山麓王国

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2026年1月27日 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する

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こんばんは。

お札の役目が終わったからと、お祓い箱にしなくてよかった、というギズモさんのお言葉は、わたしも感じていることでした。

ギズモさんの場合は、お札を継続して授与してもらう、という意味だとおもいます。

わたしの場合はお守り自体がくたびれて、もうご返納していただきたがっている、と感じるのでなければ、お守りはどんなに時が経ってもわたしを守ってくれますし、決してわるい影響を与えたりはしない、と考えています。



緊張についてのお話、ためになりました。

わたしも年を取ると緊張の仕方が変わるような気がしているのですが、その手前の段階で、人を楽しませたい、人に心地よくいてもらいたい、という意識のあるなしが、心地よい緊張にかかわっているような気がしました。

わたしはこれまでの人生を振り返っても、他人を楽しませるかどうかよりも、じぶんが楽しめているかどうかを考えていた気がします。

といっても、この年から突然意識が変わるともおもえないので、おそらくこれからもそうなんだとおもいます。

しかし人を楽しませる緊張感を会得しないまま、年をとって緊張感がなくなるのは、なんだかとても残念な気もします。




さて、前回お伝えした通り、古代のお話をさせていただきます(笑)



欠史八代の時代は、2代目の綏靖天皇で神武天皇の血筋が途絶えたことから、20年ほどの間で王が横並びに乱立した時代なのではないかとわたしは考えています。

欠史八代を読み解くカギになるのが「磯城県主(しきのあがたぬし)」です。

いまでも奈良県に磯城郡という地名で残っているのですが、神武天皇の時代に政権中枢を担っていた地域です。

この磯城県主に葉江(波延)という人物がいました。



まず磯城県主と葉江に注目して、欠史八代とその妻をみていただきたいのです。

(初代 神武天皇)
2代 綏靖天皇 (日本書紀)大物主の娘  (古事記)葉江の妹
3代 安寧天皇 (日本書紀)大物主の孫の娘  (古事記)葉江の娘
4代 懿徳天皇 (日本書紀)安寧天皇第一皇子の娘  (古事記)葉江の血族の娘
5代 孝昭天皇  尾張連の祖・奥津余曾の妹の世襲足媛 (日本書紀)葉江の娘、あるいは倭國豊秋狭太媛の娘
6代 孝安天皇  孝昭天皇第一皇子の娘 (日本書紀)葉江の娘、あるいは十市県主五十坂彦の娘である五十坂媛
7代 孝霊天皇 (日本書紀)磯城県主の大目の娘  (古事記)十市県主の祖の大目の娘
8代 孝元天皇  ウマシマジの後裔の大水口宿禰命の娘の欝色謎命
9代 開化天皇  ウマシマジの後裔の大綜麻杵命の娘の伊香色謎命
(10代 崇神天皇)



これをみると、葉江は欠史八代のうち、3代(あるいは2代)から6代までの天皇に后を与えています。

これは神話どおりに数十年おきに天皇が皇位を渡していったと考えると、葉江の寿命のつじつまが合いません。

しかしこの天皇の交代劇が短い期間中に、一度に起こったことだと考えれば、葉江が娘をどんどん天皇に嫁がせたというようなこともじゅうぶん可能です。



逆に短い期間で一気に起こったことだと考えると、たとえば3代安寧天皇の妻「大物主の孫の娘」は、無理があることがわかります。

なにせ大物主は10代崇神天皇の折に登場して、倭迹迹日姫命と結婚しようとします。

欠史八代のころの大物主は40代半ばから50代くらいでしょうから、孫はいたかもしれませんが、ひ孫がいるような年ではありません。



4代と6代の天皇が、先代の第一皇子の娘と結婚するというのも、奇妙ですね。

これは天皇が姪っ子と結婚するようなものですが、先代が孫をもうけて、皇太子に嫁がせるまで成長を待つには、20年は短すぎます。

結局、実際の歴史の時系列の矛盾点を省きながら考えていくと、やはり葉江は当時の複数の天皇の擁立に深くかかわっていたとおもうのです。



さて、欠史八代を語るには、饒速日命を避けて通ることはできません。

饒速日はニニギノミコトの兄で、神武天皇に先駆けてヤマトの地を開拓しました。

饒速日の息子はウマシマジ(宇摩志麻遅命)といいます。

饒速日→ウマシマジの血筋は、その後物部や穂積といった豪族につながっていきました。



丹後の天橋立近くの元伊勢籠神社のご祭神は彦火明命(ヒコホアカリノミコト)ですが、彦火明は饒速日と同一といわれます。

なぜ丹後で饒速日が出てくるのか、ということなんですが、饒速日はヤマトの地へ向かうまでに、出雲、但馬、丹後と、本州の山陰を経由するルートを通り、その道中で複数の妃をもって、子をもうけていたようです。

なので、饒速日には山陰各地に落胤(落としだね)があったと考えられます。



饒速日は神話に伝わるように、アマテラスの命でいきなり生駒山に降臨したわけではありません。

卑弥呼に命じられて、九州から奈良へと遠征をしました。

旧事本紀では饒速日命が降臨する際に大量の神々が付き従ったとあります。

これは九州から付き従った豪族もいたでしょうが、遠征の旅路の中で、様々な国に立ち寄り、多くの部下を得たのでしょう。



さて、ここからしばらく話が変わるのですが、出雲の話をします。

旧事本紀に書かれてあることなんですが、饒速日のヤマト遠征に付き従った神の中に、少彦根命がいました。

少彦名と少彦根命で、すこし漢字がちがうのですが、これはもちろん少彦名のことで、もしかしたらこのころすでに、饒速日に従う形で少彦名が出雲から失われていた可能性があります。

つまり少彦名はヤマト側から、大国主の国づくりを手伝った、とわたしは考えました。



オオナムチが出雲の王になったのは、わたしの時代考察でいうと、190年あたりになります。

このときすでにスサノオは根の国にいたということですから……つまり60歳あたりで亡くなっていたのでしょう。

スサノオは40代後半から50代にかけて出雲の王となり、若いクシナダヒメと子を為して、10年ほどで亡くなったとおもわれます。



オオナムチは日本書紀ではスサノオの子でした。

しかし古事記では八十神にいじめられたり、根の国のスサノオの難題を解決して、スセリビメと結ばれて……つまり結局はスサノオの養子になります。

オオナムチ、すなわち大国主のエピソードをみていると、たよりない優男のようにもおもえるのですが、実際には勇敢さと、部下と協調しながらものごとを進めるやさしさを兼ね備えた大人物でした。



さて、旧事本紀のとおり少彦名が饒速日に従ってヤマトへ行ったとすれば、これは180年ごろですから、少彦名は大国主よりかなり年上だったのでしょう。

少彦名はその身体的特徴もそうですが、クエビコ(久延毘古)という知恵の神のカカシと同一とされることから、いまでいう障がい者だった可能性があります。

しかし少彦名は、ハンデキャップを補って余りある優秀な知性を持っていました。

少彦名はその伝説をうのみにするなら、医療、米作り、酒造、陶業と、その後大物主に引き継がれる産業の基礎部分を為したようです。

さらに出雲の大国主と共同で、おそらく10年あるかないかの短い期間だとおもいますが、関東開拓(国づくり)をおこない、そして大国主より早く、200年ごろに世を去ったのでしょう。



