんて神はいません。
もし勧請するにしても、それなりに名のある仏教由来の神でなければならないはずで、奈良時代に、突然降ってわいたように牛頭天王という神があらわれるのは、さすがに無理があります。
ここまで読んでいただくと、おわかりかとおもうのですが、牛頭天王の成り立ちは、信憑性の濃いルートを選んで解釈していくうちに、ややこしい問題が立ちはだかってきます。
どうも、正式な由緒にもところどころに嘘があって、この嘘を隠すために、さらに巧妙な嘘の伝説が上塗りされているようなのです(笑)
しかもその嘘を、おそらく嘘と知りながらも、当の八坂神社が追認してしまっている。
もちろん最初に五道神を秘匿してしまった、という以上、憶測で考えるしかない点もあります。
そのあたり、もはやわからないですませたくなるところなのですが、いち私人であるわたしが子供のような無邪気さで、突っ込んではいけないところを気にせずに話した与太話、とおもっていただければとおもいます。
ところで祇園社には「五頭天王」という記述が残っているようです。
この「五頭天王」は、五道神から牛頭天王に変化するつなぎのような存在ですね。
五道神をどう秘匿するか、当時の関係者は相当頭を悩ませたのではないでしょうか(笑)
では、なぜ五頭天王が牛頭天王という名前になったのかというと、ここにもふたつの説があります。
ひとつは日本書紀の、スサノオの伝説によるものです。
日本書紀でスサノオは、乱暴狼藉の果てにアマテラスを隠れさせ、世を乱したことにより高天原を追放されました。
その際にスサノオは息子の五十猛神を連れて、新羅(朝鮮半島南東部)のソシモリに降り立ったとあります。
「素戔鳴尊、帥其子五十猛神、降到於新羅国、居曾尸茂梨之處。乃興言曰「此地、吾不欲居。」」
(スサノオは子のイソタケルと新羅国曾尸茂梨に降り立った。しかしスサノオは「この地には居たくない」と言った。)
ソシモリは「曾尸茂梨」や「蘇志摩利」というのですが、朝鮮の言葉では「牛の頭」を意味します。
いまでも韓国で「ソモリクッパ」というと、牛の頭を出汁にした雑炊のことをいうのだそうです。
しかしソシモリに着いたスサノオは「この場所にはいたくない」といいました。
そして出雲の簸の川(ひのかわ)に向かいます。
これはいまの島根県の斐伊川ですね。
なぜスサノオはソシモリを嫌がったのか、いろいろと物語的な類推ができそうですが、日本書紀には理由が書かれていません。
いずれにせよ出雲に帰ってきたスサノオは、その地にヤマタノオロチがいたので退治して、草薙の剣を手に入れました。
ここまでが、日本書紀のひとつのセンテンスになっています。
https://nihonsinwa.com/page/732.html
スサノオが新羅の牛頭という土地へ行って、さらに出雲へ帰ってくるというエピソードが、さまざまに肉付けされて、牛頭天王の由来になり、蘇民将来の伝説につながりました。
もうひとつの説が、牛頭というのは、道教における地獄の獄卒です。
この牛頭が、おなじく道教で地獄の役人であった五道神と結びついたのは、それほど不自然なことではありません。
そして祇園社の祭神となった牛頭天王は、仏教の五道(天道・人道・餓鬼道・畜生道・地獄道)を守護する密教の五道神に近い形で、仏教における修行の場である祇園精舎の守り神ということになったのも、自然です。
こちらは信憑線としては薄い説でしたが、道教が五道神、五頭天王、牛頭天王というような突拍子もない祭神を生む原動力だったのは間違いないでしょう。
このような神は、奈良時代以前の仏教や神道では、考えつくとっかかりがないのです。
すこし話が変わるのですが、道教には地獄思想がありました。
冥界には牛頭と馬頭という二体の獄卒がいます。
そして不思議なことに、日本には仏教でも牛頭天王だけでなく、馬頭観音がいるのです。
道教では地獄の獄卒である牛頭と馬頭が、仏教では牛頭も馬頭も神格を備えた仏として扱われていました。
牛頭天王と馬頭観音の仏像の造形は、おどろくほどよく似ています。
わたしたちは牛頭天王というと、ギリシャ神話のミノタウロスのような姿を想像するのではないでしょうか。
実際、道教における冥界の牛頭馬頭は、ミノタウロスのような半人半獣の姿で描かれています。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/c...
しかし、仏教の牛頭天王や馬頭観音は、憤怒の相をした仏の頭部に、牛、あるいは馬の飾りがなされているのです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%AC%...
上のリンクの画像は馬頭観音のものですが、牛頭天王もたいていはほとんどおなじような造形です。
中には三面のうちのひとつが牛になっている牛頭天王像もあるのですが、ほとんどが憤怒の人面で、頭部に牛や馬があるものです。
https://tsushima-bunka.jp/map/uploadfile...
