No.900
そっか。
ふと気づく。
お釈迦さん(仏陀)は、人生の本質は苦しみだといいました。
たのしいことは虚構であって、本質は苦しみなのだ、と。
人間の基礎の部分は苦しみなんだ、と。
ぼくはそれは納得したんですが、楽しいことが虚構だとはやはりおもえない。
ずっとそこで悩んでいました。
で、先日40年近く前の再放送番組で、司馬遼太郎さんが、西洋にはアンビバレントという便利な言葉があるといいました。
ぼくはふと、そういうことなのかとおもった次第。
東洋にはアンビバレントに相当する言葉がなかったから、スイッチをオンオフにするように、0か1かどちらかしかないんだ、という議論しかできなかった。
だから、たとえば般若心経は、みんなこの世があるとおもっているが、それは虚構で、実際は無なんだと説きました。
アンビバレントという概念がなかった時代だから、1(有)だとおもっているスイッチは、じつは0(無)なんだ、ということしか般若心経の時代には言えなかったわけです。
でも、無というのは実際には、無量大数を超えたあらゆる有を含んでいて、まったくなにもない無と、あらゆるすべてを含む有がつながっている。
般若心経が伝える無という概念は、じつにアンビバレントです。
お釈迦さんのいう四苦八苦も、じつはアンビバレントな概念で、ほんとうは、生きることの本質が苦しみであるということを突き詰めた先は、本質的な喜びに満ちているのではないか。
金銭的な喜びとか、権力の喜びといった、人間社会で形成された虚構の喜びではなくて、われわれの心から泉のように湧き出てくる、いわばユーモアの喜び、赤ん坊の笑顔のような、天真爛漫なユーモアです。
この喜びと苦しみが、心の中に共存している、アンビバレントな状態が、人間のほんとうの状態ではないか。
人間を生きているだけで生じる無限の喜びと無限の苦しみは、一本のヒモの両端にあって、それを輪っかにつないだようなものではないのか。
……。
ちょっと後で読み返して、じぶんの考えに齟齬がないか確認しますが、たぶん、大丈夫なんじゃないかな。
#与太話
ふと気づく。
お釈迦さん(仏陀)は、人生の本質は苦しみだといいました。
たのしいことは虚構であって、本質は苦しみなのだ、と。
人間の基礎の部分は苦しみなんだ、と。
ぼくはそれは納得したんですが、楽しいことが虚構だとはやはりおもえない。
ずっとそこで悩んでいました。
で、先日40年近く前の再放送番組で、司馬遼太郎さんが、西洋にはアンビバレントという便利な言葉があるといいました。
ぼくはふと、そういうことなのかとおもった次第。
東洋にはアンビバレントに相当する言葉がなかったから、スイッチをオンオフにするように、0か1かどちらかしかないんだ、という議論しかできなかった。
だから、たとえば般若心経は、みんなこの世があるとおもっているが、それは虚構で、実際は無なんだと説きました。
アンビバレントという概念がなかった時代だから、1(有)だとおもっているスイッチは、じつは0(無)なんだ、ということしか般若心経の時代には言えなかったわけです。
でも、無というのは実際には、無量大数を超えたあらゆる有を含んでいて、まったくなにもない無と、あらゆるすべてを含む有がつながっている。
般若心経が伝える無という概念は、じつにアンビバレントです。
お釈迦さんのいう四苦八苦も、じつはアンビバレントな概念で、ほんとうは、生きることの本質が苦しみであるということを突き詰めた先は、本質的な喜びに満ちているのではないか。
金銭的な喜びとか、権力の喜びといった、人間社会で形成された虚構の喜びではなくて、われわれの心から泉のように湧き出てくる、いわばユーモアの喜び、赤ん坊の笑顔のような、天真爛漫なユーモアです。
この喜びと苦しみが、心の中に共存している、アンビバレントな状態が、人間のほんとうの状態ではないか。
人間を生きているだけで生じる無限の喜びと無限の苦しみは、一本のヒモの両端にあって、それを輪っかにつないだようなものではないのか。
……。
ちょっと後で読み返して、じぶんの考えに齟齬がないか確認しますが、たぶん、大丈夫なんじゃないかな。
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