タグ「時事」を含む投稿[10件]
https://news.yahoo.co.jp/articles/12fc8a...
こんな体調の人間が、じぶんの地位に汲々として、国政の最重要の一角に居座っていたということが、腹立たしくて仕方ない。
きちんと進退を見極めて、しかるべき人材に立場を譲っていれば、日本はもうすこしバランスがとれていたのではないか。
細田氏の政治は徹頭徹尾ウソで塗り固められていて、そのウソが当人の信念になっていたのではないか、とおもわずにいられない。
セクハラ問題はさすがにどうでもいいけれど、自民党内右派タカ派のいびつなイデオロギーで、向かうべき最終的な到達点はどこだったのか。
かれが死ぬまで執着した政治信念は、将来の国民になにをもたらしたのだろう。
ウソの先になんらかの誠があったのか、そういうことの説明もビジョンもぼくには見えなかったけど、それを知ったらぼくの考え方が変わるようなことはあっただろうか。
死者に鞭を打つような真似はしたくないけど、晩年の二枚舌があまりにも目に余る。
#時事
こんな体調の人間が、じぶんの地位に汲々として、国政の最重要の一角に居座っていたということが、腹立たしくて仕方ない。
きちんと進退を見極めて、しかるべき人材に立場を譲っていれば、日本はもうすこしバランスがとれていたのではないか。
細田氏の政治は徹頭徹尾ウソで塗り固められていて、そのウソが当人の信念になっていたのではないか、とおもわずにいられない。
セクハラ問題はさすがにどうでもいいけれど、自民党内右派タカ派のいびつなイデオロギーで、向かうべき最終的な到達点はどこだったのか。
かれが死ぬまで執着した政治信念は、将来の国民になにをもたらしたのだろう。
ウソの先になんらかの誠があったのか、そういうことの説明もビジョンもぼくには見えなかったけど、それを知ったらぼくの考え方が変わるようなことはあっただろうか。
死者に鞭を打つような真似はしたくないけど、晩年の二枚舌があまりにも目に余る。
#時事
NHKスペシャルの「"宗教2世"を生きる」をみました。
エホバや統一教会における教義を、ただ信者から生まれたというだけで押し付けられた2世の悩みや苦しみについて取り上げたものです。
この問題の本質は、宗教の教えが社会のありようと食い違っていて、教団側が教えにしたがうことを暗に求めていた場合、信者がどう行動すべきか、社会はどう働きかけるべきかということです。
たとえば、シビリアンコントロール(文民統制)という言葉があります。
文民とは、軍人以外の人間をさします。
つまり、軍人以外はみんな文民です。
で、この軍人を文民によって統制する、という制度がシビリアンコントロール。
これが守られないと、戦前の日本のように、軍人が文民よりも権力をもってのさばる社会になります。
暴力装置が市民を抑圧することになるわけですから、当然、そういう社会はろくなことがありません。
宗教の場合も、文民統制がおかしくなるようなことが、起こるわけです。
社会、コミュニティ、家庭よりも、宗教の教義のほうが重い、という逆転現象が起こってしまう。
そもそも、この社会でうまく生活していくために宗教があるのに、その宗教がじぶんの生活や社会より重い存在になってしまって、反社会であったり、家庭崩壊を招く。
信者がこの点を理解していないことも問題なんですが、社会や生活よりも教義のほうが大事なんだと教団側が仕向けているとすれば、それが最大の問題です。
日本社会は法治国家です。憲法、法律は、当然宗教の教義より重い。
それが日本国民にとっての「常識」です。
ところが特定の宗教の教義を、原理的に解釈すると、憲法や法律とかみ合わないことがある。
宗教の教義は、日本の憲法や法律が定められるより前から存在するものがたくさんありますから、そういうことも起こるでしょう。
けれど、やっぱりわれわれは教義と社会を天秤にかけたときには、社会を重んじなければならない。
宗教の教えが社会のありようにそぐわないとき、信者は迷わず社会のありように沿うべきです。
社会もそれを支持し、教団の問題を追及しなければなりません。
これまでの日本社会はこの点での追及が弱かった。
宗教はどのような教義であったとしても、その国の社会に従わねばならないという統制が、課題なのだろうとおもいます。
#時事
エホバや統一教会における教義を、ただ信者から生まれたというだけで押し付けられた2世の悩みや苦しみについて取り上げたものです。
この問題の本質は、宗教の教えが社会のありようと食い違っていて、教団側が教えにしたがうことを暗に求めていた場合、信者がどう行動すべきか、社会はどう働きかけるべきかということです。
たとえば、シビリアンコントロール(文民統制)という言葉があります。
文民とは、軍人以外の人間をさします。
つまり、軍人以外はみんな文民です。
で、この軍人を文民によって統制する、という制度がシビリアンコントロール。
これが守られないと、戦前の日本のように、軍人が文民よりも権力をもってのさばる社会になります。
暴力装置が市民を抑圧することになるわけですから、当然、そういう社会はろくなことがありません。
宗教の場合も、文民統制がおかしくなるようなことが、起こるわけです。
社会、コミュニティ、家庭よりも、宗教の教義のほうが重い、という逆転現象が起こってしまう。
