No.1713
今回はまず、呼ばれていないように感じるとおっしゃったギズモさんに、熊野への興味の取っ掛かりをつくってみようとおもいます(笑)
そのあとで、前回のギズモさんからのご返信に対して、いくつかじぶんなりに考えたことを書いてみますね。
古代の熊野はほとんど人間を拒むような大原生林でしたが、縄文土器が発掘されますから、古くから人は住んでいました。
おそらくそぼくな自然信仰と、最軽量の文明で生活をしていたこととおもわれます。
しかし神話を読んでいると、2世紀末くらいだとおもうんですが、饒速日についてきた出雲の人々が、紀伊国の豊富な山林資源を利用して製鉄や産業をおこしたようなのです。
わたしはこの時期に、ただの「木の国」だった紀伊国に、出雲由来の重量のある文明が流入したと考えました。
奈良時代にうつりましょう。
西国巡礼(三十三箇所巡礼)の最初の札所は熊野那智の青岸渡寺です。
ちなみにあの補陀落渡海をおこなった補陀洛山寺は、青岸渡寺の別院でした。
この寺青岸渡寺の由緒をみると、仁徳天皇の時代に裸形上人というインド人が熊野に漂泊したとあります。
この僧侶が修行をして、熊野で修験道の基礎を確立したというのですが、これは熊野の那智が天竺(インド)の補陀落の入り口にあるという伝説から創作されたものでしょう。
実際に寺院が建立されたのは7世紀はじめごろらしいので、おそらくそのあたりで熊野と仏教がつながっていったとおもわれます。
平安時代の816年(9世紀初頭)に、空海が高野山で真言密教の総本山、金剛峯寺をひらきました。
ちなみに高野山はおなじ和歌山でも、熊野ではありません。
熊野は和歌山の南東、三重県の南部にありますが、高野山は和歌山の北部に位置します。

もちろん高野山も人里離れた深山でしたし、生活するにも厳しい場所だったのは間違いありません。
しかし熊野の山はそれどころではない秘境でした。
そういえば、高野山から紀ノ川に降りたあたりに九度山があります。
ここは真田昌幸と幸村の親子が、西軍に味方したために徳川家康にうとまれ、幽閉させられた場所でした。
真田親子は最初、高野山にいたのですが、あまりの寒さに音を上げて、九度山におりてきたそうな。
そんなへんぴな場所に、伝説的高僧である空海が大霊場を開きました。
この時期から紀伊国がにわかに注目され、人が集まるようになります。
人が集まるようになったことで、熊野も信仰の場として人気を集めるようになりました。
平安時代中期になると、天皇や皇族も熊野に御幸するようになります。
庶民も熊野を訪れるようになり、室町時代にかけてあまりの参詣客の多さに「蟻の熊野詣で」といわれるほどになりました。
平安時代から室町時代にかけて熊野は、神道・密教・山岳信仰・民間信仰などが闇鍋のようにミックスされた、ひどくややこしい霊場になるのです。
室町以降、さらに全国で熊野権現がまつられるようにもなりました。
もはや熊野信仰は、建て増しに建て増しを重ねた大迷宮のようなややこしさになっています。
これが明治の神仏分離令で、シンプルに……なったらよかったんですが、さんざんややこしい縁起を重ねてきた熊野が、いまさら単純化できるはずもありません。
結局熊野は現在に至っても、ややこしいまま放置されているんですね(笑)
さて、ざっと熊野のあらましを説明しました。
ここでいったん神話の時代の熊野に戻りましょう。
日本書紀ではイザナミの墓所は熊野の有馬村だったといいます。
なぜイザナミと熊野が結びつくのでしょう。
さらにもうひとつ、古事記ではオオナムチが八十神にいじめられたあと、大屋毘古(オオヤビコ)の助けを得るために紀ノ国へ向かいます。
大屋毘古は五十猛と同一とされたりもするのですが、どちらもスサノオの子神でした。
さらにオオナムチは、スサノオの住む根の堅州国へ向かいます。
なぜこうも紀伊国と出雲が結びつくのでしょうか。
これは、饒速日のころに紀伊国へ定住した出雲族がいたと考えれば、理解できます。
かれらは紀伊国で、じぶんたちの知っている時代の出雲の神々を信仰したことで、紀伊国に根付いたのです。
熊野と出雲神話が結びつく理由は、ここにあります。
熊野が「死と再生の場所」なのも、この時期の出雲信仰からきています。
イザナミは黄泉津大神で、スサノオも根の国の主、大国主も幽世大神ですね。
出雲は黄泉の国の入り口ですが、熊野もまた異界(死の世界)の入り口となりました。
そこに神武天皇の東遷がかかわってくることで、「復活」のニュアンスが生まれます。
神武天皇は難波に船をつけてナガスネヒコに対戦し、負けました。
その後神武軍は船で和歌山を海岸沿いに南下して熊野に回り込みます。
そして熊野三山を抜けて、吉野山から奈良へ向かいます。
熊野を抜ける際に、神武天皇の一行は遭難してしまいました。
熊野での遭難は、ほとんど死を意味します。
しかしヤタガラスに助けてもらって、熊野を抜けることができたのです。
また、神武天皇が熊野の山の毒気にあてられて寝込んでしまったというエピソードがあります。
このとき、高倉下命(タカクラジ)が、こんな夢をみたのです。
アマテラスが神武天皇の苦境をみかねてタケミカヅチを派遣しようとしたものの、タケミカヅチが言いました。
「わたしが行かずとも、わたしが国を平定した剣を、高倉下の倉に入れておきました。高倉下が神武天皇にこの剣を献上すれば、ヤマトも平定されましょう」
高倉下が目覚めて倉をみてみると、たしかに剣がありました。
剣を献上すると、神武天皇は蘇生したといいます。
この剣が、いま石上神宮のご神体となっている布都御魂でした。
氷川神社の六社にまつられている石上神社も、このときの神武天皇のエピソードを縁起にされていますね。
熊野が死と「再生」の場所とされるのは、これらの神武復活のエピソードがもとになっています。
ところで、高倉下は奇妙な系譜の持ち主です。
天香山命(アマノカグヤマノミコト)と同一ともいわれるのですが、天香山命の父親は天火明命でした。
「天火明命」は、山陰を旅していたときの饒速日の呼び名ですね。
なぜ天火明命の子が、紀伊国にいるのでしょうか。
そしてどうやって神武軍を助けたのか。