しかし少彦名が亡くなると、大国主が「葦原中国はわたしが開拓した。わたし以外に治めることのできる者はいない」と宣言しました。

すると、神話によれば大国主の前に幸魂・奇魂があらわれ、こういったのです。

「違う。わたしがあるからこそ、お前は国づくりを行えたのだ」

そして「わたしを三諸山(奈良の三輪山)にまつりなさい」というので、大国主はそのようにしました。

この幸魂・奇魂が大物主だったといいます。



このエピソードはつまり、出雲国が国づくり(関東開拓)をしたと主張したのを、ヤマト王権が許さなかったということでしょう。

これは実際には、関東の領有権をめぐって、ヤマト・九州の連合と、出雲との戦争にまで発展したのだとおもいます。

結果、大国主はヤマト王権に屈するかわりに、出雲大社の建設を要求し、受け入れられました。



ちなみに、神話では大国主が国譲りをしたことで、ニニギノミコトが天孫降臨したというのですが、これはわたしの時系列ではつじつまが合いません。

饒速日が奈良を開拓しているころ、ニニギノミコトはすでに皇位についているか、あるいは崩御しています。

奈良にヤマト王権が成立した時期でなければ、大国主の国譲りは成立しません。

なぜなら、幸魂・奇魂(事代主)が三輪山に行く意味がないからです。



出雲は出雲大社があることによって、国譲りをした後も、国家のような存在であることが許されます。

しかしそれが許されたのは、その後大物主がヤマトで絶大な権力を発揮したからで、大物主が亡くなると、崇神天皇は結局出雲を滅ぼしてしまいました。

このあと、出雲の人々が苦しいおもいをしたであろうことは、以前話したとおりです。



ところで、大国主が国譲りするにあたって、事代主が三輪山へ行くこととなりました。

これは日本書紀で幸魂・奇魂のエピソードと並べて書かれてあるのですが、あるいは大国主の幸魂・奇魂とは、事代主のことだったのかもしれません。

この際、フツヌシとタケミカヅチが大国主に強硬に談判して、国譲りするのかしないのか、「否・然(いな・さ)」を問うのですが、これは先ほども述べた通り、出雲とヤマト(および九州王国)の間で戦争があったのでしょう。

そして大国主はこのとき返事をすることができず、事代主に相談するのです。

事代主は国譲りするように、大国主に進言しました。



事代主は大国主の息子といわれますが、一説には大国主自身ともいわれたりします。

しかし大国主と大物主は性格からなにから、まったくちがうのです。

わたしは事代主は、大国主の息子ではなく、大国主と年がほとんど離れていない出雲の重臣だったのではないかと考えました。



つまり、事代主が大国主にみずから提案してヤマトへ向かい、三輪山で製鉄事業を行い、さらに少彦名の事業も引き継いだのではないか、と。

なにせ大物主は、大国主とちがってひどく合理的で、怜悧な優秀さがありました。

大物主のような経営的センスは、ちょっと大国主からは感じることができません。

事代主は判断が的確で、しかし言い方を変えればワンマンな気質があります。

そしてなにより大国主とちがって、女の扱いが下手でした。

大物主の女性エピソードは、なんだか気持ち悪いものが多いのです(笑)



大国主は出雲大社にまつられると同時に、幽世(かくりよ)の神となったということですから、出雲の地で亡くなったのでしょう。

大国主の偉大さは、敗戦を認めるかどうかを部下にゆだね、そうすべしと決まったら、いさぎよくみずからすべての責任をとったところにあります。

ただ部下に判断を投げていたのではなく、最後きちんと責任をとる覚悟も背負っていたんですね。



おそらく国づくりにおいては、少彦名の死後、出雲側が多くの苦労を負ったのでしょう。

だから、大国主が国づくりの主権を主張したのは、正当な主張でした。

ヤマト王権が紡いだ神話では、国譲りはニニギノミコトの天孫降臨のためだとか、あれこれ理屈付けをしますが、実際には出雲の功績を強奪したように感じられます。

国づくりの面で出雲にこれといった功績がないのなら、出雲大社をつくってくれという要求をヤマト側が飲む必要もありません。

しかしヤマト王権は、大国主をたたえる巨大な神社を建造しました。



じつは国譲りでは、ヤマト王権から出雲に対して、かなり理不尽な要求があったのではないか。

そして大国主はその理不尽をすべて受け止めて、責任を負いました。



記紀神話がヤマト王権の物語であるにもかかわらず、一介の出雲の王に「大国主」というビッグネームを与えたのは、このあたりの負い目があったのでしょう。

大国主は表面だけ見ると、女性に守られるばかりで、頼りない優男のようにおもえますが、じっくり調べていくと、じつに偉大で魅力的な神でした。

スセリビメが惚れ、スサノオが一目置いたのも、さもありなんです。



さて、事代主は出雲にとっての最善、ヤマト王権にとっての最善、さらに大国主の名誉、じぶんの利益を総合的に考えました。

経営者は勝ち馬に乗って、八方よしを心掛けることで利益を拡大しますが、事代主は政治においても経営においても、このあたりのバランス感覚が非常に優れています。

事代主は出雲でも優秀だったはずですが、ヤマト王権も完全に大物主(事代主)に依存します。

神武天皇は大物主の娘を娶りましたし、ヤマト王権内の産業の多くが大物主の利権となりました。



さて、長い脱線でしたが、饒速日と欠史八代に話を戻しましょう。

饒速日命はヤマトへ行くと、もともとヤマトの地に住んでいたナガスネヒコと出会い、かれの妹をめとり、ウマシマジをもうけます。

ナガスネヒコは天孫族との縁を得たことで、ヤマトの地の権力を掌握した気になって増長しました。



日本書紀によると、神武天皇がヤマトにやってきたとき、饒速日命は存命だったとありますが、旧事本紀ではもう亡くなっていたとあります。

饒速日が直接神武天皇に下ったほうが神武東遷の正当性は高まるのですが、わたしは饒速日は亡くなっていたとおもいます。

なぜなら饒速日命が生きていたら、天孫族の外戚にすぎないナガスネヒコが、神武天皇に強硬に盾突くわけにもいかなかったはずですから。



あるいは、そもそも饒速日が亡くなり、ナガスネヒコにヤマトが乗っ取られそうだと高千穂に伝わったため、神武天皇が急ぎ海路を利用してヤマトにつかわされた可能性すらあるとおもうのです。

わたしはなぜ神武天皇が饒速日のように各地で有力氏族を仲間にしたり、子をもうけなかったのか不思議だったのですが、海路や水路をフル活用して、全速力でヤマトまで向かったのかもしれません。

