No.1659
牛久大仏、ギズモさんのご記憶の通り、東北に旅をしたときに訪れました。
ほんとうは仙台まで行きたかったんですが、宮城県に到着して車中泊をしていたところ、地震に見舞われました。
震度5~6くらいだったのですが、これが余震の可能性もあると考えると、もうぼちぼち潮時だとおもい、帰ることにしました。
その帰りの道中で牛久に立ち寄った次第です。
そんな時間はなかったのですが、できることなら岩手県、青森へ向かい、さらに日本海側から今度は秋田、新潟と観光ができればよかったなとおもいます(笑)
牛久大仏は浄土真宗ですが、開祖の親鸞の言葉として伝わる有名な言葉があります。
「善人なおもて往生をとぐ。いわんや悪人をや」
ご存じとはおもいますが、これは悪人正機という逆説で、善人を自称するような無自覚な人間でさえ極楽往生をするのに、悪人を自覚している者が往生できないはずがない、という意味です。
親鸞は、阿弥陀如来は本来、悪人をこそ救いたいと願っているのだ、といいました。
では、どういう人が悪人で、どういう人が善人だったのでしょう。
当時の世相を考えると、京の都は度重なる飢饉で生活困窮者があふれていました。
それこそ芥川龍之介の『羅生門』のように、死人の衣服をはぎとってそれを売って生活せざるを得ないような人もいたわけです。
それどころかとことん追い詰められれば、餓死者の死肉で食いつないだというような者すらいたことでしょう。
そのような者たちは「この世を生きても地獄、死んでなお地獄に落ちる」という、どうしようもない苦しみの中で生きざるをえませんでした。
かれらはじぶんが罪深いことをイヤというほど自覚して、じぶんは悪人だという責め苦の中で生きています。
それに対して、都の貴族は飢饉などの災害が起こると、寺院を利用して加持祈祷を行いました。
そんなことのために庶民から吸い上げた税を浪費したのです。
都の足元で餓死者が出ている惨状にもかかわらず、金持ちは僧侶を集めてお祈りをして、それでじぶんは国や民を救う善人だとおもい込んでいるのです。
都が奈良から京都へ移った平安時代には、仏教の考え方も変遷しています。
つまり、国のための仏教から、一般庶民のための仏教へと軸足を移しつつありました。
こういう変化がなぜ起こったのか。
元をたどると奈良時代に仏教権力が増長しすぎて、政治に口出しをするようになったからです。
こういった仏教勢力のありようを朝廷の貴族がいやがって、都を京に移しました。
京では加持祈祷は行うのですが、平安京内にあたらしい個人的な仏教寺院を建築することは禁じられたんです。
すると、これまで奈良朝廷のもとで甘い汁を吸っていた僧侶たちの多くは食いっぱぐれますよね。
国家鎮護のための仏教が、ほかならぬ朝廷によって半ば否定されてしまったわけです。
食いっぱぐれた仏教者は、なんとかしてあたらしい食い扶持を見つけなければなりません。
そこで民衆というあたらしい分野で信仰を獲得するようになり、各宗派によって苛烈なシェア争いが起こったわけです。
実際、民衆は苦しい暮らしの中でも、僧侶たちを養ってくれました。
これが、平安時代に仏教が大衆化し、さらに多様な宗派が生まれた原因です。
国家守護のための仏教を伝統的にやっている側からすると、大衆に仏教を広めようといって出て行った連中が気にいりません。
親鸞もそうですが、法然や日蓮など、大衆に仏教を広めた宗派の開祖がよく流罪にあったのは、それだけ政権や伝統的な寺院勢力から目をつけられていた、ということです。
しかし大衆仏教を広めようとする側からすると、庶民の苦境や暮らしのありように目を向けず、かれらから吸い上げた税でよい暮らしをし、加持祈祷で世のためになにかしているような気になっていることが気に入らない。
うがった見方をすれば、親鸞はこういう連中を皮肉って「善人」と言ったのかもしれません。
そのように考えていくと、浄土真宗の建造物である牛久大仏は、開祖の親鸞が望んだものだったのかどうか。
ああいった金満な大仏を建立することは、たとえバブル期の国民総中流が実現された豊かな時代だといえども、非常に「善人」的な所業です。
もちろん「善人なおもて往生をとぐ」ですから、牛久大仏におまつりされた方々も阿弥陀如来は救ってくれるでしょう。
しかし浄土真宗の側で、阿弥陀如来が本来救いたいのはそういう人ではなかったはずだ、という根本的な問いかけがなかった点で、個人的にはどうもあの仏教テーマパークにはいい感じがしないのが正直なところです。