そもそも、この社会でうまく生活していくために宗教があるのに、その宗教がじぶんの生活や社会より重い存在になってしまって、反社会であったり、家庭崩壊を招く。
信者がこの点を理解していないことも問題なんですが、社会や生活よりも教義のほうが大事なんだと教団側が仕向けているとすれば、それが最大の問題です。
日本社会は法治国家です。憲法、法律は、当然宗教の教義より重い。
それが日本国民にとっての「常識」です。
ところが特定の宗教の教義を、原理的に解釈すると、憲法や法律とかみ合わないことがある。
宗教の教義は、日本の憲法や法律が定められるより前から存在するものがたくさんありますから、そういうことも起こるでしょう。
けれど、やっぱりわれわれは教義と社会を天秤にかけたときには、社会を重んじなければならない。
宗教の教えが社会のありようにそぐわないとき、信者は迷わず社会のありように沿うべきです。
社会もそれを支持し、教団の問題を追及しなければなりません。
これまでの日本社会はこの点での追及が弱かった。
宗教はどのような教義であったとしても、その国の社会に従わねばならないという統制が、課題なのだろうとおもいます。
#時事
ダラダラと雨が降る一日。こんな記事をみました。
「猟犬4匹、散歩中の女性を襲い頭の骨が見えるほどの重傷負わせる…飼い主の男を書類送検 」
https://www.yomiuri.co.jp/national/20230...
記事はきょう付ですが、4月に起こったことのようです。
いや、事件そのものについて書くつもりはないんです。
ぼくは、人間の住む場所とケモノの住む場所と、その境界線の話をします。
もう10年ほど前。
ぼくの住んでいる地域に、複数の猟犬を飼ってる猟師がいました。
飼い主以外になつかないようにしつけています。
愛情で飼育しているのではないから、名前もつけていませんでした。
狩猟でとれた獣肉の一部を生のまま、骨付きでごろっと犬小屋に放り込んで、それで2~3日放っておくと骨だけになっていたといいます。
犬小屋といっても、われわれがおもう犬小屋ではなくて、犬部屋とでもいうべきもので、ドアと屋根のある密室に、3匹飼っていました。
その犬たちに狩猟肉の味を覚えさせて、いざ狩猟の際には、対象の動物をじぶんでハントする喜びを学習させます。
このように育った犬は、うかつに外を散歩させることもできません。
狩猟で山に入るとき以外は、ずっと密室の中にいます。
くだんの猟師が、あるとき急死しました。
ご遺族は残された猟犬の扱いに困り果てました。もうペットに戻れるような犬ではなかったからです。
地域の猟師に声をかけたんですが、他人には絶対になつかないうえ、老犬だったこともあって、飼育を引き受けてくれる人がいませんでした。
で、最終的にどうなったかというと、生前仲間だった猟師が槍で突いて殺したそうです。
どうしてこんな話をしたのかというと、狩猟の社会は、一般社会とはちがう世界にあるんですよね。
異界、といってもいいかもしれません。
ひどく残酷なことが平然と行われるし、一般社会の人たちは怖いとおもうことでしょう。
けれどその残酷さが、人間の領域とケモノの領域の、そのあいまいなところにあることで、棲み分けを形成している。
いまどきは狩猟者も少なくなって、山の獣がいくらでも人里に出没するので、狩猟者が棲み分けを担っているといってもピンとこないかもしれません。
しかし半世紀以上さかのぼると、いまのようにスーパーに行けば安い肉がいくらでも並んでいるという時代でもありませんでした。
山の獣はほとんど狩猟者が狩ってしまって、人間のたんぱく源になりましたから、猪も鹿も、人里に下りてくることはほとんどなかったといいますし、だれも電気柵などしていませんでした。
現代に限らずおおむかしから、狩猟者が人間社会とケモノ社会の汽水域のような場所に行くときには、われわれは無意識のうちに線引きをしていたようです。
たとえば東北の伝統狩猟者に「マタギ(又鬼)」がありますが、この語源にはいろいろな説があります。
ぼくは、単純に山をまたいで生活する者、という意味にくわえて、人間の住む領域とケモノの住む領域とをまたぐ者、という意味があったように感じています。
だから、獣の領域をまたいだ狩猟者は、人間ではなく、鬼にたとえられた。
まあ、狩猟を取り巻くニュースをみていても、どことなく鬼をみているようなところがある気がしますし、さっきの猟犬を殺した猟師の話も、鬼のしわざということにして、一般的な人間社会に持ち込まないほうが都合がよいようにおもえます。
しかし、狩猟者も人里で暮らしているときは人間なんですよね。
人間と鬼を行き来するアンビバレント(二律背反)を理解しないと、山では生き物を殺生する狩猟者が、同時に家ではやさしい人間であり、ペットを飼ったりしている、というようなことも、うまく理解できないだろうとおもいます。
最後に。
現代では狩猟者が法令順守するのは当たり前ですから、このニュースにおける怠慢な狩猟者の味方するつもりは一切ありませんし、しかるべき法の裁きを受けてもらう必要があります。
と同時に、山間部に暮らす者として、ケモノと人間の棲み分けをつくる狩猟は重要だとおもっていますから、感情に任せて狩猟を弾圧するような考えでもないことを、断っておきます。
#時事
「猟犬4匹、散歩中の女性を襲い頭の骨が見えるほどの重傷負わせる…飼い主の男を書類送検 」
https://www.yomiuri.co.jp/national/20230...