数ある蘇民将来の伝説の中には、牛の頭をした牛頭天王をおそれて宿を貸さなかった、というような物語もあります。
このあたり、当時の日本では、道教における獄卒の牛頭と、仏教における牛頭天王の造形のちがいが、明確に区別されていなかったのかもしれません。
さて、最後に、祇園社とはなんなのか、ということを考えてみましょう。
まずインドの祇園精舎の伝説ですが、スダッタという長者(須達長者)がシッダルタ(仏陀)に帰依します。
かれは私財をなげうって、その国の王子(祇陀太子)が所有する樹林を買いとり、シッダルタに寄進しました。
祇園精舎は「祇樹給孤独園精舎」の略で、祇陀太子の樹園(祇樹)を須達長者(給孤独)
これが仏教のひとつの伝説になってるんですね。
日本では、当時の有力貴族だった藤原基経(836 - 891)が、じぶんの邸宅を移す際に、旧宅を観慶寺に寄進しました。
貞観年間(859-877)のことだったといわれています。
観慶寺は藤原基経の邸宅、つまりいまの八坂神社の隣にあったお寺です。
この寄進を祇園精舎の伝説になぞらえて、最初は祇園寺、その後祇園社、祇園感神院などと称しました。
そしてここで祇園御霊会が行われ、祇園祭につながっていきます。
なぜ京都の祇園とインドの祇園精舎がつながるのか、という話をたどると、藤原基経に行き着くようです。
以上、長くなりましたが牛頭天王についていろいろとお話ししました。
雑多な内容ですので、読みづらい点についてはどうかご容赦ください。
またわたしの説明・解釈にも間違いがあるかもしれません。
もし疑問点などがありましたらお気軽にご質問ください。
2025年10月17日 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する
NHKの池波正太郎出演の番組ですが、たぶん私が偶然みたのと同じですね。
ずいぶん古いものを放送しているんだなと思いましたが、内容を確認せず、すぐ消してしまいました。
池波正太郎の人となりはわかりませんが、当時の作家は、おだてられ、持ち上げられて、その過程で尊大になっていくタイプが多かったように思います。
テレビなどで偉そうにしている姿を見ると、鼻持ちならない奴という認識を持ってしまいがちですが、池波正太郎は、農園主さんが感じたように、あえて尊大な態度をとっていたのかもしれません。
作品を読むと、変に凝らない描写や文体、わかりやすく読みやすい表現で人間の情をきめ細かく描いているあたりから、素直で実直な人なのではと感じます。
以前、知人の高齢男性が無理やり親切に貸してくれたのが『鬼平犯科帳』だったのですが、すっかりハマってしまい、『剣客商売』『仕掛け人・藤枝梅安』と、全巻読んでしまいました(笑)
シリーズは長編ですが、1話1話が短いのでキリよく読めるし、登場人物の人間関係がさほど複雑ではないので、気楽に読めるというのがよかったです。
ご存じかもしれませんが、埼玉県の羽生パーキングエリア(東北自動車道)上りは、2013年に『テーマ型エリア鬼平江戸処』として、「鬼平犯科帳」の世界観に基づいて、江戸風建築にリニューアルされました。
PAなので、SAより規模は小さいのですが、『鬼平犯科帳』に登場する店名を使用した、親子丼・1本うどん・お蕎麦屋・甘味などのお店、おみやげやさんがあります。
鬼平を知らなくても、江戸の町の雰囲気を充分に味わえるので、大人気スポットとなっています。
最初に記事を読ませていただいた時、『牛頭天王』という単語が目に入り、びっくりしました。
というのはその直前、ネットで『牛頭天王』を検索し、様々な資料に目をざっと通した後、ウィキペディアで『牛頭天王』を検索していたからでした。
牛頭天王については、どちらかと言えば「魔」という位置づけだということなど、ざっくりとしたことしか知りませんでしたが、もう少しきちんと知りたいと思い、調べていたところでした。
以前、氷川神社がなんとなく好きだということを書いたかと思いますが、氷川神社について私が知らなかったことを、農園主さんから教えていただいていました。
夏越の祓の話から、蘇民将来についても教えていただきました。
蘇民将来は、スサノウでなく牛頭天王としているものもありましたが、スサノウの本地が牛頭天王で、同一人物(同一神)とみれば、同じことですね。
とにかくすごくややこしいので、頭がおかしくなってきました(笑)
「護符」のところで興味深いことが書かれていました。
これだけだとよくわからないのですが、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%...
こちらだと、安倍晴明と蘆屋道満に関係する、陰陽道が起源らしいと書かれています。
海女さんたちが、神仏に護ってもらうのではなく、陰陽道によって魔除けをすることが、なんだかおもしろいと思いました。
神仏にお願いするよりも、おまじないのほうが効き目があるような気もしますね(笑)
八坂神社のお話で、「人々は疫病の神を一方的に恐れるのではなくて、楽しむんですね」と書いてくださったことで、祇園祭の意味がとてもよく理解できました。
ずいぶん前に見つけたものですが、
https://intojapanwaraku.com/rock/culture...
これにも、牛頭天王、祇園祭のことが書かれています。
しかし、このライターは「結局はよくわからない論」でまとめてしまっているので、読む方はもっとわかりませんね(笑)
また、「牛頭天王」のウィキペディアには、「牛頭天王と素戔嗚尊の習合神である祇園大明神」の護符の絵がありました。
俊徳丸はハンセン氏病だという現実的な解釈もあったのですね。
当時、多少なりとも病気の可能性を考えたにしても、呪いということで、法話の意味が色濃くなるのでしょう。
生きている人間の強い念に、他人を不幸にするほどの力があるのなら、一途に祈れば神仏による利益も得られると思いますし、よこしまな心で生きるより、純粋な心で信心する方がいいですよね。
俊徳丸のお話は呪いと信心がセットになっていますが、西洋でも呪う側と純粋な気持ちで生きている者がセットのお話も多いですね。
呪いとまではいかなくても、人を憎んだり恨んだりすることは、人間ならば一度はあると思います。
ずっときれいな心で生きるというのは思ったより大変なことですが、利他を広げるためにも、マイナーな気持ちはどんどんバッサリ切り捨てていくのが大事、でもなかなか難しいですね(笑)
「口づけ」の件ですが、恐ろしく軽薄なことを書いてしまっていました(笑)
おっしゃるとおり、キスは神聖なもので、特に聖職者が信者の額にするキスは、神様の愛、祝福をいただくことになりますし、生々しいものではありませんでした。
神仏から直接何かをもらうことは現実的にはできないので、神父や牧師などの聖職者、お坊さんを通して受けるわけですね。
日本だと、徳の高い僧侶の袈裟を触ることで、ご利益があると思っている人がいますが、わかるようなわからないような(笑)