もちろん、もっと手前のところまでたどって、そもそも親鸞たちが、シェア争いのために大衆仏教を開拓したという視点でみれば、非常に人間的たくましさや人間的あさましさにあふれており、金満な豊かさを求めていくことこそ、宗教の本来のありようなのかもしれません(笑)
桂枝雀の「宿替え」、ご覧になったんですね。
あの話は江戸落語では「粗忽の釘」として知られる話です。
夫婦で引っ越しをするんですが、粗忽者(おっちょこちょい)の親父がほうきをかけるフックがないからというので、あろうことか屋根の瓦と瓦を止める特大の瓦釘を長屋の薄壁に打ち付けてしまいます。
釘が隣の壁を突き抜けてしまったはずだとおかみさんにどやされて、親父がお隣さんのところへ行ったら、お隣の仏壇の阿弥陀仏のそばから釘が突き抜けていました。
当然隣人は仰天するんですが、親父は「えらいことだ。あしたから毎日ここまでほうきをかけに来なければならんのか」とボケたことを言う。
それだけの噺ですね。
枝雀さんはこの親父をずいぶんにぎやかに演じています。
あの番組では、胴くくりを畳にもかけていたせいで荷物が持ち上がらない、というくだりがなぜかおかしなことになって、話の段取りが狂ってしまったんですね。
それをアドリブでつないでいく当意即妙がみられましたが、そういえば枝雀さんの「宿屋仇」という落語では、終盤に見台が壊れて、それをアドリブで取り繕うなんてこともありました。
枝雀さんは舞台上のアクシデントが多い人でした。
なにせ話すスピードが桁違いに速いので、枝雀さん自身でもついていくことができず、軽いトチりがよくあったんです。
CD音源の落語を聞いていると、間違えるたびによくこの手のアドリブをやっていて、大いにウケています。
枝雀さんはビートたけしより8つほど年上なんですが、あの時代の漫才は非常に速かったんです。
速い芸というのが、当時の落語でももてはやされていたんでしょう。
江戸だと志ん朝さんは枝雀さんとほぼ同世代ですが、あの人も演目の佳境に入るとものすごい早口で、しかも正確でした。
その点現代の落語は、あまり速さを求めないようです。
枝雀さんは古典落語でも気に入らないと改変するというような、大胆なことをするんですが、たとえば「崇徳院」という落語があります。
崇徳院というと、「瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に あわんとぞおもう」が有名ですが、この句が落語の主題になってるんですね。
大阪の高津神社にお参りしたときに、一瞬だけ出会った女性に恋煩いをしてしまった船場の若旦那。
この若旦那は女性から「瀬をはやみ岩にせかるる滝川の」と書かれた紙をもらっていました。
当然下の句は「割れても末に あわんとぞおもう」ですから、女性からの、またお会いしたいというメッセージなんですよね。
それで若旦那がお店の熊五郎に相談して、熊五郎が単身、女性を探すことになります。
しかし少ない手掛かりで広い大阪をどうやって探せばいいのか。
途方にくれるんですが、往来を大声で「瀬をはやみ! 岩にせかるる滝川の!」とわめきながら歩いたりと、何日もすったもんだします。
それでも結局手掛かりが得られず、疲労の極の中、最後に入った床屋で、主人と客がくだんの女性の話をしているのを耳にするんです。
するとどうやら向こうもお店のご令嬢で、若旦那のことをおもって恋煩いしている真っ最中なんだそうな。
おどろいた熊五郎が客に詰め寄ります。
相手も急にご令嬢の恋煩いの相手の手掛かりが知れたものだから、喜べばいいのにけんか腰になり、もみあいになるうちに、床屋の鏡が割れる。
床屋の主人が「どないしてくれるねん」というと、大喜びの熊五郎、
「心配しなさんな。割れても末に買わんとぞおもう」
という、これが一般的なサゲです。
枝雀さん、このドタバタするばかりで要領を得ないサゲがイヤだったんでしょう(笑)
最後、熊五郎と客がもみあいになったところで話を区切って、
「探す相手がめでたく知れて、一対の夫婦(めおと)が出来上がります。『崇徳院』という、おめでたい一席でございました」
と、サラッとサゲてしまって、ふたりが夫婦になれたと伝えるんですね。
この夫婦になったというのは枝雀さんのサービスで、本来の古典にはそのようなくだりはありません。
でも、個人的にはじつに心根の温かい、よい改変だとおもいます。
ところで、けさNHKで桂米朝の「鹿政談」をみました。
おどろいたことに、マクラが15分以上。