この点を結びつけるために、わたしはこう考えました。
さきほども言いましたが、饒速日はヤマトへ向かう道中で、山陰(出雲族)の製鉄集団も引き連れています。
かれらは紀伊国の豊富な山林資源を利用して武器生産をおこないました。
高倉下が饒速日の実際の子だったかどうかはさておき、天孫族に対する理解の深い、紀伊の製鉄氏族だったのでしょう。
さて、ここからは、神話をできるだけ現実に近い形で考えます。
難波で敗戦した神武の軍団は、船で和歌山を回り込み、熊野方面に向かいました。
難波はその名の通り波の激しい場所で、下船すれば平野部ですから、船での戦いは不利なのです。
神武天皇は「東に向かう戦いでは勝てない。西へ回り込まねばなるまい」といいました。
紀ノ川沿いにはナガスネヒコの息のかかった連中がいますから、和歌山西部から奈良に向かうことはできません。
熊野を越え、吉野山を抜けて高台から奈良の平野部を狙うゲリラ戦に、一縷の望みをかけたのです。
しかしこの熊野越えがたいへんな難所でした。
神武軍は熊野の荒坂の津に上陸したのですが、そのあたりは丹敷戸畔(ニシキノトベ)という原住民の巫女が支配していました。
神武軍は丹敷戸畔を誅したのですが、これでいよいよ神武軍は疲弊し、熊野の行軍はいっそう厳しいものになります。
一方、神武の敗戦を伝え聞いた高千穂の卑弥呼(アマテラス)は、ヤマトへ援軍を送るかどうかを会議していました。
しかしいま軍勢を送るよりは、急いで使いを出して紀伊国から饒速日の縁者を頼り、神武軍を助けてもらうほうが早いだろう、ということになります。
結果、天孫族への理解が深い高倉下が、神武天皇をお救いすることになりました。
そして紀伊国の出雲族で神武軍を助ける集団(ヤタガラス)が結成され、神武軍を救出します。
このころの紀伊国は、もともとその地に住んでいた原住民と、ナガスネヒコに与する者と、天孫族に理解を示す者がいました。
一命をとりとめた神武軍は、高倉下からじゅうぶんな武器が与えられたのみならず、大勢の仲間を得ました。
神話では布都御魂を神武天皇に与えたとありますが、当然戦争は剣一本でどうにかなるものではありません。
高倉下は神武軍の者にじゅうぶんな装備を与えましたが、それだけの財力をもった権力者で、天孫族に対する肩入れがあったのでしょう。
神武の軍隊はここで、死の窮地から救われ、復活したというわけです。
布都御魂とは一本の剣ではなく、神武軍を勝利に導いた武器の霊威でした。
ちなみにギズモさんが書かれていた、氷川神社にまつられている石上神社は、神武天皇の縁起が書かれてありますから、おそらく石上神宮のことをさすのでしょう。
じつは石上神宮をさらに山奥に向かうと、石上神社(いしがみじんじゃ)があるのですが、ここは石上神宮とは関係がないそうな。
また石上布都魂神社が岡山にありますが、ここは御祭神がスサノオで、神武天皇の縁起はありません。
氷川神社の六社では住吉大社も住吉神社となっていますので、おそらく「神社」という呼称で統一しているのだとおもわれます。
さて、また神話解釈の部分が長引いてしまいましたが、ここからは空海の話になります。
平安京では空海と最澄のもたらした密教が隆盛を極めていました。
修行僧たちは秘密主義的な密教の修行をおこない、庶民は道教も仏教も神道も一緒にしたような、なんでもありの信仰をするようになっていました。
神仏習合自体は奈良時代から始まっていたのですが、底が抜けたような何でもありになっていったのは、平安時代からです。
ちなみに空海自身がどうおもっていたかはわかりませんが、民衆の神輿の上にかつがれた空海は、エンタメ性の強いアイドル(偶像)と化しました。
民衆は各地で、ありもしない空海の奇跡をまことしやかに広め、仏教は誇大妄想化していきました。
いまでも金剛峯寺では、空海は修行を続けているということになっているため、食事が御廟に運ばれています。
空海が金剛峯寺を開いた結果、紀伊国そのものが誇大妄想的な異界となりました。
特に熊野は、大原生林がもつ元来の神秘性と、神話にもとづく「死と復活」のイメージ、そして山岳信仰(権現信仰)、さらに密教、道教的な民間信仰……これらが虚実織り交ぜながら融合していったのです。
ギズモさんが「ややこしすぎる」と感じた「異世界的、異質なもの」の原因は、ここにあります。
たとえば、ギズモさんのお話で引き出していただいた善財王ですが、これは室町時代に書かれた『御伽草子』にある『熊野の本地』の説話でしたね。
インド(天竺)の摩訶陀国の善財王と、その妻と王子が、艱難辛苦の物語の果てに、紀伊国へと垂迹し、熊野権現となったという物語です。
この物語は当時、熊野の神秘性を高めることに大きく貢献しました。
しかしこの話はスケールは大きいけれど、原理的にはめちゃくちゃで、宗教に理解がある人ほど、頭を抱えたくなることでしょう(笑)
熊野の寺院の縁起にたびたびインドが登場するのは、熊野の那智が天竺(インド)の補陀落山とつながっているとされるからです。
ギズモさんがご紹介くださった那古寺は、おなじ補陀洛山の山号でも、房総半島の海辺から、はるか補陀洛山をあがめる、ごくそぼくな観音信仰の真言宗だったことでしょう。
しかし熊野の補陀落信仰はひどく過激で、さきほども申しましたが、棺桶舟に上人を閉じ込めて渡海させる習慣がありました。
これは実質的な自殺の強要でしたが、渡海によって往生した上人は、補陀落山で観音に救われ再生すると信じられていたのです。
どんな宗教でも、自殺して救いを得るような教えはありません。
しかし熊野では仏教の原理のうえに、じぶんたちに都合のいい物語を建て増しした結果、逆に原理の部分が失われて、補陀落渡海という狂信的な悪習慣が生まれてしまいました。
わたしは熊野信仰の核にあたる部分は、あの複雑な寺社の縁起ではなく、熊野が「人間の生き死にを飲み込むほどの大原生林」だったことだとおもいます。
わたしたちが熊野を信仰する場合には、この大原生林のもつ神秘と、そこに人々が信仰を寄せたという事実だけをみていればよいでしょう。
ほかの神仏習合や山岳信仰、民間信仰がまじりあったややこしい部分は、ほとんど無視しても問題ないとおもいます。