同性同士でも、海外ではキスはあいさつ代わりだったりしますし、単純に習慣でもありますよね。
そういえば日本人は、キスもしないし、握手もしないし、ハグもしませんね。
あいさつでそういった身体の触れ合いをしませんが、その代わりにお辞儀をします。
これは、日本人独特の清潔感に対する観念からくるものなのかもしれないし、相手の身体に触れない、近づかないことが、相手への敬意のあらわれのように思います。
菅原道真や平将門、崇徳天皇などの、怨霊とされた人たちも、最初は彼等の怨念、魂を鎮めるために建てた神社が、いつのまにか普通に参拝する神社になっていますが、これもおもしろいですね。
今は菅原道真がご祭神の神社が、住んでいるところの氏神さまなのですが、普通に学問の神様ですよね(笑)
安徳天皇も怨霊とされ、鎮魂のために鎮守八幡宮が創建されたそうですので、余談です。
『義経千本桜』は、もともとは人形浄瑠璃の作品で、後に歌舞伎の演目になったようですが、とにかく長いですので、ちゃんと観たことはありません。
史実に忠実な部分と、そうでないところもあるのですが(物語なのであたりまえですね)。
壇ノ浦で入水して死んだはずの安徳天皇が、生きていて、しかも女の子だという設定でした。
義経が安徳天皇(女の子の)を保護しますが、母に会いたいと泣く安徳帝を、母の建礼門院のところに連れて行き、安徳帝が出家するというお話になっています。
昨年、No.1554で、安徳天皇について詳しく書いてくださっていたので、読み返させていただきましたが、やはり私も生存説には無理を感じます。
ものがたり的には、入水はあまりにもかわいそうなので、生存説がいろいろ発生するのかもしれませんね。
家や家の周りの掃除は、自分が気持ちよく過ごすためというより、農園主さんのお書きになっているように、神様仏様に対する気持ちからだったのですね。
祓い、清めるというのは、身の回りを清潔に保つだけでなく、たぶん心から悪いものを取り去って清く保つという意味もありますよね。
現代でも、日本はどこに行っても白い靴が汚れないのですごいと外国人が驚くそうですが、室町時代あたりでも、ヨーロッパの人が驚くような清潔な暮らしをしていたんですね。
最近、ゴミ屋敷という言葉をよく聞きますが、反面、掃除に関してのライフハックも大流行しています。
参考になることが多いですが、みんなあれほど熱心に日々おそうじしているのかどうか、疑問です(笑)
厄除けも掃除もですが、すべてのことは「気になるならやったほうがいい」というのが、まさにベストな考えだと思います。
縁起物や厄除けのグッズを集めたりするのは、おっしゃる通り、精神衛生の問題に大きく働いています。
自己満足、ですね(笑)
あれもこれもではなく、自分なりのこだわりもあるのですが、問題は、毎年受けていたお札や縁起物のうち、どれかをやめようと思ってもできないということですね。
やめたら悪いことがきそうで、精神衛生に支障をきたします(笑)
わたくしごとですが、久しぶりに日光に行ってきました。
昨年母が亡くなった時は、行かないで法要だけお願いしていたので少し気になっていましたが、今回お参りしすっきりしました。これも精神衛生ですね(笑)
数年前、母方の祖父母と、父の位牌を新たに作り、永代供養ではありますが、年忌の法要はお願いしています(祖父母のお墓は墓じまいし、お骨はそのまま東京のお寺にありますが、両親は散骨です)。
牛久のように、位牌が誰でも見られるわけではなく、奥から出してきてくれて、お焼香の用意もしてくれました。
輪王寺の三仏堂(本堂)で、「天海大僧正 等身大座像」の初開帳もあり、宝物公開が11月25日までだったので、いいタイミングでした。
日光の帰りに鬼平の羽生パーキングに寄ったわけですが、日光も羽生も、平日だからか、あまり混んでおらず、外国人観光客もまばらでした。
輪王寺宝物殿のお庭、逍遥園での写真です。
まだ紅葉はチラっと見かけるくらいでした。
雨模様の日だったので、薄暗いです。
いよいよ寒くなってきましたね。
おでんやシチューなどで内臓を温めて、体調をくずさないようお気をつけくださいね←それより熱燗の季節ですよね(笑)


ずいぶん古いものを放送しているんだなと思いましたが、内容を確認せず、すぐ消してしまいました。
池波正太郎の人となりはわかりませんが、当時の作家は、おだてられ、持ち上げられて、その過程で尊大になっていくタイプが多かったように思います。
テレビなどで偉そうにしている姿を見ると、鼻持ちならない奴という認識を持ってしまいがちですが、池波正太郎は、農園主さんが感じたように、あえて尊大な態度をとっていたのかもしれません。
作品を読むと、変に凝らない描写や文体、わかりやすく読みやすい表現で人間の情をきめ細かく描いているあたりから、素直で実直な人なのではと感じます。
以前、知人の高齢男性が
シリーズは長編ですが、1話1話が短いのでキリよく読めるし、登場人物の人間関係がさほど複雑ではないので、気楽に読めるというのがよかったです。
ご存じかもしれませんが、埼玉県の羽生パーキングエリア(東北自動車道)上りは、2013年に『テーマ型エリア鬼平江戸処』として、「鬼平犯科帳」の世界観に基づいて、江戸風建築にリニューアルされました。
PAなので、SAより規模は小さいのですが、『鬼平犯科帳』に登場する店名を使用した、親子丼・1本うどん・お蕎麦屋・甘味などのお店、おみやげやさんがあります。
鬼平を知らなくても、江戸の町の雰囲気を充分に味わえるので、大人気スポットとなっています。
最初に記事を読ませていただいた時、『牛頭天王』という単語が目に入り、びっくりしました。
というのはその直前、ネットで『牛頭天王』を検索し、様々な資料に目をざっと通した後、ウィキペディアで『牛頭天王』を検索していたからでした。
牛頭天王については、どちらかと言えば「魔」という位置づけだということなど、ざっくりとしたことしか知りませんでしたが、もう少しきちんと知りたいと思い、調べていたところでした。
以前、氷川神社がなんとなく好きだということを書いたかと思いますが、氷川神社について私が知らなかったことを、農園主さんから教えていただいていました。
夏越の祓の話から、蘇民将来についても教えていただきました。
蘇民将来は、スサノウでなく牛頭天王としているものもありましたが、スサノウの本地が牛頭天王で、同一人物(同一神)とみれば、同じことですね。
とにかくすごくややこしいので、頭がおかしくなってきました(笑)
「護符」のところで興味深いことが書かれていました。
伊勢近辺の海女の習俗として、晴明紋の星印(五芒星)を手拭いに染め、これを「ショーメンショーライ」と称して魔除けとする民俗例がある(Wikipedia 牛頭天王「護符」より引用)
これだけだとよくわからないのですが、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%...