演目より長い時間のマクラでした。
枝雀さんの「宿替え」ではほとんどマクラがなかったでしょう。
調べてみたら、30秒でした。
枝雀さんの師匠が米朝さんですが、伝統の師匠と革新の弟子といった感じで非常に対照的なおもしろみを感じます。
鶏がらスープの件なんですが、レシピというほどのものはありません。
つかうのは玉ねぎやニンジンといった、カレーにつかうような香味野菜と、あとは塩だけです。
鶏がらと野菜と水を鍋に入れて……ぼくの場合は圧力鍋に入れますが、野菜が溶けて、鶏がらのうまみがすっかり出てしまうまで、じっくり煮ます。
圧力鍋の場合、あくとりはできませんが、玉ねぎやニンジンくらいならアクは気になりません。
あとは鶏がらを引き上げて、塩で味をととのえていきます。
やることはこれだけで、これが基本のスープになります。
余計なことをしないので、老若男女問わず優しい味付けのスープになるとおもいます。
逆にいえば、余計なことをしないのがコツかもしれません(笑)
ここから、たとえばニンニクやショウガ、白ネギやセロリなど、さらに香りの強い野菜を足して複雑な味付けにしてもよいでしょうし、いまの時期だと仕上がったスープに焼いた夏野菜を足してもいいとおもいます。
もちろんコショウを加えたり、バジルを加えたり、やろうとおもえばいくらでも足し算ができます。
母に出したのは、基本のスープでした。
そういえば、最後にカエルの件でひとつ、こんな記事をみつけました。
https://tanba.jp/2025/08/%e5%af%82%e3%81...
戦時中、兵庫県尼崎の杭瀬から丹波に疎開した児童が書き残した記録で、
「終戦直前には、田んぼ畑に跳んでいる普通の蛙を、自分で皮をはぎ、塩焼きにして食べた経験、これは三匹までは美味、五匹以上は青臭さが鼻について食べるのは無理」
とあったそうな。
田んぼにいるカエルというのは総じて小さくて、非常に歩留まりがわるく、肉として食べられるところは一匹20gもないとおもいます。
これを3匹までしか無理だったというんですから、50gも食べないうちに、嫌気がさすようなものだったんですね。
戦時中の飢えた子供でさえ「食べるのは無理」というんですから、救荒食にもなり得ない食材ということだったのでしょう。
ほんとうは仙台まで行きたかったんですが、宮城県に到着して車中泊をしていたところ、地震に見舞われました。
震度5~6くらいだったのですが、これが余震の可能性もあると考えると、もうぼちぼち潮時だとおもい、帰ることにしました。
その帰りの道中で牛久に立ち寄った次第です。
そんな時間はなかったのですが、できることなら岩手県、青森へ向かい、さらに日本海側から今度は秋田、新潟と観光ができればよかったなとおもいます(笑)
牛久大仏は浄土真宗ですが、開祖の親鸞の言葉として伝わる有名な言葉があります。
「善人なおもて往生をとぐ。いわんや悪人をや」
ご存じとはおもいますが、これは悪人正機という逆説で、善人を自称するような無自覚な人間でさえ極楽往生をするのに、悪人を自覚している者が往生できないはずがない、という意味です。
親鸞は、阿弥陀如来は本来、悪人をこそ救いたいと願っているのだ、といいました。
では、どういう人が悪人で、どういう人が善人だったのでしょう。
当時の世相を考えると、京の都は度重なる飢饉で生活困窮者があふれていました。
それこそ芥川龍之介の『羅生門』のように、死人の衣服をはぎとってそれを売って生活せざるを得ないような人もいたわけです。
それどころかとことん追い詰められれば、餓死者の死肉で食いつないだというような者すらいたことでしょう。
そのような者たちは「この世を生きても地獄、死んでなお地獄に落ちる」という、どうしようもない苦しみの中で生きざるをえませんでした。
かれらはじぶんが罪深いことをイヤというほど自覚して、じぶんは悪人だという責め苦の中で生きています。
それに対して、都の貴族は飢饉などの災害が起こると、寺院を利用して加持祈祷を行いました。
そんなことのために庶民から吸い上げた税を浪費したのです。
都の足元で餓死者が出ている惨状にもかかわらず、金持ちは僧侶を集めてお祈りをして、それでじぶんは国や民を救う善人だとおもい込んでいるのです。
都が奈良から京都へ移った平安時代には、仏教の考え方も変遷しています。
つまり、国のための仏教から、一般庶民のための仏教へと軸足を移しつつありました。
こういう変化がなぜ起こったのか。