さて、以上が熊野の話でした。
ここからはギズモさんのご返信に対するわたしなりの考察です。
記紀神話は、皇統の物語ですね。
しかしこれは物語ですから、実際に血縁がつながっているわけではないのです。
日本神話はつまり、実際の血がつながっていなくても「皇統はつながっている」と宣言する「思想の物語」でした。
わたしは神武天皇から「国家をつなぐ責任が生じた」と解釈しています。
天皇という呼称は、実際には推古天皇あるいは天武天皇の時代につかわれるようになりました。
それがなぜ神武を「天皇」としたかというと、この時点から「すめらぎ=皇統」によって国家を維持する思想が始まったからです。
血筋という意味では序盤からつまづいているわけですが、それでもなにがなんでも、万世一系ということにしなければならないんだという強烈な思想が、天皇(すめらみこと)という言葉にあらわれています。
ところで高千穂の場合、権力者の子孫を残すことで国をつなぐという思想はなかったようです。
女王の卑弥呼(アマテラス)には子がありませんでした。
それでも実際の血縁関係ではない周辺の有力な王族と手を組んで、女王統治のもとに「天孫」があるということにしたのでしょう。
高千穂では卑弥呼こそが天(カリスマ)であり、唯一無二の存在でした。
だからこそ高千穂のヤマト王権は、卑弥呼が亡くなると瓦解したのです。
卑弥呼の没後、九州では熊襲をはじめとした「まつろわぬ者(ヤマト王権に従わぬ者)」がはびこりました。
すめらぎの点でいえば、ヤマト王権にとって大国主は脅威だったことでしょう。
大国主は山陰各地の王族と連合し、実質的なリーダーとして、各地の王族の女性と関係を持ちました。
ヌナカワヒメもそうですね。
子を残すことで国家を存続させていくという思想は、むしろ出雲で完成しつつあったのかもしれません。
さて、神武天皇が実在したかどうかということについては、わたしも引っかかっていました。
高千穂から奈良へ軍勢が送られたのは間違いないとおもいます。
しかし軍の中に神武がいたかどうかは、はっきりしません。
特にわたしが引っかかっていたのは、神武の崩御と、卑弥呼が没したタイミングが重なることでした。
あるいは、神武はおらず、高千穂軍が奈良のヤマトを実効支配していたのかもしれません。
そして高千穂で卑弥呼が没すると、ヤマトで壮絶な権力闘争が起こった。
そのように考えることもできそうです。
しかし高千穂でも女王の下に王をつくっていたのに、当時の国家がその地に王をつくらずにやっていけるでしょうか。
また大物主と神武天皇の関係もありますをなかったこととすると、大物主がヤマト王権に取り入るきっかけがなくなってしまいます。
東遷後の各氏族への論功行賞は、絶対的な権力者がいないとなかなかまとまらないでしょう。
そのように考えると、やはり神武天皇は存在して、たまたま崩御の時期が卑弥呼の没年と重なったと考えるほうがしっくりくるようにおもえました。
神武天皇がいたと考えた場合、東遷にじぶんの意志が働いていたかという件ですが、神武は自然に運命を受け入れていたと考えています。
運命を受け入れるという点で、卑弥呼と神武天皇はほんとうによく似ています。
わたしは以前、イザナミに足りなかったのはツクヨミ(道教)だったといいました。
これはいわば巫女としての規範ですね。
もっと突っ込んでいうと、巫女の帝王学です。
イザナギはまるで幼児に英才教育をほどこすように、幼い卑弥呼(アマテラス)に徹底的に巫女の帝王学を教え込んだのではないでしょうか。
そして卑弥呼は従順にじぶんの運命を受け入れて、すぐれた巫女(帝王)になりました。
神武天皇もまた天孫族の運命に対してひどく従順で、しかも完璧な帝王でしょう。
たとえ天才でも、教育されないまま才能を発揮することはできません。
ではいったいだれからこの英才教育をほどこされたのか。
そこでわたしは、アヒラツヒメが卑弥呼だったのではないかという飛躍した考えに至るのです。
わたしは卑弥呼がアヒラツヒメというかたちで、神武のそばで帝王としての覚悟と運命を教育したのではないかという線を捨てきることができません。
余談ですが、アヒラツヒメも不思議な存在でした。
アヒラツヒメは、阿多の小椅の君(あたのおばしのきみ)の妹といわれます。
阿多とは、海幸彦を祖神とする隼人の一族です。
また古事記ではコノハナサクヤヒメは神阿多都比売(カムアタツヒメ)と呼ばれていました。
やはり名前に阿多が入ります。
なぜ九州の有力者である阿多の名が、出雲の大山祇命の娘であるコノハナサクヤヒメと結びつくのでしょう。
海幸彦を起源とする阿多氏と、出雲の大山祇がなんらかの関係性をもっており、コノハナサクヤとニニギが結びついたのでしょうか。
しかしこの場合、コノハナサクヤから山幸彦と海幸彦が生まれたという時系列に決定的な狂いが生じます。
阿多にはなにかががあるような気がしてなりません。
しかしそういった疑問があるということはさておき、今回気になるのは、アヒラツヒメの名には「阿多」が含まれていない点です。
阿多の小椅の君の妹ですから、阿多の一族であろうと推測されているわけですが、その場合はふつう名前に阿多が入るはず。
しかし、アヒラツヒメは両親も不明で、阿多の名もありません。
阿多の小椅の君が何者であるかも、阿多であるということ以外は不明。
アヒラツヒメは神武東遷の際に同行することもなく、東遷を為したあとに奈良へ向かうこともありませんでした。
わたしはこのあまりにも謎の多いアヒラツヒメを、卑弥呼だと疑う余地があると考えています。
あるいはもっと突拍子もない想像をふくらませるとしたら、そもそも卑弥呼の出自が阿多の一族からきており、イザナギが高千穂に国を築く際に、阿多氏と結びついて幼い卑弥呼をもらいうけたのかもしれません。
話を戻しましょう。
神武は天孫族の領土奪還のために東遷(戦争)することを運命として受け入れました。
そして苦難の末にヤマトの王(天皇)となると、この生まれたての国家をみごとにおさめてしまいます。
神武自身に乱れた逸話もなく、下剋上をねらう諸侯も完全に掌握しました。
王としてあまりにもできすぎていて、前回書いた通り「ある種の清潔さを感じる稀有な神」です。