こちらだと、安倍晴明と蘆屋道満に関係する、陰陽道が起源らしいと書かれています。
海女さんたちが、神仏に護ってもらうのではなく、陰陽道によって魔除けをすることが、なんだかおもしろいと思いました。
神仏にお願いするよりも、おまじないのほうが効き目があるような気もしますね(笑)
八坂神社のお話で、「人々は疫病の神を一方的に恐れるのではなくて、楽しむんですね」と書いてくださったことで、祇園祭の意味がとてもよく理解できました。
ずいぶん前に見つけたものですが、
https://intojapanwaraku.com/rock/culture...
これにも、牛頭天王、祇園祭のことが書かれています。
しかし、このライターは「結局はよくわからない論」でまとめてしまっているので、読む方はもっとわかりませんね(笑)
また、「牛頭天王」のウィキペディアには、「牛頭天王と素戔嗚尊の習合神である祇園大明神」の護符の絵がありました。
俊徳丸はハンセン氏病だという現実的な解釈もあったのですね。
当時、多少なりとも病気の可能性を考えたにしても、呪いということで、法話の意味が色濃くなるのでしょう。
生きている人間の強い念に、他人を不幸にするほどの力があるのなら、一途に祈れば神仏による利益も得られると思いますし、よこしまな心で生きるより、純粋な心で信心する方がいいですよね。
俊徳丸のお話は呪いと信心がセットになっていますが、西洋でも呪う側と純粋な気持ちで生きている者がセットのお話も多いですね。
呪いとまではいかなくても、人を憎んだり恨んだりすることは、人間ならば一度はあると思います。
ずっときれいな心で生きるというのは思ったより大変なことですが、利他を広げるためにも、マイナーな気持ちはどんどんバッサリ切り捨てていくのが大事、でもなかなか難しいですね(笑)
「口づけ」の件ですが、恐ろしく軽薄なことを書いてしまっていました(笑)
おっしゃるとおり、キスは神聖なもので、特に聖職者が信者の額にするキスは、神様の愛、祝福をいただくことになりますし、生々しいものではありませんでした。
神仏から直接何かをもらうことは現実的にはできないので、神父や牧師などの聖職者、お坊さんを通して受けるわけですね。
日本だと、徳の高い僧侶の袈裟を触ることで、ご利益があると思っている人がいますが、わかるようなわからないような(笑)
同性同士でも、海外ではキスはあいさつ代わりだったりしますし、単純に習慣でもありますよね。
そういえば日本人は、キスもしないし、握手もしないし、ハグもしませんね。
あいさつでそういった身体の触れ合いをしませんが、その代わりにお辞儀をします。
これは、日本人独特の清潔感に対する観念からくるものなのかもしれないし、相手の身体に触れない、近づかないことが、相手への敬意のあらわれのように思います。
菅原道真や平将門、崇徳天皇などの、怨霊とされた人たちも、最初は彼等の怨念、魂を鎮めるために建てた神社が、いつのまにか普通に参拝する神社になっていますが、これもおもしろいですね。
今は菅原道真がご祭神の神社が、住んでいるところの氏神さまなのですが、普通に学問の神様ですよね(笑)
安徳天皇も怨霊とされ、鎮魂のために鎮守八幡宮が創建されたそうですので、余談です。
『義経千本桜』は、もともとは人形浄瑠璃の作品で、後に歌舞伎の演目になったようですが、とにかく長いですので、ちゃんと観たことはありません。
史実に忠実な部分と、そうでないところもあるのですが(物語なのであたりまえですね)。
壇ノ浦で入水して死んだはずの安徳天皇が、生きていて、しかも女の子だという設定でした。
義経が安徳天皇(女の子の)を保護しますが、母に会いたいと泣く安徳帝を、母の建礼門院のところに連れて行き、安徳帝が出家するというお話になっています。
昨年、No.1554で、安徳天皇について詳しく書いてくださっていたので、読み返させていただきましたが、やはり私も生存説には無理を感じます。
ものがたり的には、入水はあまりにもかわいそうなので、生存説がいろいろ発生するのかもしれませんね。
家や家の周りの掃除は、自分が気持ちよく過ごすためというより、農園主さんのお書きになっているように、神様仏様に対する気持ちからだったのですね。
祓い、清めるというのは、身の回りを清潔に保つだけでなく、たぶん心から悪いものを取り去って清く保つという意味もありますよね。
現代でも、日本はどこに行っても白い靴が汚れないのですごいと外国人が驚くそうですが、室町時代あたりでも、ヨーロッパの人が驚くような清潔な暮らしをしていたんですね。
最近、ゴミ屋敷という言葉をよく聞きますが、反面、掃除に関してのライフハックも大流行しています。
参考になることが多いですが、みんなあれほど熱心に日々おそうじしているのかどうか、疑問です(笑)
厄除けも掃除もですが、すべてのことは「気になるならやったほうがいい」というのが、まさにベストな考えだと思います。
縁起物や厄除けのグッズを集めたりするのは、おっしゃる通り、精神衛生の問題に大きく働いています。
自己満足、ですね(笑)
あれもこれもではなく、自分なりのこだわりもあるのですが、問題は、毎年受けていたお札や縁起物のうち、どれかをやめようと思ってもできないということですね。
やめたら悪いことがきそうで、精神衛生に支障をきたします(笑)
わたくしごとですが、久しぶりに日光に行ってきました。
昨年母が亡くなった時は、行かないで法要だけお願いしていたので少し気になっていましたが、今回お参りしすっきりしました。これも精神衛生ですね(笑)
数年前、母方の祖父母と、父の位牌を新たに作り、永代供養ではありますが、年忌の法要はお願いしています(祖父母のお墓は墓じまいし、お骨はそのまま東京のお寺にありますが、両親は散骨です)。
牛久のように、位牌が誰でも見られるわけではなく、奥から出してきてくれて、お焼香の用意もしてくれました。
輪王寺の三仏堂(本堂)で、「天海大僧正 等身大座像」の初開帳もあり、宝物公開が11月25日までだったので、いいタイミングでした。
日光の帰りに鬼平の羽生パーキングに寄ったわけですが、日光も羽生も、平日だからか、あまり混んでおらず、外国人観光客もまばらでした。
輪王寺宝物殿のお庭、逍遥園での写真です。
まだ紅葉はチラっと見かけるくらいでした。