元をたどると奈良時代に仏教権力が増長しすぎて、政治に口出しをするようになったからです。
こういった仏教勢力のありようを朝廷の貴族がいやがって、都を京に移しました。
京では加持祈祷は行うのですが、平安京内にあたらしい個人的な仏教寺院を建築することは禁じられたんです。
すると、これまで奈良朝廷のもとで甘い汁を吸っていた僧侶たちの多くは食いっぱぐれますよね。
国家鎮護のための仏教が、ほかならぬ朝廷によって半ば否定されてしまったわけです。
食いっぱぐれた仏教者は、なんとかしてあたらしい食い扶持を見つけなければなりません。
そこで民衆というあたらしい分野で信仰を獲得するようになり、各宗派によって苛烈なシェア争いが起こったわけです。
実際、民衆は苦しい暮らしの中でも、僧侶たちを養ってくれました。
これが、平安時代に仏教が大衆化し、さらに多様な宗派が生まれた原因です。
国家守護のための仏教を伝統的にやっている側からすると、大衆に仏教を広めようといって出て行った連中が気にいりません。
親鸞もそうですが、法然や日蓮など、大衆に仏教を広めた宗派の開祖がよく流罪にあったのは、それだけ政権や伝統的な寺院勢力から目をつけられていた、ということです。
しかし大衆仏教を広めようとする側からすると、庶民の苦境や暮らしのありように目を向けず、かれらから吸い上げた税でよい暮らしをし、加持祈祷で世のためになにかしているような気になっていることが気に入らない。
うがった見方をすれば、親鸞はこういう連中を皮肉って「善人」と言ったのかもしれません。
そのように考えていくと、浄土真宗の建造物である牛久大仏は、開祖の親鸞が望んだものだったのかどうか。
ああいった金満な大仏を建立することは、たとえバブル期の国民総中流が実現された豊かな時代だといえども、非常に「善人」的な所業です。
もちろん「善人なおもて往生をとぐ」ですから、牛久大仏におまつりされた方々も阿弥陀如来は救ってくれるでしょう。
しかし浄土真宗の側で、阿弥陀如来が本来救いたいのはそういう人ではなかったはずだ、という根本的な問いかけがなかった点で、個人的にはどうもあの仏教テーマパークにはいい感じがしないのが正直なところです。
もちろん、もっと手前のところまでたどって、そもそも親鸞たちが、シェア争いのために大衆仏教を開拓したという視点でみれば、非常に人間的たくましさや人間的あさましさにあふれており、金満な豊かさを求めていくことこそ、宗教の本来のありようなのかもしれません(笑)
桂枝雀の「宿替え」、ご覧になったんですね。
あの話は江戸落語では「粗忽の釘」として知られる話です。
夫婦で引っ越しをするんですが、粗忽者(おっちょこちょい)の親父がほうきをかけるフックがないからというので、あろうことか屋根の瓦と瓦を止める特大の瓦釘を長屋の薄壁に打ち付けてしまいます。
釘が隣の壁を突き抜けてしまったはずだとおかみさんにどやされて、親父がお隣さんのところへ行ったら、お隣の仏壇の阿弥陀仏のそばから釘が突き抜けていました。
当然隣人は仰天するんですが、親父は「えらいことだ。あしたから毎日ここまでほうきをかけに来なければならんのか」とボケたことを言う。
それだけの噺ですね。
枝雀さんはこの親父をずいぶんにぎやかに演じています。
あの番組では、胴くくりを畳にもかけていたせいで荷物が持ち上がらない、というくだりがなぜかおかしなことになって、話の段取りが狂ってしまったんですね。
それをアドリブでつないでいく当意即妙がみられましたが、そういえば枝雀さんの「宿屋仇」という落語では、終盤に見台が壊れて、それをアドリブで取り繕うなんてこともありました。
枝雀さんは舞台上のアクシデントが多い人でした。
なにせ話すスピードが桁違いに速いので、枝雀さん自身でもついていくことができず、軽いトチりがよくあったんです。
CD音源の落語を聞いていると、間違えるたびによくこの手のアドリブをやっていて、大いにウケています。
枝雀さんはビートたけしより8つほど年上なんですが、あの時代の漫才は非常に速かったんです。
速い芸というのが、当時の落語でももてはやされていたんでしょう。
江戸だと志ん朝さんは枝雀さんとほぼ同世代ですが、あの人も演目の佳境に入るとものすごい早口で、しかも正確でした。
その点現代の落語は、あまり速さを求めないようです。
枝雀さんは古典落語でも気に入らないと改変するというような、大胆なことをするんですが、たとえば「崇徳院」という落語があります。