そのように考えると、当時まだ10代だった可能性すらある神武天皇が、アマテラスに命じられて東遷を行った不可解さについても、納得できます。



ちなみにナガスネヒコは天孫族ではありません。

だからナガスネヒコは、饒速日が死んで手中に入れたヤマトの地を、いまさらまた天孫族に明け渡すなどまっぴらごめんだとおもっていました。

しかしウマシマジは饒速日の子ですから、天孫族の血が入っています。

「天孫族の血統」は、この時代に、じぶんが何者であるかを指し示してくれるとても強い光を放っていたのでしょう。



ウマシマジからすれば、たとえナガスネヒコの抵抗が功を奏したとしても、後ろ盾のない独立国家になるだけでした。

天孫族の血筋を利用して九州の王国の後ろ盾を得たほうが、ウマシマジの将来にとってよほど有利なのです。

じぶんの血筋でいえば、神武天皇に準ずる立場にはなれることでしょう。

結果、ウマシマジは神武天皇に恭順の意を示して、ナガスネヒコを討伐してしまいました。

もちろんじぶんの伯父ですから、複雑なおもいがあったのは間違いありません。

神武天皇はその労に報いるかたちで、ウマシマジを申食国大夫(おすくにのまえつきみ)という、当時の政権の頂点の役職でむかえました。



おなじく神武天皇がヤマトで戦っているときに、兄磯城と弟磯城のエピソードがあるのです。

これはナガスネヒコとウマシマジのエピソードそっくりなのですが、神武天皇に反抗していた兄磯城を、弟磯城が討つのです。

弟磯城こと黒速(クロハヤ)は、この功績により初代の磯城県主になりました。



しかし神武天皇が崩御すると、二代目磯城県主の葉江が天皇一族の外戚になろうとします。

葉江がなぜこれほどの情熱を傾けて、複数の天皇を擁立したのか、はっきりしたことはわかりません。

なんとなく神話から読み取れることといえば、初代の黒速も二代目の葉江も、三代目の大目も、名前に「命(みこと)」などの尊称がないことです。

わたしはこのあたりでどうも、かれらは天皇の外戚になれるような身分ではなかったのではないかという気がしました。



実際、欠史八代の系譜をじっくり見ていくと、横並びになった王の中で、実際の権力を手にしたのは、8代目以降の天皇でした。

8代 孝元天皇
9代 開化天皇

ですね。



孝元天皇の正妻は、欝色謎命(うつしこめのみこと)といって、穂積氏の祖先といわれる大水口宿禰の娘でした。

穂積氏は、物部氏とおなじくウマシマジの系譜です。

そしてこの孝元天皇から倭迹迹日姫命が生まれました。



開化天皇の后は伊香色謎命(いかがしこめのみこと)です。

孝元天皇と開化天皇がなぜ欠史八代の勝者だったかを読み解くには、この伊香色謎命がキーパーソンとなります。

しかしその前に、伊香色謎命の兄の伊香色雄命(いかがしこおのみこと)についての伝説をお話ししましょう。



日本書紀によると、10代崇神天皇の御代に、疫病が流行りました。

国全体が乱れる中、八百万の神をまつる神浅茅原(現在の奈良県桜井市のあたり)で、倭迹迹日姫命が神懸かりを起こします。

神に乗り移られた倭迹迹日姫命がいいました。

「わたしは大物主である。わたしを奉れば国は落ち着くだろう」

しかしはっきりしたことがわからないまま、時がたちました。



そんなある日、崇神天皇の夢枕に大物主が立ちます。

「大田田根子(おおたたねこ)と市磯長尾市(いちしのながおち)に、大物主神と倭大国魂を奉らせよ」

そこで崇神天皇が号令を発すると、現在の大阪府堺市のあたりで、大田田根子を探し当てたのです。

(今回、市磯長尾市については話を省略します)

大田田根子に出自を問うと

「父は大物主神、母は活玉依姫です」

と答えました。

まごうことなき、大物主の系譜です。



さらに占いを重ねると、伊香色雄(いかがしこお)を神班物者(神への捧げものを分配する者)にすればよいと出ました。

伊香色雄はウマシマジの血筋、すなわち物部の祖先でした。

この占いにより、石上神宮が建造されたといわれます。

この神託によって、たしかに国の騒乱はおさまったそうな。



さて、3代目から7代目までの天皇には、磯城県主から后を出していましたよね。

8代目の孝元天皇の正妻は欝色謎命(うつしこめのみこと)です。

そして夫人が伊香色謎命(いかがしこめのみこと)でした。



伊香色謎命は、若いころに8代目孝元天皇の夫人となり、その後9代目開化天皇の正妻になりました。

伊香色謎命は、伊香色雄命のきょうだいです。

ややこしい血筋の話でしたが、ようするに、孝元天皇も開化天皇も、ウマシマジの血筋で妻を選んだのです。



ところで日本書紀では、大物主と倭迹迹日姫命の破局の物語は、この大田田根子を探す騒動の後に記されています。

つまり、大物主は生きていたんですね。

なのになぜ大物主は、わざわざ倭迹迹日姫命に神懸かりさせて、「大物主を奉れ」なんてことを言わせたのでしょう。



これはつまり、欠史八代の権力争いが続いている間、大物主はヤマト王権と距離を置いていたということだとおもわれます。

"大物主"が"倭迹迹日姫命"の口を借りて"崇神天皇"に、託宣を伝えるというあたりに、ヒントがありますね。



おそらく大物主は、8代孝元天皇がウマシマジの系譜とつながった時点で目をつけていました。

大物主は、磯城県主の擁立した天皇にはかかわらず、ウマシマジの系譜の天皇を選んだのです。

そして、欠史八代の覇権争いに事実上の決着がついて、10代崇神天皇の御代になってから、本格的にまたヤマト王権と関わりだしたということでしょう。



このとき、これみよがしに孝元天皇の娘である倭迹迹日姫命を利用することで、孝元天皇の系譜とつながったことをアピールしました。

つまり大物主は、勝ち馬をじゅうぶん見極めて、最終的に欠史八代の勝者を決めたキングメーカーだったといえます。

この点でも、大物主の抜け目ないしたたかな性格がみえてきますね。

しかしこういった大物主の強大な権力を、若きカリスマだった崇神天皇は危険視したのかもしれません。



大物主が大田田根子を探し出した理由については、大物主の後継者を探し、天皇家とのつながりを維持する目論見があったようにおもえます。

しかし実際には、大田田根子は三輪氏や鴨氏という有力な豪族の祖先となり、大神神社の祭主にもなったのですが、大物主の強大な権力をそのまま引き継ぐことはありませんでした。

これも、崇神天皇のちからが働いていたようにおもえます。



さて、これで欠史八代の話はおしまいで、最後に武内宿禰の話をさせていただきます。

いままで10代崇神天皇までの話をしてきましたが、そこから2代先の景行天皇の時代から、16代仁徳天皇までに使えた仕えたのが武内宿禰ですね。

じつは天皇の寿命が人間よりも長い時代は、仁徳天皇までです。


10 崇神天皇 120歳 在位68年   BC97 ~BC30
11 垂仁天皇 140歳 在位99年   BC29 ~AC70
12 景行天皇 106歳 在位60年  AC71 ~AC130
13 成務天皇 106歳 在位60年   AC131~AC190
14 仲哀天皇 52歳  在位9年    AC192~AC200
(神功皇后 (100歳 在位69年)(AC201~AC269)
15 応神天皇 110歳 在位41年   AC270~AC310
16 仁徳天皇        在位87年   AC313~AC399


仁徳天皇以降、天皇の寿命はおおむね人間と変わらなくなります。

つまり、仁徳天皇の崩御以降、神話の年数と実際の歴史の年数の整合性がとれてくるわけですね。



わたしは崇神天皇の実際の在位期間は230年あたりから270年ごろだと考えています。

そうすると、仁徳天皇の在位期間は313年から399年ですから、崇神天皇の御代から早ければ40年。

遅くても120年ほどで、実際の歴史にほぼ追いつくのです。

6代の天皇がバトンタッチしていく期間としては、かなり現実的ではないでしょうか。



さて、景行天皇14年に武内宿禰が生まれました。

おそらく景行天皇は長期政権だったのでしょう。

ヤマトタケルを含め、神話におけるエピソードも豊富です。

もちろん額面通り60年の在位とはいきませんが、30~40年ほど在位したと考えましょう。

すると景行天皇が崩御したころ、武内宿禰は20~30代です。



次の成務天皇も武内宿禰を大臣に起用します。

しかし各地の国や県に首長を置くという以外は、ほとんど記述がなく、崩御しました。

父の在位が長かったからか、成務天皇の在位期間はかなり短かったとおもわれます。



次の仲哀天皇は熊襲討伐の道半ばで病気になって崩御します。

在位期間は9年。

これはそのまま受け取っていいでしょう。



このとき、武内宿禰は40~50歳といったところです。

では次の神功皇后は仲哀天皇の后なんですが、応神天皇が即位するまでの間に摂政として政治を行いました。

天皇が二代続いて早く亡くなったため、皇后が摂政になったとおもうのですが、この時代の神話はどうも嘘くさく、三韓征伐といって、朝鮮半島への出兵をして、朝鮮を従えたという伝説があるのです。



