山麓王国

2025年12月16日の投稿1件]

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ややこしい話を聞いていただいているのはわたしのほうですから、お返事のタイミングは一切気になさらないでください。

おそらく次のお返事も、期間を区切るとしんどいとおもいますから、いつになってもけっこうです。

氷川神社でわたしのことをお話いただいて、ありがとうございました。

またさまざまな興味深いお話、お考えをありがとうございます。



今回はこれまでのまとめとして、日本の神代についてお話ししようとおもったのですが、とんでもない長さになってしまいました。

イザナギ・イザナミから卑弥呼・壱与、そこにスサノオがどう絡んだか。

出雲国とヤマト王権の関係性。

そして神武天皇の東遷、崇神天皇へと続き、最後は出雲族の氷川につながる話になります。

あくまでわたしが解釈した「物語」なのですが、神話と実際の歴史の時系列を整えたことで、おもしろい読み物にはなっているとおもいます。

長いので、ぜひゆっくりとお楽しみください(笑)



日本では7世紀になってようやく日本書紀、古事記によって、日本国家の主権を主張しました。

日本も大陸の王朝の歴史書のように、「紀元前よりむかしから国の歴史があった」と示したかったんですが、ヤマト王権の歴史は2世紀あたりに始まったようです。

それ以前は小国……ともいえぬような集団が各地を自治していたと考えられます。

神話では「混沌」とされる時期で、この時期にはヤマト王権につながる系譜はありません。

そのため、記紀神話ではあたかも紀元前から歴史がつながっているかのように、神代から初期の天皇の系譜までを長く引き延ばすレトリックを多用しました。



神武天皇の寿命が127歳だとか、バカげたことになっているのはそのためです。

今回わたしは、イザナギ・イザナミの国生み・神生みから10代崇神天皇までは、西暦100年ごろから250年ごろのたった150年の歴史だったのではないかと考えました。



ところで今回は、これまでわたしが推測した神話の話はぜんぶ忘れてください(笑)

スサノオの件でも、今回はかなり深掘りしましたので、前回と似ている部分もあるものの、まったく違う話になっています。

どうかご容赦ください。



さて、神武天皇や崇神天皇は、一般的には紀元前の生まれということになっているようですが、実際にはもっとのちの世に活躍したとおもわれます。

神武天皇は170年から220年ごろ。
崇神天皇は230年ごろから280年といったところでしょうか。



なぜそう考えるかというと、たとえば10代崇神天皇は倭迹迹日百襲姫命の甥っ子なのですが、この人の墳墓とされる箸墓古墳は250年ごろに建造されたことが、調査で明らかになっているんですね。