崇徳院というと、「瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に あわんとぞおもう」が有名ですが、この句が落語の主題になってるんですね。
大阪の高津神社にお参りしたときに、一瞬だけ出会った女性に恋煩いをしてしまった船場の若旦那。
この若旦那は女性から「瀬をはやみ岩にせかるる滝川の」と書かれた紙をもらっていました。
当然下の句は「割れても末に あわんとぞおもう」ですから、女性からの、またお会いしたいというメッセージなんですよね。
それで若旦那がお店の熊五郎に相談して、熊五郎が単身、女性を探すことになります。
しかし少ない手掛かりで広い大阪をどうやって探せばいいのか。
途方にくれるんですが、往来を大声で「瀬をはやみ! 岩にせかるる滝川の!」とわめきながら歩いたりと、何日もすったもんだします。
それでも結局手掛かりが得られず、疲労の極の中、最後に入った床屋で、主人と客がくだんの女性の話をしているのを耳にするんです。
するとどうやら向こうもお店のご令嬢で、若旦那のことをおもって恋煩いしている真っ最中なんだそうな。
おどろいた熊五郎が客に詰め寄ります。
相手も急にご令嬢の恋煩いの相手の手掛かりが知れたものだから、喜べばいいのにけんか腰になり、もみあいになるうちに、床屋の鏡が割れる。
床屋の主人が「どないしてくれるねん」というと、大喜びの熊五郎、
「心配しなさんな。割れても末に買わんとぞおもう」
という、これが一般的なサゲです。
枝雀さん、このドタバタするばかりで要領を得ないサゲがイヤだったんでしょう(笑)
最後、熊五郎と客がもみあいになったところで話を区切って、
「探す相手がめでたく知れて、一対の夫婦(めおと)が出来上がります。『崇徳院』という、おめでたい一席でございました」
と、サラッとサゲてしまって、ふたりが夫婦になれたと伝えるんですね。
この夫婦になったというのは枝雀さんのサービスで、本来の古典にはそのようなくだりはありません。
でも、個人的にはじつに心根の温かい、よい改変だとおもいます。
ところで、けさNHKで桂米朝の「鹿政談」をみました。
おどろいたことに、マクラが15分以上。
演目より長い時間のマクラでした。
枝雀さんの「宿替え」ではほとんどマクラがなかったでしょう。
調べてみたら、30秒でした。
枝雀さんの師匠が米朝さんですが、伝統の師匠と革新の弟子といった感じで非常に対照的なおもしろみを感じます。
鶏がらスープの件なんですが、レシピというほどのものはありません。
つかうのは玉ねぎやニンジンといった、カレーにつかうような香味野菜と、あとは塩だけです。
鶏がらと野菜と水を鍋に入れて……ぼくの場合は圧力鍋に入れますが、野菜が溶けて、鶏がらのうまみがすっかり出てしまうまで、じっくり煮ます。
圧力鍋の場合、あくとりはできませんが、玉ねぎやニンジンくらいならアクは気になりません。
あとは鶏がらを引き上げて、塩で味をととのえていきます。
やることはこれだけで、これが基本のスープになります。
余計なことをしないので、老若男女問わず優しい味付けのスープになるとおもいます。
逆にいえば、余計なことをしないのがコツかもしれません(笑)
ここから、たとえばニンニクやショウガ、白ネギやセロリなど、さらに香りの強い野菜を足して複雑な味付けにしてもよいでしょうし、いまの時期だと仕上がったスープに焼いた夏野菜を足してもいいとおもいます。
もちろんコショウを加えたり、バジルを加えたり、やろうとおもえばいくらでも足し算ができます。
母に出したのは、基本のスープでした。
そういえば、最後にカエルの件でひとつ、こんな記事をみつけました。
https://tanba.jp/2025/08/%e5%af%82%e3%81...
戦時中、兵庫県尼崎の杭瀬から丹波に疎開した児童が書き残した記録で、
「終戦直前には、田んぼ畑に跳んでいる普通の蛙を、自分で皮をはぎ、塩焼きにして食べた経験、これは三匹までは美味、五匹以上は青臭さが鼻について食べるのは無理」
とあったそうな。
田んぼにいるカエルというのは総じて小さくて、非常に歩留まりがわるく、肉として食べられるところは一匹20gもないとおもいます。
これを3匹までしか無理だったというんですから、50gも食べないうちに、嫌気がさすようなものだったんですね。
戦時中の飢えた子供でさえ「食べるのは無理」というんですから、救荒食にもなり得ない食材ということだったのでしょう。