言い方を変えると、ほんとうに実在していたのか疑わしいくらい清潔ですね(笑)
さらに余談ですが、イザナギが仕込んだ帝王学は、それだけ完成されたものだったとおもうのです。
ただこれは、「生まれたての国家においては」という但し書きがつきます。
ある程度国家が成長すると、巫女の神懸かりによる独裁よりも、もっと現実的で論理的な政治が求められるようになります。
しかしさいころを振ってばくちをするがごとき巫女政治には、依然として人々を惹きつける求心力がありました。
だからこそ崇神天皇は巫女政治を嫌い、巫女の象徴であるアマテラスを伊勢に封印したのではないでしょうか。
さて、実質的な皇室の先祖はだれかという話ですが、実際の血筋となると、これまで何度も途切れているようです。
初期の天皇の実在性はもちろん、26代継体天皇も天皇の血筋として認められるのかどうか議論されているようですね。
しかしさきほども申しましたが、大事なのは天皇のDNA以上に、すめらぎの思想です。
日本がポツダム宣言を受諾するとき、政府は唯一、国体の護持を条件にしました。
つまり天皇制という思想の維持だけが、敗戦を認める条件だったのです。つまり天皇制さえ維持してくれれば、日本がアメリカに占領され、支配されることも、その他あらゆる理不尽も甘んじて受けるというのです。
戦後、天皇を取り巻く環境は激変しましたが、それでもすめらぎは続いています。
ところで、すめらぎの思想というところで考えると、わたしは結局、実質的な皇室の先祖は、イザナギ、イザナミにたどりつくのではないかとおもえます。
ギズモさんはきっとこのわたしの答えを聞いて、はぐらかされたようで拍子抜けされたことでしょう(笑)
しかし無根拠にそう考えているわけではありません。
イザナギ・イザナミという名前の意味をたどると、「いざなう者」となります。
道教の陰陽でいえば、男は陽で、女は陰ということになるようですね。
もちろん、イザナミが陰だからわるいという話ではありません。
あの勾玉がふたつ合わさったような太陰大極図は、陰と陽があわさって、ひとつの循環になっていることをあらわしています。
人が死んで減ってしまえば、国は滅亡するというイザナミの陰。
人が多く集まって社会を形成すれば国になるというイザナギの陽。
イザナミが一日1000人黄泉の国へ連れていくことがあらわしているのは、人は死ぬという厳然たる事実です。
それに対してイザナギは1500人生まれる国をつくるといいました。
イザナギは、国家のためには死ぬ人数よりも多い人数をうまねばならないという、非常にシンプルな社会思想を持っていたんですね。
このイザナギから生じたアマテラスとスサノオは、対照的な運命をたどります。
一方はイザナギの教育によって高千穂の絶対女王となり、一方はイザナギと決別してみずから運命を切り開き、イザナミのいた出雲の支配者となりました。
ヤマトと出雲の、すめらぎをめぐる数奇な運命が、神話よりずっと後世にも続いたという話は、以前にもしました。
ヤマト王権は一時は出雲連合を平らげ、すめらぎを得ました。
出雲は滅亡したかにみえましたが、奈良時代になると関東で武士団が発生します。
かれらの出自をたどれば、はるかむかしに関東を開拓(国づくり)した出雲族が大勢いたことでしょう。
そしてこの武士団が鎌倉で幕府を形成します。
京都の朝廷を守るという名目で生まれた幕府でしたが、足利尊氏の時代になると北朝を擁して、京の朝廷を牛耳りました。
そしてもともとの朝廷は奈良吉野へ追われ、南朝として北朝と争います。
しかし結果的にすめらぎは南朝から北朝へ禅譲されました。
神武天皇が熊野を抜けて復活し、最初のすめらぎが生まれるきっかけとなった吉野山が、南朝の最後の場所だったというのは皮肉なことです。
日本書紀や古事記、先代旧事本紀を編纂した人々も、まさか将来、出雲族とすめらぎがこのように関係してくるとは、想像だにしていなかったことでしょう。
しかしわたしには北朝がすめらぎを得たことで、イザナギとイザナミの陰陽が調和したようにおもえるのです。
……いろいろややこしい話をしましたが、皇統はイザナギ・イザナミから始まり、紆余曲折を経ながらいまもいざなわれ続けている、というのがわたしのアクロバティック解釈です(笑)
さて、アマテラスが伊勢神宮、大国主が出雲大社に「封じられている」と感じるという件ですが、わたしもそうおもいます。
伊勢神宮にアマテラスが鎮座したよりも前に、神話で「まつられた神々」は、ヤマト王権によってむりやり鎮魂されたと考えたほうがよいのかもしれません。
出雲大社も、三輪山も、箸墓古墳も、伊勢神宮も、「丁重にまつることで、ヤマト王権の礎になっていただく」というような意味合いが感じられます。
言い方を変えれば、たたりを防いでいるわけですが、これは実際丁重にまつらねば、出雲族が反乱を起こしたり、巫女勢力の恨みがつのったりといった実害があったことでしょう。
タケミナカタとタケミカヅチの力比べですが、わたしもこれは戦争だったとおもいます。
九州勢力(タケミカヅチ)が越の国の勢力(タケミナカタ)を諏訪で封じた、ということでしょう。
ギズモさんのおっしゃるように、タケミナカタの軍勢は越の国まで逃げて援軍を頼むつもりでしたが、諏訪で進退窮まり、降伏したのかもしれませんね。
さて、今回もやはり長くなりました(笑)
三寒四温といいますが、ギズモさんの予測された通り、雪が降るほどではないものの、寒さがぶり返しています。
わたしもぼちぼち花粉症が始まってきました。
不快な時期ですが、先日ふきのとうが芽吹いているのを発見し、いつの間にか梅の花も咲いています。
春はたしかに近づいているようですね。
最後になりますが、安政6年に、吉田松陰の思想に共鳴した攘夷派の氏子が、山口県下松市(くだまつし)の花岡八幡宮に破邪の御太刀(はじゃのおんたち)といわれる、巨大な刀を奉納しました。
全長4m65cm、重量75kg。
人間があつかう刀ではありませんが、動乱の日本を守るという、破邪の願いが込められているそうな。
https://www.google.com/search?q=%E7%A0%B...