西暦250年あたりを生きた人の甥っ子が紀元前生まれだと、つじつまが合いません。



また欠史八代(2代目から9代目までの天皇)をほとんど存在しないものと考えると、神武天皇も2世紀ごろの人だと考えられます。

欠史八代とはよく言ったものだとおもいますが、それを証明するような話として、倭迹迹日百襲姫命のこんな伝説をご紹介しましょう。



倭迹迹日百襲姫命と大物主神が結ばれることになりました。

しかし逢瀬はいつも夜ばかり。

姫が「どうしても明るいところでお顔が見たい」と望みました。

大物主は「わかりました。それでは夜が明けたら櫛箱の中をのぞいてみてください」といいました。

あくる朝、姫が櫛箱をのぞくと、小さなヘビが入っていたため、悲鳴をあげてしまいます。

このヘビこそ、大物主の正体でした。

大物主は姫の態度に恥じ入って(あるいは大いに怒り)、三輪山へ帰ってしまいます。

姫が後悔して腰を落としたところ、箸が陰部に刺さって死んでしまったため、姫の墓は箸墓古墳と呼ばれるようになりました。




ちなみに大物主は奈良県の三輪山にいた製鉄集団の長だったとおもわれます。

櫛箱の中にいたのが「ヘビ」だったことも、製鉄との関係をにおわせます。



大物主は若いころ、勢夜陀多良比売(セヤダタラヒメ)を見初めて結婚しました。

その娘を比売多多良伊須気余理比売(ヒメタタライススキヨリヒメ)といいます。

ふたりとも名前に「たたら」が入っていますよね。



ギズモさんも疑問を感じておられたとおもうんですが、日本の製鉄の歴史は6世紀末から始まったといわれます。

しかしこれは発掘調査でそれ以上むかしの製鉄遺跡がみつからないだけで、少なくとも神話を読み解くうえでは、2世紀末にはすでにたたら製鉄は始まっていたと考えられます。



さて、そんな大物主の娘の比売多多良伊須気余理比売は、初代神武天皇の正妻になりました。

これは神話をそのまま読んでいると、非常にヘンな話です。



なぜなら、

・倭迹迹日百襲姫命(10代崇神天皇のおば)が大物主と結婚。

・初代神武天皇に大物主の娘が嫁ぐ。

時系列がめちゃくちゃです。

神武天皇に娘を差し出した大物主が、その数百年後に百襲姫と結婚したのでしょうか。



もちろんそんなことはありません。

まず大物主の娘が神武天皇の妻になります。

このとき、大物主はまだ30代といったところ。



その後20~30年後に、巫女の倭迹迹日百襲姫命と、老境の大物主が結婚。

そうすると、時系列でつじつまが合うのです。

欠史八代がほとんど存在しない、いたとしても神武天皇と崇神天皇の間にほとんど空白期間がない、と考えると、歴史の隙間が埋まります。

逆にいえば、神武天皇と崇神天皇の間に微妙な空白期間があったために、欠史八代が入り込んだとも考えられます。



今回はこんな感じで、神話と実際の歴史の時間差を埋めながら話を進めます。

それでは、日本の歴史の最初、イザナギとイザナミからはじめていきましょう。



神話によるとイザナギとイザナミの物語では、最初にイザナミから求愛をしましたがうまくいかず、イザナギから求愛すると国生みと神生みがうまくいくようになったとあります。

なぜイザナミが最初に求愛したのかというと、ふたりのいた社会ではイザナミのほうが立場が上だったからでしょう。

女性がトップにいる社会というと、卑弥呼とおなじ巫女ですね。

イザナミの墓は出雲にありますから、出雲の巫女だったと考えられます。



しかしイザナミが政治を主導するとうまくいきません。

そこでイザナギに政治を主導してもらい、イザナミが巫女としてサポートする形をとると、圧倒的なスピードで様々な国が出雲の国に従うようになり、多くの人(神)がふたりの国に従うようになりました。

これが国生みと神生みということでしょう。



しかしイザナミは道半ばで亡くなりました。

神話によると、イザナミは、火の神カグツチを生んだことで陰部を火傷して死んだとあります。

カグツチの体からは、大量の山祇命(ヤマツミノカミ:山の神)が生まれました。

この中には大山祇命という山の民の超大物もいました。



すこし性急かもしれませんが、山と火というと、単なる山の民ではなく、やはり製鉄集団の可能性を考えてしまいます。

しかしこのときはまだ「たたら」という言葉が出ませんから、自前での製鉄技術はなく、朝鮮や中国から鉄を買い付けて「鍛冶」をしていたのでしょう。



わたしは「出雲の山にいた製鉄鍛冶集団の中に不届き者がいて、イザナミを殺してしまった」と考えました。

イザナギは激怒し、カグツチを斬り殺します。

この一連の出来事が実際にはどんな感じだったのか、さらに想像を広げてみましょう。



イザナギと順調に国土を広げていったイザナミでしたが、あるときから政治的野心が顔をのぞかせます。

巫女の神懸かりで、じぶんの都合よく事を運ぼうとするようになったのでした。

イザナギはイザナミがおかしくなったことに気づいていません。

ついに山の民が怒り出し、なかでも過激な一派によってとうとうイザナミが殺されてしまいました。

イザナギはなにが起こったのかわかりませんから、激怒し、優秀な仲間を引き連れて、イザナミを殺した主犯を突き止めて殺しました。

しかしイザナミの死の原因を追究していくにつれて、どうやら山の民が相当な不満を抱えていたこと、イザナミに大きな問題があった可能性が浮上します。



まさかイザナミがそんなわけはないだろうとおもいつつ、そのこと問題を突き詰めていくと、イザナミの悪事を支えていた権力者たちによって、イザナギは出雲を追い出されてしまいました。

権力者たちはイザナギに向かって、「お前がどこかで国をつくれば、その国の人間を毎日1000人殺してやる」と脅します。

イザナギは「それならわたしは毎日1500人生まれる国をつくってやろう」というのでした。

イザナギはじぶんに付き従う者を引き連れて九州へ向かって、あらたな国家をつくり、そこでも巫女を立てます。

アマテラス(卑弥呼)でした。



イザナギは黄泉の国の穢れを川で落とすときに、左右の目からアマテラスとツクヨミを生み、鼻からスサノオを生んだといいます。

このうちアマテラスとスサノオは有名ですが、ツクヨミはいまいちはっきりしない存在ですよね。

おそらくツクヨミは「月を読む存在」。

つまり当時の天文である古代道教という規範が、アマテラスの隣にあったということでしょう。

イザナミには、巫女としての規範がなかったことが問題でした。



スサノオは朝鮮からやってきた集団の若い頭領で、出雲ではイザナミに可愛がられていましたが、これといった役職にはついていません。

イザナミが死ぬと、スサノオはイザナギに従って九州に行くのですが、そこで頭角をあらわします。



スサノオたちは、高千穂や出雲や朝鮮などの国々をつなぐ外交官のような存在でもあり、あるいは朝鮮からきたことから、鬼道(道教)を全国に伝え広める役割も担っていたのかもしれません。