記事はきょう付ですが、4月に起こったことのようです。
いや、事件そのものについて書くつもりはないんです。
ぼくは、人間の住む場所とケモノの住む場所と、その境界線の話をします。
もう10年ほど前。
ぼくの住んでいる地域に、複数の猟犬を飼ってる猟師がいました。
飼い主以外になつかないようにしつけています。
愛情で飼育しているのではないから、名前もつけていませんでした。
狩猟でとれた獣肉の一部を生のまま、骨付きでごろっと犬小屋に放り込んで、それで2~3日放っておくと骨だけになっていたといいます。
犬小屋といっても、われわれがおもう犬小屋ではなくて、犬部屋とでもいうべきもので、ドアと屋根のある密室に、3匹飼っていました。
その犬たちに狩猟肉の味を覚えさせて、いざ狩猟の際には、対象の動物をじぶんでハントする喜びを学習させます。
このように育った犬は、うかつに外を散歩させることもできません。
狩猟で山に入るとき以外は、ずっと密室の中にいます。
くだんの猟師が、あるとき急死しました。
ご遺族は残された猟犬の扱いに困り果てました。もうペットに戻れるような犬ではなかったからです。
地域の猟師に声をかけたんですが、他人には絶対になつかないうえ、老犬だったこともあって、飼育を引き受けてくれる人がいませんでした。
で、最終的にどうなったかというと、生前仲間だった猟師が槍で突いて殺したそうです。
どうしてこんな話をしたのかというと、狩猟の社会は、一般社会とはちがう世界にあるんですよね。
異界、といってもいいかもしれません。
ひどく残酷なことが平然と行われるし、一般社会の人たちは怖いとおもうことでしょう。
けれどその残酷さが、人間の領域とケモノの領域の、そのあいまいなところにあることで、棲み分けを形成している。
いまどきは狩猟者も少なくなって、山の獣がいくらでも人里に出没するので、狩猟者が棲み分けを担っているといってもピンとこないかもしれません。
しかし半世紀以上さかのぼると、いまのようにスーパーに行けば安い肉がいくらでも並んでいるという時代でもありませんでした。
山の獣はほとんど狩猟者が狩ってしまって、人間のたんぱく源になりましたから、猪も鹿も、人里に下りてくることはほとんどなかったといいますし、だれも電気柵などしていませんでした。
現代に限らずおおむかしから、狩猟者が人間社会とケモノ社会の汽水域のような場所に行くときには、われわれは無意識のうちに線引きをしていたようです。
たとえば東北の伝統狩猟者に「マタギ(又鬼)」がありますが、この語源にはいろいろな説があります。
ぼくは、単純に山をまたいで生活する者、という意味にくわえて、人間の住む領域とケモノの住む領域とをまたぐ者、という意味があったように感じています。
だから、獣の領域をまたいだ狩猟者は、人間ではなく、鬼にたとえられた。
まあ、狩猟を取り巻くニュースをみていても、どことなく鬼をみているようなところがある気がしますし、さっきの猟犬を殺した猟師の話も、鬼のしわざということにして、一般的な人間社会に持ち込まないほうが都合がよいようにおもえます。
しかし、狩猟者も人里で暮らしているときは人間なんですよね。
人間と鬼を行き来するアンビバレント(二律背反)を理解しないと、山では生き物を殺生する狩猟者が、同時に家ではやさしい人間であり、ペットを飼ったりしている、というようなことも、うまく理解できないだろうとおもいます。
最後に。
現代では狩猟者が法令順守するのは当たり前ですから、このニュースにおける怠慢な狩猟者の味方するつもりは一切ありませんし、しかるべき法の裁きを受けてもらう必要があります。
と同時に、山間部に暮らす者として、ケモノと人間の棲み分けをつくる狩猟は重要だとおもっていますから、感情に任せて狩猟を弾圧するような考えでもないことを、断っておきます。
#時事
阪神優勝。
なんか、コロナが明けたというようなことを官製でいくら言われてもシラケてたし、ずっと自粛ムードが続いてる感覚だったんですが、このニュースにはどうも気分が持ち上がるというか、急ににぎやかになってきた感じがしました。
ぼくはプロ野球含めてスポーツにほとんど関心ないんですけど、なんか、野次馬の感覚として、気分の盛り上がりはあるんですよね。
おそらくこの感情の発端は、ぼくが大阪で暮らしていた子供のころ、バースがいた阪神が優勝したとき、周囲がもうひっくり返るくらい喜んでるのをみて、なにか染みついちゃったんでしょう。
当時から、野球中継をおもしろいとはおもわなかったし、みていると退屈になるのだけど、なぜか新聞の野球の勝敗表は毎日確認していました。