雨模様の日だったので、薄暗いです。
いよいよ寒くなってきましたね。
おでんやシチューなどで内臓を温めて、体調をくずさないようお気をつけくださいね←それより熱燗の季節ですよね(笑)


2025年10月8日 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する
僕という一人称は、もとをたどると召使とかしもべという意味なんだそうです。
むかしからいまのように使われていた一人称ではありません。
それが明治維新のころ、江戸末期に革命家たちが京都に集まったときに、じぶんを「僕」、相手を「君」と呼んだのが、ぼくという一人称の広まるきっかけでした。
刀を腰に差して、幕府を転覆させてやろうか、それとも外国人を打ち払おうか、と考えるようなギラギラした連中が「ぼく」と言うのだから、どうも怖いようなところがあります。
もちろん現代ではそんな毒気は抜けて、ぼくという一人称は子供がつかうか、あるいは単にへりくだった表現となりました。
しかしたとえば、総理大臣や天皇が「ぼく」では困ります。
なぜかというと、このような立場の人が公的な場で無用にへりくだって、立場をあやふやにすると、むしろ下座に構えている周囲が困るからです。
わたしは総理大臣でも天皇でもないし、そういった立場自体をこれまで嫌っていましたから、できれば一生「ぼく」でいたいとおもっていました(笑)
ところが、自治会長になると、自治会の人はじぶんが陳情を申し上げやすいように、自治会長を上座に持ち上げます。
ふだんわたしのことを名前で呼んで対等に接してくれる80代の大先輩も、陳情があるときは「ところで自治会長さん」と下座から迫ってくるのです。
つまり、「ぼく」ではどうも周囲の風当たりがおかしいから、わたしのほうから周囲の人々に忖度して、わたしを自称せざるをえなくなってきたんですよね(笑)
上座に座って神輿に乗るのは、実際には下から槍で突っつかれて、常に座り方を矯正させられるようなもので、じつに居心地のわるいものです(笑)
もっといえば、じつは下座のほうが怖い存在なんですよね。
池部良さんが「ぼく」と自称していたということですが、自然と人から持ち上げられて立場を得ることの多い方だったようですから、「ぼく」と自称してへりくだるくらいでちょうど立場が均衡するような、強い魅力の持ち主だったのでしょう。
神輿を担ぐ側が、担いでいて気分がよいというタイプの人がたまにいます。
そういうタイプの方だったのではないかと推察しました。
最近、池波正太郎が出演していた古いNHKの番組をみました。
池波さんの実際の姿をみるのは初めてでしたが、あの人はたぶんわるい人じゃないとおもいます。
が、椅子にふんぞり返って、じぶんを大きく見せようとしているのが鼻につきました。
池波正太郎は大正12年生まれで、司馬遼太郎や遠藤周作と同い年です。
池部さんよりは5つほど年下ですが、おなじ軍人の世代ですね。
謙虚な池部さんとは対照的なようですが、池波さんは池波さんで、どうせ上座にたてまつられるのならと、おもいきってふんぞり返っていたのかもしれません。
いわば神輿の乗り方のスタイルの違いです。
池波さんの場合は自然と周囲から持ち上げられるのではなく、たたき上げでのしあがっていったタイプでした。
もちろん作家としての実力はすごかったわけですから、先生、先生と持ち上げられて、自然と神輿に乗ることになります。
神輿を担ぐ側としては、池波さんが謙虚であるよりも、ふんぞり返ってくれていたほうが、たてまつってさえおればよいという点でラクだったでしょう。
そう考えると、池波さんもじぶんを持ち上げる人たちに気を遣って、わざと相手がゴマをすりやすいように、身の丈にあわぬ尊大な態度をとっていたのかもしれません。
自利が満たされてから利他が広がっていく関係性は、「衣食足りて礼節を知る」ということなのか、ということですが、その通りだとおもいます。
そこをもうすこし掘り下げていくと、衣食が足りた以上は、あとはひたすら利他に生きるほかない、というメッセージでもあるんですよね。
なぜかというと、自利から始まって利他へ広がっていく、ということが万人に共通した考えであれば、世界中の人はまずじぶんが受け取らねばならないと考えていることになります。
世界中の人が、まず最初に受け取ることだけを考えていたら、だれも与える側には回りません。
そうなると、結局だれも受け取る側に回れませんから。
ツバメの子供が巣で口をあけながらピーピー鳴いているのを「自利行為」だとすると、餌をとって巣に持ち帰って子の口に運んでやる親ツバメは「利他行為」をしていることになります。
利他行為で必死になる親ツバメがいなければ、子ツバメは自利を訴えるうちに餓死することでしょう。
人間の場合も、じぶんの自利を辛抱して、だれかの自利のために、利他的に立ち回る必要があります。
そうすることで、だれかの「衣食足りて礼節を知る」が生まれ、そして次の利他が生まれる、という循環になっているんですよね。
おまんじゅうがみっつ手元にあったとして、ひとつは家族に、ひとつは社会に分け与える。
じぶんもひとつのおまんじゅうをいただく。
ひとつだと物足りなくてガッカリなんですが、そこは辛抱しようといって、ふたつを利他として施す。
あの詩(「慈悲の瞑想」というそうです)の意味は、つまりそういうことだとおもいます。
みっつのおまんじゅうを独り占めする人ばかりだと、おまんじゅうを食べたときはおなかいっぱいで満足かもしれませんが、次にじぶんが飢えたときに、だれも手を差し伸べてくれません。
自利がまず満たされないことには利他が広がっていかない、という人間の業は、実際そうなんですが、それでも結局人間は自利の追求だけでは生きていけず、分け与えていかねばならないんですよね。
(そうでなければ、「親しい人」や「生きとし生けるもの」に祈りをささげる理由がありませんから)
ところで、キリスト教では口づけを聖なる行為と位置付けているようです。
西洋人はなにかにつけやたらとキスをしますが、キリスト教という土台があればこその行為なのでしょう。
その点キリスト教圏以外では、口づけにさしたる意味づけがありません。
イスラム教では、わざわざ公共の場でのキスは避けるべきとして戒めているくらいです。