おそらく百済からヤマト王権に贈られた七支刀も、そのような破邪の意味合いを込めてつくられたものなのでしょうね。
そのあとで、前回のギズモさんからのご返信に対して、いくつかじぶんなりに考えたことを書いてみますね。
古代の熊野はほとんど人間を拒むような大原生林でしたが、縄文土器が発掘されますから、古くから人は住んでいました。
おそらくそぼくな自然信仰と、最軽量の文明で生活をしていたこととおもわれます。
しかし神話を読んでいると、2世紀末くらいだとおもうんですが、饒速日についてきた出雲の人々が、紀伊国の豊富な山林資源を利用して製鉄や産業をおこしたようなのです。
わたしはこの時期に、ただの「木の国」だった紀伊国に、出雲由来の重量のある文明が流入したと考えました。
奈良時代にうつりましょう。
西国巡礼(三十三箇所巡礼)の最初の札所は熊野那智の青岸渡寺です。
ちなみにあの補陀落渡海をおこなった補陀洛山寺は、青岸渡寺の別院でした。
この僧侶が修行をして、熊野で修験道の基礎を確立したというのですが、これは熊野の那智が天竺(インド)の補陀落の入り口にあるという伝説から創作されたものでしょう。
実際に寺院が建立されたのは7世紀はじめごろらしいので、おそらくそのあたりで熊野と仏教がつながっていったとおもわれます。
平安時代の816年(9世紀初頭)に、空海が高野山で真言密教の総本山、金剛峯寺をひらきました。
ちなみに高野山はおなじ和歌山でも、熊野ではありません。
熊野は和歌山の南東、三重県の南部にありますが、高野山は和歌山の北部に位置します。

もちろん高野山も人里離れた深山でしたし、生活するにも厳しい場所だったのは間違いありません。
しかし熊野の山はそれどころではない秘境でした。
そういえば、高野山から紀ノ川に降りたあたりに九度山があります。
ここは真田昌幸と幸村の親子が、西軍に味方したために徳川家康にうとまれ、幽閉させられた場所でした。
真田親子は最初、高野山にいたのですが、あまりの寒さに音を上げて、九度山におりてきたそうな。
そんなへんぴな場所に、伝説的高僧である空海が大霊場を開きました。
この時期から紀伊国がにわかに注目され、人が集まるようになります。
人が集まるようになったことで、熊野も信仰の場として人気を集めるようになりました。
平安時代中期になると、天皇や皇族も熊野に御幸するようになります。
庶民も熊野を訪れるようになり、室町時代にかけてあまりの参詣客の多さに「蟻の熊野詣で」といわれるほどになりました。
平安時代から室町時代にかけて熊野は、神道・密教・山岳信仰・民間信仰などが闇鍋のようにミックスされた、ひどくややこしい霊場になるのです。
室町以降、さらに全国で熊野権現がまつられるようにもなりました。
もはや熊野信仰は、建て増しに建て増しを重ねた大迷宮のようなややこしさになっています。
これが明治の神仏分離令で、シンプルに……なったらよかったんですが、さんざんややこしい縁起を重ねてきた熊野が、いまさら単純化できるはずもありません。
結局熊野は現在に至っても、ややこしいまま放置されているんですね(笑)
さて、ざっと熊野のあらましを説明しました。
ここでいったん神話の時代の熊野に戻りましょう。
日本書紀ではイザナミの墓所は熊野の有馬村だったといいます。
なぜイザナミと熊野が結びつくのでしょう。
さらにもうひとつ、古事記ではオオナムチが八十神にいじめられたあと、大屋毘古(オオヤビコ)の助けを得るために紀ノ国へ向かいます。
大屋毘古は五十猛と同一とされたりもするのですが、どちらもスサノオの子神でした。
さらにオオナムチは、スサノオの住む根の堅州国へ向かいます。
なぜこうも紀伊国と出雲が結びつくのでしょうか。
これは、饒速日のころに紀伊国へ定住した出雲族がいたと考えれば、理解できます。
かれらは紀伊国で、じぶんたちの知っている時代の出雲の神々を信仰したことで、紀伊国に根付いたのです。
熊野と出雲神話が結びつく理由は、ここにあります。
熊野が「死と再生の場所」なのも、この時期の出雲信仰からきています。
イザナミは黄泉津大神で、スサノオも根の国の主、大国主も幽世大神ですね。
出雲は黄泉の国の入り口ですが、熊野もまた異界(死の世界)の入り口となりました。
そこに神武天皇の東遷がかかわってくることで、「復活」のニュアンスが生まれます。
神武天皇は難波に船をつけてナガスネヒコに対戦し、負けました。
その後神武軍は船で和歌山を海岸沿いに南下して熊野に回り込みます。
そして熊野三山を抜けて、吉野山から奈良へ向かいます。
熊野を抜ける際に、神武天皇の一行は遭難してしまいました。
熊野での遭難は、ほとんど死を意味します。
しかしヤタガラスに助けてもらって、熊野を抜けることができたのです。
また、神武天皇が熊野の山の毒気にあてられて寝込んでしまったというエピソードがあります。
このとき、高倉下命(タカクラジ)が、こんな夢をみたのです。
アマテラスが神武天皇の苦境をみかねてタケミカヅチを派遣しようとしたものの、タケミカヅチが言いました。
「わたしが行かずとも、わたしが国を平定した剣を、高倉下の倉に入れておきました。高倉下が神武天皇にこの剣を献上すれば、ヤマトも平定されましょう」
高倉下が目覚めて倉をみてみると、たしかに剣がありました。
剣を献上すると、神武天皇は蘇生したといいます。
この剣が、いま石上神宮のご神体となっている布都御魂でした。
氷川神社の六社にまつられている石上神社も、このときの神武天皇のエピソードを縁起にされていますね。
熊野が死と「再生」の場所とされるのは、これらの神武復活のエピソードがもとになっています。
ところで、高倉下は奇妙な系譜の持ち主です。
天香山命(アマノカグヤマノミコト)と同一ともいわれるのですが、天香山命の父親は天火明命でした。
「天火明命」は、山陰を旅していたときの饒速日の呼び名ですね。
なぜ天火明命の子が、紀伊国にいるのでしょうか。
そしてどうやって神武軍を助けたのか。
この点を結びつけるために、わたしはこう考えました。