星野さんが監督だったときに優勝したのも、なんだか気分が盛り上がったのを覚えてるし、今回もそう。
野球、見てないのに、不思議なものです。
#時事
なんか、コロナが明けたというようなことを官製でいくら言われてもシラケてたし、ずっと自粛ムードが続いてる感覚だったんですが、このニュースにはどうも気分が持ち上がるというか、急ににぎやかになってきた感じがしました。
ぼくはプロ野球含めてスポーツにほとんど関心ないんですけど、なんか、野次馬の感覚として、気分の盛り上がりはあるんですよね。
おそらくこの感情の発端は、ぼくが大阪で暮らしていた子供のころ、バースがいた阪神が優勝したとき、周囲がもうひっくり返るくらい喜んでるのをみて、なにか染みついちゃったんでしょう。
当時から、野球中継をおもしろいとはおもわなかったし、みていると退屈になるのだけど、なぜか新聞の野球の勝敗表は毎日確認していました。
星野さんが監督だったときに優勝したのも、なんだか気分が盛り上がったのを覚えてるし、今回もそう。
野球、見てないのに、不思議なものです。
#時事
ジャニーズの件のニュースをいろいろみていたのだけど、新社長の東山さんって、歴史でみれば、茶坊主(権力者のイエスマン)がにわかで権力者になったようなもので、いわば石田三成タイプなのだな、と。
こういうタイプは、世襲だったらなんとかならないでもない(御曹司を支えてきちんと苦言を呈する重役が存在する)のだけど、そうじゃない場合は、まあ長くないでしょう。
対外的には墓場のジャニーさんをけなしていたけど、行動面では組織をダメにする典型である、ジャニー一族とのネポティズム(縁故主義)と、クローニズム(仲の良い友人をえこひいきして重用する)が丸出しだしなあ。
#時事
こういうタイプは、世襲だったらなんとかならないでもない(御曹司を支えてきちんと苦言を呈する重役が存在する)のだけど、そうじゃない場合は、まあ長くないでしょう。
対外的には墓場のジャニーさんをけなしていたけど、行動面では組織をダメにする典型である、ジャニー一族とのネポティズム(縁故主義)と、クローニズム(仲の良い友人をえこひいきして重用する)が丸出しだしなあ。
#時事
終戦記念日はきのうですが、ぼくはネットで五大紙の、終戦を取り上げた社説を読んでいました。
いちおうURLを張っておきます。
https://www.yomiuri.co.jp/editorial/2023...
終戦の日 ウクライナが示す平和の尊さ
https://www.sankei.com/article/20230815-...
首相は核抑止の重要性語れ 悲劇を繰り返さぬために
https://www.asahi.com/articles/DA3S15716...
戦後78年 日本と世界 自由を「つかみかえす」とき
https://mainichi.jp/articles/20230815/dd...
’23平和考 「終戦の日」と世界 連帯の力が試されている
https://www.nikkei.com/article/DGXZQODK1...
戦争阻む歴史を見る眼を培いたい
終戦というおなじ出来事を、それぞれの紙面がべつの視点で取り上げているのですが、ほとんどがあまり読む意味を感じないものでした。
保守紙の読売は太平洋戦争については取り上げず、ウクライナとロシアの戦争を取り上げており、その視点はやはりウクライナに寄り添うものです。
保守紙の中でも特殊な産経(もともと統一教会系)は、核の脅威を煽る奇妙な論調。右翼に燃料を投下するような内容にしかなっていません。
左翼系紙である朝日は、さすがの自虐史観で、いまのロシア・ウクライナ戦争において、戦時中の日本はロシアのようなものだった、反省しろという内容です。(個人的にいちばん嫌いな論調でした)
おなじリベラル紙で医療系の毎日は、なんというか、無難でなんの味もしない総括。
不思議だったのが、保守財界系の日経が、まともな記事を書いていたこと。
太平洋戦争を巡る研究書を取り上げて、そこからいまの社会の、都合よく歴史を改ざんしてラクなほうに流れていくことを戒める内容は、ほかの4紙を圧倒しています。
「(中略)一人一人が戦争の歴史に理解を深め、歴史を現実的に見る眼を養うことによって戦争を阻む力を培ってゆきたい。」という最後の一文は、納得のいくものでした。
#時事
いちおうURLを張っておきます。
https://www.yomiuri.co.jp/editorial/2023...