日本の場合、接吻となると急に神聖さが失われ、それこそ「口吸い」のように、行為そのものが際立つ露骨な言葉になります。
ですから俊徳丸と許嫁の娘がもし、口づけをして病が癒えたという話になるのなら、高安から追い出された俊徳丸が、舟で朝鮮半島へこぎつけ、遠路はるばるエルサレムの聖墳墓教会へ向かい、許嫁もたまたま聖墳墓教会に行って出会う、基教説話にまで達した場合は成立するかもしれませんね(笑)
呪いの話が出ましたが、「呪」と「祝」は、語源をたどるとおなじ「祭礼のときの言葉」でした。
これがいつしか、片方はわるい意味に、片方はよい意味とわかれます。
原始宗教では、呪いと祝いは混然としていました。
たとえば八坂神社の祇園祭では、スサノオ(牛頭天王)の脅威を祓うためにお祭りをします。
人々は疫病の神を一方的に恐れるのではなくて、楽しむんですね。
楽しむことがお祓いになっているので、一生懸命楽しまないと神仏の祟りがあるぞというわけです。
祓っても祓っても、毎年呪いを鎮めるために祝うというわけで、呪いと祝いが汽水域のようになっています。
この元になったスサノオの話は、備後国風土記という、奈良時代初期に編纂された書物までさかのぼります。
古神道のころの、仏教などの影響の少ない物語は、呪いと祝いが未分化なものが多いようにおもえます。
これが室町あたりから広まった俊徳丸伝説になると、呪いは西洋の魔女がかける「魔法」に近い形となります。
この魔法を観音菩薩が解いて救済して(祝って)くれる。
呪いは呪い、救済は救済ではっきりわかれています。
またこの時代になると神仏が人間の苦しみを救う祝いの要素が出てくるんですが、こういう変化は日本の場合は平安時代あたりから起こってきたものだろうとおもいます。
現在のような科学の時代になると、呪いと祝いは科学的に分析されて、たいていのことは解明してしまったとおもいます。
さすがにそこまで考える必要もないとおもうのですが、俊徳丸のかかった業病は、いまでいうハンセン氏病だったという話さえありました。
菅原道真や平将門、崇徳天皇といった怨霊とされる歴史上の人物も、現代のわれわれが呪いのチカラを信じているかというと、もうほとんどだれも信じていません。
こういった怨霊的なものがなにか悪いものをもたらすとすれば、それは「疑心暗鬼を生ず」で、じぶんの心の働きがそういった悪いものへの感受性を高めている。
つまり、プラセボのようなことが起こっているんだ、という科学的説明がなされます(笑)
そう考えると、ネット上の「炎上」は、現代の呪いですね。
ある人の起こした行動に対して、多数の人が「けしからん」といって攻撃をする。
しかし物理的なチカラではない形で攻撃をするわけですから、この炎上を食らう人は肉体的には痛くもかゆくもない。
痛くもかゆくもないのだけど、実際に炎上を受けた人はやはりいろんな面(特に精神面や法的罰則)でひどい目にあうことが多いです。
お住まいのリフォーム工事、お疲れさまでした。
建物ひとつを多くの人で共有するわけですから、定期的に建物全体のメンテナンスが必要なのだとおもいますし、ふだんから共益費を負担なさっているのだとおもいますが、わたしの家のようなおんぼろ一軒家はだれが修繕してくれるわけでもないので、たいへんうらやましいことです(笑)
ギズモさんのお部屋には厄除け、縁起物がたくさんあるとのことですが、そういうことは、やはり精神衛生にはよいのだとおもいます。
以前仲間内で、「厄除けに意味はあるのか」という話をしたときに、ある人が「気になるならやったほうがいい」と答えました。
わたしはその答えに感心したのですが、ようするに「気のもの」なんですよね。
だから、神仏に感謝をするとか、常から身辺を祓い清めておく、といったことで、じぶんにとってよい気をまとっておくというのは、少なくとも精神衛生にはよいのでしょう。
というのも……。
また話が長くなってしまいますが、室町時代以降、日本にやってきたヨーロッパの人々は、日本人があまりにも清潔な暮らしをしていることに驚いたそうです。
もちろん清潔といっても、現代の衛生観念には遠く及ばないんですが、それでも当時のヨーロッパに比べると清潔でした。
当時のヨーロッパの食堂では、床に背の高い草の葉が敷かれていて、客は食べ終わった肉の骨や食べかすをこの草に放り込んでいたそうです。
草に紛れてしまえば、見た目はそんなに汚れたように見えないというふざけた話なんですが、この草に隠れたゴミは野良犬に食わせていました。
また当時の西洋人は家でも土足で入りましたし、みな至るところでツバを吐いていたといいます。
日本にきた宣教師が、日本人の家は清潔なので、どこでツバを吐いたらいいのかわからないといった記述が残っているくらいですから、西洋人にとって日本人は不思議な民族におもえたことでしょう。
日本人が清潔だったというのは、古神道から続く「祓い清める」という行為からきています。
たとえば神社にお参りするときに、手水場で手を洗って口をすすぎます。
あれは儀礼的なもので、現代のわれわれはあの程度の手洗いと口すすぎでは、ほとんど衛生的な効果はないと知っています。
それでもむかしの人は、神域に入るにあたってじぶんの体の不浄を清めておこう、と考えたんですね。
日本の場合はアニミズムですから、神社にかぎらずあらゆる場所に神がいます。
台所や便所も、神様がいるのだから最低限の清潔は保とうということになる。
この清潔感は、現代の衛生観念とは違うもので、細菌感染を防ぐための衛生というよりは、祓い清めるという意味ですね。
つまり、科学的合理性に基づいて細菌を落とせているか、というようなことではなくて、その行為によってきちんと祓い清められているかどうかが、とても大事なんです。
そういう意味で日本人は、山や川もきれいにしようと努めました。
家の中だって往来だって、ちゃんと掃除しておかないと神様仏様に申し訳がないとおもっていたことでしょう。
祓い清めるという観念は、キリスト教や仏教では重要ではなかったので、宣教師たちは神道独自の観念をもった日本人の生活のありようが不思議だったのだとおもいます。
そういった日本の民族性を考えると、お祓いという形での精神衛生はバカにできないとおもいます。
今回も長くなってしまいました(笑)