さきほども言いましたが、饒速日はヤマトへ向かう道中で、山陰(出雲族)の製鉄集団も引き連れています。
かれらは紀伊国の豊富な山林資源を利用して武器生産をおこないました。
高倉下が饒速日の実際の子だったかどうかはさておき、天孫族に対する理解の深い、紀伊の製鉄氏族だったのでしょう。
さて、ここからは、神話をできるだけ現実に近い形で考えます。
難波で敗戦した神武の軍団は、船で和歌山を回り込み、熊野方面に向かいました。
難波はその名の通り波の激しい場所で、下船すれば平野部ですから、船での戦いは不利なのです。
神武天皇は「東に向かう戦いでは勝てない。西へ回り込まねばなるまい」といいました。
紀ノ川沿いにはナガスネヒコの息のかかった連中がいますから、和歌山西部から奈良に向かうことはできません。
熊野を越え、吉野山を抜けて高台から奈良の平野部を狙うゲリラ戦に、一縷の望みをかけたのです。
しかしこの熊野越えがたいへんな難所でした。
神武軍は熊野の荒坂の津に上陸したのですが、そのあたりは丹敷戸畔(ニシキノトベ)という原住民の巫女が支配していました。
神武軍は丹敷戸畔を誅したのですが、これでいよいよ神武軍は疲弊し、熊野の行軍はいっそう厳しいものになります。
一方、神武の敗戦を伝え聞いた高千穂の卑弥呼(アマテラス)は、ヤマトへ援軍を送るかどうかを会議していました。
しかしいま軍勢を送るよりは、急いで使いを出して紀伊国から饒速日の縁者を頼り、神武軍を助けてもらうほうが早いだろう、ということになります。
結果、天孫族への理解が深い高倉下が、神武天皇をお救いすることになりました。
そして紀伊国の出雲族で神武軍を助ける集団(ヤタガラス)が結成され、神武軍を救出します。
このころの紀伊国は、もともとその地に住んでいた原住民と、ナガスネヒコに与する者と、天孫族に理解を示す者がいました。
一命をとりとめた神武軍は、高倉下からじゅうぶんな武器が与えられたのみならず、大勢の仲間を得ました。
神話では布都御魂を神武天皇に与えたとありますが、当然戦争は剣一本でどうにかなるものではありません。
高倉下は神武軍の者にじゅうぶんな装備を与えましたが、それだけの財力をもった権力者で、天孫族に対する肩入れがあったのでしょう。
神武の軍隊はここで、死の窮地から救われ、復活したというわけです。
布都御魂とは一本の剣ではなく、神武軍を勝利に導いた武器の霊威でした。
ちなみにギズモさんが書かれていた、氷川神社にまつられている石上神社は、神武天皇の縁起が書かれてありますから、おそらく石上神宮のことをさすのでしょう。
じつは石上神宮をさらに山奥に向かうと、石上神社(いしがみじんじゃ)があるのですが、ここは石上神宮とは関係がないそうな。
また石上布都魂神社が岡山にありますが、ここは御祭神がスサノオで、神武天皇の縁起はありません。
氷川神社の六社では住吉大社も住吉神社となっていますので、おそらく「神社」という呼称で統一しているのだとおもわれます。
さて、また神話解釈の部分が長引いてしまいましたが、ここからは空海の話になります。
平安京では空海と最澄のもたらした密教が隆盛を極めていました。
修行僧たちは秘密主義的な密教の修行をおこない、庶民は道教も仏教も神道も一緒にしたような、なんでもありの信仰をするようになっていました。
神仏習合自体は奈良時代から始まっていたのですが、底が抜けたような何でもありになっていったのは、平安時代からです。
ちなみに空海自身がどうおもっていたかはわかりませんが、民衆の神輿の上にかつがれた空海は、エンタメ性の強いアイドル(偶像)と化しました。
民衆は各地で、ありもしない空海の奇跡をまことしやかに広め、仏教は誇大妄想化していきました。
いまでも金剛峯寺では、空海は修行を続けているということになっているため、食事が御廟に運ばれています。
空海が金剛峯寺を開いた結果、紀伊国そのものが誇大妄想的な異界となりました。
特に熊野は、大原生林がもつ元来の神秘性と、神話にもとづく「死と復活」のイメージ、そして山岳信仰(権現信仰)、さらに密教、道教的な民間信仰……これらが虚実織り交ぜながら融合していったのです。
ギズモさんが「ややこしすぎる」と感じた「異世界的、異質なもの」の原因は、ここにあります。
たとえば、ギズモさんのお話で引き出していただいた善財王ですが、これは室町時代に書かれた『御伽草子』にある『熊野の本地』の説話でしたね。
インド(天竺)の摩訶陀国の善財王と、その妻と王子が、艱難辛苦の
この物語は当時、熊野の神秘性を高めることに大きく貢献しました。
しかしこの話はスケールは大きいけれど、原理的にはめちゃくちゃで、宗教に理解がある人ほど、頭を抱えたくなることでしょう(笑)
熊野の寺院の縁起にたびたびインドが登場するのは、熊野の那智が天竺(インド)の補陀落山とつながっているとされるからです。
ギズモさんがご紹介くださった那古寺は、おなじ補陀洛山の山号でも、房総半島の海辺から、はるか補陀洛山をあがめる、ごくそぼくな観音信仰の真言宗だったことでしょう。
しかし熊野の補陀落信仰はひどく過激で、さきほども申しましたが、棺桶舟に上人を閉じ込めて渡海させる習慣がありました。
これは実質的な自殺の強要でしたが、渡海によって往生した上人は、補陀落山で観音に救われ再生すると信じられていたのです。
どんな宗教でも、自殺して救いを得るような教えはありません。
しかし熊野では仏教の原理のうえに、じぶんたちに都合のいい物語を建て増しした結果、逆に原理の部分が失われて、補陀落渡海という狂信的な悪習慣が生まれてしまいました。
わたしは熊野信仰の核にあたる部分は、あの複雑な寺社の縁起ではなく、熊野が「人間の生き死にを飲み込むほどの大原生林」だったことだとおもいます。
わたしたちが熊野を信仰する場合には、この大原生林のもつ神秘と、そこに人々が信仰を寄せたという事実だけをみていればよいでしょう。
ほかの神仏習合や山岳信仰、民間信仰がまじりあったややこしい部分は、ほとんど無視しても問題ないとおもいます。
さて、以上が熊野の話でした。
