山麓王国

全年11月14日の投稿8件]

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「床」が間違っていたので、「病牀六尺」に訂正しました。

正岡子規はあまり読んだことがなかったのですが、さすがによくご存じでしたね。
何かのきっかけがあって、得るものが増えていくというのは楽しいものです。


農園主さんの説明は、とてもわかりやすいです。
禅宗はあまり関心がなかったので、特に調べたことはありませんが、禅問答は、わかるようなわからないような、でもおもしろいです。
ひたすら座禅を組んでいる、というイメージがあります。
自分の中に仏性がある、というのは、それだけでなんだか救いがあるように思います。

内側に意識を向けるというと、内観みたいなものでしょうか。
密教で行う阿字観とも違うようですね。
宗教と異なる瞑想もいろいろあって、範囲が広いです。
意識を、地面から空、空から宇宙に向けて行くというような瞑想を以前やったことがありますが、数日で挫折しました。
何も考えず、心を無にしている時間というのは大事だと思いますが、ついつい余計なことが思い浮かんでしまいます。


小乗仏教は、「選ばれた修行者」のためなんですね。
以前教えていただいた、熊野権現、本地垂迹のことは、とても興味があって、浅くですが調べてみたりしました。
仏教も神道も、知れば知るほど(そんなに知っているわけではありませんが)、よけいわからなくなったり疑問がでてきたりします。
とげ抜き地蔵の近くに、仏教学部がある「大正大学」があるのですが、社会人講座を受講したいと思いつつ、一度も行けていません。

クマの話、考えさせられました。
こういうことにちゃんと目を向け、実践していく政治家などがいないものでしょうか。
最近の政治家は、みんなピントがずれているようで、日本は先進国からどんどん取りこぼされていくのではないか、と常々思っています。
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993
病牀六尺での正岡子規の言葉は、禅宗における悟りについていってるんですよね。

禅宗というのは仏教の中でも非常に不思議な宗派で、個人主義的です。

大乗仏教は大衆のため、小乗仏教は国家(「選ばれた修行者」に訂正します)のための仏教ということなんですが、禅宗は方向がちがっていて、個人のための仏教といえるとおもいます。

座禅、マインドフルネスが西洋でウケたのは、禅宗の個人主義的な雰囲気が西洋の気風に合ってたのでしょう。

禅宗では「只管打坐」でひたすら座禅をするんですが、禅宗の僧侶いわく、いくら座禅をしても悟りは開けないのだそうです。

仏教とは悟りを開くための宗教なので、いくらやっても悟りが開けないというようなことをどうしてやるのか、ということになります。

言葉で説明できるようなことでもないのかもしれませんが、禅宗では、じぶん自身の中に仏性(悟りの素)があるという概念があって、座禅をすることでじぶんの内面にある仏性に肉薄しようとするわけです。

ところが、いくら肉薄しても、悟りが開けることはない。

むしろ、座禅して外側の情報をシャットアウトしていると、どんどんじぶんの内側に意識が向くわけで、生きているという感覚が強くなります。

結局、悟るとはつまり、じぶんがただ生きるままに生きているということである、ということにつながっていく。

そういうところを子規は理解して、「悟りといふ事は如何なる場合でも平気で生きて居ること」と述べたのではないかとおもいます。

子規が悟りについて書いたのは死の3か月前ですが、まだ34歳の男が結核による耐えがたい肉体の苦しみにあえぎながら、精神がこの苦しみを克服して「平気で生きて」いられないものかと右往左往し、死の直前まで日記を書き続ける様子は胸に迫るものがあります。
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同じ物を楽天で頼みましたので、来たらしゃもじでやってみますね。
ありがとうございます。

記紀の書き方、事情聴取で会話を書きとめる人みたいですね。
ただ淡々と記録していくイメージ。
玉虫色だからこそ、多くの学者たちが、ああでもない、こうでもないと研究し、様々な説が生まれるのでしょうね。

お墓の問題は切実ですね。
毎年お寺に納める護持会費はけっこうな負担になりますし、その他にもお盆だの年忌だので、延々とお金はかかります。
今の若い世代の人がお墓を維持していくというのは、難しい時代なのかもしれません。
うちは有名なお寺にお墓があるとか、法事に何人来たとか、そういう施主の見栄のようなものが薄くなってきているのと、
お金をかけられない(かけたくない)人が増えているんだと思います。
だから、墓じまいが一種の流行みたいになるほど、多くの人に受け入れられている。
坊主丸儲けの時代ではなくなり、神社やお寺が収入を確保していくには、今まではなかった工夫が必要になってきていると思います。

初詣のような大きな行事は別としても、お参りする人は減ってきているようです。
寺社仏閣が、お参りというより、観光スポットになってきていると感じます。

よくお参りする巣鴨のとげぬき地蔵では、コロナが流行し始めた年から、正五九、この年3回の大祭をとりやめました。
昨年あたりからは復活したのですが、以前は本堂(畳)がぎっしりと人で埋め尽くされ、立って見ている人が満員電車のようだったのに、
今は、本堂に置かれた椅子が40脚くらいなので、40人ほどと、立っている人がチラホラです←畳に置く椅子を購入したようです。
縁日のある4がつく日さえ、参道はさほど混んでいません。
お団子屋さんはそこそこ並んではいますが、混んでいるのは、殆どの客が高齢者という珍しいマクドナルド、比較的若い世代が来るコメダ珈琲、星乃珈琲です。