終戦の日 ウクライナが示す平和の尊さ
https://www.sankei.com/article/20230815-...
首相は核抑止の重要性語れ 悲劇を繰り返さぬために
https://www.asahi.com/articles/DA3S15716...
戦後78年 日本と世界 自由を「つかみかえす」とき
https://mainichi.jp/articles/20230815/dd...
’23平和考 「終戦の日」と世界 連帯の力が試されている
https://www.nikkei.com/article/DGXZQODK1...
戦争阻む歴史を見る眼を培いたい
終戦というおなじ出来事を、それぞれの紙面がべつの視点で取り上げているのですが、ほとんどがあまり読む意味を感じないものでした。
保守紙の読売は太平洋戦争については取り上げず、ウクライナとロシアの戦争を取り上げており、その視点はやはりウクライナに寄り添うものです。
保守紙の中でも特殊な産経(もともと統一教会系)は、核の脅威を煽る奇妙な論調。右翼に燃料を投下するような内容にしかなっていません。
左翼系紙である朝日は、さすがの自虐史観で、いまのロシア・ウクライナ戦争において、戦時中の日本はロシアのようなものだった、反省しろという内容です。(個人的にいちばん嫌いな論調でした)
おなじリベラル紙で医療系の毎日は、なんというか、無難でなんの味もしない総括。
不思議だったのが、保守財界系の日経が、まともな記事を書いていたこと。
太平洋戦争を巡る研究書を取り上げて、そこからいまの社会の、都合よく歴史を改ざんしてラクなほうに流れていくことを戒める内容は、ほかの4紙を圧倒しています。
「(中略)一人一人が戦争の歴史に理解を深め、歴史を現実的に見る眼を養うことによって戦争を阻む力を培ってゆきたい。」という最後の一文は、納得のいくものでした。
#時事
(ツイート埋め込み処理中...)Twitterで見る
このツイートは、日本に難民申請を行っているクルド系の男に、じつは金づるになる株主がいて、高級車を乗り回すような立場であったということに対して、ビートきよしが「何が難民だ帰れ帰れ今すぐ帰れ」と言った、というものです。
まあ著名人なんだし、わざわざこんな排斥的な意見を表明しなくてもよいともおもうけど、これに左翼インフルエンサーたちが組織的にものすごく執着をして、返信や引用リツイートでヘイトだと言い募り、あげく「ヘイトきよし」などと叫んでいるのをみて、なんだか理解がひとつ進んだ気がします。
先日、フランスで暴動が起きました。
アラブ系の少年が警官に射殺されたことをきっかけに広がったのですが、反差別を主張する極左が煽った暴動だったといいます。
もちろんこの問題の背景には、少数者の苦しみへの配慮の欠ける国の姿勢など、日本とよく似た構図があったわけで、そこを無視するわけにはいきませんけど、それはいったん置いといて、このフランスの事件を見て、ぼくが国家転覆を企図する左翼活動家だったらこうおもいますよ。
「あ、いまの世の中って、反差別を利用すれば、暴動を起こしたり、国家転覆のクーデターを起こすワンチャンあるのか」
難民とか、いかにも弱者っぽい立場の問題をうまく利用して、われわれはこういうのを守るのだ、とやって、じつはこっそり弱者難民を装って日本に侵入するテロリストともうまく手を組んで、大きなムーブメントを起こして国家転覆を狙うってのはどうだろう。
少なくとも、フランスでは、ちょっといいところまでいったじゃないか、と。
日本では埼玉県にクルド系住人が集中しているようで、かれらが川口市内の病院で乱暴狼藉のケンカ騒ぎを起こしたというニュースがありました。
https://news.yahoo.co.jp/articles/5a35ac...