ツクヨミとスサノオの伝承が似ていることを考えると、そもそも鬼道をアマテラスに教えたのも、スサノオの可能性があります。

しかし高千穂にいたスサノオに出雲国とのスパイの可能性が浮上しました。



さて、いったんここで想像を止めましょう。

これまでのことを考えると、イザナギは西暦100年ごろから170年ごろ。

イザナミは西暦100年ごろから140年ごろを生きたのではないかとおもいます。



イザナギは140年ごろに出雲を追い出されて、九州であらたな国をつくります。

アマテラス(卑弥呼)は西暦150年あたりに生まれて、160年あたりで高千穂の巫女となったのではないでしょうか。

そして230年あたりまで70~90歳と、相当長生きをしているとおもわれます。

箸墓古墳が250年あたりに建造されたことを考えると、アマテラスから崇神天皇までの皇統が、たった100年程度で一気に進んだということになります。


アマテラス

アメノオシホミミ

ニニギノミコト

山幸彦

ウガヤフキアエズノミコト

神武天皇
↓→このころに卑弥呼(アマテラス)が亡くなる
(欠史八代)

崇神天皇



これをどう100年におさめるのか。

神話を素直に解釈するわけにはいきませんから、わたしはアマテラスの巫女即位から神武天皇が即位するまでの物語は、九州にあったべつべつの小国を巻き込んで、ほんの20~30年の短期間で行われていたのではないかと考えました。

ここまででかなりわたしがおかしなことを言っているようにおもわれるかもしれませんが、神話をよむ限り荒唐無稽ということでもないのです。

ここからはまた想像を広げましょう。



まずイザナギが西暦160年ごろに、高千穂でアマテラス(卑弥呼)をたてました。

まだ10歳くらいの、幼い少女です。

イザナミのときとちがって、この少女には道教の規範を教え込んで、逸脱した神懸かりをしないようにしつけました。

スサノオがその役を引き受けたことから、アマテラスの側近として非常に高い地位を与えられ、さまざまな仕事を任されることになります。

しかしスサノオは次第に増長し、じぶんが出雲の王になれば、高千穂と出雲との抗争もなんとかできるのではないかと、野心を抱くようになりました。

そして、イザナミに会いに出雲へ行きたい、と言い出すようになったのです。



それを知ったイザナギは激怒しました。

これほどの地位と権限を与えたのに、まさかおまえはスパイだったのかと、怒りに任せてスサノオを一族ごと追放してしまいます。

しかしスサノオには野心はありましたが、高千穂を裏切ろうという気はありません。

じぶんの軽挙がこのような誤解を生んでしまったことをひどく後悔し、ほとんど出雲に着いたところで、やはりアマテラスにお会いしてじぶんに二心がないことをお伝えする、と言って、また高千穂に戻ったのでした。



高千穂ではスサノオが帰ってきたために、まさか出雲が攻め込んできたのかと武装します。

しかしスサノオはぼろぼろ泣きながら、じぶんの無実を伝えるのでした。

幼いアマテラスは女官とともにスサノオに対して、裏切り者ではないことの証明をしてみせよといいます。

そして取引として、スサノオからは5人の優秀な人材を差し出させました。(アマテラスとスサノオの誓約)

ほんとうに高千穂がほしい人材だったこともあり、スサノオは許されました。

このときスサノオの差し出した者のひとりが、アメノオシホミミです。



壮齢のアメノオシホミミにはすでに青年となった子がいました(ニニギノミコト)。

ニニギノミコトも秀でた才能の持ち主で、アマテラスに命じられるかたちで、正式に高千穂の王となりました。(天孫降臨)