季節の変わり目で体調を崩しやすい時期かとおもいますし、ぼちぼち年の瀬の背中が見えてくるころで、気ぜわしくなってくる時期でもあるとおもいます。
服装や掛布団のコントロールがむずかしい時期ですが、お互い体調に留意しながら乗り切っていきましょう。
むかしからいまのように使われていた一人称ではありません。
それが明治維新のころ、江戸末期に革命家たちが京都に集まったときに、じぶんを「僕」、相手を「君」と呼んだのが、ぼくという一人称の広まるきっかけでした。
刀を腰に差して、幕府を転覆させてやろうか、それとも外国人を打ち払おうか、と考えるようなギラギラした連中が「ぼく」と言うのだから、どうも怖いようなところがあります。
もちろん現代ではそんな毒気は抜けて、ぼくという一人称は子供がつかうか、あるいは単にへりくだった表現となりました。
しかしたとえば、総理大臣や天皇が「ぼく」では困ります。
なぜかというと、このような立場の人が公的な場で無用にへりくだって、立場をあやふやにすると、むしろ下座に構えている周囲が困るからです。
わたしは総理大臣でも天皇でもないし、そういった立場自体をこれまで嫌っていましたから、できれば一生「ぼく」でいたいとおもっていました(笑)
ところが、自治会長になると、自治会の人はじぶんが陳情を申し上げやすいように、自治会長を上座に持ち上げます。
ふだんわたしのことを名前で呼んで対等に接してくれる80代の大先輩も、陳情があるときは「ところで自治会長さん」と下座から迫ってくるのです。
つまり、「ぼく」ではどうも周囲の風当たりがおかしいから、わたしのほうから周囲の人々に忖度して、わたしを自称せざるをえなくなってきたんですよね(笑)
上座に座って神輿に乗るのは、実際には下から槍で突っつかれて、常に座り方を矯正させられるようなもので、じつに居心地のわるいものです(笑)
もっといえば、じつは下座のほうが怖い存在なんですよね。
池部良さんが「ぼく」と自称していたということですが、自然と人から持ち上げられて立場を得ることの多い方だったようですから、「ぼく」と自称してへりくだるくらいでちょうど立場が均衡するような、強い魅力の持ち主だったのでしょう。
神輿を担ぐ側が、担いでいて気分がよいというタイプの人がたまにいます。
そういうタイプの方だったのではないかと推察しました。
最近、池波正太郎が出演していた古いNHKの番組をみました。
池波さんの実際の姿をみるのは初めてでしたが、あの人はたぶんわるい人じゃないとおもいます。
が、椅子にふんぞり返って、じぶんを大きく見せようとしているのが鼻につきました。
池波正太郎は大正12年生まれで、司馬遼太郎や遠藤周作と同い年です。
池部さんよりは5つほど年下ですが、おなじ軍人の世代ですね。
謙虚な池部さんとは対照的なようですが、池波さんは池波さんで、どうせ上座にたてまつられるのならと、おもいきってふんぞり返っていたのかもしれません。
いわば神輿の乗り方のスタイルの違いです。
池波さんの場合は自然と周囲から持ち上げられるのではなく、たたき上げでのしあがっていったタイプでした。
もちろん作家としての実力はすごかったわけですから、先生、先生と持ち上げられて、自然と神輿に乗ることになります。
神輿を担ぐ側としては、池波さんが謙虚であるよりも、ふんぞり返ってくれていたほうが、たてまつってさえおればよいという点でラクだったでしょう。
そう考えると、池波さんもじぶんを持ち上げる人たちに気を遣って、わざと相手がゴマをすりやすいように、身の丈にあわぬ尊大な態度をとっていたのかもしれません。
自利が満たされてから利他が広がっていく関係性は、「衣食足りて礼節を知る」ということなのか、ということですが、その通りだとおもいます。
そこをもうすこし掘り下げていくと、衣食が足りた以上は、あとはひたすら利他に生きるほかない、というメッセージでもあるんですよね。
なぜかというと、自利から始まって利他へ広がっていく、ということが万人に共通した考えであれば、世界中の人はまずじぶんが受け取らねばならないと考えていることになります。
世界中の人が、まず最初に受け取ることだけを考えていたら、だれも与える側には回りません。
そうなると、結局だれも受け取る側に回れませんから。
ツバメの子供が巣で口をあけながらピーピー鳴いているのを「自利行為」だとすると、餌をとって巣に持ち帰って子の口に運んでやる親ツバメは「利他行為」をしていることになります。
利他行為で必死になる親ツバメがいなければ、子ツバメは自利を訴えるうちに餓死することでしょう。
人間の場合も、じぶんの自利を辛抱して、だれかの自利のために、利他的に立ち回る必要があります。
そうすることで、だれかの「衣食足りて礼節を知る」が生まれ、そして次の利他が生まれる、という循環になっているんですよね。
おまんじゅうがみっつ手元にあったとして、ひとつは家族に、ひとつは社会に分け与える。
じぶんもひとつのおまんじゅうをいただく。
ひとつだと物足りなくてガッカリなんですが、そこは辛抱しようといって、ふたつを利他として施す。
あの詩(「慈悲の瞑想」というそうです)の意味は、つまりそういうことだとおもいます。
みっつのおまんじゅうを独り占めする人ばかりだと、おまんじゅうを食べたときはおなかいっぱいで満足かもしれませんが、次にじぶんが飢えたときに、だれも手を差し伸べてくれません。
自利がまず満たされないことには利他が広がっていかない、という人間の業は、実際そうなんですが、それでも結局人間は自利の追求だけでは生きていけず、分け与えていかねばならないんですよね。
(そうでなければ、「親しい人」や「生きとし生けるもの」に祈りをささげる理由がありませんから)
ところで、キリスト教では口づけを聖なる行為と位置付けているようです。
西洋人はなにかにつけやたらとキスをしますが、キリスト教という土台があればこその行為なのでしょう。
その点キリスト教圏以外では、口づけにさしたる意味づけがありません。
イスラム教では、わざわざ公共の場でのキスは避けるべきとして戒めているくらいです。
日本の場合、接吻となると急に神聖さが失われ、それこそ「口吸い」のように、行為そのものが際立つ露骨な言葉になります。