神功皇后は一時途絶えていた巫女政治を行ったようなんですが、この時期の神話はやたら勇ましく、武勇に満ちたエピソードが豊富なんですね。

日本が新羅を圧倒した、というような、なんだか戦時中の大本営発表みたいなことが書かれてあるのですが、真偽のほどは極めて怪しい。

おそらく実際には、ヤマトからの朝鮮への侵略行為はあったものの、朝鮮半島の戦争でヤマトが存在感を示した、という程度のことでしょう。

むしろその後長く朝鮮半島と友好関係と敵対関係を両立させる関係の中で、日本に渡来人が大量にやってくることとなります。

神功皇后は応神天皇が即位するまでの十年ほど、摂政として政治をしていたのでしょう。



次の応神天皇は武運で有名な八幡神としてあがめられました。

八幡神は応神天皇、神功皇后、そして比売神で、八幡三神とされます。

応神天皇は、まるでアマテラスの時代のように、母の神功皇后の神懸かりを利用して戦争をしていました。

そう考えると後世の武人にとって、武運を神に任せるという意味で、八幡神ほどうってつけの神はいなかったことでしょう。



応神天皇の在位期間は41年とされていますが、実際には20年くらいだと考えます。

すると、景行天皇が40年、成務天皇が10年以内、仲哀天皇が9年、神功皇后が10年、応神天皇が20年。

武内宿禰は景行天皇14年に生まれていますから、これら天皇の時代をすべて足し算すると75歳。



といっても近代以前の天皇の寿命が平均して50歳ほどで、在位期間が平均11年ほどであることを考えると、これでも相当長く見積もっています。

実際にはもう少し在位期間が短く、武内宿禰は70手前で仁徳天皇の家臣となったのではないでしょうか。

そのように考えると、相当長生きはしたものの、武内宿禰はやはり人間の寿命だったとおもわれます。



日本書紀で、仁徳天皇が武内宿禰に、あなたほどの長寿はいないといって称える箇所があります。

これが武内宿禰の出てくる最後なんですが、もしかしたら80歳、90歳を超えてもまだヤマト王権に仕えていたのかもしれませんね。



というわけで、今回もかなり長くなりましたが、いろいろと考察を述べました。

きっと今回も読むのにご苦労なさるとおもうのですが、お返事は拾いたいところだけ拾っていただいてかまいませんし、時間を区切らず気の向いたときにゆっくりでかまいません。



ギズモさんの書き足しにあったわたしの過去の記事ですが、日本神話に対するわたしの立場は、あのときと変わっていません。

しかし古代に対する細かい認識はここのところ、調べれば調べるほど、どんどん変わっています(笑)

もしわたしの記事の中で疑問を感じることなどがあれば、ご質問ください。



最後になります。

最近は温暖化の影響か、冬の本番が大寒(1月20日)以降、3月あたりまでといった感じになりました。

当地ではこのあたりから除雪が忙しくなります。

2週間ほど前に、ついうっかり人の集まるところに行ってしまい、風邪をひいてしまいました。

が、いまはもう元気です。

田舎ではあまり風邪をひかないので、たまに風邪をもらって免疫をつけるのもいいのかもしれない、と前向きに考えています(笑)

まだまだ寒さが続きますが、ギズモさんもご自愛ください。

2026年1月20日 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する

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※最後に少し書き足しました。


お返事をありがとうございます。

棚から吊り下げて、神社の鈴のようにしてくださったとのこと、ありがとうございます。

数年前に日光に行った時に東照宮で買った鈴は、「鈴鳴龍」というのですが、これも八雲の鈴と同じ作りなので、音色が同じです。

一方、穴があいているタイプの鈴は、もっとクリアな音色だということに、昨日初めて気がつきました(笑)


農園主さんがおっしゃるように、なぜか氷川神社に行くと、穏やかさを感じます。

私のイメージだと、スサノオは、西遊記の孫悟空と重なりますが、あくまで個人的な感想です(笑)



コンサートのことなど、おほめいただき、恐縮です。

3歳から、音楽に限らず舞台に立っているので、慣れているはずですが、実は毎回、開始10分前くらいに、めちゃくちゃ緊張します(笑)

心臓が早鐘のようにドクドクしますが、それを過ぎるとすっかり落ち着いてしまいます。

・・・・のはずなのですが、『愛の讃歌』の時、弾き語りなので歌詞を見ているのに、1行とばして歌ってしまったので、その行に戻って歌い、ごまかしました(笑)

越路吹雪の歌詞ではないので、気がつく方はいないだろうという、希望的観測でした(笑)




まさに「人を楽しませる」というのが、私の課題であり、天職としての一環だと思います。

ただ聞かせるだけでは、堅苦しい、窮屈なものとなりがちなので、楽しんでもらえ、笑ってもらえるコンサートを目指して、セットリストを考えています。

「吉本で修行してきました」というホラを吹くのが定番です(笑)



あがり症とのことですが、その緊張は、周りの方に、農園主さんの真摯で一生懸命なお人柄を感じていただけるものかもしれません。

血圧が上がるのはご心配でしょうが、適度な緊張は、いいところでもあると思います。

慣れることは必要ですが、慣れすぎは却ってよくないこともありますね。

年を取ると、若い頃に比べ、恥ずかしさをさほど感じなくなったり、悪く言うと図々しくなるとか言いますので、あと10年以上経つと、状況は変わるかもしれません。

他人事だと思っていいかげんなことを、と思われたら申し訳ないですが、案外なにかがきっかけであがらなくなることもあるので、難しいかもしれませんが、気楽に臨んでみてくださいね。



今の住まいに引っ越したのは約10年前ですが、私にとってこの方角は、暗剣殺?かなにかで、大凶方位でした。

そこで、埼玉県の久伊豆神社(主祭神 大国主命)でご祈祷をしていただき、八方除けのお札を玄関に貼りました。

観ていただいた方によると、方位除けの寺社はいろいろあるけれど、大国主命が最強だということでした。

八方除けのお札は1年経ったらはがしていいそうですが、まだ貼ってあります。

神棚には毎年新しいお札をお祀りし、久伊豆神社を時々お参りしていますが、今年からは(追加・神棚の久伊豆神社の)お札はもうやめようかな、と思いました。

お札を違う神社に納める(お返しする)のは失礼と思い、お参りに行き、お賽銭箱の前で「今年からはお札は神棚にお祀りしません、ありがとうございました。時々お参りには来ますね」と神様にお伝えし、お札の納め所に向かいました。

ところがここで、「それはよくない」と強く感じ(この時は何か聞こえたとか浮かんだのではありません)、ここでやめたら絶対後悔するだろうという気持ちがあふれてきたため、もう一度拝殿の前に戻り、神様に、お札を引き続き神棚にお祀りしますと伝え、新しくお札を買いました。

「あなたの役目は終わったからおはらい箱です」と言っているみたいで、自分がいやになったわけですが、まさに「お祓い箱」にするところでした(笑)



そんなわけで、スサノウの他は、大国主とご縁があるように思うのですが、大国主命もスサノウも、出雲から移動?した神様ですので、大国主のことは、非常に知りたいと思っていました。

また、武内宿禰のお話も、私のつまらない疑問にお答えいただけるようで、ありがとうございます。

目次全部に、とても興味をひかれました。

次回の記事、とても楽しみにしていますが、くれぐれもご無理のないよう、ゆっくりアップなさってください。



農閑期とはいえ、なにかとお忙しそうですね。

確定申告は、最近はネットで完結しますが、けっこう煩雑ですし、頭と神経と時間を遣います。

最近、老眼が始まったので(近視なので老眼になるのが遅かったようです)、特に数字が見づらくなりました。

なんだかあちこちぼやけてきて、しまいに頭がぼやけてこないかと、いらぬ心配をしています(笑)



書き足し:古代の天皇と神、神道のことで、だいぶ前に農園主さんが、簡潔でわかりやすく書いてくださっていたのを思い出し、探してみましが、 No.1084の記事でした。