成田山新勝寺でも、授与所にいる方が「コロナで休止していたご祈祷が再開されても、前から来ていた常連さんたちが全然来なくなりました」と言っていました。
とげぬき地蔵でも新勝寺でも、他の寺社仏閣でも、お参りを習慣的にしてきた世代の方が、亡くなったり年老いたりで来なくなったということが、ずいぶん影響しているんだなと思いました。

とげぬき地蔵では最近、毎日、「復興成就、疫病退散」の特別祈祷を行うようになりました。
20分間のご祈祷と、終わった後10分足らずの法話があります。
たまにしか行きませんが、内容は毎回違います。
ボードに絵や単語をはり、とてもわかりやすくお話してくださいます。

先日は、正岡子規「病床六尺」病牀六尺からでした。
子規は病床で、悟りというものを
「如何なる場合にも平気で死ぬることかと思って居たのは間違ひで、悟りという事は如何なる場合でも平気で生きて居ることであった」
と、書いたそうです。
「騒がず驚かず、落ち着いて穏やかな気持ちで生き続けること」が大切、との法話でした。

えあ草紙で読んでみましたが、この箇所を探すのが大変でした。
「平気」という言葉も調べ直してみました。
撮影は禁止だし、誰も法話をメモしたりしていないので、必死で覚えてくるしかないです(笑)
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このところ、クマの被害が取り沙汰されて、動物愛護団体がうるさいとか、それに対するカウンターがどうのということがニュースになってます。

https://news.yahoo.co.jp/articles/43acd6...

とりあえずそんな議論より、国内で食肉の流通を……そうですね、まず5年間ストップしてみましょう。

生産も輸入もしないわけです。

スーパーに行っても、豚肉も牛肉もない。

鶏卵を取ったあとの親鶏の肉、牛乳を搾った後の乳牛の肉くらいは置いてもいいかもしれません。

そしたら、自然と日本中の山からイノシシもシカもクマも姿を消しますから。

サルもいなくなるかもしれません。

どこにも肉がないとなれば、山から調達するしかないでしょう。

狩猟肉がネットなどでグラム1000円以上で売られるようになり、それらが飛ぶように売れる。
肉を取引したい人たちがわざわざ中山間部まで訪れて、お金を出して引き取るようになる。

いま、補助金をもらってただ殺すための狩猟をしている猟師が、食べるための狩猟をすることができて、しかもそれで生計まで成り立ちます。

そしたら人間と動物の棲み分けみたいな問題、すぐに解決します。



林業もおなじで、海外から木材の輸入を制限してしまえば、日本中の放置された針葉樹が伐採されて、次の苗木が植えられる。

花粉症なんてあっという間になくなります。



食肉、木材、そしてもちろん野菜やコメなどの農産物について、いかにいまの日本が、資本主義の名のもとにおかしなことをしているか。

たかがクマが暴れている、という話のようでも、じつはこれは日本の構造そのものにかかわる話であって、動物愛護団体の言い分や殺処分する側の言い分というような問題に矮小化してしまうのは、それこそ「獣を逐(お)う者は目に太山を見ず」(木を見て森を見ず)というような話なのだろうとおもいます。

#与太話
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ありがとうございます。
そう言っていただければ、栽培した甲斐があります。


寿司の容器について、スプーンのほうがやりやすいと言ったのですが、10貫用のあたらしい寿司容器は、ふつうにしゃもじで酢飯を入れてふたで押すだけでよいように、工夫がされていました。

おなじ貝印でも、すこしいいものを買うと、細かい部分がずいぶん使いやすくなっているのだな、と感心しました。

もしおなじものを購入しておられるのであれば、スプーンではなく、しゃもじに対応していましたので、すみませんが訂正ということでよろしくお願いいたします。
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チンゲンサイもベカナも春菊もきれいですね~。
シュッとして、生き生きとしています✨✨✨
心を込めて育てたことが、伝わってきます。

ベカナ、確かに買った覚えありますが、似たようなものがあった気もします。

10巻用、届いたんですね。
何をのせようか、考えるだけでも楽しいです♪
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チンゲンサイです。

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ベカナです。

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春菊です。

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お寿司の容器が届きました。

#野菜
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古事記も日本書紀も、おそらく多くの人の意見を聞きながらつくられたのだろうとおもいます。

たとえば多くの人が集まって「あのとき、どうなっていた」という議論があったとします。

そこにいた人々が、「あのときは、こうだった」「いや、微妙にちがう、あのときはこうだった」という話をする。

しかしそれを書き留める人が、それを「ほんとうはどうだったんだ」と問い詰めたり、「どれかひとつにまとめてくれ」とは言わずに、すべて書き並べてしまうんですね。

これが記紀の書き方のようです。

いわば、非常に玉虫色で……読み手は解釈がわかれるような書き方に翻弄されますし、現代人は特に、こういうはっきりしない書き方を嫌うのではないかとおもいます。



東京はビルの中に出雲大社があったり、タワーの中に大神宮があったり、神道もずいぶんコンパクトになってるんですね。

都市部ではお墓参りもデジタル化されているといいますが、うちのあたりの田舎では、コロナ以降にようやく自治会総出の葬式がすたれてきて、各々が家族葬ですませるという、都市型の葬儀に追い付いてきたところがあります。

大阪に住んでいた感覚でいえば、10年から20年ほど遅れています。

都市型の祭礼のありようにならうとすれば、あと20年もすると田舎でも神社の境内の管理などが行き届かなくなって、土地が整理されて社務所の中に小さな社をまつって、そこで細々と行事を行うということになるのかもしれません。

土地余りの田舎でも、信仰はどんどんコンパクトになっていくのだろうか……とさすがにいまの時点では想像もつかないことですが、遠い未来ということになると、あり得るかもしれないとおもいました。

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