埼玉に居住するクルド人の中にはいわゆるヤンキーのような示威的な行動をとるのもいたそうで、記事中の言葉を借りれば、「コンビニでたむろし、メンチ切ってくる」「車で危険運転をする」「気味が悪い、怖い人たち」だったそうな。
少なくともぼくがTwitterで観察している限り、左翼系の人たちはこの機動隊まで出動した暴力事件のニュースには、だんまりを決め込んでいました。
まだ是々非々で、アカンものはアカンという立場を表明しているのならわかるんですが、だんまりだったんですよ。
このあたりを踏まえると、ビートきよしがよくわからない金回りのよいクルド系住民の難民申請ということに気味のわるさを感じて、帰れ帰れといったのは、まあ著名人の言葉としてうかつではあるとおもうけど、関東圏内に住む人としては当然の危機意識のあらわれだとおもいます。
ところが極左系の連中がこの、いち芸能人の自由な範囲でのつぶやきに過剰に反応し、組織的にヘイトだと大騒ぎして攻撃したあたり、もしかしたらかれらも、こういった「難民」を利用してなにかやろうとしてるのかもな、と邪推せずにいられません。
で、いちばん気の毒なのは、そういう政治運動に巻き込まれて、ほんとうに支援が必要な難民が、悪党扱いされて十把ひとからげに排斥されることになる、ということだとおもうんですけど、この点もビートきよしはすでにつぶやいてます。
(ツイート埋め込み処理中...)Twitterで見る
日本でも、フランスのあの暴動事件は、対岸の家事じゃないんだとおもいますよ。
#時事
独裁が唯一許されるシチュエーションがあって、それは「徳治主義」をおこなったときです。
一時期のブータンがそうでしたが、国際的な潮流である資本主義の土俵に乗らず、精神的な幸福を追求するというような、ある意味国民に忍従を強いるような政策をとっても、国民がついてきたのは、統治者に徳があったからです。
その点、為政者に必要なのは、合理性や能力よりも徳だといえます。
合理性や能力は、徳をカバーする重要な才能ではありますが、やっぱり天秤にかけたときには徳のほうに傾くものです。
歴史をみると、石田三成は事務者としての能力はバツグンでしたが、なにせ冷徹で人望がなく、秀吉の威光を借りても関ヶ原の戦いでは家康に勝てませんでした。
家康自身に特別すぐれた徳があったとはおもえませんが、少なくとも当時の諸大名の中では「清濁併せ呑む器量を持つ、話の分かる統治者」ではあったとおもいます。
有能なだけで徳がない独裁者は、必ずどこかでこけます。
ヒトラーにしても、超有能で、人民をコントロールすることに血道をあげ、民族主義を喚起してドイツ国内のナショナリストを熱狂させましたが、最後はあのザマです。
レーニンやスターリンも有能で、かれらは死線を生き延びましたが、国際協調路線を投げだして当時のソ連に戻りたいと望んだ、後継者のプーチンは現在ロクでもないことになってます。
A級戦犯で死刑にされた東条英機と、戦後を87歳まで生きた昭和天皇の差はなにかというと、国体護持うんぬん以前に、昭和天皇の徳を考えずにいられません。
昭和天皇がもし謀略をもって政治をおこなう、有能でイケイケの覇権主義者であったらば、いくら戦後の国体護持をとりつけたとしても、おそらく万世一系は途絶えていたでしょう。
なにが言いたいかって?
Twitterは、曲がりなりにもいまよりは、青い鳥が飛んでいたときのほうがよかったなあ、という話です(笑)
#時事
一時期のブータンがそうでしたが、国際的な潮流である資本主義の土俵に乗らず、精神的な幸福を追求するというような、ある意味国民に忍従を強いるような政策をとっても、国民がついてきたのは、統治者に徳があったからです。
その点、為政者に必要なのは、合理性や能力よりも徳だといえます。
合理性や能力は、徳をカバーする重要な才能ではありますが、やっぱり天秤にかけたときには徳のほうに傾くものです。
歴史をみると、石田三成は事務者としての能力はバツグンでしたが、なにせ冷徹で人望がなく、秀吉の威光を借りても関ヶ原の戦いでは家康に勝てませんでした。
家康自身に特別すぐれた徳があったとはおもえませんが、少なくとも当時の諸大名の中では「清濁併せ呑む器量を持つ、話の分かる統治者」ではあったとおもいます。
有能なだけで徳がない独裁者は、必ずどこかでこけます。
ヒトラーにしても、超有能で、人民をコントロールすることに血道をあげ、民族主義を喚起してドイツ国内のナショナリストを熱狂させましたが、最後はあのザマです。
レーニンやスターリンも有能で、かれらは死線を生き延びましたが、国際協調路線を投げだして当時のソ連に戻りたいと望んだ、後継者のプーチンは現在ロクでもないことになってます。
A級戦犯で死刑にされた東条英機と、戦後を87歳まで生きた昭和天皇の差はなにかというと、国体護持うんぬん以前に、昭和天皇の徳を考えずにいられません。
昭和天皇がもし謀略をもって政治をおこなう、有能でイケイケの覇権主義者であったらば、いくら戦後の国体護持をとりつけたとしても、おそらく万世一系は途絶えていたでしょう。
なにが言いたいかって?