その時に読んだだけでは理解不足だったことが、最近の記事によってつながってきて、よりおもしろく感じました。

2026年1月19日 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する

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お返事はいらないとのことでしたが、いろいろ書くことがありましたので、ふつうに返事をさせていただきます(笑)



氷川神社のお守りの鈴、届きました。

ほんとうにありがとうございます。

清浄できれいな音色ですね。

うちは本棚のいちばん上を神棚がわりにして、神符やお守りを保管しています。

人様からありがたい心をいただいたときには、その方への直接の感謝だけでなく、家で棚にも手を合わせるのですが、この棚から吊り下げて、神社の鈴のようにさせていただきました。

きっとよく鳴らすことになることでしょう。



八雲紋についてのお話、ありがとうございます。

八雲が吉兆をあらわす紋様であるとのこと、なんだかヤマタノオロチの問題を解決したスサノオが、横にクシナダヒメを連れて、おだやかな宍道湖や斐伊川の向こうの山々にたなびく幾筋もの煙を眺めながら、呵呵大笑している姿をおもいうかべました。

紋様の真ん中にジュンサイがあるということは、氷川神社総本社のシンボルが、蛇の池の清浄な湧き水ということなんですね。

やはり氷川神社に感じるのは全体的に、強さよりも穏やかさです。

暴れ川の荒川とスサノオという荒ぶる取り合わせと、実際の氷川神社がかもす穏やかな印象のギャップは、じつに不思議で魅力的です。



すこしだけ前回の返事になりますが、昨年末のコンサートのお話を、ありがとうございました。

セットリストの名曲の数々と、替え歌で緩急が効いていますね。

参加された方々はさぞ楽しまれたことでしょう。

舞台から人を楽しませるのは、きっとその適性がある方には大きな喜びなのだとおもいますが、一発勝負に対する重圧も伴いますよね。

わたしはいわゆるあがり症なので、人前に立つこと自体が大の苦手です。

ことしはたかだか自治会の中で話すだけで、血圧が上がって困りました(笑)

それだけに、人を楽しませるために人前に出られる方には、無条件の尊敬があります。

以前ギズモさんが、音楽についてのいろんなトリビアや、クイズなどの記事を書かれていたとき、こういうアプローチで人を楽しませようという遊び心がじぶんには欠けているとつくづくおもったものです。



ところで今回の返事とはべつに、次は欠史八代と、出雲の謎を解き明かそうとおもいます。

前回ほどではありませんが、やはり長い話になります。

かんたんに目次を書くと、こんな感じです。

・欠史八代は磯城県主とウマシマジの血筋による覇権争いだった
・大国主とは何者だったのか
・少彦名は大国主よりもかなり年上だった
・大物主はもともと出雲の事代主だった
・武内宿禰とそのころの天皇の寿命の関係について

この目次をみても、いまはなんのことかよくわからないとおもいますが、次回読んでいただければ、きっとスッキリご理解いただけるとおもいます。



当地は22日から一気に大雪に見舞われるようです。

この時期はちょうど暦のうえでの大寒で、毎年大雪に見舞われるタイミングです。

しかしむかしは12月ごろから2~3月まで雪がとけないまま、ということもよくあったらしいので、近年はまだ暖かくてありがたいです。

とはいえ、地域の除雪で忙しくなりそうですし、じつは今月末に地元の選挙があって、来月に衆議院選挙があるでしょう。

地元の選挙は別の自治会がやってくれるんですが、衆院選ではまたうちの自治会が当たり、わたしが選挙管理委員(しかもまた責任者)になりました。

確定申告も控えていますし、なんだかにわかに気ぜわしいです(笑)



それでは、記事を書きまとめるまで一週間ほどお時間をいただきたいのですが、また次回にお会いしましょう。

2026年1月18日 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する

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♪ 業務連絡です(笑)


1月は神仏棚のお札をお取り替えするので、順次、寺社をお参りしていますが、昨日、武蔵一宮氷川神社に行ってきました。

お参りしてから、神札や干支絵馬、干支の置物などを買うため、並びました。

1月末までは、授与所の窓口が10ヶ所くらいに増設されており、さほど混雑はありませんでした。

並ぶ列ごとに、エリアを仕切るロープがはられているのですが、小さな鈴が吊るしてありました。

普通なら目にとまらない場所だったのですが、参拝者が鳴らしながら通っていったので、気がつきました。

除災招福「八雲の鈴」と書かれていましたが、へ~~と思っただけで通り過ぎようとしたところ、「送りなさい」という言葉がひらめきました。

霊感は間違いなくありませんが、時々、声が聞こえるのではなく、瞬間的に頭に言葉が浮かぶことがあります。

以前、目が覚めた瞬間に言葉がひらめき(ひらがなのイメージ)、なんのことだかわからなかったのですが、検索したら、長年お参りしていなかった身内のお寺の名前だったことがありました。

この「送りなさい」は、瞬時に、農園主さんに送りなさい、ということだと理解しました。

拝殿に戻り、買ったもの全部をまとめて入れた袋の口を開いて、しばらくお賽銭箱の隅に置き、ご神気を投入していただいてあります。

ということで(笑)、八雲の鈴を、レターパックライト(非対面・郵便受け届け)でさきほど、お送りしました。

鈴だけで、手紙もなにもない、愛想のないもので、ごめんなさい。



この八雲の鈴、神紋(社紋)の八雲紋のデザインなのですが、一般の氷川神社は巴紋で、総本社である武蔵一宮氷川神社だけが、八雲紋だそうです。

それについて、武蔵一宮氷川神社が、noteに書いていますので、引用します。

https://note.com/ichinomiyahikawa/n/ne1d...


実は、八雲紋のことも、鈴のことも、長年お参りしているのに知りませんでした。

蛇の池といい、何をしに行ってたんだという(笑)

スサノウが朝鮮半島に行った話も、別の記事に書かれていましたので、参考までに。

https://note.com/ichinomiyahikawa/n/ne85...



スサノオのことなど、あまり周知されていないものも、把握しているのかもしれませんね。


余談ですが、熊手は、掻き集める・掻き込む動作をする。鈴などの音の出るものは振って音を鳴らす。

飾っておくのではなく、時々こういうことをすると開運につながるそうです。

水琴窟の音色だそうですので、ぜひ時々振ってみてください(自分のも買ったので、シャラシャラ鳴らしています♪)



さらに余談です。

神社の最寄り駅は「大宮」なのですが、構内の商業施設の中に、「YAKUMO」という洋菓子のお店ができていました。

武蔵一宮氷川神社の鳥居の形のパッケージに入ったクッキーや、フィナンシェなどの焼き菓子の販売で、武蔵一宮氷川神社とタイアップしていると思います。

令和10年(2028年)に創建2500年を迎えるにあたり、記念事業として本殿・拝殿などの銅板屋根の葺き替え工事や、一の鳥居の建立など、大規模な改修・整備が進められています。

昨年、境内にカフェを新しく作りましたが、これも駅構内のYAKUMOも、記念事業にかかる費用に充てるための戦略の一環ですね(笑)



以上、業務連絡でした(笑)

お返事はいりません(*^▽^*)


※書き足し: どう考えても、頭のおかしい、あやしい世界の人が書いたように見えますが、お気を悪くしないでくださいね<(_ _)>

2026年1月14日 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する

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※今回、誤字や書き直しが多く、申し訳ありません。


先日は、お心のこもった数々、ありがとうございました。

温かい紅茶に高槻のはちみつを入れて飲ませていただこうと、小さいスプーンに1杯のせてみたら、スッキリした透明な色でキラキラし、とろ~~りとしているので、あ、これは紅茶に入れたらもったいないと、はちみつだけいただきました。

あまりのおいしさにびっくりしました!