スサノオはアマテラスに許してもらえたことで、いままで以上に野心を表に出して出雲と高千穂を行き来するようになります。

スサノオには「大きなことを為したい」という気持ちが強く、直情的でわがままで、しかも腕っぷしがめっぽう強いため、周囲を振り回して困らせるわるいクセがありました。

全国に向かう中で悪評も残しながら、出雲では「ニニギノミコトはわたしの縁者だ」といい、大山祇命と人脈を形成。

高千穂では「わたしは大山祇命とコネクションを持っている。大山祇命の娘をニニギノミコトの妻にして友好を図ろう」などと、余計なことをし始めるのでした。



ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメの伝説の中で、初夜を共にした次の日にコノハナサクヤヒメの妊娠がわかったことから、ニニギノミコトが「それはわたしの子ではない。国津神の子ではないのか」と告げたエピソードがあります。

国津神とは、「よその国の者、とりわけ出雲の者」という意味を持つ、とんでもない言葉でした。

これはコノハナサクヤが実際に子をはらんだというよりは、彼女にスパイの疑いがかけられたということのようにおもえます。



このあとコノハナサクヤが生んだのが山幸彦と海幸彦なのですが、九州における山の民と海の民をあらわすといわれます。

つまり、高千穂でニニギノミコトが王になる一方、九州の山の民(山幸彦)と海の民(海幸彦)による浦島太郎のような物語が展開されていたと考えられます。



山幸彦が竜宮城(朝鮮)の王のワタツミノカミから娘をもらい、子を授かった(ウガヤフキアエズノミコト)エピソードは、以前お話したかとおもいます。

さらにこのウガヤフキアエズノミコトが、山幸彦の妻の妹と結婚して、神武天皇を生みます。

山幸彦はじぶんの妻の妹をわが子にめとらせることで、ワタツミノカミとの結びつきをより強固なものにしたかったのでしょう。



しかし当時の女性の出産適齢期はかなり短かったはずです。

そう考えると、ウガヤフキアエズノミコトはほとんど精通してまもないころに、山幸彦の妻の妹と結ばれて、子を授かったと考えられます。

ワタツミノカミの後ろ盾を得て、山幸彦は海幸彦を帰順させ、破竹の勢いで高千穂に接近しました。

このとき、山幸彦は30代前半、ウガヤフキアエズノミコトは10代前半で、さらに赤ん坊の神武天皇がいたことになります。



さて、ここでまたスサノオに登場してもらいましょう。

わたしが今回の仮説をたてるうえでずっと疑問だったのが、アマテラスの岩戸隠れでした。

アマテラスが岩戸に隠れて、スサノオが追放される話は、いつ起こったのか。



卑弥呼の死んで壱与が立ったことと岩戸隠れを結びつけると、スサノオがソシモリへ行くのは100歳くらいになってしまいます。

神話だからそれもアリ、といえばそれまでなんですが、今回はできるだけ神話を実際の歴史に近づけたい。

そうすると、ニニギノミコトが高千穂にいるころ、アマテラスがスサノオに脅かされる出来事があったのではないか。

そして調べていくうちに、こんな形でつじつまが合いました。



先ほど、ニニギノミコトが妊娠したコノハナサクヤに暴言を吐いたエピソードがありましたが、その前にも、ニニギノミコトはイワナガヒメを大山祇命に送り返しています。

大山祇命が激怒して、「これでお前の寿命は神ではなく、人間とおなじになった」といったエピソードは有名ですね。



この大山祇命は先ほども話しましたが、イザナミを殺したカグツチから生まれた神のひとりであり、出雲の山の民のトップでした。

イザナギとは因縁があるのですが、スサノオが間をとりもつようなかたちで、大山祇命の娘をニニギノミコトがもらうことになります。

しかし、ニニギノミコトはこの政略結婚を快くおもわず、イワナガヒメを送り返したのみならず、コノハナサクヤも出雲のスパイだとおもうようになりました。

出雲の大山祇命が激怒して寿命のことを話したのは、あるいはこのようなニニギノミコトのふるまいに対して、「やはり高千穂を許さぬ。ニニギノミコトを殺してやる」という脅しだったのではないか。