Twitterは、曲がりなりにもいまよりは、青い鳥が飛んでいたときのほうがよかったなあ、という話です(笑)
#時事
ビッグモーターや知床遊覧船で経営コンサルタントパートナーを務めていた男がいたそうで、この経営指導が黒幕なんじゃないのかと噂になっています。
まあ問題そのものはともかく、ぼくはというと、いつもどおり遠景を俯瞰するような話がしたいのですよ。
経営コンサルタントといいますが、経営という言葉の語源は仏教にさかのぼるようです。
経営の経と、お経の経はおなじ字で、おなじ意味なんですが、「ものごとの筋道、道理」を意味します。
では営とはなにかというと、いとなむ、おこなう、励む、というようなことですが、「実践する」ということなんです。
つまり経営とは、ものの道理の実践に励む、ということ。
そもそもの意味には、お金を稼ぐというようなニュアンスはありません。
資本主義という概念は、比較的あたらしいものなので、もともとは単に、じぶんにできる精一杯、奉仕するというような感じです。
源氏物語の夕顔のくだりに「大殿も、けいめいしたまひて、日々に渡り給ひつつ」とあるのですが、この「けいめい」が「経営」で、左大臣が光源氏のために忙しく立ち回った、というような意味合いです。
また平家物語では「多日のけいえいをむなしうして」とあり、これは多くの日数をかけた建築がムダになってしまった、というような意味合いです。
このことからみても、経営という概念からお金、つまり資本主義を取り除くと、そこには人のために心を砕くという意味が残ってきます。
もうすこし掘り下げて、経緯という言葉があります。
地図の縦の座標軸を経度、横の座標軸を緯度といいますが、経という言葉には、機織りにおける縦の糸という意味も含まれています。
緯は、横糸のことです。
この縦横の糸が、さっきの筋道・道理という意味とあいまって、ものごとのなりゆきをあらわす経緯という言葉になる。
さらにこの縦の糸(道理)を、生活をするための家の区画をつくる縄として考えて、「じぶんの規模を決めて縄張りをつくり、その範囲で力を尽くしてものごとに取り組む」というような意味合いが、経営という言葉に含まれてくるのです。
この言葉だけをみると、経営とはすばらしい理念なのだな、と感心します。
ところが経営という言葉に資本主義が絡むと、金を儲けるのが至上命題となって、道理が引っ込んでしまうんですね。
資本主義に限りませんが、道理はしばしば主義に服従して、「主義を実践するための道具」にすりかえられてしまうわけです。
たとえば「お金を儲けることに成功した経営者の言うことは絶対である」というゆがんだ価値観もまた、会社という世界の中では、やろうとおもえば道理になってしまいます。
社長を神様として、その宣旨はすなわち教義であり、道理なのだ、とまあ、そういう主義で道理がないがしろにされた結果、「経営がカルト化していく」ようなケースは後を絶ちません。
それで、社員はというと、実際には道理とはほど遠い非道徳的な仕事内容の中で酷使されながら、一方で便所の便器を手で洗うようなことで、上っ面の道理の実践を強要されて、あたかも道理的な仕事を実践しているように洗脳されてしまうというわけです。
#時事
まあ問題そのものはともかく、ぼくはというと、いつもどおり遠景を俯瞰するような話がしたいのですよ。
経営コンサルタントといいますが、経営という言葉の語源は仏教にさかのぼるようです。
経営の経と、お経の経はおなじ字で、おなじ意味なんですが、「ものごとの筋道、道理」を意味します。
では営とはなにかというと、いとなむ、おこなう、励む、というようなことですが、「実践する」ということなんです。
つまり経営とは、ものの道理の実践に励む、ということ。
そもそもの意味には、お金を稼ぐというようなニュアンスはありません。
資本主義という概念は、比較的あたらしいものなので、もともとは単に、じぶんにできる精一杯、奉仕するというような感じです。
源氏物語の夕顔のくだりに「大殿も、けいめいしたまひて、日々に渡り給ひつつ」とあるのですが、この「けいめい」が「経営」で、左大臣が光源氏のために忙しく立ち回った、というような意味合いです。
また平家物語では「多日のけいえいをむなしうして」とあり、これは多くの日数をかけた建築がムダになってしまった、というような意味合いです。
このことからみても、経営という概念からお金、つまり資本主義を取り除くと、そこには人のために心を砕くという意味が残ってきます。
もうすこし掘り下げて、経緯という言葉があります。
地図の縦の座標軸を経度、横の座標軸を緯度といいますが、経という言葉には、機織りにおける縦の糸という意味も含まれています。
緯は、横糸のことです。
この縦横の糸が、さっきの筋道・道理という意味とあいまって、ものごとのなりゆきをあらわす経緯という言葉になる。
さらにこの縦の糸(道理)を、生活をするための家の区画をつくる縄として考えて、「じぶんの規模を決めて縄張りをつくり、その範囲で力を尽くしてものごとに取り組む」というような意味合いが、経営という言葉に含まれてくるのです。
この言葉だけをみると、経営とはすばらしい理念なのだな、と感心します。
ところが経営という言葉に資本主義が絡むと、金を儲けるのが至上命題となって、道理が引っ込んでしまうんですね。
資本主義に限りませんが、道理はしばしば主義に服従して、「主義を実践するための道具」にすりかえられてしまうわけです。
たとえば「お金を儲けることに成功した経営者の言うことは絶対である」というゆがんだ価値観もまた、会社という世界の中では、やろうとおもえば道理になってしまいます。
社長を神様として、その宣旨はすなわち教義であり、道理なのだ、とまあ、そういう主義で道理がないがしろにされた結果、「経営がカルト化していく」ようなケースは後を絶ちません。
それで、社員はというと、実際には道理とはほど遠い非道徳的な仕事内容の中で酷使されながら、一方で便所の便器を手で洗うようなことで、上っ面の道理の実践を強要されて、あたかも道理的な仕事を実践しているように洗脳されてしまうというわけです。
#時事
https://www.asahi.com/articles/ASR7N6220...