これは、社交辞令でもなんでもなく、これほどおいしいはちみつは生まれて初めてです。

香りにくせがなく、とろみ具合もいいですし、まろやかで、ふっくらと甘い、という言い方は変かもしれませんが、とにかく幸せの味だと感じました。

百花蜜だからでしょうか。

口に入れた瞬間に広がる、ふくふくとした香りと甘さ、食べたあとに残る甘さの余韻は素晴らしいものでした。

スライスしたレモンをはちみつ漬けにしてみましたが、このはちみつは、そういったものやジャムに使ったりせず、そのままいただくのがベストだと感じました。

毎日少しずつ、大事にいただきますね。


たまごかけごはん用のお醤油はよく見ますが、だし巻き卵用というのは、とても珍しいと思います。

近々作ってみて、またお知らせします。


石上神宮のお守りなんですが、最初、枝のように見え、サボテンの柄?と思ってしまい、ごめんなさい。

発想があまりにおかしいですね(笑)

七支刀(六叉の鉾)というものを知りませんでしたが、それにしても石上神宮ならば、剣を連想して然るべきでした。

このデザインを選んでくださったこと、とてもうれしく思います。

今思い出しましたが、昨年の奈良国立博物館での特別展を機に、 七支刀の科学調査をしたとかで、NHKでチラっとですが観た記憶がありました。

ご神符とお守りは、バッグのお守り入れにお納めした(訂正・おさめた)と言いましたが、家にいる時間の方が長いので、ピアノと机の中間に置かせていただきました。

書き足し:お守りやお札は、寺社にお返しするときは「納める」ですが、バッグに「納めた」は間違いですね。収めるでいいのかもしれませんが、「おさめる」にしておきます(笑)

改めて、心よりお礼を申し上げます。



さて、長らくお待たせしましたが、No.1683のお返事です。

例によって話が順序だっておらず、支離滅裂で読みづらいことを、最初にお詫びします(笑)



「記紀神話で、紀元前から歴史がつながっているかのように、神代から初期の天皇の系譜までを長く引き延ばすレトリック」が多用されたということに、まず驚きました。

次に、「神話と実際の歴史の時系列を整えた」ということに、驚きを通り越し、感嘆と言っていいのか、驚異を感じたと言っていいのか、言葉に困りました。

神話と歴史は、話の内容に大きな差、違いがあるものだと思っていましたし、ましてや時系列のあいまいさ、ちぐはくさは、あって当然という認識でした。

中でも、神武天皇のありえない寿命は、アマテラスのひ孫のひ孫ということで、神の血を引いているからさもありなん、と、素直に信じていました(笑)

※書き足し ご存じでしょうが、武内宿禰は300才まで生きたと言われていますよね(文献により差がある)。天皇などと関わった記録もあるようですが、実際に長生きしたとは思えません。仙人だとか、何度も生まれ変わったとかいう話も聞きます。謎の人ですね(笑)



欠史八代ですが、2代から8代訂正:9代)まで書物や言い伝えなどが残っていないのに、初代の神武天皇に関して逸話が多いのも、神武天皇の神格化や、特殊な存在だと強調したかったのだろうかと思っていました。

欠史八代がほとんど存在しない、いたとしても神武天皇と崇神天皇の間にほとんど空白期間がない、と考えると、歴史の隙間が埋まります。

逆にいえば、神武天皇と崇神天皇の間に微妙な空白期間があったために、欠史八代が入り込んだとも考えられます。


この考え方には、圧倒されました。

空白期間をなくせば、おっしゃるとおり歴史の隙間がなくなるわけで、そうなると、2代から8代訂正:9代)の存在は単なる辻褄合わせであり、存在した人物かどうかもかなりあやしくなってきますね。

だからこそ、資料などが残されていない。

そこまでして、2代~8代訂正:9代)天皇を捏造した(かもしれない)ことに、とても興味を感じます。



三輪山のお話ですが、製鉄集団の長であり、神でもあり、ヘビ、そしてタタラ・・・。

妻の話に違いはあっても、出雲のスサノオの話が場所を変えて出現したような不思議さをすごく感じます。



倭迹迹日百襲姫命といい、イザナミといい、女性の陰部に箸が刺さったり、火傷をして死んだという逸話は興味深いです。

その逸話が事実かどうかはさておき、イザナミは一応神話では神様ですよね。

「なりなりて~~」にあるように、人間と同じ仕組みで妊娠し子を産むわけですから、確かに重要な場所ですが、単純なケガではすまず死に至ったということは、人間も神も等しく陰部から子を産むことや、女性にとっての重要な部分だと、強調したかったように思えました。

だいたい、イザナギ・イザナミ書き直し:のような、神様が死ぬというのは不思議です(笑)

訂正:イザナミやアマテラスなどを、神と捉えず、巫女と考えれば普通のことなのですが。



アマテラスから崇神天皇までの「↓」で書かれた皇統、これが100年で一気に進んだというのも、とても興味深く感じました。

アマテラスの巫女即位から神武天皇即位までが20~30年というのは、神話の時代から天孫降臨までの期間がすごく長いと思い込んでいたので、実は短かったというのに驚きました。

時系列を整えることは考えられないくらい大変な作業だと思うのですが、山幸彦(書き足し):,ウガヤフキアエズノミコト,神武天皇の年の話でも、それが伝わってきます。



コノハナサクヤヒメとイワナガヒメのお話は有名ですが、そこから出雲のスパイの話、スサノオ、アマテラスにつながるのも、興味深く思います。

スサノウの「8」についてのお考えも、すっと腑に落ちます。

アヒラツヒメを知りませんでしたが、卑弥呼だったんですね。

卑弥呼ではなく、壱与と大物主の話も、なるほどなぁ、と、うなりました。



四道将軍のうち、3人は知りませんでしたが、吉備津彦命は、桃太郎のモデルになった人ですね。

昨年の12月、調布の布田天神社で、娘たちがご祈祷を受けたので同席しました。

七五三の子どもが多かったので、ご祈祷は短め(ちょっと損した気分 笑)で、女性の神職さんが(いつもは男性だそうです)、ご祭神である少彦名の紙芝居をしてくださいました←神社でそんなイベント的ご祈祷があることに驚きました。

少彦名は一寸法師のモデルになったと話していましたが、以前「一寸法師」の歌について調べていた時、そのことを知りました。

おとぎ話と神様は、なにかと関連がありますね。



出雲は、ヤマト政権によって平定されたんですね。

そして、出雲族は関東に強制連行され、大変な時代を乗り越え、実は1000年かけて葦原中つ国を平定した覇者となった。

これには、なんだか感動しました。

出雲系の歴史を語る人々のお話、おもしろいですね~。

そういう人たちが集まって陰謀を企てているのか、スピリチュアルなのか、ちょっと気になるところです。

出雲族だった人たちが成仏していなくて、現代の人に憑依して、再建を図ろうとしているとか。

なきにしもあらずです(笑)



「氷川神社の周辺をみても、鉄鉱山になりうる山がない」と書いていらっしゃいましたが、そういえば秩父の武甲山は石灰石の山だったと思い出しました。鉄鉱山と関連はありませんが。

以前それを書いた時、農園主さんが、

「人類の文明は道具をつかうところから始まりますが、鉄鉱石鉱山から鉄鉱石を採掘するようになったのが、「山を切り崩してじぶんたちの道具を得る」暮らしのはじまりでしょう。古墳時代には、島根県(出雲)のあたりで鉄穴流し(かんなながし)といって、山を削ってこの土砂を水に流し、土に含まれる砂鉄を採取するやり方で鉄を採集していました。
農具、武具、民具にと、当時の鉄の需要はすでに全国規模のものでしたが、出雲のたたら製鉄は鉄製品の需要を支える一大産業だったのです」と書いてくださっていました。