実際神話では、コノハナサクヤが山幸彦たちを生んでしばらくすると、ニニギノミコトは崩御したとあります。

原因ははっきりしませんが、もし出雲からのスパイによって殺されたとすれば、卑弥呼が出雲勢力(スサノオ)を恐れて天岩戸に隠れた理由になります。



つまり、出雲と高千穂の関係性がいよいよ危ない、どうなるかわからないということになり、卑弥呼が姿をくらました間に、ニニギノミコトが殺されてしまいました。

アマテラスが天岩戸に隠れたことで世の中が暗くなったのはこのためです。



そうと知らぬスサノオが高千穂にやってくると、すぐさまとらえられました。

アマテラスが隠れたこと、大山祇命との争いによってニニギノミコトが崩御したことを伝えられ、その原因がスサノオにあるといわれたため、スサノオは大いにうろたえます。

スサノオに悪意はありませんでしたが、スサノオの行為が最悪の結果を招いたことは事実です。



スサノオはもはや高千穂にも出雲にも居場所を失い、失意にうちひしがれて生まれ故郷の朝鮮へ向かいましたが、やはりすぐにまた出雲へ戻ってしまいました。

ギズモさんのお考えをお借りすると、このときに製鉄について学び、出雲の豊富な砂鉄を利用すれば、自前で製鉄が行えるのではないかと考えたのかもしれません。

これはいい手土産ができたぞと、出雲にたどりつくと、大山祇命には会えませんでしたが、その子であるアシナヅチとテナヅチに会えました。

そこであたらしい製鉄の話を切り出そうとしましたが、どうも様子がおかしい。

聞くと、最近出雲の山であたらしい暴力的な勢力(ヤマタノオロチ)が出てきて、山が勝手に伐採されるわ、それを注意すると殺されたりするわで、山の民がみな困っているというのです。



そこでスサノオの野心がまた、にわかに持ち上がりました。

これは千載一遇の大チャンスだと、機を見るに敏なスサノオのセンサーが反応したのです。

スサノオは、ヤマタノオロチを討伐したら娘をわたしにくれないかと談判しました。

クシナダヒメはまだ10代前半の少女でしたが、なにせ大山祇命の孫ですから、政治的後ろ盾を得る意味で大きな意味があります。

そして見事ヤマタノオロチを退治すると、スサノオは一躍、出雲の製鉄利権のリーダー的存在となりました。



これまでは軽挙でまわりを振り回したり振り回されたり、居場所を失って朝鮮へ渡ったりとさんざんでしたが、ここへきて大山祇命の強力な後ろ盾は得られるわ、若い妻がもらえるわ、自前のたたら製鉄利権が手に入るわと、人生ウハウハの最高潮ではありませんか。

そこで一句。

「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠に 八重垣つくる その八重垣を」
(もっとたたらを踏んで、鉄を溶かして煙を上げろ 出雲に雲をなびかせよ 大事な妻を守るためにこの国をどこまでも堅固にするのだ)



なぜスサノオのエピソードに限って8の字が多いのか、というギズモさんの問いかけについてですが、わたしはこのように考えました。

朝鮮から出雲へきてからというもの、スサノオに突然幸運が舞い込んでくるようになるでしょう。

8という数字は「とても多い」という意味の聖数です。

8という数字が出てくるたびに、スサノオに最高の幸運が舞い込んでくるというイメージですね。



ヤマタノオロチでさえ、スサノオにとってはチャンスでした。

そして八塩折之酒、クシナダヒメとの間の八柱の神。

ギズモさんがおっしゃったように、クシナダヒメが8人姉妹の末っ子だったこともそうですね。

そして「八雲立つ」のあの歌は、もはや確変状態で8を連発しています。

冗談じみた解釈ではありますが、8という数字の多さは、出雲にきてからのスサノオのバカヅキ具合をあらわしているようにおもえてなりません。



文学的には、たとえばこれからわるいことが起こるようなときには、大雨の情況を描いたり、突然カラスがガアガア鳴き始めるとか、不吉な予兆を強調するレトリックがあります。

逆に吉兆の前触れだと、晴天だとか、虹がかかるといったようなことですね。

スサノオの場合は、吉兆を伝えるレトリックとして8がもちいられたのではないか、というのがわたしの推測です。



さて、ヤマタノオロチの腹から出た剣は、アマテラスに献上したとあります。

これはつまり、

「わたしにはアマテラスを困らせるような二心はなかったのです。出雲に帰ってきてしまいましたが、出雲の山の抵抗勢力を討伐したことで、大山祇命とも親族となり、あたらしい製鉄法によってわたしが製鉄利権を統一しました。ニニギノミコトの件については申し訳なかったが、どうか友好の証にこの剣を受け取っていただきたい」