Twitter社が、自治体のアカウントを凍結する例が相次いでいるそうです。
そのため災害の際の情報の発信が行えず、支障が出ているそうな。
「プラットフォームの悪用とスパムを禁止するルールに違反している」というのがその理由だというのですが、具体的な理由が伝えられることはなかったといいます。
自治体アカウントの凍結に限らず、このところのTwitter社の恣意的な運用にはあきれるほかありません。
この状況の意味するところは、もはやTwitter社はネット言論のインフラを請け負うつもりがないということであり、公器にもなりえないということです。
あるいは、そのように使いたいのであれば、しっかり金を払え、ということでもあるのでしょう。
そしてこの問題の論点はイーロンマスクがどうこうではなく、ビジネスなんだからお金を払うべきだというようなことでもありません。
企業によって運営されるSNSはすべて「じぶんたちの都合でいつでもはしごを外してくる」ということです。
もちろんこれまで自治体などが無防備に、Twitterのような責任の主体のないプラットフォームを情報インフラ代わりに利用してきたことがおかしいのですが、われわれ末端のユーザーもこういった問題の当事者です。
ぼくなどはべつに重要な情報を扱っているわけではないんですが、それでも7月頭にTwitter社がおこなった閲覧件数の一時制限以来、Twitterにじぶんの発言をあずけることが怖くなりました。
じぶんの発信したいことを安心して発信できる場を設けなければならないのではないかという焦燥感に駆られ、このような場所をつくるに至っています。
ここはSNSのような大勢の集いの場にはなりえないかもしれませんが、すくなくともじぶんの発信の自由は守られています。
なにをいおうが、恣意的に凍結されることはない、という自由を実感して、どうもやっぱり、近頃のSNSはおかしかったのだな、とおもう次第です。
#時事
Twitter社が、自治体のアカウントを凍結する例が相次いでいるそうです。
そのため災害の際の情報の発信が行えず、支障が出ているそうな。
「プラットフォームの悪用とスパムを禁止するルールに違反している」というのがその理由だというのですが、具体的な理由が伝えられることはなかったといいます。
自治体アカウントの凍結に限らず、このところのTwitter社の恣意的な運用にはあきれるほかありません。
この状況の意味するところは、もはやTwitter社はネット言論のインフラを請け負うつもりがないということであり、公器にもなりえないということです。
あるいは、そのように使いたいのであれば、しっかり金を払え、ということでもあるのでしょう。
そしてこの問題の論点はイーロンマスクがどうこうではなく、ビジネスなんだからお金を払うべきだというようなことでもありません。
企業によって運営されるSNSはすべて「じぶんたちの都合でいつでもはしごを外してくる」ということです。
もちろんこれまで自治体などが無防備に、Twitterのような責任の主体のないプラットフォームを情報インフラ代わりに利用してきたことがおかしいのですが、われわれ末端のユーザーもこういった問題の当事者です。
ぼくなどはべつに重要な情報を扱っているわけではないんですが、それでも7月頭にTwitter社がおこなった閲覧件数の一時制限以来、Twitterにじぶんの発言をあずけることが怖くなりました。
じぶんの発信したいことを安心して発信できる場を設けなければならないのではないかという焦燥感に駆られ、このような場所をつくるに至っています。
ここはSNSのような大勢の集いの場にはなりえないかもしれませんが、すくなくともじぶんの発信の自由は守られています。
なにをいおうが、恣意的に凍結されることはない、という自由を実感して、どうもやっぱり、近頃のSNSはおかしかったのだな、とおもう次第です。
#時事