「山を削って土砂を水に流し、土に含まれる砂鉄を採取する」という行為や、そこから鉄を採集するという技術は、いったい誰が考え出したのかと、気が遠くなります。

未来からやってきた人間が教えたとしか思えません(笑)

製鉄に限ったことではないですが、人間というのは本当に怖ろしいくらい利口な生き物なんだな(だったんだな)、と実感します。

現代の人間より、格別に素晴らしいと思います。



農園主さんが書いていらっしゃいますが、大物主は酒造の神様でもありますね。

近くにちょっと本格的な感じの酒屋さんがあるのですが、数年前一度だけ、珍しいお酒を購入したいと思い、行きました。

大きな杉玉が中に吊ってあり、三輪山という札がついていました。

「大神神社」と書かれていたかは覚えていませんが、「三輪山」というのを見て、大物主のことを思い出し、すごいところの杉玉だなと驚きました。

今調べたら、大神神社の三輪明神へ新酒を奉納すると、木札を下げた杉玉を戴くのだそうですね。

そこは酒蔵ではなく、酒屋さんですが、なぜあったのか不思議です。



鹿島神宮と香取神宮のことですが、「東国三社参り」と言って、三ヶ所(書き足し:鹿島神社、香取神社、息栖神社)の神社を全部巡る習わしのようなものがあります。

一ヶ所欠けてもいけない、みたいなことで、セットで回ります。

出雲の国護り神話によると、鹿島神宮と香取神宮の御祭神が日本を平定し、案内した息栖神社の御祭神とともに東国に鎮座したといわれるそうです。

私は何年か前に、偶然三社ともお参りしましたが、神社という見方ではなく、物部氏と中臣氏と考えると、非常におもしろいですね。

また、案内したという息栖神社の御祭神は「久那斗神」ですが、天孫降臨で案内をした猿田彦と同一視される他、八衢比古(やちまたひこ)、八衢比売(やちまたひめ)と同神とも言われるそうです。

たくさんに分かれた道の道祖神という意味合いらしいですが、なんとなく、スサノウのヤマタノオロチを連想してしまうのは、妄想でしょうか(笑)



壮大なお話、何度も何度も読ませていただきました。

「物語」と言えば物語かもしれませんが、日本の起源を解説した、歴史的・学術的なご考察だと思います。

ありがとうございました。



ところで、石上神宮のそばには、布留川という川があるんですね。

近所に、布留川(ふるかわ)さんという方がいらっしゃるのですが、一般的には古川、古河と書くのに、珍しいなと思いましたが、日本の苗字ランキングを調べると、千葉県に非常に多い苗字だそうです。

石上神宮の布留川の他に、千葉の平将門伝説もあるようですが、その布留川さんの出身がどこかは知りません。



年末の仕事(コンサート)が無事済み、緊張の糸がプッツンと切れたので、今年の三が日は、徹底的にダラダラしてみました(笑)

家事はいつもと変わらずしましたが、家での仕事をしなかったので、誕生日あたりからツケが回ってきて、四六時中追いまくられました。

やっといくらか落ち着き、高槻のはちみつで、ほっこりまったりさせていただいております(それにしてもおいしい♪)

コンサートについては、たいして書くこともないのですが、ちょっとだけ。


クリスマスコンサートは、

♪もみの木・荒野の果てに・神の御子はこよいしも(パイプオルガンの音色で)の演奏

♪雪は降る(弾き語り)
 
♪伊藤市長と前橋市長の時事ネタで替え歌(卒業写真・ホテル)

♪映画音楽の主題歌で好きな曲をあげてもらい、その場で弾きました。シャレード、愛情物語、慕情、ひまわり。

♪ベサメムーチョ 弾き語り

♪アンコール曲・映画「エデンの東」の主題歌弾き語り


年末コンサートは、

♪↑の中から 替え歌と 雪は降る。

♪サマータイム

♪圭子の夢は夜ひらく

♪テネシーワルツ(江利チエミバージョン)

♪アンコール=「愛の讃歌」越路吹雪のではなく、元詞を訳した歌詞で歌いました


両方とも、二部は、参加者さん全員で歌う歌謡曲・唱歌の伴奏をしたので、一部の持ち時間は35分くらいでした。

替え歌は、ウケましたが、時事問題なので、今年はもう歌えません(笑)

まじめな歌では何度もブラボーをいただき、準備が足りなく不安な要素もありましたが(「雪は降る」は前日に決めました(笑))、まずまずの出来でした←自画自賛(笑)



1月も真ん中となりました。

近所にお住いの80才をこえた女性が、この寒さにまだほとんど暖房をつけていないそうです。

毎日ジムに通っていて、ウオーキングも欠かさないお元気な方ですが、私も見習わないと(笑)

寒いというより、冷えがつらいですし、加湿器を常時つけていないと喉が乾燥するので困ります。

時々はちみつを摂って、喉のダメージがないよう、気をつけます。

今年の雪の具合はいかがでしょうか。

冷えないよう、気をつけてお過ごしください。

2026年1月9日 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する

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喜んでいただけて、なによりありがたいことです。

大阪に暮らしていても、「高槻のはちみつ」なんていわれると、あんな都会ではちみつが得られるのだろうか、と首をかしげたくなるんですが、高槻市は南部が都市化されていて、北部が広大な山林になってるんですね。

京都市内から西に、箕面や丹波にかけて広がる山地の入り口ともいえるところです。

以前安徳天皇の生存説の際にお話したことがあったとおもうんですが、大阪の能勢にある大ケヤキで有名な野間地区は、ここから西に10㎞ほどの、やはり山間部にあります。



だし巻き卵のもとなんですが、毎年大阪からこちらへ帰るときに立ち寄る卵屋があります。

京丹波の国道沿いに大きな養鶏場があり、直売所が併設されているんです。

10年ほど前に鉄腕DASHというテレビ番組の、ゼロ円食堂という企画に登場したこともあるそうな。

個人的にはそれより前の、ここへ移住したときからおいしい卵が安いので、よく利用していました。

特に新年の数日間だけ、割れ卵や小型卵などがふだんの半額くらいで売られていて、これを喜んで買います。

自社製のマヨネーズや卵関係の調味料などもつくっているようで、これも「めずらしいもの」という視点からひとつ選んでしまいました(笑)



大神神社は神符ですが、石上神宮のお守りは七支刀のデザインを選びました。

七支刀(六叉の鉾)は、4世紀ごろに百済から伝わった祭具と考えられます。

日本書紀と、剣にはめこまれた象嵌の文字をあわせて解釈すると、百済にあった谷那の鉄山の良質の鉄を利用してつくられた、百兵もの敵(万難)を退ける、つまり魔よけの祭具だったようです。

実際に使用する武器ではなく、百済とヤマト王朝の軍事的友好の証としてささげられた装飾品だったのでしょう。



ことしもギズモさんにとってよい一年になりますように。

おたがい寒さに負けないようにがんばりましょう。

前回の記事のお返事は、ほんとうにいつでもかまいません(笑)

2026年1月8日 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する

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こんばんは。

仕事で外出していたため、再配達をお願いしたので、受取りとお礼が遅くなり失礼いたしました。

この度はお心のこもったものばかりをいただき、大変ありがたく、とっても恐縮しています。

だんだんお誕生日がうれしくないものとなりつつありますが、農園主さんのお心遣いの数々はとてもうれしく、思わずニコニコしてしまいました。


モロヘイヤのおうどん、初めて見ました!!

身体によさそうですし、色もきれいです。

大変めずらしいものをありがとうございます。

たまごやさんのお醤油は、色が薄いと思ったら、京都のお店のもので、京風だしまき醤油なんですね。

おだしも入っていて、甘味はオリゴ糖、これも身体によいものですね。

上品な甘さで、間違いなくおいしいと思います。

はちみつは、最近トーストに塗って食べることが多いのと、温かい紅茶に入れて寝る前に飲んでいるのですが、そろそろなくなりそうだったので、こちらも早速使わせていただきます。

チーズにかけても、最高です!!