ここからはギズモさんのご返信に対するわたしなりの考察です。
記紀神話は、皇統の物語ですね。
しかしこれは物語ですから、実際に血縁がつながっているわけではないのです。
日本神話はつまり、実際の血がつながっていなくても「皇統はつながっている」と宣言する「思想の物語」でした。
わたしは神武天皇から「国家をつなぐ責任が生じた」と解釈しています。
天皇という呼称は、実際には推古天皇あるいは天武天皇の時代につかわれるようになりました。
それがなぜ神武を「天皇」としたかというと、この時点から「すめらぎ=皇統」によって国家を維持する思想が始まったからです。
血筋という意味では序盤からつまづいているわけですが、それでもなにがなんでも、万世一系ということにしなければならないんだという強烈な思想が、天皇(すめらみこと)という言葉にあらわれています。
ところで高千穂の場合、権力者の子孫を残すことで国をつなぐという思想はなかったようです。
女王の卑弥呼(アマテラス)には子がありませんでした。
それでも実際の血縁関係ではない周辺の有力な王族と手を組んで、女王統治のもとに「天孫」があるということにしたのでしょう。
高千穂では卑弥呼こそが天(カリスマ)であり、唯一無二の存在でした。
だからこそ高千穂のヤマト王権は、卑弥呼が亡くなると瓦解したのです。
卑弥呼の没後、九州では熊襲をはじめとした「まつろわぬ者(ヤマト王権に従わぬ者)」がはびこりました。
すめらぎの点でいえば、ヤマト王権にとって大国主は脅威だったことでしょう。
大国主は山陰各地の王族と連合し、実質的なリーダーとして、各地の王族の女性と関係を持ちました。
ヌナカワヒメもそうですね。
子を残すことで国家を存続させていくという思想は、むしろ出雲で完成しつつあったのかもしれません。
さて、神武天皇が実在したかどうかということについては、わたしも引っかかっていました。
高千穂から奈良へ軍勢が送られたのは間違いないとおもいます。
しかし軍の中に神武がいたかどうかは、はっきりしません。
特にわたしが引っかかっていたのは、神武の崩御と、卑弥呼が没したタイミングが重なることでした。
あるいは、神武はおらず、高千穂軍が奈良のヤマトを実効支配していたのかもしれません。
そして高千穂で卑弥呼が没すると、ヤマトで壮絶な権力闘争が起こった。
そのように考えることもできそうです。
しかし高千穂でも女王の下に王をつくっていたのに、当時の国家がその地に王をつくらずにやっていけるでしょうか。
また大物主と神武天皇の関係
東遷後の各氏族への論功行賞は、絶対的な権力者がいないとなかなかまとまらないでしょう。
そのように考えると、やはり神武天皇は存在して、たまたま崩御の時期が卑弥呼の没年と重なったと考えるほうがしっくりくるようにおもえました。
神武天皇がいたと考えた場合、東遷にじぶんの意志が働いていたかという件ですが、神武は自然に運命を受け入れていたと考えています。
運命を受け入れるという点で、卑弥呼と神武天皇はほんとうによく似ています。
わたしは以前、イザナミに足りなかったのはツクヨミ(道教)だったといいました。
これはいわば巫女としての規範ですね。
もっと突っ込んでいうと、巫女の帝王学です。
イザナギはまるで幼児に英才教育をほどこすように、幼い卑弥呼(アマテラス)に徹底的に巫女の帝王学を教え込んだのではないでしょうか。
そして卑弥呼は従順にじぶんの運命を受け入れて、すぐれた巫女(帝王)になりました。
神武天皇もまた天孫族の運命に対してひどく従順で、しかも完璧な帝王でしょう。
たとえ天才でも、教育されないまま才能を発揮することはできません。
ではいったいだれからこの英才教育をほどこされたのか。
そこでわたしは、アヒラツヒメが卑弥呼だったのではないかという飛躍した考えに至るのです。
わたしは卑弥呼がアヒラツヒメというかたちで、神武のそばで帝王としての覚悟と運命を教育したのではないかという線を捨てきることができません。
余談ですが、アヒラツヒメも不思議な存在でした。
アヒラツヒメは、阿多の小椅の君(あたのおばしのきみ)の妹といわれます。
阿多とは、海幸彦を祖神とする隼人の一族です。
また古事記ではコノハナサクヤヒメは神阿多都比売(カムアタツヒメ)と呼ばれていました。
やはり名前に阿多が入ります。
なぜ九州の有力者である阿多の名が、出雲の大山祇命の娘であるコノハナサクヤヒメと結びつくのでしょう。
海幸彦を起源とする阿多氏と、出雲の大山祇がなんらかの関係性をもっており、コノハナサクヤとニニギが結びついたのでしょうか。
しかしこの場合、コノハナサクヤから山幸彦と海幸彦が生まれたという時系列に決定的な狂いが生じます。
阿多にはなにかががあるような気がしてなりません。
しかしそういった疑問があるということはさておき、今回気になるのは、アヒラツヒメの名には「阿多」が含まれていない点です。
阿多の小椅の君の妹ですから、阿多の一族であろうと推測されているわけですが、その場合はふつう名前に阿多が入るはず。
しかし、アヒラツヒメは両親も不明で、阿多の名もありません。
阿多の小椅の君が何者であるかも、阿多であるということ以外は不明。
アヒラツヒメは神武東遷の際に同行することもなく、東遷を為したあとに奈良へ向かうこともありませんでした。
わたしはこのあまりにも謎の多いアヒラツヒメを、卑弥呼だと疑う余地があると考えています。
あるいはもっと突拍子もない想像をふくらませるとしたら、そもそも卑弥呼の出自が阿多の一族からきており、イザナギが高千穂に国を築く際に、阿多氏と結びついて幼い卑弥呼をもらいうけたのかもしれません。
話を戻しましょう。
神武は天孫族の領土奪還のために東遷(戦争)することを運命として受け入れました。
そして苦難の末にヤマトの王(天皇)となると、この生まれたての国家をみごとにおさめてしまいます。
神武自身に乱れた逸話もなく、下剋上をねらう諸侯も完全に掌握しました。
王としてあまりにもできすぎていて、前回書いた通り「ある種の清潔さを感じる稀有な神」です。