ということでしょう。



スサノオから高千穂に話を戻します。

周辺の国々を制圧した山幸彦が高千穂にやってきました。

ワタツミノカミの後ろ盾も得て、海幸彦の国をも統合した山幸彦は、ニニギノミコトの後継者として認められます。

高千穂の王であることにするため、形式としてコノハナサクヤの子ということになりました。



このとき、卑弥呼(アマテラス)はまだ30代。

卑弥呼は神武天皇をかわいがり、高千穂にいる間は、形式的に神武天皇の妻(吾平津媛)ということにさえなりました。

しかし卑弥呼は神武天皇が15歳くらいになると、ヤマトの地を開拓するように命じ、東遷を見送ったのです。



神武天皇は見事にヤマトの地をおさめました。

卑弥呼は卑弥呼で、九州の地で巫女政治を行っています。

そして230年前後に卑弥呼が死ぬと、巫女がいないことで世が乱れてきたため、ヤマトの地にあらたな巫女として倭迹迹日百襲姫命(卑弥呼の後継者である壱与)が立てられます。



ここにきて、出雲にイザナミ、高千穂に卑弥呼、そしてヤマトに倭迹迹日百襲姫命、という結びつきが出てきました。

ちなみに神話におけるアマテラスは「道教(ツクヨミ)と共にある巫女」という意味で、高千穂の卑弥呼とヤマトの壱与の両方を掛け持ちする形になります。



ところで、吾平津媛(アヒラツヒメ)については情報が少ないのですが、東遷する際に神武天皇を見送ったとあります。

わたしはこの吾平津媛が卑弥呼だったと考えて、この話を組み立てました。



中国の歴史書では卑弥呼について「年既に長大なるも夫婿無し」とあります。

これはそもそも卑弥呼は独身ですが、すでに形式上の結婚状態だった神武天皇の東遷も見送っており、50代前後だったということでしょう。



卑弥呼の後継者の壱与は、卑弥呼の宗女(同族=親族)だったといいます。

欠史八代はほとんど存在しないと考えると、吾平津媛の義理の姪っ子が倭迹迹日百襲姫命になりますから、壱与との関係のつじつまも合います。



さきほど、倭迹迹日百襲姫命の結婚の伝説について書きました。

わたしは最初、大物主と倭迹迹日百襲姫命の結婚の伝説を読んだとき、老いた卑弥呼と老いた大物主の恋の話だと、これは成立しないんじゃないかとおもいました。

箸墓古墳がつくられたのが230~250年あたりですが、そうすると卑弥呼はどう若く見積もっても70~90代の最晩年なんです。

夜に逢瀬を重ねて、大物主の正体をみた卑弥呼が悲鳴を上げて破局する……。

いくらなんでも、卑弥呼の年齢を考えるとナンセンスではないでしょうか。

しかしここを、壱与として考えると、がぜんリアリティが出てくるのです。



また想像を広げましょう。

卑弥呼が亡くなります。

あるいはこのときすでに神武天皇も亡くなっており、ヤマト王権は内部分裂するようなかたちで複数の王が並び立っていたのかもしれません。

そう考えると、欠史八代はこの時期に王が乱立したことをあらわしているようにもおもえます。

また「卑弥呼が亡くなった後に国中に不服が巻き起こり、殺し合いが起きた」という中国の歴史書の説明にもなります。



大混乱の末、ヤマトに倭迹迹日百襲姫命(壱与)が立てられました。

このときに卑弥呼の死を弔う意味と、壱与の誕生を祝う意味で、ヤマトに箸墓古墳が建造されました。

このおかげで混乱はいったんおさまります。



そして若い壱与が老いた大物主と結婚することになりました。

もちろん政略結婚です。



大物主は三輪山の製鉄集団の頭で、娘を神武天皇に嫁がせて、出雲とも太いパイプを持つ、まさに中つ国全土の大物であり、フィクサーでした。

神話では大国主や崇神天皇の夢枕に立って、ああしろこうしろと指図する話が残っていますが、かれらが大物主のいうことを聞くくらいですから、いわゆるキングメーカーでもあったのでしょう。

大山祇命もそうでしたが、やはり当時の製鉄集団は絶大な権力をもっていたと考えられます。



しかしこのあとはご存じのとおりです。

何度か夜の逢瀬を重ねはしたものの、いざ顔をみたいと壱与がせがむと、大物主はもう髪も歯もすっかり抜け落ちた老人でした。

壱与はあまりのショックに、おもわず悲鳴をあげてしまいました。

大物主は表面的には恥じ入った様子をみせましたが、内心はメンツ丸つぶれにされてハラワタが煮えくり返り、ヤマト王権の必死の説得にも応じず、三輪山へ帰ってしまいました。