書き足し 純国産とは、とても貴重なものをありがとうございます!

書き足しの追加 高槻で採れたハチミツなんですね。貴重以上に貴重なハチミツ。とてもぜいたくなので、ちょっとずついただきます。



お守り2体は本当に思いがけず、ありがたく頂戴し、すぐにお守り入れ(常時使っているバッグの中にお守りを入れるケースがあるので)に納めさせていただきました。

今年は絶対、いいことばかりがくるはずです(*^-^*)


覚えていてくださっただけでなく、お気持ちのこもった、たくさんのプレゼントまでいただき、心より感謝しています。

外箱は、いい加減なことはまったくないですし、お気になさるようなことではないのに、気を遣させてしまい、私のほうこそ申し訳ありませんm(_ _"m)

おかげさまで、幸先のよいお誕生日になりました。

遅くなりましたが、本年もよろしくお願いいたします(o_ _)o)


感謝の気持ちと感激がいっぱいで、お礼をうまくお伝え出来ず、ごめんなさい。



よい年末年始をご家族で過ごされたようで、なによりです。

本格的に寒くなってきそうですが、お身体には充分にお気をつけくださいね。

記事のお返事、近日中に書かせていただきますので、もう少々お待ちください<m(__)m>

本当に、本当に(語彙不足(笑))、ありがとうございました(^^♪

2026年1月7日 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する

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※今回の話は単なるわたしの備忘録であり、読み物にすぎませんので、返信は必要ありません。



帰省した時に、どこかで時間をつくって、奈良の大神神社(おおみわじんじゃ)と石上神宮に行こうと決めていました。

しかしいざ帰省すると、父があのあたりの地理をよく知っているとのことで、結局両親とわたしの3人で奈良へ行くことに。

親がいうには、正月3日に行くのはどうかということでしたが、どう考えても大混雑が見込まれるので、年末にしようと提案し、30日に参拝しました。



大阪の近畿自動車道から南阪奈道路で橿原へ向かいます。

高速道路降り口の正面である東側には藤原宮跡、天香久山がありました。

降り口の南側には畝傍山……つまり橿原神宮と神武天皇陵があります。

が、今回は位置関係を知ったということで通過します。

父が運転してくれているので、わたしは助手席で観光していました。



高速を降りてから北東に8㎞ほどで、三輪山のふもとに着きます。

ここに大物主とその一族をまつる大神神社があるわけですが、朝10時の時点では駐車場はすいていました。



大物主はどうにもつかみどころのない存在です。

三輪山は鉄鉱山で、大物主の妻と娘の名前にたたらが含まれることから、製鉄と結びつきます。

しかし同時に酒造の神としてもあがめられています。

また堺にいた子(おおたたねこ)のエピソードを含めると、陶業にも結びつくのです。

いまでいうところの、多角経営、総合商社といったところでしょうか。

しかし、どうも存在性そのものがふわふわしていて、どのような大人物であったのか、想像が尽きません。



大神神社にはランドマークになりうる規模の大鳥居があり、大きな駐車場が何か所もありました。

境内はかなり広く、観光地化されています。

よく神社には摂社や末社といったかたちで境内社がありますが、ここは大神神社の中に、狭井神社、久延彦神社、さらに若宮神社である大直禰子(おおたたねこ)神社がありました。

つまり大神神社の境内の中に、独立した神社がみっつあって、それぞれに授与所もあるのです。

こういう入れ子構造の神社はあまり見たことがないな、とおもったのですが、全国の神社でみればよくあるのかもしれません。



参拝をしているうちに、参拝客がどんどん増えてきて、参拝を終えて駐車場を出るのに難儀しました。

大渋滞が起こっていたのです。

これは年始にお参りしていたらどうなっていたことでしょう。

駐車場を出るまでに1時間近くかかり、ほんとうはここでお土産を買う予定だったのですが、駐車場前の大混雑をみて急いで車に向かうほかなく、なにも買えませんでした。



大神神社を出てほんの1㎞ほど北西に、箸墓古墳がありました。

ほんとうはここも訪れたかったのですが、もうお昼時で、なにせ大神神社の駐車場があんなことになっていたから、この先お昼ご飯を済ませて石上神宮へ行くことを考えると、立ち寄っている時間がなく、外側から古墳の森を眺めるだけで終わりました。

古墳というのは現代では単なる森になってしまっていますが、それでも箸墓古墳には威容を感じました。

往時にはおそらく前方後円墳として朱塗りの陶器や埴輪が並んでいて、訪れる人々は古代の祭儀の迫力に心を奪われたことでしょう。



地図でみると、箸墓古墳から東に檜原神社があります。

ここは元伊勢のひとつで、ご祭神はアマテラスです。

先ほどの大神神社からも北に1㎞ほどの距離で、おなじ三輪山のふもとにあります。

そして箸墓古墳は檜原神社からさらに下った西側にある。



おそらく檜原神社は、倭迹迹日百襲姫命の、つまり巫女としてのアマテラスのおわす場所で、そこに卑弥呼と合わせて箸墓古墳が建造されたとわたしは考えています。



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さて、箸墓古墳からさらに北へ進み、昼食をすませ、石上神宮へ行きました。

大神神社のような規模なのかとおもっていたのですが、石上神宮は森の中にたたずむ落ち着いたたたずまいでした。

じゅうぶんな広さの駐車場がありましたが、渋滞はありません。

正月に営業するのであろう屋台が準備にいそしんでいましたが、大神神社のような門前町はなく、つまり土産物屋もなく、ゆっくりと参拝できました。

どちらかというと駐車場のすぐ隣が天理教の本部で、こちらのほうが独特な威容を発しています。



神社のふもとでは布留川の水を利用した田園が広がっており、たいへんのどかな景色です。

境内には神使の鶏が放し飼いにされていました。

観賞用の、尾長のきれいな鶏です。

よく人に慣れており、手を差し出せば抱っこさせてくれそうなくらい。



ここは古代、物部の武器庫だったところで、たしかに境内のはずれには禁足地があります。

しかし物々しい雰囲気はまったくなく、森の幽玄なたたずまいが印象的でした。



今回訪れた場所は、日本の古代、神武天皇から崇神天皇の時代の神話の物語の中心地です。

三輪山の高いところから奈良平野を眺めると、四方を山に囲まれ、さらに平野の中にも名高い山がそびえていました。

いわゆる神奈備(かんなび)ですね。

当時の人々は、まるで要塞のように外敵を防ぎ、山と水と信仰に恵まれたこの地を、楽園のように感じていたことでしょう。



帰りは天理のインターから高速で一気に帰りましたが、家に着いたらもう夕方でした。

お土産がまったく買えず、箸墓古墳への参拝もできなかったのが残念ですが、夕方に帰り着くことができて、結果オーライだったのだとおもいます。

実際に訪れてみることで理解できたこともたくさんある、よい旅になりました。



(追記)
ささやかですが、ギズモさんのお誕生日に届け物をしています。

すべてこの旅のお土産で構成したかったのですが、上記の理由により、お守り以外は、帰りの道中に立ち寄った大阪北部から丹波の変わった品と、今回の帰省時にいただいた不思議なおうどん(味は美味しかったのですが)のお裾分けになりました。

ちょうどよいサイズだったとはいえ、箱があまりにもいい加減なので、その点は田舎者で粗忽者のオッサンのやることだとあきらめていただきたく、メッセージにも書いてはいるのですが、重ねてお詫びを申し上げます。

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2026年3月28日(土) 10時30分40秒〔7日前〕