No.1288
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不快になるような部分はありません(笑)
京アニ火災の件について、もうすこし述べます。
以下は読売の社説です。
https://www.yomiuri.co.jp/editorial/2024...
朝日はこうです。
https://www.asahi.com/articles/DA3S15847...
朝日は慎重に言葉を選んでます。
刑事責任能力を認めたうえで、結果の重大性を重くみたというんですよね。
つまり、結果の重大性が刑事責任能力の有無の判断に影響を与えたのではない、とわざわざ念押しをしてる。
しかし結果の重大性は事件が起こったとき、すでにわかっていたのだから、順序がおかしい。
「結果の重大性を踏まえたうえで、刑事責任能力を認めた」というホンネを隠しているようにしかおもえません。
それに対して、読売の記事は正直で、死刑で当然だよね、くらいの論調です。
結果の重大性を考えれば、あの程度の錯乱状態で心神喪失とかありえないよね、責任能力は100%あったに決まってるよね、くらいの勢いです。
そして、「結果の重大性を踏まえれば、極刑以外の選択肢はなかったと言えるだろう。」とまで言い切っています。
いちおう主要各社の論調をみましたが、もはや日本社会においてかれが死刑になるのは常識と化しているようです。
つまり、あの事件の犯人は完全なパブリックエネミー(公共の敵)です。
死刑にならないわけはないだろう、とだれもがおもっています。
もちろんぼくもそうおもっています。
ぼくはここでなんだかんだ言ってますが、あの犯人の量刑が下がるようなことがあれば、司法に対して「それでは、社会にしめしがつかないだろう」とボヤくことでしょう。
絶対に犯人には責任能力はあったということにしなければならない。
もはや責任能力がないというようなことは、許されません。
もし仮に、犯人が完全な心神喪失状態で、なにも覚えていなかったとしても、あれだけの事件になると社会は、なにかしら理由をつけて責任能力があった「かのように」ふるまうほかないはずです。
明治時代に天皇が神ではないとは言えなかったように、いまの日本で「あの犯人は統合失調症にしか見えないのだから、たとえ30人以上殺してもやはり死刑はおかしい。結果の重大性が司法判断に影響を与えているのではないか」ということは、もしおもったとしても、ふつうは言い出せないことだとおもいます。
ぼくは、あの犯人の死刑の是非については、そりゃそうだろう、くらいにしかおもっていません。
ぼくが言いたかったのは、あの京アニ火災事件の判決は、100年以上も前に森鴎外のいったところの「かのように」の再現にほかならないということです。
おそらくどれほど時代が進化して、科学や法律がいま以上に合理化され、AIが人間の知性を凌駕したとしても、人間から「かのように」がなくなることはないでしょう。
犯人は統合失調症だったかもしれませんが、責任能力はあった「かのように」、みんなでそう信じようではありませんか、という宗教です。
いまわれわれは、この科学社会の最先端にあってなお、「かのように」のお手本のような判決と、社会の対応を目の当たりにしている、ということを伝えたかっただけなのです。
不快になるような部分はありません(笑)
京アニ火災の件について、もうすこし述べます。
以下は読売の社説です。
https://www.yomiuri.co.jp/editorial/2024...
将来ある多くの若者らの命を一瞬にして奪い去った凶悪な犯行である。被告は事件と正面から向き合い、罪の重さをかみ締めねばならない。
36人が犠牲になり、32人が負傷した2019年7月の京都アニメーション放火殺人事件の裁判員裁判で、京都地裁は、殺人罪などに問われた青葉真司被告に死刑を言い渡した。
犯行の引き金になったのは「京アニに小説を盗用された」という被告の妄想だった。その点で検察側と弁護側に争いはなく、焦点は責任能力の有無に絞られた。
弁護側は裁判で、妄想によって行動を制御できなかったとして、心神喪失か心神耗弱の状態だったと主張した。しかし、判決は「妄想の影響は小さかった」とし、完全な責任能力を認めた。
そうである以上、犯行の悪質性や68人が死傷した結果の重大性を踏まえれば、極刑以外の選択肢はなかったと言えるだろう。
朝日はこうです。
https://www.asahi.com/articles/DA3S15847...
京都アニメーションの放火殺人事件で、京都地裁はきのう、青葉真司被告(45)に死刑を言い渡した。判決は、京アニへの強い恨みに妄想が影響したとしつつ、ためらいを見せた事件直前の行動などから刑事責任能力を認めた。そのうえで犯行の計画性や結果の重大性を重くみた。
朝日は慎重に言葉を選んでます。
刑事責任能力を認めたうえで、結果の重大性を重くみたというんですよね。
つまり、結果の重大性が刑事責任能力の有無の判断に影響を与えたのではない、とわざわざ念押しをしてる。
しかし結果の重大性は事件が起こったとき、すでにわかっていたのだから、順序がおかしい。
「結果の重大性を踏まえたうえで、刑事責任能力を認めた」というホンネを隠しているようにしかおもえません。
それに対して、読売の記事は正直で、死刑で当然だよね、くらいの論調です。
結果の重大性を考えれば、あの程度の錯乱状態で心神喪失とかありえないよね、責任能力は100%あったに決まってるよね、くらいの勢いです。
そして、「結果の重大性を踏まえれば、極刑以外の選択肢はなかったと言えるだろう。」とまで言い切っています。
いちおう主要各社の論調をみましたが、もはや日本社会においてかれが死刑になるのは常識と化しているようです。
つまり、あの事件の犯人は完全なパブリックエネミー(公共の敵)です。
死刑にならないわけはないだろう、とだれもがおもっています。
もちろんぼくもそうおもっています。
ぼくはここでなんだかんだ言ってますが、あの犯人の量刑が下がるようなことがあれば、司法に対して「それでは、社会にしめしがつかないだろう」とボヤくことでしょう。
絶対に犯人には責任能力はあったということにしなければならない。
もはや責任能力がないというようなことは、許されません。
もし仮に、犯人が完全な心神喪失状態で、なにも覚えていなかったとしても、あれだけの事件になると社会は、なにかしら理由をつけて責任能力があった「かのように」ふるまうほかないはずです。
明治時代に天皇が神ではないとは言えなかったように、いまの日本で「あの犯人は統合失調症にしか見えないのだから、たとえ30人以上殺してもやはり死刑はおかしい。結果の重大性が司法判断に影響を与えているのではないか」ということは、もしおもったとしても、ふつうは言い出せないことだとおもいます。
ぼくは、あの犯人の死刑の是非については、そりゃそうだろう、くらいにしかおもっていません。
ぼくが言いたかったのは、あの京アニ火災事件の判決は、100年以上も前に森鴎外のいったところの「かのように」の再現にほかならないということです。
おそらくどれほど時代が進化して、科学や法律がいま以上に合理化され、AIが人間の知性を凌駕したとしても、人間から「かのように」がなくなることはないでしょう。
犯人は統合失調症だったかもしれませんが、責任能力はあった「かのように」、みんなでそう信じようではありませんか、という宗教です。
いまわれわれは、この科学社会の最先端にあってなお、「かのように」のお手本のような判決と、社会の対応を目の当たりにしている、ということを伝えたかっただけなのです。