壱与と大物主の結婚は、政治的に重大な意味があったのです。

このころ、出雲国もかなり勢いが衰えていて、ヤマト王権に平らげられるのも時間の問題でした。

しかしヤマト王権ではすでに神武天皇も卑弥呼もおらず、新たに立った崇神天皇もまだ若い。

さらに壱与と大物主の結婚が破談になり、ヤマト側が混乱に陥ったため、首の皮一枚つながります。



神話では、少彦名がいなくなったあとの大国主が国家運営に悩んだとき、夢枕に大物主があらわれて、わたしを三輪山にまつればうまく国づくりができるだろうと言いました。

そしてそのようにすると実際、国づくりを為すことができたといいます。

これは、大物主が壱与と破局してくれたおかげで、出雲は難を逃れたということかもしれません。

あるいは出雲側と大物主の間で、陰謀めいた政治的策略があった可能性もあります。



いずれにせよ、決して私情を持ち込んではならない、ヤマト王権の政局を決定づける縁談でした。

壱与はじぶんのしでかしたことの重さに耐えきれず、自殺しました。

箸が陰部に刺さって死んだということですが、これはもしかしたら、すでにおなかに大山祇命との子供を身ごもっていたのかもしれません。

壱与が死んだことで、巫女による鬼道政治も断絶しました。



もともと、巫女による政治はイザナギが好んだ政治手法です。

崇神天皇の御代になると、もはや占いに頼って政治をする必要はないと考えたのかもしれません。

実際、崇神天皇は御肇国天皇(ハツクニシラススメラミコト)といわれますが、これははじめてこの国を統治したという尊称で、巫女に頼らなくても抜群の政治センスがあったようです。



壱与の死後、ヤマト王権はかねてから計画していた四道将軍の各地への派遣を急ぎ、実行します。

四道将軍は短期間で各地を平定しましたが、出雲の一帯は支配することができませんでした。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%...



しかし結局その後、崇神天皇は武力で出雲を平定してしまうのです。

日本書紀に「振根の事件」のエピソードがあります。



出雲族の神宝を管理していた出雲振根が筑紫の国へ行った留守の間に、ヤマト王権から使者がきました。

崇神天皇が「出雲の神宝を見たい」といったことを告げると、出雲振根の弟たちは、あろうことから出雲の神宝を差し出してしまったのです。

これは言い換えれば、天皇家が他者に三種の神器を渡してしまうようなものでした。



筑紫の国から帰ってきた出雲振根は激怒して、弟たちを謀略によって斬り殺してしまいます。

ヤマトにいた崇神天皇はこの話を聞くと、今度は使いを出して、出雲振根を殺してしまいました。

そして出雲はヤマト王権によって平定されたとあります。



これは実際には直接的な戦争だったとおもうのですが、いずれにせよ出雲国は崩壊しました。

しかしじつは、出雲国が衰退したころから、すでに多数の同族が国を抜け出して、関東に支配権を広げていたんです。

この関東の出雲族が氷川神社につながってきます。



ところで、国譲り神話はいつの出来事だったのでしょう。

日本書紀では、ニニギノミコトが降臨するよりも前に、神々が大国主に葦原中つ国の統治権を譲るように談判したとあります。

大国主は紆余曲折の末、出雲大社の建造と引き換えに国譲りに応じます。



しかし、この話はおかしいのです。

出雲がニニギノミコトの即位以前に帰順していたとなると、「振根の事件」が崇神天皇の御代に起こったこととの整合性がとれません。

それに、スサノオの子が大国主であれば、少なくとも大国主の登場はヤマタノオロチ討伐以降ということになります。

大国主の夢枕に大物主が立ったのは、壱与がいたころです。

つまり大国主は、西暦200年以降に(少彦名との二頭で)出雲を統治していた王なのでしょう。

みんな言葉を濁すところなのだとおもいますが、記紀の国譲りは、神武天皇の東遷を正当化するために、神代に起こったこととして記された可能性があります。



余談ですが、どうも出雲の国譲りの問題には込み入ったものが多いですね。

戦後でも出雲の国造家の末裔という人がいて、かれらはしばしば、異様なほどの熱情でこの時代の出来事を語るのです。

ギズモさんも紹介しておられましたが、司馬さんの『司馬遼太郎が考えたこと』の1巻に「生きている出雲王朝」というエッセイが収められています。



ふだんは地方新聞社で働く一紳士であるW氏が、司馬さんを前に「いまでこそ新聞記者をしているが、私が当主であるW家は、出雲大社の社家である」と切り出します。

司馬さんいわく、かれは狂人ではないが、故郷である出雲に話が及ぶと、よほどはげしいおもいに駆られるらしく、一種の憑依状態になり、やや正常性を失って小陰謀めいた話をするそうです。