言い方を変えると、ほんとうに実在していたのか疑わしいくらい清潔ですね(笑)
さらに余談ですが、イザナギが仕込んだ帝王学は、それだけ完成されたものだったとおもうのです。
ただこれは、「生まれたての国家においては」という但し書きがつきます。
ある程度国家が成長すると、巫女の神懸かりによる独裁よりも、もっと現実的で論理的な政治が求められるようになります。
しかしさいころを振ってばくちをするがごとき巫女政治には、依然として人々を惹きつける求心力がありました。
だからこそ崇神天皇は巫女政治を嫌い、巫女の象徴であるアマテラスを伊勢に封印したのではないでしょうか。
さて、実質的な皇室の先祖はだれかという話ですが、実際の血筋となると、これまで何度も途切れているようです。
初期の天皇の実在性はもちろん、26代継体天皇も天皇の血筋として認められるのかどうか議論されているようですね。
しかしさきほども申しましたが、大事なのは天皇のDNA以上に、すめらぎの思想です。
日本がポツダム宣言を受諾するとき、政府は唯一、国体の護持を条件にしました。
戦後、天皇を取り巻く環境は激変しましたが、それでもすめらぎは続いています。
ところで、すめらぎの思想というところで考えると、わたしは結局、実質的な皇室の先祖は、イザナギ、イザナミにたどりつくのではないかとおもえます。
ギズモさんはきっとこのわたしの答えを聞いて、はぐらかされたようで拍子抜けされたことでしょう(笑)
しかし無根拠にそう考えているわけではありません。
イザナギ・イザナミという名前の意味をたどると、「いざなう者」となります。
道教の陰陽でいえば、男は陽で、女は陰ということになるようですね。
もちろん、イザナミが陰だからわるいという話ではありません。
あの勾玉がふたつ合わさったような太陰大極図は、陰と陽があわさって、ひとつの循環になっていることをあらわしています。
人が死んで減ってしまえば、国は滅亡するというイザナミの陰。
人が多く集まって社会を形成すれば国になるというイザナギの陽。
イザナミが一日1000人黄泉の国へ連れていくことがあらわしているのは、人は死ぬという厳然たる事実です。
それに対してイザナギは1500人生まれる国をつくるといいました。
イザナギは、国家のためには死ぬ人数よりも多い人数をうまねばならないという、非常にシンプルな社会思想を持っていたんですね。
このイザナギから生じたアマテラスとスサノオは、対照的な運命をたどります。
一方はイザナギの教育によって高千穂の絶対女王となり、一方はイザナギと決別してみずから運命を切り開き、イザナミのいた出雲の支配者となりました。
ヤマトと出雲の、すめらぎをめぐる数奇な運命が、神話よりずっと後世にも続いたという話は、以前にもしました。
ヤマト王権は一時は出雲連合を平らげ、すめらぎを得ました。
出雲は滅亡したかにみえましたが、奈良時代になると関東で武士団が発生します。
かれらの出自をたどれば、はるかむかしに関東を開拓(国づくり)した出雲族が大勢いたことでしょう。
そしてこの武士団が鎌倉で幕府を形成します。
京都の朝廷を守るという名目で生まれた幕府でしたが、足利尊氏の時代になると北朝を擁して、京の朝廷を牛耳りました。
そしてもともとの朝廷は奈良吉野へ追われ、南朝として北朝と争います。
しかし結果的にすめらぎは南朝から北朝へ禅譲されました。
神武天皇が熊野を抜けて復活し、最初のすめらぎが生まれるきっかけとなった吉野山が、南朝の最後の場所だったというのは皮肉なことです。
日本書紀や古事記、先代旧事本紀を編纂した人々も、まさか将来、出雲族とすめらぎがこのように関係してくるとは、想像だにしていなかったことでしょう。
しかしわたしには北朝がすめらぎを得たことで、イザナギとイザナミの陰陽が調和したようにおもえるのです。
……いろいろややこしい話をしましたが、皇統はイザナギ・イザナミから始まり、紆余曲折を経ながらいまもいざなわれ続けている、というのがわたしのアクロバティック解釈です(笑)
さて、アマテラスが伊勢神宮、大国主が出雲大社に「封じられている」と感じるという件ですが、わたしもそうおもいます。
伊勢神宮にアマテラスが鎮座したよりも前に、神話で「まつられた神々」は、ヤマト王権によってむりやり鎮魂されたと考えたほうがよいのかもしれません。
出雲大社も、三輪山も、箸墓古墳も、伊勢神宮も、「丁重にまつることで、ヤマト王権の礎になっていただく」というような意味合いが感じられます。
言い方を変えれば、たたりを防いでいるわけですが、これは実際丁重にまつらねば、出雲族が反乱を起こしたり、巫女勢力の恨みがつのったりといった実害があったことでしょう。
タケミナカタとタケミカヅチの力比べですが、わたしもこれは戦争だったとおもいます。
九州勢力(タケミカヅチ)が越の国の勢力(タケミナカタ)を諏訪で封じた、ということでしょう。
ギズモさんのおっしゃるように、タケミナカタの軍勢は越の国まで逃げて援軍を頼むつもりでしたが、諏訪で進退窮まり、降伏したのかもしれませんね。
さて、今回もやはり長くなりました(笑)
三寒四温といいますが、ギズモさんの予測された通り、雪が降るほどではないものの、寒さがぶり返しています。
わたしもぼちぼち花粉症が始まってきました。
不快な時期ですが、先日ふきのとうが芽吹いているのを発見し、いつの間にか梅の花も咲いています。
春はたしかに近づいているようですね。
最後になりますが、安政6年に、吉田松陰の思想に共鳴した攘夷派の氏子が、山口県下松市(くだまつし)の花岡八幡宮に破邪の御太刀(はじゃのおんたち)といわれる、巨大な刀を奉納しました。
全長4m65cm、重量75kg。
人間があつかう刀ではありませんが、動乱の日本を守るという、破邪の願いが込められているそうな。
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おそらく百済からヤマト王権に贈られた七支刀も、そのような破邪の意味合いを込めてつくられたものなのでしょうね。