ですから俊徳丸と許嫁の娘がもし、口づけをして病が癒えたという話になるのなら、高安から追い出された俊徳丸が、舟で朝鮮半島へこぎつけ、遠路はるばるエルサレムの聖墳墓教会へ向かい、許嫁もたまたま聖墳墓教会に行って出会う、基教説話にまで達した場合は成立するかもしれませんね(笑)
呪いの話が出ましたが、「呪」と「祝」は、語源をたどるとおなじ「祭礼のときの言葉」でした。
これがいつしか、片方はわるい意味に、片方はよい意味とわかれます。
原始宗教では、呪いと祝いは混然としていました。
たとえば八坂神社の祇園祭では、スサノオ(牛頭天王)の脅威を祓うためにお祭りをします。
人々は疫病の神を一方的に恐れるのではなくて、楽しむんですね。
楽しむことがお祓いになっているので、一生懸命楽しまないと神仏の祟りがあるぞというわけです。
祓っても祓っても、毎年呪いを鎮めるために祝うというわけで、呪いと祝いが汽水域のようになっています。
この元になったスサノオの話は、備後国風土記という、奈良時代初期に編纂された書物までさかのぼります。
古神道のころの、仏教などの影響の少ない物語は、呪いと祝いが未分化なものが多いようにおもえます。
これが室町あたりから広まった俊徳丸伝説になると、呪いは西洋の魔女がかける「魔法」に近い形となります。
この魔法を観音菩薩が解いて救済して(祝って)くれる。
呪いは呪い、救済は救済ではっきりわかれています。
またこの時代になると神仏が人間の苦しみを救う祝いの要素が出てくるんですが、こういう変化は日本の場合は平安時代あたりから起こってきたものだろうとおもいます。
現在のような科学の時代になると、呪いと祝いは科学的に分析されて、たいていのことは解明してしまったとおもいます。
さすがにそこまで考える必要もないとおもうのですが、俊徳丸のかかった業病は、いまでいうハンセン氏病だったという話さえありました。
菅原道真や平将門、崇徳天皇といった怨霊とされる歴史上の人物も、現代のわれわれが呪いのチカラを信じているかというと、もうほとんどだれも信じていません。
こういった怨霊的なものがなにか悪いものをもたらすとすれば、それは「疑心暗鬼を生ず」で、じぶんの心の働きがそういった悪いものへの感受性を高めている。
つまり、プラセボのようなことが起こっているんだ、という科学的説明がなされます(笑)
そう考えると、ネット上の「炎上」は、現代の呪いですね。
ある人の起こした行動に対して、多数の人が「けしからん」といって攻撃をする。
しかし物理的なチカラではない形で攻撃をするわけですから、この炎上を食らう人は肉体的には痛くもかゆくもない。
痛くもかゆくもないのだけど、実際に炎上を受けた人はやはりいろんな面(特に精神面や法的罰則)でひどい目にあうことが多いです。
お住まいのリフォーム工事、お疲れさまでした。
建物ひとつを多くの人で共有するわけですから、定期的に建物全体のメンテナンスが必要なのだとおもいますし、ふだんから共益費を負担なさっているのだとおもいますが、わたしの家のようなおんぼろ一軒家はだれが修繕してくれるわけでもないので、たいへんうらやましいことです(笑)
ギズモさんのお部屋には厄除け、縁起物がたくさんあるとのことですが、そういうことは、やはり精神衛生にはよいのだとおもいます。
以前仲間内で、「厄除けに意味はあるのか」という話をしたときに、ある人が「気になるならやったほうがいい」と答えました。
わたしはその答えに感心したのですが、ようするに「気のもの」なんですよね。
だから、神仏に感謝をするとか、常から身辺を祓い清めておく、といったことで、じぶんにとってよい気をまとっておくというのは、少なくとも精神衛生にはよいのでしょう。
というのも……。
また話が長くなってしまいますが、室町時代以降、日本にやってきたヨーロッパの人々は、日本人があまりにも清潔な暮らしをしていることに驚いたそうです。
もちろん清潔といっても、現代の衛生観念には遠く及ばないんですが、それでも当時のヨーロッパに比べると清潔でした。
当時のヨーロッパの食堂では、床に背の高い草の葉が敷かれていて、客は食べ終わった肉の骨や食べかすをこの草に放り込んでいたそうです。
草に紛れてしまえば、見た目はそんなに汚れたように見えないというふざけた話なんですが、この草に隠れたゴミは野良犬に食わせていました。
また当時の西洋人は家でも土足で入りましたし、みな至るところでツバを吐いていたといいます。
日本にきた宣教師が、日本人の家は清潔なので、どこでツバを吐いたらいいのかわからないといった記述が残っているくらいですから、西洋人にとって日本人は不思議な民族におもえたことでしょう。
日本人が清潔だったというのは、古神道から続く「祓い清める」という行為からきています。
たとえば神社にお参りするときに、手水場で手を洗って口をすすぎます。
あれは儀礼的なもので、現代のわれわれはあの程度の手洗いと口すすぎでは、ほとんど衛生的な効果はないと知っています。
それでもむかしの人は、神域に入るにあたってじぶんの体の不浄を清めておこう、と考えたんですね。
日本の場合はアニミズムですから、神社にかぎらずあらゆる場所に神がいます。
台所や便所も、神様がいるのだから最低限の清潔は保とうということになる。
この清潔感は、現代の衛生観念とは違うもので、細菌感染を防ぐための衛生というよりは、祓い清めるという意味ですね。
つまり、科学的合理性に基づいて細菌を落とせているか、というようなことではなくて、その行為によってきちんと祓い清められているかどうかが、とても大事なんです。
そういう意味で日本人は、山や川もきれいにしようと努めました。
家の中だって往来だって、ちゃんと掃除しておかないと神様仏様に申し訳がないとおもっていたことでしょう。
祓い清めるという観念は、キリスト教や仏教では重要ではなかったので、宣教師たちは神道独自の観念をもった日本人の生活のありようが不思議だったのだとおもいます。
そういった日本の民族性を考えると、お祓いという形での精神衛生はバカにできないとおもいます。
今回も長くなってしまいました(笑)
季節の変わり目で体調を崩しやすい時期かとおもいますし、ぼちぼち年の瀬の背中が見えてくるころで、気ぜわしくなってくる時期でもあるとおもいます。
服装や掛布団のコントロールがむずかしい時期ですが、お互い体調に留意しながら乗り切っていきましょう。