そのようすが司馬さんの好奇心を刺激したらしく、出雲についてのエッセイが展開されていきます。



このエッセイは1961年に書かれたものでしたが、わたしが物部について調べているときにも、インターネットのブログなどで、異様に込み入った出雲系の歴史を語る人々がいることに気づきました。

かれらの物語は、きわめて精緻な論理性で組み上げられているのに、途中からおかしな方向に話が進んでいくため、わたしもやはり「やや正常性を失って小陰謀めいた話」におもえます。



話を戻しましょう。

物部氏(経津主)と中臣氏(武甕槌)は出雲に国譲りを迫った氏族です。

崇神天皇が出雲を平定する前後に、多くの出雲族が関東へ流出しましたが、このふたりの氏族は関東でも、北は茨城の鹿島神宮(武甕槌大神)、南は千葉の香取神宮(経津主大神)で、挟み込むようにして封じました。

このような神社の配置を見ると、もしかしたら出雲族は新天地を求めて関東へ行ったというより、出雲族に関東を開拓させようというヤマト王権側の意図があって誘導されたのかもしれません。



以前調べたとき、氷川神社やその他関東の出雲族の系譜に、なぜか製鉄集団としての記録がないのが不思議でした。

祭神はスサノオですし、神話としてはヤマタノオロチ伝説からの斐伊川から、氷川になっていますよね。

しかし氷川信仰ではこのスサノオ神話から製鉄集団というメタファーが抜け落ちていて、荒川一帯の水神をあがめたというだけです。

実際、氷川神社の周辺をみても、鉄鉱山になりうる山がありません。



もしかしたら、関東の出雲族からは製鉄利権が奪われていたのかもしれません。

ヤマト王権からすると、手つかずの関東をあらたに開拓する余裕はないので、出雲族に開拓させたい思惑もありました。

当時の无邪志(むざし)、胸刺(むなさし/むさし)、知々夫(ちちぶ)の三国はみな出雲国造系が統治しました。

しかし武器利権を持たせたりはせず、小規模な自治を許すにとどめたのではないでしょうか。

イヤな解釈をすると、出雲国がヤマト王権に征服されたため、出雲族が関東に強制連行されたのではないか、という気さえします。



それはともかく、645年に大化の改新が起こると、関東の三国がひとつに統一されました。

その後8世紀に入ると、「武蔵国」という言葉があてられるようになります。



平安時代になると関東にいた農民たちが平氏や源氏と結びついて武士として台頭し、朝廷の脅威となりました。

この農民たちの多くは出雲族の出自だったはずです。



その後、朝廷を守護するという名目で鎌倉が幕府を開き、実質的な政治権力を手にしました。

さらに足利尊氏の時代には、既存の朝廷を大覚寺統(南朝)とし、みずからは持明院統(北朝)としてあらたに天皇を擁立します。

いわゆる南北朝時代ですね。



南北朝は半世紀以上にわたる敵対を続けましたが、最終的に南朝が北朝に譲位するかたちで、朝廷がひとつにまとまりました。

つまり、北朝が勝ったわけです。



イザナギ・イザナミが国づくりをした、日本のスタート地点ともいえる出雲でしたが、3世紀後半にはヤマト王権に帰順。

出雲から逃れた者たちも関東で苦しい開拓者となり、朝廷に抑圧されながら何世代も過ごしました。

しかしかれらが時を経て武士となり、室町時代にあらたな天皇を擁立し、その皇統が現代までつながるのです。

考えようによっては、出雲国は滅んだものの、出雲族は1000年かけて葦原中つ国を平定した覇者だったのかもしれません。



……。



さて、ほんとうに長い記事にお付き合いいただきました。

おそらくこれが、わたしの古代に対する見方の総まとめになるとおもいます。

スサノオのくだりは、じぶんでも物語を組み立てていくうちに、こんなパズルのピースのハマり方をするのかとおどろきながら書いていました。



最後に、河上哮ヶ峰(いかるがのみね)ですが、奈良の斑鳩との関係はわかりません。

しかし、ニニギノミコトが物部氏のご祭神だったことを考えると、物部氏を打倒したとされる聖徳太子と斑鳩が結びつくのは、どこか因縁を感じるところではあります。

あるいは物部氏を打倒したことで、蘇我氏が物部氏のルーツともいえる生駒の「いかるが」を奪って、聖徳太子と結びつけたのではないか。

もしそんな話だったら、ずいぶんいかがわしいですね(笑)



いよいよ年の瀬が迫ってきました。

こちらは、凍てるほど寒くなったかとおもうと、不思議にあたたかくなったりで、体調のリズムがなんだかおかしな感じです。

お互い体調管理に気を付けて過ごしましょうね。

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